第五十一話、さよなら、チームBeauté Trois
ーーBeauté Trois 朝の光、卒業の音ーー
朝の陽が、静かに街の輪郭を浮かび上がらせる。
表通りのシャッターはまだ閉ざされ、遠くの路地裏で新聞配達のバイクが一度だけ音を立てた。
そんな静寂の中、美容室《Beauté Trois》の明かりだけが、柔らかに灯っていた。
店内に差し込む光は、ガラス越しにゆっくりと床をなでていく。
その中で、ミーティングテーブルの前に座る坂上保は、いつもの癖――前髪をいじることさえ忘れ、じっと視線を落としていた。
若干26歳。この美容室の店長であり、創業者でもある。まだその肩書きは、どこか制服のボタンのように浮いて見えた。
隣には早田未奈が座っている。目元のシャープさと無言の存在感。彼女は何も言わなかったが、その視線は保の横顔をちらちらと盗み見ていた。言葉にならない言葉が、そのまま目になって揺れているようだった。
そして、カウンター近く。タオルを丁寧にたたんでいた中野八重子が、ふと手を止めて振り返った。
「……店長、」
その声が空気を変えた。
「だいたい察しはついてます。チームBeauté Trois、解散なんでしょ?」
保の目が、わずかに開かれ、それからすぐにまた伏せられる。
「……うん。」
短い答え。けれど、それは八重子の胸に重くのしかかった。
未奈はほんの少しだけ肩を震わせ、何も言わず、ただ視線を落とした。
「そっか。」
八重子はふーっと息を吐いた。
19歳でこの美容室に加わり、もうすぐ21。保と未奈の関係は、他のスタッフの間でもうっすらと知られていた。でも、それが理由で店を畳むなんて、思いもしなかった。
壁に飾られた開業当初の記念写真。
三人で撮った、あの笑顔。あれは本物だった。嘘じゃない。
「──ほんまに、解散なんですか。」
思わず漏れたその問い。
答える保の声は、小さく、しかし確かだった。
「あぁ……ありがとうな、八重子。」
その一言が胸に刺さった。
この小さな美容室は、たった三人の夢だった。
そして今、その夢が静かに終わろうとしている。
「……実家を、継ぐことにしたんや。」
ミーティングの終盤、保がぽつりと告げた。
乾いた音で時計の針がひとつ進む。9時12分。開店まで、もう時間がない。
八重子は手に持っていたメモ帳をそっと置いた。ようやく理由が口にされたことに少し安心しながらも、胸がきゅっと締め付けられた。
「美容室のこと? 坂上さんの実家って、京都の……」
「うん。母はあと5年はやってくつもりやったんやけど、親父が倒れてな。急に話が進んで。俺がやることにした。」
しっかりした口調だった。
保の中ではもう答えは出ている。
未奈は黙って隣に座り続けている。その姿が、答えを物語っていた。
「で、未奈さんも?」
八重子の問いに、ふたりは自然と手をつないだ。
「うん。私も、一緒に行く。保っちゃんの家に入るって形になるけど……お義母さんとも話したよ。」
その声は少しだけ震えていたが、目はしっかりと前を向いていた。
まるで、これからの未来を確かめるように。
「……嫁、かあ。」
八重子がぽつりと漏らす。
未奈は笑った。
少し照れて、それでも幸せそうな、見たことのない笑顔だった。
夢が叶っていく音がした。
けれど、それは自分とは違う道を行く二人の音。
八重子は何かを言いかけて、やめた。
代わりに、ふっと息を吸って明るく言った。
「じゃあさ。Beauté Troisは解散っていうより、“卒業”ってことにしようよ。」
保と未奈が顔を見合わせ、うなずいた。
「それ、ええな。」
保が微笑む。
「でも、私が卒業アルバム作るからね。」
八重子は笑った。泣きたい気持ちをこらえて、いつもの調子で。
窓の外、街が目を覚ます音がしてきた。
ガラス越しの光が、さらに強く差し込む。
「さて、今日も予約満タンよ。最後まで、ちゃんとやろ。」
「はい、チーフ。」
「うん。よろしくな、八重。」
三人は、それぞれの持ち場へ散っていった。
あと少しだけ続く、《チームBeauté Trois》。
それは、たしかにあった夢のかたちだった。
八重子は心の中で、静かに祈った。
(二人とも、ちゃんと幸せになってよね。じゃなきゃ・・・。)
そして、ドアの鍵を開けた。
今日も、美容室は始まる。
ーーギルドから来た男ーー
朝の光が差し込む美容室「Beauté Trois」。開店準備の空気がゆっくりと動き始めた頃、八重子がぽつりと口を開いた。
「……実は、今日はもう一人、来てもらってるんです。」
その言葉に、坂上保と早田未奈が同時に顔を上げる。
八重子はすでに入口の方へ歩き出しており、その背中には、ほんのわずかな緊張が滲んでいた。
「え? 誰が?」
未奈が訊く。保も眉をひそめた。
「合同会社の清算手続きとか、書類とか、いろいろ必要になりますよね……。それに、ちゃんと第三者に入ってもらったほうがいいと思って。」
そのとき、ガラスの扉が音を立てて開いた。
「おはようございます。ミズノギルドの水野です。……ああ、朝は涼しくていいですね。」
入ってきたのは、涼しげな笑顔を浮かべたスーツ姿の男性だった。
清潔感のある髪型に、ぴしりと整えられたネクタイ。書類の入った薄型の鞄を片手に、彼は穏やかに頭を下げた。
「水野……幸一?」
保が思わず声を漏らす。
「はい。以前、八重子さんから連絡をいただいて。」
「え、ちょっと待って……八重子が?」
未奈が驚いたように振り返る。
八重子は唇を噛みながら、それでも真っ直ぐ前に出た。
「ちゃんと、終わらせたかったんです。曖昧にして、気まずいまま解散するなんて、いやだったから。」
保も未奈も、一瞬言葉を失った。
「そっか……ありがとうな、八重子。」
保がそう言った声には、微かな悔しさと、そして安堵がにじんでいた。
水野は淡々とテーブルに書類を広げ、静かに説明を始めた。
「Beauté Trois合同会社の解散に伴う法的手続きですが、清算人の選任、解散登記、債権債務の整理など、いくつかステップがあります。書類は今日お持ちしていますので、必要であればこの場で確認を……」
その目は、ただの事務処理としてではなく、三人の時間と想いをきちんと受け止めるまなざしだった。
