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田中オフィス  作者: 和子
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第四十三話、コメワン・グランプリ

この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

ーー神輿の列に、都知事も加わる?ーー

農水省からの“自粛要請通達”が届いたあと、会議室には言葉を選ぶような沈黙が流れていた。

壁には《コメワン・グランプリ》の仮ポスターが貼られたまま。

誰も手をつけていない麦茶のコップに、ほんの小さな結露の水滴が落ちている。


そんな中、静かに手が上がった。


ラヴィ・シャルマ――東京チームの要を担う男が、真剣な表情で立ち上がる。


「……都知事を味方につけておくのは、良いんじゃないですか?」


室内に一瞬の静寂。

全員の目がラヴィに向いた。


「今回のイベント、都内開催ですし、正式に東京都にも届出してあります」

ラヴィの声は落ち着いていたが、その言葉には明確な方向性が宿っていた。


「なら、参加国の代表が来た際に、都知事が“歓迎の挨拶”をする形にしてはどうでしょうか?

自然ですし、政治色も強くない。あくまで“開催地の顔”としてです」


田中卓造社長が目を細めて、にんまりと笑った。


「……ええこと言うやん、ラヴィくん。

“主催側の歓迎”やのうて、“地元の顔としての歓迎”。

都知事は、都議選も近いし……支持政党のイメージアップにもなるやろな。ノッてくると思うで」


だが、その声に稲田美穂が心配そうに口を挟んだ。


「でも……参加国の代表が全員揃うのって、開催の2日前ですよ?来てすぐに準備もあるだろうし、

急にスケジュール調整するの、難しくないですか?」


「大丈夫、先にやっておくんだよ」


軽く腕を組みながら、肥後勝弥が答える。


「各国大使館にあらかじめ打診して、都知事には20分程度の時間をつくってもらう。

代表は大使じゃなくてもいい。各国の一等書記官クラスが揃えば充分。

都庁の応接室で、簡単な会合と記念写真。

あとはプレスリリースを流して、都知事の国際交流実績として発信すればいいんだ。

逆に都庁側から、YouTube用の動画撮りたいって言ってくるかもしれないな」


その時だった。


スッ――と、音もなく前へ出たのは、肥後香津沙。

冷静な目元に、わずかな笑みを浮かべていた。


「都知事には、私……ツテがあります」


その一言に、場の空気が変わる。


「正面からの政治チャンネルじゃなくて、プライベートラインのほう。

事前に趣旨を伝えて、面会セッティングしましょうか?」


驚きが、一斉に広がった。

ラヴィも稲田も、口をあんぐり開けて目を丸くする。


稲田がぽつりと小声でつぶやく。


「えっ……香津沙さん、すごい……」


香津沙は肩をすくめて、ふっと笑った。


「こう見えても、昔はね、あちこち顔出してたのよ。

銀座のクラブなんて、政治家の名刺が名刺立てからはみ出すくらいだったんだから」


その言葉に、勝弥が補足するように言う。


「よし、じゃあ都知事のセッティングを香津沙にお願いしてる間に、

俺は東京MTVの取材枠を確保しておくよ。

今ならまだ間に合う。

“世界の米を都知事が迎える”って構図は、確実にニュースになる」


田中社長が満足げに頷いた。


「ええなぁ〜……婦唱夫随(ふしょうふずい)やな、これは」


会議室に小さな笑いが起きたが――


「いや、字、逆ですけどね」


と、すかさず勝弥がツッコむ。


香津沙は表情を変えず、涼やかな声で言った。


「いえ、うちは逆で合ってるのよ。ね、勝っちゃん?」


それが決定打だった。

全員が笑い出した。

緊張に包まれていた空気が、ほどけるように和らいでいく。



都知事――

それは、敵か味方かもわからぬ“大樹”ではあるが、

風を読んで神輿を寄せるには、最良の拠点でもある。


ラヴィの一言が風向きを変えた。

肥後夫婦の手がバトンを静かにリレーしてつないでいく、


狸たちの動きが読めぬなら、

“神輿”は、網の外から揺らせばいい。


東京の空の下、一手、また一手。

重ねた策の向こうに、まだ見ぬ観衆の歓声がある。



ーー稲敷の米は、立って咲くーー

飯田橋行政書士事務所・応接室

