第四十話、アビシェクお笑いを目指す(前編)
ーーお昼休みのわくわくウォッチングーー
正午の時報が鳴る少し前、田中オフィスの会議室では、社長の田中一郎と顧問の竹中平吉が、大きなテレビ画面を見つめていた。会議の予定は午後からだったため、二人はこの時間を楽しみにしていたのだ。
「さあ、始まりましたで」田中社長が、画面に向かって少し身を乗り出しながら言った。「『昭和、懐かしの笑い声』の時間ですわ。わしも毎週、この番組を見るのが楽しみなんですわ。」
画面からは、陽気なアナウンスが流れてくる。
「お昼の12時、『昭和、懐かしの笑い声』のお時間がやってまいりました。司会はわたくし、笑いすぎて奥さんのことを昔の彼女の名前で呼んでしまったことがある、桑島実朗がおおくりいたします。」
田中社長は隣に座る竹中顧問に顔を向けた。
「竹中顧問も、このお笑いのセンス、好きですやろ?」
竹中顧問は、にこやかに頷いた。
「ええ、大好物ですよ。あの、お約束の鉄板ネタ、舞台を縦横無尽に飛び、跳ねる。今の若いお笑い芸人さんは、どうも大人しすぎますなぁ。」
二人は顔を見合わせ、「ハッハッハ」と声を上げて笑った。会議室には、テレビから流れる懐かしい笑い声と、社長と顧問の明るい笑い声が響き渡っていた。
「さて今日は、昭和のお笑い界の風景を今に残す、東京の錦糸町演芸ホールにお邪魔しております。たくさん、お客さんが並んで開演を待っていますね。こんにちわ!」とインド人らしい親子に話しかけます。
「今日はとても、楽しみにしてきました。」と答えるのを見て、田中卓造社長は「あれ、ラヴィさんや。」思いもかけずテレビでにっこりしたラヴィ・シャルマの姿を見て、
「オーイ、たまちゃん、稲田さんもきてみい。ラヴィさん映っとるで!」
佐々木さんや半田くんも見に来ました。「やあラヴィさん、いつもと変わりないねー」たまちゃんも、「あの一緒にいる子、アビシェクくんだよ、かわいいでしょ!」と、東京でのイベントで知り合いとなった、シャルマ家の人たちを再び見れて、夢心地です。
「あ~あのイベントは一生の思い出!、アヌシュカちゃんは超かわいいし、あたし、半田くんのためにがんばったんだから!」
「え、なにを?」
半田くんは、突然自分の名前が出てきたことに少し戸惑いながら尋ねました。
「半田くんの仇をとってあげたんでしょうが!」
会議室に響いたたまちゃんの声は、晴れやかな自信に満ちていた。
胸を張って堂々と放たれたそのセリフは、まるでヒーローショーのクライマックスのようだ。だが、視線の先にいた当の半田は、目をぱちくりと瞬かせて口を開けた。
「……え? 仇って……誰に何されたんですか、僕……?」
「ちょ、ちょっとぉ!」たまちゃんは椅子から立ち上がりかけて、すぐに座り直すと、両手でテーブルをバンと叩いた。「第三十一話~三十三話、しっかり思い出してよ!あの東京出張編で、美咲ちゃんと一緒に、めちゃくちゃ頑張ったんだから!」
・・・後日たまちゃんが東京のイベント会場で水野さんの作戦をサポートして、昔、半田くんを窮地に陥れた(第八話前編・後編)永島という男の悪企みを潰したというエピソードがあったのだ。
その全貌を、どうやら当の本人はあまり理解していないようである。
「……まあ、自己満かもしれないけど、私はスカッとしたのよ」
たまちゃんは少し肩をすくめながら、けれどもどこか誇らしげに微笑んだ。
その空気の中で、モニター越しに接続されたビデオ会議の映像が、会議室をほんのりと温かく照らしていた。
画面に映るのは、ロケ中の錦糸町演芸ホールに並ぶ人たち。その仲に、ラヴィさんと、隣でひときわ表情豊かにしゃべっていた少年――アビシェク・シャルマ。
「かっわいい男の子やなあ……」と、佐々木メグ姐さんが画面に向かって目を細めた。
彼女はこれまでアビシェクと直接会ったことがなかったが、画面越しの彼の快活な表情に、一瞬で惹きつけられたようだ。
「そうなのよ!」と、たまちゃんが身を乗り出すようにして話す。「私、東京のイベントでちょっとだけ話したの。すっごく話がうまくて面白いのよ。確か、アヌシュカちゃんが――『アビシェクは、みんなのにんきものよ』って!」
アヌシュカ――アビシェクの妹で、まだ六歳。人懐っこくて、兄をとても慕っている。
「ほんに、将来有望やねぇ……」と、メグ姐さんが画面の少年に微笑みかけた。
アビシェク・シャルマ、十四歳の中学生。
ゲームとお笑いが大好きで、妹のアヌシュカを毎日のように笑わせている。
その無邪気な表情の裏にある、言葉のセンスやユーモアは、大人たちの心にも不思議な安心感を与える。
たまちゃんがちらりと横目で半田を見る。
「で、どうなの? 今ならちゃんと“ありがとう”って言えるよね?」
「え……あ、はい……ありがとう、たまちゃん?」
「もっと心を込めて!」
「えーと……ありがたまちゃん……?」
「……まあ、許す!」
また会議室に笑いがこぼれた。
遠く離れた場所から届く、若い命の声と、田中オフィスの日常のひとこま。
京都と東京、離れていても、世代を越え、ちいさな正義とやさしい気持ちが、今日もそっと交差していた。
ーーしゃべりのアスリートたち、静かなる決戦前夜ーー
田中オフィス。
