第四十六話、アバスの田中オフィス夏合宿(前編)
ーーひと夏の誓いーー
もうすぐ夏休みが始まる。
海へ山へと、開放感に浮き立つ学生たちの話題が、街をにぎわせ始めていた。
けれど東京・竹ノ塚にほど近いシャルマ家のリビングでは、その空気とは少し違った静けさが流れていた。
ラヴィ・シャルマは、長男アバスの顔を真剣なまなざしで見つめていた。
いつもの柔らかな目元は、今日は少し硬く、そして深く彼の心を探っている。
ソファに腰掛けたラヴィの正面で、高校生になったばかりのアバスが背筋を伸ばして座っていた。
その表情には、年齢を超えた独立心と、揺るぎない決意がにじんでいる。
「Sセミナーでの夏季講習、本当に受けたいんだな?」
ラヴィは静かに問いかけた。
その声には、父としての心配と、ひとりの男として息子を認めたいという思いが、入り混じっていた。
「うん、絶対行きたい。入塾のオンライン試験もクリアしています」
アバスは、迷いなく頷いた。
Sセミナー——関西では知る人ぞ知る、難関大学への進学実績を誇る小規模進学塾。
少人数制のため入塾は狭き門であり、全国から志願者が集まる。
東京で受けたその試験を、アバスは見事突破したのだ。
それを知ったとき、田中オフィスの奥田珠実や佐々木ですら目を丸くして驚いていた。
普段は寡黙で、控えめな印象のあるアバスが、そんな成果を出すとは誰も予想していなかったのだ。
ラヴィは、心の中で静かに感嘆していた。
向こうでネットの趣味仲間のアパートに泊まらせてもらい、アルバイトをしながら
Sセミナーに通って勉強するという計画だ。
まだ高校生なのに、自分で学びの場を探し出し、自活まで視野に入れて計画を立てている。
この夏に賭ける思いは、並々ならぬものがあるのだろう。
ただ一つの問題は、滞在先だった。
勿論、Sセミナーは地元の通学生が中心で、寮などはない。
ラヴィは、勤め先である田中オフィス本社の、田中卓造社長に相談を持ちかけた。
結果は、想像以上だった。
田中社長は快く申し出を受け入れ、仮眠室の使用、食事の提供、さらにアルバイトまで斡旋してくれた。
しかも、待遇はほぼ破格。
それはきっと、水野所長のもとで誠実に働いてきたラヴィへの信頼と、感謝の気持ちの現れに違いなかった。
「アバス。田中オフィスでアルバイトをしながら、Sセミナーに通うんだ」
ラヴィの声には、ひそやかな誇りがにじんでいた。
アバスは瞳を輝かせて、大きくうなずいた。
アルバイトと受験勉強、そして京都での新たな生活。
この夏は、彼にとって特別な挑戦になる。
でも、それ以上に——
きっと、一生忘れられない夏になる予感がしていた。
ーー田中オフィスの夏ーー
「アバス君か!いやー、Pythonでドローンまで操る秀才と聞いてるで。うちのオフィスで、その頭脳を存分に発揮してもらうわ!」田中社長はアバス・シャルマの到着の日が待ち遠しい。
アバスのアルバイト内容は、田中オフィスの資料整理やパソコン入力、その他雑用が主だった。勤務時間は9:00から14:00までで、休憩1時間。時給は1090円だ。そして、最大の好意は、田中オフィスがアバスの滞在先となることだった。
「うちのオフィス、ええやろ?サーバーの発熱を回収する給湯器があって、シャワー室も完備や。敵が攻めてきたら籠城もできるで!」田中社長は冗談めかして胸を張った。確かに、オフィスの一角には簡易ながら清潔な(だった)仮眠室があり、アバスはそこに泊まることになっていた。3食は田中オフィスで提供され、さらに宿泊費と水道光熱費も無料という破格の待遇だった。
「土日休は勉強とプライベートがあるから、しっかり休んでな」と田中社長は気遣ってくれた。これにより、アバスは週5日勤務、20日間の勤務で手取り78,480円を見込める計算になった(1090円 × 4時間 × 20日 × 0.9)。
そして、Sセミナーの塾費についても、田中社長が取り計らってくれた。
