第四十六話、アバスの田中オフィス夏合宿(後編)
ーーホットケーキの時間ーー
浅草橋の商店街を少し入ったところに、小さな天然石ショップ「KIRAN」がある。ガラス越しに、色とりどりの鉱石や彫金アクセサリーが並び、通りを行き交う人の目を引く。店の奥には、小さな工房スペースがあり、イヴリン・シャルマは今日もそこで、金槌とヤスリを手にしていた。
「ママー」
店の裏口から、アヌシュカが顔を出す。大きな黒い瞳が、何かを訴えるように揺れている。
「またアバス兄さんのこと?」
イヴリンは手を止め、椅子から立ち上がった。
アヌシュカはうなずきもせず、ただ小さく口を開いた。
「アバス兄さん、いつ帰ってくるの?」
その言葉に、イヴリンの胸の奥がじんと痛んだ。夏休みになって、アバスはアルバイトをしながら勉強するため、田中オフィス京都本社に短期滞在していた。本人は嬉々として旅立ったけれど、残された家族にはぽっかりと穴が開いたようだった。
イヴリンはアヌシュカをそっと抱き上げ、店の奥のソファに座った。小さな体を腕に包み込むようにして、やさしく語りかける。
「夏休みが終わるまでね。寂しいけど我慢しましょう」
アヌシュカは少しだけ首を縦に振ったけれど、抱きついた小さな手が、いつもより強くイヴリンの服を握っていた。
子供たちはいずれ成長して、みんな巣立っていく。わかっている、わかっているつもりだった。でも現実のその瞬間が、こんなにも心を締めつけるとは。
アバス、アビシェク、そして…最後に去るのはこの子、アヌシュカ。
「少しずつ慣らしていきましょう。それまでは…」
ふと気づくと、イヴリンはアヌシュカをぎゅっと抱きしめていた。
「ママ、大丈夫?」
小さな声が耳元で響いた。
その優しい声に、イヴリンは微笑んだ。この子は本当に、人の心をよく感じ取る。
「ううん。そうだ、ホットケーキ作ろうか?ハチミツとバター、いっぱいつけて」
ぱっとアヌシュカの顔が明るくなる。
「やったぁ!」
「あら、アヌシュカのお顔、ホットケーキみたいにほかほか~!」
「えーっ、じゃあ食べられちゃう~!」
二人は笑いながらキッチンに向かった。休日の午後、東京の夏はまだしばらく続く。窓の外では、セミがにぎやかに鳴いていた。
ーータコのハッチャンーー
週末の午後、竹ノ塚の住宅街にあるシャルマ家のリビングに、アビシェクの声が響いていた。
「ご隠居さ〜ん、こんちわ〜。おや?誰かと思えば八っつあんじゃないかいーー」
ソファの上に正座して、両手を膝に置き、身ぶり手ぶりを交えて披露するのは、古典落語『子ほめ』の冒頭だ。14歳の中学生とは思えないほどの滑舌と抑揚に、母のイヴリンはキッチンでお茶を入れながら、口元を緩めた。
「タコのハッチャン?」
ぽかんとした顔で見つめるのは6歳の末っ子、アヌシュカ。
その一言に、アビシェクは噴き出した。
「ハハハッ!いいねえ、それ。アヌシュカ、ナイスだよ!“タコのハッチャン”、ぼくの新作落語に使おうかな?」
「ほんとに?わたしのアイデア?」
アヌシュカはぱあっと顔を輝かせ、くるりと回ってソファにぴょんと飛び乗った。
「うん、だってすごくインパクトあるもん。“浅草の寿司屋に現れた、しゃべるタコのハッチャン”とか、どう?」
「そのタコ、スミで字書けるの!」
「おぉ、いいねえ、しかも筆談かい!それ、前座でウケるかも!」
まるで漫才のような兄妹のやり取りに、イヴリンは紅茶を運びながら笑った。
「ふたりとも、ちょっと落ち着きなさい。アビシェク、お茶飲むでしょう?」
「ありがと、ママ」
アビシェクは深く一礼して、紅茶を受け取った。
