第四十四話、米がつなぐ未来
ーー世界の米料理フェスティバルーー
東京・北区、田畑公園。
普段はのんびりとした空気の流れるこの公園が、この日ばかりは万国博覧会さながらの様相を呈していた。
各国の米料理を紹介するテントが並び、スパイスと蒸気が風に乗って鼻をくすぐる。空は抜けるような青、芝生には世界各国の人々が肩を並べ、炊きたての香りと笑顔で満ちていた。
テレビ中継のカメラがゆっくりと引き、やがて中央ステージに寄っていく。
そこに立つ男――スーツにサンバイザーというミスマッチな出で立ちが、妙に板についている。
フリーアナウンサー・桑島実朗。派手さはないが、語り口と存在感には不思議な説得力があった。
「皆さまこんにちは!」
マイク越しの朗々とした声が会場を包む。
「ここ、東京・北区田畑公園より、生中継でお届けします!
本日は――世界の米料理フェスティバル2025 in Tokyo!
略して“コメワン・グランプリ”、いよいよ開幕です!」
客席から拍手と「コメー!」という愉快な掛け声。さっそく会場は笑いに包まれる。
桑島が手元のカードを見ながら、静かに語る。
「そして本イベントをよりアツく、よりホカホカに盛り上げてくれるのが、こちらのお二人。
元キタイノシンジン、今や名前もネタも炊きたて感満点のコンビ、レンチンズ!」
舞台袖から登場したのは、場数を踏んだ漫才師らしい身のこなしのふたり。
北盛夫と飯野武。芸歴20年、しかし「売れなかった」経験をネタに昇華する、いま最も再加熱中のコンビだ。
北がマイクを握ると、ややとぼけた調子で口を開いた。
「いや〜コメワンって聞いて、最初ワシら、芸歴資格オーバーしてんやないのかと思いましたわ。
漫才のほうとちゃうねんな。」
観客の笑いを誘ったところで、飯野がすかさず突っ込む。
「ちがうちがう、そういうお笑いの腕を競う的なイベントちゃうで。
世界中の“コメ”料理が集まった、お腹も心もあったまる祭典です!」
桑島がうなずく。
「本日の参加は、海外勢が4チーム――タイ、ベトナム、フィリピン、台湾。
そして日本勢は、千葉、茨城、埼玉の3組。やや数では押されていますが、日本米の底力、見せてくれるでしょうか?」
北が少し真面目な表情を見せて言う。
「いや〜でもね、最近“あえて日本米食べてなかった”って人、多いと思うんですよ。
改めて食べてみたら、“こんなに旨かったっけ!?”って、再発見してもらえると思うんですよね」
その熱のこもった言葉に、観客の数人が思わず頷いた。
桑島が静かに問う。
「それは、コンビ名“レンチンズ”の由来にも通じますか?
“あっためなおして美味しくなる”——そんな意味も含まれて?」
「いやでもね、今日の料理、どれも炊きたてホカホカですよ!
レンチンいらんレベル!」
飯野の即答に、北が勢いよく被せる。
「もうな、“うちは炊きたて、ネタも炊きたて”で行きますんで!」
ふたりが胸を張って言い放ったその瞬間――観客席は拍手と笑いの渦に包まれる。
だが、ステージ中央に立つ桑島はというと、顔色一つ変えず、冷静沈着なまま、ふたりをじっと見つめていた。沈黙の数秒。
空気がやや張りつめたところで、彼は落ち着いた口調で言った。
「さて、会場の熱気は炊き立ての炊飯器をあけた様相です」
一瞬の静寂のあと、飯野が思わず叫んだ。
「ちょっとー、桑島さん、そこは拾ってよー!」
北もツッコミを重ねる。
「拾ってくれんかったら、ただの宣伝キャッチになってまうやん!」
桑島は、うっすらと口元を緩めた。だが、その笑みすら「冷静」のカテゴリを出なかった。
「本日のご飯と違って、私は常温を保っております」
場内が再び笑いに包まれ、空気は一層あたたかくなる。
桑島がマイクを持ち直し、流れるように次の進行へと移る。
「それでは、最初の料理エリア、フィリピン代表“チキンアドボ・ライス”のテントから、中継つないでまいりましょう」
カメラが再び動き、カラフルなタープの揺れるフィリピンブースへ。
湯気の向こう、ほろほろのチキンと甘酸っぱい香りが、会場の視線を一気に引き寄せた。
