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田中オフィス  作者: 和子
43/90

第四十話、アビシェクお笑いを目指す(後編)

ーーお笑い好きーー

午後3時。

錦糸町演芸ホールの昼公演が終わり、客席を包んでいた熱気と笑い声も、少しずつ穏やかな余韻へと変わっていく。

笑い疲れた表情をした観客たちが、ゆっくりと出口へ向かう中、アビシェク・シャルマは名残惜しげにホールのロビーに立ち止まり、売店の前へと足を運んだ。


カウンターの向こうに立つのは、顔なじみの裕子さん。

アビシェクが近づくと、すぐに彼に気づき、にこやかに声をかけてきた。


「おかえり、アビちゃん。今日も楽しんでくれた?」


「うん!」

アビシェクは笑顔で頷いた。


――一見すると外国からの観光客のようだが、彼は東京生まれの東京育ち。

日本語もネイティブ、好きな食べ物は焼きそばとコンビニのおにぎり。

そして何より――筋金入りの“お笑い好き”だった。


「来福さんの落語、すごかった! 最初は笑ってたけど、途中からめちゃくちゃ感動して……なんか、涙出そうだった」

目を輝かせながら話すアビシェクに、裕子もつられて目を細める。


「でしょ? あの人、見た目は飄々としてるけど、話の芯がしっかりしてるのよね」

そう言って、裕子は売店の奥から冷えたお茶を取り出し、手渡した。

「はい、今日の感想代。」


アビシェクは照れくさそうに笑って受け取った。


「ありがとう裕子さん。あ、あと――キタイノシンジン、あのコンビもめちゃくちゃ面白かった! 漫才って、テンポと間が命なんだなって思った。笑いながら、すごく勉強になったよ」


