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田中オフィス  作者: 和子
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第五話、ある取引先からの相談

ーー仮想の砦ーー

取引先A社の応接室には、張り詰めた空気が漂っていた。


水野幸一は背筋を伸ばし、緊張感を帯びた空間に身を置いていた。隣には稲田美穂。まだ社会人としての経験は浅いものの、司法書士試験を突破した実力派だ。彼女は一言も漏らさぬように、A社社長の話に集中していた。


社長は、蒼ざめた顔で、言葉を選ぶように語り出した。


「実は、先日ウイルスに感染してしまって…。社内のネットワークが、ほとんどやられてしまったんです。重要なデータも、もしかしたら…抜き取られてるかもしれません。今後の業務への影響が計り知れなくて…」


深いため息が、応接室の空気を重たくした。


水野は、ゆっくりと目を閉じた。沈黙。数秒の間を置いて、ふたたび目を開くと、静かに口を開いた。


「その件について、ひとつ提案があります。――VDI、仮想デスクトップの導入です。」


社長がわずかに首をかしげる。稲田が、すかさず質問した。


「VDIって、どんなものなんですか?」


「端的に言うと、業務データをPCのローカルストレージに永続的に保存せず、サーバー上に仮想の作業環境を作って、そこから業務を行う仕組みです」と、水野は手元のタブレットを示しながら説明を始めた。


「つまり…ランサムウェアとか、端末内のデータを直接的に標的とする攻撃に対しては、被害が及びにくくなるということやな」と社長がつぶやいた。


「はい。仮に端末がマルウェアに感染し、業務データが破損するような事態になっても、業務データはサーバーにあります。端末を交換するか、初期化するだけで、比較的速やかに業務の再開が可能になるんです。」


稲田も、少し身を乗り出した。


「リカバリーが簡単になるってことですね。それは安心感があります。」


社長は、しばらく黙って考え込んだ。そして、静かにうなずいた。


「…なるほど。それならば、被害を最小限に抑えられる。導入方法について、もっと詳しく教えていただけますか?」


そこからは、導入の選択肢や必要なインフラ整備、セキュリティ強化策について、淡々と会話が続いた。水野は冷静に、一つ一つ説明し、稲田も要所で的確に補足を入れる。社長は二人の真剣な姿勢に心を動かされ、最後には「前向きに検討します」と口にした。


打ち合わせを終えた二人は、夕暮れの街を並んで歩いていた。


「いやあ、いい話ができたな」と水野がつぶやく。「VDIの提案が、社長の心に響いたみたいで良かったよ。」


「はい」と稲田も笑顔を見せる。「ウイルス感染のリスクが下がるっていう部分が、特に印象的だったみたいですね。」


駅が近づき、黄昏の街にネオンが灯り始めた頃。水野は、ほんの少し声のトーンを変えて言った。


「今日は頑張ったし…このあと、軽く飲みにでも行かないか?」


稲田は、一瞬だけ顔を伏せた。


「あ、すみません。今日はちょっと…用事がありまして」


「そっか…忙しいよな」と、水野は笑って肩をすくめた。


「また今度でもいいか?」と軽く続けると、稲田はわずかに焦ったように答えた。


「いえ、ほんとに今日は…すみません」


「わかってるさ。大丈夫。VDIについても、まだまだ覚えることがたくさんあるしな」と水野はやさしく笑った。


稲田は、その言葉に少し安心したようだった。


「VDIって、仮想環境だけじゃなくて、社内のセキュリティ体制そのものも考えさせられますね。いろんな企業が注目する理由、少しわかった気がします。」


「そうだな。君も、どんどん知識を深めてくる。頼もしいよ」と水野は歩を止め、言った。


駅に着いた稲田は、水野に軽く頭を下げると、改札口の向こうへと消えていった。


水野は、彼女の小さな背中を見つめながら、しばしその場に立ち尽くした。


(あいつは…まだ、仕事に夢中か)


自嘲気味に笑いながら、水野は背を向け、ホームへと向かった。


一方、稲田は電車に揺られながら、ふと心の中で思っていた。


(水野さんって、優しいけど……タイプってわけじゃないかな。今はそれより、VDIのこと、もっとちゃんと勉強しないと)


窓の外には、夜の街が流れていた。


彼女は手帳を取り出し、「VDI」「セキュリティ」「仮想環境」…そういったキーワードを、ボールペンでメモしながら、心の中で小さくつぶやいた。


(明日から、また頑張ろう)


