第四十七話、Sセミナーの新しい仲間
ーーSセミナー夏期講習初日ーー
夏の朝の教室には、まだ少しクーラーが効ききっておらず、扇風機の風がカタカタと音を立てて回っている。
昨日は初日のあご挨拶であったが、土曜日ということもあり、Sセミナーの講習のやり方、貸与パソコンのログインの仕方、補助学習ツールのアプリ「さきどり・スクエア」の説明などが、武田徹講師によって行われただけであった。今日は月曜日で実質初日となる。
だが、その静寂は突如として破られた。
「おっ、来た来たーっ!」
バンッ!
教室のドアが勢いよく開き、ひとりの少女が飛び込んできた。
三つ編みの髪が跳ね、背負った大きなリュックには「関西子ども探検隊」のワッペンが派手に縫いつけられている。動きも声も、すべてが“突風”のような存在感だった。
「うわっ、びっくりした!インドの人ですか?すっご!初めて会った~!」
少女の目は、教室の窓際に立っていたひとりの少年に釘付けだった。浅黒い肌に端正な顔立ち、やわらかなウェーブの黒髪の青年は、まさに異国の風をまとっていた。
「あっははは!うーん、男前だね!……アウアーユー?って言っとこか、一応」
驚きと興奮が入り混じった様子で、少女は少年の顔をのぞきこむ。
「今日から僕もここで勉強するので、よろしく。名前はアバス・シャルマといいます。東京都足立区生まれ、日本育ちです。普通にお話できますよ」
にこりと微笑むその表情は、どこか余裕すら感じさせる。何よりその日本語――あまりに流暢で、美しい発音。
「わーお……」
少女は口をあんぐり開けた。
「日本語吹き替えの映画みたいね……。口の動きと声が合ってへん気がするわ。ほんまにあんたの声なん?」
アバスは穏やかに微笑み続けている。
「君もSセミナーの塾生なんですよね。よろしくお願いします。お名前、聞いてもいいですか?」
その丁寧で礼儀正しい物腰に、少女は一瞬だけ目を丸くした。
「……まあ、感じええやん。ちょっと見直したかも!江本愛子、楽浪高校1年や!よろしゅうに!」
照れ隠しのように胸を張って名乗る彼女に、アバスはぺこりと一礼して応じた。
「僕は東京の区立足立高校2年、夏期講習の間だけ京都にいます。宿泊先は田中オフィス。そこでアルバイトもしています」
「えっ、田中オフィスって、あの法律事務所の?」
目を見開く愛子。その瞬間、教室のドアが再び開いた。
今度入ってきたのは、ガタイのいい男子高校生が二人。
「おおっ!?なに?タイガー・ジェット・シンか?それともグレート・ガマ?」
闘魂のロゴが大きくプリントされたTシャツを着た少年、前田明男が声を張り上げる。プロレスオタクで、学ランが似合いそうな昭和風の熱血男子だ。
その背後でニヤニヤしているのは、少し長めの髪にスリムな体型。関西TCG界の異端児――丹波哲。
「へぇー、うちにもインドっぽいやつ来るなんて聞いてないよ。TCGの腕前、見てみたいねぇ」
そう言いながら、哲は鞄の中からデッキケースを取り出し、ニヤリと笑った。
「デュエル、勝負する?」
なぜかポーズまで決めている。
アバスは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに落ち着いた声で返した。
「僕、TCGはやらないんです。けど、ドローンのコントロールには自信がありますよ」
「……なんやそれ、かっこええな」
ぽつりと愛子がつぶやいた。
前田は腕を組み、「おー、燃える展開やな」とうなずいた。
こうして、夏のSセミナーが幕を開けた。
東京から来た天才高校生・アバス・シャルマ。その静かな存在感を中心に、クセの強い仲間たちとの「ひと夏の物語」が、今動き出す――。
ーー塾長夫妻登場ーー
京都の町家を改装した進学塾――Sセミナーの扉が、静かに開いた。
「やあ、みんな、来てくれたわね。これからよろしくね……」
優しい声とともに姿を現したのは、ふわりと白いシャツにジーンズ、その上から色あせたエプロンをまとった女性だった。