「アバス君は入塾試験の成績がずば抜けてたからな。武田夫妻も『ぜひ、塾生にスカウトしたいぐらい!特別料金でやらせてください』と大歓迎やったで。通常50,000円のところ、特別に20,000円になったで!」
アバスは、自力で夏休みを乗り切るという独立心が、こんなにも多くの人々の好意と支援を引き出すとは想像していなかった。特に、自宅から遠く離れた京都で、快適な宿泊場所まで提供してくれる田中オフィスの存在は、アバスにとって計り知れないほど大きかった。
ーー仮眠室防衛戦争 ―たまちゃん怒るーー
アバス・シャルマが京都入りする数日前の田中オフィス。
その片隅にある仮眠室では、静かなる――いや、やかましい戦争が勃発していた。
「半田さーん!!」
爆裂するような声とともに、ドアが音を立てて開いた。
姿を現したのは、田中オフィスの爆速元気娘こと、奥田珠実。通称たまちゃん。
両手を腰に当て、仁王立ちのそのシルエットは、まるで家庭用洗剤のCMに出てきそうな頼れる主婦…いや、もとい、職場の鬼軍曹である。
仮眠室の中央では、ソフト開発支援担当・半田直樹が、床に体育座りして缶コーヒーを飲んでいた。
部屋中に散らばる専門書、ケーブル、謎のPCパーツ、そして大量の空き栄養ドリンク瓶たち。
この場所は彼にとって「仮眠室」などではなく、「もう一つの巣」であった。
「いつになったら片付くんですか!?アバスくん、もうすぐ来ますよ!いい加減にしないと、私、社長に報告しますからね!『半田さんが部屋を占拠してアバスくんが寝られません』って!!」
「ま、待って、たまちゃん……これは、資料だし……これは常温保管が必要で……これなんか、レアな初期BIOSのバックアップが……」
「知らんわ!! どこの博物館のつもりですか!? 仮にも“先輩”でしょ!」
半田の言い訳は、すべてその場で検閲削除された。
たまちゃんの鉄拳ならぬ「鉄ロジック」と「気合い」に勝てる者など、このオフィスには存在しない。
すみのほうでコーヒーを飲んでいた佐々木恵(通称メグ姐さん)も、「ぷっ」と笑いをこらえながらスマホでこっそり写真を撮っていた。
「ハッシュタグつけて社内SNSにでもあげとこ。#半田ピンチ #寮母たまちゃん爆誕」
やがて半田は、観念したように動き出した。
ダンボールを組み立て、PC周辺機器を詰め、段差に引っかかって「うおっ」とつまずく。
長年慣れ親しんだ「半田の要塞」は、1時間後にはベッドとサイドテーブルだけを残した、清潔で空虚な空間へと変貌した。
「これで、いい?」
額に汗をにじませながら、やや拗ね気味に見上げた半田。
それに対し、たまちゃんは100点満点の笑顔で親指を立てた。
「完っ璧です!アバスくんも、これなら気持ちよく過ごせますねっ!」
「はいはい……もう一生帰ってこられへん気がするな、ここ」
「それがねらいです♪」
そして、アバスが到着したその日。
きれいになった仮眠室で荷物を置き、彼はふと安堵のため息をついた。
「すごいな……こんな整った部屋まで用意してくれるなんて」
彼はまだ知らなかった。
この部屋が一度は「半田要塞」と化し、たまちゃん vs 半田くんの血で血を洗わない“断捨離戦争”の末に解放された聖地であることを。
ーー王子、オフィスに現るーー
もうすぐ夏が始まる。
それは例年のように、湿気と資料と出勤票(兼領収書明細)にまみれた平凡な日常が流れる田中オフィスの風景――となるはずだった。
だが、この日ばかりは違った。
午前九時。東京・田中オフィスのエントランス。
ラヴィ・シャルマと一緒に一人のインド系の青年が、ゆっくりとドアを押し開けた。
ラヴィさんが挨拶する。「本社の皆様、このたびはたいへんなご面倒を受け入れてくださり、感謝いたします。息子のアバスです。」
「アバス・シャルマです。よろしくお願いします」
サラリと光沢あるウェーブのかかった黒髪。細身の身体に、きちんと整えられたワイシャツ。
そしてなにより――その笑顔。
微笑んだその瞬間、彼の背後にタージ・マハルのようなインドのお城が見えた(ような気がした。タージ・マハルは墓所であり、宮殿ではないが、イメージ的なものです)。