彼は今、新小岩にある笑角亭来福のもとで内弟子として修行中だ。まだ14歳だが、特別に許されて、寄席の雑用や高座の下働きを手伝いながら、毎日夜遅くまで稽古と夏休みの宿題もしている。週末だけは家に帰ってくる。それが家族にとって何よりの楽しみだった。
「お兄ちゃん、いつも落語やってるの?」
アヌシュカが尋ねる。
「うん。でもね、掃除が半分以上。あと、師匠の草履揃えたり、洗濯したり。正直、ぜんぜん華やかじゃないよ」
「でも楽しそう!」
「そうなんだよ。不思議とね、全然苦じゃない。むしろ“本物の落語家になるんだ”って思うと、なんでもやれる気がするんだ」
そう語るアビシェクの目には、真剣な光が宿っていた。
そこへ、父のラヴィが書斎から顔を出す。
「アビシェク、今の“タコのハッチャン”ってのは、なかなかユニークだったな。落語にも国境はないってことかな」
「うん、パパ。ぼく、自分のルーツも大事にしながら、面白い話を作りたいんだ。たとえば、“ベンガルの商人が江戸に来て、大名に紅茶をすすめる噺”とか」
「いいね。行政書士のパパとしては、ビザの話も混ぜたいところだ」
家族みんなで笑い合った。
その日、夜ごはんのあとに、アビシェクは「タコのハッチャン」を即興で演じた。舞台は浅草のすし屋、登場人物はしゃべるタコと無口な板前。アヌシュカはケラケラ笑って、「またやって!またやって!」と身を乗り出した。
笑い声が満ちる部屋の中で、イヴリンはそっと目を閉じた。
「大丈夫。子供たちは、ちゃんと羽ばたいていく」
その確信が、夏の夜のやさしい風のように、静かに心に吹き込んできた。
ーー朝のほうきと、まっすぐな瞳ーー
京都の夏の朝は、東京よりもほんの少しだけ、静けさが長く残る。
まだ太陽が本気を出す前の午前7時、田中オフィス京都本社の前で、ひとりの少年がせっせと歩道の掃き掃除をしていた。
アバス・シャルマ、16歳。東京・竹ノ塚の実家を離れ、夏の間だけの住み込みバイトとして、京都本社にやってきた。
箒の先で落ち葉や砂を集めながら、彼は心の中でつぶやいた。
——まず、自分にでもできることから。
まだ社員の誰も出社していないオフィスの前。静かな石畳の上に、彼の動きだけがきびきびと響いていた。
やがて、朝の8時も近づいた頃、オフィスの前に自転車がスーッと滑り込んできた。
やや慌てた様子でヘルメットを外したのは、営業部のベテラン、橋本和馬部長だった。
「あれっ……おーい、アバスくん!? もう来てるの!?」
箒を止めて顔を上げたアバスは、明るい笑顔で返した。
「おはようございます、橋本さん。はい、まず自分にできることから始めようと思って……それで、掃除から」
橋本は思わず額に手をあてた。
「うわぁ……初日から飛ばしすぎじゃない? いや、感心したよ。えらいなぁ、ほんまに」
アバスは少し照れたようにうつむきながら、箒を立てかけた。
「東京では、父も朝の散歩ついでに近所を掃除していたんです。そういうの、ちょっと格好いいなって思って。ぼくもやってみようかなって」
「なるほど、ええ話やなぁ」
橋本はうんうんとうなずきながら、ポケットから自販機のコーヒーを取り出した。
「ほな、これ。キンキンに冷えたやつ。初日のご褒美や」
「ありがとうございます!」
アバスは嬉しそうに受け取ると、すぐには開けずに胸に抱いた。
この町でも、この職場でも、少しずつ信頼を築いていこう。
そう思ったとき、ふと、東京にいる弟の顔がよぎった。
あいつは今ごろ、またアヌシュカと“タコのハッチャン”で盛り上がってるかもしれない。
「じゃあ、今日もよろしくお願いします!」
アバスは橋本に深く頭を下げた。
「おう、こちらこそ! うちの希望の星やな、君は」