お昼すぎ、会議室にはほどよくゆるんだ空気が流れていた。
テレビの画面では、錦糸町園芸ホールの入り口の人混みをくぐりぬけ、桑島アナウンサーとロケスタッフは奥の「Authorized Personnel Only:関係者以外立入り禁止」の表示板の前を通って進んでいく。
「今日は特別に、錦糸町演芸ホール館長の許可を頂いております。本日東京MTVをご覧頂いた視聴者の皆様には、貴重映像をお届けしたいと思います」
テレビを観ている田中オフィスの面々の間に、張り詰めた空気が、わずかに流れた。
「題して――『突撃、楽屋裏の芸人の嘶き』!」
「なにそのタイトル……」と、半田が小声で呟いたが、誰も聞いていない。
「そこはまさに陽春のダービー。出走を控えたお笑いのサラブレッドたちが、スタートゲートで武者震いする様子が見られるかもしれません。あるいは、パドックで道草を食べたそうに首を振って回る姿……それはネタ合わせの最終確認、はたまた差し入れのお菓子を頬張る姿かもしれません」
「よう言うわ、この人。競馬場ちゃうちゅうねん」と、メグ姐さんがあきれたようにツッコミを入れる。「でもまあ……おもろいことは確かやわ」
映像は、演芸ホールの裏側、まだ明かりの届ききらない薄暗い廊下へと切り替わる。
そこを、桑島実朗アナウンサーがカメラマンを従え、ゆっくりと歩いている。
まるで実況席から直接戦場に降りた解説者のようだ。
「しゃべりのアスリートたちから、どんな熱くるしい意気込みがあるか――桑島実朗が取材してまいります!」
その声とともに、ドアの前で静止。
アナウンサーは軽く身をかがめ、控えめにノックをする。
「……ここが、売れない芸人の掃き溜め。あるいは、地下格闘場のにらみ合いの場なのでしょうか。すでに、殺気立った猛獣の唸り声が聞こえてくるようですが……」
「……こんにちは、失礼いたします」
しばしの沈黙ののち、ドアの向こうから重たい声が返ってくる。
「……どちらさん?」
桑島アナは、わずかに笑みを浮かべ、そっとカメラに振り返った。
「さあ、一体どんな芸人さんがいらっしゃるのでしょうか……」
その言葉を最後に、画面は唐突に提供クレジットとCMへと切り替わる。
「あーあ、いっちゃんええとこで切るなあ……!」
メグ姐さんが舌打ち混じりに言いながらも、口角が上がっている。
「でもまあ、あれやな。素人芸人の控室を、まるでクラシックの実況みたいに語れるんは、あの人くらいやわ」
「たしかに……」と、たまちゃんが笑う。「話芸って、芸人だけのもんじゃないんですね」
そのとき、テレビの向こうでは、また一人――言葉という鞭をしならせる名手が、舞台裏の空気をかき回していた。
しゃべりのアスリートたちの一戦を見守る、語りの匠。
静かなる実況という名の戦場で、桑島実朗の声は今日も響き渡る。
ーーしゃべりのサラブレッドたち、その実像に迫るーー
照明の落ちた楽屋裏。微かに聞こえる喧騒、舞台袖から響く笑い声。
その奥、蛍光灯の光が冷たく照らす隅のテーブルに、ひと組の若手芸人がいた。
片方はピンク色のジャケットに身を包み、膝の上で台本らしき紙を握りしめている。
もう片方は、黒縁メガネにスエット地のジャケット、猫背で何かをメモしている。
そこへ、静かに歩を進める男――桑島実朗。
手元のマイクは、まるで時代劇の鞘付きの太刀のように落ち着きと迫力を携え、声には独特の余白を持った重みがある。
「おや……隅のテーブルで何やら熱のこもったネタ合わせをされているお二人がいますね。まさに、スタート前のパドック。馬体チェックと歩様の確認、ネタの精査に余念がありません」
桑島は歩を止め、ゆっくりと二人の方へ体を傾けた。
「こんにちは、突然失礼いたします。東京MTVの取材でご一緒させていただいております、桑島実朗と申します。よろしければ、お話をうかがっても?」
ピンクのジャケットの青年が、ぱっと顔を上げた。
「あ、どうもー! 僕らは『電流パラレル』って言います!ピンクがカズ、メガネがリョウです!」
とびきり明るい笑顔と滑舌のいい発声。カズの声には、まだ舞台前の緊張感が残っている。
メガネの青年、リョウは口元を引き締めながら、小さく会釈した。
「……僕ら、結成3年目なんで、勢いつけたいとこなんです。がんばりますので、応援していただけたら……」
その声には、控えめながらも、腹の底からじわりと湧き上がるような決意がにじんでいた。
桑島はうなずきながら、静かに言葉を紡ぐ。
「なるほど、結成三年目。お笑いの世界における“三年”とは、ちょうど若駒が古馬になる節目――名実ともに自分のカラーを掴むための、いわば試金石の季節でもありますね」
そして、マイクを少し下げて続ける。
「電流パラレル――その名の通り、異なる個性が並列に走りながら、ときにショートし、ときに火花を散らす。ピンクのジャケットと黒縁メガネ、その対照こそが持ち味なのでしょうか」
カズが笑った。
「はい、まあ……そのギャップでやらせてもろてます!」
「そういうて、たまに本気で言い合いになるんですけどね……」と、リョウがぽつりと呟いた。
その瞬間、桑島の口元にゆるやかな笑みが浮かぶ。
