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田中オフィス  作者: 和子
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第四十二話、ワシら東京さ行くで!

この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

ーーTOKYO-2025ーー

朝の会議室には、コーヒーの香りと緊張感が漂っていた。


田中オフィスの一日は、いつものように専務・藤島光子の足音から始まる。その日はどこか軽やかだった。スマートフォンを片手に、わずかに笑みを浮かべて会議室に入ってきた藤島専務が口を開いた。


「水野さんから連絡が入りました。たまちゃんのイベント企画、通ったそうよ」


その一言に、社内がどよめいた。


「おおっ!」


静かな朝の会議室が、一気に祝福ムードに包まれる。


「東京北商工会が主催で正式に決定やて!」

田中卓造社長が、椅子の背から前のめりに身を乗り出す。

「……これはもう、田中オフィス総力戦や!」


張りつめた空気が一変した。社長が戦に出るときの顔になっている。誰もが、それを見て「選抜」が始まることを察した。


「まず……たまちゃん!」


その声に、誰よりも早く立ち上がったのは、奥田珠実――通称・たまちゃん。22歳の最年少スタッフ。目がキラキラしている。


「はいっ!」

その声には、緊張と興奮と、そして少しの自負が混ざっていた。


「アイデアはたまちゃんが火つけたしな。浅草のマーケットでも大活躍やった。異論、ある人おるかー?」


誰も手を挙げない。むしろ、全員が満場一致という表情だ。


「異論なし、っと」

社長がニンマリとした。


「続いて……半田くん!」


無言で立ち上がるのは、田中オフィスの技術部門の中核――半田直樹。システムの裏方に徹する彼の存在は、今回の企画成功に不可欠だった。


「今回のイベントは、中核のシステムが命や。TokyoチームはIT得意やけど、アンタの“地に足ついた視点”が必要や」


「はい、倉持さんから企画の大枠は聞いています。かなり面白くなりそうですね」


短く、だが確かな返答に、社長は満足そうにうなずいた。


「ほな、あと一人……稲田さん!現場でのサポート、お願いできるか?」


一瞬、間があった。稲田美穂はゆっくりと立ち上がる。司法書士試験に合格して4年目。実務経験重ねて、今や事務所の中核的存在となっていた。


「……ぜひ、行かせてくださいっ!」


小さくガッツポーズ。目の奥に秘めた思い――「水野さんと一緒に仕事ができる……!」

という、誰よりも強い思いを乗せていた。


「そして最後は……ワシや!」

社長が、自らの胸をバンッと叩いた。


「今回は“神輿(みこし)”を出すでぇ!このワシが自ら!出陣や!!」


たまちゃんと稲田が、同時に「ええぇー!」と顔をしかめる。


静かに場を締めくくったのは、藤島専務だった。


「では、東京派遣メンバーは――奥田、半田、稲田、そして田中社長の4名。こちら(京都本社)のことはお任せください。ただし……」


彼女は少し微笑んで、最後の一言を加えた。


「社長がハメ外さないように、みんな、しっかり監視してね?」


社内に笑いが起きる。


「なんや、それ。ワシが“お荷物”みたいやんけ!」

ムッとする社長に、笑いはさらに広がった。


――こうして、東京イベントを支えるため

田中オフィスより、選抜メンバーが立ち上がった。


“神輿”は揺れるか、暴れるか。