コメワン・グランプリ2025。
その幕は、静かに、しかし熱く、上がったばかりだった。
ーー 香りの実況ーー
昼下がりの田畑公園。
蝉の声が鳴り始める前の静けさに、突如として香りの波が押し寄せていた。
屋台の並ぶフェスティバル会場は、まさに香りのカオス。
テントの奥からは、炒められるニンニクの香り。奥の鍋ではしょうがの湯気がのぼり、ベトナムのコーナーではパクチーが風にのって鼻腔をくすぐる。どこかでバジルが炒められ、すぐ近くでは白米がふわりと蒸気をあげていた。
中央ステージに立つ桑島実男アナウンサーは、どこまでも冷静な語り口で言った。
「ただいま、田畑公園は――“香りのるつぼ”と化しております。
にんにく、バジル、しょうが、パクチー、そして……炊きたての白ごはんの香り。
そのすべてが、風に乗って私たちを包み込みます」
客席から「うわ〜、わかる〜!」という声があがる。
すると、飯野が大きく鼻を鳴らしながらボソッとつぶやいた。
「ワシ、さっきからずっとええ匂いしてて……なんか、自分から出てるんちゃうか思たら……アドボのにんにくちゃうか?」
「いや、違う!」
すかさず北が顔をしかめて突っ込む。
「おまえそれ、餃子や!
昼、コンビニで買うて車で食うてたやろ! なんでここに持ち込むねん!」
観客が笑いに湧く中、飯野が耳を赤らめて桑島のほうを向く。
「ドウシヨ〜、臭ってます?……桑島さん?」
桑島はゆっくりと視線をそらし、ほとんど感情を動かさず一言。
微妙な間が生まれる。
観客がざわつく中、桑島は一拍おいて視線を横にそらし、冷静に言い放った。
「……私を、漫才の流れに巻き込まないでください。
とはいえ、たしかにニンニクの主張は、今この瞬間、強いです」
客席から笑いと拍手が起こる。
ほんの一瞬の“乗り”を見せながらも、桑島はすぐに本線へと戻していった。
「……とはいえ、今日は香りの祭典。香りが強いのはむしろ本望でしょう」
そこには、芸人でも芸人崩れでもない、「プロのアナウンサー」としての調整力があった。
笑いを受けて流しつつ、イベントの空気をしっかりとリードする。
桑島は少し姿勢を正し、マイクを握り直す。
「さて、今ステージでは料理テントの準備が整う中、
この後、世界各地の“炊き込みエンタメ芸人”たちが応援団として登場してまいります!」
レンチンズのふたりが反応して同時に叫ぶ。
「……わしらやないの⁉」
観客がまた笑いに湧く。
桑島は淡々と頷きながら、しかしクールに言葉を返した。
「お二人は、私とともに“実況チーム”です。
全テントをホカホカのままレポートしていただきます。
炊きあがる音、香る湯気、立ち込める情熱……五感すべてを、実況で届けてください」
「プレッシャーで湯気出てきたかもしれん……」と飯野がぼやき、
「それ、にんにく臭や!」と北が重ねる。
桑島は小さく笑みを浮かべながら、視線をカメラに向けて語った。
「まもなくトップバッター、フィリピン代表“アドボ・ライス”のテントに潜入いたします。
湯気の向こうにあるのは、文化、風土、そして暮らし。
お米を通じて見える世界へ――コメワンバトル、いよいよ開幕です!」
ーー蠢く黒い湯気ーー
金曜夕方、東京MTVのローカルニュース番組『シティ・ウィークリー』が始まると、オープニング映像のあと、キャスターの落ち着いた声がスタジオに響いた。
「続いては、北区田畑公園から中継された“世界の米料理フェスティバル2025”、通称“コメワン・グランプリ”の話題です」
画面には青空の下、カラフルな各国テントが並ぶ様子が映し出された。
湯気が立ち上り、笑顔の客たちが皿を手に歩く様子。
しかしその画面の右奥には、赤と白の車両が3台、目立つように映り込んでいた。
――救急車。
「本日は平日ながら、想定を上回る来場者数を記録しました。映像のように救急搬送も数件発生しましたが、いずれも熱中症や軽微なケガとのことで、明日以降の開催には支障はない見込みです」