白亜の宮殿を背景に、静かに佇む若き藩王子。
光が差し込み、彼の頬を照らした瞬間――オフィスの温度が、二度ほど上昇したように感じられた。
「写真でもずいぶんイケメンだと思ったけど……実物、ヤヴァイわ」
まず反応したのはメグ姐さんこと佐々木恵。
その目は完全に職場の冷静な経理ではなく、某乙女ゲームのヒロインと化していた。
たまちゃん(奥田珠実)は隣で口を手で押さえて呟いた。
「……カワイイ」
その横で、控えめだったはずの島原さんが、意味不明なメニューを唱え始める。
「(うちの息子にしたいわぁ……)今夜はバターチキンカレーとラッシーにしましょうか……」
――極めつけは、藤島専務である。
冷静沈着、田中社長の右腕、資格を20個持つ鋼鉄のロジック女王。
彼女のメガネの奥に、ふとした曇りが差した。
まるで前世がインドの宰相だったことを思い出したかのような眼差しで、
彼女はアバスを見つめていた。
(この子の血統……王族の御落胤かしら……)
緊張の沈黙のなか、空気を切り裂くように響く、「ごほんっ」という咳払い。
その咳が、まるで王宮に響く太鼓のように、場を正気に戻した。
「……えー、ワシが田中卓造です。田中オフィスの代表で、司法書士。ラヴィさんにはいつも助けてもろてます。このたびは、アバスくんに働いてもらえるっちゅうことで、よろしくお願いしますな」
田中社長が自己紹介を始めるその姿すら、何やら映画のワンシーンのように見えるのだから不思議だった。
背後にカメラが回っていて、次の瞬間には全員で踊り出しそうな気配すらある。
アバスは少し照れながら、オフィスの皆へと会釈した。
――まだ彼は知らなかった。
この日、田中オフィスの女性スタッフ全員の心に、“王子”という謎のフォルダが作成されたことを。
ーー橋本部長、正気を取り戻すーー
タージ・マハルの幻影がまだうっすらと漂うオフィス空間。
島原さんはサリーでもまといたげに首をかしげ、メグ姐さんはなぜかスマホで「インド 永住権 申請方法」と検索していた。
たまちゃんに至っては、アバスのほうに一歩踏み出しかけた足を自分でロックして、何かを我慢している顔だった。
そんななか――
最初に「ハッ」と正気に戻ったのは、営業部長・橋本和馬だった。
司法書士試験に10年かけて合格した男に、これくらいのメンタルはある。
カリスマ王子相手でも、営業マン魂がぶれないのがこの人のすごいところだ。
「えーっと、アバスくんね。初めまして! 橋本和馬です!」
声に張りがある。ちょっと緊張してるが、ちゃんと出た。
「営業部長をしています。田中オフィスの“動くレーダー”みたいなもんでしてね。何かあったら、なんでも拾ってきますから、遠慮なく言ってください!」
ここで、ややドヤ顔。
本人はクールに決めたつもりだが、若干スーツの肩が浮いていた。
アバスは、その誠実そうな雰囲気に自然と笑顔を返した。
「ありがとうございます。よろしくお願いします、橋本部長!」
「おお~! もう“部長”って呼んでくれるのか。礼儀正しいなあ~……ウチのたまちゃんとは大違いや!」
横からチラッと見たたまちゃんは「は?」という顔でにらんできたが、橋本は気にしない。
「ま、とにかくこの夏、全力でサポートするから。な? うちの女性陣はちょっと今、魂どっか飛んでるけど、だいじょうぶ! 一週間くらいで慣れるから!」
……言いながら、心の奥で(俺も慣れるかな、これ)とつぶやいた。
背筋がスッと伸び、声の通る優秀な営業部長・橋本。
ただ一つだけ、このあと気にしていたのは、今朝セットした髪のワックスが、インドの王族オーラに勝てなかったことだった。
ーー総裁Z、インドの王子に語るーー
橋本部長の堅苦しい挨拶が、ようやく終わった直後だった。会議室にいた誰もが安堵の息をついたその時、一人の男が、まるでスローモーションのようにゆっくりと立ち上がった。
