第三十六話、永島部長の復活
ーー第一章 来訪者ーー
東京・品川。
湿気の残る初夏の空気を吸い込みながら、永島昭仁はアールライフ不動産のビルに足を踏み入れた。
その朝、永島昭仁はいつもより10分早く会社に着いた。
通用口の近くで煙草に手を伸ばしかけて、ふと足を止めた。
自動ドアの向こう、受付のロビーに──見知った顔があった。
「……げぇっ」
思わず低く声が漏れる。田中オフィスの水野幸一。
永島が昔、営業畑で叩かれていた頃に幾度となくぶつかってきた相手だ。理詰めで詰められ、返す言葉を失った記憶がある。
だが、今の水野は、まるで違った世界の人間のようだった。
女子社員の一人が駆け寄って、深々とお辞儀をしている。
「水野さま、本日は朝早くからお越しいただき、ほんとうにありがとうございました。」
目尻を下げて丁寧に返す水野。姿勢も声も完璧だ。
「いえ、突然の訪問で失礼しました。よろしくお願いします」
まるで老舗ホテルのロビーのような、洗練された空気が流れていた。
永島は物陰に身を引いた。
(おいおい……なんやその“殿上人”扱い……)
──だが次の瞬間。隠れていた永島を見つけ、ちらりと一瞥し
「永島部長、おはようございまーす。……あ、お客様、お待ちですので、すぐ社長室へどうぞ」
声のトーンは二段階ほど低くなり、目線も業務的。
彼女はすぐに受付に戻ってしまった。
「…………」
永島は、思わずジャケットの裾を払った。ホコリなどついていない。
社長室に入る前、永島はほんの一瞬、回想した。
──そういえば、あのときも女子社員の反応は薄かった。
※※※
数年前の会議室。
江崎衛社長が、資料をめくりながら口にした。
「商工会、君に任せるよ。情報化推進部会……って名前は立派だけど、まあ要は“くたびれた世代のデジタル教室”だ」
「……私が、ですか?」
「うん。俺が出てもどうせ浮くし。君、E不動産で“IT”には強かっただろ?」
永島は言葉に詰まった。
確かにITには強かったが、仕事で押しが利くからだ。それが“身内”との対立を生んでいたのも事実だ。
江崎は微笑んで言った。
「永島くん、ああいう“古臭い組織”って、ある意味、君みたいなのが必要なんだよ。
空気読まずにズバッと割って入れる人間。──俺は、そう見てる」
一種の左遷だと、当初は思っていた。
だが、通ううちに商工会の人間たちも少しずつ永島に心を開き、アドバイザーとしてIT活用の企画にも参加するようになった。
いつの間にか、名刺には「東京北商工会 情報化推進部会アドバイザー(非常勤)」と肩書きが加わっていた。
※※※
ーー第二章 再会ーー
応接室のドアを開けると、ソファにゆったりと腰掛けていた人物が顔を上げた。
「永島くん、元気そうですね。あれ以来ですね……」
その声を聞いた瞬間、永島の中の時間が止まった。
──E不動産 佐伯社長。
かつての上司。E不動産の社長。
あの日、あの失態の責任を問われ、永島は辞表を差し出した。「出直します」とだけ言い残して。
言葉が出ない。全身が硬直したまま、動けなかった。
「君のことは、水野さんから聞きましたよ。京都では……いや、今の君のほうが立派かもしれませんな」
佐伯は、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
ーー第三章 推薦者ーー
その場にいたアールライフ不動産の江崎社長が、ゆっくりと口を開いた。
「実はね、君を採用したとき、推薦してくれたのは佐伯社長なんだ」
「……え?」
「“一度は失敗したが、将来、大輪の花を咲かせる男”──そう聞いて、うちで引き受けたんだよ」
永島の視界が揺れた。
あの辞表、あの別れ。それは、見限られたのではなかった。
佐伯は言う。
「私は君を“排除”したのではない。“鍛え直す場所を与えた”のです。
新聞で君の名前を見てね……“自分を必要としてくれる人のために働きたい”──その一文に、私、泣きましたよ」
佐伯の瞳が、濡れている。
ーー第四章 再始動ーー
アールライフ江崎社長が続ける。
「もう“商工会まわりの便利屋”ではない。これからは、君の真の力を発揮してもらう。
営業リーダーとして、推進戦略を全面的に任せたい」
永島は震えながら立ち上がった。
(ようやく……ようやく、自分が戻ってきた)
「……ありがとうございます。私、やっと……営業マンとして、また走れる気がします」
静かに、だが確かな決意を胸に。
永島昭仁、47歳。東京の片隅で、新たな春を迎えた。
ーー第五章 早朝営業ーー
永島が水野を見かけたあの瞬間──実は、すでに商談は終わっていた。
アールライフ不動産 応接フロアの一室。
シンプルなプロジェクター画面に、プレゼンの最終スライドが表示されていた。
《プレゼン中の水野》
「……というわけで、田中オフィスと共同開発した“E不動産管理システム”は、物件ごとの履歴、顧客対応ログ、そしてオンライン契約機能と責任保険関係の自動案内機能を備えています。
『とびらんぬ・アラームーン』との連携により、物件管理アラート・内覧サポートがワンストップで管理可能です。内覧のログを分析することで、顧客嗜好の傾向分析にも利用できると思います。」