午後の陽射しが、ビルの窓をやわらかく透かしていた。

コンクリートの谷間にある応接室に、農作業帽を手にした男が一人、黙って立っていた。


深く日焼けした肌。小柄な体。

だが、その立ち姿は風にゆれる稲のようにまっすぐで、どこか強さをたたえていた。


「水野さん、こちらが筑紫誠一ちくし・せいいちさんです」

立花美波が席を立ち、丁寧に紹介する。

「茨城の稲敷郡で、米を作っておられます」


水野幸一が深く頭を下げた。


「すみません、筑紫さん。ご連絡はいただいていたのに、こんなに遅くなってしまって」


筑紫は穏やかな笑みを浮かべ、軽く帽子を掲げた。


「いえいえ、私のほうこそ。連絡を受けたその日に東京出てきてしまって……

まさか、立花先生のところでお会いできるとは思いませんでした」


立花が頷く。


「ああ、はい。あのお話は伺っています……本当に、大変な事件でしたね。

“農業を続けるための労働力”という現実と、

“人間としての扱い”とのギャップ――あれは、心に残っています」


筑紫はしみじみと頷いた。


「……あの子たちがいなかったら、今も米は作れてなかったですよ。

あのとき、立花先生が入ってくれて助かりました。

その後も新しい技能実習生が来てくれて

うちの田んぼ、ほんとに、守られたんです」


言葉を置いてから、筑紫はふっと顔を上げた。


「そんなご縁もあって……今回の“コメワン”、ぜひ参加させていただきたいと思ってます」


水野の手が止まる。空気が静かに張った。


「秋田や新潟に負けない米が、東京のすぐ近くにもあるってこと。

――広く知ってもらえれば、うれしいですね」


その声は、力んでいない。

けれど、それが逆に、芯の通った確かな思いを伝えていた。


水野はゆっくりとうなずいた。


「……ありがとうございます、筑紫さん。

お言葉、とても心強いです。

もし、他にもご関心のある農家さんがいらっしゃるようでしたら、ぜひご紹介を。

必要であれば、私が直接お伺いして、ご説明します」


筑紫の表情がふっと和らぐ。


「……ああ、何人か声をかけてみますよ。

『うちは流通に乗らんでも勝負できる』って思ってる仲間、いますからね」


すると立花が、優しく言葉を添えた。


「筑紫さんのお米、私もいただきましたが――

ほんとうに、びっくりするくらい美味しかった。

東京のど真ん中で堂々と勝負してほしいです」


筑紫は少しはにかんで、麦わら帽を握った。


「はは……米の味は、田んぼと、人で決まりますからね。

良い田んぼと、良い人に囲まれて……ここまで来られました」



茨城・稲敷郡の、名もなき田んぼから。

その米は、ビルの谷間に降り立つ。


運ばれるのは、コンテナでも、トラクターでもない。

そこにあるのは、

――誇りと、感謝と、次の世代への静かな願い。


稲は、風にゆれながらも、まっすぐに立つ。

東京の空の下、いま、その“米”が神輿に乗ろうとしていた。


ーー田のほとり、スマホを握るーー

千葉県野田市――午前五時。


霞がかった田んぼの縁で、カエルの鳴き声が遠くの空にとけていた。

早朝の空気はひんやりとしている。だが、濡れた苗の間に漂う土の匂いには、すでに夏の気配があった。


軽トラの荷台に腰を下ろし、平野英将(32)はスマートフォンの画面を静かに見つめていた。

その目は、画面の明かりよりも、情報の行間を読むように深い。


「出荷価格、また1キロあたり3円下げ――」


LINEグループ「関東★タナボタじゃない米部」には、すでに数十のメッセージが飛び交っていた。

参加メンバーは関東一円の若手農家たち。顔を合わせたことのない者も多い。

だが、誰よりも率直で、誰よりも真剣に“生きる”ことを語り合える仲間だった。


《ブランド米偏重、いい加減にしてくれ》

《補助金漬けで、減反してる間に技術も客も消えてく》


そんな怒り混じりの言葉が流れる中――

茨城の筑紫誠一からの一文が、画面に浮かんだ。


「補助金に頼るってことは、減反にも応じるってこと。

つまり“作らない”ことを奨励されてる。

“生きろ”って言いながら、“死ね”って言ってるようなもんだ。」


平野は、スマホを見つめながら小さく笑った。

いつも思う。筑紫の言葉には、無駄がない。そして、重い。


かつて、“農協に出せば間違いない”と信じられていた時代があった。

政府の減反政策。農協を通した一元的な流通網。補助金。そして選挙。