TOKYO-2025(仮)は、まだ始まったばかりである。



ーー受け入れ準備、じわじわ進行中ーー

六本木にほど近いオフィスビルの一角。

田中オフィスTokyo――その打合せスペースには、朝の陽光とともに、静かな緊張が漂っていた。


香り立つコーヒーを注ぎながら、法務兼IT担当のラヴィ・シャルマと、総務の佐藤美咲がひとときの雑談を交わしている。


「それにしても……京都から田中社長が来るなんて、これは一大事ですね」

ラヴィが低く穏やかな声でつぶやく。


「“神輿出す”って言ってるくらいですからね」

美咲が笑いながら肩をすくめる。

「東京が揺れる覚悟、しといた方がいいですよ」


そこへ、ドアが開く音。


「進捗状況、報告します」


入ってきたのは、東京所長・水野幸一。

ファイルを手に、淡々と歩みを進めてくる。ふたりの目線がピタリと合った。


「イベント進行役が、正式に決まりました」

そう言って、水野は一枚の資料をテーブルに置いた。


「かなり“通”な人選です」

その目元にわずかに笑みが浮かぶ。


「まず、フリーアナウンサーの桑島実朗さん。そして……かつて“キタイノシンジン”として名を馳せたコンビ――レンチンズ」


「えっ……レンチンズ!?」

美咲の声が裏返った。


「うそでしょ……震える……」


彼女は立ち上がり、身を小刻みに震わせながら、記憶の扉を開いていた。


「だって……ほんの2、3日前……私、錦糸町演芸ホールでプレ公演聞いたばっかりなんです……!」


ラヴィが優しくうなずく。

「ああ、“笑角亭来福”の上方落語ですよね」

彼の口調もどこか感慨深い。


「昼の部で、アビシェクと一緒に来福師匠の落語や、キタイノシンジンの漫才を見ていました。その日の夜遅く、観客はたった7人だけ。私は仕事に戻りましたが、アビシェクとアヌシュカは、倉持さんと佐藤さんに連れて行ってもらったんですよね」


「ええ、確かに」

水野はうなずく。


「そして……あの場にいたんです、レンチンズのお二人も。完全なサプライズだったけど、あの会の空気は忘れられません」


ラヴィが続ける。

「ほんとに……あの“間”と“余白”の使い方……声を張らずに場を支配するあの存在感……もう、あれは“芸の域”ではなく、“芸の芯”でしたよ。笑わせるために黙る。20年という積み重ねが、言葉にならない間に宿ってる」


そのとき――


「なるほど、最高のパフォーマンスを堪能できたってことだな」


低く落ち着いた声が背後から響いた。


現れたのは、肥後勝弥。

田中オフィスTokyo 嘱託マーケティング・アドバイザー

肩書きは長いが、こうして裏方として確実な働きを見せる男だ。


「今じゃ、レンチンズのお二人はヒア・ウイゴーの所属。うちの妻が代表をやってる事務所です」


「えぇっ、奥様が……?」

ラヴィが目を見開いた。


「そう。業界で着実に()()()()中堅どころですが、今後の商工会イベントのタレント手配を任されてるんだ」


水野が補足する。


「芸能方面との調整、肥後さんのおかげでスムーズに進んでいます。東京MTVとの放送枠交渉も、昨夜まとまりました」


「ってことは……あのプレ公演が、正式登壇の“前奏”だったってことですか?」

美咲が両手を合わせた。

「しかも、あのレンチンズが……!」


「もう、わたし、絶対サインもらいます」

手帳を胸に抱きしめる彼女の姿に、ラヴィも思わず笑った。


「オフショットなら、こっちで用意できるよ。それにサインつけてな」

肥後が落ち着いた口調で添える。美咲の頬は、興奮で赤らんでいた。


そのときだった。


バタバタバタ――!