思い返せば、美容室をつくった日。
三人で初めてシャンプー台の水を流し、鏡越しに未来を見た。
その夢の終わりに、信頼できる司法書士を迎えた八重子の判断は、静かな正しさを持っていた。
保が静かにうなずいた。
「お願いします。ちゃんと、やります。」
未奈もそれに続く。
「……私も。Beauté Troisの終わりを、きちんと見届けたい。」
水野はほほ笑みを深めながら、三人にペンを差し出した。
「では、こちらにお名前を。解散は寂しいことかもしれませんが、これは、次の一歩のための始まりでもあります。」
その一言に、八重子は救われた気がした。
Beauté Troisは終わる。でも、それぞれの道は、これからも続いていく。
――その旅立ちに、ちゃんとケジメをつける。そう決めた朝だった。
テーブルの上、ミズノギルドの名刺が陽の光に反射して、きらりと光っていた。
ーーその名を、未来へーー
「Beauté Troisという名前、残す選択肢もあると思いますよ。」
その一言が落ちた瞬間、4人しかいない店内の空気が、かすかに揺れた。
ミーティングのあと、手続きを進めるために《Beauté Trois》を訪れた水野幸一は、店の奥にある待合スペースに三人と向き合っていた。テーブルを囲むのは、坂上保、早田未奈、そして中野八重子。
保が手元のペンを置いた。音は小さいのに、その動作は、確かな重みを帯びていた。
「……名前を残すって、どういうこと?」
「事業権譲渡、という方法です。」
水野は落ち着いた声で言葉を継いだ。
「設備や内装、営業実績、商標……そして《Beauté Trois》というブランドそのものを、第三者に譲渡するんです。」
テーブルに広げられた書類の隅に、水野が指先をそっと添えた。
「Beauté Troisは、たった2年の歴史かもしれません。でも、お客さんをしっかりつけてきた。SNSのフォロワーも、口コミ評価もある。それは、立派な“無形資産”です。」
「でも……そんな簡単に譲れるもんなん?」
未奈が小さく首をかしげ、不安を隠せない様子で眉を寄せた。
「法律上は問題ありません。ただ、誰にでも譲っていいものではありません。譲渡契約書で条件を明確にする必要があります。」
「……つまり、水野さんが言いたいのは?」
八重子が腕を組み、真っ直ぐに水野を見つめた。
「Beauté Troisの“魂”を、大切に受け取ってくれる誰かに、バトンを渡すということです。」
沈黙が、数秒だけ空間を支配した。
けれどそれは、重苦しいものではなかった。
むしろ、どこかあたたかく、心の奥に灯がともるような、静かな余韻を含んでいた。
保が口を開いた。
「ほんまに……そんな人、いるかな?」
その声はわずかに震えていたが、同時に、期待の色がにじんでいた。
「……もし、そんな人がいたら、会ってみよう。話してみて、それで決めよう。」
保の言葉に、未奈が、そして八重子も、ゆっくりと頷いた。
西の空は茜色に染まり、ガラス越しの光が、店内を金色に包み込んでいた。
鏡に映る三人の顔に、その光は優しく降り注いでいる。
Beauté Troisという名は、まだ、終わっていなかった。
誰かの未来へと、静かに、受け継がれていくかもしれない。
その希望が、確かにそこにあった。
ーー越えなければならない壁ーー
「事業譲渡……なるほど、それはいい話やなぁ。」
坂上保がぽつりとつぶやくと、静かな余韻のなかで、水野幸一も中野八重子も、そっとうなずいた。
だがその場にいない、もう一人の“キーパーソン”の姿が、誰の頭にも思い浮かんでいた。
――大家さん。
《Beauté Trois》が営業を続けてきたこの店舗物件。そのオーナーは、町内でも知られる高齢の資産家で、かつては顔を出すこともあったが、今では管理の大半を地元の不動産会社に任せ、ほとんど姿を見せることはない。
「……ところで、その話。大家さんは了承してくれると思う?」
未奈が口を開いた。
水野は、少し間を置いてから答えた。表情が静かに引き締まっている。
「そこが、ちょっと難所なんです。」
場の空気がぴんと張りつめ、全員の視線が水野に向く。
「《Beauté Trois》の契約は、“坂上保個人”が借主となっている“店舗賃貸契約”です。つまり、たとえ事業を丸ごと譲渡しても――“新しい借主をオーナーが認めるかどうか”は、完全に別の問題になる。」
「つまり……?」と未奈が訊く。
「《Beauté Trois》の名前や内装、SNSのアカウントを譲ったとしても、この場所そのものが引き継げなければ、ブランドは空中に浮いたままになる。物件については、譲渡じゃなく“新規契約”になる可能性が高いんです。」
沈黙が落ちた。
八重子が、おそるおそる言葉をつなぐ。
「その、新しい人が借りたいって言っても、断られたら……?」
「ええ。たとえば“若い女性ひとりでは信用できない”とか、“美容室の音がうるさい”とか、感情的な理由で拒まれることも、現実にはあります。」
「うわぁ……ありそう……」未奈が思わずため息をついた。
「でも、大丈夫です。」
水野はそう言って、やわらかく微笑んだ。
「僕が、不動産会社に連絡を入れて、事業譲渡の意図をきちんと説明します。もちろん、保さんにも同行していただきますが、僕の立場から“清算人”として正式に説明すれば、話はスムーズに進むはずです。」
保は、静かに口元を引き締めた。
「……ここまで来たんや。最後まで、ちゃんとやるわ。」
「それと、場合によっては――オーナー本人に会う覚悟も必要です。高齢の方なら、理屈じゃなく“信頼”で動くことも多いですから。」
「俺と未奈で行くわ。ちゃんと顔出して、挨拶してくる。」
保の言葉に、未奈がふっと笑った。
「《Beauté Trois》を、ただの“空きテナント”にしたくないからね。」
水野は、テーブルの上に広げた書類をまとめ、立ち上がった。
「段取りはこちらで進めます。大家さんと不動産会社――その“壁”も、一緒に越えましょう。」
その瞬間、八重子が小さく笑いながらつぶやいた。
「《Beauté Trois》って、なんか最後までドラマあるよね。」
そうだった。