“票田”――

その言葉が比喩ではなく、政策の根っこだった時代の名残が、今も形を変えて生き残っている。


だが今、努力しても報われない。

販路は限られ、差別化は認められず、チャレンジをすれば“和を乱す者”のレッテルを貼られる。

「耕す」という行為は、いつしか“補助金の条件を満たすための行動”に変わっていた。


昨年、一筋の希望のように見えた政策があった。

“新市場開拓用米制度”――

輸出用の特定品種を作付けすれば、10アールあたり4万円の助成金が交付される。

「農協も得をし、農家も潤う。Win-Winだ」

メディアはそう書き立てた。


だが、現実は違った。


特定の品種しか認められず、検査は苛烈。

輸出先は限られ、価格の保証もない。

千葉の農家の誰かが、静かに書き込んでいた。


《制度が悪いんじゃない。

でも、“制度に合わせて作る”って時点で、俺たちはもう“自営業”じゃねえ》


希望と失望のはざまで、若手農家たちは誰にも言わず、SNSでつながっていった。

LINE、X、note、YouTube――

古びた農機のオイルを拭きながら、彼らはスマホで販路を探し、政策を調べ、仲間の苗の様子を見守る。


“農協を敵にしない改革”と、

“生きるために作りたい米を作る”――

それを両立させる舞台を、探していた。


その朝、「コメワン」の話題がグループチャットに流れてきた。


東京で開催される、消費者と生産者が“味”だけで選ぶ米のグランプリ。

誰が主催で、どんな政治が絡んでいるかは知らない。

だが、“米そのもの”で勝負できる場――それだけで十分だった。


平野はスマホを親指でゆっくりと撫でながら、ひとことだけ入力した。


《面白そうだな。うちの米、勝負させてみるか。》



補助金は、薬にもなるが毒にもなる。

“作らせない政策”は、時に“生かさない政策”と同義だ。

土地も、水も、人の命も――すべてはつながっている。

だからこそ、声を上げずに、静かに動く者たちがいる。


夜明け前の田のほとりで。

スマホひとつを武器に、

彼らは“生きるために耕す”未来を探しはじめている。


小さな「コメワン」。

だが、そこから揺らぎ始めるかもしれない――

巨大な農政という、揺るがぬ山が。



ーーそして都庁は静かに動いたーー

【東京都庁・第一庁舎・政務執務フロア/午後3時12分】

空調はやや効きすぎていた。

コンクリートの壁に囲まれた一角、午後の陽射しが大きな窓に白く反射し、ガラス越しに霞んだビル群が浮かんでいる。


その中で、足達 勇(あだちいさむ)(59)は、一人静かにスマートフォンを見つめていた。

よく手入れされた爪の先で、X(旧Twitter)のタイムラインを無言でスクロールしていく。


#コメワン・グランプリ

#TOKYO KOME 1

#出場農家続々

「稲敷の“逆襲”!」

「関東米、黙ってたら食われるだけや!」

「農協に頼らない、新しい米の売り方」


彼の眉が、わずかに動いた。

「……あんまりよろしくないな」


誰に向けたわけでもない、そのつぶやき。だが、そこには一切の冗談も焦りもなかった。

ただ、“構造のゆらぎ”に対する、職業的な嫌悪だけがあった。


足達 勇。

元・官房副長官付きの記者クラブ整理係。

政界という名の沼を二十年以上かけて泳ぎ続け、今では東京都副知事・中條将司の最古参秘書として君臨していた。

都議会運営、予算編成、メディア管理、陳情対応。

都庁内では「足達を通さねば何も通らない」とさえ囁かれていた。


そして今、彼がその目を光らせているのは――

一見、牧歌的なイベントに見える「TOKYO KOME 1」、通称「コメワン・グランプリ」。


「……この時期に農水族の神経を逆撫でするようなイベントを」

その言葉には、明確な苛立ちがあった。


知事は政府与党の代表的存在でありながら、絶妙な距離感を保ち、政界と都政を巧みに分離してきた。

――支持政党との協調、中央省庁とのパイプ、都市型政策の舵取り。

すべてが“静かな均衡”の上に成立している。


そのバランスに――「米」が触れてしまっているのだ。


「票田という言葉を、何だと思ってるのかね……」


農水族議員、官僚OB、農協、地方の首長、都内のJA。

どれか一つが乱れれば、報道が揺れる。

報道が揺れれば、選挙に響く。

そして都議選は――もうすぐだ。


「都知事が関与したら、“農水省との対立”という構図ができる。

