第四十八話、僅かな気遣い、支えられた未来
ーー蝉の声、カレーの香りーー
七月の朝。
遠くで蝉の鳴く声が、街の静けさに重なる。
じっとりとした湿気のなかに、夏の気配が色濃く立ちのぼる。
商店街のシャッターがまだ下りたままの通りを、通勤途中の人々が静かに歩いていく。アスファルトに落ちる影は細長く、まるで過ぎていく季節を惜しむようだった。
田中オフィスの応接室もまた、そんな朝の空気を引きずっていた。
白いレースのカーテン越しに、陽射しが柔らかくさし込んでいる。
伊原隆志は、呼ばれて入ったその部屋で、少し緊張しながら一礼した。
中には、専務の藤島光子と、同僚の島原真奈美が座っていた。
「どうぞ、座って頂戴」
藤島専務が穏やかにイスをすすめる。
彼らがこうして顔を合わせるのは、実に1年半ぶりだった。ほぼ同時期に田中オフィスに加わったふたり。その時間の積み重ねが、今日の話へとつながっている。
「今日は、島原さんと私からお話があるの」
藤島の声は、冷たい麦茶のように静かで澄んでいた。
伊原は少し身を引いた。「え……僕、何か失礼なことでも……?」
島原が口を開く。
「真由ちゃん、小学校になって、初めての夏休みでしょう? 保育園のときと違って、預かってもらえないの、大変じゃない?」
「ええ。でも、真由はしっかりしてるんです。お留守番できるって言ってますし、8月からは民間の学童にお願いするつもりで……」
島原は、少しだけ目を細めて笑った。
「このあいだ真由ちゃん、うちに遊びに来てくれてね。ほんとにいい子。うちの娘たちも、すっかり仲良くなっちゃって……今でも、“また遊びたい”って言ってるの。もし良かったら、お泊まりも含めて、うちで預かれたらと思って……」
「そんな……ご迷惑おかけできません!」
そう言いかけた伊原の言葉を、藤島がそっと引き取った。
「島原さんは、これまで契約社員としてフルタイムで頑張ってくれていたけれど、この夏からはパート勤務に切り替えたいという希望があったの」
島原が続ける。
「この夏、アバスくんっていう子が、田中オフィスで泊まり込みのバイトを始めるの。私が朝から出社してると、食事の支度ができなくて……出社時間を少し遅くしてもらえたら、準備できると思うの」
その提案には、ささやかな優しさの設計図が描かれていた。
——伊原さんが、真由ちゃんを、朝、島原の家に預ける。
——アバスくんには今日のと昼食と夜食、そして明日の朝食を準備する。
——11時に出社して、昼食をアバスくんに出す。その後5時間ほどの勤務して帰宅。
——夕方には伊原さんが真由を迎えにくる。
——時には泊まることもできるようにしておく。
「パートになるとお給料が減ってしまう…それはいけません」と伊原が言うと、島原は優しく笑った。
「食べさせたいのは、アバスくんだけじゃないのよ。私も、娘たちも、真由ちゃんがそばにいてくれることが嬉しいの。ねえ、子ども同士でしか育たない感情って、あるでしょ?」
伊原の目が、ふいに揺れた。
藤島は、目をまっすぐに向けた。
「伊原さん。私たちの会社としてのお願いもあるの。あなたに、正社員として行政書士登録をして、行政書士分野を正式に担ってほしいの。そのため、と言うわけではないけけど、島原さんのお気持ちがこれほどあれば、田中オフィスとして、応援させていただきたいの」
伊原の表情がかすかに陰る。
