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田中オフィス  作者: 和子
44/90

第四十一話、西から昇った太陽

この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

ーー開演ーー

高座に上がるは、笑角亭来福しょうかくていらいふく、43歳。実力派として名を馳せる落語家だ。


会場に囃子の音はなく、拍手もない。

来福は高座右手から、小股で舞台中央へと進む。


そこにあるのは、座布団と背の低いスタンドマイクのみ。

上手かみてに”めくり”はなく、独演会であることがわかる。


客席は暗く、舞台にはスポットライトが一つ。

照らされているのは、来福ただ一人。光の中で、演者の息遣いに劇場のわずかな埃が揺れて漂っている。


静かに座布団に身を落ち着けた来福は、ゆっくりと顔を上げた。視線は客席の暗闇の先を見据えている。そして、深呼吸を一つ。


――あれは、ちょうど二十年ほど前になりますか。

……昔なぁ、まだケータイも液晶割れたまんまでストラップぶら下げとった時代や。

せやけど、割れとんのはケータイ画面だけやない。

“笑いの常識”も、割れとった。ぐしゃーんと。


そんなある日や。

大阪・心斎橋の地下劇場、ちっこいステージに、

ピッカピカの学ラン姿のふたりが立ったんや。


赤いリーゼントの甘いマスク、北盛夫きた・もりお

眉間にしわ寄せた紫リーゼントのケンカ番長、飯野武いいの・たけし

挿絵(By みてみん)

このふたりがコンビ組んで、「キタイノシンジン」。


最初、舞台に出てきただけで「不良や!」て客席がザワつくんやけど、

一発目のボケとツッコミで、その空気、ガラッと変わる。


北「兄ちゃん、なんでランドセルしょってんねん」

飯野「過去に帰りたいんやっ!」


……ドーン!客席、爆笑。

このツカミ、たった10秒やで?


ほんでな、ここからや。


(来福、語り口を落ち着かせて、扇子をスッと上げて)


……さて。

ステージには、例のツッパリ学ランコンビが立っとります。

紫リーゼントの飯野、胸張って言うんですわ。


飯野「過去に帰りたいんやっ!」


北「……はあ?」


「小学5年のオレは、最強の男やったんやで!

6年生泣かしたこともある!」


ドヤ顔や。


「……で、今は?」


「心斎橋のガングロねえさんのパシリやらしてもろてます!

あ、タバコ、セーラムの7ミリグラムでよろしかったですか〜?」


(客席:ズガーン!)


このスピード感、この落差、そして何より――

“自分で自分を落とす”潔さ。


……ウケた。

めちゃくちゃウケた。


その夜、楽屋で芸人たちがざわついた。


「ヤバいの出てきたぞ」

「名前覚えとけ」

「平成ちゃう、これは昭和の魂や」ってな。


時代はまだSNSなんぞない頃。

けどな、あの夜を境に、キタイノシンジンの名前は口コミでジワ〜っと拡がっていったんや。


そっからは怒涛や。


賞レース制覇、テレビ進出、

女子高生ファンクラブ乱立、夜のニュースになる始末。


でもな――


あのランドセルのくだり。

あれがな、ずーっと、ふたりの“核”やったと思いますねん。


「お前、いつまで過去にすがってんねん!」

「そのランドセルを捨てるんや!」

「いやや〜!これはオレのすべてなんや〜!」


人間てな、“誇れる過去”を手放すのが一番怖いもんです。

でも、己の弱さを笑いに差し出す、それが、ほんまの芸やと――。話続けますわ。


ほんでな、ここからや。

ふたりは、ゆっくりとズボンのポケットに手ぇ入れて……

何やら赤くて、ぷっくりしたもんを取り出す。


……なんやと思います?


タラコくちびるのゴムマスクや!!


ほいで、北が目ぇ閉じて、そっと言う。


北「……飯野、ワシも気持ちは一緒や」

飯野「北、熱い魂受け取ってみいッ!」


観客「え?え?何始まんの??」


次の瞬間、二人ともゴムくちびるを口にはめるんや。

挿絵(By みてみん)

会場はザワザワや。


そこから始まるのが、必殺“求愛ダンス”。


腰をくねらせ、指を天に突き上げて、

「キミに届けこの気持ち!」「ボクらのハーモニー!」


ときにルンバ、

ときにブレイクダンス、

ときに、なんや訳の分からん振付。


けどこれが――ウケる!!ウケるんや!!