キャスターが締める頃には、背景の映像は再び笑顔と食欲に満ちたフェスティバルの模様に切り替わっていた。
土曜午後。
二日目の午後のニュースでも、コメワンは好意的に取り上げられた。
初日以上の快晴に恵まれ、会場は親子連れで賑わっていた。
ステージでは各国のパフォーマンスが盛り上がり、インタビューに答える子どもたちの口元には、ご飯粒と笑顔が並んでいた。
そんなテレビを、ある男が嘲笑うように見つめていた。
足達勇、東京都副知事付きの秘書。
濃い眉と口元に刻まれた皺が、言葉よりも多くを語るような男だった。
窓の外に目をやりながら、彼はひとり呟いた。
「これであと一日……主催者側にも気の緩みが出てくる頃だろう」
彼は、静かにスマホを手に取った。
指先の動きは迷いがなかった。
通話ボタンを押すと、すぐに相手が応答した。
「――明日朝、スタートと同時に例の手筈でやれ」
声は低く、しかし明確だった。
「医療班には話してある。入ればあとは、あちらがやってくれる」
そしてそのまま、通話を終えた。
外では夕暮れの光が差し込み、遠くで祭りの音が風に乗ってかすかに聞こえていた。
が、それは届いていないかのように、足達は動かなかった。
その顔には、満腹でも、笑顔でもない、“別の目的”を持つ者の表情が浮かんでいた。
まるで、炊きたての釜に何か異物を落とそうとしているかのように――。
ーー悪夢のイベント会場ーー
日曜午前、三日目。
フェスティバル会場の田畑公園は、開場と同時に多くの家族連れで賑わいを見せていた。
湯気、香り、音楽。炊きたての米料理が各国のテントから供され、子どもたちは長いしゃもじを振り回しながら走り回っている。
だが、時刻が午前10時を過ぎた頃――。
それは、フィリピンテント横のベンチから始まった。
若い男が、頭を抱えてうずくまり、やがて嘔吐した。
最初は食べすぎかと思われたが、次に近くの女性が「寒気がする」と訴え、数分後にはもう一人、年配の男性が芝生にしゃがみこむ。
「具合が悪い人が、立て続けに……!」
スタッフが無線で医療班に連絡をとる。だが、応急テントの中にもすでに、数名の腹痛・嘔吐者が運び込まれていた。
11時15分、現場責任者の元に保健所から緊急連絡が入る。
最初に倒れた男性の搬送先病院から――「ノロウイルス陽性」。
その連絡が届いてわずか15分後、警察と区の感染症対策課が現場に到着。
黄色と黒のテープが、会場の各出入り口に張られた。
「ただいまをもちまして、コメワン・グランプリ2025は中止となります!
速やかにその場を離れず、指示に従ってください!」
拡声器の声に、客たちがどよめいた。
会場にいた約400人が、一斉にスマホを手にしはじめる。
しかしすぐに、数人が「ちょっと気持ち悪いかも……」と訴え始めた。
それを見た別の親子連れも、不安に駆られて医療班に列をなし始める。
不安は伝染する。
気のせいだった者までもが、胃をさすり、顔を青くして訴え出す。
――なだれを打つように、応急診察が始まった。
警察車両の赤色灯が点灯し、ドローンが上空から現場の全景を記録する。
黄色いテープの内側で、子どもが泣き、母親が「お願い、早く家に帰らせて」と叫ぶ。
外から眺める者たちの目に映るのは、フェスティバルの名残ではなく、封鎖された“隔離空間”だった。
そんな混乱の中、一人の男が静かにスマホを伏せた。
その顔には、何の感慨もなかった。ただ、静かに、口元だけが動いていた。
「……これで、終わりだ」
彼が見下ろす先、湯気も、香りも、笑顔も――すべては消え去り、
食の祭典は、“食”によって沈黙に閉ざされたのだった。
こんなイメージを膨らませる人間、足達勇。
彼の絵筆は悪夢のキャンバスに自画自賛の色を乗せていく。
ーーご飯に混じる小石ーー
足達勇からの指令を了解し、男は携帯電話を切ると、呆然と立っていた。
隣では今日のネタの流れをもう一度確認するように、
「アン・ドゥ・トゥロ」とバレエのステップを繰り返す相方がいた。
男は、この悪魔の電話の因縁となった新宿3丁目で働いていた頃の自分を思い出していた。