「言い合いができるというのは、芸人としての信頼関係があるという証拠。夫婦漫才と紙一重……といえば、語弊がありますかね」
一瞬の沈黙のあと、三人の間にやわらかい笑いが流れた。
「ありがとうございました。ステージ、拝見させていただきますね」
「ぜひ!ドカンとウケてきますんで!」
「……滑ったらそのへんの椅子に隠れてますけど」
そう言って、リョウがまた小さく頭を下げた。
カメラは静かに引き、桑島のナレーションが再び低く入る。
「楽屋裏という名のパドックで、しゃべりのサラブレッドたちは、それぞれの夢を背に立っている。
火花はいつか閃光に――芸は、情熱と継続の、見えない蹄鉄で走るのです」
画面がフェードアウトし、CMソングが流れはじめた。
田中オフィスでは、メグ姐さんが腕を組みながらひとこと。
「ちゃんと前説しとるだけの若い子に、そこまで言えるって……あの人ほんま、変態やな」
それは、最高級の敬意だった。
ーーギャランティ坂野、時代の証人ーー
東京・錦糸町演芸ホールの楽屋裏。
灯りの色味も空気の温度も、外とは異なる時間が流れているようだった。
その中央、ひときわ目を引く男がいた。
小さな鏡の前で、整髪料を丹念に手に伸ばし、髪の流れを指先で調整している。
光沢のあるグレーのスーツを軽やかに着こなし、シャツの襟元には、昭和の残り香を湛えた細身のネクタイが覗く。
その男の手首には、ひと目で“それ”とわかる機械式の腕時計。
古くて新しい。時代の向こうから歩いてきたような佇まいだった。
桑島実朗は一歩近づき、声のトーンをわずかに落とす。
「失礼いたします。東京MTV『昭和、懐かしの笑い声』特別企画の楽屋裏インタビューなんですが――」
その言葉に、男はゆっくりと鏡から目を離し、桑島のほうへ身体を向けた。
「――ああ、東京MTVさんですか。いつもお世話になってます」
穏やかな口調。だが、目の奥には芯のような光がある。
「私は、『ギャランティ坂野』です」
桑島は、ゆるやかに首を傾げた。
「……ギャランティ坂野さん」
「ええ、ギャグの対価として正当なギャランティを主張し続けて三十年。
その代わり、ステージ上では『値段に見合う笑い』しか出しません」
言葉の端に、やや皮肉めいた自信が漂う。
「今日は、いいギャランティが期待できそうですね。なにせ、カメラが入ってますから」
そう言って、左手でさりげなく時計のベルトを整える。
桑島は、まるで名馬の喉元をじっと見つめるようにして口を開いた。
「……なるほど。まさに、笑いという商品に誇りを持つプロフェッショナル。
その姿勢は、まるで昭和の職人が包丁を握る手つきにも通じますね」
「ええ。笑いも商売、商売も芸。心がなければ続きませんし、心ばかりでも食えません。
その中間地点で、私は30年、ずっと駆け引きしてるんです」
答えながら、ギャランティ坂野はネクタイの結び目をもう一度締め直した。
「ちなみに、今日のギャグは“午前の部用”と“午後の部用”で台本が違います。客の層と年齢を見て、ボケのテンポも変えるんですよ。たとえば――」
彼は、少し体を前に乗り出し、急に低い声で呟いた。
「午前の年配層向けは“間”を使います。“……えっ、あんた誰やねん”ってね。午後の若者向けは“速度”勝負。“誰やねん!”って、畳みかける」
桑島の目が細められた。マイクをぐっと近づける。
「言葉の打点を、時代と客層に合わせて変える――
まさにそれは、ベテランの至芸。ギャグにも“時の利”というものがあるわけですね」
ギャランティ坂野は、軽く肩をすくめる。
「ギャグは笑わせるもんじゃない。笑わせてしまうもんなんです。
だから、私は値段相応の“不可抗力”を狙ってます」
「……これは失礼ながら、まるで老舗寿司屋の“にぎり”の話のようですね」
「それは褒めすぎですよ、桑島さん。……でも、嬉しいですな」
桑島が一礼する。坂野も静かに頭を下げる。
カメラがすっと引いていき、桑島のナレーションが、楽屋の空気にじわりと溶け込んでいく。
「――笑いに値札を貼るな、とはよく言いますが、
貼るからこそ、守られる“誇り”もある。
この男、ギャランティ坂野。
売れずとも消えず、消えずとも奢らず、
芸の価値と向き合う、令和の“昭和芸人”なのであります」
田中オフィスでは、テレビを見ていたメグ姐さんが、ふっと腕を組んだ。
「……こういう人が生き残るんやろな。こびへつらわず、でも客の顔は見てる。あんたらも、よう見ときや」
たまちゃんと半田が、同時にうなずいた。
画面の中、坂野が背筋を伸ばし、静かに楽屋のパイプ椅子へ腰掛ける。
時間と客席とを味方にするには、まだ“ギャグ”という勝負は終わっていない。
ーー怪獣タロウのやさしい牙ーー
楽屋裏――
奥へ、さらに奥へと進んだその先。
明かりは少し暗く、舞台袖の喧騒も遠のいて、まるで忘れられた時間のポケットのような静けさが漂っていた。
そこに、一人の男がいた。
座布団の上に体育座り。
大柄な体をコンパクトに丸めて、膝の上に広げた漫画のページを真剣な目で追っている。
いかにも芸人とは思えない、無防備な横顔だった。
桑島実朗は、その光景に少し足を止めた。
「……舞台の獣道の片隅に、一頭の巨体がひっそりと佇んでおります。