ここは、たった三人で始めた小さな美容室。
けれど、ここで生まれた物語は、たしかに誰かの未来へとつながっている。
終わりのようでいて、それは誰かの“始まり”になる。
夕陽が差し込む店内で、彼らはまた一つ、希望へ向けた一歩を踏み出した。
ーー新しい誰かへーー
不動産会社との協議は、予想していたよりもずっと穏やかだった。
水野幸一の冷静な交渉と、坂上保の誠意ある説明。そして、未奈が丁寧にまとめ上げた「Beauté Troisの2年間の歩み」の資料が、管理会社の担当者の心をじわりと動かした。さらには、オーナーにもその“想い”が届いたのだろう。
「条件付きで、OKが出ました。」
水野がそう告げた午後。営業を終えたばかりのBeauté Troisには、思わず深呼吸したくなるような安堵の空気が広がった。
「契約の引き継ぎは不可。ただし、新しい借主が“美容業”であれば、内装付きでの再契約は認める、という条件です。」
「やった……!」
未奈が思わず声を上げた。心の底から嬉しそうなその表情に、八重子も思わず笑みを浮かべた。
「よう頑張ってくれました、水野さん……」
保が静かに言い、深く礼をする。しかし水野は、その空気に甘えることなく話を先へと進めた。
「ここからが本番です。Beauté Troisの“借り手”――つまり、新しいオーナー候補を、正式に探しましょう。」
「具体的に、どうやって探すの?」
八重子がすっと前に出るようにして訊いた。
「こちらで二つのルートを用意します。」
水野は指を二本立てて説明を始めた。
「ひとつは、美容業界向けの事業譲渡マッチングサイト。これは譲渡案件を探している美容師や投資家が集まるオンラインの場です。もうひとつは、僕が関わっている“ミズノギルド”の紹介ネットワーク。独立を目指している若手美容師が多く所属しています。」
「へぇ……そんなコミュニティがあるんやな。」
保が感心したように頷く。
「SNSの発信はどう? Beauté Troisのアカウント、まだ残ってるでしょ?」
未奈の提案に、八重子がすぐに反応した。
「うん。“次のBeauté Troisオーナー募集”ってストーリーにして投稿してみるね。写真付きで。私、やってみる!」
「それ、絶対いい!」
未奈が大きく頷いた。
「今の時代、ただの物件情報より、“想い”や“物語”に共感してくれる人のほうが、ずっと信頼できるし、きっと長く続けてくれる。」
水野も静かに同意するようにうなずいた。
「譲る側が、“誰でもいい”ではなく、“特別な誰か”を探していると伝えること。それが、一番大事です。」
保は少し照れくさそうに、けれどはっきりとした口調で言った。
「Beauté Troisは俺ら三人で育てた店やけど、もし四人目が現れるなら――大事に育ててくれる人に託したい。」
「きっと、見つかるよ。」
八重子が柔らかく笑った。
ふと、店内の鏡に目をやると、そこには誰もいない椅子と、整然と並んだハサミが映っていた。音もない空間の中に、それでも確かに、未来の気配が漂っていた。
誰かの人生を変える舞台になるかもしれない場所。
その灯を、絶やさぬように。
彼らは、新しい誰かへと想いをつなぐ一歩を、静かに踏み出した。
ーー引かない理由ーー
夜の Beauté Trois は、昼とはまるで違う顔をしていた。
鏡の中には誰もおらず、シャンプー台からは一滴の水音も聞こえない。
けれど、静まり返った店内には確かに“芯”のある気配が残っていた。
今日も誰かの髪を整え、誰かの明日をつくった場所。
それはもう、ただの「美容室」ではなくなっていた。
水野幸一は、その空間を静かに見回していた。
誰もいない。けれど、ここには確かに熱があった。
カウンターの奥でごそごそと音がし、八重子がペットボトルのお茶を差し出してきた。
「今日もありがとうございました、水野さん。……なんか、映画のエンドロールが流れてきそうですね。」
「まだエンドじゃないですよ。」
水野は柔らかく笑いながら、冷たいお茶を受け取った。
「Beauté Trois は終わるんじゃなくて、“変わる”だけです。……そうでしょう?」
「うん……でも、やっぱり大変ですね。事業譲渡って。」
八重子が肩をすくめた。
水野はテーブルに置いた書類の束に目をやりながら、ぽつりと答えた。
「ええ。大変です。正直、うまくいかないことのほうが多いです。借主、貸主、書類、税金、信頼……全部が絡んできます。」
「それでも、やるんですか?」
八重子の問いは、ほんの少し震えていた。
水野は一瞬目を閉じ、そしてゆっくりと答えた。
「やりますよ。やるしかない。」
その言葉に、八重子は目を見開いた。
「だって――」
彼は、一呼吸置いてから言葉を続けた。
「僕ら“ミズノギルド”自体が、スタートアップなんです。司法書士とか会計士って、本来は“無難”な道を選ぶ人が多い。でも僕は、それじゃつまらないと思ったんです。」
「つまらない……?」
「“守るだけ”じゃなく、“攻める士業”がいてもいい。
だからこそ、Beauté Trois みたいな、小さくても魂のこもった事業に、僕たちは“寄り添える存在”でありたいんです。」
静かな口調だった。だが、その芯は強かった。
「難しいからやらない……なんて、考えたこともありません。むしろ、“誰もやりたがらない”ことにこそ、意味があるんです。」
八重子は黙ってうなずいた。
この人は本気だ。誰よりも真っすぐに、真面目に、そして情熱を忘れていない。
「……やっぱ、水野さんって変わってますね。」
「よく言われます。」
そう言って水野は笑った。
「でも、“引かない”って決めてるんです。そういう仕事をしたいんですよ。」
その瞬間、八重子は、ほんの少し未来が見えた気がした。
Beauté Trois の次のオーナーは、きっとこの人が見つけてくれる――
なぜなら、彼は誰よりも“信じている”から。
誰かの夢を、誰かが引き継いでいくことを。
店内の時計が、22時を指していた。
「……そろそろ帰りましょうか。希望者さん、明日見学に来るんでしょ?」
「はい。“Beauté Trois を継ぎたい”って本気で言ってくれるかどうか……見極めましょう。」