まだ静かな京都の朝。その始まりは、16歳の少年の真っすぐな心で、静かに照らされていた。
ーー茶柱と乱数表ーー
田中オフィス京都本社でのアルバイト生活が、アバスにとってじわじわと面白くなってきたのは、朝の掃除や書類整理だけではなく、「お茶だし」という、想像もしていなかった作業の奥に文化が潜んでいたからだった。
朝10時、1回目の休憩タイム。
「アバスくん、今日からお茶淹れ、お願いね」
やわらかな関西訛りの声でそう声をかけたのは、バックオフィス担当の佐々木恵さんだった。
アバスは軽くうなずいて湯飲みと急須を手に取る。
「こっちが茶葉で、その箱が茎ね」
「はい、緑茶と……あ、分かれていますね」
「そうそう。でね、ちょっと面白いルールがあるの。お茶を淹れたあと、これをチョット刺すのよ」
そう言って彼女が示したのは、小さな竹製の箱。中には、短く切られた茎が数本並んでいた。
「刺す?」
「そう、これ。茶柱って言うの。お箸でつまんで、先っぽをお茶につけると……」
佐々木さんは実演してみせた。すると、確かに細長い茶柱がピンと立った。
「おぉ……!」
「ね? 下が濡れて重くなるから、目出度く直立するってワケ。縁起ものなのよ」
「すごい。まるで……日本のジュジュマン(魔術師)みたいだ」
佐々木さんはくすっと笑い、「でもね、毎回だとありがたみがなくなるし、やるほうも大変でしょ」と声を落とした。
「だからね、この半田くんが作ってくれた“乱数表”を見て、その日、誰のお茶にに立てるかどうか決めるのよ」
カウンターに置かれていたのは、小さな卓上カレンダー風のカード。そこには社員の名前の一部で書き込まれていた。例えば8月1日には”田(田中)”8月4日には”イハ(井原)”。
「1年間通すと、ちょうどバランスよくなるんだって。均等に、だけどランダムに。おもしろいでしょ?」
アバスは、うんうんとうなずきながら感心した。
「合理的なのに、ちゃんと遊び心があるんですね。すごいなぁ」
「午後3時は自由時間。セルフで好きなもの飲んでいいの。コーヒーでもお茶でも。そこは、のんびりやってね」
「はい」
お茶を配りながら、アバスはふと、自分の父・ラヴィの姿を思い出していた。
行政書士の資格を取ってからの父は、日本文化に対してますます積極的になった。神社でおみくじを引いては、家族に「大吉だったぞ」と笑顔で見せたり、こたつに入ると「インドにこんな文化があったら絶対出られん」と冗談を言ったり。
そんな父が言っていた。
——文化をミックスするって、混ぜることじゃないんだ。互いを理解して、重ねることなんだ。
アバスは、ゆっくりと茶柱の立った湯呑をデスクに置いた。
コツン、と心地よい音が響く。
一杯のお茶の中に、“文化”という目に見えない柱がすっと立ったような気がした。
ーーSセミナーの午後ーー
午後3時。京都の街には、夏の光がまだはっきりと残っていた。
アバス・シャルマは田中オフィスを出て、自転車にまたがった。風を切る感覚が心地よく、少し汗ばむ額をなでてくれる。
今日から始まるもうひとつの場所――Sセミナー。
「道はスマホで調べたし、時間もちょうどいい」
そう呟いてから、心の中で小さくインドの祈りを唱える。
20分ほどの道のり。緊張はしているが、不思議と心は前向きだった。
住宅地の一角にある、白い外壁の建物。看板には青い文字で《Sセミナー》と書かれていた。
アバスは自転車を止め、少し背筋を伸ばして玄関に近づいた。
「こんにちは、アバス・シャルマです」
声に出した瞬間、引き戸が開き、笑顔の女性が姿を現した。
「はじめまして、塾長の武田美月です。ずっと待ってました。よろしくお願いしますね」