廊下から激しい足音。直後に声が響いた。


「ちょっとー!このプリント、両面印刷になってないやんかーっ!」


ドアがバーンと開く。


「たまちゃん!!」

美咲が叫ぶ。


そこには、A4のプリント束を抱えて突入してきた奥田珠実たまちゃんの姿があった。


「みさきぃぃーっ!!!」

たまちゃんが全身で駆け寄る。


「来たで来たで来たでーーっ!東京やーーっ!!」

笑いながら抱き合うふたり。


「久しぶり!てか、元気すぎない!?もう!なにそれー!!」


「元気しか持ってきてないから!あとチラシと名刺もあるけどな!!」


再会のハグからそのままコントのようなやり取りが続く中、後ろから次々と現れる京都組。


「おーい、まだ入口で盛り上がってんのか」

田中社長がキャリーバッグを引きながらにやりと笑う。


「階段しかなかったから……これはさすがに応えるな」

半田直樹がボックス段ボールを両腕に下げて息を吐く。


「お疲れさまです……あ、でも空気が、やっぱり東京ですね」

最後に登場した稲田美穂は、ほんのり頬を染めながら会議室へと入ってきた。


半田君は早速、倉持渉のデスクに向かい、パソコンを覗き込んでいる。


倉持はイベント用に作成したアプリの説明を画面上で動かしながら説明し、

ラヴィさんは、スマホを操作して、ダウンロードしたアプリの説明をしている。

二人の話を聞きながら、半田くんは

「へ~なるほどね~!」と、目を輝かせている。


こうして――

錦糸町演芸ホールでの“プレ公演”からわずか数日。

東京は確かに動き始めていた。


レンチンズを知る者たちが、今、その“笑い”と“想い”を迎える準備を進めている。


祭りは、もうすぐだ。



ーーヒア・ウイゴーの“姐御”、登場ーー

六本木・田中オフィスTokyo 応接兼会議室


進行キャストの話題で沸き返る会議室の空気は、まるで夏祭り前夜のように軽やかだった。


「レンチンズ、ほんとに来るんですか……」

佐藤美咲はうわごとのように何度もつぶやき、両手を胸の前で組んでいた。


そこへ――

コツ、コツ、コツ……と、ヒールの音が廊下から近づいてくる。

一瞬、会議室の空気がふっと張り詰めた。


ドアの前で足音が止まり、ノックの音が二度、軽く響く。


ラヴィが席を立ち、ドアへ向かい、静かに開けた。


「お待たせしました。どうぞ」


にこやかに会釈をしながら入ってきたのは、スーツ姿の一人の女性。

涼やかな笑みとともに、その場の空気をさっと変える存在――

肥後香津沙(かづさ)、ヒア・ウイゴー代表取締役であり、芸能界の“裏方のクイーン”である。

その瞬間、室内のざわめきはぴたりと止んだ。

誰もが無意識に背筋を伸ばし、視線を向けていた。

彼女は軽く場を見渡すと、

夫である肥後勝弥に、落ち着いた声で語りかける。


「……あなた、ちょっといいかしら?」

彼女は足音を響かせながら室内へと進み、

夫・肥後勝弥に視線を向ける。


「“業界で伸びてる”って言ってくれたのは嬉しいけどね

――うちは、“業界に蔓延る(はびこる)”って言ってんの。

キャッチコピー、ちゃんと伝えてちょうだい、勝っちゃん」


勝弥がわずかに肩をすくめ、いつもの飄々とした笑みを浮かべる。


「……悪い。

でもよ、いいタレント2人も仕入れたんだ。

今後のマネジメントも頼むぜ、社長さんよ」


香津沙の目が一瞬だけ鋭く光る。


「“仕入れた”じゃないでしょ?」

その声は低く、氷のように澄んでいた。


「サポートするの、あたしたち。

あの人たちは“商品”じゃない、“舞台に立つ人間”よ。

うちはその責任を背負ってるの」


沈黙――

それは威圧ではなく、“覚悟”のある人間が放つ静けさだった。


「……か、かっこいい……」

佐藤美咲が小声で言う。


「“デキる女”ってこういうことなんですね……」

たまちゃんも思わず背筋を伸ばしていた。


香津沙は、テーブルの隅にバッグを置くと、真っ直ぐに水野を見る。


「うちのタレントたちは、“台本通り”じゃ光らない。

むしろ、台本の外で力を発揮する。

アドリブも効くし、トラブルの処理もできる。

だから現場は――任せて」


水野が手元の資料を開く。


「ヒア・ウイゴーさんとは、都市イベントや地方興行も含めて、継続的な連携を考えています。

東京MTV側とも、構成枠の協議が整いました」


