第四十九話、突撃、島原家の晩ごはん
ーー最高顧問・総裁Z、見参ーー
静かな午後の光が、田中オフィスの会議室に差し込んでいた。
窓の外には街のざわめきがあるはずなのに、この部屋の中だけは、まるで時が止まっているかのような緊張感が漂っている。
伊原さんの正規社員化、島原さん本人の希望によるパート勤務への変更。
これらの体制の変更のきっかけになったのは、アバス・シャルマという青年の夏季バイトの受け入れによるものではあったが、伊原さんの娘さんの就学環境の変化を吸収し、伊原さんを正式に行政書士として田中オフィスの主戦力にすることができた。それだけでなく、島原さんの働き方を改善する効果もあった。
この一連の計画策定を推進したのは、竹中顧問であった。
背筋を真っ直ぐに伸ばした田中卓造社長は、深々と頭を下げた。
「竹中顧問……社内で進行しかけていた危機を未然に防いでくれはりましたな。感謝の言葉もありません」
会議室の対面に座る男は、白髪混じりの長髪をゆるく後ろに束ねていた。黒縁メガネの奥の眼光は、年齢を感じさせない鋭さを帯びている。
竹中駿也――通称“総裁Z”。一線を退いた今なお、多くの経営者や学者から畏敬を込めてそう呼ばれる男だった。
彼はゆっくりと口元を歪め、笑った。
「田中社長。……言葉より行動、それが君の信条だっただろう?」
その声には、懐かしさと挑発が同居していた。
「君のオフィスには、ともすると閉塞がちになる“組織”に、常に変化を促そうとする芽がある。……単純なことだよ」
「……変化の芽、ですか?」
田中社長は顔を上げた。
竹中は小さく頷いた。
「島原くん、伊原くん、そして“アバス”……。想定外を味方につける力。組織が育つ条件として、これほど強いものはない」
ふいに椅子を離れ、竹中は会議室の窓際に立つと、街を見下ろした。
「僕は“研究”をやめたわけじゃない。ただ、教室という場所から、“現場”に軸足を移した。それだけのことだよ」
その背中には、教育者の理知と、実務家としての覚悟がにじんでいた。
「今の日本には、言葉より動き、理屈より仕組みが必要なんだ。知識は飽和している。だが、仕組みはまだ貧しい」
田中は深くうなずいた。
「うちの若い連中、理屈もよう聞きますけど……動かんと信じまへん。ぜひ、背中を見せてやってください。ワシも一緒に学びます」
竹中は振り返らずに、窓の外を見たまま、ふっと笑った。
「それならまず、“島原さんちの晩ごはん”に参加させてもらおう」
「……は?」
田中の口から、間抜けな声が漏れた。
「家庭経済こそ、最小単位のマネジメントだ。そこにはすべてがある。見て、感じて、創るぞ、田中社長!」
田中は呆気にとられながらも、その言葉の重みをすぐに感じ取った。
島原真奈美――オフィス庶務を支える肝っ玉母さん。彼女の家庭には、長女・美奈子、次女・真美という思春期まっさかりの娘たちがいる。
そして、そこにもうひとり。夏休みのあいだ“ホームステイ”する予定の、伊原真由――7歳の静かな少女が加わっていた。
職場と家庭。業務と生活。制度と感情。
その交差点にこそ、“仕組み”は宿るのだと、竹中は知っていた。
「ほな、総裁。まずはエプロン姿から、お願いしまっせ」
田中が笑って言うと、竹中もにやりと笑った。
「承知した。ではまず、“包丁を握るところ”から始めようか。観察と実践は、切り離せないからな」
この日――田中オフィス“最高顧問”が立ち上がった。
通称、総裁Z。時代の風に逆らわず、むしろその風を創り出すことに生きる男。
小さなオフィスの一室から、また新たな波が生まれようとしていた。
ーー家庭の灯火ーー
夕暮れが、住宅街をオレンジ色に染めていた。
静かな坂道を登りきった先に、小ぢんまりとした二階建ての家がぽつりと佇む。どこか温もりを感じさせるその家からは、夕餉の香ばしい匂いがほのかに漂っていた。
黒い軽自動車が音もなく停まる。運転席のドアが開き、田中卓造がそっと胸元を押さえる。
「……緊張するわ。人様の晩ごはんに、ずかずか踏み込むなんてなあ」
その後ろから降り立った藤島光子が、同じように緊張した面持ちで辺りを見回した。
「ほんとですね。奥さん、無理してないといいんだけど……」
田中は口元を引きつらせた。「だから言うたやろ、“突撃訪問”は昭和やて……」
とはいえ、今回の訪問は、島原真奈美本人からの正式な招待によるものだ。