彼女が武田美月、このSセミナーを率いる塾長である。
だが、その装いと雰囲気は、いわゆる進学塾の“カリスマ塾長”とはほど遠い。優しく笑うその表情からは、家庭科室の先生か、小さなカフェのオーナーのような親しみやすさすら漂っている。
室内にいた四人の高校生たちは、扉が開くと同時に立ち上がって、そろってお辞儀をした。
すでに一昨日、面談を済ませていたアバス・シャルマは、軽く一歩前に出て丁寧に頭を下げた。
「塾長、こんにちは。今日からよろしくお願いします」
「アバスくん、改めてようこそ。昨日はパソコン周りの整理まで手伝ってくれて、ありがとうね」
「いえ、すばらしいシステムを導入されていらっしゃいますね。ここでこれから講習を受けるのが楽しみです。」
その丁寧な返答に、美月の目がやさしく細められる。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。うちでは、気楽にやってってね」
そのとき、アバスの隣から元気な声が割り込んできた。
「ご主人の徹さんは、講師の補助とかしてはって、塾長は奥様の武田美月先生の方なんよ!」
なぜか自分が紹介役のようにふるまって、愛子が胸を張る。
「そうなのよ、フフフ...」と塾長が笑ったそのとき、背後から軽やかな足音とともに、男性の声が重なった。
「―――武田塾長が本体やけど、僕は裏方。教材印刷から冷房の修理、塾生の悩み事相談事まで、だいたいなんでもおまかせだ!」
声とともに姿を現したのは、シャツの袖をまくった細身の男性。黒縁の眼鏡をかけたその人こそ、Sセミナー副塾長にして“影の万能人”、武田徹であった。
冗談めかして肩をすくめる彼に、アバスは微笑みながら言った。
「すばらしいチームワークですね」
その言葉に、徹は鼻の頭をぽりぽりと掻き、少し照れたように笑った。
「まぁ、言うてみれば、僕は“セミナーの便利屋”やな。夏は特に忙しい。コピー機と仲良くしとるよ」
アバスは、そんな徹の立ち振る舞いに一瞬だけ目を細めた。機械に強いだけの裏方ではない――その背中からは、塾生たちに対する細やかな気遣いと信頼感が滲んでいた。
「なるほど……。ここは、新しい取り組みの塾なんですね」
アバスのそのつぶやきに、愛子がうんうんと大きく頷いた。
「せやで!Sセミナーは“京都の注目株”なんやで!でもな、先生らはほんま、サムライみたいやねん。うちらも、負けへんけど!」
“サムライ”という言葉が、ふとアバスの胸に残った。
ーー文一、飛翔す 、珠実と水野先輩ーー
彼を紹介する前に、その誕生エピソードをお知らせしておきましょう。
話は少し前に戻りますが、田中オフィスがSセミナーの会社設立とシステム構築をサポートをしている頃、田中オフィスの一角の風景。オフィスのPCモニターを前に、熱気とは裏腹に静かな集中が流れていた。
「えっと……文一、文一……このロジックの分岐点、ちょっとやり直そうか……!」
奥田珠実はTシャツの袖で汗をぬぐいながら、キーボードをパチパチと叩いていた。スクリーンには、文鳥のシンプルなキャラクターが表示されている。名前は“文一”。
AIによる学習支援ナビゲーター。Sセミナーの受験アプリ「さきどり・スクエア」に搭載される、新しい“仲間”だ。
たまちゃんの後ろから水野先輩が声をかけた
「たまちゃん、進捗どう?」
司法書士であり公認会計士でもあるクールな知性派。だが、たまちゃんにとっては、尊敬と憧れが詰まった“永遠の兄貴分”だった。
「せ、先輩!今、ちょうどいいところに!文一、完成間近です!」
「おっ、それは頼もしいな。あの……文鳥のキャラだよね?」
「はい。AIの中核ロジックは半田さんが作ってくれたんですけど……キャラ設定は、私が、こっそり……」
水野は少し首をかしげた。「こっそり?」
たまちゃんは立ち上がって、PCの画面を彼に見せた。