「勉強て……アビちゃん、芸人目指してるの?」

冗談めかして尋ねる裕子に、アビシェクは真顔で見つめ返した。


「もちろん!笑いってすごいなって思う。

言葉だけで、人の心を動かせる。家でひとりで動画観てるより、ここで生で観たほうが何倍もおもしろいんだよ」


「そうね、生の舞台はね、空気が違うの。だから通っちゃう人、多いのよ」


アビシェクはふとロビーの隅にあるチラシスタンドに目を向け、

今日の演者のチラシを一枚手に取って、ポケットにしまった。


「これ、お守りにする」


裕子は微笑んで、彼の背中に小さく声をかけた。


「こんどは、アヌシュカちゃんも連れておいでよ」


「うん、今度は妹も連れてくる。あの子、まだ生のお笑い見たことないから」


午後の柔らかな陽射しがホールの大きな窓から差し込み、

舞う塵をきらめかせていた。


アビシェクの胸の中には、心から笑った2時間と、

ちょっとだけ成長した自分への誇らしさが、静かに灯っていた。


ーー錦糸町演芸ホールの売店前ーー

アビシェクは、お茶のペットボトルを両手で持ち、木目調のベンチの端に腰を下ろしていた。

まだ頬に残る笑みは、ついさっきまで舞台で響いていた笑い声の余韻だ。


そんな彼に、カウンターの中から裕子が声をかける。


「アビちゃん、東京で上方漫才を聴き比べするなんて、通だねぇ」

目を細め、からかうような調子で微笑む。

――とはいえ、声や態度にはどこか誇らしげな響きがあった。


アビシェクは、すっと顔を上げ、軽く肩をすくめると、茶目っ気たっぷりに答えた。


「だって僕、次男だもん。生まれた時から“ツー”だからね」

語尾をすこし強調して、ニッと笑う。


その一言に、裕子は思わず吹き出した。


「ふふっ、サエテルー!」

手を口元に当てながら笑い、彼に親指を立ててみせる。

「わたしはアビちゃん押しだよ、ほんとに!」


アビシェクはちょっと照れたように頭をかきながらも、得意そうに笑った。


「裕子お姉さんにそう言ってもらえると、また来たくなるな」


「お姉さん?ねぇ……」

裕子は苦笑しつつも、まんざらでもない様子で目を細める。

――実際は“お姉さん”というには少々年上で、アビシェクの母親よりも7つ上の45歳。

けれど彼の言葉には、社交辞令以上の、どこか温かい気遣いとユーモアが感じられる。


「よーし、お姉さん、次は“特製・寄席飯セット”でも用意しとこうかな」


「やった!それ、漫才セットと一緒にして売ったら大ヒットするよ、きっと!」


二人の笑い声が、昼下がりのホールに小さく響いた。

窓から差す西日が床に長い影を落としはじめていたが、

アビシェクの心の中には、まだ舞台の明かりがほのかに灯っていた。



ーー演芸ホールのロビーに射す午後の光ーー

ラヴィ・シャルマはゆっくりと歩いて戻ってきた。

額にかすかに汗をにじませながらも、どこか満足げな表情を浮かべている。


「お父さん、お仕事済みましたか?」

アビシェクが真っ直ぐに駆け寄ってきた。


「うん、済んだよ。お待たせ、アビシェク」

ラヴィは息子の頭にそっと手を置いて微笑んだ。


「それにしても……今日の錦糸町ホールの出し物、すごかったね。

アビシェクが“ぜひ観てほしい”って言ってた理由、よくわかったよ」


ラヴィの声には、ほんの少し驚きと賞賛が混じっていた。

まさか、自分の息子がこのレベルの“お笑いセレクター”だったとは。


ふと彼の視線が、そばでにこにこしている一人の女性に移った。

落ち着いた雰囲気と、親しみやすい笑顔を湛えた女性――裕子だった。


「あら、ご紹介遅れました。アビくんのお父さんですか? はじめまして、裕子といいます」

彼女は控えめながらしっかりとした口調で、丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ、はじめまして」

ラヴィも少し驚いた様子で応じ、軽く会釈を返す。


裕子は続ける。


「アビくんはウチのホールの常連さんでしてね。毎回、ほんとに熱心に観てくださるんですよ。

それだけじゃなくて、ちゃんと芸のひとつひとつを感じ取って、言葉にしてくれる。

……私はアビくんのファンなんです」

目尻に笑い皺を寄せながら、ほんの少し誇らしげにそう言った。


アビシェクはその横で、顔を真っ赤にしていた。

「裕子さん、それ言わないでよ……」


ラヴィは微笑みながら、息子の横顔を見つめた。

「そうか……ありがとう。そう言ってもらえると、親としてもうれしいです。

アビシェク、君の“見る目”は、やっぱり本物だったね」


アビシェクは照れながらも、小さくうなずいた。


ラヴィの胸の中には、静かな誇りが広がっていた。

ほんの少し前まで幼さの残っていた息子が、今では“舞台”を語り、“芸”を愛するひとりの観客になっている。

その育ち方に、裕子という見守る大人の存在があったことも、父親としてありがたかった。


ロビーには、まだほんのりと笑いの残り香が漂っている。

ささやかな出会いと、あたたかな言葉のやりとり。

アビシェクにとっても、ラヴィにとっても、

それは「お笑い」という文化が結んだ、かけがえのない午後のひとときだった。



ーー田中オフィス京都本社ーー

昼の演芸番組が終わると、田中オフィスの応接スペースには静けさが戻ってきた。

テレビの画面が次の番組のタイトルロゴに切り替わると同時に、それまで笑いながら観ていたメンバーたちも、それぞれの業務に戻ろうと席を立ち始めた。


けれど、その場を離れようとした田中社長が、ふと一言ぽつりと呟いた。


「今日、ラヴィさんはたぶん、桑島アナウンサーに会うのが目的やで」

その声には、確信とほんの少しの期待が混じっていた。


稲田が「えっ?」と足を止め、振り向く。


田中社長は続けた。


「たまちゃんのイベントプラン、オフィスTokyoの水野所長がさっそく動き出してくれたんやな。あの人はな、ええと思ったらすぐ仕掛ける。ラヴィさんが間に立ってくれたんやろ」