グレーの上着に、黒縁メガネ。その表情は穏やかながらも、眼差しは未来から来た観測者のように鋭い。宇宙の真理でも見抜いているかのようなその視線に、アバスは思わず背筋を伸ばした。
「私が、竹中駿也だ」
低く、しかしよく響く声が会議室に広がる。アバスが慌てて「はじめまして!」と、ぺこりとお辞儀をしようとした、まさにその時――竹中の口から、唐突に、だが、まるで長年温めてきたセリフのように、放たれた一言。
「……きみは、そう。アニメの『反撃のリレーシュ』のようだ」
オフィス内に、一瞬の沈黙が走った。沈黙を破ったのは、きょとんとしたアバスの声だった。
「……え?」
アバスが目をぱちくりさせる。まるで、目の前の男が突然、異世界の言語を話し始めたかのような反応だ。
その傍らで、たまちゃんが口元に手をあてて「出た」と小さくつぶやき、メグ姐さんは「またアニメから入ったか」と、諦めたように天井を仰いだ。まるで、いつものことだとでも言いたげな様子だ。
佐々木さんは、静かにたまちゃんにメモを渡す「ナニコレ?」。たまちゃんがそれを受け取ると、なにやら書き込んで佐々木さんに返す。メモにはこう書かれていた。
《※リレーシュ=竹中顧問が20年ぐらい前にハマッていたアニメ、”コードスキル『反撃のリレーシュ』”。》
(いや、20年前って…!)佐々木さんの心の中で、激しいツッコミが炸裂する。
しかし、竹中はまったく動じない。まるで、彼の前には、彼がイメージした架空の「リレーシュ」が実在するかのように。
「きみの中には、“撃たれる覚悟”がある目をしている。リレーシュが戦場に立ったあの夏の日、彼もまた、何も持たずに、すべてを背負ったんだ」
(何々?アニメのシーンが始まっている・・・)
心の中でたまちゃんが再びツッコミを入れつつも、竹中ワールドは止まらない。彼の言葉は、まるでどこかの劇場版アニメのナレーションのように、壮大に続いていく。
「行動経済学でいうとね、選択には必ず“予期せぬバイアス”がかかる。だがきみは、まっすぐだ。きみには、“創造の神”の精神がある。」
アバスは、まだ若干理解できていない顔ながらも、竹中の言葉の迫力に押され、真摯に頷いた。
「ありがとうございます……えっと、僕もがんばります」
その様子を見て、竹中はニッと、満足そうに笑った。その笑みは、まるで悪の組織の総帥が、若き勇者に試練を与えた後のような、不敵なものだった。
「見て、感じて、創れ。田中オフィスは“君の物語の舞台”だ。きみにとって、この夏が、“第1話”になるように」
それはもう、アニメのナレーションのように、完璧に決まっていた。誰もがその竹中ワールドに飲み込まれ、一同がまた静まりかけたそのとき――
田中社長がコホンと咳払いをした。その咳払いは、まるで舞台の幕が閉じかかるのを知らせる合図のようだった。
「えー……竹中顧問、毎回やけど、話が壮大すぎるんよ……もうちょっとわかりやすく頼んますわ……」
すると竹中は肩をすくめながら、照れたように笑った。
「すみません、つい“導入ナレーション”のクセで……」
その言葉に、会議室にはようやく安堵の空気が戻った。アバスは、このオフィスでの夏が、本当に「第1話」になりそうな予感に、小さく胸を膨らませていた。
ーー常識の伊原、出撃すーー
竹中顧問の“壮大なる前口上”が終わり、一同が謎の余韻に包まれたそのとき。
オフィス内には、一種の“フワフワした非日常感”が充満していた。
まさに「異文化衝撃 × アニメ衝撃」のダブルパンチ。
“オフィス”という名の現場が、今にもスタジオムーンバース的幻想世界に呑み込まれようとしていた。
そこで、立ち上がったのが――
伊原 隆志、田中オフィスの堅実な行政書士であり、7歳の娘を育てるシングルファーザー。
彼はスッと前に出て、姿勢を正すと、静かに語りはじめた。
「はじめまして、伊原と申します。えー……私は、元々一般企業に長く勤めていまして、行政書士資格を取得して、一昨年ご縁あって田中オフィスに入社しました」
語り口は淡々としている。だがその“普通さ”が、どれほど尊いことか!
