表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
田中オフィス  作者: 和子
39/90

第三十七話、行政書士 立花美波の日常

本作品はフィクションです。登場する人物、団体、地名、出来事等はすべて創作であり、実在のものとは一切関係ありません。


作中には、社会制度のひずみや、その中で翻弄される外国人技能実習生の視点を描く一環として、違法な労働環境や精肉作業に関する描写が登場します。その中には「血の臭い」や「夜の作業場」といった、生々しく受け取られる可能性のある表現も含まれております。


しかしながら、こうした描写は特定の産業や職業(たとえば、正規のジビエ加工業や狩猟文化など)を否定・非難する意図ではなく、あくまでも社会の構造的課題を物語として描くための演出であることをご理解ください。


また、もし本作品の内容に不快感を抱かれる可能性があると感じられる方は、無理に読まれることはおすすめいたしません。


物語が目指すのは、誰かを傷つけることではなく、見過ごされがちな声や現場に少しでも光を当てることです。ご理解の上、お読みいただけますと幸いです。


— 著者より

第一章:報われぬ約束の地

ーー消えた実習生——立花美波の追跡ーー

2024年6月。梅雨入り前の空は低く、重たく垂れ込めていた。東京・飯田橋の雑居ビル5階、行政書士・立花美波の事務所には、湿気と共に異質な緊張が流れ込んでいた。


「先生、大変なことになりました。」


そう言って扉を開けたのは、茨城県稲敷郡で米農家を営む筑紫誠一(58)だった。作業帽を脱ぎながら椅子に腰を下ろした彼の表情には、疲労と焦燥が濃く刻まれていた。


「実習生が、いなくなったんです。三人いたうちの二人が……朝になったら、影も形もない。」


立花美波(35)は事務机の前で手を止めた。行政書士として外国人技能実習生の受け入れ申請や契約サポートを担当している彼女にとって、こうした「失踪」の報せは決して初めてではない。それでも胸に広がる微かなざわめきは、ただの事務処理とは一線を画すものだった。


「残った一人から話は聞けましたか?」


筑紫は、首を振った。


「“知らない”の一点張りです。でも、あいつ……何かを隠してるような気もしてならない。」


机上の書類をめくりながら、美波はつぶやいた。


「誰かが導いている。そういう気配は……最近、強くなってます。」


技能実習制度。かつて「国際貢献」の名のもとに設計されたこの制度は、いまや労働力不足を補う装置と化している。実習生たちは、時給の安さや言葉の壁だけでなく、社会的孤立や労働環境の厳しさに悩まされていた。


だが——失踪。それは、制度の外側に飛び出す“最後の選択肢”だ。


ーー現場へ——田んぼと沈黙ーー

数日後。立花美波は筑紫と共に、茨城県の農場に足を運んだ。


広がる水田には苗が整然と並び、風が稲の匂いを運んでいた。だがそこに、働くべき姿はなかった。


「昨日の夜までは普通でした。夕飯のあと、明日の作業の話もした。それが朝になったら……もう、どこにもいない。」


静けさの中に、現場の違和感が沈んでいた。残された一人、実習生のタン(ベトナム出身・24歳)は、倉庫の影で物音ひとつ立てずに立っていた。


「……本当に知らないんです。でも、彼ら、最近……誰かとスマホで話してるのをよく見かけました。」


「誰と?」


「わかりません。でも……日本人じゃなかったと思う。時々、すごく小声で……。」


タンの目線は地面に落ちたままだった。


美波の中に、いくつかの仮説が浮かんでいた。


・他の農場へ斡旋された可能性(より高待遇を求めて)


・SNS経由で「逃走支援」を行うブローカー


・日本国内の不法労働市場への転落


「彼らのスマートフォンは?」

「失踪した二人の部屋には、もう何も残ってませんでした。」


まるで、最初から計画された“離脱”だったかのように。


ーー影の案内人——ブローカーの存在ーー

行政書士としての経験から、美波にはわかっていた。技能実習制度の陰には、いくつもの「名ばかり企業」「不正仲介業者」が潜んでいる。送り出し機関と受け入れ先の間で行われる金銭のやりとり。その一部が実習生に負担としてのしかかり、「借金を返すために逃げる」構造を生む。