ーー粳舞 釜男と、しなやかな風ーー
新宿三丁目、午後十時。
濡れたアスファルトの上に、ネオンの光がゆらめいていた。
ショーパブ「スピカ座」のステージ裏。
銀のスパンコールをあしらったタンクトップ姿の男が、鏡の前でまつげを直していた。
名は――粳舞 釜男。
かつて、彼は新宿で“炊き込みパフォーマー”と呼ばれた。
芸人としての芸風は、どこか土臭く、どこか粘り気があった。
彼の持ちネタ「炊き上げボディビル」は、米袋を模した衣装と、笑いと、筋肉の境界を超えた。
ゲイであり、芸人であるというアイデンティティ。
それを押し殺さず、むしろ武器にしてきた人生だった。
そんな彼に転機が訪れたのは、去年の冬。
客席に、ひときわ鋭い眼差しを持つ年配女性が座っていた。
聖山スミ子。
伝説的な“バレエ演芸師”であり、ピン芸人「しなやかな風」その人に、粳舞はスカウトされたのだ。
「アンタ……名前は?」
「粳舞 釜男。あたし、米だけで飯食ってます」
スミ子は煙草を吹かしながら、唇の端を上げた。
「アンタ、一緒にステージで輝かない?ひや飯のあなた、おいしく炊き直したげるわ」
それが、“しなやかな風”第二章の始まりだった。
以来、スミ子と粳舞は錦糸町演芸ホールの舞台に立ち、
今では“コメと風の融合”と評されるようになった。
芸風はスミ子の渋みと、粳舞の派手さが絶妙に交差し、独特の温度を生んでいた。
――そして、たった今しがた。
日曜の深夜。
粳舞はコメワン会場テントでスマホを見つめていた。
通話ボタンを押すと、受話器越しに低い男の声がした。
「――明日朝、スタートと同時に。例の手筈で」
その声に粳舞は一瞬、鏡の奥の自分を見た。
「……あたしが、やるってこと?」
「医療班には話してある。入れば、あとは向こうが動く」
「了解。で、ターゲットは?」
「“祭り”そのものだ。幕が上がった瞬間に、別の色を塗る」
通話が切れた。
粳舞はスマホを静かにテーブルに置いた。
深くため息をついて、彼は最近の自分の演芸を思い出していた。
ーーしなやかな風、ズレて吹くーー
錦糸町演芸ホール。
この小屋は、日によって笑いの風向きが変わる。
午前の部が落語、午後から漫才やコントが入り、夜は自由奔放な“枠外芸”まで顔を出す。
その舞台袖、すでに次の出番を待つ芸人たちがスタンバイしていた。
「おい、釜男。あんた今日、袖でちょっと踊りすぎちゃうか」
と、ぼやくのは漫才コンビ「レンチンズ」の北盛夫。
派手な柄シャツ姿の釜男は、シャドウバレエをしていた。
「芸はさ、袖でも滲むのよ。あたし、筋肉の音で観客をあっためるタイプだから」
と答える粳舞 釜男。その肩に、スパンコールが静かに揺れる。
その瞬間、鏡前にふわりと現れたのが――
ピンクのチュチュにトゥシューズ、背筋をしゃんと伸ばしたしなやかな風の片翼、聖山スミ子だった。
「ちょっとあなたたち。楽屋の空気が油っこいのよ。もっと、白米みたいにサラリとしなさい」
「出た……プリマドンナの乱入や……」と北が小声でつぶやく。
聖山スミ子は年齢不詳。
一見すると引退間際の元バレリーナのような立ち居振る舞いだが、実際は芸歴30年以上のツッコミ職人である。
「わたくしね、若い頃はロシアの劇場で踊っていたの。
……と、夢で観たのよ。ええ、リアルだったわ」
周囲の芸人が「夢かい」と心の中で総ツッコミを入れるも、スミ子はそんな空気すら優雅にすり抜ける。
そのとき、「笑角亭来福」がふらりと寄ってきた。
「スミ子姉さん、昨日のバレエ風落語、あれやっぱりサゲ無理ありますって」
「まあ、そう?『白鳥の湖』で“オチが沈む”のも芸術じゃなくて?」
「ダジャレで落としただけやないですか……」
そんなやり取りに、袖の空気はクスクスと沸いた。
スミ子は舞台に向かって片手を掲げると、プリマのポーズをとって一言。
「それでは行ってくるわ。芸の一歩は、ズレから始まるの」
チュチュを揺らしながら、聖山スミ子は舞台へと消えていった。
その背中を見送りながら、レンチンズの飯野がつぶやく。
