第五十話、ミズノギルド誕生
ーーヒア・ウイゴー、次の一手ーー
都心の喧騒から少し離れた一角。重厚なドアを開けると、そこには上質なウッドフロアに観葉植物が点在し、ほのかに香るコーヒーと、スピーカーから流れる穏やかなジャズが空間を包んでいた。
田中オフィスTokyoの応接室。まるでギャラリーのようなその空間で、ひと組の夫婦が革張りのソファに身を沈めていた。
奥のソファに腰掛けていたのは、芸能事務所「ヒア・ウイゴー」社長の肥後香津沙。整った顔立ちと、キリッと引き締まった眼差しが印象的な女性だ。中小ながらも熱量のある若手タレントを多数抱え、ネット番組『コメワン・グランプリ』の仕掛け人として最近話題を呼んでいた。
隣には夫の肥後勝弥。ジムに通って鍛えた体格をピッタリ包むジャケットを着こなした姿は、年齢よりもはるかに若く見える。「イケオジ」の呼び名が似合うその男は、元・大手広告代理店の実力派マーケター。いったん業界を離れ隠居しかけていたが、今は田中オフィスTokyoで嘱託マーケティング・アドバイザーとして復帰している。
向かいに座るのは、田中オフィスの所長、水野幸一。司法書士にして公認会計士。企業再生や契約問題にも精通する、信頼厚きブレーンだ。
「…水野さん、今日はほんと、ありがとう。」
香津沙が切り出した。低く、しかしどこか疲れの滲む声だった。
「コメワン・グランプリ、成功おめでとう。でもね、うち…もう限界なのよ。完全歩合制でやってきたけど、タレントが定着しないの。レンチンズは東京MTVのレギュラーとれたけど、他の芸人たちは、またフリーに戻ってるわ。」
水野は、落ち着いた口調で応じた。
「ええ…。確認しましたが、契約形態は“請負契約”ですね。いわゆるフリーランス扱いです。」
香津沙は眉間に皺を寄せ、顎に手をあてた。
「才能ある子ばかりなのに、稼げないからって辞めてくの。悔しいのよ。」
すると、勝弥が肩をすくめて笑った。
「かづささん、“ウチの子”って感覚で抱え込みすぎなんじゃない?気持ちは分かるけど、ビジネスはバランスも大事。」
彼は軽妙に言うが、その視線は真剣だった。現場感覚を失わず、なおかつ速やかに判断を下す。それが勝弥の流儀だ。
「じゃあ、どうすればいいの?」
香津沙は視線を水野に向ける。「固定給なんて払えない。社員にするのもリスクが高い。」
水野は資料を取り出しながら、ゆっくりと語り出した。
「方法はあります。ご提案できる選択肢は、三つです。」
提案①:セミ固定+歩合型「準社員契約」モデル
「最低保障額のある報酬に、成果報酬を加えたモデルです。雇用ではなく“準委任契約”と捉えれば、社会保険への加入義務も回避できます。ですが、定期的な契約更新と面談を必須にし、管理は少し必要になります。」
提案②:育成社員制度(若手向けの短期雇用)
「有望な若手タレントを“育成社員”として雇用する制度です。短期の有期契約社員とし、社会保険に加入。固定給に加えて成果報酬ボーナスを支給。年末評価により、正社員登用か契約終了を判断します。“芸能界で本気で勝負したい人”向けの明快な枠です。」
提案③:合同会社「ヒア・ウイゴー」制作ユニット制
「一部の主力タレントを社員=共同経営者として迎え、合同会社化する手法です。香津沙さんは業務執行社員(代表)となり、収益をタレントとシェア。財務が透明化され、フリーランス契約のグレーゾーンもクリアになります。」
勝弥が目を輝かせて声を上げた。
「なるほど…タレントも事業主としての意識が芽生えるか。組織じゃなくて“チーム”になる感じだな。」
香津沙はしばらく黙り、ふと視線を上に向けた。
「…面白い。面白いわね。」
その声に、かすかに笑みが混じる。
「でも、水野さん。合同会社って、運営難しくない?私、そういうの、得意じゃないわよ。」
「大丈夫です。」
水野は穏やかに微笑む。「田中オフィスで設立から運営まで、すべてサポートできます。社員総会のルールや分配比率も、芸能の現場に合わせて設計可能です。」
香津沙は腕を組み、深く息を吐いた。
「“さあ、行こう!”がキャッチコピーだったはずなのに、最近ずっと立ち止まってた気がする…。でも、まだやれるかもね。」
「やれるさ。」
勝弥が柔らかく言う。「俺もAIマーケやるって決めたんだ。もう一度、面白いこと始めよう。」
沈黙。
しかし、それは前向きな沈黙だった。まるで、次の波を待つような静けさ。
応接室には、ジャズの旋律がまたひとつ、静かに流れていた。
ーー舞台の記憶、イヴリンが微笑むときーー
田中オフィスTokyoの応接室。
午後六時、夏の空はゆっくりと色を変えながら、東京のビル群を金色に染めていく。窓の外では蝉の声が途切れがちに聞こえ、遠くの空には一番星が微かにまたたいていた。
応接室には、心地よいコーヒーの香りと、静かな緊張が漂っていた。
肥後香津沙が、白磁のカップをソーサーに戻し、ふっと微笑んだ。その笑みに含まれていたもの――それは、女の直観というにはあまりに研ぎ澄まされたプロの目だった。
「ワタシが目をつけているのは、“イヴリンさん”よ。」
その一言で、部屋の空気がふわりと揺れたように感じたのは、ちょうど、ノックをして入ってきた、ラヴィ・シャルマだけではなかった。
「……え?」
ラヴィは言葉を失い、目を丸くした。
「イヴリン……ですか?」
「そうよ。」
香津沙は確信を帯びた口調で頷いた。
「彼女、彫金師としても立派だけど――声、所作、そして“間”。舞台で人の目を自然と引きつける人が持っている“空気”がある。彼女は、それを自然に持っている。…あれが、“舞台向きの顔”なのよ。」