この国で“夢”は、容易に“義務”へと変わる。


そして、外国人労働者にとってそれはしばしば、逃れられない“檻”になる。


灯りの消えない事務所

東京に戻った美波は、夜更けまで事務所に残り、実習生の経歴と連絡履歴を洗い直していた。飯田橋のビル群の谷間に、小さな事務所の灯りだけが、ぽつんと残っていた。


机の端には、開いたままの技能実習制度のガイドライン。書類の山の中に、失踪した二人の顔写真が差し込まれている。


「どこで、何を思って、出ていったのか——。」


その問いの先にあるのは、一人ひとりの生きる権利と、誰にも知られずに消えていく現実だった。


——この追跡が終わるまで、立花美波のペンは止まらない。



第二章:告げられぬ真実の重さ

ーー決断のとき——立花美波の選択ーー


2024年6月21日、午後3時。

東京・飯田橋。曇天の下、雑居ビルの五階では、冷房の微かな音だけが静寂を破っていた。


行政書士・立花美波は、目の前の男性の表情から視線を外し、ゆっくりと息をついた。


「彼らの安全を確認するのが第一です。」


その言葉は、室内に重く沈んだ。


目の前に座る農家の筑紫誠一(58)は、目を伏せたまま何度か口を開きかけた。だが、出てきた言葉は、ためらいの色に濁っていた。


「先生……それは分かっています。でも……警察に知らせたら、大ごとになる。ニュースにでもなれば、こっちも困るし……あの子たちも追い詰められる。」


彼の言葉には、現場を預かる人間ならではの現実がにじんでいた。農家として、技能実習制度の恩恵も、矛盾も、肌で感じてきた男の、苦しい選択だった。


美波は黙ってうなずいた。筑紫の懸念は理解できる。だが、それでも尚、無視できない事実がある。


彼らが今、どこにいて、誰といて、無事かどうか。


それは法的問題以前に、「人として」向き合うべき問いだった。


ーー制度の裏側と、沈黙する現場ーー

技能実習制度は、表向き「技術移転による国際貢献」を掲げるが、実態は安価な労働力を地方に供給するシステムだ。現場に赴いたことがある美波は知っている。

外国人実習生が、ビニールハウスの熱気の中で黙々と働き、言葉の壁と孤独の中で誰にも頼れずにいることを。


「警察に届ける前に、私たちでできることを探しましょう。」


そう提案したとき、筑紫はほっとしたように目を上げた。


「ありがたい……先生がそう言ってくれて。」


ーー残された青年——タンの証言ーー

その日の夕刻、美波は再び筑紫の農場を訪れた。残された一人の実習生、タン(24)は、使い慣れた納屋の隅で作業服のまま静かに立っていた。


「タン、本当に……彼らのこと、何も知らないの?」


美波が問いかけると、彼は小さくうなずき、数秒間言葉を探すように沈黙した。


「……少しだけ。何か言ってました。バスに乗って、どこか遠くに行くって。」


「どこへ?」


「はっきりとは……でも、“東京”って言葉、聞こえたような気がします。」


田舎の農場から東京へ。それは、逃避か、希望か、あるいは新たな搾取の入口か——。


ーー連絡の糸口を求めてーー

「彼らとつながる手段は、残っていませんか?」

美波は、真剣なまなざしで尋ねた。


タンは迷った末、スマートフォンを取り出した。


「ひとり、Facebookでつながってました。でも、昨日から更新が止まっています。」


SNS——それは、逃げた先の手がかりにもなりうるが、同時に仲介ブローカーの温床でもある。


美波は筑紫に言った。


「まず、タンさんの連絡先から辿りましょう。警察にはまだ行かずに。ただ、これは“見なかったことにする”ということではありません。」


「わかってます。」筑紫は静かに言った。「あの子たちが無事でいてくれれば、それだけでいいんです。」


だが、その「無事」とは誰にとっての、何に照らしての「無事」なのか——それを判断するのは簡単ではない。


ーー動き出す調査、動けない制度ーー

その晩、美波は事務所に戻ると、失踪した2名の入国記録、在留資格、受け入れ機関との契約書類を再確認した。


法律上、彼らは「監理団体」の管理下にあり、無断離職・転職は不正行為に該当する。が、それが果たして“正しい”制度なのか——。


「逃げたことが悪い」のではない。

「逃げるしかなかった構造」があるのではないか?