水野もまた、その夜、自宅で次回の提案資料に目を通していた。稲田に負けぬよう、先輩として、もっと知識を蓄え、守ってやれる存在であろうと――。


仮想の砦(VDI)に託された希望は、今、静かに動き始めていた。


ーー春宵、ひとひらの気づきーー

ビルの谷間に春の風が通り抜け、京都の街を柔らかく染めていた。その日の仕事を終えた稲田美穂は、駅へと急ぐ足を少し緩めた。手にはスマホ、通知には水野先輩からのメッセージが光っていた。


「よかったら、今夜ごはんでもどう?」


仕事の合間に交わされた何気ない会話。穏やかで、誠実で、頼れる先輩。水野さんの誘いは嬉しかった。けれど——。


稲田は指を動かし、短く丁寧に返信をした。


「今夜は大学の友達と集まりがあって…また今度、ぜひ!」


返した後、画面をそっと伏せた。その瞬間、少し胸の奥がチクリと痛んだ。


(…ごめんなさい、水野さん)


彼女の頭に浮かんだのは、大学時代から付き合っている彼の笑顔だった。バトミントン部で出会った彼は、今や大手企業のバドミントン部の中心選手。普段は忙しくてなかなか会えないけれど、今夜は大切な仲間たちと集まる約束があった。


(…今日は、どうしても断れなかったんだ)


久しぶりの再会。学生時代の思い出話、みんなの近況、彼の変わらない笑顔。そういう時間も、自分にとっては大切だった。


(でも、水野さんには感謝してる。もしまた誘ってくれるなら……今度は、ちゃんと行きたいな)


そう心の中でつぶやいた稲田は、改札を抜け、電車に揺られながら夜の街へと向かった。


居酒屋の賑わいの中、久しぶりの友人たちと笑い合う稲田。彼と肩を並べ、変わらぬ仲間たちと語らうひとときは、やはり心を満たしてくれる。


だがふと、グラスを持ち上げた瞬間、稲田の胸を過ぎったのは、仕事帰りの駅前で立ち尽くしていたかもしれない水野の姿だった。そんなに気にしなくてもいいはずなのに、どこかで「申し訳ない」と思ってしまう自分がいた。


(…水野さん、やっぱり真面目で、いい人だな)


稲田は小さく息を吐いた。


(次に誘われたら、その時は…きっと)