島原さんが(あぁ、まともな大人がいた……)と胸をなでおろし、
メグ姐さんも(これこれ。こういうのよ、社会って)と肩をゆるめる。
「うちは今年小学生になったばかりの娘がいまして、通勤時に送り迎えしています。アバスくん、わからないことがあったら、いつでも声かけてね。僕も最初は分からないことばかりだったから」
そこに流れる、庶民のあたたかさと理性の光。
“働く父”のリアリズムとユーモアが、ここで炸裂する。
「ちなみに、うちの娘もアバスくんの写真を見て“王子様だ!”って騒いでました。お姫様ドレスでお迎えに行くつもりだったらしいですが、止めました(笑)」
一同、ほっと笑う。
島原さんは「まぁ、かわいいっ」と笑い、
メグ姐さんは「え、じゃあ私が代わりにドレスで迎えに行こかな」とボケをかまし、
たまちゃんは「姐さんが着たらヴィランズやわ」と返した。
完全に、空気、戻った。
伊原は、ほっと胸をなでおろした。
“アニメ比喩”と“王子幻想”の渦を、父の常識力で沈めた。
これぞ、父力である。
アバスも少し肩の力を抜いて、穏やかに笑った。
「ありがとうございます。僕、がんばります。あの……よければ、娘さんともお友達になれたらうれしいです」
そのひとことに、伊原の目尻がほころんだ。
「はは、それは光栄だ。うちの子、カレーが好きだから、今度ぜひ“シャルマ流”を教えてやってよ」
こうして、
竹中顧問の“幻想バトルアニメ”から、
現実の日常業務へ――オフィスは無事、ソフトランディングを遂げたのであった。
ーー半田、灰になりながらーー
伊原の爽やかで常識的な挨拶によって、ようやく場の空気が落ち着きはじめた田中オフィス。
女性陣の心も少しずつ“現世”に帰還しつつある……そのときだった。
「……あ、あの……ぼ、ぼくも……」
ぼそりとした声。
誰かが気づき、振り向いた。
――そこにいたのは、半田直樹。
いつものフードパーカーではなく、珍しくきちんとしたシャツ姿。
だが、目の下には立派なクマ。
髪は少し乱れ、ネクタイは気持ち斜め、
どこか“ハードワーク後のIT戦士”の風格がにじんでいる。
「……半田くん、ちゃんと寝た?」と、たまちゃん。
「いや……仮眠室、片付けてて……朝4時に終わったんですけど……“でかいディスプレイ”をどこに置くかで悩んで……あの、うん、うん……」
(うんが2回出たぞ)と橋本が心で突っ込む。
それでも、ふらつきながらも半田はアバスの方へ体を向けた。
「ぼく、半田っていいます……Integrate Sphereのシステム管理とか、色々やってます……」
「仮眠室、ちゃんと片付けたんで……あの……たぶん、もう落ちてこないです、棚の上の本とか……」
一同「え?」
「え?」
「……落ちてきたの? 昨日?」
「いや、落ちそうになっただけ……っす」
(さすがに落としたとは言えなかった)
「ディスプレイ、でかすぎて……僕のアパートに入らないから……よかったら使ってください……起動スクリプトはデスクトップに置いときました……あ、あとドローンシミュレーターも……」
アバスは一瞬ぽかんとし、それから小さく微笑んで言った。
「ありがとうございます。ぼく、ドローン得意なんで、すごくうれしいです」
その言葉に、半田はちょっとだけ背筋を伸ばした。
そして、ぼそり。
「……よかった。じゃあ……僕、寝ます……」
次の瞬間、椅子に崩れ落ちるように沈んだ。
たまちゃんがすかさず小声でつぶやく。
「……彼の名誉のために言っとくけど、めちゃくちゃ優秀なんです、これでも」
島原さんがそっと膝掛けを渡し、
メグ姐さんが「ほっといても起きるわ、そのうち」とつぶやいた。
こうして、アバス王子?の歓迎セレモニー中に仮眠をとるという、歴史的珍事が静かに幕を下ろしたのであった。
ーーキャリアの装甲将軍、藤島専務、語るーー
半田が仮眠モードに突入し、再びほんのりと混沌の風が吹き始めたそのとき。
コツ、コツ……と、ヒールの音が床に響いた。