「実は、文一って名前……先輩の“幸一”からいただきました」
水野の目が少し見開かれた。
「え? ああ……文鳥の“文”と、俺の“幸一”?」
「はい。水野所長みたいに、冷静で、でもすっごく優しい、そんなAIにしたくて……!」
「……たまちゃん」
「私がこのオフィスに来て、一番最初に“この人すごい!”って思ったの、水野先輩なんです。難しい話も、私にちゃんと噛み砕いて話してくれて……あのとき、本当に救われたんです!」
ちょっと顔を赤らめながら、たまちゃんは続けた。
「だから、“この人みたいな存在”が、全国の受験生に寄り添えたらいいな、って思って……勝手にモデルにしちゃいました」
水野は、しばし無言で画面の文一を見つめた。シンプルな線の中に、たしかにどこか、彼の静かな知性が宿っているような雰囲気があった。
「……うん。なんか、悪くないな」
「えへへっ、ありがとうございます!」
「でも、俺って文鳥顔かな?」
「いえ、顔は、まあ...モデルにしてません!人格だけです!」
ふたりの笑い声が、オフィスの壁を越えて広がった。
その数日後、「さきどり・スクエア」はSセミナーの塾生にリリースされ、文一は受験生たちのスマホの中で、優しくも的確なアドバイスを届けはじめた。
夜中に涙ぐむ受験生のチャットに、文一はこう答えた。
「焦らなくていいよ。君の歩幅で、ちゃんと前に進めてるから」
それは、まるで水野先輩の声のようでもあった。
《あとがき》
文一は、たまちゃんの手で生まれ、水野先輩の“在り方”から形作られた。
ドラえもんじゃない。
でも、確かに誰かを救える存在だ。
そして、田中オフィスには今日も、
誰かの“文一”になろうとする仲間たちが集まっている。
以下は、文一からのメッセージです。初回起動時に流れます。
「10代後半って、成長して大人になる最終局面。自分が抱える悩みもある、将来に対する不安もある。人を好きになる気持ちも芽生える。人生でいちばん不安定で、感情も揺れる年頃に、“人生を左右するかもしれない試験”を受けなさい」と言われる。
受験勉強って、どんな無理ゲーム?それとも罰ゲーム?」
「ぼくの役目は、
“この受験というゲームがひとりプレイじゃない”って、
伝えることなんです。」
「生成AIができるのは、たった一言の『わかるよ』だったり、
ちょっとした『こっちのルートもあるよ』の提示だったり。
でもそれで、『自分を責めずに済む夜』があるなら、
それはきっと、世界中の受験生にとって必要なものだと思います。」
「無理ゲーに見えるステージを、
『物語のワンシーン』に変える——
それがSセミナーの挑戦であり、
文一の使命でもあります。」
ーー使ってみよう!さきどり・スクエアーー
担当:武田徹(講師アシスタント)
「ええか〜、このアプリ、問題演習だけやと思ってたら大間違いやで?恋バナでも人間関係でも、なんでも来い。ちょっと試してみよか!」
(画面に打ち込む)
【質問フォーム】
クラスの野球部の男子が気になって、勉強に手がつきません。話しかける勇気がありません。文一、アドバイスを。
◇送信…
◆思考中…
文一よりお返事(吹き出し風)
◆「“恋”というのは、脳の中で“やる気ホルモン”と“妄想ホルモン”がフル回転してる状態なんですよ〜。つまり、集中できなくなるのも当然です。正常です。むしろ元気。」
◆まずは“あいさつ”から。話しかけるって、しゃべることじゃなくて“存在を認識してもらう”ことです。
◆たとえば、「おはよう」と1日1回言えたら、それだけでその日は100点満点です。
・文一のおすすめステップ:
① 無言でニコッ(これ大事)
② 目が合ったら、うなずく(会釈)
③ 次の週に、「おはよう」か「暑いですね〜」で突破
◆最終奥義:「プリント落としたふり作戦」は古典ですが、まだ有効です。成功率58%です(文一調べ)
◆それでもドキドキしすぎてムリ!ってときは、まず“その気持ち”を、ぜんぶ紙に書いてみて!