「絶対、手ぶらでお越しください!」と強く念を押されており、藤島専務も判断に迷った末、あえて手土産は持参しないことにした。
「“お気遣いなく”というお言葉に、しっかり甘えさせていただくのもマナーですから」
そう自らに言い聞かせるように、藤島は頷いた。
玄関先まで歩いてくると、竹中顧問が腕を組み、呆れたような顔を見せた。
「まったく、パートさんの家に社長ご一行で晩ごはんなんて、前代未聞だな……でもまあ、ちょっと楽しみではある」
ピンポーン、とインターホンを押すと、すぐに明るい声が返ってきた。
「はーい! いらっしゃいませー!」
出迎えたのは、島原家の長女・真美ちゃん。中学生とは思えないほど落ち着いた笑顔で、客人たちを迎える。
「どうぞー! 母が奥でお料理してます。お風呂あがったら、すぐ来ます!」
玄関には整然と並んだ靴と、学校のカバン。
田中が思わず感嘆の声を漏らす。
「おお、こら行儀ええな……うちより整うとるわ」
リビングには、もうひとつの光景があった。
真奈美さんの長女・美奈子ちゃんが、妹の真美ちゃんと一緒に床に座って遊んでいる。姉が指差している雑誌のページに、真美ちゃんの小さな指が重なり、ふたりは笑い声を交わす。
その様子は、姉妹ならではの自然な連携と温もりにあふれていた。
田中社長が、ぽつりとつぶやいた。
「……これが、“家庭”なんやな」
そのとき、キッチンから現れたのは、エプロン姿の島原真奈美。いつもの事務服とは違い、今はすっかり「家庭の主婦」の顔だった。
「社長、お待たせしてすみません。今日はちょっと、気合い入れちゃいました」
照れくさそうに笑いながら、次々と料理をテーブルに運んでいく。
筑前煮、だし巻き卵、ポテトサラダ、白ごはん、豚汁、そして――唐揚げ。
その光景を前に、田中社長の手がわずかに震える。
「……すごいな、こりゃ旅館やで……」
藤島が感心したように尋ねる。
「これ全部……今日の仕事終わってから作ったんですか?」
「はい、だいたい一時間くらいで」
「どんなタイムマネジメントしてるんだ……」
竹中顧問が感嘆の声をもらすと、真奈美さんは少し微笑んだ。
「時間が限られているぶん、無駄な動きができないんです。
仕事も、家事も、育児も、優先順位と段取りがすべてなんです」
その言葉に、竹中顧問の目が光る。
「ほぉ。“リミット・ベース・マネジメント”の実例か……!これは動画にして――」
「それはちょっと……」と苦笑する真奈美さん。
やがて食事が始まり、和やかな時間が流れた。
竹中は珍しく皮肉を抑え、しみじみと語り出す。
「君が育てているのは、子どもだけじゃない。家庭という“組織”そのものだ。会社よりもずっと難しい環境で、運営とマネジメントを成立させている」
田中は箸を置き、真奈美さんの顔をまっすぐ見つめた。
「ワシ、なーんもわかってへんかった……
島原さんが“パート”て言わはったとき、“ゆっくり働きたいんやろ”って勝手に思い込んどった。
その裏で、伊原くんがどんな思いで、真由ちゃんを抱えて働こうとしてたかを察して……
そんなことに考えが及ばなかった。ワシの目はフシ穴やと、初めて気がついた。……」
真奈美は、ふっとやさしく微笑んだ。
「社長、いろいろご手配いただいて、ほんとにいい形で収まりました。それで充分です。
うちの家族が、少しでも誰かの役に立ててるなら、私も嬉しいです」
ふと見ると、藤島が目を潤ませていた。
竹中は黙ったまま、ポテトサラダをひと口、口に運ぶ。
その夜、「島原家の晩ごはん」は、ただの家庭料理ではなかった。
それは、田中オフィスの未来を少しだけ動かす、静かな、しかし確かな分岐点となったのだった。
【午後6時45分・島原家リビング】
「おお〜! すごいっすね、唐揚げの山!」
田中社長の声がリビングに響く。島原家の食卓には、彩りも香りも豊かな手料理が、これでもかと並べられていた。
・山盛り唐揚げ(揚げたて、にんにく香るジューシー仕上げ)
・甘酢あんかけの春巻き
・ナスとピーマンの味噌炒め
・きんぴらごぼう
・おでん(子ども用にちくわと玉子多め)
・キラキラちらし寿司(娘たちのリクエスト)
「えーと、これ全部……奥さんが?」と、藤島専務が目を見張る。
「いえ、子どもたちが下ごしらえを手伝ってくれたんです」
真奈美が少し照れたように笑うと、長女の美奈子(14)が胸を張った。