彼女の視線が、ふたたび窓の向こうへと向かう。
夕暮れが群青色へと変わりつつあり、ビルの影がまるで劇場の幕のように、街へと滑り落ちていく。
「昔、ヨーロッパの舞台女優が日本に来て、たまたまCMに出たことがあったの。セリフはなくて、ただ一度うなずくだけ。それが、ものすごく印象的だったの。…イヴリンさんにも、それと同じ空気を感じたのよ。」
テーブルの隅では、水野幸一が静かにメモをとっていた。表情は変えず、それでいてその目はすべてを見逃さぬように動いている。
彼は目だけで、隣のラヴィに「まずは聞いて」と穏やかに促した。
ラヴィの手が、膝の上でそっと組まれる。指先に、かすかな震え。
「……イヴリンが、舞台に立てるのでしたら、私に何かできることはありませんか?」
自分の口から出たその言葉の重さに、ラヴィは少しだけ目を伏せた。
16年、夫婦として、家庭として、共に歩んできた。イヴリンの夢を傍らで見守り、支えてきた。ミネラルショップ「KIRAN」の開店は、彼女の夢であり、形にした現実でもあった。
*
ミネラルショップ「KIRAN」のロゴデザイン。エレガントでモダンな印象。スタイライズされた鉱石またはクリスタルのアイコンを使用し、さりげない蓮のモチーフを加える。色は翡翠のようなグリーン、石のグレー、金色のアクセントなどアースカラーで。文字「KIRAN」はクリーンなサンセリフ体で、自然で輝きを感じさせる。ミニマルな背景で、コントラストを効かせたベクター風デザイン。
*
「でも……彼女は、いま店舗経営に喜びを感じています。それもまた、彼女の舞台です。」
ラヴィの声は真っ直ぐだった。
香津沙は、静かに首を横に振った。
「それはわかってるわ。」
彼女の声はやさしく、だがはっきりとしていた。
「舞台って、大ホールで芝居を打つことだけじゃないの。今の時代、YouTubeドラマも舞台。朗読ライブも舞台。イベントMCだって、立派な舞台よ。」
水野が、落ち着いた声で続ける。
「副業として始められる案件も多いです。“スポット出演”なら、契約形態も柔軟です。業務委託契約で対応できます。」
「最初は、朗読イベントのゲストでもいいわ。異文化の魅力を語るだけでも、人の心を動かせる。」
香津沙の目はまっすぐだった。軽い興味や気まぐれではない。
それは、“磨けば光る原石”を本気で見つけた者の目だった。
ラヴィは、イヴリンの姿を思い浮かべていた。
夜のキッチンで、静かに紅茶を淹れる彼女の指先。
アトリエで銀を叩くときの真剣な背中。
子どもたちに語る声――時に、まるで詩のようにやさしく、深く、心に残る言葉。
「……たしかに。」
ラヴィの口元に、ゆるやかな決意が宿る。
「……ありがとうございます。イヴリンと話してみます。」
香津沙はその言葉にふっと微笑んだ。
「“光る原石”を見逃すわけにはいかない。それが、うちの事務所の方針なの。“ヒア・ウイゴー”――さあ、行こう、ってね。」
水野も軽く頷いた。
外の空はすでに群青色を越えて、夜の帳が落ちようとしていた。
東京という名の巨大なステージ。その街の片隅で、新たな“幕”が、静かに――だが、確かに上がろうとしていた。
誰が主役になるのか。
どんな物語が紡がれるのか。
それは、まだ誰にもわからない。
だが確かなのは――
今、静かに一つの舞台が始まったということだった。
ーーヒカリの種、動き出す―
夏の陽が完全に沈み、東京のビル群には、ネオンがまるで星座のように灯り始めていた。
窓の外に広がるその夜景を背に、田中オフィスTokyoの応接室は、静かな熱を帯びていた。
肥後香津沙がテーブルに置いたコーヒーカップの音が、小さく響いた後の沈黙。
その空気を切るように、彼女が口を開いた。
「まず、お店の宣伝も兼ねて――イヴリンさんの動画を拡充するの。」
椅子に深く座っていたラヴィ・シャルマは、その言葉に少し驚いたように顔を上げた。
「動画…ですか?」
「そう。まずはYouTube。商品の紹介や、ハンドメイドの制作過程、日々の暮らしの中で彼女が語ること――それだけで、十分“ブランド”になるのよ。」
香津沙はスマートフォンを操作しながら、それをテーブルの中央にそっと置いた。
画面には、店内で天然石のブレスレットを組み立てるイヴリンの姿が映し出されていた。
明るすぎない柔らかなライトに照らされた横顔。
彫金用のピンセットを器用に動かしながら、彼女は真剣に、けれどどこか幸せそうに作業していた。
「これ、先週、あなたが撮った写真よね?」
香津沙が尋ねた。
ラヴィは目を見開いて頷いた。
「はい……インスタ用に、何枚か撮ったものです。」
「もったいないわよ。」
香津沙の声には、確信があった。
「これは“物語”になる。動画にして編集して、ナレーションも加える。再生数を伸ばすなら、うちがサポートするわ。」
応接室の奥で静かに話を聞いていた水野幸一が、落ち着いた口調で続けた。
「肥後さんが協力すれば、SNS広告やSEO対策も一貫して展開できます。うちのマーケ部隊、見た目以上に頼りになりますから。」
ラヴィはしばらく黙っていた。
イヴリンがカメラの前に立つ姿――まだ想像はつかなかったが、彼女の語る言葉が、人の心に残るのは確かだった。
香津沙の声が、再び響く。
「ある程度、知名度があがったら、次のステップよ。」
「……次の?」
「ローカル局で放送するスポンサーのCMに起用するの。」
「……し、CMに……イヴリンを?」