その夜の飲み会は、懐かしさと笑顔に包まれたまま終わった。そして、稲田は心の奥で静かに決意していた。

恋愛も、友情も、そして仕事も——どれも大切にできる自分でありたい。そうやって少しずつ、大人になっていけばいい。


次の一歩は、きっと前よりも穏やかで、自分らしいものになるだろう。

そう信じて、春の夜風に吹かれながら、稲田は歩き出した。


ーーフリック入力と音声検索と、田中社長の挑戦ーー


夕方のオフィス。退勤前のゆったりとした空気の中で、田中卓造社長がスマートフォンを片手に、難解な戦いを繰り広げていた。


「なんやこのフリック入力ってやつ…なかなかうまくいかへん…。このスマホ、やっぱりワシには難しいわ…」


眉間にしわを寄せ、スマホ画面に必死で指を滑らせる田中社長。フリック入力のスピードに指先が追いつかず、入力される文字はどれも彼の意図とは微妙にズレていた。


「『J・P・I…あれ?PのあとにUが出てもうた!』うーん…もうこれ、脳トレやでほんま…」


その様子を斜め後ろで見ていた水野幸一が、控えめに笑みを浮かべながら口を開いた。


「社長、フリック入力はちょっと慣れが必要ですからね。でも、時間かかっても少しずつ慣れていきましょう」


そして、横からそっとのぞき込んでいた稲田美穂が、明るく笑いながら提案した。


「社長、それなら音声入力使ってみませんか?スマホに話しかけるだけで文字が出るんですよ。めっちゃ便利ですよ」


「おお?音声入力?そんなんできるんか?」


興味津々の田中社長がスマホを差し出すと、稲田は画面を操作しながら説明を続けた。


「このマイクのマークを押して、話したいことを言うだけです。たとえば『JPICのホームページ』とかですね」


社長は少し不安げに、しかし試す気満々で画面を見つめた。そして、意を決してマイクをタップ。


「JPICの…ホームページ…出してくれ!」


瞬間、画面に見慣れない検索結果がスッと現れた。


「おおっ!ほんまに出てきた!しかも、なんかワシが思ってた通りのやつや!」


目を丸くしながら、少年のように喜ぶ社長。稲田は嬉しそうに笑った。


「すごいですよね。フリックより断然早いですよ!」


水野も微笑んでうなずく。


「これで社長も情報収集が捗りますね。セキュリティの知識、ぜひ深めていきましょう」


画面に表示された「JPIC(日本出版インフラセンター)」のサイトを見て、田中社長はニヤリと笑みを浮かべた。


「おっ、やっとJPICのページ見つけたで!これで、しっかり勉強できるな」


稲田が拍手のジェスチャーをしながら声を上げた。


「わ、すごい!社長、検索頑張りましたね!」


「ほんまやで。ワシもスマホ使いこなせるようになったわ。でもな、こっから先は情報の取捨選択が重要やな…」


そう言いながら、社長は得意げにスマホを掲げた。稲田と水野は顔を見合わせ、思わず吹き出した。


オフィスの空気は、静かに笑いに包まれていた。


社長の小さな一歩。それは、アナログとデジタルの間にある、柔らかで優しい物語の一幕だった。


ーーVDI導入の落とし穴ーー

昼下がりの田中司法書士事務所。水野幸一はパソコンのモニターに目を落とし、資料のチェックに集中していた。

そんな静寂を破ったのは、事務所の電話がけたたましく鳴る音だった。


「田中司法書士事務所、水野です」


受話器の向こうから聞こえたのは、聞き慣れたA社社長の声。だが、いつもの元気な調子はなく、どこか疲れがにじんでいた。


「水野さん、先日話してたVDI、うちも導入したんやけどな…ネットワークがめっちゃ遅くなって、プリンターもまともに動かへんねん」


「えっ、もう導入されたんですか?」

水野の眉がぴくりと動いた。「確かにVDIの導入には慎重な設計が必要ですが、どのように進められました?」


「うちのシステム担当に、仕事の合間で突貫作業でやらせたんや。ベンダーから基本的な説明は受けて、社内勉強会もしたけど、正直あんまり理解できてへんくてな…」


内心でため息を飲み込みながら、水野は言葉を選んだ。


「なるほど…。その後、運用管理はどうされています?」


「うーん…複雑すぎて正直手に負えへん。ベンダーに問い合わせたら、デフォルト設定を変えたら改善できるって言われたんやけど、それもようわからんねん」


水野は、机の端に手を置いて静かに目を閉じた。VDI。仮想デスクトップ環境は確かに便利だが、設定と運用を誤れば、業務を逆に滞らせる諸刃の剣となる。


「A社さんのシステムとVDIの相性を考えながら設計しないと、トラブルが発生しやすいんです。導入前にご相談いただけていれば、もっとスムーズに進められたかもしれませんね」


「いや、それはそうやけどな…ベンダーに頼むと別料金になるらしくて、どうしたもんかと…」


「確かに、追加料金がかかるのは痛いですよね。でも、今のままだと業務効率が落ちてしまいますし、社内の負担も増えてしまいます。ベンダーとの契約内容を確認しつつ、設定変更を検討されてはいかがでしょう?」