会場の女子高生たちは「キャーッ!キタクーン!」「タケシィーーー!」て悲鳴。

客席最前列の子、泣いとる子おったくらいや。


そして、ダンスのラスト。


ふたりがそっと向かい合い……

くちびるを……


そっ…と重ねる。


会場「ギャアアアアアアアアーーーーーーッ!!!」


舞台崩れるかと思うくらいの歓声。

あれは笑いというより、ひとつの宗教やったな。


女の子人気だけで、上方お笑い界回ってると思うたらあきまへんで。

クロウト筋にも評価されとったんや。


評論家のセンセイがわしに言うんですわ。


「来福はん。あの“キタイノシンジン”、見ましたで」

「ほうでっか。どないでした?」

「しょもなかったな」


一拍、間が空く。


「……しょもなかったけど、あれは10年に一人の逸材や。

いや、コンビやから、10年に二人おるちゅうこっちゃ!」


……言うて、グビッとビールあおりましてな。

大阪・十三じゅうそうあたりでは、

昼間っから暖簾くぐって、ひとりビールのんどる評論家のセンセイがあちこちおりましてな。


シャツの襟はちょっと黄ばんでて、

目ぇは死んだ金魚みたいなんやけど、

口だけは……よぉ回る。


けどな――そのセンセイの言葉、

笑いの現場に生きるわしらには、グッと来たんですわ。


確かに、ネタはしょもない。

「ランドセル背負って小5の栄光にすがる男」とか、

「タバコ買いに走らされるツッパリ芸人」とか、

もう言うたら昭和の残り香とでも言いましょか。


でもな――しゃべりのが、ちゃうんや。


あの間合い、空気の握り方、

そして、ふたりの掛け合いの“呼吸”がぴったり。


どっちかが笑わせるんやない。

ふたりで、“笑いが生まれる場所”を作っとる。

それが出来る若手だったんですわ。


ほんでとうとう、来たんや――


上方漫才コンクール 決勝戦。


会場は梅田。大舞台。

客席には業界関係者ぎっしり。


「求愛ダンス」ではなく、あえて“しゃべくり一本”で勝負しよった。

あのふたり、あえて自分の武器、封印して出てきたんや。


飯野がランドセルしょって出てきて、

北が静かにツッコミます。


北「兄ちゃん、小5に戻ってどうするつもりや」

飯野「まずは……通知表の体育の『2』を、やりなおすッ!!」


――客席、爆笑。


そこから怒涛の10分。

最後は、無音の“間”に、

ひとりの審査員がふっと笑ろた。


その瞬間――


「優勝、キタイノシンジン!!」


どぉぉぉぉぉぉん!!

会場が揺れた。


北がケータイ出して、桂昭和師匠に電話かけます。


「師匠、やりました!」「天下獲りましたで!!」


……なあ。

お客さん、そのときのあのふたりの顔。

まさに、太陽やったで。


西から上って――

ほんなら、どこに沈むんやろな。


でも、コンクール優勝の勢いや、だれもキタイノシンジンを止められへん。


心斎橋・地下劇場、舞台上

ピカッと照明があたり、キタイノシンジンが登場する。


北(赤リーゼント・冷静派)がすっと一歩前に出てツッコミ構え。

飯野(紫リーゼント・情緒型)が背中にランドセルしょって登場。


北「兄ちゃん、なんやその格好は」

飯野「過去に帰りたいんや……」


北「またそれかいな。お前、いっつも言うてるけどなぁ、

いつまでも過去にすがってどうすんねん!」


飯野「(ランドセル抱えて)これはなぁ……ワシのすべてなんや!!」


北「すべてて……お前、ちょっと見せてみぃ!」

(ぐいっとランドセルを奪い取る北)


北「どれどれ……なんやこれ?」


飯野「……バージニア・スリム 6ミリグラムです……」


北「……タバコやないか!!」


飯野「お姉さんに頼まれて……いっつも使いっ走りで……」

(膝をついて泣き崩れる)


北「アホか!女にこき使われて、人生それでええんか!!

ガツンといかんかい!男やったら、ビシッと決めたれや!」


飯野「……ガツンと?」

北「あぁ!魂こめて言うてみぃ!」


飯野「……ガツンと……タール10ミリグラムですか?」


北「お前、それ“銘柄の話”になっとるやないかいッ!」


(客席、爆笑)


飯野「強めのやつ、最近売ってへんねん……」

北「そんなん吸うてる場合かい!吸うなら空気、吸うなら夢をやッ!!」

飯野「……夢、メンソールですか?」

北「メンソール味の夢ってなんやねんッ!」


ここで「タラコくちびる」をゆっくり取り出し、求愛ダンスの前奏へ……鉄板の流れやな。


(ここで来福、再び高座の自分に戻って語る)


ほんま、こいつらは“笑いの構造”が自然と出来とった。

計算やない、息や。

泣きながら笑わす、笑いながら泣かす。


それが、キタイノシンジンやったんですわ。


このあと、くちびる装着 → 求愛ダンス発動 → 観客絶叫 → 次の仕事へ、


ーー祝勝の夜、スナックにてーー

(舞台。静かなピアノのBGM風に語り出す来福師匠)


――あの夜、梅田の大舞台で栄冠を手にしたふたりが、

そのトロフィーをぶら下げて向かったんは、なんばの路地裏、

看板が片仮名で「スナック・ルビー」ちゅう、ちょっと昭和の匂い漂うお店やった。


貸切や。

予約は師匠の名前――「桂昭和」。

弟子はたったふたり。

けど、その夜の席にはぎょうさんおった。


千日前のキャバレーのお姉さん方や。

いつも楽屋に差し入れ持って来てくれる姉御肌の人たちが、

今日は着飾って、グラス片手に待っててくれた。


ドアが開いて、拍手と歓声。


「キタちゃん、オメデトー!!」

「ほらな、ウチの言うた通りやん!」

「タケシ!あんた、ウチが教えた“唇芸”、完璧やったやろ!」


飯野は照れて、そっぽ向くけど、

紫リーゼントが、やけに赤く見えたわ。


トロフィーをカウンターに置いた北盛夫、

ひとつ深呼吸して、立ち上がる。


グラスを持ち、赤リーゼントにスポットライト。


北「……えー、ホンマに今日は、皆さんのアッツ~イ応援のおかげで、

この賞、もろたと思うてます!」


(拍手)


北「ここまで来れたんは、タケシのおかげでもあり、

そして、ここの姉さんらの、

おかんみたいなダメ出しのおかげや思てます!」


(「やかましいわ!」とツッコミの声)


北「けど、ワシら、ここがスタートやと思てます。

次は……M-1と紅白、両方出ます!」


(拍手と爆笑)


北「せやから今夜は、飲みましょ!