じつはそれ、“ラブレター”の原型だよ〜。
武田徹先生の補足:
「な?すごいやろ?この子(文一)はな、AIやけど恋愛経験値は謎に高いんや。しかも“勉強との両立”を前提にしてくれるんが頼もしいやろ」
「悩みがあったら、とりあえず聞いてもらってみ。心が整うと、脳も勉強モードに戻りよるからな」
◇文一メモ:
◆恋をしてる時の脳は、“受験期の集中モード”に似ています。
うまく燃料にできれば、恋は“学力ブースター”にもなるんですよ〜。
ーー5位以内の男ーー
夏季講習の一時限が終わり、休憩時間。
「聞いてくれよ、お前ら……! 俺、期末テストでな――学年5位以内に入ったんだぜっ!」
教室の壁に貼られた英単語カードが、一瞬ひるむように風に揺れた。声の主は、前田明男。筋肉と日焼けがトレードマークの、見るからに体育会系な高2男子。制服の袖からはみ出す二の腕は、まるで柔道部かボディビル部からの刺客のようだ。
「え……うそやろ……」
丹波 哲が思わずつぶやく。カードゲームを握りながら目を剥いた。
「いや、それ“マジで言ってる”って顔してるな、お前……」
「マジだっつーの!」
前田は胸をどん、と叩いた。嬉しさが体の外にはみ出してる。「闘魂」と書かれた筆文字が、Tシャツから3Dで飛びだしそうだ。
「このSセミナー通い始めてからだよ。美月先生の授業も、徹さんのアドバイスも、何か全部がガチでハマってきて……そしたら授業ついていけるようになってさ。で、気づいたら……ほら、5位!」
リュックの中から、くしゃくしゃの成績表を取り出す。
丹波はじっと見て、それから鼻で笑った。
「へー。国語と社会はまあ納得やけど、英語……なんでこんな点取れてんねん?」
「文一にアドバイスもらってさ、“単語や熟語を覚えるんじゃなくて、文章のまんま5回音読”って言われてさ……」
「それ、リーディング・リスニング強化策やな」
轟音のような笑い声が起こった。
「すごいよ前田くん!ガハハハッ」
ぱっと顔を明るくして、江本 愛子が前田の手を取る。
「最初、“英語って単語覚えたら使えんの?”とか言ってたじゃん!」
「いや、あれはほら、戦略的発言ってやつ?」
笑顔のまま照れる前田。その頬には少しだけ、夏の疲れと誇りが混じっていた。
「夜の自習室で、前田くん、音読しながら腕立てしてたもんな~」
「……それ言うなよ恥ずかしいだろ!」
アバスは前田をしっかり見て称えます。
「でも結果をだしましたね。努力って、こういうことなんだなって思います」
その言葉に、教室の空気が少しあたたかくなる。
「ま、だからさ――」
前田は背筋を伸ばして、みんなを見回した。
「次は……一位、取るぞ。できるかどうかじゃねえ、やるんだよ! って、ここで習ったからな!」
その言葉に、誰よりも先に拍手をしたのは江本だった。続いて、アバスも小さく手を叩く。丹波は腕を組んだまま、ニヤニヤしていた。
「ほな、次の模試。ワイも負けへんで」
「おっ、勝負か? のぞむところだぜ!」
――夏の光が、教室の窓から差し込む。
期末テストで5位以内に入った男、前田明男。
けれど本当に変わったのは、成績だけじゃなかった。
この教室で仲間と笑い、努力を言葉にできるようになったその心が、彼の一番の成長なのだった。
ーーカードと吾輩。クラス一位ーー
「……っしゃ」
丹波 哲は、自分の手元の答案用紙を見て、ゆっくりと拳を握った。
クラスで――いや、全体でも上位だった。特に英語は、トップだった。
あの前田が、驚いた顔でこっちを見ている。
「お前、英語マジで一位なんか……!? どないしたんや、いつの間に……」
丹波は鼻で笑った。
「ん。努力と、戦略や。あと、文鳥な」
「ぶ、文鳥……?」
そのときの前田の顔。
理解が1ミリも追いついてない、見事な「ぽかん顔」。丹波はそれが快感だった。
ことの発端は、夏期講習が始まってまもなくのことだった。
丹波は、Sセミナーの「学習相談タイム」で、徹さんにこう言われた。
「君、英語、好きにはなれなさそうだけど……TCGは好きだよね?」