「そやな…もうちょっと早く相談すればよかったわ」


電話が切れた後、水野はゆっくりと受話器を置いた。そして、ふと小さな声で呟いた。


「…だから、導入前に相談してほしいんですよね」


そのつぶやきが聞こえたのか、近くのソファに腰をかけていた田中社長が、スマホをいじりながら顔を上げた。


「ほら、水野、お前の言う通りになったやろ。ワシも音声入力で『VDI導入 相談』って検索しとこか?」


社長の得意げな表情に、稲田美穂がクスクスと笑った。


「社長、今それやっても遅いですよ…」


「せやな…けど、次からはA社にもちゃんと相談してもらえるように、ワシらも声かけていかなあかんな!」


水野は肩をすくめて、少し笑った。


「確かに、それも大事ですね」


この出来事をきっかけに、田中司法書士事務所では「IT導入時は事前相談を!」という啓発活動を始めることになった。


パンフレットの片隅には、田中社長のこんな言葉が添えられている。


「せやから、ITはシステムだけやなくて、人間関係もセットで考えなあかんのや!」


事務所の誰もが、その言葉の意味を、今ではしみじみと実感している――。


ーー仮想の壁ーー

午後の陽射しが少しずつ陰りを見せ始めた頃、田中司法書士事務所の会議室に、どこか疲れた様子の二人の男が現れた。A社の社長とB課長。

彼らは深く腰を沈めると、どっと溜息をついた。


「いやぁ、急に押しかけてすまんな。どうにもならんくてな……」と、A社社長。


「ええよええよ、お得意さんが困ってるのに放っとけるかいな」と、田中社長が懐かしい関西弁で応じた。


すぐそばには、水野と稲田も座り、静かに耳を傾けていた。


「まず、現状を整理しましょう」と水野が促すと、B課長がぽつりぽつりと語り始めた。


「VDIを導入したんですが……社内ネットワークがやたら遅くなりまして。プリンターも遅延ばっかりで……正直、原因も見当がつかないんです」


「ベンダーには聞いたんや。でも『デフォルト設定をいじればよくなる』って言われて、そこからがもうチンプンカンプンで……」と、社長も嘆息を重ねる。


水野は冷静だった。


「VDIの導入にあたっては、ネットワークの帯域設計とプリンターのリダイレクト設定の見直しが必要です。

特に初期設定のままだと、VDIが通信帯域を優先してしまって、他の業務が圧迫されることもあるんです」


「……そ、そうなんですか……」と、B課長は驚いたように顔を上げた。


「また、プリンターの遅延も、VDI環境内での中継設定が原因かもしれません。

ローカルのプリンタへ直接接続するよう変更すれば、改善される可能性があります」


社長は腕を組み、黙ったまま宙を見つめた。数秒の沈黙のあと、小さくため息をついた。


「結局、追加でベンダーに頼まな解決でけへんのやろか……」


その言葉に、田中社長がニヤリと笑った。


「いやいや、工夫でなんとかなることもある。

けど……なんで水野に最初から相談せんかったんや? ウチ、ずっとそばにおったやろ?」


「……ぐぬぬ。それはほんまに……返す言葉もないわ」


B課長も深く頭を下げた。


「すみません……私も、もっと事前に調べておくべきでした。

急な導入で、プレッシャーに押しつぶされそうで……」


稲田が、そっと声をかける。


「課長、大丈夫ですか? 無理してないですか?」


「……はい。ありがとうございます。正直、胃が痛くて……」


水野は一つうなずくと、パソコンの前に姿勢を正した。


「まずは、こちらでできる範囲から問題を切り分けましょう。設定変更による改善策を探ってみます」


「せやせや。まだギブアップには早いで。

ウチらの知恵で、A社の業務を元通りに回さんとな!」と田中社長。


少しずつ、A社の二人の表情に光が戻ってきた。


「……せやな。田中社長、水野さん、ほんま頼んますわ」


「任せてください。まずはネットワークの使用状況を確認して、VDIの帯域を見直しましょう」


その瞬間、会議室の空気が少しだけ明るくなったように感じられた。


【補足】水野のアドバイス:VDIの最適化のポイント

QoSの設定:VDIの信号マウス・キーボードを高優先度に、動画や大容量ファイルは低優先度に。


帯域制限(Throttling):1ユーザーあたりの上限を設定。ピーク時間の制御。


VDIの最適化機能:画面転送の圧縮、MMRの有効化、プリンタの直接接続方式への変更。


帯域モニタリング:SNMP/NetFlowなどを使い、どのアプリが帯域を使っているか分析。


ーーVDI問題、解決への道筋ーー

春の陽射しが差し込む午後、田中司法書士事務所の応接室には、重苦しい空気が流れていた。


応接テーブルを挟んで座るのは、田中卓造社長、水野幸一、そして来客のA社代表とB課長。コーヒーの香りも、今は沈黙の緊張を和らげきれない。


ため息をついたのは、B課長だった。


「……メールの遅延がひどくて、営業からもクレームが来ています。クライアントとのやりとりが滞ると信用問題になりますし、電話で『送った』『届いてない』の押し問答が続くんです。」


その声には、現場の疲弊がにじんでいた。


田中社長は腕を組み、スマートフォンをテーブルに置いた。少し眉をしかめながら、ゆっくりと尋ねる。


「ほんで、プリンターも遅い言うとったな?」


B課長はうなずいた。深く、重々しく。


「ええ。で、気の短い社員が勝手にインクジェットプリンターをPCに直結してるんです。ネットワーク管理がガタガタになりつつあります……。」


「ほぉ……それは、ちとヤバいなぁ。」


田中の声に混じるのは、呆れというより、事情を察した上での同情だった。


一方、水野は、話を聞きながら淡々とメモを取っていた。その所作は落ち着いていて、焦燥に駆られる空気とは対照的だった。


「ベンダーの研修は受けたとのことですが……」と水野が口を開いた。「A社の業務に即したものではなかったんですね?」


A社の社長が顔をしかめた。


「ああ、そうなんだよ。研修は一般的な内容だった。うちの業務フローに沿ってカスタマイズされていなかったから、社員たちは『実務にどう活かすのか?』っていう視点が持てなかった。結局、形だけで終わってしまった。」