水野幸一は、立ち上がった。
その背中は、士業らしくもあり――
どこか、挑戦者のようにも見えた。
ーー魂のエンジンーー
人が帰ったあとの美容室というのは、どこか神社のようだった。
にぎやかだった声も、笑顔も、シャンプーの音も、静かに空間に沁み込み、まるで見えない余韻として漂っている。
――夜の《Beauté Trois》。
水野幸一は、待合スペースのソファに一人、腰を下ろしていた。スーツのまま、ゆっくりと背をもたれさせる。目を閉じると、耳の奥にほんのりと昼間の喧騒が蘇ってくる。あの柔らかなドライヤーの風、軽やかな笑い声、そして確かな手の動き。
「……魂が、残ってる。」
ふと、誰に言うでもなく、そんな言葉が口をついて出た。
美容室は、髪を整えるだけの場所ではない。
人が自信を取り戻し、再び前を向く準備をする場所だ。
そこには、確かに目に見えない“灯”がともっている。
この《Beauté Trois》。
三人の若者がたった二年で育てたこのサロンは、間違いなく一つの命のように、今も脈打っていた。
水野は立ち上がり、鏡の前へと歩く。
そこに映るのは、士業のスーツに身を包んだ自分。
書類を抱え、法律と数字の世界に生きる表情。
だが、それだけでは終わらせたくない。そう強く思っていた。
なぜ自分はこの道を選んだのか。
なぜ、司法書士という枠にとどまらず、経営に、再生に、事業承継にまで踏み込んでいるのか――。
「僕の仕事は、魂の継承なんです。」
そう気づかせてくれたのは、数々の現場だった。
過去に、ある経営者が倒産寸前で手放したレストラン。
ある日、小さな雑貨店の娘が、父の跡を継ぐと涙ながらに決意した瞬間。
そこには、必ず水野がいた。
ただ契約書を巻いて、はい終了――ではなかった。
そこに込められた想いを、きちんと読み取り、未来に繋ぐこと。
それが、自分という存在の意味であり、仕事の本質なのだと信じている。
士業のスタートアップチーム《ミズノギルド》。
肩書きではなく、理念で動く仲間たちと共に歩むこの道。
水野は、その中心に立っている。
「Beauté Troisが、次に継がれるなら……俺が、その橋をかける。」
鏡の中の自分に、静かに、そして確かに微笑んだ。
そのときだった。
――カラン。
玄関のドアベルが、控えめに鳴った。
時計の針は、午後9時を少し回ったところだった。
「失礼します……あの、水野さん?」
その声は、柔らかく、けれどどこか覚悟を感じさせた。
現れたのは、美容師・木之内明日香。
《Beauté Trois》の未来を繋ぐ、次なる“可能性”をその手に握る人だった。
「お待ちしていました。」
水野は、ゆっくりと振り返る。
そこには、夜の静けさに包まれながらも、確かな希望の気配があった。
魂は、ここにある。
そして今、それを受け取る手が、そっと扉を開けようとしている――。
ーーもう一度、この場所でーー
引き渡しの書類は、あらかた揃っていた。
水野幸一が描いた未来図は、ただの紙の上の話では終わらなかった。坂上保と早田未奈、そして中野八重子――彼らが積み上げてきた月日を、水野はひとつひとつ丁寧に確認し、木之内明日香へと繋いでいった。
Beauté Troisの“灯”は、静かに、しかし確かに、新しい担い手のもとへと移ろうとしていた。
プレオープン前夜。
店内には、まだ誰もいなかった。シャンプー台の蛇口も、鏡も、椅子も、音のない時間に包まれていた。だが、明日香はその空間を、まるで心の奥で知っていたように、優しいまなざしで見つめていた。
「不思議ですね……はじめて来たのに、懐かしい感じがするんです。」
一週間前の見学の日。明日香が口にしたその言葉を、水野はふと思い出していた。
その夜、明日香は携帯を手に取ると、深く息を吸い込み、ある一人の女性にメッセージを送った。
――中野八重子。
Beauté Troisを支えてきた3人のうちの一人であり、独特の感性と文章力で店の“魂”を綴り続けていた女性。
メッセージにはこう書かれていた。
「美容師としてじゃなくても構いません。レセプションでも、事務でも、雑談係でも……。一緒に、店にいてくれませんか?」
やがて、八重子がやってきた。
明日香は、おずおずと口を開いた。
「私、この店を続けたいと思った理由のひとつが、八重子さんのブログでした。」
八重子が目を見開く。
「え?」
「Beauté Troisの裏アカウント、ありましたよね? “#たぶんあたしがいちばん泣いた話”とか、“髪が伸びるまでの物語”とか……」
「えっ……えええ、それ読んでたの?」
「何度も、読みました。」
明日香は、まっすぐ八重子の目を見る。
「この店には、物語があると思ったんです。思い出じゃなくて、“これからの話”が、まだここに残ってるって。」
その瞬間、八重子の肩がかすかに揺れた。
胸に押し込めていた何かが、言葉にならず、指先だけが震えた。
明日香は、ひざを折り、頭を下げた。
「……一緒にやってくれませんか?」
深く、真っ直ぐに。
「あなたがいたこの店を、私が引き継ぐなんて、正直すごく怖いです。でも、もし許されるなら、“あなたと”この場所を作っていきたい。」
沈黙が、空気の中で長く漂った。
そして――
八重子の頬を、一筋の涙が伝った。
その涙は、決して別れのものではなかった。かつての自分と、これからの自分が、そっと抱き合うような涙だった。
「……うん。」
その言葉は、震えながらも、たしかなものだった。
「もう一度、この場所で。」
ふたりは、小さく微笑んだ。
新しい物語が、静かに、ゆっくりと始まろうとしていた。
ーー四度目の扉ーー
「……ま、俺には合わんわ。悪いけど。」
男は無造作に言い捨て、乾いた靴音を残して店を後にした。数秒の沈黙ののち、閉じた扉が鈍い音を響かせる。
水野幸一は、その音を聞き届けるように、ゆっくりと頭を下げた。
三度目の断り。三度目の失望。
でも、それでもまだ終わりではない。
*
一件目の見学者は、事業計画の資金繰りに折り合いがつかず、結局「また連絡します」のまま消えていった。
二件目の女性は、実際に店舗を見て「立地が想像と違った」と呟き、終始よそよそしい態度で退出した。
三件目は最も厄介だった。