すると、デスクに戻りかけていたたまちゃんが、顔をぱっと輝かせて振り返った。


「やりましたーっ!」

声も高らかに両腕を掲げる。

「水野さんに“刺さる”と思ったんですよー! ちゃんと刺さってよかったぁ〜!」


周囲から思わず笑い声が漏れる。藤島専務が「はいはい、まだ正式決定じゃないからね」と笑いながらも、どこか嬉しそうにたまちゃんの背中を軽く叩いた。


社長は、ニコニコしながら湯飲みに口をつけると、

「まあ、あの水野が『刺さった』ってことはな……もう半分、通ったも同じや」

そう言って、どこか感慨深げに目を細めた。


「ちゃんと筋通して、熱意で伝えて、オモロイと思わせた。それが今回、たまちゃんやったんやな。ラヴィさんも動いた。ええ風が吹いとるわ」


たまちゃんはその言葉に思わず胸を張り、「うふふ」と笑った。


午後の陽射しがブラインド越しに会議室へ差し込み、書類の上に淡い影を落としている。

賑やかさが引いた後のオフィスに、小さな達成感と、ほんのりとした期待感が漂っていた。

新しい何かが動き始めている――そんな予感を、それぞれが感じていた。



ーー錦糸町演芸ホール、次の舞台ーー

陽もだいぶ傾き始めた午後の錦糸町演芸ホール。舞台の余韻が残るロビーでは、さっきまでの笑い声がまだほんのりと空気に残っていた。


アビシェクが、少し緊張した面持ちで父ラヴィの腕を引いた。

「お父さん、実は…もう一つ今日、ここに来た目的があるんだ」


ラヴィは眉をひそめ、少しだけ姿勢を正す。

「ほう、なんだい?」


「僕、今年の夏休みの自主研究、“演芸の仕事体験”をテーマにしたいと思ってるんだ。

でね、それを裕子姉さんにも話してあって、夏休みの間、ここでちょっと働かせてもらえたらって…」


そう言って、アビシェクは視線をそっと裕子に向ける。

裕子はすぐにうなずき、やわらかく笑った。


「私からも言っておいたんです。アビくん、本当に演芸が好きで、ちゃんと考えてる。何かひとつ、真剣に学ばせてあげたいなと思って」


しかし、ラヴィの顔が険しくなる。


「……アビシェク。気持ちは立派だが、日本では子供の労働はできない。

労働基準法では、満15歳に達した日以降、最初の3月31日が終わるまでの者は、原則として働けないんだよ」


一瞬、アビシェクの顔から光が消えかけた――そのときだった。


「ふふっ、なんや真剣な話しとるやないか。子供のアルバイトは違法やったら君、

ワシの内弟子になってみるか?」


突然、背後から聞こえたのは、さきほど見事な落語でホールを沸かせた笑角亭来福しょうかくてい・らいふく師匠の声だった。


三人が同時に振り返る。


「夏休み限定やけどな。社会体験学習ちゅう目的なら、芸能の世界をちょっと覗かせるんは問題あらへん。

もちろん、ちゃんと保護者の了解あってのことやが、夏休みの宿題もきっちりやらせますよって、

どうや、ワシのとこで“芸人の心”を学んでみいひんか?」


一瞬で場の空気が変わった。


ラヴィはまさかの提案に驚いたまま息子を見下ろす。


「アビシェク……どうだい?」


アビシェクの目はすでに輝いていた。


「僕、やりたい!