手元のペンが止まる。その視線の先には、今日撮ったばかりのタンの写真。ややうつむいた彼の表情は、どこかで罪悪感と無力感の間を揺れていた。


ーー物語は続く——選択の連鎖ーー

立花美波がこの日選んだのは、「制度」ではなく「個人」に寄り添う選択だった。

警察ではなく、声の届く範囲から始める調査。

責任を回避するのではなく、責任のあり方を見極める姿勢。


飯田橋行政書士事務所の明かりは、再び夜を越えてともり続けていた。

物語は、まだ終わらない。



第三章:合法と違法の狭間で

ーー見えない目的地——立花美波の推理ーー

2024年6月22日、午前10時。

飯田橋の行政書士事務所。立花美波は、前夜遅くまで読み込んだ地図の前で立ち止まっていた。

彼女の脳裏には、前日聞いた青年タンの一言が繰り返しこだましていた。


「…バスに乗って、遠くに行く、と言っていました。」


バス。

その選択に、美波は違和感を覚えていた。


「東京に行くなら、普通はつくばエクスプレス(TX)を使うはず。高速で安価で、乗り換えもない。なのに、なぜバス?」


これは、単なる移動手段の話ではない。

目的地そのものが——最初から東京ではなかった可能性。


ーー実習生ネットワークの影ーー

「筑紫さん、彼らがよく連絡を取っていた相手、心当たりはありますか?」


再び電話口で尋ねた美波に、筑紫誠一はしばし沈黙した後、ぽつりと答えた。

「最近、別の農家の子たちと仲良くしてたみたいです。少し離れた町で、同じくベトナムから来た実習生たちだと思うが……詳しくは知りません。」


技能実習制度は、地域ごとに“外国人コミュニティ”が自然と形成される。彼らは同郷の先輩や仲間とSNSでつながり、仕事の条件や噂話を共有している。


「“もっといい仕事がある”って……タンがそんなことも言ってた。」


その言葉に、美波の中で仮説が確信に変わった。


——これは、ただの“失踪”ではない。

計画的な移動だ。


ーーバスの行き先を追えーー

美波はすぐに、茨城県南部のバス路線と発着記録を洗い始めた。

行政書士の資格だけでは限界があるが、過去に労務支援で関わった運送会社の協力を得て、運転手の記録にアクセスすることができた。


そして、決定的な情報が浮かび上がる。


「昨夜、外国人の若者2人が、20:40発の○○行きバスに乗った」

行き先は、群馬県のある地方都市だった。


地図を広げる美波の表情が変わる。そこは、かつて外国人実習生を大量に受け入れていた農産加工団地の近くだった。


「東京じゃなかった……やっぱり。」


そこにあるのは、逃走ではない。新たな“労働現場”への移動の可能性だ。


ーー“雇用”か“斡旋”かーー

「もし、彼らが他の農場で働いているとしたら——それは合法か?」

自問する美波の脳裏には、制度の壁が立ちはだかる。


技能実習制度において、実習生の転職は原則禁止されている。正規の手続きなく、他の農場で働くことは不法就労に当たる。


だが、現実には“仲介者”と称する人物たちが、裏で実習生の移動を手引きしているケースが後を絶たない。

SNS、チャットアプリ、Facebookグループ。見えないネットワークが実習生たちの選択肢を“広げる”と同時に、“落とし穴”へと導いている。


ーー追跡と覚悟ーー

「筑紫さん、これはもう少し調査が必要です。」


電話の向こうで、美波の言葉に筑紫は小さくうなずいた。

「先生、ほんとに面倒かけて申し訳ない。できれば、警察沙汰にはせんで済ませたいが……」


「彼らが無事でいるか。それが、今はすべてです。」


美波は、群馬の農場関係者に心当たりがないか、旧知の労務管理士に連絡を取り始めた。

筑紫もまた、同業仲間のつてを頼りに、農場ネットワークを洗い直し始めた。


ふたりの手探りの調査が、いまひとつの“実態”を浮かび上がらせようとしていた——。


ーー「選ばれた逃走」から「導かれた移動」ーー

この事件は、単なる“失踪”ではなかった。

制度の隙間で、人と人の思惑が交錯する“移動”だった。


それは、夢を叶える逃避行か

それとも、新たな搾取の入り口か。


立花美波の筆が、再び手帳を走る。

飯田橋行政書士事務所の灯りは、まだ消えない。



第四章:山の中の密室経済

ーー消えた実習生——ジビエの影ーー

2024年6月23日。

群馬県・上毛山系のふもとにある、小さな集落。

立花美波は、地図にすら明記されていない林道を進みながら、運転席の筑紫誠一の顔をちらりと見た。


「本当に、ここで合ってるんでしょうか。」


「たぶん……だが、こんな奥地に労働現場があるなんてな。」


実習生たちの目撃情報とバスの行き先を照合した結果、浮かび上がったのは、限界集落に近い山村だった。そこには、農地再生も観光資源もほとんど残っていない。だが——人目を避けるには、うってつけだった。