「はい。大好きです」
「じゃあ、いっそ極めてみなさい。“英語版”で、ね」
その言葉に、丹波の中で何かがひらめいた。
家に帰って、すぐに英語版のカードセットをAmazonでポチった。
《Dragon of Cinders》
《Flareblade Phantom》
《Silence Ward》
漢字もルビもない、まっさらな英語カードたち。
だけど構文は似てる。ゲーム用語は限定されている。
そして何より、「かっこええ」。
「よし、読むぞ……読んで、勝つんや」
カードを読み上げながら、同時に「さきどり・スクエア」のスキャナモードでカードをOCRにかける。すると、あのナビゲーターが画面に現れた。
◆「吾輩とデュエルだ! 本日の課題文は《Flareblade Phantom》の効果文!」
◆「【対象】the opposing player's Spell Card が場に存在する時…さて、動詞はどれかナ?」
「お、おぉ……文鳥が、しゃべった……!」
以来、丹波は、英語カードと文鳥とのガチンコバトルの日々となった。
夜な夜な、机にカードを並べ、文鳥に挑まれ、うなりながら答える。
◆「My talon is mightier than your tongue.(吾輩の爪のほうが、お前の舌より鋭いぞ)」
◇「ほざけ……! But the pen is mightier than the sword.(ペンは剣より強し、や!)」
次第に、丹波の脳は「英語を読む=勝つための思考」に変わっていった。
学校の英文も、なんだかカードっぽく見えてくる。
文法が“効果処理”になり、語彙が“戦力”になった。
そして迎えた、期末テスト。
文法問題も、読解問題も、丹波にはまるでカードのルール説明のように感じられた。構文を見た瞬間、脳内で《文鳥バトルシミュレート》が始まるのだ。
◆「It is important that he be there…この仮定法、見逃したな?」
◇「Nope。原形動詞! そこは絶対、はずさん!」
結果は、英語満点。
「まぐれや」と言う奴もいたが、丹波は内心ふふんと笑った。
「まぐれで文鳥に三連勝は、できへんねん」
Sセミナーの一角で、英語の答案を見ながら嬉しそうに鼻を鳴らす丹波に、武田美月が声をかける。
「哲くん。英語、好きになった?」
「……んー、まぁ、せやな」
彼はちょっと照れくさそうに目をそらすと、
カードの1枚を机にパチンと置いた。
《Friendship Pact – 英語で語る未来》
「たぶん、ちょっとだけ、英語が“味方”になってきた気ぃするわ」
ーーアイドル探検家、東大経由で。ーー
「ウチ、決めてん。東大卒のアイドルになって、世界の秘境に行くんや!」
江本愛子が、教室の真ん中で、矯正中の歯をきらりと光らせながら笑った。
「……なに言い出してんねん、また急に」
呆れたように眉をしかめたのは丹波 哲。けれど、内心ではちょっとワクワクしている。
アバス・シャルマがそっと尋ねた。
「アイドルって、歌って踊るほうですか? それとも……」
「どっちもや! 歌って踊って、トルコのカッパドキアで気球にも乗る!」
その勢いに、前田明男が口をポカンと開けた。
「か、カッパ? ドキア……?」
「カッパドキアや! 世界遺産! ほら、奇岩群! 穴あき山! トルコの、むっちゃええとこ!」
そのとき、愛子のスマホが「ピヨッ」と鳴った。画面に現れたのは、AIナビゲーターの文一だった。
◆「夢は素晴らしい。しかし、目標は具体的にせよ。
カッパドキアはトルコ中部、アナトリア高原の南東。紀元前6世紀の岩窟住居群が有名。
では問題。世界遺産登録年は?」
「……え、問題出んの!?」
◆「うむ。世界遺産探検家を名乗る者は、カッパドキア1985年登録を覚えるべし!」
それから愛子のスマホは、“世界遺産データ地獄モード”に突入した。
◆「次、マチュ・ピチュはどこだ?」
「ペルーやろ!」
◆「正解。1983年登録。標高2430m。リャマに注意!」