「……でも、僕は……前科があります」
藤島の声は変わらなかった。静かに、確信をもって答えた。
「確認しました。法的には問題ありませんし、行政書士会も受け入れてくれます。何より、私たちは、あなたを信頼しているの。ずっと、見てきましたから」
*
藤島は行政書士会の理事に相談に行ったときのことを思い出していた。
理事は資料に目を通しながら、藤島の。淡々とした口調で伝えた、その言葉には、誠実に事実を確認しようとする響きがあった。
「……過去の傷害事件による執行猶予期間は終了していて、その後5年を経過してますね。
行政書士会としても、過去の反省の内容が正しく伝われば、登録上の問題はありません。しかも田中オフィスさんの正規社員でいらっしゃれば、支障はないでしょう」
藤島は胸の奥で小さく、安堵した。
*
言葉を継ぐうちに、伊原の肩がかすかに震えた。
——誰かに、真正面から「応援している」と言われたことがあっただろうか。
「あなたは、過去を越えて今を築いている。行政書士とは、人と法をつなぐ仕事です。今のあなたに、ふさわしい役割だと思っています」
しばらく、誰も口を開かなかった。
窓の外では、陽炎のように揺れる光のなかで、蝉の声がかすかに続いていた。
「……娘のためにも、逃げたくありません。受け入れてくださるのなら……全力で頑張ります」
ようやく、伊原は顔を上げて言った。
藤島は、ふわりと微笑んだ。
「それでこそ、田中オフィスの一員ね」
島原も、ふっと柔らかく頷いた。
「じゃあ、さっそく今日の夜、真由ちゃんとうちにご飯食べに来て。カレー、たっぷり作ったのよ。大盛りでも大丈夫だからね」
伊原は、胸の奥が静かにほどけていくのを感じながら、小さく笑った。
「……ありがとうございます。カレー、二人で……ごちそうになります」
そしてその瞬間、彼は肩を落とし、少しだけ、泣いた。
外では蝉が鳴いていた。
夏はまだ始まったばかりだった。
ーー午後の休憩シーンーー
夏の午後、陽が少し傾きはじめた会議室には、涼やかな風がレースのカーテンを揺らしていた。冷房は控えめに、窓から差し込む自然光と、ほうじ茶の湯気がつくる和らいだ空気が満ちている。
田中社長は、手元の湯のみを傾けながら、ゆっくりと話し出した。
「こういうことは、光子さんにまかしておけば安心やなあ」
竹中顧問は静かに頷いた。お茶の香ばしい香りが、ことさらこの空間を落ち着かせる。
「そのとおりです。しかし、これはすべて——島原さんという、すばらしい“人財”のおかげですよ」
田中社長は、少し目を細めて湯のみを置いた。
「ほう、顧問はそこまで島原さんを買うてはるんやな」
竹中顧問は、静かに、だが確かな声で応じた。
「彼女は、介護の現場で長く働いてこられました。お年寄りのちょっとしたしぐさや、言葉にしない気持ちを読み取って、そっと手を差し伸べる。気配りの質が、並じゃないんです。自分ができる最善をもって、その場の空気を整えようとする。その姿勢がね、田中オフィスの中でも、ちゃんと息づいている」
顧問の言葉は、まるで穏やかな小川の流れのようだった。
「まるで……丁寧なマッサージを受けた後のような、そんな感覚に陥りませんか? 体の芯がほぐれて、呼吸が深くなるような」
田中社長はその言葉に、思わず首と肩をゆっくり回してから、茶目っ気を含んだ笑みを浮かべた。
「……なんか、ええ具合になりましたわ」