ーー空き家と血のにおいーー

午後3時すぎ。

美波たちがたどり着いたのは、かつて農機具倉庫だったと思われる一軒家だった。外壁はひび割れ、瓦も落ちていたが、中からは明らかに「人の営み」があった。


扉の隙間から、金属音。

何かを切る音——生々しい、肉の裂けるような音。


中をのぞくと、そこには見覚えのある顔があった。

失踪していたベトナム人実習生の一人が、ゴム手袋をしたまま、鹿の脚を台に乗せてナイフを滑らせていた。


室内には冷蔵庫代わりの古い冷温庫、簡易の排水設備、そして“ジビエ”用と称される精肉パックが積まれていた。


「違法操業ですね……」

美波は低くつぶやいた。


筑紫が顔をしかめる。「どう見ても、保健所の許可なんて取ってないだろう。」


ーー借金と“親方”の支配ーー

若者は驚き、美波の名を呼んだ。


「先生……どうしてここに?」


「あなたたちは、どうしてこんな場所に?」


ためらいの後、ぽつぽつと語られた真実は、行政の帳簿にも、雇用契約にも書かれていない現実だった。


「…借金があるんです。日本に来るために、200万円以上払ったんです。」

「帰れない。逃げたわけじゃない。働かないと、家族が……」


斡旋料、渡航費、語学学校名目の“前借り”——すべてが制度の隙間を縫う“合法的な負債”となり、彼らを拘束していた。


そして、ここで働くよう手配したのは、日本人ではなく、同国人の“親方”だった。

彼は失踪した実習生を、裏ネットワークを通じて斡旋し、空き家を作業場に転用して精肉加工を請け負わせていた。


「警察が来れば、自分たちも逮捕されると脅されてます……」


彼らの声には、恐怖と疲弊、そして諦めが混ざっていた。


ーー行政書士の領分を超えてーー

「このままでは危険です。」


違法操業、劣悪な労働環境、借金による実質的拘束——美波の目には、これはもはや単なる制度逸脱ではなく、人身取引の入り口にすら見えた。


「筑紫さん、私たちだけでは限界があります。」


「警察に……知らせるしかないか……」


だが、美波は即答しなかった。

通報すれば、確かに違法操業は摘発される。だが同時に、実習生たちは「不法滞在者」として取り締まられる可能性もある。

救うつもりが、結果的に“排除”になる——それが、この国の制度の現実だった。


「まず、彼らに安全な選択肢を示しましょう。」

「逃げるのではなく、“保護を求める”手続きを一緒に考えます。」


美波は、労働局、NPO、そして外国人支援の行政書士ネットワークに連絡を取り始めた。

命令ではなく、選択肢としての支援を——。


ーー搾取から、回復へーー

その日の夜。

作業場の前で、美波は言った。


「あなたたちが帰る場所を失わないよう、私たちができることをします。」


行政書士の業務を超えていた。だが、美波にはもう、それが“越権”には思えなかった。


これはただの法律文書の処理ではない。

誰かの生きる道を繋ぐこと。


制度が彼らを守っていないとき——誰が、どうやって“希望”を渡すのか。

その問いが、立花美波の胸に重く残った。



第五章:制度のひびから

ーー消された未来——立花美波の格闘ーー

2024年6月24日、午前9時。

東京・飯田橋の行政書士事務所。

立花美波の机の上には、技能実習制度に関わる在留管理資料が山積みになっていた。


まもなく、彼らの在留資格が失効する。

そうなれば、入管は自動的に「帰国」の手続きを進める。再入国禁止措置が付けば、“日本での未来”そのものが閉ざされる。


しかし、同じくベトナム出身の「親方」と呼ばれる男は、すでに永住権を取得していた。

自身は制度の恩恵だけを取り込み、他人の犠牲の上で「合法的な加害者」として振る舞っていた。


「これは、あまりに不公平すぎる。」