思わず、ラヴィは息を呑んだ。
「そうよ。『インドから来て、日本で家庭と仕事を両立させている女性』。それだけで、強いメッセージになる。あなたも分かってるでしょう?」
香津沙の声に、説得の色はなかった。
それは、確信だった。
ラヴィはゆっくりと息を吐く。
「……彼女は、それを“特別”だと思っていません。日々をただ、一つずつ――それだけです。」
「だからこそ、よ。」
香津沙はやさしく笑った。
「人の心を打つのは、派手な演出じゃない。飾らない言葉と、誠実な笑顔。それこそが、ブランドの“顔”になるの。」
一瞬、室内に静寂が満ちた。
誰も言葉を挟まなかった。
ラヴィは目を伏せ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……もし、彼女がその道を選ぶなら。私は――全力で支える覚悟があります。」
その声には、誓いに近いものがあった。
少し照れたような笑みとともに、それでも目はまっすぐに香津沙を見据えていた。
香津沙は笑った。
「旦那さんにはね、彼女を支える“伴侶”として、動画にも登場してもらいたいのよ。たとえば、朝、子どもたちのお弁当を一緒に詰めてるシーンとか。休日に浅草を散歩している姿。――そういう“何気ない日常”こそが、見る人の心を動かすのよ。」
ラヴィの胸に、何か熱いものが込み上げてきた。
それは商業的な企画ではなかった。
この人は、本気で、イヴリンの生き方そのものに光をあてようとしている。
それは、特別なことではないかもしれない。
けれど――だからこそ、多くの人の心を照らす“ヒカリの種”になるのだ。
窓の外。車のヘッドライトの明かりがかげろうのように揺れていた。
「……ありがとうございます。彼女に、伝えます。」
ラヴィの声は静かに、けれど確かに響いた。
水野が立ち上がった。
「では、私たちは動画プランと契約のドラフトを準備しておきます。」
香津沙も椅子を引いた。
「“イヴリン物語”、一緒に育てていきましょう。“ヒア・ウイゴー!”」
「さあ、行こう――ですね。」
ラヴィは、照れくさそうに、けれど確かな笑みを浮かべた。
ネオンがきらめく東京の夜。
その片隅で、ひとつの小さな光が、静かに芽吹こうとしていた。
ーーヒア・ウイゴー式、始動。イヴリンという光ーー
田中オフィスTokyoの応接室には、戦略的な静けさが流れていた。
ビルの高層から見える東京タワーが、夜の闇に赤く瞬く。まるで時代を見守る灯台のように。
応接室のテーブルには、契約ドラフトやマーケティング資料が無駄のない整頓で並べられ、その上に置かれたカップからは、アールグレイの香りがほのかに立ち上っていた。
しかし、この夜の議題は、数字でもスローガンでもなかった。
「……つまり、私の構想はね――」
静けさを破るように、香津沙がカップをそっと置いた。
その仕草には、確信めいたゆるぎなさがあった。
「イヴリンさんを、“ヒア・ウイゴー式”プロモーションの第一号モデルにしたいってことなの。」
誰も口を挟まなかった。
香津沙の声には、ただのプランではなく、“信念”が宿っていた。
「これは単なる動画広告でも、CMでもないわ。“生き方”そのものを発信する時代なのよ。企業も、個人も、“何を信じて、どう生きるか”がブランディングになる。」
同席していたラヴィが、ゆっくりと頷いた。
傍らの水野は資料から目を離さず、その言葉の余韻を噛みしめていた。
「勝算はありますよ。」
水野の声は静かで、だが芯のある響きを持っていた。
「彼女は、ただ“主婦で彫金家”ではなく、“外国から来て、家庭と会社経営を両立させている女性”です。現代のロールモデルとして、強い共感を得られるはずです。」
そのとき、会議室のドアが音もなく開いた。
軽快な足音が空気を切り裂く。
「へいへい、お待たせ〜。資料、刷っといたよ!」
入ってきたのは、香津沙の夫――田中オフィスTokyoの敏腕マーケター、肥後勝弥だった。
手にした厚めのファイルを掲げ、にやりと笑う。
「動画投稿の初期タイトルは、“イヴリンのひかり”、でどうだ?」
イケオジと呼ぶにふさわしいスタイルと、その軽妙なトーンが場の空気を一気に明るくする。
「“家庭・職人・経営者・母・女性”――この5属性を丁寧に伝えつつ、どこかにユーモアと親しみを差し込む。ショートで1分、ロングで5分。週2回更新。撮影と編集はウチの若いのが担当する。再生数? おう、俺の売出し戦略がバズらないわけがない!」
思わずラヴィが笑みを浮かべた。
その熱気を受け止めるように、水野が口を開いた。
「さらに――」
彼はページを一枚めくる。
「このプロモーションに合わせて、イヴリンさんを正社員として登用し、合同会社方式のモデルケースにしましょう。」
香津沙の目が細くなる。
「つまり、“株式会社じゃなくても、ここまでできる”っていう、ビジネスの実証実験ね?」
「はい。LLC――合同会社は、柔軟性があり、個性のある小規模経営に向いています。特にクリエイター系や職人系の人たちに選ばれつつありますが、まだまだ“会社=株式会社”という固定観念は根強い。」
水野は一枚の資料をラヴィに差し出した。
それには、新たな働き方と経営スタイルが、緻密に構築されていた。
「イヴリンさんを第一号にすることで、まったく新しい“家族経営×合同会社”のライフモデルが誕生します。しかも、マーケティングと法務がしっかり支える体制で。」
ラヴィは目を閉じた。
妻の姿が心に浮かぶ。