「私、唐揚げの下味つけた! にんにく多めって言ったの、私だから!」
「私は卵割ったー! 五個も!」
次女の真美(13)も負けじとアピールする。
「すごいわ……」
専務の目元がやわらぎ、思わず笑みがこぼれた。
【午後7時20分・和室での男子会】
「いやぁ、間に合った……」
奥の襖が静かに開き、島原智充が帰宅した。清潔感のあるシャツに、ほんのり照れた笑顔。年相応の落ち着きの中に、どこか少年のような無邪気さが残る。
「お帰りなさい! お邪魔してます」
田中社長がぺこりと頭を下げる。
食後、和室に男たちが集まり、座布団を囲んで“男子会”が始まった。田中社長と智充はビール、竹中顧問は熱燗を片手に、話題は“娘という不可解な存在”について。
「うちなんか、TikTokで顔作ってから出かけますよ」
智充が言えば、
「“これは学校用”ってバージョン分けしてるんやろ? あるあるや〜!」
田中社長が頷く。
和やかな笑いが、男たちの胸の奥に溜まっていた何かを、少しだけ軽くしてくれた。
【午後7時30分・キッチン横の女子会】
一方、キッチンカウンターには自然と“女性チーム”が集まっていた。真奈美、藤島専務、美奈子、真美。
「このお味噌、甘めですね」
専務が口にしたのは、ナスの味噌炒め。
「はい、義母が鹿児島の人だったので、あちらのお味噌が好きで」
真奈美が微笑む。
「お味噌で旅できるって、お母さん、カッコいいね」
真美が料理ノートに一生懸命メモを取っていた。
「この子たち、料理が楽しい年ごろなんですよ」
真奈美の笑顔に、専務は一瞬言葉をなくした。
「……ほんと、すごいな。仕事も家庭も、どっちも中途半端じゃなくて」
「いえ……中途半端ですよ」
真奈美が苦笑すると、娘たちが口を揃えて叫ぶ。
「お母さん、最強だから!」
「お父さんが“主夫希望”とか言っても、お母さんのほうが100倍すごいから!」
照れる真由も、小さな声で「うん」とうなずいた。
【午後7時50分・夫婦の距離感】
和室では、真奈美がそっと障子越しに中の様子を見ていた。
「あ、また見てる……」
智充が苦笑する。ビールの減りが気になるらしい。彼はそっと「俺が注ぐ」とジェスチャーを送ると――
障子の向こうで、真奈美がそっと両手を合わせて“ありがとうポーズ”。
「ええ夫婦やなぁ……」
田中社長が、ほろ酔いでつぶやいた。
「年の差、10歳とは思えないくらい、息ぴったりや」
「年の差なんて、呼吸が合えばすぐ消えますよ」
智充の穏やかな声が、静かに響いた。
【午後8時00分:男子厨房に立つ夜へ】
宴は終盤へ差し掛かり、食後のティータイム。リビングには、甘いロールケーキと温かいハーブティーが並び、子どもたちはソファでくつろいでいた。
そのとき、竹中顧問が湯飲みを置き、ぽつりとつぶやいた。
「いやぁ……これは、ほんとに見事な晩ごはんでした。……負けてられないな」
「え?」
田中社長が眉を上げる。
「次回はですね……僕の“男子ごはん”を披露しちゃおうかな〜って」
竹中顧問が両手を広げ、キラリと笑った。
「おお〜!」
美奈子が前のめりになる。
「え!? 総裁Zの男子ごはん!? それ、絶対バズるやつ!」
「私がカメラ構える! キッチン借りて撮ろう!」
「ちょっと待って! 私も出たい!」
と、真美が割り込む。
姉妹ゲンカが始まりそうになった瞬間――竹中顧問が両手を上げて制止。
「ストーップ、撮影のことで揉めないの! よし、ワシ、ついにモテ期が来たかっ!!」
……リビングが凍る。
次の瞬間、爆笑。
「顧問、それは無理があるわ〜!」
「いやほんま、顧問、お父さんの智充さんより年上やで!?」
「でもさ、私、総裁Zの料理、ほんとに見たいな。やっぱり、漢の味かな」
と美奈子。
「渋いけど、やさしい味だと思う」
真美がうなずいた。
竹中顧問は、少し照れながら背筋を伸ばし直した。
「では、次回――“総裁Zの漢飯ナイト”、開催といたしましょうか!」
大きな拍手がわき起こる。
「……撮影担当は私がやるから、女子は全員、出演しなさいよ」
藤島専務の冗談に、また一段と笑い声が響く。
今夜の笑顔の余韻は、冷蔵庫のプリンよりも、ずっと甘かった。
そして島原家のあたたかい夜は、新たな物語へと続いていくのだった。
【午後8時30分・お開き】
夜風がほんのりと涼しさを運ぶ、午後八時半。
玄関先には、にぎやかな余韻が名残を惜しむように漂っていた。