やさしく、でも凛とした雰囲気の女性だった。背筋はすっと伸び、言葉に無駄がない。けれどその目元には、安心をくれるようなやわらかさがあった。
「こんにちわ、武田徹です。講師と奥さんの補佐をやってます」
後ろから現れたのは、少し日焼けした穏やかな雰囲気の男性。
アバスが「よろしくお願いします」と深くお辞儀すると、すぐに笑いが返ってきた。
「やだもう、副代表でしょ」
美月が少し笑いながら言うと、徹は「ははっ、まあまあ」と頭をかく。
アバスは、思わず笑みをこぼした。
この空気だ。これが「信頼できる人たちの空気」だと、身体がすぐに察知した。
インド人の両親を持つ少年の直感――父の取引先を見定めるとき、母が人と心を交わすとき、その場の「気配」を読むことの大切さを何度も見てきた。
「おふたりとも、とても仲が良さそうですね」
アバスの一言に、美月がちょっと照れて笑う。
「それだけが取り柄かもしれないわね」
「いやいや、ぼくは雑用係だよ。今日はまず見学でもしようか。教室も案内するから、気軽にね」
徹がアバスを案内しながら、小さな建物の中に入ると、そこには木の棚に整然と並ぶ参考書と、生徒たちのノートの山。机は少し使い込まれていたが、どれも丁寧に拭かれていて、場に“気が通っている”感じがした。
アバスはふと、田中オフィスの朝の掃除や茶柱の風習を思い出す。
「ここもきっと、長く続いてきた場所なんだ」
どこか懐かしく、落ち着く気配。
初日というのに、帰り道が少し楽しみになる。そんな場所だった。
ーーパスワードと、受験と、文一先生ーー
初日の午後、Sセミナーについての説明がひと段落したあと、アバスは塾の小さな事務スペースに案内された。
ノートパソコンが整然と並び、壁には学年別の時間割と、手書きの「一週間の目標表」が貼られている。
「じゃあ、まずはログインしてもらおうかしら」
武田美月塾長が、白いノートPCの画面を立ち上げながら言った。
「このパソコンは講義用の個別端末。アバスくん専用のログインIDを用意してあるわ。パスワードも自分で設定してね」
「はい」
「でもちょっと面倒かもしれないんだけど――毎週月曜日には、必ずパスワード変更の要求画面が出てくるの。セキュリティ上の理由で」
「えっ、毎週……ですか?」
「そう。でもね、仕組みには意味があるのよ。8桁以上、でも誕生日や変更日みたいな安易な数字は不可。つまり、自分なりのルールや発想で作らなきゃいけない。これも頭のトレーニングよ」
アバスは、しばし真剣に考え込んだ。
「じゃあ、ヒンディー語の単語を逆読みして、数学記号を混ぜて……」
「ふふっ、それはなかなかユニークで強いパスワードになるかもね」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「あとね、ノートPCは塾内専用で持ち出し禁止。でも、スマホでも使えるようにしてあるの。“さきどり・スクェア”っていう簡易アプリをダウンロードしてね」
アバスがスマホを取り出して設定を始めると、美月は昔話を始めた。
「昔ね、“高校進路”とか“高校エポック”って雑誌があったの。受験情報だけじゃなくて、アイドル情報やミニ小説、読者のお便りなんかも載ってて、受験勉強の息抜きになったのよ。友達の好きなアイドルの切り抜きを交換したりしてね」
「へえ……ちょっと、雑誌の中に“学校の世界”があるみたいですね」
「そうそう。だから“さきどり・スクェア”も、ただのアプリじゃなくて、Sセミナーの生徒同士やOBたちとつながる“広場”なの」
「……なるほど。スクェア=広場か」