「なんか……思い入れ強すぎません? この店。逆にやりづらいですよ」
そう吐き捨てた男は、水野の名刺をカウンターに置いたまま、表情ひとつ変えず帰っていった。
それでも水野は、あきらめなかった。
*
四人目の見学者。
木之内明日香が現れたのは、その数日後のことだった。
正式な申込書を手渡す前、水野は、明日香に言った。
「この店は、もう三人の若者によって一度、完成したんです。ぼくが今お渡しできるのは、言ってしまえば“抜け殻”です」
明日香は黙ってうなずいた。
「でも、そこに灯が残っているかどうかを見極めるのは、あなたです。
そしてもし、“また火を灯せる”と感じたなら――この場所は、あなたのものです」
明日香は、その場で深く頭を下げた。
「……やらせてください」
その目に迷いはなかった。
*
契約締結後のある夜。
照明を落とした店内で、中野八重子が、控えめに言った。
「……でも、不思議ですよね。あの人、まるで都合よく現れたみたいに」
水野は少しだけ口元をほころばせた。
「違いますよ。木之内さんは、“四番目の扉”です」
「四番目の……?」
「はい。最初の三人は、それぞれ違う理由で立ち去りました。
中には“水野さん、想い入れ強すぎて気持ち悪いです”って言った人もいたくらいで」
八重子が目を丸くした。
「でも、それでも僕は会い続けました。何度断られても、何度冷たくされても。
なぜなら、その一つひとつが僕たち《ミズノギルド》にとっての“資産”になるからです」
「資産……ですか?」
「ええ。
うまくいかなかった理由、怒られたセリフ、交渉が破綻した瞬間。
全部、“次の誰か”に渡すための道しるべになる。
だからこそ、僕らは迷わない。むしろ、それが僕のやり方なんです」
八重子はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと小さく息を吐いてつぶやく。
「……水野さんって、逆風の中でも未来を見る人なんですね」
それに対し、水野は何も答えなかった。
ただ静かに、少しズレていた待合椅子の位置を直し、整えた。
椅子ひとつ、並びひとつに意味がある。
この場所に、また新しい物語が始まる日まで——
彼は、何度でも、扉をノックし続ける。
ーー小さな焚き火ーー
中野八重子は、ふとした瞬間に思うことがある。
この人は――水野幸一という人は、いつからこんなにも「無理して笑う人」になったのだろう、と。
「……大丈夫ですよ、八重子さん。」
そう言ったのは、Beauté Troisの引き渡しに向けて、最終調整をしていたある日のことだった。
何気ない顔をして、なんでもないように言う。
だけど、その言葉が“本当に何でもない”と信じられるのは、きっと彼がこれまで数えきれないほどの「誰かが諦めた跡」を、静かに、誠実に受け止めてきたからだ。
「僕はただ、焚き火の火種を見てるだけです。」
そんなことも言っていた。
でも八重子にはわかる。
火種を見るだけじゃない。この人は、誰よりも風にさらされて、誰よりも先に雨に濡れて――それでも、火が消えないように、両手をかざして守り続けている人なのだ。
人知れず、冷たさに耐えながら。
水野さんの“飄々”とした態度は、ただの余裕ではない。
それは、覚悟の上に成り立っている鎧だ。
誰かが動揺しても、誰かが責めても、自分の信じる「人の力」「継がれる魂」「小さな挑戦の価値」を、決して手放さない。
だからこそ、苦しい現場に立っても、彼は穏やかな笑顔でその場に風を通す。
まるで、張り詰めた空気のなかに、そっと春の風を差し出すかのように。
「大丈夫ですよ。」
そのひと言に、どれほどの責任と祈りが込められているか――八重子には、もう分かる。
必要とされる時には、迷わず前に出る。責任を引き受ける。
けれど決して、「主役」を奪おうとはしない。
水野幸一という人は、そんな“影のバトンランナー”だ。
誰かの挑戦を陰から支え、その火が絶えないようにと、今日も小さな焚き火を見つめている。
風の中でも、雨の中でも。
彼の両手は、今も火を守り続けている。
ーー幕間:なんとかなるもんやーー
田中オフィスに入って数年――
司法書士として水野幸一が扱う案件は、いつしか「難しいもの」ばかりになっていた。
今回もそうだった。
旧態依然とした地目変更、境界未確定、隣地の所有者とも接触困難。
書類は不足し、役所の担当者も手を焼いていた。
進まない。にっちもさっちもいかない。
けれど、田中卓造はアドバイスひとつよこさない。
「水野くん、なんとかせなな。」
それだけだった。
「……はい。境界確定図、ようやく出ました。役所側とも合意済みです。」
静かな声でそう言いながら、水野はコピーした地図を机に置いた。
たった一枚の紙。
けれど、その一枚にたどり着くまでに、3ヶ月。
判例データベースを洗い、地方条例を読み込み、法務局に足を運び、時には隣地権者に頭を下げた。
市役所の窓口にも、何度も足を運んだ。
――誰にも見えない水面下で、泳ぎ続けるペンギンのように。
田中は、ちらっと地図を見ただけで言った。
「おー、水野くん。……なんとかなるもんやなぁ。」
水野は、ふっと笑った。
「いや、“なんとかなった”んじゃなくて、“なんとかしました”けどね。」
語気は強くない。
むしろ、どこか嬉しさがにじんでいる。
「信じて任せてくれて、ありがとう」とも言わず、
「わかってくれよ」とも言わず、
ただ、その言葉を“水野幸一”という器で、静かに受け止めた。
田中はにやりと笑う。
「水野くん、ワシが頼むんはそういう案件ばっかやで?」
「知ってますよ。“水面下で氷山を溶かす仕事”ばっかり、ですね。」
「おお、それええな。コピー機の上にでも貼っとけ。」
そんな冗談を交わしながら、二人は並んで立ち上がった。
一見まったく違う性格のふたり。
でも、その背中には、どこか共通する“仕事への覚悟”が、確かにあった。
司法書士の仕事は、表には出ない努力の積み重ね。
そして、それを「なんとかする」力。
田中卓造は知っている。
水野幸一は、ただの若手ではない。
“風を通す男”であり、“氷を溶かす男”なのだ。
だからこそ、言葉は少ない。