気配を消して、物語に没入するその姿は、まるで本番前の猛獣が心を整えているようでもあり――」
ナレーションを終えるように声を落とし、桑島はゆっくり近づいた。
「東京MTVの突撃、楽屋裏インタビューです。お時間よろしいですか?」
……反応がない。
よほど集中しているのか、あるいは耳に届いていないのか。
「……あのー、こんにちは。アナウンサーの桑島と申します」
その瞬間だった。
男の肩がビクンと震え、漫画のページが宙を舞うように閉じられた。
「あ、うわっ! びっくりしたぁ……!」
あたふたと漫画を隠す手の動きが、どこか不器用で、その巨体とのギャップが妙に可愛らしい。
「ど、どうも!……ええと、『怪獣タロウ』です。あ、はい、芸名です。普段は……あの、フリップ芸とか、やらせてもらってます」
大きな声に似合わず、語尾はどこか控えめで、言葉が少しもつれる。
「今日は……まあ、頑張ります。あ、はい」
汗をぬぐう手が、ついでのように隠した漫画をもう一度押さえる。
だが、その表紙は桑島の目にしっかりと映っていた。
――『小さな愛の物語』。
白地に淡いピンクの花模様、乙女チックなタイトルロゴ。
桑島は心の中で静かにうなずく。
(……怪獣にも、やさしい趣味があるらしい)
だが、その感想は決して口には出さず、プロらしい間合いで次の言葉を紡いだ。
「フリップ芸をされているとのことですが、芸名に“怪獣”とあるのは……ご自身の体格から?」
「あ、そうっす。小学校のときから大きくて……体育のときに背中に乗られて、クラス全員の組体操の土台役やらされてました。しかもずっと一番下」
「なるほど。皆を支えるポジションが、自然と染みついていたわけですね。
“怪獣”という名前も、怖がらせるためではなく、受け止めるための看板なのかもしれません」
タロウはぽかんとし、少ししてから照れくさそうに笑った。
「そんな立派なもんじゃないですけどね。インパクトは欲しかったっす」
その瞬間、桑島の目がふと、さっき隠された漫画の背表紙へと戻る。
『小さな愛の物語』。
だが彼は触れない。ただ、優しい声で締めくくった。
「怪獣という名を持ちながら、誰よりも丁寧に言葉を選ぶ。
見た目とのギャップがあるからこそ、お客さんに伝わる“人間味”があるのかもしれませんね」
「……それ、ネタに使っていいっすか?」
「もちろん。ギャグは生もの、拾えるものはなんでも拾ってください」
カメラが静かに引いていく。
大きな背中を小さく見せる、舞台袖の静けさの中で。
タロウは一礼し、もう一度そっと漫画を拾いあげた。
「……今日は、がんばります」
「ええ。きっと、届きますよ」
その言葉と共に、桑島はゆっくりと立ち去った。
“怪獣”の中に眠る、誰にも見せていない柔らかさ――
それが、ステージのどこかで、ふと笑いに変わる瞬間があるのかもしれない。
ーーしなやかな風、舞台に吹くーー
楽屋裏の奥、壁際の空白のような空間で――
ひときわ静かなリズムが流れていた。
そこには、バレエのバー代わりに備品棚の縁を使いながら、流れるような動きで足を引き上げ、体を伸ばしている女性の姿があった。
ジャージ姿。しかし、その所作には隙がない。
肩の落とし方、首の角度、つま先の位置――すべてが舞台の一部のように整っている。
目を引く、というより、目が離れない。
桑島実朗は、その動きを見つめながら歩み寄る。
「……舞台裏に、まるで春先のそよ風のような気配が漂っております。
その動きは、芸ではなく準備、だが既に人目を惹いている。
果たして、どのような言葉が、あの動きの奥から出てくるのでしょうか」
レポーターとしての呼吸を整え、桑島は丁寧に声をかけた。
「こんにちは。東京MTV『懐かしの笑い声』特別企画で、楽屋裏の取材をさせていただいております」
女性は片脚を引きながら上体を起こし、スピンを一度くるりと舞ってから、柔らかくこちらに振り向いた。
「アーン、ドゥ、トゥロ……あら、どちら様?」
その声は優しく、しかし奥に芯がある。
風に似て、だがただの風ではない。
「どうも。東京MTVの桑島実朗と申します。突然の取材、恐縮です」
女性は一瞬、にこりと笑みを見せ、片手を胸の前に添えた。
「私は、『しなやかな風』という名前でやらせてもらってます。ジャンルは……コントが多いですね」
桑島がわずかに頷くと、彼女は軽く息を吸い、声のトーンを落として続けた。
「もともとはクラシックバレエをやっていたんです。でも、ある日気づいたの。
――お客さんって、ちょっとしたズレに一番笑うんだな、って。
だから“美しくズレる”ことに、今は……コンセントレーショオンしてますの」
最後の語尾に、さりげなくポーズまで添えて、優雅にウィンク。
桑島の目がわずかに細くなり、ナレーションの声が静かに重なる。
「しなやかな風は、舞台裏から、表舞台へと吹き抜けていく。
芸人という名の表現者が、今日もひとつ――
自分だけの輝きを乗せて、風を起こす準備をしているのです」
ーーキタイノシンジン、素顔のままにーー
演芸ホールの楽屋裏も、取材の終盤へと差しかかっていた。
テレビカメラは静かに空気を運び、桑島実朗アナウンサーの語り口も、次第に余韻を含みはじめていた。
――と、そのとき。
桑島の目が、ふと一角にとまった。