二人は目を合わせて、くすっと笑った。
静かな笑いが、午後の陽だまりのように会議室に広がる。どこかで扇風機の回る音が聞こえる。仕事の話も、責任の重さも、このひとときには柔らかく包まれて、心がふっと軽くなるようだった。
湯のみの中でお茶の表面がきらりと光った。田中社長は再びひと口、ゆっくりと味わいながらつぶやいた。
「ええ人に、来てもろたなあ……ほんまに」
ーー幸福の扉は重くーー
7年前、伊原の人生は、かつて確かに、静かな幸福の予兆が訪れていた。
行政書士試験に合格し、妻・真澄のおなかには新しい命が宿っていた。
真澄は、声を荒げることのない穏やかな人だった。
仕事から帰ると、いつも小さな湯気の立つ台所にいて、
「おかえりなさい」と、少しはにかんだ笑顔を見せた。
「隆志さんの勉強が終わるまで、赤ちゃんにはおなかで待っててもらうからね」
そう言って、ふわりと彼の肩に手を置いたあの夜を、彼は今でも思い出す。
その手のぬくもりだけで、どんな不安も溶けていった。
娘・真由が生まれた日。
小さな手が、泣き声とともにこの世界に現れた日。
それは、伊原にとって祝福そのものだった。
けれどそのわずか数日後、真澄は急変した。
妊娠中に進行していた病が、産後に一気に牙をむいたのだった。
病室のカーテン越しに差し込む光の中で、真澄は微笑んでいた。
「この子を……たくさん、抱いてあげてね」
それが、最後の言葉になった。
何かに呪われているようだった。
せっかく手にした資格も、夢も、家庭も、すべてが崩れていくように感じた。
だが、泣き続ける小さな命だけは、彼の腕の中に残された。
その命を抱いて、伊原は毎日を必死に生きた。
朝は保育園、日中は倉庫で肉体労働。夜は小さなアパートで、真由の寝息に耳をすませながら行政書士の資料を読み返した。
その手を離したら、もう自分は生きていけない。
そう思っていた。
ーー炎暑の倉庫ーー
倉庫は、朝からもう灼熱だった。
妻を亡くしてから、伊原隆志は乳飲み子を抱えて必死に働いていた。もう少しの辛抱で状況は変わるはずだと自分に言い聞かせていた。
金属製の壁は容赦なく太陽を浴び、内側からじんじんと熱を吐き出す。
フォークリフトの排気、機械油のにおい、そして人間の汗が、空気の中でぐるぐるとよどんでいた。
空気は薄く、時間は重い。
伊原隆志は、手のひらの汗を軍手越しに感じながら、それでも鉄骨の鎖を握った。
もう10本目だった。
この猛暑の中で。
この倉庫で。
真由の寝顔が、ふっと浮かんだ。
昨日の夜も熱を出して、眠れなかった。
何度も背中をさすって、「大丈夫だよ」とささやいた。
あの小さな耳に届いていたかどうかは、わからない。
「伊原、例の梁、午後イチで移動させとけ」
現場責任者の福本が、ペンを咥えながら吐き出すように言った。
伊原は、振り返って首を傾げる。
「あれ、補助いりますよ。一人じゃ無理です」
福本は鼻で笑った。
「お前、資格あるんだろ? 一人でできんだろ」
その目は命令の形をしていた。
返事をする間もなく、福本は事務所へ戻っていった。
*
午後一時。
空気がもっとも重たくなる時間。
伊原は、一人で梁を吊った。
チェーンブロックを操作しながら、心の中では何度も手順を確認した。
だが、片方がわずかに傾いていた。
「……やっぱ、ダメや。誰か呼ばんと」
そう思って声を出しかけた瞬間だった。
ガッッシャン――!