美波は書類の一枚を強く押さえた。


法の限界と、“使われていない”可能性

技能実習生の失踪は、通常であれば「不法残留」として扱われる。

だが、そこには例外も存在する。

美波が経験から知っているのは、以下の“制度のグレーゾーン”だ。


特定技能への移行:職務経験と試験合格があれば、合法的に働き続けることができる。


人道的在留特別許可:帰国後に生活の破綻が想定される場合、稀に特例が認められる。


難民申請:強制労働・搾取の証拠があれば、政治的な保護対象になりうる。


だが、これらはあくまで「行政の裁量」であり、基準は不透明。

申請はできても、通るかどうかは“空気”と“政治”次第。


「ただの書類手続きを超えている……」

美波の言葉は、机に落ちる蛍光灯の光とともに沈んだ。


ーー“親方”の構造的支配ーー

午後、美波は再び実習生たちを訪ねた。

彼らは既に、逃亡者という肩書で社会的に孤立していた。だが、その沈黙の奥に、美波は何かを感じ取っていた。


「親方について、何か知っていることを教えてください。」


しばらく沈黙が流れたあと、実習生のひとりがそっと口を開いた。


「彼は、私たちが借金を負って日本に来たことを知ってました。」

「働かなければ返せないし、帰れば家族が困る。」


その構造は、古典的な債務労働の再演だった。

契約は形だけ。実態は、実習という名の労働搾取。


さらに別の実習生が言った。


「前にも…同じように送還された人がいました。

逃げても、誰も守ってくれなかった。」


美波はその瞬間、確信した。

これは個別の事件ではない。“繰り返されている構造”なのだ。


「法を盾にしているのは、親方だけじゃない。

私たちも、法を武器にできるはず。」


地域社会と制度の再構築へ

筑紫誠一が静かに顔を上げた。


「先生……俺でよければ、協力します。

この子たちは、よく働いてくれてた。追い出されるようなことじゃない。」


美波は頷いた。


「親方の活動範囲を調べます。ネットワークがあるなら、早めに潰さなければならない。」


美波はすぐに、関係機関と連携を始めた。

NPO法人、人権弁護士、元技能実習監理団体職員などに声をかけ、被害事例の収集と、難民申請・人道的配慮による在留特別許可の可能性を探りはじめる。


ーー制度は、誰のためにあるのかーー

実習生制度の理念は「技術移転による国際貢献」とされている。

だが、現実には日本の低賃金労働を補う“歯車”として消費される外国人が後を絶たない。


制度の名を借りて、未来を奪われた若者たち。

その一方で、抜け道を熟知した者が法の内側でのうのうと生きている。


これは「在留資格」の問題ではない。

未来の奪い方と、守り方の問題なのだ。


ーー立花美波の決断ーー

夜。

美波は静かに立ち上がり、外に出た。

梅雨の夜風が頬を打つ中、彼女は心に誓っていた。


彼らの未来を、「記号」ではなく「人間」として扱う社会にすること。


物語は、今、社会の核心に触れ始めている。

制度のほころびの中に立つ美波の戦いは、まだ終わらない



第六章:影の支配構造

ーー届かない正義——立花美波の苦悩ーー

2024年6月25日。群馬県の山間部にて。

外国人技能実習生2名の保護と引き換えに、「親方」と呼ばれる男は、あっさりと彼らを解放した。


「仕方ないな。どうぞ、お好きなように。」


立花美波は、その一言に内臓を握られるような嫌悪を覚えた。

反省も抗弁もない。ただの“消費物”を手放すような態度だった。


「廃屋はいくらでもあるさ。」


つまり、失った労働力はすぐに補充できる。

行政書士が支援し、実習生が保護され、報道が少し騒いだところで、この構造はまったく揺るがない。


美波は、警察への通報を最後まで迷っていた。