「うわ、リャマ来るん!?」
◆「次、ナミブ砂漠とスケルトン・コーストの違いは?」
「知らんて! そんな、突然アフリカの難問やめてや文一~!」
◆「夢を持つ者に、情けは不要!」
30分後。
「はぁ……世界、広すぎるわ……。金、むっちゃかかる……」
愛子は頭を抱えた。
「気球も高いし、移動費だけで心折れるわ……。ほんで、カメラとかドローンもいるし……。てか、誰がこれ全部見てくれんねん……」
そうつぶやいた時、ふと文一が言った。
◆「テレビ局の探検企画はどうだ? 君のテンションは視聴者受けがいい。
ついでに言えば、“東大卒”という看板があれば、業界は黙っていない」
「……あっ」
愛子の目が光った。まるでカッパドキアの朝日に照らされた岩山のように、輝いた。
「それ、めっちゃええなあ!!」
「そうや、ウチ……東大、行こ!」
「ええっ!? そっから!?」
クラスがどよめいた。前田が椅子からずり落ちそうになってる。丹波はカードを握ったままフリーズしてる。
「東大入って、アイドルになって、探検して……世界の果てから“ガハハ!”って笑うアイドルなるんや!」
アバスがぽつりと言った。
「たぶん……新しいジャンル、開拓してますね……」
「よっしゃ、文一! 次の世界遺産、出してや!」
◆「ラジャー。では次の挑戦――“アフリカ大陸最古の壁画遺産”は何か?」
「うわ! またマニアックやな! でも、負けへんでぇ~!」
江本愛子は、三つ編みを揺らして、スマホを両手で握った。
ガハハと笑いながら、まっすぐ未来を見据えている。
夢は、世界をめぐる旅。
目標は、東大卒のテレビアイドル。
道のりは長いけれど――
教室の仲間たちは、なぜか誰も笑わなかった。
いや、彼女のことを笑えなかった。むしろ、そのまっすぐさが、ちょっと眩しかった。
ーー国境なき文化国家ーー
教室には静かな熱気が満ちていた。
休み時間に突然振って沸いた夏期講習の特別プログラム「自分の未来を語る会」。
Sセミナー塾長・武田美月は休憩時間を延長して、彼らの会話を見守り、講義のスケジュールを変更して、みんなで「将来」について語る時間が続けられた。
前田が「教師かトレーナーになりたい」と笑って語り、江本愛子が「東大卒のアイドル探検家になる!」と高らかに叫び、丹波は「そのとき考える」とぶっきらぼうに言いながら、カードをいじっていた。
「……アバスくんは?」
その問いに、しばし沈黙が流れた。
アバス・シャルマは、小さくうなずいて立ち上がる。
大きな目を真っ直ぐに前へ向け、静かな声で語り出した。
「僕は、“量子コンピュータが創る、国境のない世界”を目指します」
教室が、一瞬にして静まった。
「その世界では、国は“文化”で分かれます。地理的な境界線ではなく、思想や創造性で区切られる世界です」
愛子の目がぱちくりと動いた。
「え……つまり、どういうことなん?」
アバスは微笑んだ。
「たとえば……今の世界では、僕は“外国人”に分類されます。でも、もしも思想や文化で人が所属する“国家”を定義するなら、僕は日本の国民です」
「へ……?」
「僕の文化的ベースは、日本にあります。言語、論理、マンガ、禅、俳句、礼、空気――すべて、僕の中に根付いている。だから僕は、“文化国家・日本”の一員でありたい」
前田が、ぽりぽりと頭をかいた。
「……それって、なんかスゴいけど……スゴいな」
「で、それを量子コンピュータでやるってこと?」
丹波が鋭く切り込む。
「はい」
アバスは即答した。
「量子コンピュータは、今の社会構造をまるごと再設計できる可能性を持っています。経済、医療、教育、言語の壁――すべてを超えて、“誰がどこにいても、誰とでもつながれる世界”を支える基盤になる」
「そしてその上に、人は“文化でつながる社会”を築ける。地理でも、人種でもなく、“好き”と“知性”で集まる新しい国」
アバスは目を伏せ、しばらく黙った。
「……僕は、そういう国の、“設計者”になりたいんです」
「……」
誰も何も言わなかった。