ジャンジャンのみましょ! かんぱ~い!!」


乾杯の声と、氷の音、笑い声が混ざって、店内が”嬉しい”で溢れました。


(来福師匠、ひと呼吸置いて、静かに語る)


その夜、トロフィーは酔っぱらった姉さんに奪われて、

ラムネ瓶と並んでカウンターに置かれてた。

飯野は唇アイテムを早速口にはめて、

お姉さんに向かって求愛ダンスを踊り出す。


北はカラオケで「(すべる)」歌い出して、

途中で泣いてもうて、音外して、

マイクがぐるぐる回っとった。


師匠の桂昭和は、カウンターの一番端っこで、

ハイボールをちびちびやりながら、ふたりの笑顔を見とった。


誰にも気づかれんように、

そっと目ぇを拭いてた――


……あれが、ほんまに、

あのふたりが一番輝いとった夜やったんやと思います。


――笑い声の向こうで、

グラスが静かに音を立てる。


昭和師匠は、もう何杯目かわからんハイボール片手に、

ぽつりぽつりと涙をこぼしておりました。


そこへ、キタイノシンジンのふたり――北と飯野が、

そっと師匠の席にお酌をしに来る。


グラスに酒を注ぐ音だけが、ちょっと響いた。


昭和師匠、酒で赤くなった目のまま、ふたりを見て、

しゃくりあげるように言うた。


昭和「おまえら……ホンマに、師匠孝行な子やで。

ワシ、もう思い残すことないわい……」


北「やめてくださいよ師匠、縁起でもない」

飯野「まだ紅白も出てへんのに!」


昭和「けどな……ワシ、見せたかったわ。

おまえらのこの姿を……東京へ行ってもうた、あいつにもな……」


北「え? 師匠……僕らに兄弟子、おったんですか?」


昭和「おったよ……

あいつもな、若い頃は輝いとった。

ワシのとこで修行してたら、きっと天下取ってたで……

けど……まあ、ええ。

ワシは今が、一番幸せじゃあ……」


(昭和、法被の袖で涙をぬぐう)


その法被、よう見たら襟にでかでかと書いてある。


「キタイノの師匠」


北「……師匠、このハッピでテレビ出んの、やめとくなはれ」

(飯野も苦笑い)


昭和「……ええんじゃあ。

ワシはもう、いつ死んでもええ。これ着させてくれや……

……それが、ワシの誇りや……」


(ふたり、何も言えずに黙ってうなずいた)


(来福師匠、少し間を置いて、静かに語る)


……それから、そんなに日は経たんかった。

昭和師匠は、ふたりに見送られて、

ある朝、静かに眠るように……逝ってしもうた。


葬儀のとき、北はずっとハッピを握りしめとった。

涙は出えへんかった。けど――


帰りの車ん中で、ぽつりと言うたんや。


「師匠、ワシらのために一番ええもん、残してくれましたわ……」


飯野が聞いた。「なんや?」


北「……この“誇り”や。」



ーーその後、陽は沈むーー

(来福師匠、低い調子で語り始める)


――師匠が亡くなってしばらく経っても、

キタイノシンジンの人気は衰えまへんでした。


全国ネットのバラエティ番組、週3本。

CM、雑誌、女性ファン。

街を歩けば、サイン攻め。

どこへ行っても「キタくーん」「タケシィィ~~」の大合唱。


せやけど……そういう時ほど、脆いんやなあ。


ある晩、仕事終わりにふたりは馴染みのキャバクラへ行きましてな。

そこに――ユミコ姐さんの姿がなかった。


「どしたん?ユミコ姐さん」

「別の店、移ったんか? なら俺らに先いうてや~」


――でも、誰も目ぇ合わせん。


若い女の子が、ぽつりと話してくれたんや。


「ユミコちゃん、整形失敗してん……」


ふたり、息を呑んだ。


ユミコ姐さんは昔、芸人やってて、駆け出しのころの北と飯野に

芸人の心得を教えてた。そして、

「ユミコ姉さん、こんな話考えましたんやけど」

とアドバイスをもらうようになって、姉さん芸に関してはなかなかキビしい。

「あかんな~オモロない!」

「もっかいやりなおし。お客さん引くやろ」

「ん~まあまあやな」


ユミコ姉さん年上やけど、品があって、大人の魅力で、

どこか“ほっとする”人やった。


ほんでな、実は――

キタイノのふたり、抜け駆け禁止の約束しとったんですわ。告白する時は二人一緒で、

ユミコ姉さんに選んでもらうんや、てな


そのユミコ姉さんが失踪してしまったそうで


北「……失敗て、どんな」

女の子「……なんか、クチビル……あんたらのネタみたいになってもうて……

顔、出せんようになって、田舎、帰ったんやないかって……」


(来福、深く間をとる)


……その場の空気、氷みたいに冷うなった。


飯野「……人の顔、笑いとるもんとちゃうな……」

北「……ああ。あのキスネタ……もう、やめや」


その場でふたり、唇ネタ封印を決意したんや。


ところがや。


テレビ局のプロデューサー、台本にしっかり書いてますねん。


「次のコント、ラストは“ブッチュー!”な。ウケるから、よろしく」


北「……あの、すんません。あれ、もうやりたないんです」

飯野「ファンレターにも、もう“やめて”って来てますし……」


プロデューサー、一瞬笑て、

そっから声のトーンが変わった。


「……あ、そう。入れると面白いと思ったんだけどね」

(目が言うてる。「ちょっと売れたからって、何様やねん」と)


そっからの“転落”は――早かった。


(来福、声を低く)


番組、1本、降ろされて。

2本目はゲスト枠に変えられて。

3本目は打ち切り。


年末には「また呼びますんで」の言葉だけ残って、

正月の特番にも名前がなかった。


誰も、「キタイノシンジン」のことを口にせんようになった。


その頃には、

「新世代」やの「令和の革命児」やの、

次々と若いコンビが台頭してきて。


テレビは早い。

人気は回る。

時代は止まらん。


「せちがらい世の中やなぁ……」


それが、光の裏側やったんや。


(来福、静かに、深く語る)


――あの日。

もう来んようになるテレビ局の楽屋で、飯野は、鏡を見ながらぽつり言うた。


「……北。ワシら、どこで道間違えたんやろな」


北は言わんかった。


……あの日の光は、もう戻ってはこんかったんや。



ーー令和の光と、影のはざまーー

(来福、静かに扇子を持ったまま、扉を開くように手をすべらせる)