だが、彼の“抜け道”はあまりに巧妙だった。

永住権の取得、表向きは合法な在留支援団体との提携、納税記録の整備——形式上の“瑕疵”は見つからない。

違法性の立証は、難しい。


そして、美波もまた知っていた。

警察が動いても、「犠牲になるのは現場の実習生だけ」という現実を。


1. 影の支配者——合法と違法の隙間に立つ者

親方のような存在は、制度そのものを“理解しすぎている”。

日本の労働法、出入国管理、行政処分の限界、そして——支援者たちの良心。


彼は抵抗しない。なぜなら、その方が自分にとって都合がいいからだ。


「問題を大きくしなければ、次を用意できる。」

「行政書士やNPOは、結局“誰かを守るために動く”。つまり、自分と対立するわけではない。」


美波は、その冷徹な現実に怒りを覚えていた。


「私たちは、ただの書類処理人間じゃない。

人間の尊厳と未来を守るために、ここにいるはずなのに。」


だが、親方にとっては、美波のような行政書士もまた、制度の“便利な部品”でしかなかった。


2. 美波の葛藤と決意——構造への挑戦

事務所に戻った夜、美波はひとり、報告書の作成に取りかかっていた。

報告対象は労基署でも入管でもない。将来的な提案書に向けた、自分自身への記録だ。


「彼らが、労働者として生きる道はなかったのか?」


その問いは、ただの制度論ではない。

技能実習制度の“出口”があまりに脆弱であることが、親方のような人間に“補足装置”として機能する理由だった。


特定技能、認定就労者、永住申請、就労資格変更——

それらは、常に“例外処理”としてしか扱われない。


そのなかで、実習生たちは「使い捨ての外国人」になっていく。

悪意ある者にとっては、まるで“制度そのものが奴隷供給装置”に映ることだろう。


美波は書き記した。


「警察を動かすことよりも、働く権利そのものを守る法的支援が必要。」

「人権が守られるには、在留資格の“拡張”と、“制度の出口の多様化”が不可欠だ。」


3. それでも、私はここにいる

彼女は、すぐに答えを出せたわけではない。

行政書士としてできることには限界がある。

司法と立法の壁は厚く、制度の改革には政治が必要だ。


だが、美波は、目の前の現場から逃げることはしなかった。


彼女が見つめていたのは、助け出した二人の実習生が、支援NPOの一室で不安と希望の入り混じった顔で、日本語の資料を読む姿だった。


その姿が、まだ「届いていない正義」を、彼女に突きつけていた。


ーー構造は、今も動いている。ーー

「廃屋はいくらでもある」

親方のその言葉は、いまも現実として機能している。

制度の“外”で、誰にも記録されず、誰にも発見されないまま働く実習生が、今もどこかで肉を捌き、土を耕している。


制度が彼らを保護できない限り、この構造は終わらない。


ーー終章ではない、序章ーー

立花美波は、決してヒロインではない。

彼女は無力を知り、それでも書類をめくり、足を運び、声をかける。

そして小さな勝利を積み重ねていく。


彼女が信じるのは、制度の中から“変えていく力”だ。

それは届かぬ正義かもしれない。

だが、その正義を信じて動く者がいる限り、物語は終わらない。


最終章:「制度の終着駅」

ーー別れの言葉——立花美波の静かな決意ーー

2024年6月30日。梅雨の終わりを思わせる重たい空の下。

成田空港第1ターミナルの出発ロビー。

荷物検査の列に並ぶ一人の若者が、最後に日本語でこうつぶやいた。


「日本に来れただけで、幸せだった。」


ベトナム出身の青年・ズン。

3年間の技能実習期間を終え、途中で「逃走」や「違法就労」などの経歴を持たぬまま、制度に従い帰国する。

立花美波は、彼の背中を静かに見送っていた。


1. 技能実習制度の“出口”