朝早く店を開け、子どもたちの支度を整え、夜はアトリエで銀を叩く。
そのすべてが、彼女の“生き方”であり、“経営”だった。
「……ありがとうございます。彼女と、しっかり話してみます。」
しばしの沈黙の後、香津沙がふいに立ち上がった。
背筋をぴんと伸ばして、笑いながら言った。
「じゃあ、私もその合同会社に“社員”として加わって――遅咲きの女優デビューしちゃおうかしら?」
一瞬の静寂。
そして、爆笑。
「香津沙さん、やるときはやりますからね……」
水野が苦笑しながら言う。だがその目は、まんざら冗談とも思っていない。
肥後勝弥も肩をすくめた。
「まあ、いいんじゃねえの? 夢ってのは、何歳でも咲くんだよ。花が咲くときには、年なんか関係ない。」
窓の外、夏の夜風に揺れる東京の灯。
その灯の向こうで、何かが確かに“始まり”を告げていた。
「ヒア・ウイゴー」――さあ、行こう。
この名に込められた言葉が、いま現実となって、静かに走り出していた。
ーー権利を守るということ、弁理士という切り札ーー
田中オフィスTokyoの応接室には、夜の帳が静かに降りていた。
大きなガラス窓の向こう、漆黒の空に浮かぶスカイツリーが白く煌めき、未来の光を灯しているように見える。
テーブルの上に並ぶ書類の束。
その一枚に視線を落としながら、水野が口を開いた。
「……これがうまくいけば、会社設立登記の案件も安定して増えていきますね。副業から法人化へ。そういった相談が今後、さらに増えるでしょう」
そして、彼の言葉は、ラヴィと香津沙の方へと向かう。
「特に、今回のようにイヴリンさんのような方が“表に立つ”ブランド戦略の場合――肖像権や著作権、その他知的財産の取り扱いが極めて重要です。後から問題が起きるケースも少なくありません。今のうちに、しっかりと手を打っておくべきでしょう」
少しの沈黙の後、香津沙が穏やかに微笑んだ。
「それなら、心配いらないわ」
そう言って、バッグの中から名刺を一枚、すっと取り出し、テーブルの中央に滑らせた。白地に墨色の文字が並ぶそれには、小さく一匹の猫のイラストも添えられていた。
「猫田弁理士。私が信頼している人よ」
「猫田……?」
ラヴィが名刺を手に取り、首をかしげる。
「“ネコタ特許知財事務所”っていうの。名前だけ聞くと、ふざけた印象かもしれないけれど――中身は本物よ」
香津沙の声には、冗談ではないという確信が込められていた。
彼女は少し前に体験した、あの粘り強くも柔らかいアドバイスの数々を思い出しながら言葉を続ける。
「もともとは、芸能プロダクションの法務部にいた人なの。今は独立して、キャラクターのIP戦略や舞台演出、SNS配信までを含めた知財周りを幅広く扱っているの。エンタメ業界の感覚が身についていて、しかも感性が柔らかいのが魅力なのよ」
水野が軽く頷いた。
「それは非常に心強いですね。法律に明るいだけでなく、クリエイティブ業界にも理解がある弁理士というのは……確かに、そう多くはありません」
「しかもね――」
香津沙は声を少し潜め、にやりと笑った。
「“同人誌”を作ってた過去があるのよ。結構ガチで」
「えっ?」
ラヴィが思わず目を丸くする。
「だから、“好き”の熱量とか、“手作りの重み”を知っているの。イヴリンさんの、あの蓮のロゴ――あれにもきっと共感してくれるはず」
静かにうなずいたのはラヴィだった。
「……あのロゴは、彼女にとって家族の象徴なんです」
「だったらなおさら、今のうちに手を打ちましょう」
香津沙はまっすぐな視線で言った。
「ブランド名の登録出願とあわせて、ロゴの意匠権登録。それから、SNSアカウントの名義整理。YouTubeチャンネルの運営ポリシーまで、全部まとめて相談してみるといいわ」
「登記、税務、広報、そして知財――」
水野は手帳に「猫田弁理士」と記しながら、微笑を浮かべた。
「これでようやく、事業の土台が整いつつありますね」
「ええ、夢を育てるなら、まずは土から耕さないと」
香津沙の言葉が、応接室の空気にしっとりと染み込んでいく。
そのとき――
どこからともなく、風鈴の音のような、かすかな鈴の音が響いた。
誰も気づかぬほどの小さな、でも澄んだ音。
まるで、未来からの優しい合図のように――。
ーーギルド誕生、名を「ミズノ」ーー
「そのために私は……合同会社“ミズノギルド”を設立します」
水野幸一が静かに、しかし力強く言った瞬間、会議室の空気がピタリと止まった。壁に映るプロジェクタの画面には、ギルド風のロゴマーク。盾に羽ペン、そして法の象徴である天秤のシルエット。起業という“冒険”に必要な道具が、紋章のように描かれていた。
「……ミズノギルドぉ?」
肥後勝弥が、まず声を上げた。その顔には呆れと驚き、そして興奮が入り混じっていた。
「いやいやいや、あんた、名前が厨二病すぎるやろ!ギルドって、RPGでクエスト受けるとこやんか!受付に“ミズノちゃん”とか立ってへんやろな!?」
「受付はAIにする予定です。名前は……まあ考え中ですが」
水野はさらりと受け流すと、笑みを浮かべて資料をめくった。
「そもそも、これは“本気の実験”なんです。スタートアップ支援のビジネスモデルを、まず自分の手でやってみる。プロトタイプ会社として、実務もデータも集めて、田中オフィスに還元する。それが“ミズノギルド”の第一義です」
「なるほどなぁ……」
肥後は腕を組み、ふむふむとうなずいた。
「つまりや、水野さん。田中オフィスを出て行くわけじゃないけど、一歩前に出て、未来の起業家たちの前を歩くわけや。言うたら、実験兼、旗振り役っちゅうわけやな?」