「あそこのお二人に、声をかけてみましょう。やや……なんか、見たことがある。キタイノさんですか?」
ソファの端で談笑していた中年の二人が、同時に振り向く。
ひとりは鮮やかなマリンブルーのアロハシャツ、もうひとりは柘榴色のアロハに白のバミューダパンツ。
足元は揃いのサンダルで、手にはペットボトル。
その派手さは、一周してむしろ落ち着きすら感じさせた。
「あ、はい。『キタイノシンジン』の北盛夫です。こちらが相方の飯野武です」
「どもども。飯野です」
二人は照れ笑いのような表情で、片手をひらひらと上げる。
その瞬間、桑島の目が、一瞬だけ飯野の手元に吸い寄せられた。
――黒縁メガネ。
だが、それは彼の顔ではなく、台本の上にそっと置かれていた。
(……なるほど。あの眼鏡は、“ネタを読むため”の道具。
彼の“素顔”は、あの柔らかな目元。舞台では見えにくい本来の表情が、ここにある)
桑島は、穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと問いかける。
「“私の記憶にあるキタイノさんは、もう少し尖った感じでしたが……お二人、今はベテランの風格ですね」
「まあ、デビューが早かっただけで、中身は今でも新人みたいなもんですよ」
と盛夫が笑い、飯野が続ける。
「20年前に大阪でデビューして、一気に人気出て。でも、まあ、そのあとは……人生いろいろですね」
「ブームが過ぎたあと、しばらく関西ローカルで営業周りをしていました。でも去年、ふたりで『もう一度、東京で勝負してみよう』って」
飯野が台本に手を伸ばし、メガネをかけようとして、ふと気づいたように笑った。
「……あ、メガネ?これ、台本読むときだけなんです。
コンタクト苦手で。舞台上ではなるべく、裸眼で勝負したくて」
桑島は小さくうなずく。
「その素顔に、何か宿るものがあるように感じました。
メガネ越しに見る世界と、裸眼で見る舞台――どちらにも、芸人としてのまなざしがあるのかもしれませんね」
「いいこと言いますね……なんか、今日の舞台、少し背筋伸びました」
北盛夫がそう言って、ふと視線を交わす。
「僕ら、昔は“笑いにスピード感を”って言ってたけど、今は“間”で笑わせたいんです。
派手な衣装も、ちょっとだけ力を抜くためのギャップみたいなもんで」
「なるほど」と、桑島の語りがゆっくりと重なる。
「鮮やかなアロハにバミューダ、笑わせることを忘れないその見た目の奥に、
時を重ねた芸人の素顔が、静かに見えてくるようです。
“新人”の名を背負いながら、何度でも原点に帰るふたり――
その姿に、再び笑いの波が寄せる日も、遠くはないでしょう」
カメラが少しずつ引いていく。
飯野武はメガネをそっと台本の上に戻し、
北盛夫はお守り代わりのタオルで首元をぬぐった。
「今日の舞台、よかったら見ていってください。
お客さんの誰かひとりでも、また“あ、あのふたり”って思ってくれたら、それでじゅうぶんですから」
桑島は深くうなずいた。
「ええ。見届けますとも。素顔の“キタイノ”、この目に焼きつけさせていただきます」
開演の時間が迫り、予定されていた放送終了時間が迫ってきた。
桑島アナのナレーションが静かに締めくくる。
「キタイノシンジン――それは芸人の名前であり、
人生を笑い直す勇気の名でもある
以上、『昭和、懐かしの笑い声』―特別企画『突撃、楽屋裏の芸人のいななき』をおおくり致しました。映像を、演芸ホールのメインカメラに切り替えます――。」
桑島実朗アナウンサーの、あの燻し銀の低音が、やや控えめな音量で流れてきた。
「この番組は、
“笑いのある暮らしを応援します”――東和家具工業株式会社、
“カメラの前に立つその一瞬のために”――株式会社レンズワークス、
“笑いも健康も、基礎が大事です”――マルヨシ建設株式会社、
そして、視聴者の皆様のご声援でお送りしております」
静かに流れるピアノのBGM。
画面では、各社のロゴが順にフェードイン・フェードアウトしていく。
ーー笑角亭来福、嵐のように登場ーー
芸人たちはそれぞれの場所で出番前の準備を整え、ある者は台本に目を落とし、ある者は静かに目を閉じて集中していた。
その静けさを、突然の音が破った。
バタン!
「ふーっ、間に合った〜!」
楽屋のドアが勢いよく開き、そこに現れたのは、紺色の着物をふわりとまとった恰幅のある男性だった。
額には玉のような汗。肩を上下させながら、場内を見回す。
「ど、どうもっ!」
一番近くにいた電流パラレルのカズに向かって、ぺこりと頭を下げる。
「すみません、遅くなっちゃって!」
突然の乱入に、楽屋がわずかにざわつく。
その瞬間、キタイノシンジンの北盛夫が、やや驚いた様子で声をかけた。
「大丈夫ですか?お急ぎのようで」
その声に、着物の男がハッとしたように二人の方へ向き直る。
「あ、失礼!初めまして。わしは笑角亭来福と申します。
新作落語を専門にやっとります。本日はどうぞ、お手柔らかにお願いします!」
深々とお辞儀をするその姿に、思わず背筋が伸びるような威厳があった。
その一方で、額の汗と、軽く乱れた帯がどこか“人間味”を感じさせる。