お父さんも来福師匠の落語を聞いてたよね?あんなに人の心をつかむ芸を、間近で学べるなんて…絶対すごい体験になると思う!」


その言葉に、ラヴィの厳しい表情が少しずつほどけていく。


「……願ってもないチャンスだ。来福師匠、本当にお願いしてもよろしいんですか?」


すると、裕子がすっと前に出て頭を下げた。


「ウチからも頼んますわ、師匠。アビくん、本当に頑張り屋なんです」


来福は、恥ずかしそうに笑うと、顔を少し赤らめながら言った。


「裕子し、姉さんからお願いされるなんて……そらもう光栄やで。

君のことはワシが責任もって預かる。

“芸”を学ぶいうのは、ただおもろいことやのうて、人と向き合う力を育てるんや。

それと社会学習や、演芸場の裏方の仕事もしっかり学ぶんやで。

アビシェク――ゆうたな? 裕子姉さんのお墨付きや。しっかりついてこいよ!」


アビシェクは力強くうなずき、ラヴィと顔を見合わせた。

この夏、自分の人生にとって忘れられない季節になると、彼にはもうわかっていた。


そして、ラヴィも静かにその成長の一歩を受け入れたのだった。



ーー夕暮れ時の錦糸町演芸ホールーー

一日の公演が終わり、ホールの空気もどこかほっとした穏やかさに包まれていた。売店の前、片づけをしていた裕子に、来福師匠がふらりと近づいてきた。


「なあアビシェクくん、ええ子やなぁ。そら裕子姉さんが見込んだ子や、間違いあらへんわ」


来福はそう言って笑うが、どこかその目は真剣だった。


「……あんた、さっき“姉さん”やなくて、“師匠”て言いかけたやろ?」と、裕子はレジ袋を折りながら目だけでツッコんだ。


来福はバツが悪そうに鼻をこすった。


「はは、まぁ……そう言うてもええくらいの人やったからな、あんたは。裕子師匠や。わしらの世代には、今でも響く名前やで」


裕子は、少しだけ肩をすくめて、「もうええ年なんやから、あんまり言わんといてな」と照れくさそうに笑った。


来福はそんな彼女に構わず、懐かしむように言葉を続けた。


「――UFOユーフォーや。覚えとるで。裕子ユーコ風子フーコ桜吉オーキチのトリオ。

『宇宙一おもろいフレンズ』ちゅうて、キャッチフレーズもあったやろ?」


裕子は少し笑って、目線を遠くにやった。


ホールの一角。舞台裏の薄明かりの中で、裕子はレジ袋の口を結び終え、そっとカゴに収めた。かつての賑やかな喧騒が嘘のように、今はただ、舞台裏の静寂と、落語の余韻だけがそこに漂っていた。


「――そうやってな、UFOは終わったんや」


低く、湿った音色を持つ声が、その静けさを破った。


振り返ると、いつの間にかそこには桑島実朗アナウンサーの姿があった。ダークグレーのスーツに身を包み、手にはいつものタブレット。光を受けて反射するその画面には、昔の演芸資料が映し出されていた。


「……いつからおったんですか、桑島さん」

裕子は苦笑しながら、わざと目をそらす。


「最初からですよ。見てました、聞いてました」

桑島はどこか気まずそうに、けれど淡々と語り出す。


「金回りがよくなってね、桜吉はギャンブルにハマった。もう、泥のように。それで裕子さんの金にまで――」

桑島はふっと息をつくように声を落とした。

「……手を出した。しかも、あげくに風子さんと駆け落ちしたんですね。少し頭の弱い、でも舞台では一番天才肌だった風子さんと」


裕子は何も言わなかった。ただ、ほんの少し、レジ袋を置いた指先が震えた。


桑島は続けた。

「当然、UFOは解散。伝説のトリオは、跡形もなく消えた。でもね――消えた、と思うのは我々表側の人間の話なんですよ」


彼はゆっくりと、裕子の正面に立ち、やわらかな声に切り替える。


「いま、裕子さんが見込んだ少年がいます。演芸を“学びたい”と言って、あなたのそばに立っている。

来福師匠も、彼の資質を買った。

それだけで十分、“UFOはまだ飛んでる”って、私はそう思うんです」


裕子は、深く息を吸い込んでから、少し顔を上げた。

眼差しは、過去を見ているようで、それでもしっかりと今を見据えていた。


「……お笑いって、不思議やね。どんなに痛くても、笑ってると、ちょっとだけ救われる」


「ええ、ほんとに」

桑島は頷いた。そして、タブレットを軽くスワイプした。

そこには、かつてテレビ番組でトリオUFOが一世を風靡した頃の写真――裕子、風子、桜吉が、満面の笑みでピースサインを決めている姿が映っていた。


「……懐かしいなあ」

裕子は、思わず笑った。まるで、あの頃の自分が、画面の中から微笑み返してきたようだった。


静まりかえった演芸ホールの一角、売店の隅に立つ桑島実朗アナウンサー。その手にはおなじみのタブレット端末。指先が軽く画面をタップすると、ざらついた映像とともに、懐かしい音楽が流れ始めた。