金属の鈍い悲鳴が空間を裂いた。
梁の端が足場を直撃し、そのまま崩れ落ちた。
誰も下にいなかったことが、奇跡だった。
ほんの数秒、ほんの数歩。
ずれていれば、命が消えていた。
*
事故の30分後。事務所には、冷房の効いた静寂があった。
安全担当と福本が、報告書の前で難しい顔をしている。
「伊原の独断です。指示には従っていなかったようです」
福本の声は平然としていた。
報告書に記された一文。
勝手な行動により、重大事故を引き起こしかけた。
安全確認を怠り、規定手順を逸脱したのは伊原の判断ミスによる。
伊原は、その文面をただ、じっと見つめていた。
震えていたのは怒りではない。
怒りの下に隠れていたのは、深い疲れと、静かに崩れていく自分自身だった。
「命綱、違う場所に掛けてたら……落ちてたかもしれんぞ」
現場の環境は明らかに危険だった。
けれど、伊原が我を忘れた理由は、危機そのものではない。
「伊原が勝手にやったことです。言うこと聞かんのですわ」
すべてがすり替えられ、押し付けられる。
謝罪もなく、誠実さもなく。
乳飲み子を抱え、体を削りながら働く者に、なぜここまでの仕打ちが降るのか。
報告書には、書かれない。
熱を出した娘を背負って出勤した朝のことも。
妻・真澄を失ったあの日から、ただ一日も心を緩めなかった時間のことも。
「……なんやて?」
伊原の背中がぴくりと動いた。
耳の奥で、何かが音を立てた。
「だから、君の判断ミスや。おとなしくサインしてくれんか?」
視界が赤く滲んだ。
乾いた口の奥に、鉄のような味が広がっていく。
――ドンッ!
拳が振り抜かれた。
福本の頬を撃ち抜き、椅子ごと倒れたその体から、血が一筋、唇を伝って落ちた。
「……あんた、それでも人間か……」
伊原の声は、遠くから誰かが言っているようだった。
*
その日の夕暮れ。
交番の留置所の中、伊原は、狭いベッドの上で頭を抱えていた。
「……やってもうた……」
外では、蝉が鳴いていた。
まだ七月。
夏は、始まったばかりだった。
彼の鞄の中には、行政書士試験合格の通知。
行政書士免許証はまだ手にしていない。
伊原は、娘の顔を思い出しながら、目を閉じた。
そして静かに、涙をこぼした。
ーー田中オフィスの扉ーー
何回目かの秋の気配を、朝の風が、少しだけ運んできていた。
伊原隆志は、保育園の門を出たあと、真由のいなくなったチャイルドシートを後ろに残したまま、ゆっくりと自転車を押していた。
「お父さん、がんばってね」と小さな手がふってくれた笑顔が、胸の奥にまだ温かく残っている。
でも――
胸の重さは、その温もりだけではない。
前科者、という言葉が、日々の生活のどこかに潜んでいる。
履歴書にも、面接にも、書かずにはいられない「一行の現実」。
裁判官に言われた「更生の余地がある」などという文言が、いかに空虚か、働こうとするたびに知る。
その日も、なんとなく坂を下っていたときだった。
ふと、ある掲示板に目がとまった。
「司法書士事務所スタッフ募集
行政書士資格保有者 優遇
あなたの経験が活かせます。」
……オレの経験?
思わず笑いそうになった。
経験といえば、倉庫作業と、取調室の冷たい椅子の感触しかない。
でも、そのときだった。
「田中オフィス」という名前に、なぜか目が留まった。
紙面には「地域密着」「相談できる法律の窓口」――そんな言葉が並んでいた。
オレが法律の仕事……
まさか、な。
そんな甘いもんじゃない。
でも、数日後、足は勝手に動いていた。
気づいたときには、自転車のスタンドを立てて、ビルの一階、ガラスの向こうの明るい空間をのぞき込んでいた。
緊張で手汗が出る。
逃げるように戻ろうかと思った。
そのとき、ドアを開けて中から一人の若い女性が声をかけた。
「ご用ですか?」
その声に、伊原は立ち尽くした。