「ホンマ、あの人、ズレが主役やな……」
「でもなんや、あのズレがあるから、俺らが真っすぐに見えるんかもな」
錦糸町の舞台に吹くしなやかな風は、今日もズレて笑いを生む。
ーーシンズレラ・ガールズ、風に乗るーー
錦糸町演芸ホール、午後の部。
舞台では、バレエのチュチュにピンクのハチマキ、そして米袋型のマントを羽織った二人組が、優雅にズレていた。
「ねえ粳ちゃん、どうしてそのポーズからツッコまないの?」
「姉さん、それ白鳥の湖やなくて、“炊飯ジャーの沼”に見えてます!」
会場に笑いが起こる。
観客は最初、戸惑いながらも次第にそのズレた美学に引き込まれていく。
コンビ名は――しなやかな風
新生ユニットは、誰とも無く「シンズレラ・ガールズ」と呼ばれるようになった。
かつてバレエダンサーと自称しながらも、ボケもツッコミも絶妙にズレて届くプリマ、聖山スミ子。
そして、舞台の袖から飛び出した異色の才能、粳舞釜男。
ゲイであり芸人。ショーパブで磨いた感性を、演芸ホールにぶつけていた。
「わたしたち、ズレてるけど、ハマるのよ。
靴が左右逆でも、シンデレラは笑ってるってわけ」
スミ子がバレエ風にターンしながら決めると、客席から拍手が起きた。
その様子を、後方の特別席から見つめる人物がいた。
黒のワンピースに大きなサングラス。
脚を組み、誰にも気づかれぬようにメモを取っている――
芸能事務所「ヒア・ウイゴー」社長、肥後香津沙。
ステージが終わるや否や、彼女は楽屋裏に向かった。
「ちょっと、スミ子さん。あなたたち、今のは何?」
「……何って、風のような芸術よ?」
「違う、売れる空気よ! ねえ――粳舞さん、でしたっけ」
香津沙は、にっこりと笑いながらスパンコールの肩に手を置いた。
「ウチの事務所に入らない?
“ヒア・ウイゴー”、意味わかる? “さあ、行こう!”よ。
歩合制だけど、わたし、あなたたち絶対売れるようにしてみせるから」
粳舞は驚いたように目を見開き、スミ子を見る。
スミ子は、少し首をかしげながらも口元に笑みを浮かべた。
「……ま、風も、売れるところに吹いてくもんよね」
「だったらあなたたち、炊き上がったご飯のように膨らませてあげるわ。
“ズレ”も“ゲイ”も“バレエ”も、全部エンタメになる時代よ!」
契約書はまだ出ていない。
けれどこの瞬間、舞台裏で確かに風が変わった。
シンズレラ・ガールズ、風とズレのその先に、
スポットライトが待っている。
ーーズレて、そろって、しなやかにーー
錦糸町演芸ホール、午後の部。
照明が落ち、スッとスポットが舞台に落ちる。
拍手とともに現れたのは、ピンクのチュチュに謎の襷、バレエのようでバレエじゃない――
「しなやかな風」こと、シンズレラ・ガールズ。
登場と同時に粳舞 釜男のカツラが、ゆるやかにズレて右へ。
聖山スミ子のブラパッドは、片方だけしっかり上昇中。
そのうえ、二人の振り付けも、まるで違う曲を踊っているかのようにチグハグだった。
客席からクスクスと笑いがこぼれる。
「アン・ドゥ・トゥロ……あら?なんか違うわ、釜男!」
スミ子がくるりと振り返ると、釜男は得意げな顔で股を割ってポーズ中。
スミ子が手をパンパンと二度叩く。
「もぉ〜〜ズレてるじゃない! もう一度よ! 音楽戻して!」
舞台袖でCDを巻き戻すスタッフの表情が見えた気がしたが、気のせいかもしれない。
もう一度、イントロが流れ出す。
二人は同時に踊り出すが、またもや微妙にリズムが違う。
しかし、観客はすでに笑いの渦に包まれていた。
だが――
音楽が終わるその瞬間。
ズレ続けていた二人のポーズが、ぴたっとそろった。
カツラも斜めに戻り、ブラパッドも片方高いまま。
しかし、それすらも含めて、完璧に「決まって」いた。
一瞬の静寂のあと、
客席から割れんばかりの拍手が湧き上がる。
「ありがとうございましたーっ!」
粳舞釜男が深く一礼し、スミ子が手を広げる。
満面の笑顔が、スポットライトの中で光っていた。
袖では、芸人ギャランティ坂野が腕を組みながらうなっていた。