その火種だけで、動く奴は動く。……“票”は熱に弱い」


額をこすりながら、足達は鼻先で笑った。


「バカには見えん構造だ」


だが皮肉なことに、“見えすぎる者”もまた、時に暴走する。

都知事本人の指示ではない。

誰かの命令でもない。

それでも“動いてしまう”のが足達という男だった。


スマホをロックし、机の上の電話をひとつ、押す。


「記者クラブの稲尾さんに、今夜中でいいから、確認取ってくれ。

例の文書、“農水官僚筋”って書き方で、出してもらえるように」


受話器を置いたあと、足達はジャケットの内ポケットから白い封筒を取り出す。

中には、FAXの写し。差出人の名はなかった。


「コメワン、農水政策と齟齬か」

出所:農水省官僚筋(匿名)


──撒いた種は、確実に芽吹かせる。

それが彼のやり方だった。


【都庁地下通路/数時間後】

都庁の地下、記者クラブの裏口に繋がる通路。

控え室を行き来する記者たちの隙間を縫って、足達はゆっくりと歩いていた。

仕立てのいいスーツ、磨かれた革靴、歩みは寸分の乱れもない。


その顔に、迷いはなかった。

彼は信じていた。

自分がやっていることは、“都知事のため”、そして“都政のため”だと。


しかし――

それが“忠義”ではなく“思い込み”であることに、彼は気づいていない。


「良かれと思ってやった」

その言葉ほど、愚かで傲慢なものはない。

国の形は、誰かの“賢い判断”ではなく、

誰かの“勝手な気づかい”によって歪んでいく。


足達 勇。

忠臣は、時に君主に仇なす。

彼は気づかない。

自分こそが、都政最大の“リスク”になっていることに――



――そして、腹の虫が騒ぎ出す――

【東京・北区 区立公園/イベント設営前日】

公園に立ち並ぶ仮設テントは、まだ骨組みのままだった。

木陰から差す陽が、アルミパイプの支柱に反射して白く光り、

組み上がりつつある海外ブースの装飾が、木製の質感で静かに存在感を放っていた。


フィリピン、タイ、ベトナム、台湾――

そして、茨城、千葉、埼玉。

それぞれの旗が揺れる風の中、突如として“空気”が変わった。


「……なんやて?」

田中卓造がスマートフォンの画面をじっと見つめ、低く呟いた。


その声に、場の動きが止まった。


画面には、東京北商工会・原田会長からの通知が表示されていた。


『都より、感染症対策政令による“自粛依頼”あり。

区は正式許可を出していたが、

上部行政命令に準ずる措置として“現場対応”を変更。

医療対応所の設置、および救急車三台の常駐を求められた。』


「……ええっ!?」

たまちゃんが叫んだ。

その拳が、設営用の折りたたみ机を叩く。


「ふざけてます! ノロウイルス!? 今!?

どこで流行ってるって言うんですか!?

この準備、どれだけの人が関わって、どれだけの国から食材が届いてるか……」


傍らの筑紫誠一が、帽子を握りしめた拳を静かに震わせた。


「……そうか……やられたか……

都が……都が、裏切ったんだな……」


その言葉に、場の空気がさらに凍りついた。

中国語、英語、タイ語、スペイン語――

各国の通訳たちが、あわただしく母国語で説明を始める。

フィリピン代表の女性農家は、黙って空を見上げていた。


「落ち着いてください」

静かな声が、張り詰めた空気を断ち切った。

水野幸一だった。


「都知事が本当に裏切ったのか、それはまだ確定ではありません。

ただ……“誰か”が、都の行政組織を使って、我々を潰しに来ている。

それだけは間違いない」


香津沙が鼻で笑った。


「感染症ってね……ずいぶん古い手を使うじゃないの。

まるで昭和のやり口。

“票田のタヌキ”の匂いがプンプンするわ」


「しかも……」

半田がPCのモニターを指差す。


「一昨日、都の衛生研究所が“感染性胃腸炎の注意報”を出しました。

でもデータは“例年並み”、むしろ去年より低いんです」


「なら、これは――」

稲田が言いかけた言葉を、田中が引き継いだ。


「これはな、“正義の皮をかぶった脅し”や」

社長の声は、怒りの奥に、冷徹な覚悟を秘めていた。


「誰が悪いとはっきりせんように、あくまで“行政判断”を装うて、

ワシらを潰しに来とる。“市民の安全”っちゅう名目でな」


彼は、机の端をトントンと指で叩いた。


「けどな、救急車3台て……

なんや、暴動でも起こるんかい?