……時代は巡り、世は令和。

テレビは次々と“新しい笑い”を求め、

栄光の記憶はどんどん“過去の置物”になっていく。


キタイノシンジン――

あの伝説のコンビも、いまや30歳。

かつての“時代の寵児”は、

地方営業や商店街イベントで細々と生きとった。


けど、ある日、思いがけず声がかかった。

令和の新世代漫才師、「DDコミック」の冠番組、初回ゲスト――


DDコミックは、バリアとビームのコンビ漫才

ビジュアルもトークも令和仕様。

ネタはスマホとSNSとタイパ(タイムパフォーマンス)。

キレッキレや。


収録は、まあ無事終わった。

それなりに笑いも取った……ように見えた。


せやけど――


楽屋の隅っこで、バリアとビームがやって来た。


ビーム「ちょっとー、少しは爪あと残してくださいよぉ?」


北「いやいや、僕ら、賑やかしですから。

DDさんの空気、壊したらアカン思て、あえて抑えました」


バリア「……ほう、そんな遠慮してたように見えませんでしたけど?」

(ニヤリと笑って)


ビーム「ふふっ、久々のテレビでアガっちゃった?」

バリア「おいおい、やめとけよ。一応“先輩”なんだからさ」


(来福、低くつぶやく)


――ああ、こういう空気、いっちゃん痛いやつや。


そのとき、観覧席からファンたちがどっさり降りてきて、

ビームとバリアにサインを求める。

スマホ構えて「神対応~♡」言うとる。


ビーム、ふっと目配せして、キタイノのふたりを見る。

何も言わんけど、その目が言うてる。


「今はワシらの“時代”や」


……せやけど、そのときや。

ひとりの若い女性が、彼らを通り過ぎ――

キタイノシンジンの前へやってくる。


女性「……あの、小学生の頃からずっと、飯野さんのランドセルネタ大好きでした。

あのときの笑いが、今も忘れられません。今でも……応援してます」


(飯野、絶句。北も思わず帽子を取る)


バリア、皮肉めいた笑みでひとこと。


バリア「……ほう。トリコにした子も、おるねんな」


(少しざわつく空気)


ビームは空気を変えるように、仕切り直し。


「えー今日は初回収録、大成功ということで、

ささやかながら打ち上げ用意してます。出演者・スタッフみなさん、どうぞ!」


バリア、ふっと態度を戻して、ふたりに声をかける。


「さっきは、ウチの相方がちょっと失礼なこと言いました。

よかったら……キタイノさんも、来てください」


(沈黙)


飯野、そっと北に目を向ける。いやな予感しかせえへん。


「……どうする?」


北、グラスの水を飲み干して一言。


「……仕事で顔つなぎは大事やからな。

行って、ちゃんと挨拶してまわろか。」


(来福、扇子を膝に置いて、語気を落とす)


……せやけどな、

その“挨拶”の途中で――

いま、ふたりが本当に“どの場所”にいるかを、思い知らされることになる。


やな予感、ってやつは、

だいたい当たるんですわ。



ーー奇跡は、夜のステージでーー

(舞台は、ギラギラと照明に照らされた打ち上げ会場)

シャンパンタワー、金色の風船、DJ、スモーク。

もう芸人の打ち上げいうより、完全にホストのバースデーイベントや。


中央の壇上では、DDコミックのビームがマイク片手に大絶叫。


ビーム「ミンナー! 飲んでるぅー?! ヒット祈願いくでー!!」

(シャンパン抜かれてドボドボ、歓声)


バリアが寄ってくる。「それじゃあ、皆さまお待ちかね!

今夜のスペシャル賑やかし!伝説のネタ、リクエストいっちゃいましょか!」


ビーム「うぃーっす!

それでは『伝説の唇芸人』キタイノシンジンさんに――

あのネタ!『ラブダンス・キッス』よろしくお願いしまーす!!」


(ザワァ……!)


(来福、やや低く)


……場内がざわつく。


でもここはテレビじゃない。打ち上げや。

やっても放送にはのらん。

けど――アイテムなんて、持ってるわけない。


北、じっと壇上のビームを見る。

目、細めて……睨んだ。

けどビームは、グラス片手に知らん顔。


ビーム「ハイハイ~! キッス、キッス~♡」


(飯野、小声で)「……馬鹿にしやがって」


北「けどな、飯野……久々に、キスネタできるチャンスやで?」


飯野、黙って、目で答える。

北、静かにうなずく。


「……そうか。おれたちの――渾身のネタ、見せたる!」


(スポットライトがふたりを照らす)


ステージにあがったふたり。

飯野が、くるりと上着を脱ぐ。

北も同じく、上半身を脱ぐ。

筋肉のライン、年季の入った身体。


そして、BGMがかかる。あの頃の、あの音。

――昭和のバラード、求愛のイントロ。


ふたりが向かい合って、

目を閉じ、リズムに合わせてステップを踏み始める。


右手で胸を叩き、左手で相手を指す。


北「飯野……ワシの魂、受け取ってくれぇぇぇぇ!!」


飯野「北……ワシも、ずっと……好きやぁぁぁ!!」


その瞬間――


生キッス。


(会場、一瞬の静寂)


次の瞬間、


「ウオォォォォーーー!!!!」

「伝説や!!」

「キターーーー!!」

「令和の奇跡!!!」

「ブラボー!!!」

――喝采、爆笑、グラスの氷が飛ぶ。


(来福、笑い混じりに)


バリアが目見開いて、「……マジかよ」って声漏らした。


ビーム?

――顔、真っ青や。


「おえぇぇぇぇっ!!気持ち悪ぅぅぅぅぅ!!!」

言うて、変な顔してトイレへダッシュ!