やわらかな、けれど背筋の伸びた声。
どこかで聴いた、記憶の中にあるような声だった。
「いや……求人の紙を、見て……。資格は、あるんです。……でも、ちょっと……事情があって……」
言葉が詰まりかけたとき、女性は優しく微笑んだ。
「でしたら、社長におつなぎしますね。少々お待ちください」
その一言が、胸の重さを少しだけ軽くした。
田中オフィスの扉が、音もなく、開いた。
ーー扉の前の人ーー
ビルのドアが、再度控えめな音を立てて開いた。
「どうぞ、お入りください。」
柔らかい関西訛りの声に、伊原隆志は、少し驚いた。
さっきまで曇っていた心に、急に光が差したような感覚だった。
目の前に立っていたのは、20代後半くらいの女性。
セミロングヘアーに、アイボリーのカーディガンを羽織っている。
優しい目元と、背筋の通った立ち姿。どこか“看板娘”のような安心感がある。
「求人広告……見て……。あの、資格は……あるんですけど……」
言いながら、自分でもその言い訳が空虚に感じていた。
でも、その女性は――メグ姐さんは、そんな言葉には耳を貸さない風だった。
彼女のまなざしは、もっと深く、もっとずっと奥を見ていた。
「ふーん、ええやん。資格あるなら、話は早いわ。うちの社長、ちょっと変わっててな。そんなんでも、喜ぶかも知らんで?」
「そんな、‘そんなん’って……」
思わず伊原が笑った。
そのとき、背中の荷物がほんの少し軽くなったように思えた。
まるで、誰かに「ここまで来たなら、あとは行き」と背中を押されたようだった。
「まぁ、とりあえず、名前教えて。わたし、佐々木。佐々木恵やけど、ここでは“メグ姐さん”って呼ばれてる。アンタも好きに呼んでや」
「……伊原です。伊原隆志。娘がひとり。まだ一歳です。
妻に先立たれて、シングルファーザーやってます。」
「そうですか……よぉがんばらはったんやなぁ」
そう言ってくれたメグ姐さんの声に、なぜか胸の奥が、じわっと熱くなった。
誰にも言われたことがなかった言葉だった。
メグ姐さんが手をひとつ叩いた。
「ほな、社長に会ってみよか」
――こうして、伊原隆志の“第二の人生”は、静かに、確かに、動き始めたのだった。
ーー扉の向こうにいた人ーー
応接スペースの椅子に座った伊原隆志は、まるで異物のように場に溶け込めずにいた。
目の前のガラス机に置かれた書類、時計の音、誰かの足音。
すべてが、自分とは無関係な世界の音に思えた。
緊張というより、居場所のなさに似た感覚だった。
ふと、奥のドアが開いた。
パタパタと歩く靴音。そして、柔らかく丸みのある関西弁。
「おまたせしました〜。ようこそ、田中オフィスへ」
伊原が顔を上げたその瞬間、目の前にいたのは、スーツの下から少し腹の出た中年の男だった。
白髪交じりの髪を撫でつけ、やや擦れた声で笑みを浮かべている。
田中卓造。
司法書士であり、この事務所の社長。
「いやあ、よう来てくれはりました。履歴書もありがとさん」
笑いながら差し出された手は、想像よりずっと温かかった。
だが――
その目だけは、笑っていなかった。
にこやかに座りながら、田中は履歴書に目を通す。
伊原の名前の欄に、ゆっくりと親指を乗せたかと思うと、次の瞬間には視線がスッとこちらへ戻ってきた。
そのわずかな目の動きで、伊原は「見透かされた」と思った。
(なんや、ワケありやな)
田中の心の奥で、そんな声が静かに転がっていた。
それでも表情には出さない。
むしろ、笑顔をもう一段階深くして、こう言った。
「せっかく来てもろたんやし、ちょっと話、聞かせてもらおか」
伊原はうなずいた。
すでに、自分のすべてを見られた気がして、逆に腹が据わった。
簡単な面談が始まる。
言葉の間合い、手元の動き、視線の行き先──
田中は一見ゆるやかに、けれど正確に“人物”を測っていた。