ズンは問題のない実習生だった。

農場での評価も高く、地域との関係も良好だった。

だが、制度上「3年(または5年)」の壁があり、それを超えると、いかに優秀でも帰国が求められる。


「最後は辛い毎日だったが、国でまたゼロからやり直したい。」


彼はそう言って笑ったが、その言葉の奥に、美波はある種の「諦め」を感じ取った。

それは、自分の意志ではどうにもならない境遇に置かれた者に特有の、穏やかな抵抗だった。


2. ズンの“帰国”という別れ

多くの技能実習生たちは、最終的に日本を「好きになる」か「諦める」かのいずれかに落ち着く。

ズンは、明らかに後者に近かった。


「制度がある以上、先生たちが何をしてくれても、僕たちには帰るしかない。」


その現実に、美波は反論できなかった。

実習制度は、“技能移転”を目的とした建前で組み立てられており、「在留労働者」としての継続的なキャリア形成は想定されていない。

そのため、制度終了後も日本で働くには、「特定技能」「技術・人文知識・国際業務」など、別の在留資格に移行する必要があるが——


それには「試験」「雇用主の同意」「行政の審査」など、数々の高いハードルが立ちはだかる。


ズンは、それらすべてを前に「無理だ」と判断し、自ら帰国を選んだ。


3. 美波の苦悩と問い

空港からの帰り道。

電車の車窓を眺めながら、美波は胸の中で問い続けていた。


「彼らが“選べる”社会にするには、何が必要なんだろう?」


制度は形を変えても、実態はあまり変わらない。

人材不足を補うための制度である限り、彼らは常に“代替可能な存在”として扱われる。


それは「人」としてではなく、「労働力」としての価値の話だ。


ズンは“優良な実習生”として、問題なく帰国した。

しかし、彼は日本でキャリアを続けたかった。

彼の願いがかなわなかったのは、「法律の不備」ではなく、「制度設計そのものの限界」だった。


4. 静かな決意

事務所に戻り、美波はデスクに向かってメモを取った。


技能実習制度の出口支援を拡充すべき。


「本人の意思による継続滞在」の制度化。


地域の中小企業と連携した“滞在支援型移行モデル”の構築。


それは今すぐ形になる提案ではなかった。

だが、美波には確信があった。


「私は、制度を批判するだけの立場にはいない。

動かなければ、現場は何も変わらない。」


彼女が動くのは、誰かの「もう一度来たい」という希望のため。

その言葉を、ただの別れの挨拶にしないため。


そして物語は続く。

「先生、僕は日本で学んだことを活かして、国で頑張ります。」


ズンの言葉は、美波にとって慰めではなく、託された意思だった。


この国で、もう一度働きたい。

この国で、誰かの役に立ちたい。

この国で、暮らしたい——。


その声を、制度は今も聞こうとしない。


だが、美波だけは聞いていた。

そして、聞いた者には、動く責任がある。


ーー境界線の向こう側——実習生の視点ーー

〈ある技能実習生の帰国便より〉

2024年7月、成田発ハノイ行きのLCC航空機。

窓の外に広がる雲海を見つめながら、ズンは無言で記憶の中の“夜の作業場”に戻っていた。


猪、鹿、血のにおい。

夜の解体小屋は、冷たく、黙っていた。


「俺たちは……違法就労なのか?」


あのとき、確かに自分はそう口にした。

誰も返事はしなかった。だが、誰も否定もしなかった。

その沈黙こそが、あの場所の真実だった。


1. 「法」の向こう側にいた僕たち

技能実習制度の中で与えられた仕事場ではない。

労働契約も、保険も、職業訓練計画書もない。

“ジビエ加工”とは名ばかりで、作業は野生動物の解体と肉の袋詰めだった。

素手で、時に夜中に、時に黙って。


「だからといって、俺たちは生きるのをやめられるわけじゃない。」


それが、あの場所にいた全員の共通言語だった。


2. “後ろ盾”の不在

中国人労働者は、何かあったときに国が助けてくれると聞いた。

フィリピン人は、教会のネットワークがあった。

ネパール人は、大使館と繋がる支援団体がいた。


ズンたち——

彼らには、何もなかった。


あるのは、ブローカーに払った高額な借金。

それを完済するまで帰れないという「空気」。

そして、逃げることは「悪」と教え込まれた道徳。


「逃げたら家族が恥をかく。」


それが、ズンたちの背中を押し続けていた。


3. 立花美波という“境界の支援者”