「ズレて、そろって、あれで“風”か……。
粳舞と華麗なバレリーナが合体して、しなやかな風は侮れませんね……。
これ、私のギャランティにも影響がありそうです」
頭をかくギャランティ坂野の姿に、袖の若手芸人がささやいた。
「坂野さん、もうその“ギャグランティ”で売れないっすよ」
場内に残った拍手と笑い。
ズレを武器に変えたプリマとスキンヘッド――シンズレラ・ガールズの人気は、もはや本物だった。
錦糸町に、新しい風が吹いていた。
ーー夜のホテルの一室ーー
薄暗い照明の下、粳舞 釜男はカツラを外して、スキンヘッドのままソファに沈み込んでいた。
ため息が、室内の冷たい空気に溶けていく。
「……コメワン・グランプリ、こんなに楽しい仕事をしたこと、なかったな……」
そう呟く声は、どこか遠くから聞こえるようだった。
レンチンズの勢い、桑島アナのシュールな笑い、屋台の湯気、拍手と笑顔――
全てが、自分の中の“芸人”を炊き上げてくれていた。
本当は、もっとこの舞台にいたい。
もっと、ズレた踊りで笑わせたい。
スミ子姉さんと、もう少し風になっていたい――
「……スミ子姉さん、ごめんね。でも……明日は、言われたとおりに、やるしかないの」
スマホの通知ランプが静かに点滅している。
未読メッセージ、送信者:足達 勇。
その名前を見るたび、喉の奥が苦くなる。
あの男の顔が、ノリの良い客としてではなく、指示を出す者の顔として蘇る。
釜男は思い出す――
新宿三丁目、ショーパブ「スピカ座」でステージに立っていた頃。
金曜の夜、赤いベルベットのカーテンの向こう、VIPルームにはいつもスーツ姿の男たちがいた。
地方から出てきた与党議員たち。
高尚な演劇には見向きもせず、見下すことができる“ショー”を求めてやってくる者たちだった。
そんな中に、よく通っていた男がいた。
細い目と、ぬるい笑顔。名は足達 勇。
「釜男くん、君の“舞い炊きショー”、最高だよ。
ゲイボーイたちのラインダンス……いやあ、先生方、大喜びだった」
褒め言葉ではなかった。
それは“消費者の声”だった。
笑われるのではなく、笑われるために存在する人間として、舞台に立っていた。
それでも、釜男は笑顔で言った。
「ありがとうございます。……あたし、今度、舞台移るんです」
「そうか。ライン、交換しとこうか。またお願いすることもあるから」
その“お願い”が――
今回の悪企みだったとは。
釜男は、明日の午前、フェスティバル会場で急な腹痛と嘔吐を訴えて救急受付に駆け込むという「役」を命じられていた。
感染症を装い、騒動を起こすための“導火線”となる役割。
「舞台で笑わせるための身体を、混乱のきっかけに使うんやな……」
膝に乗せた手が、知らず震えていた。
あれだけ鍛えた身体も、今はただ冷たい。
カツラを持ち上げ、再び頭に載せる。
……ズレていた。
でも、それはいつものことだった。
「ズレても、戻ればええ。
あたしは、芸人やから」
釜男の目に、一瞬だけ、ふっと火が灯ったように見えた。
ーー守りきる、その朝までーー
コメワン・グランプリ2日目の夜。
夕暮れの空に、屋台の香りがまだほのかに残る。
人波が引き、特設ステージの片付けが始まると、奥田珠実は会場の端から端までを小走りで回っていた。
「・・・あと1日。なんとしても、やりきる!」
小さく呟きながら、彼女は一人ひとり、立ち去る来場者の顔を見ては、声をかけていく。
「すみません、気分、悪くないですか?頭痛とか……吐き気、ありませんか?」
笑顔で問いかけるその裏で、心は張り詰めていた。
もし、一人でも体調不良者が出れば、すべてが終わる。
水野所長からの言葉が、頭の中でリフレインする。
「具合の悪い人がいれば、遠慮なく救急車を。東京都からの、ご配慮だからね」
――それは事実だが、裏返せば“中止を促す誘導装置”にもなりえる。
だからこそ、救急車を出す前に、自分の足で、声で、目で守る。
その珠実を、陰で見守っていたのが、事務所での親友――佐藤美咲だった。