江崎社長は水野所長のプレゼンに引き込まれていた。佐伯社長にむかって、「京都では、内覧から契約まで営業マンがワンストップでやってしまうんですか!実に効率的で先進的ですね」
佐伯社長が頷いた。
「……田中オフィスのシステムは、東京で更に進化しましたけどね。これはうちの実務部門にもウケそうだ。」
「ええ。東京ではすでに賃貸マンションでは実績が出てます。アールライフさんのように高層マンションの賃貸と分譲を部門分離されている場合でも、対応可能です」
水野は時計を見て、すっと立ち上がった。
「佐伯社長、資料はそのまま置いておきます。私はこれで。
このあと、予約した別件の打ち合わせがありまして」
「そうか……じゃあ、ここからは私が話すよ」
佐伯社長はごく自然なやり取り。水野は、そのまま一礼して退出していった。
水野の訪問は、あくまでも商談だった。
永島を責めるでも、過去を蒸し返すでもない。
ただ、永島にとっては違った。
あの男が、たった今までここで両社長たちと話しをしていた──その事実だけで、心はざわついた。
実は、その席には佐伯社長もいた。
水野の商談の背後で、もう一つの“段取り”が静かに進んでいたのだ。
水野は長居をしなかった。
成すべきことを終えると、佐伯に場を委ね、何も言わず去っていった。
それは引導ではない。
永島が再び立つための、“舞台を整える”行動だった──
すべては、後になってからわかることだった。
ーー第六章 東京の風、あんたも浴びなよーー
都内某所。築浅の白いマンションの前で、風がビルの谷間を抜ける。
永島昭仁はスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出し、マンションの電子錠にかざす。
「ピッ」
控えめな電子音とともに、ドアが滑らかに開く。
「へぇ〜、立派やなぁ」
隣に立つのは、関西弁の男──北盛夫、38歳。
芸歴20年、関西ローカルでそこそこの知名度を持つ漫才師コンビ「キタイノシンジン(20年前は期待の新人でしたー)」のひとりだ。
「このへん、住民の入れ替わりは多いけど、やる気のある人は定着してますよ」
永島は微笑む。「風も通るし、縁起がいいって言われてるんです」
「なんや風水みたいなこと言うやないか(笑) せやけど……ええかもなぁ。ええ“風”、吹いてる気ぃするわ」
「……私も最近、この町で“吹きなおして”もらったんです」
永島は玄関を抜け、北に続いて室内へと案内する。
広々としたリビング、無垢材のフローリングが朝の光を反射していた。
北が足を止める。「……アンタ、ちょっとええ顔してるな」
永島は一瞬だけ、遠い記憶に目を向けた。
「……商工会では、“もうダメだ”って思いましたよ
でも、不思議なもんで。捨てられた、と思ったその先で、待ってた人がいた。
今は、そういう人たちのために働いてます。いや……働かせてもらってるのかもしれません」
しんとした空気。
北は、窓の外に広がる東京の景色を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「わしらコンビ結成して、もう20年になりますんや。
関西ローカル枠でちょこちょこ出さしてもろてるけど、パッとせん。
相方と話してな──東京で勝負してあかんかったら、すっぱり辞めよて。
もう“背水の陣”で来とるわけです」
そして、少しだけ笑った。
「あんたみたいに、まだ自分に賭けてくれる人がいるって……正直、羨ましいな」
永島は静かにうなずいた。
「私はね、今、東京で“何かを始めようとする人”を見るのが楽しいんです。
北さん、今の東京はあったかいですよ。昔みたいに“冷たい都会”って感じじゃない。
ちゃんとやれば、誰かが見てくれる」
少し間が空いて、北が笑った。
「ほな、東京でもうひと花、咲かせてみよか」
「大輪の花、咲かせましょう」
そのとき、北が不意に言った。
「……部屋、もっと見れます?」
「お安いご用です」
永島はにっこりと笑い、スマホを取り出した。
別の部屋のドア前で、バーコードを「とびらんぬ」のカメラにかざすと、
「ピッ」──
電子錠がまたひとつ、音もなく開いた。
「“とびらんぬ”のおかげです。田中オフィスで導入サポートしてましてね。
スマホひとつで、物件の全ドアが管理できるんですよ」
北は思わず口笛を吹いた。
「はぁ〜……便利な世の中やなぁ……」
永島は軽く頷いた。
「この“とびらんぬ”が導入されてから、ウチの管理物件の内見数が激増してまして。
自分の営業成績も、正直ぐんぐん伸びてるんですよ」
北は思わず笑った。
「ほなアンタ、ホンマに“風に乗った男”やな。
『再ブレイク』ってやつやないかい?」
永島は照れながらも、少し胸を張って答えた。
「いえ、私は“風を起こす側”になろうと思ってるんです」
二人は笑いながら、奥の和室に向かって歩き出す。
永島がスマホで“とびらんぬ”の画面を操作している姿に、
北はどこか憧れるような、懐かしいような眼差しを向けていた。
「ええ部屋や。……よし、ここからや。おれら、東京で天下とったるで!」
窓の外、東京の風が少し強く吹いた。
それは、まるで二人の背中を押すようだった。
ーー続くーー