「そうです。私自身がプレイヤーになることで、クライアントにもリアルな道筋を示せると思っています。理論じゃなく、実践で見せる。リスク吸収って、そういうことだと考えてます」
「やるやん!」
肥後が机をバンッと叩いた。
「よう言った!よう言ったよ、水野さん!あんたは、田中オフィスに収まる器じゃないと、前から思ってたんだ!」
「いや、だから違いますって……!」
水野は苦笑しながら、思わず椅子の背にもたれた。
「独立じゃないんです。むしろ、田中社長に話したら『それや!冒険や!ギルドや!』って、勝手にロゴ作り始めてましたから」
「……さすが田中さん、ノリがええ」
肥後は肩をすくめて笑った。
「ほんで?俺は何役でギルド登録すればいいの?商人?広報?それとも、口八丁の交渉役とか?」
「ええと……たぶん“情報屋”ですかね。地図を売る人」
「おお、それカッコええな!砂漠の街に住んでそう!」
目を輝かせた肥後のテンションは、すでにダンジョンの奥深くへ突入していた。
「とにかくだ。水野さん、“ミズノギルド”の看板、俺、めっちゃ応援するからな」
「ありがとうございます」
水野は深く一礼した。
「このギルドが、迷ってる若者たちの道しるべになるよう、全力を尽くします。ビジネスの地図を描いて、仲間を集めて、未来へ旅立つ――そんな場所にしたいんです」
「いいねぇ……よっ、初代ギルドマスター!」
ギルドはまだ、小さな灯り。
だがその灯りは、志ある若者たちの旅路を照らす、希望の松明となる。
そして――“ミズノギルド”の名は、未来の冒険者たちの間で、確かに語られていくことになるのだった。
ーーミズノギルド始動ーー
梅雨の終わりを告げるように、飯田橋の空はどこか明るさを帯びていた。灰色の雲が薄くなり、ビルの窓に映る光がやわらかく揺れている。
その日の午後、田中オフィスTokyoの一室には、静かで穏やかな熱気が流れていた。空調の音さえ耳に届かないほど、そこにいる者たちの意識は、目の前の未来に向いていた。
会議テーブルに並んだのは三人――司法書士であり公認会計士でもある水野幸一、行政書士の立花美波、そしてインド出身の行政書士、ラヴィ・シャルマ。
ラヴィは、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを少し緩めていた。張り詰めた空気の中に、どこか安堵のような表情を浮かべて口を開いた。
「皆さん、ありがとうございます。まさか自分が、こうして冒険パーティーに加わるとは思っていませんでした」
水野がうなずいた。どこまでも誠実な瞳だった。
「ラヴィさん、あなたの力は誰よりも知っています。元SEで、行政書士試験に合格した外国人なんて、ほとんどいないでしょう。それに――あなたには、“人をつなぐ力”がある」
その言葉に、立花美波も優しく微笑んだ。
「この“ミズノギルド”には、あなたの存在が必要なんです。技能実習生や在留外国人の支援には、ただの手続きじゃ足りない。言葉と心の通訳がいなければ」
ラヴィは、ふっと目を伏せた。その瞳の奥に浮かんだのは、16年前、日本に来たばかりの頃だった。
右も左もわからず、駅の券売機ひとつ使えずに戸惑っていたあのとき、ひとりの市役所職員が、ただ一言――「困ったことがあったら、また来てください」と言ってくれた。
その一言に救われた。だからこそ、今度は自分が、誰かに手を差し伸べたい。
「……だからこそ、自分が今、誰かを助ける番なんです」
その言葉に、部屋の空気がわずかに震えた。誰もが、静かにうなずいていた。
水野は立ち上がり、一枚の白い紙を会議テーブルの中央に置いた。
太字で書かれていたのは、次の一文だった。
合同会社ミズノギルド 設立準備書面
「いよいよです」と、水野が言った。
「“ミズノギルド”は、行政手続きとスタートアップ支援を組み合わせた、全く新しい“冒険者ギルド”なんです」
「冒険者ギルド?」と立花が楽しげに笑った。
水野はうなずく。
「そうです。若者たちが集まり、仲間を見つけ、チームを組んで会社を作る。そのパーティー編成を、アプリで支援する。ラヴィさん、あなたにはその“翻訳兼ナビゲーター”を担ってもらいたい。スタートアップという森を案内する、現代の道先案内人です」
ラヴィはしばらく考えて、やがてふっと笑った。
「まるで、現代のダンジョンマスターですね。――やりましょう。案内します、みんなの冒険を」
数日後:「ヒア・ウィ・ゴー」合同会社・登記完了
オフィスの中で、誰よりも大きな声を上げたのは、肥後勝弥だった。濃紺の作業着に袖を通し、書類を高く掲げて叫んだ。
「よっしゃ! オレらの“ヒア・ウィ・ゴー”合同会社、これで正式発足や! あとはもう、若者の支援でガンガン行くだけやな!」
その声に拍手を返しながら、ラヴィ・シャルマがにこやかに言った。
「ミズノギルド、取り扱い案件第1号。おめでとうございます」
「ラヴィ、あんたの日本語、心にしみるぜ」
そう言って肥後は、ラヴィに握手を求めた。その手は大きく、まっすぐだった。
ラヴィはやや照れながらも、穏やかに握り返した。
「ありがとうございます……でも、これはまだプロローグです。これからですよ、“冒険”は」
水野は、懐からスマートフォンを取り出し、みんなに画面を見せた。そこには、開発中のギルドアプリのプロトタイプが表示されていた。
そのトップ画面には、次のメッセージが浮かんでいた。
『パーティー編成を開始しますか?