でも、任せると決めたら、すべてを預ける。
今日もまた、田中オフィスのコピー機の横には、
小さなメモ紙が貼られていた。
「水面下で氷山を溶かす仕事」
それが、水野の仕事――そして、誇りだった。
ーー看板の価値ーー
「……え、そんな価値があるんですか?」
ミーティングテーブルの向こうで、坂上保は思わず声を上げた。
目の前に置かれた譲渡条件の書面。
その一枚に記された金額――譲渡価格:350万円。
「はい。Beauté Troisという名前、実績、SNSやお客様との接点すべて。
それが“営業資産”として評価された額です。」
水野幸一の声は、淡々としていた。
冷静で、少しだけ優しい。
水野幸一は坂上代表の向かいに座っていた。小さなミーティングテーブルに、資料が数枚――美しく製本された「事業譲渡概要書」と「価格評価表」。
「……譲渡価格は、350万円。これが“ただの数字”だと思われますか?」
水野はそう前置きすると、そっと資料に指を滑らせた。
「これには、設備の価値がまず150万円。これはセット面やシャンプー台の状態、空調や給排水もきちんと整っている点を踏まえています。」
坂上は静かにうなずいた。数字を聞きながらも、彼の目は店の奥――鏡の前で笑う八重子の方を見ていた。
「営業権としての価値は約100万円。営業実績が2年で黒字。常連もある程度ついています。店としては、月商が120万ほど。つまり、“これまできちんとやってきた”という証です。それだけなら、もっと高くしても良いと思うんですが……」
水野は少し間を置いて、穏やかに微笑んだ。
「今回の譲渡価格には、“配慮”が含まれています。中野八重子さんの雇用を継続すること。それを新オーナーが望んでいるという点が、価格の意味を変えるんです。」
坂上は、深く息を吐いた。
「八重子の笑顔が、ここの“看板”みたいなもんですから。」
「そうですね。だから店名とSNSアカウントの使用許諾もセットにします。それが約50万円。ブランドとしての引継ぎも、価値がある。」
さらに、引き継ぎサポート――水野自身が引継ぎスキームを整え、必要な研修期間を設けること。それにも価格が付いていた。
「私の立会いと書類整備を含めて、1ヶ月の支援で50万円。そうして全体で350万円。それが“誰かの挑戦を応援し、誰かの働きをつなげる”ための価格です。」
保は、その額の重みを図りかねるように一瞬黙り、隣にいる早田未奈の顔を見る。
未奈は小さく頷いた。
「保くんが作ったお店だもん。あたしも、うれしいよ。」
その言葉に、保はふっと苦笑した。
「……借り物の店舗で、俺たちがゼロからやってきた“ただの美容室”が、
こんなふうに引き継がれるなんて……。すげぇな、八重子。」
向かいに座っていた中野八重子が照れたように笑う。
「でも、看板の価値って、残した人の“気持ち”なんですね。
ちゃんと伝わってるんですよ。保っちゃんと未奈さんの、美容にかける覚悟。」
水野は静かに頷いた。
「魂を込めて続けたものには、いつか“値段”がつきます。
今、それが形になっただけです。」
部屋に、静かな沈黙が流れる。
保はゆっくりと書面に目を落とし、そしてペンを取った。
「中野八重子の職が守られるなら、何も言うことはないです。
あとは、俺たちは地元に戻って――」
「――結婚して、お義父さんの美容室、継ぎます。」
未奈が言葉を引き取り、そっと保の手を握った。
その日、Beauté Troisという看板は「価値を持った魂」として、
新たな誰かへと引き継がれることになった。
坂上保と早田未奈の歩みも、未来へとまっすぐに伸びていく。
そして――
水野幸一は、その背中を見送りながら、手帳にひとことだけ書き留めた。
「人の覚悟は、ブランドになる。」
(補足章):「価値という目に見えないもの」
退去の日、最後の掃除を終えた坂上保は、美容椅子のひとつに腰を下ろした。
陽の光が斜めに差し込み、鏡の向こうの自分が、不思議と静かな顔をしていた。
水野幸一は、レジ台に立ったまま、ぽつりと語りかける。
「保さん。自分の店の価値に気づかない人、実は多いんです。」
保は顔を上げる。
「……価値?」
「はい。美容師としての腕、接客、内装……それも大事ですが、
“お客さんがたくさん来てくれる”という事実そのものが、最大のブランドなんです。
日々の積み重ねが、売上以上の“信頼”という資産を育ててる。」
水野はレジ奥の棚を指差した。
そこには、常連客からもらった手紙や、ちょっとした差し入れのメモが残っていた。
「これ全部、数字じゃ測れない価値です。
Beauté Troisが引き継がれるのは、機材があるからでも、契約があるからでもない。
ここで誰かが“誇りを持って働いてきた”という時間があるからです。」
保は、視線をそっと床に落とした。
丁寧に磨かれた床に、細い陽射しが一筋、差し込んでいる。
「……俺、なんか恥ずかしいっすね。
そんなふうに思ったこと、なかった。
もっと“売上”とか“リピーター率”とか、数字でしか見てなかった。」
水野は穏やかに微笑みながら言った。
「数字は、あとからついてきます。
まずは“自分の仕事に誇りを持つ”ことです。
それが、価値を生みますから。」
その後、Beauté Troisの看板は残され、確かに引き継がれた。
中野八重子は、毎朝鏡の前で自分に言い聞かせる。
「今日も、私がここにいる価値を、ちゃんとつくる。」
店は今日も静かに光を浴びながら、新たな一日を迎える。
ーーふたりで、帰るーー
トラックの荷台に、最後のダンボールを積み終えたときだった。
坂上保は手を止め、静かに振り返る。
見慣れたBeauté Troisの看板。ガラス扉の前に、早田未奈が立っていた。
午前の光が差し込み、彼女の輪郭をやさしく縁取っている。
「ねえ、保くん」
未奈の声はいつもと同じ、けれど少しだけ遠く感じた。
きっと、それはもう“ここを離れる”という現実が、ふたりの距離を一時的に浮かび上がらせていたからだ。
「うん?」
保が応えると、未奈はふっと微笑んだ。
「わたし、まだ“嫁に行く”って実感ないんだけど……“一緒に帰る”って感じかな」
その笑顔が、まっすぐ心に届いた。