「……25年前、彗星のごとくお笑いの舞台に登場したトリオがありました。名を『UFOユーフォー』といいます」


彼の落ち着いた声が、まるで記憶の扉を開けるように、あたりの空気を一変させた。


タブレットの画面には、少し色褪せた映像が浮かび上がる。まだアナログの余韻が残るその画面に、煌びやかなステージと観客の期待が宿っていた。


軽快なイントロと共に、舞台袖から勢いよく三つの影が飛び出してくる。風子、裕子、そして桜吉――あの頃、若さと勢いに溢れていた「UFO」の三人だ。


「はい、こちら。今でも語り草になっております伝説の初登場シーン。息ぴったりの三人が高速スピンで舞台中央に登場し、揃って――」


《ユッフォー!》


画面の中、三人がぴたりと静止してポーズを決めた瞬間、客席からはどっと笑いと拍手が起こる。だが、よく見ると一人だけ、スピンが微妙にずれている。


「ええ、気づきましたか?……風子さん。わずかにワンテンポ遅れております。けれど、それがまた“味”だったのです。天然のようで計算か、それとも計算に見せかけた天然か。笑いというものは、時に“はみ出し”に宿るのです」


映像の中の裕子は、今とはまるで別人のようだった。カメラに向かって笑いかけるその表情は、はじけるようなエネルギーと自信に満ちていた。


「こちら、ツッコミ担当の桜吉さん。台本の枠からはみ出すアドリブで笑いをさらっていた“悪ガキ”タイプ。そしてこのころからボケに定評のあった風子さんを、きっちりいじっておられます」