香津沙は、ふっと微笑んだ。


「こっちも本気よ。

この案件は“点”じゃなく、“線”でつなぐ仕事。

田中社長が“神輿出す”ってんなら――

あたしたちも、担ぐ覚悟で来てるから」


その一言が、場の空気を変えた。

誰もが口に出さずとも、心の中で同じ言葉を思った。


――この人、本物だ。


勝弥が照れたようにぼそり。


「……まあ、こいつがいてくれりゃ、だいたいの現場は回るわ」


即座に返る、香津沙の声。


「“だいたい”じゃなく、“全部”回すの。

仕事って、逃げない人がやるものだから」


その瞬間、たまちゃんと美咲が小さく息を呑む。

「……カッケェ……」

二人の目は、明らかに“崇拝”の色を帯びていた。


大舞台を支えるのは、表に立つ者だけではない。

背中を預けるだけの価値がある人間――担ぎ手がいるからこそ、神輿は揺れ、祭りは本物になる。


肥後香津沙。

名もない現場で、無数の声と汗を束ねてきた者。

今、田中オフィスの舞台にもその名が刻まれようとしていた。



ーー「企画」は給湯室から生まれたーー

約3ヶ月前

田中オフィス本社・給湯室、午後3時頃。


昼の喧騒が一段落し、給湯室にはちょっとした“おやつタイム”の気配が漂っていた。


ポットから湯気が立ち上り、湯のみの音がカチャリと響く。

そこに並ぶのは――奥田珠実たまちゃん、稲田美穂、島原真奈美、そして佐々木恵の4人。


「最近、お米、高いですよね〜……」

たまちゃんが急須からそっとお茶を注ぎながら、ぽつりとこぼした。


「行列して買えた人はまだマシで……

整理券すらもらえなかったって人もいて。

入荷待ちって、もう……なんか、すごい時代ですね」


稲田が冷蔵庫からヨーグルトを取り出しながらうなずく。


「わかります……私、最近は朝・昼・夜、ずっと、麺類かパンです」

と、笑ってみせるが、その笑顔には少しだけ影が差していた。

「好きなんですけどね、でもやっぱり、“手に入らない”って、じわじわ不安になりますよ」


たまちゃんはカップを手に取ったまま、ふと動きを止める。

視線は遠くの壁を見つめていた。


「……こんだけ高いなら、

もういっそ、外国から輸入するのもアリじゃないですか?」


その声に、カウンターの向こうでコーヒーをすすっていた佐々木恵が眉を上げた。


「うん、たしかに。

輸入関税払っても、今の価格なら採算合うって話や。

……ただ、味はどうなんやろな?」


たまちゃんの目が、ぱっと輝いた。


「……そこでですよ!」


急に声が弾んだ。

3人が同時に手を止め、彼女の顔を見つめる。


「外国産と国産、どっちが美味しいか、食べ比べしてみるんです!」

たまちゃんはカップを置き、両手でテーブルをトンと叩く。

「もちろん、大量に輸入するんじゃなくて、

農家さんのためにも、少量だけ。“味見”って位置づけで。

スマホで投票できるようにして、みんなに公平に選んでもらうんです!」


稲田が目を丸くする。


「なるほど……“どっちが安いか”じゃなくて、“どっちが美味しいか”を主役にするんですね」


佐々木が、腕を組んでうなずいた。


「面白いやん。

“やっぱり国産!”ってなるかもしれへんし、

“あれ?タイ米もいけるやん?”でもいい。

ほんまに、偏りのないジャッジってとこがミソやな」


「そう!公平に、正直に、味で判断してもらう。

その結果は、国内外どちらの生産者にも励みになると思うんです」

たまちゃんは熱を込めて語る。


「農家さんのやる気も上がるし、

世界中の米作りしてる人に、“食べてくれてる人がいる”って伝わる。

これ、イベントにしたらめっちゃ面白いと思いません?」


稲田と佐々木がうなずき、島原は笑顔でカップを持ち上げた。


「……いいですね、それ。“ライスボウル”とか、そんな感じのタイトルで」


「うわ!それ、いい!」

たまちゃんが目を輝かせる。


「じゃあライスとボウル:お米とお椀を略して……『コメワン』、とか?」


4人の視線が、給湯室の天井へと一斉に向いた。

まるで、未来を見上げるかのように。


――たまちゃんの、その何気ないひとこと。

それは、後に一大食イベント『コメワン・グランプリ』として開花する。

業界とメディアが熱狂し、全国の家庭がスマホで“米の旨さ”を選ぶコメジャッジ革命――

そのすべては、今日この給湯室から、始まったのだった。