場が静まる。
さながら参謀登場の演出音である。
「では、私からも一言」
一同の視線が吸い寄せられた先には、
藤島光子、専務。
銀行仕込みの“超正確敬語”と、法令集が喋っているかのような論理の力場をまとって立つ姿。
すでにタージ・マハルなど、心のバックアップ領域に収納済である。
「はじめまして、アバスくん。私は藤島と申します。田中オフィスの業務執行を担っております」
無駄がない、でも硬すぎない。プロの挨拶の教科書のようだ。
「あなたのご両親――ラヴィさんとイヴリンさんとは、ご縁をいただいております。あなたのような聡明な若者が、ここで経験を積んでくださるのは、我々にとっても大変ありがたいことです」
女性陣がポワンとなっていた時間は、完全に“終了”。
メグ姐さんが(さすが専務……!)と姿勢を正し、
たまちゃんも(はっ……アバスくんにバカなとこ見せたかも!)と内心焦り出す。
「なお、職務時間内はアルバイト生とはいえ、田中オフィスの一員としての責任を持って行動してください。わからないことは、必ず報告・相談を。あなたのような若者に必要なのは、信頼される癖をつけることです」
アバスは目を見開いて、まっすぐにうなずいた。
「はい、ありがとうございます。そうします」
ほんの一瞬、藤島のまなざしがやわらぐ。
「……それと。夏の京都は湿気が厳しいです。水分と睡眠を確保してください。熱中症は、どんなに頭が良くても避けられませんから」
ここだけ少し、母の目になる。
だが一瞬ののち、またキリッとモードに戻り、
「以上。ようこそ、田中オフィスへ」
完璧な挨拶だった。
全員が心の中で拍手を送っていた。
橋本がぼそりと漏らす。
「なんで俺のあとにあの人来なかったんだ……俺、なんか漫才のツカミみたいやん……」
田中社長が肩を叩く。
「しゃあない、君のは関西人の宿命や」
こうして、キャリアと常識のアイアンレディが空気を整え、
いよいよ次は、本命(ある意味最大の爆弾)たち――
たまちゃん、メグ姐さん、稲田さん……女性陣の“照れと混乱と期待”が交錯するターンへと突入するのである。
ーー「ようこそ、かわいい息子さん」島原、母力発動すーー
藤島専務の完璧な挨拶が終わり、
“プロの大人が続くとホッとする”という空気に包まれた田中オフィスの面々。
次に立ち上がったのは、
島原真奈美――田中オフィス庶務担当であり、夜食担当大臣であり、癒やしの台所女神である。
目元のシワには優しさが、
その表情には、子どもも社員も包みこむような温かさがある。
「アバスくん。ようこそ京都へ。私は島原真奈美と申します。普段は事務のお手伝いをしておりますが、この夏は“寮の管理人さん”みたいな役割をいただいております」
と、やわらかく一礼するその姿に、アバスはすぐに安心した顔を見せた。
「高校生なら、もう立派な青年ね。でも、私は“母の目”で見てますから、ちょっとでも体調悪かったら、絶対に遠慮せずに言うのよ?」
その語り口には、経験からくる自信と“育て上げた人だけが持つ信頼感”がにじんでいた。
「ごはんは朝昼晩、しっかり用意します。夜食も冷蔵庫に入れておくからね。」
「うわぁ……ありがとうございます!」
アバスは両目を輝かせて頭を下げた。
その姿に島原の瞳がうるむ。
(あかん……かわいい……これ、“推し”ってやつやわ)
「うちにもね、もう中学の子がいるから、若い子の扱いには慣れてるつもり。でも、アバスくんは、なんていうか……特別ね。インドの風をまとってるの」
「風?」と橋本がつぶやいたが、誰も拾わない。
島原さんはそのまま、やさしく続ける。
「だから、ここでは自分の家だと思って、なんでも言ってね?」
アバスが「はい」と深く頷いた瞬間、島原は(完全に…この子を守ろう)と決意した。
それはもう、介護の現場で何人もの高齢者と向き合い、
家庭では反抗期も乗り越えてきた――“母のスキルフルコンバット状態”の発動だった。