その言葉に、水野は静かにうなずいた。そして、手帳を閉じて、ゆっくりと説明を始めた。


「A社としては、次の二つのアプローチで対策を進めるべきです。」


言葉に迷いはなかった。


「① ベンダー交渉:  - VDIの初期導入時の説明不足を指摘し、追加料金なしで設定調整を要求する。  - A社の業務に適した研修資料の提供を求める。


② A社システム部での対応:  - ネットワーク帯域の最適化(QoS設定の見直し)  - プリンターの接続方法を統制(無許可のローカル接続の禁止)  - メール送受信の遅延対策(サーバー設定の再確認)」


一拍置いて、水野はA社社長を真っ直ぐ見つめた。


「もちろん、私もA社主導で進められるように、できる限りのサポートをします。」


応接室に、少しだけ温度が戻る。


A社の社長は腕を組み、目を伏せたまま考え込んでいたが、やがて力強く頷いた。


「……確かに、うちの業務をしっかり分析して、自分たちで主導していくべきだった。ベンダーには、言うべきことはきっちり伝える。」


田中社長も、顎に手をやりながら口を開く。


「ほな、A社の業務に合うように、まずは課題を整理しよか。水野くん、B課長と進めるべきポイントをまとめたらどうや?」


「承知しました。」


水野はすぐに手帳を開き、ToDoリストを構築し始めた。その手際の良さに、B課長も少しだけ顔を緩めた。


光が少しずつ射し込むように、閉ざされた空気の中に、解決の道筋が見えてきたのだった。


ーー田中オフィス、A社VDI問題と成長の記録ーー

応接室に、重たい沈黙が垂れ込めていた。


A社の社長は、腕を組み、目を閉じて考え込んでいる。隣に座る情報システム部のB課長も、深く長いため息をついた。まるで、この沈黙の中に答えが隠れているかのように。


田中司法書士事務所の田中卓造社長と、公認会計士でもある水野幸一は、そんな二人の様子を黙って見守っていた。


目を合わせたわけではない。だが、互いに同じ思いを抱いていることは分かっていた。


(これは、A社が自分たちで乗り越えるべき課題だ。)


「今、うちが前面に出て解決を請け負うのは簡単ですわ。でもな、それやとA社さんのシステム運用の力は、ちっとも伸びまへん。結局また同じような問題が起こったとき、外部頼みのままやったら、意味がないんですわ。」


田中はゆっくりと語り出した。


「せやから、A社さん自身が自分のシステムを主体的に見直していくのが、いちばんええと思うんです。うちは、その後ろでサポートする役割に回らせてもらいますわ。」


その言葉に、社長は驚いたように顔を上げた。


「え……それで大丈夫なんですか? サポートは……」


すかさず水野が落ち着いた声で応じる。


「もちろん、しっかり支えます。B課長を中心に、逐次やり取りしながら、必要なときにはアドバイスも、ベンダーとの交渉の助言も行いますよ。」


B課長は、目を瞬かせた後、すっと息を吐いた。


「……ありがとうございます。実は、私たちだけでは不安で。でも、伴走してもらえるなら……やれそうな気がします。」


A社社長はうなずいた。


「よし、B課長。お前が主体になって進めてくれ。田中さん、水野さん、進捗は定期的に報告させてください。」


「もちろんや。何かあったら、すぐ水野に連絡しぃや。ただな、これは自分らの会社の問題や。自分らで解決できたら、その分だけ会社が強くなる。」


田中はスマートフォンをテーブルにポンと置き、笑みを浮かべた。


水野も静かに微笑んだ。


「まずは問題点の洗い出しから始めましょう。解決の道筋が見えてくれば、不安も少しずつ消えていきますよ。」


こうして、A社主導のVDI問題解決プロジェクトが幕を開けた。田中オフィスは一歩引いた立場でありながら、確かな支援を続けていくことを決めた。


『1か月後の午後、静かな成長の報告』

田中オフィスの午後。穏やかな日差しが窓から差し込む中、和やかな空気が流れていた。


「ほぉ~、1か月でほぼ収まったんか。」


田中は腕を組んで、目を細めた。


「はい。水野先輩のアドバイスが効きましたし、B課長も驚くほど前向きに動いてくれて。ベンダーとも交渉がうまくいって、最終的には追加費用もかからずに最適化できました。」