閃きとは、いつも特別な会議室で生まれるわけではない。

それは、ふとした午後、

カップに注いだお茶の湯気とともに、

湧き上がる――声なき課題に、若い誰かが真っ直ぐぶつかるとき。


「コメワン」――その種火は、給湯室から立ち上ったのだった。



ーー霞の圧ーー

田中オフィスメンバーが集結して数日後、田中オフィスTokyo 内では

すでに冷たい夜の空気が流れ込んでいるようだった。


ミーティング・テーブルには、数枚の資料とお茶の入った湯呑み。


そこに座るのは、田中社長、奥田珠実、稲田美穂――

そして、手に厚めのファイルを抱えたまま、水野所長が静かに現れた。


その顔は、どこか固く、言葉を探しているようだった。


「……原田会長の元に、農林水産省から正式な文書が届きました」


部屋の空気が一変する。

水野の声は、あくまで冷静に、感情を滲ませることなく続いた。


「要約しますと――」


彼はファイルを開きながら、文章を読み上げるのではなく、噛み砕くように語った。


「“昨今の情勢下において、本企画が農政の推進に支障を来すおそれがある。

したがって、見送りを含めた賢明な判断をお願いしたい”」


数秒間、誰も言葉を発せなかった。

部屋の空調音だけがかすかに響いている。


やがて、たまちゃんが小さくつぶやく。


「……止めろってこと、ですか?」


水野は静かに、たまちゃんを見つめた。

その視線には、どこか申し訳なさと、諦めきれない光が混ざっていた。


「言葉を選んではいますが……

意味するところは、“おとなしくしてろ”――そういうことです」


「でも……法的には問題ないんですよね?」

稲田がまっすぐ問いかける。

「輸入したお米もイベント用の少量だけで、関税もちゃんと払ってるし……」


水野はうなずく。


「はい。制度上は、何も違反していません。

ただ……“空気”というやつが、動き始めているんです」


「来よったで……“空気”が政治を動かすってやつや」

田中社長が腕を組み、低くうなるように言った。

「結局、誰かの顔色を見ながら話を畳もうとしてるだけだな」


たまちゃんは、黙って拳を握りしめていた。

唇を噛み、目を伏せたまま呟くように言う。


「でも……このイベント、

誰かの悪口を言ったわけでも、

農家さんを貶めたわけでもないんですよ……」


目が潤んでいるように見えたのは、室内の光のせいかもしれなかった。


「ただ、“美味しい”ってことを、みんなで喜び合うために、

それだけなのに……」


水野は、その言葉を聞きながら、ゆっくりと頷いた。

そして、たまちゃんの目をまっすぐに見て言った。


「……そうですね。だからこそ、守りましょう」


たまちゃんが顔を上げる。


「企画の“芯”は、正しいものです。

それを、曲げずに通す道は、必ずあります。

政治や空気に合わせるんじゃない。

この“まっすぐな気持ち”を、まっすぐ伝えればいいんです」


その声には、迷いがなかった。

凛とした水野の声に、たまちゃんの肩から力が抜けていく。

稲田もまた、静かにうなずいた。


――彼女たちは、ただの企画担当者じゃない。

自分たちで“場”をつくり、“言葉”を選び、“価値”を問い直そうとしている。

それが今、“空気”とやらに試されているのだ。



“コメワン”――その正式名称は、『コメワン・グランプリ(Tokyo Kome 1)』**と決定された。

プロジェクトとして歩き出した直後に、霞が関からの風が吹いた。


だがそれは、止めるための風ではなかった。

彼らの火を、より強くするために吹いた、試す風なのだ。


夜の東京。

まだ静かなオフィスビルの中で、

誰も声を上げないまま、次の一手を考え始めていた。


ひとつの企画が動き出すとき、

それは、正論だけでは進まない。


だが――

止める理由がないなら、前に進む理由をつくればいい。


たまちゃんの拳が、少しだけほどけたその夜。

東京の空に、静かなざわめきが広がっていた。



ーー狸たちの国で、神輿はどう進むーー

田中オフィスTokyo・会議室

壁には《コメワン・グランプリ》――まだ仮印刷のポスターが静かに貼られていた。

その下には、淡い光を浴びた会議テーブル。

今、そこに広げられているのは、一通の文書。農林水産省の封筒が添えられた公式なものだった。


東京チーム、京都チーム、全員が席につき、言葉少なに紙面に目を落としている。