一方の伊原は、たどたどしく、けれど正直に言葉を選びながら話していた。
「今日は書類だけ受け取っておきます。ほかにも希望者がいてはりまして、
面接はウチの人事担当役員と一緒にやりますので、日にち予定いれられますか?」
部屋に差し込む午後の光が、ガラス机に静かに広がっていた。
ーー帰り道の陽だまりーー
夕方の陽が、街の端にゆっくりと沈んでいく。
伊原隆志は、作業着の裾を軽く払ってから、保育園の門をくぐった。
今日の清掃現場は老人ホームの厨房だった。蒸気と油と洗剤の匂いがまだ体に染みついている気がする。
「……真由ちゃん、パパお迎え来たで」
玄関のベンチにちょこんと座っていたのは、小さなリュックを抱えた少女だった。
伊原を見上げると、真由はふわっと笑った。
「お父さん、今日もおつかれさまでした」
その一言が、どれだけ父の心を軽くしているかを、彼女はたぶん知らない。
あるいは、知っていて――言っているのかもしれない。
真由。五歳。絵本が好きで、少し大人びた子。
けれどそれは、生まれ持った性格だけではなく、環境が彼女にそうさせていた。
母は、真由が生まれて間もなく、病でこの世を去った。
記憶の中に、母の声も匂いも残っていない。
あるのは、無言で読みかけの文庫本をめくる父の背中と、夜中に時折漏れる、かすれたため息の音。
その音を聞いて育った真由は、言葉より先に「沈黙を読む力」を身につけた。
だから、お腹が空いても「大丈夫」と言う。
寂しくても「平気」と笑う。
ランドセルが重くて肩が痛む日も、「お父さんには言わない」と決めている。
我慢しなさい――とは、誰にも言われたことがない。
けれど、父が辛そうに笑う姿を見るたびに、自然と覚えてしまった。
「我慢すれば、好きでいてもらえる」と。
そんな真由が、絵本を読むのが好きなのは、そこに「感情をゆるしてもらえる世界」があったからかもしれない。
泣きたいときに、誰かの物語のなかで静かに泣く。
怒りたいときに、登場人物の怒りに寄り添ってみる。
そうして、自分の気持ちを、少しずつ、こっそりと昇華させてきた。
帰り道、真由はランドセルの代わりに、借りてきた絵本をぎゅっと抱えて歩いていた。
「今日、読んだのはね、“ミミ”っていう本なの。“思い出のどろぼう“が出てくるんだよ」
「ほぉ。“思い出のどろぼう“、か。そんなん、お父さんゆるさへんで」
伊原が笑ってそう言うと、真由も少しだけくすっと笑った。
けれど、伊原の笑顔の奥には、いつも影のような不安が見え隠れしていた。
清掃の仕事を掛け持ちし、体調と相談しながら生きる日々。
疲労を抱えながらも、娘にだけは「不安」を見せまいとする男の顔。
そして真由も、それに気づいている。
だからこそ、“賢く”あろうとする。
でも、その賢さは――
まるでガラスのように繊細で、透明で、そして、脆い。
父に「手のかからない子」として映るために、
真由は、自分の小さな“わがまま”や“本音”を、
いくつも引き出しの奥にしまい込んでいた。
本当はもっと甘えたい。
抱きしめてほしい。
保育園のリュック、今日は重たかったよって、ただそれだけを言いたい。
けれど、言えない。
だって、自分が泣けば、お父さんはもっと辛そうな顔をするから。
そんな伊原を、田中オフィスが迎えることになる。
子供の送り迎えがあるので、当面はパート勤務であった。
そこにいるのは、世話好きな佐々木、優しい稲田、頼れる橋本――
そして、ちょっと変な関西弁の田中社長。
真由にとって、初めて「父以外の大人に安心して甘えられる場所」になるかもしれない。
時間をかけて、彼女のなかの“静かな世界”が、
すこしずつ、色づいていくように。
それを、父もまた――
祈るような気持ちで、そっと見守るのだろう。
陽は傾き、ふたりの影が並んで、長くのびていた。
ーー晴れて、社員になった日ーー
田中オフィスの応接スペース。