「うん、名前どおり。ここにはね、今の受験生の学習記録や、“気づきメモ”、それから過去の受験生の投稿なんかもアーカイブされてるのよ」
「なんだかワクワクしてきました」
「ふふ、それは良かった。でもね、この“さきどり・スクェア”には、もうひとりの重要人物がいるの」
アバスはスマホの画面をのぞき込む。
「重要人物?」
「“文一先生”っていう、AIキャラクターなのよ。うちの講義でも登場するの。ツッコミも解説もする、変わり者だけどね」
画面の端に、房のついた大学帽を頭にのせ、本を持った文鳥のようなキャラクターが現れた。
《やあ、アバスくん。ようこそ、“さきどり・スクェア”へ。わたしがAI学習ガイドの文一です!》
アバスは吹き出しそうになった。
「……声までついてるんですね?」
「ええ、田中オフィスの半田くんっていうプログラマーが魂を吹き込んでくれてね。彼のおかげで“しゃべる先生”が実現したの」
「講義にも出てくるってことは……?」
「もちろん。ツッコミあり、漢文解説あり、時事ニュースもAIなりに語ってくれるのよ。本人(?)は“インテリ芸人志望”らしいけど」
アバスはその日の夜、竹ノ塚の実家から届いたメッセージにこう返した。
こっちは順調。
今日、AIの文一先生に“なぞかけ”で歓迎されたよ。
「受験とかけて、銭湯の下駄箱と解く。その心は?」……わかる?
父・ラヴィからの返信は早かった。
わからない……答えは?
「どちらも“番号を忘れると困る”でしょう」だって。
アバスは笑いながらスマホを伏せた。
情報技術、文化、遊び心、つながり。
この塾には、パスワード以上に大切な“鍵”がある気がしていた。
ーー教えるというより、聴いているーー
アバスがSセミナーに来るようになって、一週間が経った。
田中オフィスの午前の仕事を終えて自転車に乗るのにも、もう慣れてきた。汗をぬぐいながらセミナーに入ると、いつも誰かが笑っていた。
ただ、それはふざけているわけでも、にぎやかすぎるわけでもない。
武田夫妻が運営するこの小さな塾には、独特の静けさと、集中力が流れていた。
その日も、教室の隅に腰かけて見学していたアバスは、不思議な感覚に包まれていた。
中学3年生の男子が、緊張した様子でノートを開いていた。
武田塾長――美月さんは、隣にすっと座る。
「じゃあ、今日は昨日の話の続きから。前に“歴史が苦手”って言ってたよね」
「……はい。覚えられなくて」
「ふうん。覚えられないって、どんな感じ?」
「……頭に入れても、すぐ抜ける。ストーリーがつかめなくて、暗記になっちゃう」
「なるほど。それって、“話としておもしろくない”ってこと?」
「……かも。おもしろくなったら、たぶん、覚えられる気がする」
そのやり取りを聞いていたアバスは、驚いた。
塾の授業といえば、ホワイトボードに公式を書いて、説明して、あとは問題を解く。そんなスタイルしか見たことがなかった。
でも、ここでは違う。先生がしゃべっている時間よりも、生徒が話している時間のほうが長い。
やがて武田さんは、こう続けた。
「いいね。じゃあ今日は、“ストーリーとしての歴史”って視点で、ひとつテーマを決めよう。信長・秀吉・家康、誰の話が一番聞いてみたい?」
「……秀吉。なんか、雑草魂っぽいから」
「お、いいね。“豊臣秀吉の人生から何を学べるか”って、考えてみようか。そこから“なぜ出世できたか”って視点に行けるし、受験にも出やすいよ」
問題の解法はあとからついてくるようだった。まず、「なぜそれがわからないのか」「どこが苦手なのか」「どうすれば興味が持てるのか」、そういった問いかけが先にある。
後ろで見ていたアバスに、武田徹がそっと声をかけた。