(誰も見てへん)


バリア「あれ、飲みすぎたんか?」

ビーム「……吐いてくるわっ!!!」(涙目)


(来福、最後にしんみり)


せやけどな――

あの瞬間、

誰もが思ったんや。


「あのコンビは、死んでなかった」って。


たとえ明日、また忘れ去られるとしても――

あの夜、

“西から上った太陽”は、もう一度、燃え上がったんですわ。



ーー湯けむり越しのふたりーー

(来福、すっと扇子を置いて、少し柔らかく語り出す)


……結局、DDコミックの番組にキタイノの名が残ることは、なかった。

ま、せやけど――その番組自体、ワンクールで消えてもうた。


“あの夜”の喝采は、テレビの企画を変えるほどの力には、ならへんかった。

せやけどな。風向きは、ちょっと変わった。


ローカル局の旅番組から、オファーが来たんですわ。


番組タイトルは、「ほっこり近畿めぐり」。

近畿地方の温泉地をめぐって、地元の人とふれあって、

うまいもん食うて、のんびり笑顔で、エンディングに湯けむり――


せやけど、北は念のため確認した。


北「プロデューサー、あの……先に言うときますけど、

あのキスネタは、事情あってできまへんのや」


プロデューサー「キス? ああ、いやいや、旅番組でキスはないでしょう!

ただ――温泉ロケがあるんで、

キタイノさんの引き締まったボディ、サービスカットでお願いします!

あ、もちろん! タオル巻いて結構ですから!」


飯野「当たり前やがな!!」(笑)


(来福、笑いをふくませて)


そんなやりとりのあと――

ふたりは、久しぶりに“芸人として”旅に出た。


温泉町の老舗旅館。

部屋に通されて、まず畳のにおいにホッとする。


露天風呂の撮影では、

湯けむりの向こうに見える山なみを見ながら、

ふたりで笑うんです。


飯野「おい北。ワシら、芸人としていまどこにおるんやろな?」


北「どこ、て……」


(ちょっと間を置いて)


北「……せやな。“今のおれらの場所”やろ。

若いもんに囲まれて浮いてるかもしれんけど、

浮いてるもんは、沈まんのや。」


飯野「……なんやねん、その名言」

北「ええやろ、旅番組っぽいやん」(笑)


(来福、声をやわらげて)


カメラが回ってる間も、ふたりは自然体で笑ろてた。

食レポで出てきたのが、播磨の郷土料理・ばち汁。


北「見た目は地味ですけど、これがしみる味ですわ。」


飯野「うまいなあ。……ちょっとだけ、師匠の味、思い出した」


北、箸止めて、ポツリ言う。


「……あの人、ワシらがこうして笑ってるん見たら、怒るかもしれへんな。

“こんなぬるま湯みたいな仕事しとらんと、もっと上めざさんかい!”言うてな……」


飯野、ゆっくり笑う。


「……せやけど、ぬるま湯もな。ええで、冬は」


ふたり、ふっと笑って――

湯けむりに、しずかに包まれていった。


(照明がすこし落ちて)


西から上った太陽は、たしかに沈んだ。

けど、夜が来たから言うて、終わりやない。

夜は、あたらしい一日の始まり。


いまのふたりには、

拍手よりも、照明よりも――


「ほんまもんの笑顔」が、似合うようになったんですわ。


(来福、深く礼して)


おあとが……

よろしいようで。



ーーご来場のみなさんーー

笑角亭来福しょうかくてい・らいふく43歳。

上方出身、東京進出20年。

今夜は、錦糸町演芸ホールの“お試し公演”。

客席には、たった7人。


けれど――その7人が、心からの拍手を送っていた。


パチ……パチ……

やがて、拍手は広がり、

ぽつり、ぽつりと、感嘆の声が重なる。


拍手は自然と止まり、誰もがしばらく声を出せずにいた。

笑った。泣いた。どこか心が洗われたような、不思議な夜だった。


そんな中、ゆっくりと立ち上がったのは――アビシェク、十四歳。

インドにルーツをもつ少年。

日本語も達者で、ユーモアもわかる。でも、それでも今日の噺は……特別だった。


手のひらに残る、温もりのような感情を握りしめながら、

アビシェクは一歩、舞台の前に踏み出した。


そして、慎重に言葉を選びながら、言った。


「来福師匠……ぼく、ほんとに……感動しました。

きょう、ぼく、長編の新作落語を、はじめて最後まで聞けました」


舞台上でペットボトルのお茶を飲んでいた来福師匠が、ふと顔をあげる。

小さな笑みを浮かべながら、少しかしこまった口調で返した。


「……おう。そらありがたいわ。

世の中の裏側も……ちょっと見せたったけど、だいじょうぶやったか?」


アビシェクは、きゅっと唇を結んで、うなずいた。


「はい。……でも、心で、わかりました。

“人の顔で笑う”じゃなくて、

“人の心に笑わせる”……って、きっと、そういうことだと思いました」


その言葉に、場内の空気が、すっとやわらいだ。


温かく、静かな波が客席全体を包み込むようだった。


一番後ろの席に座っていた裕子姉さんが、そっと微笑んで言った。


「……いいお話でしたわ。

笑って、泣いて……

こんな本格的な“上方落語”に触れたの、久しぶりかも」


その隣で、ずっと目を見開いたまま、固まっていたアヌシュカが――

突然、立ち上がり、手を高く挙げた。


「ねぇ!らいふくししょう!!」

声がホールに響く。


来福が「ん?」と返す間もなく、アヌシュカは叫んだ。


「アヌシュカ、おしえてほしい!