愛子は、口を開けたまま。「む、難しい……けど、カッコええ……」
前田はうなずいた。「なんかわからんけど、お前、絶対スゲえわ」
丹波は少しうつむき、カードを机に伏せたまま小さくつぶやいた。
「……ワイ、ちょっと嫉妬したかもな」
しばらくして、美月が、アバスに優しく言った。
「アバスくん。あなたは、もうその国を作り始めてるのかもしれないね」
「……え?」
「だって、ここにいる誰も、あなたを“外国人”だなんて思ってないでしょう?」
アバスは、ほんの一瞬だけ、表情を崩した。
「……はい。ありがとうございます」
彼は小さく頭を下げた。
その手には、いつもの通り、何やら細かな数式が書かれたノートが握られていた。
そこには、まだ名前もない未来の“国家”の、最初の設計図が描かれていた。
ーー伏せない目ーー
午後の日差しが、教室の窓をやわらかく染めていた。
sセミナー夏期講習の「未来スピーチ」も、そろそろ終盤。
アバス・シャルマは言葉を続けた。
白いシャツに、汗のにじんだノートを抱えたまま、少しだけ呼吸を整えていた。
「……僕は、“国境のない世界”を夢見ています。
地理や地下資源で分かれた社会では、人は争うことが“前提”になってしまうからです」
丹波が、机に置いたカードをそっと握り直す。
「その社会では、“他人からより多くの富を奪う”ことが勝ちとされます。
“相手に与える富”もありますが、それはたいてい、自分の満足感の下に置かれている。
そこから抜け出せない限り、戦争も差別もなくならない。僕は、そう思います」
彼の声は静かだった。けれど、その一語一語は、しっかりと耳に届いた。
「僕は……“よくある差別”を、経験してきました。
直接的なものも、目に見えないものも。でも、今では、それを感謝すべき試練だったと思えます」
そのとき、愛子がハンカチを口に当てた。
「ある日、わかったんです。ああ、これが“差別”なんだって。
でも同時に、こう思いました。これは僕の“ミッション”なんだと」
「ミッション……?」
前田が、つぶやく。
アバスは、まっすぐに教室を見渡した。
「だから、僕は決めました。
たとえ相手が同級生でも、必ず敬意を忘れない。
まっすぐに目を見る。目を、絶対に伏せない。
感謝の気持ちを言葉にする。挨拶を、忘れない」
少しだけ、口元をゆるめた。
「全部、父に教わったことです。
そして今、ここでこうして――皆さんと出会えたことに、心から感謝しています」
沈黙が、降りた。
空気が、息を呑んでいた。
その沈黙を破ったのは、前田明男だった。
彼は、がっしりとした両肩を揺らしながら、一言。
「……お前、すげえやつだな」
そして、少し照れたように、でも確かに笑った。
次に口を開いたのは丹波 哲。
彼は無言で、机の上のカードをパッと広げた。
《共闘者の誓い》
《文化を越える手札交換》
《Respect Protocol》
「カードでワイに挑むやつは、誰でも友達や。お前、バトルしよな」
そして。
愛子は、口をパクパクさせながら、何かを言おうとしたが……
「……あ、あんた、よう頑張ったなぁぁぁぁ! うおぉぉぉん!!!」
机に突っ伏し、三つ編みを揺らしながら、
怪獣みたいな号泣を始めた。
「ちょ、江本!?」「泣きすぎやろ!ハンカチ!ハンカチ~!」
アバスはぽかんとしながら、ハンカチを差し出した。
「……あの、ありがとうございます?」
「うおぉぉぉ、ええ話すぎて鼻水でるぅぅぅ!」
「……どうぞ、それで拭いてください」
後日。
文一が、アバスのスピーチをさきどり・スクエア内で“名言ランキング1位”に選出し、こうコメントを添えた。
◆「“敬意のある未来”は、思想から始まる。吾輩も、眼を伏せずに生きようと思った」
それ以来、アバスが誰かと目を合わせると、クラスメイトたちは軽くうなずくようになった。
彼の目が、「おはよう」や「ありがとう」と同じくらい、あたたかい言葉に聞こえたから。
そして、彼の存在そのものが――
国境のない文化国家の、最初の旗だったのかもしれない。
ーー続くーー