気張るでもなく、感傷的でもなく、ただ自然体な彼女らしい言葉。
保は荷台から飛び降りて、未奈のそばへと歩いた。
「それでいい。いや、それがいいんだと思う」
彼は、ゆっくりと言葉を続ける。
「俺がひとりで帰るんじゃない。未奈とふたりで、ふたりの未来を始めに帰るんだ」
未奈の目に、光が宿る。
そして、そっと保の手を握った。
「ねえ、これからの人生で、辛いこともあると思うけど……
保くんとなら、どこにいても、美容室ができる気がする」
保はその言葉に、力強くうなずいた。
「実家の美容室、親父の代で終わらせたくない。
でもただ“継ぐ”んじゃなくて、俺たちの店として、つくりなおす。
未奈とだったら、それができるって思える」
ふたりはしばらく、言葉のない時間を共有した。
それは別れでも喪失でもなく、新しい生活を迎えるための静かな祈りのようだった。
見つめ合った目の奥には、不安も焦りもない。
あるのは、信頼と決意。
この街で過ごした時間が、ふたりを“美容師”以上に、“人生の共同経営者”へと育ててくれた。
未奈が最後に、扉にそっと手を置いた。
「ありがとう、Beauté Trois」
保も同じように、深く頭を下げた。
「……俺たちの青春だったな」
ふたりは軽く笑い合うと、手をつないで歩き出した。
トラックのエンジンがかかる。
その音は、終わりではなく、始まりの合図だった。
Beauté Troisという看板は、別の誰かへと引き継がれる。
しかし、ここでふたりが築いた日々は、どこにも消えない。
それはふたりの心に、確かに根を下ろし、
次の街で、また静かに芽吹いていくのだ。
― そして、ふたりで帰る。
〔水野さんの会計コラム・事業譲渡代金⇒営業権の会計処理〕
荷台に積み込みを終えた午後、ふとした沈黙の合間に、未奈がぽつりと聞いた。
「ねえ、水野さん……木之内さんって、この店の譲渡代金、会社の資産になるんですか?」
ふたりの旅立ちを見送りに来ていた水野幸一は、にっこりと笑った。
そして、整ったスーツの内ポケットから手帳を取り出しながら、丁寧に答える。
「はい、とても良いご質問です。」
いつもの水野さんの、静かでまっすぐな話し方だった。
「結論から申し上げると、木之内さんの新しい会社において、この美容室Beauté Troisの経営権やブランド、顧客基盤などを譲り受けた場合、それは“営業権”として資産に計上される可能性が高いですね。正式には、“無形固定資産”という扱いです」
少し難しい話かな、と思いきや、水野さんは黒ボードペンを取り出し、トラックの荷台に置いた段ボールの一つに図を書きながら、こう続けた。
✅ 譲渡代金の会計処理:ポイントまとめ
① 営業権としての資産計上
「たとえば、この店名“Beauté Trois”のブランド、積み上げてきた顧客リスト、地域での信頼や、スタッフの引継ぎといった目に見えない価値……これらは営業上の“のれん”とされて、営業権という資産に計上されることがあります」
「買収対価のうち、引き継いだ物理的な資産(設備や在庫など)から負債を引いた“純資産”を上回る部分が、“営業権”として記録されるんです」
② 居抜き店舗と設備の扱い
「たとえば内装やセット面、シャンプー台、ドライヤー、ミラーなどがそのまま残っているなら、それらは“有形固定資産”として、別途資産計上されます」
「また、もし店舗の賃貸契約も木之内さんの会社に名義変更されるなら、これは“賃借権に準じた資産”として評価されることもあります。ここは契約内容によるんですけどね」
水野さんは、簡単な仕訳の例も口頭で添えてくれた。
たとえば、こんな仕訳例
借方(資産の増加) 営業権(Beauté Troisの信用)1,000,000円
貸方(現金の減少) 現金(譲渡代金)1,000,000円
※ 設備や備品も含まれる場合は、追加で資産が並びます
✅ 注意点:税務上の取扱い
「ひとつ気をつけないといけないのは、税務です。営業権って、会計上は“償却”――つまり時間をかけて費用にしていくこともできますけど、税務上は基本的に償却できないんです」
「つまり、節税には直接ならない。ただ、会社の“価値”としてはちゃんと資産に載っていきます」
未奈がうなずく。数字の話は苦手だけれど、感覚として理解できる。
✅ 水野幸一さんのコメント(語り口)
水野さんはふと、空を見上げるようにして言った。
「営業権って、形にして見えないけど、いちばん重たい資産なんですよ。
金額よりも、“どう育ててきたか”が問われます。
木之内さんは、“過去の価値を買った”んじゃなくて、“未来の信頼を受け取った”んですよ」
その言葉に、未奈は深く、胸の奥でうなずいた。
自分たちが積み重ねた時間が、ちゃんと未来に受け継がれていく――そう思えるだけで、前を向く勇気になる。
ーー冒険の終了と報酬の清算ーー
午前十時。
静かに、しかし確かに、美容室 Beauté Trois は新たな歴史を刻み始めていた。
譲渡契約の手続きが完了し、その看板は正式に木之内明日香の新会社へと引き継がれた。
ロゴの残るガラス扉を見上げながら、坂上保と早田未奈は、最後の合鍵を木之内に手渡す。
静かだった。けれど、確かな鼓動のような空気が、そこにはあった。
「ちょっと、話せる?」
保は八重子に声をかけた。
場所を移したのは、いつもの喫茶店だった。
長く一緒にいた3人には、自然すぎるほど自然な流れだった。
注文したコーヒーが運ばれ、蒸気のたつカップが小さな丸テーブルに並んだとき、保がゆっくりと話し始めた。
「八重子、今回の譲渡と、敷金の返金、いろいろ整理して……結局、600万近くが手元に残ることになった」
「えっ……?」
八重子のまなざしが、一瞬揺れる。
「うん。でも、これは俺と未奈だけの力じゃないんだ」
保の声には、まっすぐな想いがにじんでいた。
「お前がいたからこそ、俺たちが現場に集中できた。どんなときも踏ん張ってくれた。…正直な話、途中で辞めてもおかしくなかった。でも、八重子は、ずっとここにいてくれた」
未奈がそっと横に座りながら言葉を添える。
「だからね、2人で決めたの。300万、八重子に受け取ってほしいって」
「――え?」