これは炊き出しでもない。

祭りや。

人が“美味い”を分かち合うだけの、ただの“祭り”や」


たまちゃんが、顔を上げた。

その瞳は涙で濡れ、それでも怒りと決意で曇っていなかった。


「……負けられません」

その声は、震えていた。だが、はっきりとしていた。


「たとえ初日が中断になっても、

私、このイベント、絶対やります。

農家を“数字”や“商品”としか見てない人たちに、

このまま全部、壊されてたまるもんですか」


その言葉に、水野が頷いた。


「医療班も、救急車も、受け入れましょう。

それは“屈した”んじゃない。

“法を守った上で、戦う”ということです。

私たちは、正当な運営者として、堂々と祭りを開く。

“逃げない”ということが、最初の一太刀になるんです」


見えない圧力が、行政の装いで押し寄せてくる。

表には出ない“手配”と“配慮”が、

食卓に火を灯す者たちを冷やそうとしている。


それでも。

たまちゃんは言った。

「これは、コメのいくさです」


米を売るのではない。

米を誇るのだ。

その火を、誰が消させるものか――



――舞台に火を灯せ、芸人七組。田んぼの神様も笑うかも――


【東京・北区 イベント会場準備区域】

テントの骨組みの影が、真夏の陽射しの下でじわじわと伸びていた。

筑紫の姿が遠くに見える。たまちゃんはスタッフに水を配り、ラヴィは外国ブースの調整で東奔西走している。


そんな中で、肥後勝弥はスマートフォン片手に、ふと呟いた。


「このイベントの鍵は、桑島アナの総合司会と……レンチンズの賑やかし進行だな……」


その瞬間――


着信音。


「ん?」


ディスプレイに表示された名前を見て、ふっと口元が緩む。

妻・香津沙からだった。


「芸人、いっぱい集めたわよ。やる気でしょ?」

声に笑みがにじんでいる。


肥後は、思わず空を仰いだ。

(……なんにも言ってないのに、読んでいやがる)


「サンキュ! 何組くらい集まった?」


「レンチンズ含めて7組になるようにしたのよ。

最後の一組、いまOKがきたばかり。間に合ってよかったわ」


電話が切れると同時に、勝弥は一つ深呼吸し、背筋を伸ばした。

そのまま、田中オフィスのメンバーが集まる本部テントへと戻る。


【田中オフィス・仮設本部テント】

「皆さん、ちょっと聞いて」

勝弥の声に、作業の手が止まる。


「今、うちの奥さんから連絡があった。芸人を7組、手配したってさ。

もちろんレンチンズも入ってる。で、これはただの“お祭り要素”じゃない」


全員が注目する中、肥後は白板に図を描いた。

一方は「救急車3台」、もう一方には「お笑いステージ」と書く。


「お客さんの視線を、こっち――“救急車”に向けないようにする。

代わりに、こっち――“笑い”のあるステージに引き寄せる。

そのために、あえて“大御所”は呼ばない。メインはあくまで米生産農家の特設テントだ。

“ちょっと売れてないけど面白い”芸人に来てもらうんだ。

あくまで、“庶民の笑い”でやる。目立ちすぎないけど、ちゃんと響く。

コメワンの趣旨を壊さない、生活のそばの賑やかしってやつだ」


ラヴィがすぐに反応する。


「それ、すごくいいですね!