「今日はほんとに……おもてなし、感謝です」
藤島専務が深く頭を下げると、真奈美がほほえみ返す。
「またぜひ、いらしてください!」
娘たち、美奈子と真美が声をそろえて元気よく言う。
「田中のおじちゃん、また来てねー!」
田中社長はくるりと振り返り、いつもの関西弁でニヤリと笑った。
「次はうちの“社長メシ”や。ワイルドやけど、うまいで?」
「いいですね!」と専務が朗らかに笑った。
今夜の会話がどこか未来へ続くような、そんな気がした。
エンジンの音が静かに夜を割き、車がゆっくりと走り出す。
助手席の竹中顧問はぽつりとつぶやいた。
「……“会社の本質”って、こういうところにあるのかもな」
その言葉に、田中社長は目を閉じ、深くうなずいた。
「せやな。“人が暮らしてる”って、すごいことやな……」
背後の家にはまだ明かりが灯り、夕餉のあたたかな匂いが残っていた。
その小さな灯が、明日の仕事に向かう力になる――そんな気がした。
そして、車はゆっくりと夜の街へと吸い込まれていった。
『エピローグ:男子厨房に入る──行動と価値のデザイン』
―総裁Z・竹中駿也、田中オフィス講話より―
島原家訪問翌日の午後六時、田中オフィスの会議室には、珍しく緊張と期待が入り混じった空気が漂っていた。
会議室の中央、ホワイトボードを背に立つ男は、ゆるく後ろで結んだ白髪まじりの長髪と、黒縁の眼鏡が印象的だった。
元・情報工学教授、そして今や田中オフィスの「最高顧問」である竹中駿也、通称「総裁Z」。
その口から、最初に飛び出した言葉が、会場を静かにざわつかせた。
「“知識は教室に、知恵は食卓に”ですね――」
静かに始まったその語り口は、まるで焚火の火種のように、じわじわと場の熱を高めていく。
「皆さん、こんばんは。総裁Zこと竹中駿也、独身54歳です。」
冒頭の軽い自己紹介に、思わずたまちゃんがくすっと笑った。横で橋本部長も、普段にはない表情で興味深く耳を傾けている。
「さて今日は、“男子厨房に入る”というテーマを、少し真面目に語ってみたいと思います。料理? 家事分担? いやいや、それだけやない。」
彼の語りは、やがて第一章へと進む。
第一章:「料理をする男」が“ブランド”になる時代
「最近、SNSで“男子ごはん”って流行ってるでしょう? でも、大事なのは『なぜその料理を作るのか』なんです。」
竹中は、少し身を乗り出して語る。
「娘と一緒に作るオムライス、一人暮らしで編み出した節約スープ、恋人のレシピを引き継いだアレンジ料理……どれも“意味のある行動”なんです。」
会議室の誰もが、思い当たるようにうなずいている。まるで、家族のキッチンが目の前に浮かぶようだった。
第二章:「男の料理」は、行動経済学でいう“ナッジ”になる
「ナッジって知ってるか? “そっと背中を押す”ような仕掛けだ。」
ホワイトボードに「nudge」と大きく書かれる。
「父親が黙って台所に立つ。それを見た子どもや職場の後輩が『俺もやってみようかな』と思う。これが“行動のデザイン”です。」
稲田さんがぽつりと、「まるで無言の説得ですね」とつぶやくと、竹中が笑った。
「そのとおり。説得より、行動が伝えるんですね。」
その言葉に、たまちゃんが強くうなずいた。
第三章:「男子厨房に入る」は、未来投資でもある
「今や、若い女性の多くが、“料理をする男=理解ある人”と見なす時代です。これは、就職でも恋愛でも、信用に繋がります。」
竹中は小さく肩をすくめた。
「僕は独身ですけど? でも、料理する男は未来への投資家だと胸を張れる。これは“文化資本”なんです。」
そして、結びの言葉が静かな熱をもって、会議室を包んだ。
「料理する男は、ただの趣味でやっているわけではない。それは家庭の中でのイノベーター、人間関係のゲームチェンジャーなのです。」
ホワイトボードに、竹中が最後に書いた文字はこうだった。
「男子よ、フライパンを持て! それが未来の扉を開く鍵だ!」
ざわりと会場が揺れた。拍手が、思いがけず自然に起こる。
たまちゃんがぽつりとつぶやいた。
「なんか……うち、今日から晩ごはん、自分で作ろかな……」
竹中がふっと笑う。
「その一歩が、組織を変える。“知識は教室に、知恵は食卓に”――それを、忘れたらあかん。」
その夜、田中オフィスの面々は、家に帰ってからも「男子厨房」の余韻が消えなかったという。
ーー続くーー