八重子の声が、素っ頓狂に跳ねた。
思わず身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ! それは2人のお金でしょ? 私はただ……働いてただけで……」
「だからだよ」
保の言葉がかぶさる。
「お前の“働き”は、俺たちにとって“ただ”なんかじゃなかった。八重子の存在が、俺たちにとってどれだけ支えだったか。これは……“分けたい”っていう気持ちなんだ」
その一言に、八重子は息を飲んだ。
――でも、すぐに首を横に振った。
「……それならさ。3人で割って。三等分で、200万ずつ。…それなら、受け取るよ。じゃないと、なんか、変な感じがするんだ」
保が一瞬、言葉を飲み込む。
未奈がふふっと笑い、保の腕を軽く小突いた。
「やっぱり、八重子らしい」
保も笑った。
「……うん、じゃあ、そうしよう」
そのあとは、何も言葉はいらなかった。
3人はそれぞれのカップに手を伸ばし、少し冷めかけたコーヒーをすすった。
外の空は、東京の空なのに、なぜだか地元の春空のように穏やかだった。
美しい想い出は、売買されることのない“魂”として、3人の胸に確かに息づいていた。
それは、終わりではない。
それぞれの人生に、次の幕が静かに降りる――
いや、またひとつ、新しい幕が開いたのだった。
ーー魂の継承 ― そして、告白ーー
譲渡契約を終えた日、坂上保と早田未奈は、美容室の最後の鍵を木之内明日香に引き渡した。その後、ふたりは八重子と共に、新オーナーとなる木之内のもとを正式に訪れた。
会議スペースには、午後のやわらかな光が差し込んでいた。ほどよい静けさの中に、名残惜しさと、ほんの少しの緊張感が漂っている。
保はまっすぐ背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「木之内さん。八重子を、よろしくお願いします。どんな言葉より、彼女の仕事ぶりがすべてを語ってくれるはずです。俺たちがここまで来られたのは……間違いなく、彼女がいたからです」
その言葉に、木之内は柔らかくうなずいた。
「とんでもありません。優秀なスタッフを残していただいて、感謝するのは私の方です。あの店で働く彼女の姿、とても印象的でした。美しかった。どうか安心してください、精一杯大切にします」
緊張がふっとほどけ、場の空気が和らいでいく。だが、八重子だけは静かにうつむいたままだった。
やがて、小さく息を吸い込んだ彼女が、静かに顔を上げた。
「……坂上店長」
その声は、決して震えていなかった。透明で、真っ直ぐで、澄んでいた。
「私、坂上店長、保さんのこと……好きでした」
その一言で、部屋の時間が止まったようだった。誰も言葉を挟まない。
「でもね、すぐに気づいたんです。未奈がお似合いだって。それで、気持ちは諦めた。だけど、そのまま働きながら、2人を見守るのが、ちょっとだけ苦しくて……どこかに引っかかっていたんです」
そう言って、八重子はゆっくりと、隣の未奈の手をとった。
未奈も、やさしくそれを握り返した。
「今、やっと言えた。だから、もう大丈夫。ごめんなさい。そして……今は、心からふたりの幸せを願っています。店長が未奈と一緒に歩いていくと決めたとき、私もようやく前を向けた気がするんです。……だから、ありがとうございます」
保は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに静かに微笑み、深くうなずいた。
「……八重子。ありがとう。俺たちこそ、感謝してるよ」
木之内は何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。彼女の視線は、優しく3人を包み込んでいた。
誰も余計な言葉は足さなかった。足す必要がなかった。
別れではない。終わりでもない。あの日々は確かにあって、そこで育まれた想いは、姿を変えながらも、誰かの心の奥で生きていく。
それは、未来へと続く風となって――そっと背中を押してくれる。
ーー幸せを呼ぶ人ーー
午後の柔らかな陽射しが、美容室の窓越しに差し込んでいた。
ほとんどの荷物はすでに運び出され、壁際に残ったシャンプー台と、その前に立つ大きな鏡だけが、まるで店の記憶を反射しているようだった。
中野八重子は、その鏡の前で立ち止まり、ふと振り返る。
そこには、水野幸一の姿があった。変わらぬ落ち着いた佇まい。けれど、今日はどこか、いつもよりも静かで、優しかった。
「水野さん、ほんとうにありがとうございました」
その声は静かで、けれど芯があり、わずかに震えていた。
「水野さんのおかげで……坂上さんと未奈さんも、木之内さんも、みんなが幸せになったと思います。私も、です」
水野は何も言わず、しばし彼女を見つめていた。
その目の奥に、穏やかな光が浮かんでいた。
「……いいえ」
彼はゆっくりと首を振った。
「八重子さん、あなたが“幸せ”を呼びこんだんですよ」
その一言に、八重子の瞳が揺れた。
驚き、そして、少し照れたように口元がほころぶ。
「誰かが声を上げなければ、何も動かなかった。
誰かが過去と向き合って、未来を信じなければ、何も繋がらなかった。
その“誰か”が、あなたでした」
八重子の頬を、ぽたりと涙がつたう。
けれど、その涙は悲しみではなかった。
まるで長い夢の終わりに訪れる、あたたかな朝のように、晴れやかな顔をしていた。
「……ありがとうございます」
深く、静かにお辞儀をするその姿は、美しかった。
「また会いましょう」
そう言って、水野はふっと微笑み、背を向けて歩き出した。
彼の背中には、言葉にはできない多くの信頼と約束が宿っていた。
八重子は、その背を見送りながら、静かに、けれど確かに、言葉をつぶやいた。
「……水野さん、やっぱり、すごい人ですね」
その声は、彼には届かなかったかもしれない。
けれど、店の残り香と陽だまりのなかに、そっと溶け込んでいった。
そして、鏡に映る自分の姿を、八重子はもう一度だけ見つめる。
そこには、少しだけ強くなった自分がいた。
──新しい日々が、静かに、でも確かに、始まろうとしていた。
ーー新たな案件に、続くーー