稲田美穂は、少し誇らしげに報告した。


「それはようやったなぁ。A社も助かったし、B課長も成長したいうわけや。」


田中が満足そうにうなずくと、稲田は少し照れたように笑いながら言った。


「……で、昨日B課長から食事に誘われまして。」


「ほぉ?」田中の眉がピクリと上がる。


水野も、コーヒーを飲む手を止めた。


「B課長、独身ですよね?」


「ええ、36歳で、ずっと仕事一筋だったそうです。でも、今回の件で少し自信がついたって。」


田中はニヤリと笑った。


「ええやないか。仕事もできて、よう頑張る男や。で、行ったんか?」


「行きましたよ。お礼の意味もありますし。でも、まあ……普通にごはん食べただけです。」


「ほぉ~、脈ナシやな。」


「いえ、そんな言い方しないでください!」


稲田は慌てて手を振る。


水野は静かに笑った。


「まあ、仕事を通して人とつながるのも悪くはないですよ。今回の経験で、稲田さんの対応力も上がったと思います。」


「はい。最初は本当に不安でしたけど、最後はB課長と二人三脚で、ちゃんと問題を解決できました。」


田中は大きくうなずいた。


「そや、それが成長いうもんや。自分で考えて動けるようになってこそ、仕事はおもろいんやで。」


「はい!」


稲田の声には、自信と喜びがにじんでいた。


ーーVDIの限界、そして新たなビジネスの芽ーー

「ただ、ひとつ気になる点がありまして……」


水野の一言に、空気がピンと張りつめた。


「A社って、物品販売もやってますよね? BtoCの業務部分では、VDIだけでは守りきれないリスクがあります。」


田中が少し眉を寄せた。


「なんでや?」


「MITB攻撃……‘Man-In-The-Browser’です。ブラウザを介して偽の送金画面などを差し込まれるタイプの攻撃で、VDIでは完全に防げません。」


稲田が補足した。


「そこで、ワンタイムパスワードの導入を提案しました。これなら、たとえ攻撃されても最終確認で不正を防げます。」


田中の目が光った。


「おお、それええな! B課長、社長に話す言うてたか?」


「はい。関心を持ってくださって、導入に動きそうです。」


田中は、嬉しそうにテーブルを軽く叩いた。


「これ、ウチのコンサルになるんちゃうか?」


「はい! 以前に導入支援した実績もありますし、料金も取れます。」


「よう言うた、稲田くん。しっかり商売の種、拾うてきたな!」


稲田はにっこり笑った。


「ありがとうございます。まだ正式依頼ではありませんけど、しっかりフォローしていきます!」


「おう、ええぞ。こういうのはな、先に提案したもん勝ちや。ガンガンいこか!」


「はいっ!」


A社の問題は、解決とともに新たな信頼とビジネスの芽を育てていた。


田中オフィスの挑戦は、これからも続いていく――。

ー完ー





VDIの機能で、誤解を防ぐため、以下を変更しました。社長の関西弁補正もしています。(2025.6.22)

(変更前)

「端的に言うと、PCそのものにデータを保存せず、サーバー上に仮想の作業環境を作って、そこから業務を行う仕組みです」と、水野は手元のタブレットを示しながら説明を始めた。

「つまり…感染した端末にも、直接的な被害が及びにくくなるということか」と社長がつぶやいた。

「はい。仮に端末がウイルスにやられても、業務データはサーバーにあります。端末を交換するか、初期化するだけで、業務の再開が可能になるんです。」

稲田も、少し身を乗り出した。

「リカバリーが簡単になるってことですね。それは安心感があります。」


(変更後)

「端的に言うと、業務データをPCのローカルストレージに永続的に保存せず、サーバー上に仮想の作業環境を作って、そこから業務を行う仕組みです」と、水野は手元のタブレットを示しながら説明を始めた。


「つまり…ランサムウェアとか、端末内のデータを直接的に標的とする攻撃に対しては、被害が及びにくくなるということやな」と社長がつぶやいた。


「はい。仮に端末がマルウェアに感染し、業務データが破損するような事態になっても、業務データはサーバーにあります。端末を交換するか、初期化するだけで、比較的速やかに業務の再開が可能になるんです。」


稲田も、少し身を乗り出した。


「リカバリーが簡単になるってことですね。それは安心感があります。」



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