どうしたら、そんなにおもしろくなれるの!?」


観客の間から、くすっと笑いが漏れる。


来福は目を見開き、肩を少しすくめて、ぽりぽりと頬を掻いた。


「お、おう?……えらい直球やな」

目元に、少し照れた皺が浮かんでいる。


そして――ゆっくりとアヌシュカに向き直り、まっすぐ目を見て言った。


「せやけどな、アヌシュカちゃん……

面白い人、いうのはな、まず“ようさん傷ついたことのある人”や。

人の痛み、ちゃんと知ってる人はな、笑わせることができるんや。

ほんまに、ちゃんと、笑わしたれるんや」


アヌシュカは、首をかしげたまま、ちょっとだけ考えて――


「ふーん……。

じゃあ、アヌシュカも、もうすぐおもしろくなるかな?」


来福は、にやっと笑って、


「もうなっとるかもしれんで。

なぁ、アビシェク」


そう言って、アビシェクに目をやると、少年はしっかりうなずいている。


「アヌシュカちゃん、あんたには“笑いの神”がついとる。

そうや、ワシの弟子にならんか?一番弟子やで!」


隣で見ていたアビシェクが、ぱあっと笑顔を広げた。

「いいね!じゃあ、今日から“アヌシュカ姉さん”って呼ぶよ!」


「……えぇっ!?ちょっと、アビシェク!アヌシュカは、あなたのいもうとです!」

ぷくっと頬をふくらませてアヌシュカが怒る。だが、周りの大人たちは笑いをこらえきれない。


「こらアビシェク、お前も笑いのセンスあるなぁ。こいつぁええ兄妹や!」


来福師匠は高らかに笑い、二人を見つめた。


一方、当のキタイノシンジンの一人、飯野だけが突っ伏し、腕を組んで前に倒れ込んでいる。

「勘弁して下さいよ〜〜〜〜」泣いてるのか、笑ってるのかよくわからない。


北盛夫は

「……そうか? ワシはええと思うで。師匠、出演料、もらいますわ」

と言って、手のひらをスッと前に出す。


「東京で売れるよう宣伝しとんのやないかい!」来福師匠は突然の料金請求に断固として応じない。


北がすっと立ち上がって、言う。

「しゃーないな。

私ら以外は匿名にしといてください。……な、師匠?」


飯野はやっと落ち着いたようで、

「こんな落語にしてもろて、ほんと、光栄ですわ。

まあ、これも宣伝素材になると思って、……チャラにしときますわ」


田中オフィスTokyoの水野さんも見に来ていました。



ーー水野所長の法律相談 ~モデル料って請求できるの?ーー

落語会の余韻も冷めやらぬ中、アビシェクが水野所長に質問していました。

彼の表情には、いつもの好奇心と、瞳にはいたずらっぽい光が混じっていた。


「水野所長、すみません。ちょっと真面目な話を聞いてもらえますか」


「もちろん。どうしたのかな」


「今日の来福師匠の落語……登場人物が、実在の人とすごく似てたじゃないですか。

名前は変えてるけど、本人も“自分の話や”って認めてるような感じで……

こういうときって、その人が“俺の話やから、ギャラくれ”って言ったら、払わなきゃいけないんですか?」


水野は少し目を細め、腕を組んで天井を見た。

彼にとって、これは何度か実務で遭遇したことのある種類の質問だった。


「……これは面白いテーマだね。

けど、結論から言うと――“必ずしも払う必要はない”んだ。

ただし、場合によってはお金を払わなきゃいけなくなることもある」


「どういうことですか?」


「まずね、問題になるのは、主に3つの法律的な論点があるんだ」


そう言って、水野は電子メモボードに3つの項目を書き出した。


・パブリシティ権


・プライバシー権


・名誉毀損


「この中でね、まず“パブリシティ権”っていうのは、有名人が自分の名前や顔を勝手に使われたときに文句を言える権利だよ。

ただ、これは一般の人にはなかなか適用されない。無名の人が“俺の名前を使うな”と言っても、それで利益が発生してないと成立しにくい」


「じゃあ、有名じゃなければ関係ないんですか?」


「そんなことはない。次の“プライバシー権”が問題になることがあるんだ。

たとえば、誰が見ても“この人だ”とわかるような描き方で、しかもその人の過去の恥ずかしい話や、個人情報がそのまま使われていたら……これはもう、プライバシー侵害になって損害賠償請求の対象になりうる」