午前中の陽が、窓から机の木目をなぞるように差し込んでいる。
伊原は、手渡された書類に、黙ってペンを走らせていた。
就業規則、雇用契約書、給与の振込口座――
一通りの手続きが終わり、ふぅと息を吐いたとき、向かいの席から、田中社長がぽつりと口を開いた。
「伊原くん。……ほんま、すまんかったな」
「え?」
伊原が顔を上げると、いつも飄々とした社長が、珍しく伏し目がちだった。
きちんとアイロンのかかったワイシャツの袖口を、もぞもぞと指でつまみながら、続けた。
「……うちに来てくれてから、真由ちゃんのこと……しんどかったやろ。
ワシ、全然知らんと……アバスくんが来てくれて、島原さんがパート希望してくれて……
そのおかげで、気ぃついたんや。あんた……ギリギリのとこで、頑張っとったんやな」
伊原は、一瞬何かを言おうとして、やめた。
言葉よりも、胸の奥にじんわり広がるものが先だった。
「気ぃ利かん社長でな。ほんま、面目ない。
でもな……よう踏ん張った。ウチの社員になってくれて、うれしい。ありがとうな」
握手でもなく、肩を叩くでもなく、田中社長は静かに頭を下げた。
その姿を見て、伊原はようやく言葉を見つけた。
「……ありがとうございます。社長に、出会えて私と娘は救われました」
その瞬間、応接のドアが控えめに開いた。
「すみません、お茶、淹れなおしました」
メグ姐さんが盆を手に現れる。タイミングの鬼である。
「あら? 何この空気。契約更改かと思ったら、辞令の涙会?」
「ちゃうちゃう、喜びの新章スタートや」
そう言って、田中社長が顔をあげる。
ようやくいつもの、ちょっとズレた笑顔に戻っていた。
――田中オフィスに、また一人、"本当の仲間"が増えた。
ーー支え合いのかたちーー
午後の帳簿確認を終えたあと、藤島光子専務は社長室をノックした。
返事はない。だが中に人の気配がある。
そっと戸を開けると、田中社長が椅子に座り、ぼんやり窓の外を眺めていた。
「社長、そろそろ週次報告の…」
「光子はん」
唐突に、社長が声を発した。
「……見ての通りや。昔から、なんも進歩しとらん。ワシはな……みんなの支えがなかったら、立ってもいられへんのや」
その背中は、普段の賑やかな社長の影を潜め、妙に静かだった。
「伊原くんにも、島原さんにも、真由ちゃんにも……助けられとるのに、何にも気ぃつかんと、えらそうな顔して、社長面しとるだけや」
しばしの沈黙。
光子は黙って社長の背中を見つめていた。
やがて、ゆっくりと歩み寄り、デスクの横に立つ。
「――それで、いいと思いますよ」
社長が、ぽかんと振り返る。
「田中オフィスは、支え合いでできてます。
社長が“支えてもらってる”ことを、ちゃんと認める人だから……人が集まってくるんですよ」
藤島の言葉は、冷静で静かだったが、あたたかかった。
「進歩してない、なんてご謙遜。
社長が“頼れる人たちを信じて任せる”ようになったのが、何よりの進歩じゃないですか」
「光子はん……」
田中社長は、肩をすくめ、鼻の頭を掻きながら、ようやく笑った。
「……ワシはあんたに言われたら、逆らわれへんのや」
「それも、進歩ですよ」
そう言って藤島専務は、机の上の書類に目を落とす。
それは、田中オフィスのこれからの青写真。
誰か一人の力じゃない。支え合う、ひとつのチームとしての物語。
社長の目も、その設計図に向けられた。
ーー続くーー
伊原さんの何が危機なのか、説明が足りませんでした。ここで、簡単に記載させて頂きます。伊原さんは、娘さんの保育園送り迎えでパート勤務を選び、低収入。夏休みの学童保育に、民間の保育所しかなかったので、月5万円くらいかかる。娘が寝た後、バイトをする(夜間工事など)。無理をすれば、本業に支障を来すかもしれない(体調にも)。田中社長は、これを危機と感じたということです。