YES/NO』
ラヴィは、スマートフォン越しにその文字を見つめながら、静かに頷いた。
「さあ、出発しましょう」
ーー出会いの先にーー
十数年前の東京・高田馬場。異国の風が静かに吹いていた。
技術者としてインドのIT企業から日本に派遣された若きラヴィ・シャルマは、20代半ば。鋭い目をしたエンジニアたちの中で、彼は群を抜いて柔らかな雰囲気を持っていた。
それが、彼女の目に留まった。
小さなギャラリーで偶然交わした言葉。「あなた、日本語うまいのね」
それがイヴリンとの出会いだった。
彼女は日本の美術大学に留学中で、スケッチブックを抱えていた。
「コンピュータに命を吹き込むって、絵を描くのと似てるね」
「いや、君の描くもののほうが、ずっと人間らしい」
そんなやりとりが、やがて夫婦へと続いていくとは、誰も知らなかった。
現在:田中オフィスTokyo
午後の陽がさす応接室で、水野幸一が書類を机に置いた。
「――では、今日この場で正式に。合同会社『ミズノギルド』を立ち上げます」
テーブルには、ラヴィ・シャルマと、行政書士・立花美波が並んで座っていた。
「行政書士になってから、こんな日が来るとは思わなかったよ」
ラヴィが静かに語ると、立花が懐かしそうに笑った。
「でも、ラヴィさん、あなたの帰化申請のときは本当に驚いたわ。あの書類の山…3人分の出生証明、日本語訳、戸籍の作成…全部あなたひとりで用意されて」
「感謝しています、美波さん。あの時、あなたが親身になって教えていただいたおかげです。そうでなければ、今、ここに私はいなかったかもしれません」
水野は二人のやりとりを微笑みながら聞いていた。
田中オフィスTokyoがまだ人手不足だった頃、行政手続きは全面的に立花行政書士事務所に依頼していた。
ラヴィが田中オフィスに転職し、その後、行政書士試験に合格。
いま、かつての“依頼者”が、肩を並べて新しい組織を創ろうとしている。
「…プロトタイプですよ」とラヴィ。
「うん?」と水野。
「この“ギルド”は、私にとっても、私たちの子どもにとっても、“未来への実験”なんです。私たち一家は日本に帰化しました。アバス、アビシェク、アヌシュカ――彼らはインドのDNAを持つ、生粋の日本人です。でも、“彼らが選べる社会”が、まだまだ足りない」
水野は小さくうなずく。
「そういう声を聞く場所が、“ミズノギルド”になるといいですね。立ち上げ当初は、行政手続きのアウトソーシングと、スタートアップ支援がメイン。でも、その先は――」
「教育、コミュニティ、そして多文化の橋渡し」と立花が続けた。
その日の夕方、ミズノギルド第1号案件である「合同会社ヒア・ウィ・ゴー」の登記が完了した報が入った。
肥後勝弥は大声で言った。
「ええやん!ウチらが第1号、名誉なもんや!」
妻の香津沙はやや落ち着いた声で言った。
「タレントの育成とマネジメントが両立できる会社。…“私たちにちょうどいい社会”を、私たちが作る時代なんですね」
その夜、自宅で娘アヌシュカを寝かしつけながら、ラヴィはふと目を細めた。
「パパは、きょう何をしたの?」
「仲間を集めて、“新しい冒険”を始めたんだよ」
「ダンジョン?」
「うん。大人のダンジョンだね。だけどパパたちは、もう魔法も道具も持ってる」
アヌシュカは小さく「つよいね」と笑った。
ラヴィは、その言葉を胸に刻んだ。
ーーミズノギルド:志の矛先ーー
夕暮れの東京。
高層ビルの谷間を照らすように、オレンジ色の陽が最後の光を落としていた。
田中オフィスTokyo。その一室の窓からは、沈む夕陽がビルのガラスに反射し、遠くのネオンの明滅と交差して、まるで未来と過去が手を取り合っているかのような光景が広がっていた。
水野幸一は、書類の山から視線を外し、机の隅に置いた湯呑みに手を伸ばす。
あたたかいお茶の香りが、疲れた神経を一瞬だけ和らげた。
口に含み、ゆっくりと飲み下す。
その温もりが喉を通っていく一方で、胸の中には、冷たい氷のような思案が張り付いていた。
「――とはいっても…」
誰にも聞こえない呟きが、ひとりきりの空間に滲んだ。
ここ数日で「ミズノギルド」に加わった仲間たち――ラヴィ・シャルマ、立花美波。
彼らの情熱、そして真っすぐな信念は、確実にこの新しい取り組みに魂を宿らせていた。
しかし、水野の心には、ひとつの重い懸念が渦巻いていた。
「…このビジネスは、一歩間違えば“食い物にする側”になりかねない」
若者たちの起業支援。合同会社の設立サポート。
それは、一見すると華やかで善意に満ちた取り組みに見えるかもしれない。
だが現実には、その“最初の扉”を利用して、不安と無知を抱えた若者たちから必要以上の手数料を巻き上げたり、専門用語で煙に巻く業者が少なくない。
――巧妙に。冷徹に。
水野は、静かに拳を握った。
「ミズノギルドは、そんな連中とは違う。本物の支援じゃなければ意味がないんだ」
彼の視線は、壁に掛けられた一枚の額へと向けられる。
その中には、田中卓造社長が筆で書いた一文があった。
「士業は、人を生かす術」
田中が冗談混じりに言っていたことを思い出す。
「わしらはな、人の背中を蹴飛ばすのと違う。背中を、そっと撫でるんや」と。
――そうだ。
自分たちがつくろうとしているのは、金儲けの仕組みではない。
社会の片隅に灯りをともす、“志の場所”だ。
水野はふと、もう一つの考えに沈む。
「本来なら、こういう支援は国がやるべきなんだよな。…少なくとも、IRなんかにうつつを抜かす前に」
最近の経済政策を思い浮かべるたびに、歯がゆさが募る。
箱モノを作り、外国資本を呼び込み、表面上の数字を積み上げる。
だが、足元の市民の暮らしはどうだ?