《「なにやってんねん!おまえだけグルグル逆回転してたやろ!」》


《「風子いじめんといて!この子ちょっとアホやねん!」》


裕子の返しに、観客からはまたしても笑い声が。まるで風子の“ちょっとズレた存在感”を起点に、三人の絶妙なバランスが構築されていくようだった。


「……この“ツッコミ・かばい・天然”という三角形。それが『UFO』の持ち味でした。漫才にしてもコントにしても、客席との距離が近かった」


そして映像は、本ネタの冒頭に差しかかる。


《「もうええわ、ところで今日は―――」》


桑島はタブレットの音量を少し下げながら、そっと語りかけた。


「しかしこの『UFO』、ご存じの方もいらっしゃるでしょうが……数年のうちに解散を迎えます。なぜか。何が三人を引き裂いたのか……」


裕子は、それを聞きながら目を伏せていた。


「けれど、過去は過去。ここにまた、新しい何かが生まれようとしています」


再び裕子に視線を戻し、彼は微笑んだ。


「“かつて”は、決して消え去るものではありません。それがあるから、“今”がある」


映像はそのままフェードアウトし、舞台の照明がひときわ明るく輝き始めた。


桑島は言った。

「伝説は、いつだって、再生できる。違う形で、違う名前で、でも、魂だけは同じで」


裕子は静かに頷いた。


外では、夜の帳が静かに下りていく。

けれど錦糸町演芸ホールの灯は、まだ、消えていなかった。


「……ほんまに、よう覚えてくれてたなあ。あれから、もう四半世紀よ。フーコはママになって、オーキチは京都で板前やってる。私だけよ、まだここで“もぎり”してるのは」


「“もぎり”やのうて、“目利き”やろ」と来福は言った。


「ちゃうて」と裕子は笑う。「ただのおばちゃんやって。もうネタも衣装も、どこいったかわからへんしな」


来福は少し顎をしゃくって、ホールの舞台の方をちらりと見た。


「でもな、あんたが見てくれたからやで。アビシェクくんが“舞台に関わりたい”言うたとき、わしも“やったろか”て思たんは。

あんたが目をつけた子や、ってだけで、それはもう、価値があるんや。

……ほんま、“わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ”やな」


裕子は吹き出した。


「懐かしっ!それ、あんた昔よう真似してたやんか!」


来福は照れ隠しのように、「いや、ネタの間にはサラッと入れる程度やったけどな」と言いながら、目の奥にじんわりとした懐かしさをにじませた。


しばし、静かに時が流れる。


裕子が最後に、小さくこうつぶやいた。


「……もしもまた誰かの背中を押せるんやったら、私の芸人時代も、意味があったんかなって思えるわ」


「そらそうや。UFO、まだ飛んでるで。形は変わってもな」


来福の言葉に、裕子はそっと目を伏せて微笑んだ。ホールの奥に、まだ消えぬ灯のような思い出が、静かに灯っていた。



ーー舞台の幕が下りた。ーー

「もうええわ、どうもありがとーございました!」


その言葉が舞台袖へと響き、ゆっくりと足を引きずるようにして、北盛夫と飯野武の二人は楽屋へと戻っていった。


拍手の音はたしかにあった。けれど、それはまるでガラス越しに聞こえるような、感情のこもらない、反射的なものに思えた。


椅子に腰を下ろすなり、北がぼそりと呟く。


「……なんや、こんな冷えるんか、東京の客席てのは」


飯野も、腕を組んだまま深くうなだれる。「関西のお客さんてのはな、そら手厳しいで。開口一番で“おもろないで〜!”や。“金返してくれ〜”言われて」


「せやな、めっちゃ声通るオバハンやったな」


二人の間に、わずかに苦笑が走る。


「でもな」北が言葉を継ぐ。「あれがええんや。なんやかんや言いながらも、笑うてくれる。客席の空気でわかるやろ、いじられとるうちが華やて」


「せや。突っ込みとヤジの隙間に、ちゃんと“期待”があるねん。“ほんで、どないすんねん、おもろくしてみい”っちゅう、あれやな」


だが、東京はどうだ―――


客席は静かすぎた。静寂が、逆に叫んでいた。


(滑ったな)

(半年もたないだろ)

(上方漫才? なんか胃にもたれるわ)


言葉にされないぶん、その冷たさは余計に身に沁みた。


飯野が、唇を引き結んだままポツリと漏らす。「どんなにスベっても、“はよ帰れ!”って言われた方が、まだマシや」


北も、重たく頷く。「せやな。ここは……なんも言わへん。けど、伝わってくる。『もうええで』って、心の中で言われとる気ぃする」


その“沈黙”の重さが、何よりも辛かった。


ようやく飯野が頭を上げ、ぽつりと笑うように言った。


「けど、まだ今日が初日や。ここで帰るわけにはいかんやろ」


北もそれに応じて、無理やり笑って見せた。「せやな……来福師匠の落語で笑った客や。わしらかて、なんとかせなあかん」


冷たい東京の空気の中で、二人は少しずつ体を起こした。苦い初舞台――けれど、それが始まりであることを、誰よりも自分たちが知っていた。



ーー東京の扉を開く風ーーー

楽屋の扉がノックされ、静かに開いた。


現れたのは、銀縁の眼鏡越しに落ち着いた眼差しをたたえる男――桑島実朗アナウンサーだった。紺のスーツを端正に着こなし、手にはいつもの黒い手帳とタブレット。舞台裏の熱気に満ちた空間へ一歩足を踏み入れると、ほんのりと空気が引き締まったような気がした。