飯野が少し首をかしげながら、「しかし、ずいぶん慌ててはりましたけど、もしかして掛け持ちの舞台か何かですか?」と尋ねると、来福は苦笑しながら、タオルで額の汗を拭った。
「いやあ……そんなんやったら格好ええんですけどね……」
しばらく間を置いた後、困ったような笑顔で言った。
「実は、寝坊してしまって。
目覚まし時計、セットし忘れてたんですよ。ほんま、アホですね」
その言葉に、楽屋の中が一瞬静まり返り、すぐに小さな笑いが広がる。
「なかなか……ある意味で大物ですねえ」
ギャランティ坂野が腕を組みながらニヤリと笑い、つぶやく。
「ほんま、寝坊で間に合うなんて、やっぱり大物やわ」と、怪獣タロウがぽかんとした顔で見守る。
しなやかな風が微笑みながら、「でも、間に合ってよかったですね」と声をかけると、来福はホッとしたように息をついて言った。
「ほんとに……ご迷惑かけましたが、何とかここまで来られてよかったです。
これから頑張ります!」
その後、キタイノシンジンの飯野が「寝坊って……まさに芸人ですね」と笑いながら近づき、言った。
「わしらも関西から来たキタイノシンジンです。来福さんと一緒にやるの楽しみにしてますわ!」
来福は力強く握手を返し、「こちらこそ!キタイノシンジンさん、噂はかねがね。
今日は一緒に盛り上げましょう!」と、また一歩、堂々とした姿勢を見せる。
アロハシャツのキタイノ、紺の着物の来福。
服装も芸風も異なるが、ひとつの舞台に向かう者たちとしての温かな連帯感がそこにあった。
桑島実朗は、その様子を静かに見守りながら、心の中でつぶやく。
(寝坊しても、風格は消えない……
芸人とは、何が起きても“舞台に立つ理由”を持っている人種なのだ)
笑角亭来福。遅れてきたにも関わらず、どこか堂々としたその風貌と立ち居振る舞いに、
キタイノシンジンのふたりは――東京という舞台の“層の厚さ”を、改めて感じたのだった。
ーートップバッター、笑角亭来福ーー
楽屋に入るなり汗だくで挨拶し、寝坊の事実を正直に告白して笑いを呼んだ男――
笑角亭来福。
そのほんの数分後、楽屋の内線電話が鳴った。
「トップ、来福さんお願いします。準備でき次第、舞台袖へ」
その声を聞いた瞬間、空気が少し変わった。
来福は驚いたように目を見開いた。
「……わし、トップなんですか?」
楽屋の芸人たちが一斉にこちらを振り向いた。
電流パラレルのカズが思わず、「マジすか……」とつぶやき、
リョウが小声で「それ、寝坊明けにはちょっとキツない?」と呟く。
「さすがに、運がええのか悪いのか分かりませんな」と、飯野が笑いながら肩をすくめると、
来福は一拍置いて、大きく息を吸い込んだ。
「……よっしゃ」
着物の襟を正し、足元を確認しながら、ゆっくりと立ち上がる。
その姿に、さっきまでのドタバタとした空気はもうなかった。
「トップってのは、一番最初に客席を温めるってこと。
つまり、わしが今日の流れを作らせてもらうっちゅうことですわな」
ギャランティ坂野が腕を組んだまま、ふっと鼻で笑った。
「ふてぶてしさだけは一級品ですね」
それを聞いて、来福はにやりと口角を上げる。
「ほめことばとして受け取っときますわ」
そのまま、楽屋の扉に向かって歩き出す。
重たい着物の裾をさばきながら、まるで舞台へと向かう時代劇の登場人物のようだった。
しなやかな風が静かに呟く。
「やっぱり、本物って“間に合う”んですね、ちゃんと」
舞台袖のスタッフがヘッドセットで何やら指示を飛ばしている。
客席のざわめきが、うっすらとカーテン越しに聞こえてきた。
そして来福は、舞台袖の定位置で静かに立ち止まる。
一礼し、深呼吸を一度。
誰よりも遅れて来て、
誰よりも早く、
舞台の光を浴びる。
その背中には、遅刻という事実をも上書きしてしまうような風格が、
確かに――漂っていた。
ーー笑角亭来福、渾身の幕開けーー
舞台に出たその瞬間、
スポットライトの熱が背中にじんわりと染みてくる。
笑角亭来福は、ゆっくりと歩を進め、高座へと腰を下ろした。
拍手がやや遠慮がちに起きたものの、まだ客席の空気は硬い。
開演したばかり、ましてやトップバッターである。
しかし来福の表情には、焦りも堅さも見えなかった。
着物の裾を軽く整え、扇子を片手に持つと、いつもの調子で口を開く。
「え~、本日はお足元の悪い中――って晴れてますな。
ともかくも、大勢のお運び、まことにありがとうございます。
トップバッターは、わたい、笑角亭来福と申します」
彼はそう言うと、すっと扇子を振って、自身の“めくり”(名前札)を指し示した。
「“笑う角には福来る”と読んでもらう、縁起のええ高座名を使わせてもろてます」
その語り口は、不思議なリズムを持っていた。
標準語の中に、ふわりと関西の抑揚が交じる。
それが妙に耳に心地よい。
すると――客席前列の中年男性が、ふいに声を上げた。
「師匠、角の字、違ってますよ~!」
その声に、来福は一瞬、目を丸くする。
芝居がかった大きな動きで身を乗り出し、“めくり”をじっくり覗き込む。
確かに、「笑角亭」の“角”は、本来「門」で書くべきところ、
あえて“角”の字にしてある。
来福は、にんまりと笑った。
「――おカド、違いやわ~」
客席、ドッ!