沈黙。空調の音さえ、遠く感じられる。


たまちゃん――奥田珠実が、口を開いた。


「……これ、農水省の局長名義ですね」

声は小さく、だがはっきりと通る。

「宛先は北商工会の原田会長……つまり、私たちには直接じゃないってことですか」


水野幸一が静かにうなずいた。


「ええ。外堀から埋めてくるタイプの圧力ですね。

名指ししないことで、“やめろ”と言ったことにも、“言ってない”ことにもできる」


半田直樹が眉をひそめながら口を開く。


「けど……だったら、逆に農水省にちゃんと“説明”に行けば……」


言いかけたその瞬間、田中卓造――社長が鼻を鳴らすように笑った。

短く、低い音。まるで野良猫が首を振ったような。


「……あかん」

彼は椅子にもたれたまま、天井を見つめた。

「そんな真っ直ぐに行ったら、“こっちが餌まきました”言うてるようなもんや」


全員が社長のほうを向いた。田中の声は、むしろ穏やかだった。


「……あいつらな、タヌキやで。

こっちが何か動いたら、“はい来た〜”言うて証拠固めに走る。

ほいで、見当違いのとこに手ぇまわしてくれたら、そっちから知らせが入る。

しめたもんや」


稲田美穂が小さくつぶやいた。


「……そんな……じゃあ、どこに本丸が……?」


「わからんのが怖いんやない。見えてへんのが普通なんや」

田中の語り口は、まるで長年の読み筋を語る将棋指しのようだった。

「もし本気で止めに来てるんなら、うちらに何かしらの“ヒアリング”が入るはずや。

せやけど、誰も受けてへん。つまり、水面下で手ぇ動かしたヤツが――別におる」


たまちゃんが思わず息を飲んだ。


「……じゃあ、私たち、もう詰んでるんですか?」


田中は、椅子の背をゆっくり倒し、目を閉じるようにして言った。


「詰みやない。まだ敵の顔が見えてへんだけや。

こういうとき、うっかり出てったらな……神輿やのうてまとになってまうで」


またしても、会議室は沈黙に包まれた。


だがその沈黙を、水野が淡々とした声で破る。


「まずは、“狸の巣”を調べましょう」

彼はファイルを整えながら言った。

「この文書を実際に書いたのは誰か。草案はどこから上がってきたのか。

そもそも、発案者は農水省内部ではない可能性もあります」


「たしかに……」

半田が頷く。

「“お米”の問題って聞いたら、すぐ農水って思いますけど、

実際には経産省とか外務省とか、他も絡んでることが多いですし」


「そうなんですよ……ね」

たまちゃんの声が少し弱々しくなった。

「じゃあ、敵は……まだ、わからないまま、こちらから手出しができない」


その言葉に、田中がゆっくりと目を開けた。

瞳に宿る光は、むしろ楽しげですらあった。


「せやから、おもろいんやろ」

そう言って、机の端を軽く叩いた。


「タヌキが出てくる夜道で、神輿を担ぐんや。

それは、火ぃつけるようなもんやけどな……担ぎ手が多かったら倒れへん」


と、その瞬間――ドアがノックもなく開いた。


ヒールの音が、場を断ち切るように響く。


入ってきたのは、ブラックスーツに身を包んだ女性。

その姿は場に緊張感を走らせたが、口元に浮かぶ笑みは自信に満ちていた。


「悪いけど、もう担ぎ手、増えてるわよ」


それは――肥後香津沙、ヒア・ウイゴーの代表取締役。

芸能と政治の狭間を泳ぎきる、したたかで強い“姐御”だった。


「うちの子たち、準備万端。

あたしのネットワークも、ちょっとずつ火ぃ回してるから」


田中が少し笑いながらうなずく。


「……おおきに。タヌキには、姐御も効くわな」



霞が関からの文書が届いた。

だが、それで敵の姿が見えたわけではない。

むしろ、それは霧の中から差し出された、偽りの地図だったかもしれない。


この企画を止めにかかる者が、誰なのか。

何のために――誰のために。


“コメワン・グランプリ”

その神輿は、狸の国で、確かに進もうとしていた。


火をつけたのは、誰か。

煙を嗅ぎつけたのは、誰か。

狸たちが潜む夜の道で、

神輿を担ぐ者たちは、まだ前を向いている。


敵が見えぬなら、光を掲げればいい。

進む意思こそが、闇を裂く松明(たいまつ)になる。

ーー続くーー

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