「たまちゃん、大丈夫?ちょっと、顔色よくないよ」
「心配御無用!奥田珠実は、コメワンの生みの親でござる。
……あと一日、守りきって見せるさ!」
元気よく言いながら、珠実は帽子を深くかぶり直す。
そのときだった。
水野所長の元へ、行政書士の立花美波が歩み寄ってくる姿が見えた。
深々と頭を下げる水野。
ただならぬ空気を察して、美咲が声をかけた。
「あっ、立花先生。いつもお世話になってます。……なにか、あったんですか?」
美波は一度だけ穏やかに頷いた。
「今、水野さんにご報告してきたところよ。……あと一日、がんばりましょうね」
「……でも」と、珠実が思わず口を挟む。
「わたし、知ってるんです。あの救急車が動いたら、おしまいなんです。
どんなに明るくやってても、あのサイレンが鳴れば――もう中止しかない」
その言葉に、美波は小さく息を吸い、少し微笑んだ。
「大丈夫。明日、東京都知事が視察に来てくださることになったから」
「えっ!?」
珠実と美咲が同時に声をあげた。
「どうして!?え、なんで……?」
美咲が口を押さえる。
立花美波は、すっと背筋を伸ばし、ゆっくりと語り出す。
「私の母、立花 市杵が、現在エクアドル大使をしていること、話したことあったかしら?」
「えっ……あの立花市杵大使って……!?」
「母は、都知事とは古くからの盟友で、個人的にも強い信頼関係があるの。
コメワンが始まる前、母に様子を話したのよ。東京都の一部が、何かフェスを妨害するような動きがあるかもしれないと。
そしたら母は、直接、都知事に連絡してくれたの。
それで、明日、最終日の冒頭に、都知事が視察とご挨拶に来られることになったの」
言葉が出ない二人。
その沈黙に、美波はゆっくりと、力をこめて続けた。
「これで、万が一、都の関係部署が何か画策していたとしても、
知事自身の動きが“お墨付き”になる。
つまり、もう潰せないってこと」
珠実はしばらく動けなかった。
やがて、帽子を脱ぎ、黙って空を見上げた。
「……ほんとに、救いの神が来たんだ……」
すると美咲が、目に涙を浮かべながら笑った。
「たまちゃん、あと1日。今度は、ほんとに笑顔で終われるね」
「うん。……明日は、炊き立て最高の一日になるよ」
夜風が、静かに吹いた。
立花美波が見つめる先には、まだ片づけの途中の田畑公園ステージがある。
明日、あの場所に、本物の“日の光”が差す。
ーー勇み足ーー
「……頼んだぞ。明日、朝一番に動け」
そう言って通話を切ると、足達勇はスマートフォンを机に置き、静かに息を吐いた。
粳舞釜男。
かつて新宿の夜で手なづけた、使える駒だ。
あの“ズレた芸人”が一瞬だけ舞台をざわつかせれば、あとは救急車、感染、混乱。
コメワンは瓦解し、農水族の機嫌を損ねた都知事は、そら見たことかと引責の話まで出るだろう。
これでますます与党、農水省のパイプである副知事と私に頼るしかなくなる――はずだった。
だが、その思惑が余韻に浸る間もなく、机上のスマホがけたたましく鳴った。
――副知事。
足達は一瞬、眉をひそめ、通話ボタンを押す。
「足達か。……君に任せていたあの計画だが、即刻中断してくれたまえ」
「は……?」
聞き慣れた冷静な声に、いつもなら従順に従っただろう。だが、今回は違う。
「な、何を……どういうことですか?」
「明日、都知事がコメワンの会場に視察に出ることが決まった」
「――なんですって?」
一気に声が上ずる。
部屋の温度が急に下がったような錯覚に、足達は額に汗をにじませる。
「都知事は、ここのところ連夜、ニュースでコメワンを目にしていたようだ。
そして、ある決断をされた。
端的に言うと――今回の都議選、自身が推す政党で戦う。他党との協力はしない」
「……っ!」
足達の喉が、ひゅっと音を立ててつまる。
それはつまり、政府与党とは袂を分かつという意味。
そして、自分――足達勇という男の存在意義は、完全に消えるということだ。
「そんな……私が、この半年かけて調整してきたパイプが……」
「もはや必要ないという判断だよ、都知事は。