女性陣が思わずささやく。
「もう……戻ってこれないわね、あの人」
「うん、“覚醒”してるわ」
「たぶんアバスくんが夏休み終わって帰るとき、泣くよ絶対」
そのとき、竹中顧問がぽつりと一言。
「……“甘甘の業”だな。これは止められん」
島原真奈美、完全に母モードオン。
この夏、彼女は“食卓の絶対守護神”として、田中オフィスを支えていくことになる――。
ーーワタシが見張っといたる、メグ姐さん正気に戻るーー
島原真奈美の母性炸裂タイムが終わり、会場が再びホワホワと温かい空気に包まれていたそのとき――
誰かが、カツッ、カツッと、サンダルなのに迫力のある足音で前に出る。
「……ふん。ええ加減、ワタシも挨拶せなあかんやろ」
全員が目を向けると、そこにはメグ姐さんが仁王立ちしていた。
腕を組み、表情はややこわばり気味。
(あれ? いつもより表情、硬ない?)とたまちゃんが横でささやく。
(うん……たぶん、耐えてる)と稲田が頷く。
佐々木恵――その心の内は、大混乱だった。
(……あかん。正直、初見でちょっとグラッときた)
(あの目……あの笑顔……あの品のある物腰……)
(って、あかんやろ! ワタシには匡介が……! )
脳内で葛藤するあいだにも、彼女は口を開く。
「アバスくん、よぉ来たね。ワタシは佐々木。みんな“メグ姐さん”って呼ぶから、そう覚えといてな」
アバスがにこっと笑って「はい、よろしくお願いします」と返す。
メグ姐さんは背筋を伸ばして口調を締めた。
「ま、アバスくん。困ったことがあったら、まずはワタシに言いなさい。たいていのことは、片づけたる」
(おお……やっと支配者モード入った!)とたまちゃんが安堵する。
「けどな。仕事は手加減せぇへんから。掃除、スキャン、経費整理、バックアップ――全部、びしっと覚えてもらうで」
(あ、こっちは完全に“鬼指導モード”やな)と伊原がつぶやく。
「田中オフィスで夏を過ごす言うんやから、観光客の気分でおってもらったら困るんよ?」
隣で島原さんが、そんなにキビシイの(ダメダメ・・・)という表情で、そっと首を振っている。
アバスは一歩も引かず、まっすぐ頷いた。
「はい。ぼく、ちゃんと仕事、覚えたいです」
それを聞いて、メグ姐さんはふっと笑った。
「……ええ返事やな。ええ子や。やっぱり、うちの子になってほしいわ」
「えっ……?」アバスが一瞬固まる。
「うそや。照れてる顔、見たかっただけや」
背中でそう言い残し、メグ姐さんは歩き去った。
その顔が一瞬だけ赤かったのを、たまちゃんだけは見逃していなかった。
ーー稲田美穂、静かに微笑むーー
少し遅れて、静かに一歩前に出てきたのが、稲田美穂だった。
「はじめまして。稲田美穂と申します。司法書士として、こちらで働いています」
清楚で整った口調に、空気が少し静まる。
「……アバスくん、遠いところからようこそいらっしゃいました。慣れない土地での生活、大変なこともあると思いますけど、気を張りすぎずに、ひとつひとつ慣れていってくださいね」
彼女の笑顔はやわらかく、落ち着いていて、まさに「大人の対応」だった。
島原さんの母性、たまちゃんの元気とは違う、穏やかで理性的な安心感。
アバスもどこかホッとしたように、丁寧に頭を下げる。
「はい。ありがとうございます」
(……こういうとき、水野先輩だったら、どう言うんだろう)
そんな考えがふと頭をよぎるが、稲田は口元にだけ微笑みを浮かべたまま、静かに一歩引いた。
佐々木メグはその様子を横目にチラ見しながら(やっぱり美穂ちゃんは"正統派"やな)と頷く。
たまちゃんは後ろで、(おしとやか~! うちにはできん芸当やわ~)と感心しつつも、ちょっとだけむずむずしている。
そして稲田は、小さな声でそっと言う。
「……体調崩さないようにしてくださいね。夏は、意外と疲れが出ますから」
まるで姉のような落ち着いた優しさだった。
ーーやっとウチの番!、たまちゃん全力で突っ走るーー