入り口でも『お笑いステージもやってます!』って呼び込みできます。

観光客向けにも分かりやすいですし」


水野もうなずいた。


「視線を自然に誘導できるし、

ステージの活気があれば、救急車の存在にも過敏にならずに済む。

混乱の芽をつぶす、上手いやり方ですね」


田中社長が、肩を揺らして笑った。


「ほんま、肥後さんの奥さん――

あんたの考え、お見通しやないかい」


その言葉に、肥後は小さく肩をすくめて見せた。


「ええ、だから浮気もできないんですよ……」


この瞬間、緊張していた現場に、どっと笑いが広がった。

半田が缶コーヒーを差し出し、稲田も手を叩いて笑っている。


笑いがある場所に、人は集まる。

そして、笑いの裏には、冷静な頭と、夫婦の連携があった。


救急車は、恐れを呼ぶ。

だが、笑いは、人を呼ぶ。


「米」を守るための舞台に、灯る火。

焚きつけたのは、誰かの腹の虫と、誰かの読み。


米は火で炊く。

そして、火は、人が守るものだ――


◆それでは――お言葉に甘えまして、コメワン・グランプリ舞台裏スペシャル、

司会進行はわたくし桑島実朗が務めさせていただきます。


さぁ、笑いの種はまかれた! 

米粒よりも細やかな芸の火花が、東京北区の空を舞う――

それでは、“芸人七福舞台”のメンバーをご紹介しましょう!


1.【電流パラレル】

(カズ&リョウ/電圧系テンションコンビ)

白いスーツのカズと、作業着姿のリョウ――ふたりが放つのは「危険な温度差」。

「高電圧ツッコミ」と「感電寸前ボケ」の応酬は、まるでブレーカーの破裂寸前。

イベント運営チームの緊急アナウンスを“ショート寸前トーク”で行い、

まさかの「場内誘導パフォーマンス」もこなす頼れる混線芸人!


2.【ギャランティ坂野】

(単独ピン芸人/“価格”に命をかける男)

「このギャグ、3,800円!」

「笑いが高騰してましてね、原価が上がってるんですよ」

ギャグを値札つきで売る、まさに芸と経済のハザマを泳ぐ一匹狼。

実は元・広告代理店勤務。トークには“企業風刺”がさりげなく忍び込む。

プログラムタイムの調整役として、MCにも登板予定。


3.【怪獣タロウ】

(体育会系×昭和フリップ芸)

「小学生のとき、僕は田んぼで溺れかけたけど助けられたのは“米袋”の方だった」

――そんな謎のエピソードを全力で叫びながら進行する、パワフルな紙芝居形式。

会場では、子ども向け“笑育ステージ”も担当!

「お米の炊き方を、3分で腹筋100回分笑って学べる」伝説の紙芝居、解禁なるか!?


4.【しなやかな風】

(いつのまにか男女コンビ/ズレと美の融合体)

言葉がズレる、間がズレる、だけど何かが沁みる。

哲学的に見えて、実は日常を切り取った叙情コント。

カメラマン泣かせの不思議な動きと、美しい舞台衣装で

“農の詩”をテーマにした即興芝居を披露予定。

[TikTok映え確実]な生パフォーマンスの動くオブジェにも。


5.【笑角亭 来福】

(落語家/登場がすでに一発芸)

「わしが来たから、きっと笑いが来る」

――そう言って、イベントの途中からひょっこり現れる、“遅れてきた祝福”。

新作落語「コメワン落語・第一席『ツヤとヒカリの間に』」を引っ提げて、

医療ブース横の“語り場”で、癒やしと共感のひとときを提供。

実は、若いころ保健所職員だったという経歴の持ち主。


6.【DDコミック】

(ビーム&バリア/元・上方お笑い新世代)

「おまえのギャグ、今はまだ届かない!」「俺のバリアは、無意味な笑いを弾く!」

……ええ、聞いてるほうはポカンとします。でも、それがいいんです。

泣けるコントと称されるネタ「宇宙農業高校」では、

「米粒をまくロボット」が主人公。

終演後の来場者アンケートで泣いた人が続出したという伝説も……?


7.【レンチンズ】

(司会&会場回し/ツッコミ自炊芸)

そして最後は、全体の進行を担う実力派ユニット「レンチンズ」!

会場を包むMC力に定評あり、さらに炊飯器コントで

「お米は踊る!」の名物ネタを披露予定。

緊張が走れば笑いで溶かす、混乱が生まれればテンポで整える。

いまや「コメワンの呼吸」と言っても過言ではありません!


緊張を笑いで隠し、

笑いで人を集め、

人の輪で祭りを守る――


この配置、まさに笑いの防火帯!