――中卒の若者が、美容師を目指して、ゼロから会社を興そうとしている。
その現実に手を差し伸べるのが、国家でなくて誰だというのか。
「だからこそ、俺たちがやるんだ」
窓を開けると、秋の気配を含んだ風が部屋に入り込み、机の上の書類をさらりとめくった。
水野はその音に耳を澄ませながら、静かに言った。
「ギルドという名の、小さな国家を」
彼は再び椅子に腰を下ろし、机に目をやる。
一枚のヒアリングシートが、新たに届いていた。
淡いインクで書かれたプロフィールに、彼は目を細める。
「――“二十歳の美容師。中卒。”か。…面白い」
若さとは、恐れを知らぬ炎だ。
その炎に、責任と知恵という薪をくべるのが、自分たちの役割だ。
ミズノギルドの灯は、今日もまた、誰かの最初の一歩を照らし出す。
夜の帳がゆっくりと落ちる東京の空の下で、静かに、しかし確かに、志の矛先は未来を指していた。
ーー問いの向こうに、未来は受け継がれるーー」
夜更けの田中オフィスTokyo。
ビルの窓の外には、深夜の光が滲んでいた。
誰もいないはずのサブディスプレイが、ふと明滅する。
【ミズノギルド・質問フォーム】
《投稿者:合同会社運営中の美容師(20歳)》
「例えば、合同会社の美容院を開設、運営してきたとします。
合同社員がそれぞれの道を選び、その美容院をだれも継承しない場合、
それを希望する起業に売却して、合同会社の社員に分配することはできますか?」
ペンを走らせていた水野幸一が、ディスプレイに目を移した。
「……二十歳の美容師さんか」
その一文に、水野はただならぬ“問い”の気配を感じた。
それは、未来に向かう意志の芽だった。
彼は背もたれに身を預け、天井を見上げ、静かに言葉を整える。
そして、キーを打つ。
▼水野の返信
こんばんは。
ミズノギルドへようこそ。そして、質問ありがとうございます。
二十歳の美容師さん――この短い質問文に、私は強い意志を感じました。
「継がないなら売る、そして分配する」。
そこに、オーナーとして配当だけに甘んじることなく、次のステージへ進もうという気概がありますね。
素晴らしいです。
ご質問の件、答えは「可能」です。
合同会社は、持分会社。社員が出資して、その事業を回しています。
社員全員が「もう続けない」と決めたなら、法人の持っている事業(たとえば美容院)を、第三者に“事業譲渡”という形で売却することができます。
売却で得たお金は、出資比率や合意に応じて、社員に分配することが可能です。
また、あなたがその資金で新たな会社を設立することもできるし、留学や専門技術の学びに投資するのも、立派な選択です。
要するに――ご質問の本質は「会社という器は流動性を持ち、次の誰かにバトンを渡すことができるか?」ということですよね。
答えは、「イエス」です。
あなたが築いた価値は、あなたの次の未来へつながります。
そして、それを支えるのが――ミズノギルドです。
道はまだ長いですが、あなたの問いのような感性をもつ若者がいる限り、
日本の起業の未来は明るいと、私は信じています。
[送信]
水野は息を吐き、画面に目を落とす。
──こんな時代に、ちゃんと未来を見据えてる子がいるんだな。
だがその思考は、そこで終わらなかった。
返信を終えた直後、水野の頭に、ふとあるひらめきが灯る。
▼回想:田中社長とのやりとり
「水野くん。会社っちゅうのはな、やりきることも大事やけど…引き継ぐこともまた、立派な経営判断や」
「事業承継、ですか?」
「そうや。今の時代、それがM&Aっちゅうカタチでもええやろ? 譲ることで、夢をつなげる」
▼現在:閃きから、企画へ
「M&Aか……」
水野は、手元のホワイトボードに言葉を書き出した。
M&A(小規模特化)
情熱をつなぐ仕組み
終わりを始まりに変える
ミズノギルドの社会的役割
人の意思を受け継ぐ技術
そして中央に一言、大きく記した。
《未来をつなぐ》
「これは……ただのスキームやない。“物語”の継承やな」
水野の指が、再びキーボードを叩き始める。
▼ギルド内部案内(草稿)
件名:ミズノギルド M&A導入構想(試案)
目的:スモールビジネスの夢の承継
きっかけ:20歳美容師の質問を端緒に、小規模法人の清算前M&Aニーズを確認。
概要:合同会社や個人事業の「引き継ぎ先」を探すマッチング支援の設立。
方法:司法書士、行政書士、会計士、IT専門家による連携スキーム。
対象:後継者難による廃業を防ぎたい事業者、新たに何かを始めたい若者。
付記:道の途中で灯った“問い”を拾い、次の希望へと架け橋を築く仕組み。
送信はまだしない。
だが、水野の中には確かに、ひとつの未来が芽生えていた。
「創業支援だけじゃない。
“バトンをつなぐ場所”が、必要だ」
彼は目を細め、ディスプレイ越しの誰かを想像する。
誰かが店を閉じ、誰かがそこから人生を始める。
事業の火を絶やさず、未来へ託すギルド。
──これが「ミズノギルド」の新しい挑戦になる。
水野は、静かに画面を閉じた。
次の朝、チームに共有する資料を思い描きながら。
夜の田中オフィスTokyoには、明日の匂いが、すでに漂い始めていた。
ーーミズノギルド:スピードの美学ーー
東京・六本木。
まだ朝の空気に梅雨の湿気がまとわりつく季節、ビルの谷間をすり抜けた風がオフィスの窓を軽く揺らした。
「おはようございま――す!」
甲高い、しかしどこか音楽的な声がオフィスに響いた。
肥後勝弥、46歳。スーツの着こなしが妙にこなれて見える“イケオジ”は、今日もいつも通りテンション高く登場した――つもりだった。
だが、その瞬間。
「おはよう、肥後さん。ちょうどいいタイミングだ」
すでに椅子に腰をかけていた水野幸一が、軽やかに椅子を回転させ、すっと立ち上がった。
ネクタイはいつもよりきちんと結ばれていて、目の奥には薄い熱が灯っていた。
「え、なんかあったんですか?」
肥後はPCバッグを下ろすのも忘れ、驚いたように眉を上げた。
「ミズノギルド案件、第2号が生まれました」
「……え、もう?」
肥後は思わず間抜けな声を出した。まだ昨日の話じゃなかったか?