その後、会場に温かい空気が流れ、
アバスは少しずつ安心してきた。
そして、いよいよたまちゃんが立ち上がった。
「アバスくーん! いよいよウチの番やな!!」
たまちゃんが、元気よくその声を響かせると、みんながまたその勢いに引き込まれた。
「えっと、さっきまでの大人たちがみんな真面目に話してたけど、ワタシはちょっと違う! 元気に明るく、超ポジティブに行くよ! ってことで、アバスくん! よろしくねっ!!」
たまちゃんは一歩前に出て、両手を広げて大きく笑った。
「ワタシ、まじめなことももちろんするけど、こう見えても! なんていうか! すっごくお世話好きだから!」
アバスはちょっと笑って、心の中で「年上って感じしないな。後輩みたい」と思いつつ、頷いた。
「食事のことでも、勉強のことでも、なんでも言ってな! ワタシ、全力でサポートするから!」
そして、明るく手を振りながら続けた。
「でも、料理は得意やから安心して! もしお腹すいてたら、遠慮せんと言うてな~! ちょっと変わったスイーツかもしれんけど、この辺のお店全部制覇してるから!」
島原さんが横で「ダメダメ、たまちゃん。健康管理ぃ~」と微笑ましく突っ込んだ。
たまちゃんは慌てて手を振りながら続けた。
「 でも! もし何かあったらすぐに言ってな! ウチに任せておけば、大丈夫!」
その笑顔にアバスは微笑み返し、「ありがとうございます!」と元気よく答えた。
こうして、たまちゃんは明るく元気よく、でも少し照れくさい感じで自分の挨拶を終えた。
その後、オフィス内は和やかな雰囲気に包まれ、アバスは改めてこれからの田中オフィスでの生活に期待を膨らませていた。
一見、ドタバタしたやり取りだったが、それこそが田中オフィスの温かさであり、みんなが本気でアバスを迎え入れ、支えていこうという気持ちの現れだった。
アバスはこれから、厳しさの中にある優しさを学びながら、成長していくのだろう――。
ーー「願い」ラヴィ・シャルマのまなざしーー
一連の挨拶が終わり、オフィスにひとときの静けさが戻った。
アバスは緊張と期待を混ぜた表情で椅子に腰かけ、メグ姐さんの視線を気にしながらも、周囲の温かさに少しずつ体を預け始めていた。
その様子を、ラヴィ・シャルマは少し離れた場所から見守っていた。
背筋を正しながらも、心のなかではひとつ深い息をついた。
「……よかった」
ラヴィは静かにそう呟いた。
それは安堵でもあり、自身の決断への小さな肯定でもあった。
田中オフィス東京事務所。
彼自身、縁があって水野所長のいる東京事務所で働くようになったが、
その水野さんの原点、――京都本社――ここに、こうして自分の息子が
自らの意思で社会に向き合い、最初の一歩を踏み出そうとしている。
ここで出会う人たちのひとこと、しぐさ、背中、
それがこの子の「社会」というものの原体験になるのだ。
ラヴィはそれを重々、理解していた。
そして、だからこそ、願う。
「いい人たちに出会えたと思う。困ったら、頼ってくれ。強くなって、優しくなって……そして、何より、自分らしく成長してくれ」
ふと、隣から田中社長の声が届く。
「シャルマさん、アバスくんは、ええ子やな。あの目、ただモノとちゃうわ。ウチもがんばらんとあかんやろな~、フフ」
ラヴィは笑みを浮かべて小さく会釈する。
「ありがとうございます。皆さんのおかげです。本当に、ありがたい限りです」
ふと、田中社長が小声でつぶやく。
「……敵が攻めてきても、ウチにおったら篭城できるで」
ラヴィは、思わずふっと吹き出しそうになった。
それが、田中オフィスの空気だった。
真剣とユーモアが、息をするように共存するこの場所。
「きっと、この場所でなら……」
そう思いながら、ラヴィ・シャルマはアバスの背中をもう一度見つめた。
背は少し伸び、背筋も前よりまっすぐに感じられる。
少年から、大人へ。
今まさに、その扉の前に立っている。
ーー続くーー