救急車3台分の緊張も、

おにぎりと笑い声があれば、

それは“安心の予感”に変わるでしょう。


東京北区の真夏、

米が火にかけられ、

舞台に灯がともります。


次の幕は――ステージ本番当日!


コメワンの神輿、いよいよ出陣でございます!



ーー芸に再会あり。レンチン兄さんに、また会えた。ーー

【北区・コメワン仮設舞台裏】


設営の合間を縫うように、笑い声が断続的に飛び交う。

そんな中、仮設ステージの控えスペースに立つ二人組――北盛夫と飯野武。

かつて「キタイノシンジン」という名で一世を風靡した漫才コンビ。

今は、名を改め――レンチンズ、コメワン・グランプリの司会者として、再デビューの舞台に立つ。


「レンチン兄さん……お久しぶりです!」


控え室の仕切りをそっと開け、現れたのは、やや緊張の面持ちを浮かべた2人の芸人。


「……あんたら……“DDコミック”の……?」


北が目を細めて顔を覗き込むと、2人は同時に頭を下げた。


「ビームです……」

「バリアです……あの、6年前は本当に、失礼しました……」


思い出す――あの頃、DDコミックは勢いに任せて、舞台袖で北に軽口を叩いた。

「もう“キタイノシンジン”って古いっスよね」

“あの頃の笑い”をバカにしたような目で、後ろ姿に毒を吐いた若手たち。


だが今――


2人は帽子を脱ぎ、体を折り曲げて深く頭を下げた。


「ずっと、謝りたかったんです……」

「ぼくら、あれから売れなくなって、いろんな劇場回って……

 それで気づいたんです。自分たちには何もないって……」


「だから、また出直しました。キス芸だって、やります。

あの、先輩のあの伝説の――“衝撃のキス”芸を……オマージュとして、やらせてください!」


「キス芸」――

それはかつて、北盛夫と飯野武が若手時代に繰り出していた、命を削る覚悟のギャグ。

笑いを超えて、「一線を越える」ことへの覚悟を、舞台で体現した伝説。


2人の若手が、いま、真っすぐにそれを捧げようとしていた。


北は、小さく笑った。


「……あのキス芸な。あれはな、俺たちが“売れるため”やのうて、“逃げないため”にやったんや」

「逃げない……?」


「せや。“芸人やる”っちゅうのは、どこまで自分をさらせるかや。

あんたらがそれを覚悟してるっちゅうんなら、舞台……任せるわ」


ビームとバリアの顔が、パッと明るくなった。


「ありがとうございます……!」


北は最後に、少しだけ笑みを浮かべて言った。


「それと……“レンチン兄さん”ってのは……やめえや、照れるやないか」


【木曜夜7時・プレステージ、SNS拡散】


仮設ステージで繰り広げられる「DDコミック」復活のキス芸――

観客のスマホが一斉に掲げられ、瞬く間に拡散されていく。


《#DDコミック復活》《#レンチン兄さん公認》

《#伝説のキス芸継承》《#お笑いと米と覚悟》

《#会場入口がもう笑いの渦!》


“笑い”が“熱”に変わり、“熱”が“話題”となった。


【木曜夕方・ニュース速報】


〈ニュースキャスター桑島実朗〉

「東京都北区からの話題です。

明日開催される《コメワン・グランプリ》の前日イベントが予想以上の賑わいを見せています。

“レンチンズ”と若手芸人“DDコミック”のキス芸コラボがSNSで注目を集め、

明日の来場者数にも期待が高まっています」


【金曜夕方】


来場者数、予想の2倍超。

ビームとバリアは、会場入口の手書きボードを掲げた。


「伝説のキス芸、朝イチからやってます!」


案内所でも笑い声。

特設ステージでもキス芸。


すべてが、「今、この場所でしか生まれない笑い」だった。


そして、ステージ袖で北盛夫が、そっと飯野に耳打ちする。


「なあ……あいつら、まだぎこちないけど、ええ顔してるやろ?」


飯野はうなずいた。


「火ぃ、ついたな……芸人としての火や」


芸人とは、売れなくても笑わせる人間のことだ。

たとえ過去に失礼があっても、芸の覚悟で戻ってくれば、

先輩は笑って許す。

それが、芸の世界だ。


DDコミック。

いま、レンチンズのそばで――

笑いの神輿を、確かに担いでいる。

ーー続くーー

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