「うちは“しゃべるスキル”より、“聞く力”を重視してるんだよ。先生が一方的に話すんじゃなくて、生徒の声をどれだけ引き出せるか」
「……でも、それだと時間かかりませんか?」
「かかる。でもな、最初はスロースタートでも、最後の伸びが全然違う。本人が“わかってきた”って感覚を持ったら、あとは爆発的に伸びる」
徹の語り口には、押しつけがましさがなかった。ただ、静かに確信を持っていた。
「参考書もネットも、情報はいくらでもある。でも、教えすぎると、子どもたちの“問い”がなくなる。問いがないと、学びが止まるんだ」
アバスは、まるで父・ラヴィの言葉を聞いているような気がした。
“人に何かを教えるなら、その人の“うちがわ”にある火を見つけなさい”
その火を探すように、武田夫妻は毎日、生徒たちと対話を重ねている。
それはまるで、「教える」というより――「聴いている」ようだった。
ーー上からじゃない、隣からーー
その日の夕方、Sセミナーの授業が終わったあと、アバスは書棚の整理を手伝っていた。窓の外には、西日に染まる屋根の連なり。京都の夏はまだ終わりそうにない。
「アバスくん、ちょっと一息入れようか」
そう言って缶コーヒーを差し出してくれたのは、武田徹だった。塾長・美月の夫であり、副代表であり、そして、最も近い伴走者でもある。
「ありがとうごさいます」
二人は静かに椅子に腰を下ろした。まだ教室には、授業の余韻が残っている。ふいに徹が語り出した。
「この教育メソッドを遂行するためのシステムを構築したのが、我が奥様さ」
アバスは目を丸くした。
「システム……ですか?」
「そう。教育ってのは“現場の空気”で流されがちだけど、美月は“設計”から考えたんだよ。“どうすれば、生徒が話すようになるか”“どうすれば、本人の内側から問いが生まれるか”ってね」
「……すごいですね」
「いや、それがな……最初は、まったく受け入れられなかったんだよ」
徹は苦笑した。
「彼女、前は都内の有名進学塾でバリバリに講義してたんだ。成績上位のクラスも担当してて、生徒からの評判も悪くなかった。でもある時、ふと気づいたんだって。“これって、私の話ばっかりじゃん”って」
アバスは無意識に頷いていた。
「でね、生徒のノートや表情を観察しながら、何か違うって思ったんだ。確かにテストの点は上がる。志望校にも受かる。でも、心が動いていない。“学ぶ”じゃなくて、“押し込まれてる”ような感覚。そしたら、ある日上司にこう言われたらしい」
徹は手を広げて言った。
「“そんなことより、単語を一つでも覚え、問題を解く。いつやるの?今でしょ!”ってな」
アバスは笑いかけて、それが笑えない話であることにすぐ気づいた。
「それで、美月は辞めた。スパッと。上から目線の教育には、もう戻れないって。生徒の“声”を無視する指導には耐えられなかった」
沈黙が一瞬だけ落ちた。蝉の声が遠く聞こえる。
「……それで、Sセミナーを?」
「そう。始めたのはワンルームマンションを借りて。机3つ、ホワイトボード1枚。でも最初から、“上からじゃなく、隣から教える”というスタンスだけは譲らなかった」
徹の目は、どこか遠くを見ていた。
「生徒の言葉に耳を傾ける。話を促す。答えじゃなくて、“問い”を一緒に考える。それが美月の教育。僕は、そこに惚れてるんだ」
静かなその言葉に、アバスの胸がすうっとあたたかくなった。
インド人の父・ラヴィが、かつて語っていた言葉が重なる。
——「教育は、命令ではなく共鳴なんだよ」
その共鳴が、この塾には確かに息づいていた。
ーー三人目の”チームメンバー”ーー
夕方、Sセミナーの空気が少しゆるんだ時間帯。