「お二人の演芸、久しぶりに拝見いたしました。絶妙の掛け合い……昔のままですね」


その声に、椅子に座っていた北盛夫が顔を上げ、苦笑いを浮かべた。

「ごらんのとおりですわ、昔からちっとも進歩してへん。今ちょうど二人で反省会してたとこです」


「そうでしょうか?」

桑島はゆるやかに首を振りながら、二人の前へと歩み寄った。


「私は、とても懐かしく拝見しました。言葉の端々に、かつての舞台の空気がしっかりと宿っていた。技術やテンポでは計れない“時の重み”というものが、確かに感じられました」


飯野が少し照れたように目をそらす。


桑島は一拍置き、声の調子を少し低くした。


「実は――次週も《昭和、懐かしの笑い声》で、お二人にスポットを当てさせていただく予定です。どうぞ、またよろしくお願いします」


「そりゃ、光栄ですけど……ええんですかね。わしら、今日これだけスベってもうて……」


と、北が申し訳なさそうに言いかけたところで、桑島はふっと微笑んだ。


「それよりも、不躾なお願いをさせていただきたいのですが」


北と飯野が顔を見合わせる。


「近く、あるイベントで私が総合司会を務めるのですが……そのときの“アシスタント”として、お二人に出演いただけないでしょうか?」


場の空気が、一瞬止まったように感じられた。


「ア……アシスタント……ですか?」


飯野の声が、わずかに上ずった。


桑島は頷く。凛とした面持ちに、わずかな遊び心が垣間見える。


「今の若い司会者では務まらない“息の間”が、お二人にはある。昭和を語るには、やはり昭和の体温を知る方の力を借りたくて」


北が思わず口を押さえ、「……えらいこっちゃ」と呟く。飯野も、まんざらでもないような表情で、「うちの漫才よりウケたら、困りますで」と笑った。


桑島実朗は、そんな二人の様子を見て、ゆっくりと手帳を開いた。


「正式な依頼は、後日書面でお届けします。それまでに、どうか前向きにご検討を」


――この東京の舞台で、またひとつ、予期せぬ扉が開こうとしていた。



ーー期待の新人、次のステージへーー

楽屋の空気がやや落ち着いたころ、北盛夫は少しばかり照れたように、だがどこか覚悟を決めた顔で桑島実朗アナウンサーに問いかけた。


「――あの~、それって、『キタイノシンジン』じゃなくてもよろしいですか?」


桑島の眉がわずかに上がる。怪訝な表情で、北と飯野を交互に見た。


「……私は、あなたたちを見込んでお話しているつもりですが?」


飯野が慌てて手を振りながら続ける。


「もちろんそれは、ほんまにありがたいんです。感謝してます。けど、実は……ワシら、東京で出直すために、コンビ名を新しく考えてたんですわ」


北がうなずき、真剣な面持ちで口を開く。


「ずっと温めていたアイデアでしてね。シャレやないんですけど、『レンチンズ』――て名前、どうですやろ?」


桑島は片手をあごに当て、じっと二人を見つめる。


「レンチンズ……?」


「はい。いつまでも“期待の新人”ゆうのも、どうかと思いまして。もうベテランですし、“レンチン”で温め直して、もう一度美味しゅうなる――そんな気持ちを込めたんですわ」


二人の視線が、真っ直ぐに桑島へ注がれる。数秒の静寂ののち、桑島は静かに手帳を閉じ、そのまま腕を組んで何かを噛みしめるように目を伏せた。


やがて、顔を上げて小さく、しかし確かな声で言った。


「……素晴らしい。“レンチンで温めて、美味しくいただく”……まさにこのイベントにぴったりじゃないですか!運命を、感じますよ」


桑島はすっと前に出ると、右手で北の手を、左手で飯野の手を取った。そしてそれをゆっくりと引き寄せ、三人の手が真ん中で重なるように合わせた。


「――是非、お願いします。レンチンズ。すばらしいネーミングです。この仕事、あなたたちでなければならない!」


まるで新たな盟約を結ぶかのように、手のひらのぬくもりが、かすかに震えながら重なり合っていた。冷えた東京の舞台で、ほんのりと“あたたかさ”が灯る瞬間だった。

ーー続くーー







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