その一言で、場内の空気が一気にほぐれる。
奥の席からも笑いが起こり、前列の“イジった”お客も満足そうに頷く。
来福は、静かに笑いながら礼をし、姿勢を正した。
「では……ちょっとばかし、新作落語で、お付き合いねがいます」
スポットライトが、扇子を持ったその手元に落ちる。
舞台と客席の間にあった薄い緊張の膜が、ふわりと溶けていく音が、確かに聞こえた気がした。
今夜の笑いは、ここから始まる。
ーー舞台袖のふたりーー
舞台袖には、微かな明かりと、舞台から漏れる笑い声。
そのあいだに立ち尽くすようにして、キタイノシンジンの飯野武が、身を屈めて覗き込んでいた。
「……来福師匠、バケモンやで」
額にじんわり汗を浮かべながら、ぽつりと呟く。
ほんのさっき、着物姿で息を切らしながら楽屋に転がり込んできた男が、
今や高座の真ん中で、まるで最初からそこにいた人間のような顔をしている。
客席は既に笑いに包まれていた。
掴みの「おカド違いやわ〜」のひと言で、会場はすっかり来福のリズムに呑まれていた。
飯野の横に、北盛夫も立っている。
口を閉じたまま、じっと舞台を見つめていた。
「……これが、東京で叩き上げた芸やな」
目が、動かない。
耳も、舞台から一瞬たりとも離そうとしない。
落語とはこんなに“間”で見せるものだったのか、
何も言っていない一瞬すら、会場を惹きつけてしまうものなのか。
舞台の上では、来福が笑いを一つ巻き起こし、
その余韻の中で扇子を軽く鳴らす――カン。
その音さえも、計算された芸に思える。
飯野が、そっとつぶやいた。
「……寝坊して、駆け込んできてやで。
ほいで、あんなふうに、何事もなかったみたいに座って――
もう、お客さん掴んではる」
「うん」と北が小さくうなずく。
「わしら、まだまだやな」
言葉に悔しさはなく、ただ純粋な驚きと、尊敬が混じっていた。
それが、笑角亭来福の放つ“芸の空気”を、二人が正面から受け止めている証だった。
舞台の上では、来福の新作落語が、いよいよ本題に差しかかっていた。
客席は静かに、でも、しっかりと笑いの波を待っている。
呼吸の合った、良い会場だ。
その静けさに、飯野と北も息を呑む。
もはや舞台袖にいながら、彼らは観客の一員だった。
そして、舞台に立つその未来を、もう一度真剣に見つめ始めていた。
ーー金庫破りの銀二(上方人情噺)ーー
……え〜、ほな始めまひょか。
大阪のちょい外れ、町工場がポツポツ並んどるあたりに、「鎌田銀二」っちゅうおっちゃんがおりましてな。
このおっちゃん、見た目はようけ年季入っとるけども、そらもう、腕はピカイチの金庫破りですわ。
なにせ前科十犯。出たり入ったりで、刑務所ん中で“あ、兄貴また来はったんですか”て挨拶されるくらい、常連さんやったらしい。刑務所いうのは、まあ、なんとも言えん独特の雰囲気がありましてな。
しかし、そこは人間でございますから、気の知れたもん同士が集まれば、やはり、話に花が咲くもんでございます。
ある日、銀二はんが、知り合いの受刑者と世間話をしてましてな。向こうの若い衆が、銀二はんの腕に感銘を受けておりまして、こんなことを言うたそうでございます。
「それにしても、兄貴の金庫破りの術、あれはもう、すごいでんなぁ! 道具を使うてカチャカチャ、いや、音もさせずに開けてしまうんですから。ほんまに尊敬してまんねん!」
若い衆の言葉に、銀二はん、ちょっと照れたような顔をしはって。
「いやいや、そんな大したもんやないで。まあ、わしもな、昔、ええ師匠のとこで修行したんや。」
「へぇー、師匠はんですか! どんな方やったんです?」
若い衆が身を乗り出して聞きますと、銀二はん、少し遠い目をして。
「そうやなぁ……。あんまり無口で厳しい人やったけど、腕はもう、超一流やったな。おかげさんで、この通り、食いっぱぐれることはあらへんわ。」
そう言って、銀二はん、フッと笑いよったそうでございます。ええ、塀の中で。
(客席、ウケる)まあ、国の税金で食わしてもろて、いいご身分でございますな。 で、そないな銀二はん、ある日こう思たんですわ。
「これが最後の仕事や……。終わったら南の島でのんびり暮らしたる。波の音を子守唄に、トロピカルジュースや」
──まぁ、言うたら金庫破りの定年旅行ですわな。
そんときに、一本の電話が鳴った。
「はい、鎌田ですが……」
「……あ、銀二さん。あの、米山のおやっさんが……亡くなりましてん」
……米山のおやっさん、これがまぁ銀二はんの昔の師匠でしてな。
錠前屋一筋、名人中の名人。「開かへん鍵は無い」と言わしめた、伝説の職人ですわ。
今はもう「鍵の119番サービス」っちゅう、やたらと明るい看板のチェーン店に変わってしもたけども、昔は渋〜い店構えやったんです。
で、銀二はん、スーッと花持って訪ねて行きましてな。
仏壇に線香上げてたら、奥から出てきたんが、息子の修くん。
これがまた、シュッとした理系男子でしてな。なんやタブレット片手にカチャカチャしながら、
「銀二さん、父から託けられた金庫があるんです。“これは銀二しか開けられへん”って」
……なんや知らんが、ぐっと来る話ですやろ。
「……ほな、ちょっとやらしてもらおか」
銀二はん、久々に手がうずいた。これがもう職人の血ちゅうやつでんな。
昔取った杵柄、ちゃーんと残ってる。
「……ほれ」
カチッ……スッ。
──五分。なんの苦もなく開いた。さすがやで。
中には、桐の小箱と手紙が一通。
読んでみると……
「銀二。お前が捕まるたびに、わしは願かけて、自分の指、一本ずつ切り落とした。
けどな、とうとう切る指も無うなってしもた。今度こそ、堅気になってくれや。
修のこと、頼むで」
──銀二はん、顔が青ぉなって、ガタガタ震え出す。
「し、師匠ぉ……なんてことを……っ」
で、恐るおそる、その桐の小箱、開けてみた。
中には──干からびた、十本の指!