生徒たちが帰り支度をはじめる頃、アバスは残って、今日の授業の片付けを手伝っていた。
「こっちのケーブル、どの引き出しでしたっけ?」
「お、アバスくん、気が利くねえ。ありがとう。そっちの下の段にまとめてあるよ」
穏やかな口調で答えながら、武田徹はプロジェクターの電源を落とした。
パチ、と静かな音が教室に残った。
「なあ、アバスくん。前に話した“文一”のこと、少し続けてもいいかな?」
「はい。おもしろそうだったので」
椅子に腰かけると、徹は背もたれに軽く寄りかかり、指を組んだ。
「うちは“聴いて伸ばす”っていう伴走型の教育が基本だけど、それだけではどうしても非効率になる場面もある。限られた時間、限られたリソース……。で、そこに導入してるのがCAI、つまりcomputer-assisted instructionなんだ」
「CAI……聞いたことあります」
「でもね、ここで重要なのは、“教える機械”としてじゃなくて、“判断する補助者”として入れてるってこと。つまり、“塾生と講師、その両者に公平なジャッジを下すAI”って位置づけなんだよ」
「それが……文一先生?」
「そう。文一は、あくまで“もう一人のチームメンバー”なんだ。講師が見落としがちな学習傾向、生徒が自覚していない苦手分野。それを中立的に示してくれる」
「人間同士だと、どうしても“思い込み”とか“好き嫌い”が入っちゃいますもんね」
「そのとおり。人間のコーチングと、AIの冷静な分析。それを組み合わせて初めて、真に“自分に合った学び方”が見えてくる。これは“チームで取り組む学習”なんだよ」
徹の声には、熱さではなく、深さがあった。
「じゃあ、塾生はAIに任せて……って話ではないんですね」
「うん。放り出したら意味がない。あくまで文一は第三の眼。“どうすれば本人の成長につながるか”を見て、人間チームに示してくれる参謀なんだ」
「……それって、ぼくらの生活スタイルにぴったりですね」
アバスの言葉に、徹はほほえんだ。
「そう。“さきどり・スクェア”って、アプリの設計にもそれを反映してるんだ。日常生活の合間に、すこしだけ開く。ふと思いついたときに相談する。自分の学びを“つなぐ”場所として作ったんだよ」
「なるほど……先生と話すのが重く感じる時でも、文一なら軽く相談できますね」
「そうそう。講師、塾生、そして文一、この三人が“チーム”になる。誰か一人が主役じゃない。目標に向かって走る、協力型の学習設計ってわけさ」
アバスは、スマホを手に取って“さきどり・スクェア”を開いた。
画面の向こうで、でっぷりした文鳥の文一先生がウィンクしていた。
《おかえり、アバスくん。今日も“ひらめき”と“問い”を持ってるかな?》
その軽やかな言葉の奥に、確かな重みがあった。
ーー問いからはじまる学びーー
午後の空気が落ち着いたSセミナー。
自習時間に入ると、塾生たちはそれぞれの端末に向かい、静かにキーボードを叩いていた。
アバスも、自分のノートPCを開いて“さきどり・スクェア”にログインする。
今日のテーマは「日本史・室町時代」。画面の上部には「総論ウィンドウ」と題された、かなりの分量の要約テキストが表示されていた。
「……また長文だな」
正直なところ、アバスは総論の文章を読むのが少し苦手だった。まとまりすぎていて、どこを覚えたらいいのかわかりづらい。
画面の下にある小さなボタン――《文一ヘルプ》にカーソルを合わせる。
クリックすると、メッセージボックスが開いた。
《質問をどうぞ。何について知りたいですか?》
アバスは、ふと思いついたことを入力してみた。
室町時代って、商売はどうやっていたの?