解体作業が発覚したとき、行政書士の立花美波は、まっすぐな目で言った。


「あなたたちが選んだ道なら、私は応援します。」


ズンはその言葉を、人生で初めて“許された”と感じた瞬間だったという。


彼女は制度の中の人間だった。だが、その枠を越えて、自分たちの言葉を「受け止めようとした」。

それだけで、ズンには十分だった。


4. 境界線の向こう側で、また生きる

機内でズンは窓を閉じた。

機体は日本の空を離れ、南へ向かう。


「最後は辛い毎日だったが、国でまたゼロからやり直したい。」


そう口にしたとき、自分が“制度に適応できなかった者”と見なされることはわかっていた。

だが、ズンにとってそれは、「逃げた」のではない。

“生き延びる”ための選択だった。


日本で学んだ労働のリズム。

清潔への意識。

責任感の重さ。


すべてが、彼の血肉になっていた。

そして、それは彼の祖国にとっては、“誇るべき成果”であるはずだった。


今日もまた、新たな実習生がやってくる。

ズンはそれを知っていた。

自分のように、借金を抱えて、夢と不安を鞄に詰めてやってくる若者が、今日も日本の空港に降り立つ。


そして、制度は変わらないまま、彼らを“枠の中”に収めようとする。


だが、その枠の外にも、

確かに“生きる人間”がいる。

誰も守らない場所で、誰かが静かに、働いている。


それでも、生きる。

ズンは胸のポケットから、小さな紙を取り出した。

そこには立花美波の名と、事務所の番号が手書きされていた。


「困ったら、いつでも連絡して。」


その言葉はもう、物理的な距離では届かない。

だが、彼の心には深く残っている。


機体はまもなく、ハノイに着陸する。

ーー行政書士 立花美波の日常(完)ーー




この物語をご覧くださった皆さまへ


本作「境界線の向こう側——実習生の視点」では、技能実習制度の陰にある現実を描く一環として、「夜の精肉作業場」という描写を用いました。その中で「ジビエ(野生鳥獣の肉)」という表現が登場いたしますが、この描写がまるでジビエの取り組み自体を否定するかのような印象を与えてしまったとすれば、それは本意ではなく、深くお詫び申し上げます。


ジビエは、地域の食文化としての魅力に加え、農作物の獣害対策や環境資源の循環利用、さらには持続可能な社会(SDGs)の実現にも寄与する重要な活動であり、作者自身もその価値と意義に強く賛同しております。


今回の物語では、2020年に報道された「豚を解体容疑、ベトナム人4人逮捕 家畜盗難と関連捜査」という事件を一部モチーフとしながらも、登場人物をあくまでフィクションとして創作し、「違法労働に巻き込まれた技能実習生の視点」に焦点を当てました。窃盗や犯罪として描くことも一案でしたが、それでは彼らの人間性や希望を描ききれないと判断し、あえて「闇の精肉作業」という象徴的な設定を採用いたしました。


物語の中で描かれる“作業場”は、ジビエ事業やその従事者を否定するものではありません。それどころか、正しく行われるジビエの加工・流通は、むしろ地域社会の再生や人材育成の場にもなりうると信じています。機会があれば、作者自身も実際のジビエ加工を学び、体験してみたいと考えています。


本作が、制度の谷間で苦悩する若者たちの声を知る一助となり、同時にジビエ文化への理解と尊重を損なうことのないよう、願ってやみません。


今後とも、丁寧に題材と向き合いながら、社会の片隅にある声を拾い続けていきたいと思っております。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


— 著者より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