あの“美容院経営の彼女”――中卒で、二十歳で、たしかに印象には残る質問だったが。
「はい。昨夜のうちに仲間と話し合って、即決です。友人3人と一緒に立ち上げた合同会社の美容院を清算、売却するとのこと。今日、書類を持って手続きに行ってきます」
「手ぇ早すぎでしょ!」
思わず突っ込んだ肥後の声に、水野は照れくさそうに笑みを浮かべ、机の端から名刺を一枚取り出して見せた。
《株式会社田中オフィス 東京事務所長》
その下には――
《合同会社ミズノギルド 代表 水野幸一》
「……マジですか、これ。本気のやつじゃないですか」
「もちろんです」
水野の声には一片のためらいもなかった。
鋼のように研ぎ澄まされたその声音に、肥後は思わず背筋を伸ばす。
「田中社長には、昨夜メールで了承をもらいました。任せるって、それで”ワシが必要ならいつでも神輿出すで!”て言ってくれました」
「社長らしい……てか水野さん、こういう時だけ動き速いんですよね」
「“だけ”は余計です。常に本気ですから」
水野はさらりと笑い飛ばしつつも、どこか目の奥は冗談を許さない温度を持っていた。
肥後はふと、ホワイトボードに目をやる。
【ミズノギルド案件】
#1:ヒア・ウイゴー合同会社(合同芸能事務所)
#2:Beauté Trois 合同会社(M&A構想へ)
「今日、彼女たちには言います。“事業清算は新しいスタートラインです”って。
小さくても場所がよく。この美容院を引き継ぎたい新規参入者は多いと思います」
水野は青いフォルダーを手に取り、しっかりとその書類を握り直した。
「“夢の具体化を支援する”――ミズノギルドの理念そのままです。
誰かの“いつか”を、“いま”に変える。それが再出発の支援であっても」
「……やっぱすげぇな、水野さん。よし、俺も気合い入れます」
肥後は拳を握りしめて、自分も机の上のタスクに目を走らせる。
「よろしくお願いします。今日も、未来に投資しましょう」
水野はそう言い残し、フォルダーと名刺ケースを手に、颯爽とオフィスのドアを開けた。
梅雨の湿気の中に微かに香る新しい風が、その背中に追い風を送る。
その朝、静かに、だが確かに――
ミズノギルドのもう一つの旗が立ち上がった。
ーーミズノギルド:1号、始動ーー
午後の陽射しが、東京・神田のオフィス打ち合わせスペースに柔らかく差し込んでいた。
ガラス越しの陽光が、資料を挟んだ数冊のファイルの表紙を照らし、淡い光が静かにテーブルに広がる。
コーヒーカップを片手に、水野幸一は落ち着いた口調で切り出した。
「さて。正式に、案件第1号、走らせましょう」
その声に、向かいの席の肥後勝弥がピクリと反応する。
もともと予測していたはずの言葉だったが、それでも彼の声には少し緊張が滲んだ。
「……来たか」
彼の前にあるファイルの背表紙には、仮称ながら力強い言葉が記されていた。
『合同会社ヒア・ウイゴー(仮)』
「ヒア・ウイゴー合同会社化、または芸能特化の別法人立ち上げ。どっちでもいいって話じゃないのは分かってる。でも、俺たちはやれることは全部やりたいんだよな」
肥後は言葉を選びながら続ける。
「演出、地域イベント、映像制作……バラバラで動くより、パッケージで一気にやった方が断然強い。現場ってのは、そーいうもんだ」
水野は静かに頷くと、テーブルの上に一冊のファイルを滑らせた。
そのページをめくり、表紙にある仮称とメンバーの名前を指先でなぞる。
合同会社ヒア・ウイゴー(仮)
代表社員:肥後香津沙・肥後勝弥
有限責任社員:北 盛夫、飯野 武
「ここに、レンチンズの北さんと飯野さんが有限責任社員として入ってくれる。実演部門にこれだけ強力な顔ぶれが揃う芸能合同会社は、まだ世の中にほとんどない」
水野の目は真剣だった。
「この“型”ができれば、次が作れる。地域×芸能、都市型イベント、自治体連携……応用範囲は無限です」
「なるほどな……」
肥後は椅子に少し身を乗り出し、ファイルの内容を再確認する。登記スキーム、契約書のテンプレート、収支の試算表。すべてが完璧に整っていた。
「M&A案件の相談も含めて、全部これに紐づけできるんだよな?」
「できます。もちろん、全体スキームの中で、資本の入り方や出資比率はケースごとに最適化します」
「やることが見えすぎてて、逆にちょっと怖いな」
肥後は冗談めかして笑ったが、その笑顔の裏には本気の覚悟がにじんでいた。
「……あのさ、水野さん。俺さ、こういう時だけ緊張するタイプなんよ。責任とか、書類とか、なんかガチになると胃がムズムズすんの。イベントやフェスをノリでやるのは得意なんだけどね」
水野は一瞬だけ笑って、しかし言葉には一切の迷いがなかった。
「知ってます。だから、一緒にやるんです」
その一言が、肥後の胸を打った。
言葉以上の力がそこにあった。ただのビジネスパートナーではない。夢を共にする相棒。そう呼ぶにふさわしい、信頼の重みがそこにあった。
「夢の相棒になれるって、そっちが本気なら……こっちも本気出さないとね」
「そりゃ、やるしかねぇな……」
肥後は立ち上がり、拳を軽く握る。
それを受けて、水野も静かに拳を合わせた。
コツン――。
静かな音が、午後の陽射しに溶け込んだ。
「さぁ、1号、始動やな」
陽はまだ高く、外は熱を帯びていたが、
ミズノギルドの中では、次の物語がもう動き出していた。
ーー続くーー