アビシェクは、ふむふむと頷きながらメモを取っていた。

水野は続ける。


「そして最後の“名誉毀損”。これは、その作品や講演が、社会的評価を下げるような内容だった場合に問題になる。

たとえ名前を変えていても、誰のことか特定できて、周囲の人が“あの人って、そんなことしてたんだ”と思ってしまえば、名誉毀損になる可能性がある」


「……じゃあ、もしその人が“自分をモデルに使って、儲けたやろ?”って言ってきたら?」


「それはね、“対価を請求する”というより、“損害賠償請求”という形で主張するケースが多い。

ただし、それにはいくつかの条件があって――」


水野は4つの指を立てた。


・本人が容易に特定できること


・同意を取っていないこと


・描写が商業利用されていること


・名誉やプライバシーを侵害していること


「この4つがそろってくると、請求されても仕方ない場合が出てくる。

でもね、通常は、“あとからモデルだったと気づいた”とか“ちょっと似てる”くらいでは、請求は通らないよ。

大切なのは、どれだけ具体的に特定されているか、どれだけ金銭的な利益が出ているか、そして表現が適切だったかどうかなんだ」


「じゃあ、落語や小説で誰かをモデルにするときは……?」


「うん、少しでも脚色して、特定されないようにすることが一番だね。

名前を変える、事実を混ぜる、“フィクションである”と明記する。

それでも危ないときは、やっぱり本人に了解を取っておくこと。

書面で同意をもらっておけば、後々トラブルを避けられる」


水野はメガネを押し上げて、笑った。


「ちなみにだけど、講演会や落語みたいに“即興性”や“芸の一環”である場合、

表現の自由とのバランスで、ある程度許容される傾向がある。

ただし――それが誰かを貶める内容だったら別だよ。

笑いを取るために誰かの痛みを使ったら、それはもう“芸”じゃない。アビシェク君、覚えておくといい」


少年はうなずき、深く息を吸い込んだ。


「……なんか、すごく勉強になりました。

でも、来福師匠の落語は、そういう“誰かを傷つける笑い”じゃなかったです。

ちゃんと、“心に笑わせる”って、ぼく、わかります」


「……それが一番大事なことだね」

水野は静かに言った。


未来の噺家が、またひとつ、落語と人の心を知った瞬間だった。



ーーそれ、アタシやろ!?~噺のあとに来る現実の波ーー

落語会が終わり、照明がゆっくりと明転。

客席にいた7人が、まばらな拍手とともに立ち上がる。


その中で眉間にしわを寄せている女性がいた。

裕子姉さん――、銀座で働いていたこともある元・芸人、現・演芸ホールの裏方さん。


「ちょい、来福兄さん……ちょいちょいちょい!」


「へっ? なんや、姉さん」


「いまの噺に出てきた“整形失敗して田舎帰った年上ホステス”、あれウチのことやろ!!」


「な、なにを言うてはるんですか! フィクションですやん!」


「芸人やってた、年上美人で、キタイノのふたりに“抜け駆け禁止”とか言われてたって!

アンタ以外にウチそんな設定で描ける人、いますぅ!?」


「いや、たまたまや!世の中な、芸人やってた年上の美人なんて五万とおるんですわ!」


「ほな、どこにおんの! 具体的に3人あげてみぃや!」


「……いま思い出せませんっ!」(目泳ぎ)


そこへ、すかさず飯野が割って入る。


「ついでに言わしてもらいますけどな、あの“亡くなった、桂昭和師匠”の話、

ウチの昭和師匠、まだ元気でピンピンしてまっせ!」


「はあ……」


「こないだも上方落語協会のゴルフ大会で、ニアピン賞とったってLINEしてきましたわ!