「ひぃぃぃぃいっ!!」
もんどりうって倒れましてな、泡吹いて白目むいて、
「南無観音大菩薩様……わいのせいで、わいのせいでぇ……ぁぁ……ぁかん、あかんてこれぇ……!」
──そこへ修くん、びっくりして駆け寄る。
「ど、どないしたんです銀二さん!? え? あっ、これ……これ僕が作ったやつです!」
「は? ……お前が?」
「はい。AIで指のデータ読み込んで、3Dプリンターで作ったんですわ。父に頼まれて。“なんにすんねん”て聞いたら、“余興や”て」
「よ、余興て……」
「“本気のこと言うても銀二はんには伝わらんから、ショック療法や”って言うてましたわ」
……銀二はん、天を仰いで泣いた。
「……師匠ぉ……あんた……ほんまに……」
──それからですわ。
銀二はん、金輪際泥棒やめて、本気で弟子取り始めましてな。
AIの鍵作成にも真っ向勝負。いまや「人間の技術はデジタルを超える」ちゅうて、若いもんに手ほどきしてるって話です。
ほんまの鍵は、心で開けるもんや──
……なーんてこと言いながら、いまも作業場でニッコリ笑てる、そんな銀二はんのお噺でございました。
おあと、よろしいようで。(会場から万来の拍手)
ーー壁の向こうーー
「あかん、全部持ってかれた―――」
その呟きは、北盛夫の口から自然に漏れた。
舞台袖の薄暗がりの中、客席の歓声を受け止めるように立ち尽くしたまま、彼は隣の相方・飯野武と目を合わせた。
その目に浮かぶのは、ただの驚きではない。
畏れと敗北感、そして――心からの賞賛だった。
高座の中央にいるのは、つい数十分前に汗だくで楽屋へ駆け込んできた男、
笑角亭来福。
新作落語「金庫破りの銀二」。
突拍子もない設定、笑いと涙のバランス、そして何より観客を掴んで離さない“間”と“温度”。
落語というより、まるで小さな舞台劇をひとりでやってのけているかのようだった。
会場はすでに爆笑の渦。
最初の笑いをとってから、一度も観客の呼吸が離れない。
笑い、どよめき、時には静寂すらも、来福の芸の一部になっていた。
そして、最後――「ほんまの鍵は、心で開けるもんや」という一言で噺が締めくくられると、
客席からは割れんばかりの拍手と「ブラボー!」の声。
その瞬間、北がぽつりと呟いたのだ。
「あれ……ヤバないか?」
飯野は、無言のまましばらく舞台を見つめていたが、
やがて深く頷く。
「あかん……あんな上方落語、それも新作であれだけの完成度見せられたら……」
北が、不安げに呟きを重ねる。
「……わしらのネタ、歯が立たんわ」
二人の芸風は、テンポの良い夫婦漫才風の掛け合いが持ち味。
王道の笑いを大切にしてきた。
だが、それだけでは足りない。
来福が見せた“物語の力”の前では、ただの笑いだけでは薄っぺらくすら思えてしまう。
まるで目の前に、分厚い壁が立ちはだかったかのようだった。
登るための足がかりも、握るロープも見えない。
それでも、目を背けることはできない。
飯野が、少し震えるような声で言った。
「でも……やるしかないな」
北は短く頷く。
不安もある。怖さもある。
けれど、袖に立っている今、自分たちの番が近づいている今――
逃げ場は、どこにもない。
「せめて、来福師匠のあとでも“わしらはわしら”言えるような、そんな漫才、せなあかんな」
その言葉に、飯野は小さく笑った。
まだ震えてはいる。けれど、心の奥に、小さな火が灯ったようだった。
舞台の照明がふっと落ちる。
次の演目のアナウンスが入る。
キタイノシンジン――出番まで、あとわずか。
ーー肩を叩いた手ーー
舞台袖。
照明の余韻が残るように、そこにはまだ熱気が漂っていた。
キタイノシンジンのふたり――北盛夫と飯野武は、
その熱の真っ只中で立ち尽くしていた。
顔色は沈み、手のひらには微かに汗がにじむ。
「……あかん、全部持ってかれた……」
そう呟いたのは北。
飯野も同じように押し黙り、ただ無言でうつむいていた。
そんな彼らのもとへ、笑角亭来福がゆっくりと歩み寄ってきた。
紺色の着物姿のまま、顔にはにこやかな笑み。
だが、その奥にある眼差しは、舞台で見せたそれと同じ、鋭い光を帯びていた。
「……まあ、そんな顔せんと」
そう言いながら、来福は二人の肩にそっと手を置いた。
軽く、しかし確かにそこにある重み。
「すぐに出番やで。勢いに乗って、上方漫才ブチかましたってや!」
その言葉に、北が少しだけ顔を上げる。
来福は笑みを崩さぬまま、声のトーンをわずかに下げて続けた。
「ええやろ、これが東京や。
目ぇ肥えた人らが観に来る、日本一の舞台やで」
飯野もその言葉に反応した。
俯いていた顔がゆっくりと上がり、来福の目を真正面から見た。
「上京したばかりの頃は、わしも苦労したんや」
と来福は続ける。
「関西のノリだけでは通用せんこともある。
でもな、通じへんからこそ、おもろいんや。
お客さんの心を掴むには、笑いだけやない。
“ほんまもん”の温度や、目に見えん人間の匂いが大事なんや」
飯野は、唇を噛みしめた。
ずっと心の奥にあった不安――それを、見透かされたような気がした。
「けどな」
来福はもう一度、二人の肩をポンポンと叩く。
今度は、少し強めに。
「わしがあそこまで仕上げるんに、二十年かかったんや。
せやけど、君らは今日ここに立っとる。もう、土俵には上がっとるんやで」
沈黙が落ちた。
その中で、北が静かに呟いた。
「……来福師匠」
飯野も小さく息を吸って、
「わしら、まだまだやけど……いま出んと、次が無い気がしますわ」
来福は、ゆっくりと頷いた。
「そや。いまが“その時”や。震えるのもええ。
けどその足で、一歩、舞台に出たら――もう、勝ちや」
言葉が、温かく染み込んでいく。
そして、背中を押す風になる。
次の演目のアナウンスが、舞台袖に響いた。
「次の出演は――キタイノシンジンのお二人です」
照明が、二人を包む。
北と飯野は互いに視線を交わし、無言でうなずいた。
背後では、来福がそっと手を合わせて小さく囁いた。
「いってこい、若い衆」
舞台へ――その一歩を、ふたりは踏み出した。
ーー続くーー