君が何を画策していたか……誰から聞いたのかはわからない。だが、
『あの救急車の配置』『医療班の異様な体制』には、都知事自らが強い不快感を示された」
「……どこまで知られて……」
足達は、椅子の背にもたれ、乾いた口を指でぬぐう。
「あの救急車も、医療班もすべて撤収だ。
誰が都知事に話したかまではわからない。だが私の名前まで出た。
まるで私が指示したように……。私の立場もない。」
電話の向こう、沈黙のあと、低く重い言葉が落ちた。
「――君には、辞表を出してもらう」
「……!」
「だが、私も……もしかすると……」
その一言を残し、副知事は通話を切った。
足達勇は、しばらくスマートフォンを握ったまま、ただぼう然と立ち尽くしていた。
目の前の景色が静かに崩れていく。
もはや自分の立っている床すらも怪しい。
都庁の地階へ、いや、それよりもっと深い奈落へと、
自分という存在が吸い込まれていく感覚に襲われた。
「勇み足、か……俺の名前をもじって言うやつがよくいたもんだ……」
笑うでもなく、泣くでもなく、
ただ、声にならない声が喉の奥で乾いていった。
ーー次の主戦場ーー
コメワン・グランプリ最終日の夕刻。
田畑公園の空は薄く茜色に染まり、あれだけ賑やかだったステージも、少しずつ静けさを取り戻しつつあった。
スタッフテントの一角、パイプ椅子に腰を下ろした楠木は、首からぶら下げた端末をテーブルに置きながらつぶやいた。
「……なんとか、無事に終わりましたね。
うちの決済端末とクラウドサーバ、よく働いてくれたと思いますわ」
向かいの水野は、温かい缶コーヒーを片手にうなずく。
「ええ。今回は通信トラブルもゼロ、来場者へのポイント還元も好評でした。
とくに出展者側は、評価システムとPOSのデータが連動して、リアルタイムで見れるのがウケましたね。
ランキング発表と同時に、自分とこの客層まで分析できるんですから」
「イベントと市場調査を一石二鳥でやれるってのは、今の時代ウケますね」
楠木は一息ついて笑う。だが、次の水野の一言には、目を細めて応えた。
「……ただ、課題もあります。
屋外イベント向けに、もう少し端末利用コストを抑えるよう、今後調整いただけるとありがたいですね」
その物言いは、あくまで丁寧。だが、芯はぶれない。
楠木は軽く口角を上げて、少し芝居がかった声で応じる。
「これは……なかなか手厳しいですね、水野さん。
これでも目いっぱいサービスしてるつもりなんですけど?」
「それは分かってます。ですが――」
水野は、にこやかに微笑みつつ、少しだけ身を乗り出した。
「――ウチは、登記から保険、IT導入、顧客分析、広報までワンストップでやれます。
そのパッケージの一部に、U警備さんのクラウドが組み込まれていくわけですから……お互い“いい条件”で行きたいですよね?」
ビジネスマンとしての笑顔の奥に、鋭い視線。
楠木は苦笑しつつも、その目線を受け止めた。
「なるほど、確かに……田中オフィスさんは、商工会も芸能関係も顔が広い。
今後のイベント市場、ここに食い込めるのは大きいですからね。
うちとしても、そこと連携して動けるのは非常にありがたい」
少し間を置いて、楠木は真顔で言った。
「今後とも、協力していきましょう。
うちもね、セキュリティを中核にしたイベント・パッケージ、いよいよ本格的に売っていこうと思ってるんですよ」
「心強いですね」
水野がそう応じると、テントの外から夕風がそっと吹き込んできた。
感染症による制限が遠ざかったこの数ヶ月、街は再び動き出していた。
イベント、フードフェス、コミケ、地方プロスポーツ……。
この市場で、“信頼されるシステムと体制”が武器になるのは、間違いない。
水野は立ち上がり、缶をゴミ箱に投げ入れながら言った。
「……さあ、次はどこでやりましょうか」
楠木は、立ち上がりながら小さく笑った。
「次の主戦場が見えてきましたね、水野さん」
二人の視線の先には、片づけ中のステージと、余韻を残したままのイベント空間が広がっていた。
ーー続くーー