少し待つと、大学帽を被った文鳥のキャラクター“文一”がぴょこっと現れた。
《いい質問だね。室町時代には「座」や「問屋」といった独自の流通組織がありました。幕府や寺社の保護のもとに、特定の商人が営業権を与えられていたんだ。これは“特権的取引”といって、今でいう“ライセンス制”みたいなものだよ。》
その回答と同時に、総論ウィンドウの中で三つの段落がマーキングされた。
《きみの理解のポイントは、ここらへんだと思う。まずは読んでみて!》
「……すごいな」
アバスは驚いた。今までなら、どこを読んでいいかわからず、なんとなく流し読みして終わっていた。でも、今は“自分が知りたかったこと”が、画面のどこにあるのかが見えている。
マーカーで示された部分に目を通す。たしかに、さっきの文一の答えとリンクしていた。
そこへ、教室を回っていた武田塾長・美月がそっと近づいてきた。
「使ってみた?」
「はい。“商売ってどうしてたか”って聞いたら、マーキングしてくれて……。わかりやすいです」
「それは良かった。でもね、もし文一の答えがちょっとズレてても、それもヒントなのよ」
「……ズレてるのが?」
「ええ。“あれ、なんか違う”って感じたら、それはあなたの中に既に仮説があるってこと。だから私は聞くの。“どこがピンと来ないかな?”って」
「質問で”気づき”を引き出すってことですね」
「そう。一緒に問い直すことで、読み飛ばさない学びができるのよ」
アバスは、自分が知らないうちに“答えを探すだけの勉強”になっていたことに気づいた。
でもこの塾では、“問いを立てること”そのものが尊重されている。
「……この感じ、初めてです」
美月はほほえんで頷いた。
「わたしたちは“わからない”を責めない。“わからない”を育てるの」
アバスはもう一度、文一に別の質問を入力してみた。
座とか問屋って、今のコンビニとどう違うの?
答えが返ってくる前に、すでに自分の中に小さな疑問の芽がいくつも芽吹いていた。
ーーさきどりの午後ーー
午後2時すぎ。
田中オフィス京都本社の休憩スペースには、ほのかに淹れたての煎茶の香りが漂っていた。
アバス・シャルマはコーヒーカップを片手に、自分のスマホを覗き込んでいた。
画面には、あのAI学習アプリ《さきどり・スクェア》が表示されている。
文一、大学帽を被り何かの本を持っている、少し古風な知的キャラが「こんにちは」と手を振っている。
「“室町時代の問屋制度って、現代のネット通販とどう違うの?”か……」
アバスは独りごちた。指はスマホで動いている。
入力した質問に、文一が回答をまとめてくれるのを待つ。
ふと、後ろから声がかかった。
「お、さきどり・スクェア使ってくれてるね。どう、使い心地は?」
声の主は、ソフト開発担当の半田直樹。
スリムな体格に白いシャツ、どこか理系男子らしい整った風貌だ。
「あ……これ、とても使いやすいです」
「ありがとう。自慢じゃないけど、それ、僕が作ったんだよ」
半田が得意げにウインクするその時、
コツコツと音を立てて廊下から現れたのは、たまちゃんこと奥田珠実。
「なに自慢してるんですか~? ちなみに“文一”のキャラ設定と喋り方をAIでチューニングしたの、あたしですからね~?」
にっと笑い、アバスのスマホ画面をのぞき込む。
「文一、ちょっと上から目線だけど憎めないでしょ? 」
「はい。文一、“知識はナイフ、使い方次第です”とか言うし、ちょっと高校の先生に似てるんです」
アバスが微笑むと、たまちゃんが目を丸くした。
「へぇ、高校に“文一系男子”いるんだ」
横で黙って話を聞いていた半田は、カップを持ち直しながら心の中でつぶやく。
(いや、それ自慢やん……)
しかし、その心の声を飲み込み、にこやかに頷いた。
「いいね。自分の作ったものが、誰かの学びを支えてるって、嬉しいよね」
その言葉に、たまちゃんも真顔で頷いた。
「ほんと。アプリって道具だけど、手渡されて初めて意味があるから」
アバスはそんな二人を見ながら、再び画面に視線を戻す。
文一の答えが返ってきた。
《問屋制度は特権による流通独占。現代のネット通販は“競争による効率化”だよ。キーワードは「制約」と「自由」だね。》
「……なるほど」
アバスは声に出してつぶやいた。
その言葉に、たまちゃんがにっこり笑って言う。
「“なるほど”って言わせたら、開発者冥利に尽きるよね、半田くん?」
「そ、そうだね」(やっぱりそれ自慢やん……)
半田は再び、心の中でつぶやいた。
それでも、口元はどこかうれしそうに緩んでいた。
ーー続くーー