死んでへんどころか、パーで回ってますねん!」


「……いや、あれはな、その……象徴的な表現ちゅうか、なんちゅうか……」


「どういう表現やねん!」


「せやから! あの落語の最初の前書きに書いたやろ!」


来福、懐から紙を取り出し、震える声で読み上げる。


「《この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。》て、な!」


「いや、あんたが言うたら台無しや!」

裕子が一喝。


「ウチの顔も名前も似てて、芸人設定まで一緒やったら、誰がどう見てもウチや!」


「うう……ま、まさかここまで突っ込まれるとは……」


飯野は鼻で笑う。


「さすが落語家ですな、“口は災いの元”て言葉、身にしみてはるやろ」


「ちょ、飯野くん、あんたまで師匠に冷たいこと言うて……」


そのとき、アヌシュカ(6歳)がトコトコと来福師匠に近づいて、じっと見上げた。


「ねぇ、らいふくししょう。ユミコさんって……ほんとにいたの?」


「……いや、アヌシュカちゃん……それはな……ウチの心の中だけにおる、伝説の花のような人でな……」


「それって、好きだったってこと?」


「……おう、それ以上聞いたら、師匠、泣いてまうがな……」


その瞬間、場内がしん……と静まり、やがてどっと笑いが起こった。

噺と現実の狭間で揺れる、芸人たちの喜怒哀楽――


そして今日も、来福師匠の周囲は騒がしくて、どこか温かかった。



ーーすれ違い兄弟弟子ーー

来福師匠が高座の片付けを終え、ペットボトルのお茶をチュッと鳴らす。

その隣でアビシェクがぽつりとつぶやく。


「師匠……さっきの“レンチンズ”、ほんとにいた人だったんですね?」


「おう。“キタイノシンジン”な。ええ芸人やった。……いや、今もや。ワシとはな、師匠が一緒の“兄弟弟子”なんや」


それを聞いて、飯野がピクリと反応した。


「えっ!? 来福師匠、うちらの兄弟子なん?」


来福はちょっと照れくさそうに頭をかいた。


「まぁなぁ……ワシが昭和師匠の一番弟子や。けどな、ワシが東京出たんは、もう二十年以上前。

キミらが入門する前に、とうに“いなくなった弟子”や」


「そうですか~」

北が感慨深げにうなずく。


「うちら、師匠が口にせえへんかったから、知らんかったですわ」


「そら、しゃあない。昭和師匠も“東京へ逃げた不出来な弟子”や言うて、わしの話だけは落語より落としてたからな……」


一同、ちょっと気まずい空気に。


「けどな」

来福は真顔になった。


「ワシはあんたらの漫才、テレビで観たで。“ランドセル漫才”。アレには度肝抜かれた。

アホやと思たけど、笑いってそういうもんや。人の弱さ、みせてナンボや。あれが芸や」


飯野はポリポリ頭を掻きながら、「いやぁ……」と笑った。


北がまっすぐに言った。


「師匠が“すれ違いの兄弟子”やったん、いま聞けてよかったですわ。

せやけど……東京に来て、あのキスネタやってた頃、会えてたらよかったなぁ」


「……いや、それはやめてくれ」

来福は即答。


「ワシ、東京でタラコ唇つけてる若い芸人見たとき、正直“大阪に帰ってくれ”思たもん。

『あの子らが“師匠の系譜”です』言われるのが、こっ恥ずかしくてのぉ」


「ひどぉっ!!」

北と飯野が声をそろえる。


「でもなぁ」

来福が笑って付け足す。


「せやからこそや。ワシみたいなんは売れんかったけど、あの子らは売れた。

芸いうもんは、“風”を聴いたもんが走るんや。

ワシが耳をふさいだとき、あの子らはちゃんと聴いて、舞台を走った――それだけでも、芸人冥利につきるわ」


「……兄さん」

飯野が思わず漏らす。


「……なんや、もう“兄さん”呼ばわりかいな」


「いや、“来福師匠”やと、なんかよそよそしいですし……」


来福はしばらく黙ったあと、にやりと笑ってこう言った。


「そやな、“兄弟子”ってのは……だいたい、何十年かかってやっと“ええ距離感”になるもんや」


ーー佐藤美咲、錦糸町で開眼すーー

新作落語「西から昇った太陽」が、静かな余韻を残して終わったとき――

来福師匠の語りに浸っていた観客の一角で、明らかに異質な反応を示す者がいた。


佐藤美咲(24)、田中オフィスTokyoの社員にして、ガチBLマニア


彼女は席を立とうともせず、両手を胸の前で組み、

潤んだ瞳でまっすぐ空中を見つめていた。


「すばらしい……すばらしいわ……」


その隣で倉持 渉(29)、田中オフィスのシステム担当が、少し心配そうに声をかけた。


「美咲ちゃん? どうだった、新作落語。すごかったね、ぼくもびっくりしたよ」


しかし――返事がない。


「……美咲ちゃん?」


倉持がのぞきこむと、美咲は微かに身を震わせながら呟いていた。


「……あんなにも自然な流れで、口づけから、心の交錯、別れ、そして再生まで……

20年前に、あんなに完成されたBLの世界が……存在していたなんて……ッ!」


ヤバい。


倉持は即座に脳内警報を鳴らした。


《この人、今完全に“別の世界の住人”になっている……!》


しかも美咲はバッグからiPadを取り出し、何やら描き始めている。


「“求愛ダンス”……“キスネタ前史”……“兄弟弟子の空白20年”……よし、まず年表……!」


「美咲ちゃん、美咲ちゃん!! 戻ってきて!」

倉持は思わず彼女の肩を揺さぶった。


「……あ、ごめんなさい。なんか……感動してしまって……」


(してた!? 感動というより降霊レベルだったぞ!?)

倉持は動揺しながら笑顔を作る。


「……そ、そうか。うん。まぁ……来福師匠の落語は“深い”ってことだな、うん……」


そこに、来福師匠がふらりと近づいてきた。


「どや、楽しんでもろたか?」


美咲は目を輝かせて――

まるで古代の神託を受けた巫女のように、手を取って言った。


「はいっ! 師匠のおかげで、新しい扉が開きました!」


「え、そ、そら……ようござんした……(なんか怖いぞこの子)」


そのあと、客席側にいたキタイノシンジン改め「レンチンズ」に近づき、


「わたし……わたし、ファンになります!年会費とか一括払いできますか!?

DVDとかあります?グッズ?SNSフォローしていいですか!?」


飯野と北は顔を見合わせる。


飯野(心の声)「……なんやこの子、テンションヤバいぞ」


北「え、えっと……ファンクラブとか無いんやけどね……

たま〜に、チケット買ってくれたら嬉しいかな」


(※心の声:アカン、この子アブナイやつや……)


佐藤美咲――24歳、田中オフィスTokyo所属。

しかも今夜は、ラヴィ・シャルマから大切な子供たちを預かった“臨時保護者”である。


「ちょっとちょっと〜〜〜!!」

前列からずいっとスマホを手に前に出てきたのは――

裕子姉さん。

元銀座のクラブホステス、現在は錦糸町演芸ホールに務めるベテラン。


「この子、アヌシュカちゃん!? かっっっわいい〜〜〜!!

ちょっと一緒に写真とろ♡」


と、キラッキラに光るスマホを構えたその瞬間――


バッ!!!


美咲、スーツの内ポケットからピッと名刺を繰り出し、目の前に立ちはだかった。


「写真撮影は、事務所を通してください。」


裕子姉さん「……え? えっ? あんた誰?」


美咲「佐藤美咲と申します。田中オフィスTokyo所属社員、現在はアヌシュカちゃんの私設マネジメント事務所長兼ファンクラブ会長を務めさせていただいております」


裕子姉さん「ファン……? 会長……? なんやの、どこの組織なん? 」


美咲「IBLです」


裕子姉さん「なんやのそれ、銀行かなんかかいな?」


美咲「違います。“愛・ボーイズラブ”です(キリッ)」


(沈黙)


アビシェク「……な、なんか、知らん言葉が次々と飛び出してますけど……」


アヌシュカ(無言で美咲の背中にぴったり隠れる)


裕子姉さん、腕組みして「……あんた……ちょっとヤバい匂いするわ」


美咲「ご安心ください。

私の推しは“完全管理型”ですので、自撮りも接写もチェック体制が整っております」


裕子姉さん「ほな、芸能プロダクションか何かでデビューするんかいな?」


美咲「ええ。将来的にはタレント・パフォーマー・落語家・アイドルの複合型です」


裕子姉さん「……なんやその業界の寄せ鍋鍋奉行プランみたいなん」


すると、来福師匠がやって来て、スマホ片手に言った。


来福「ワシも撮ってええかな? せっかくやし、“インドの奇跡と兄弟子”ってタイトルでインスタに……」


美咲「アウトです。」


来福「(即答!?)」


美咲は背筋をピンと伸ばして言った。


「アヌシュカちゃんの公開活動は正式デビューまで統制されております。

SNSアップは肖像権・演出権・成長保護要件に抵触する恐れがございます」


裕子姉さん「うわ〜〜〜、急に法務部長の話みたいになってきたで」


来福「ま、ま、写真はええわ。目で撮るわ、目で」


その後、ようやく舞台の後片付けが始まり、

アヌシュカは美咲の手を握ってぽつりと尋ねた。


「……あたし、守られてるの?」


美咲は、優しく笑ってこう答えた。


「ううん、あたしが勝手に盛り上がってるだけよ。

でも、あなたはね――世界を面白くする力、あるから」


そして今日もまた、誰にも気づかれないまま、

ファンクラブ会員No.001の活動記録に、新しい1ページが追加された。


ーー続くーー





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