第三十三話、週末マーケットの天使
ーー週末マーケットイベント 当日午前ーー
物語の舞台は初夏の東京。週末マーケットの活気に満ちた会場は、出店者たちの準備で朝から賑わっていた。都会の雑踏に埋もれがちなKIRANのブースは、水野と楠木の細やかな戦略によって、さりげなく人々の流れを引き寄せていた。
そんな中、一際目を引く少女の姿があった。真っ赤なランドセルに長袖フリース、きちんとしたジーンズ姿のアヌシュカ・シャルマちゃんは、まるで小さな大使のようにブースの前に立っていた。手には「いらっしゃいませ! KIRANへようこそ」と書かれた手作りの旗。それを高く掲げると、元気いっぱいの声で来場者に呼びかける。
「こんにちはー! にほんご、べんきょうしてます! KIRANのミネラル、いいですよ!」
彼女の明るい笑顔と真摯な態度は、周囲の大人たちの心を一瞬で和ませた。親子連れの客たちは彼女の魅力に惹かれ、ブースの前に足を止める。誰もが口々に彼女を称賛し、写真を撮り、SNSでその可愛らしい姿を広めていった。
ブースの奥でその様子を見守るイヴリンは、微笑みながら静かに呟く。「……彼女が一番の広告塔ね。ありがとう、アヌシュカ。」
しかし、その成功の影では、苛立ちを募らせる男がいた。遠巻きにブースを見つめる永島の顔には不満の色が濃く浮かんでいた。「くそっ……どうしてあの子どもは、あんなにも自然に客を呼び込めるんだ?」彼の計画した強引な販促作戦はすでに水野と楠木の手によって封じられ、混乱も起きていない。彼の敗北は、ひとり静かに刻まれていった。
そして、ブースの裏ではさらに別の動きがあった。「例の会話、録音してます。永島さんの“誘導操作”の件、証拠として十分です。」楠木がスマホの画面を水野に示し、水野は腕を組んで頷いた。「必要なら、こちらも証言を出せます。」楠木は冷静に告げた。
「じゃあ、潮時かな。抹殺……とまでは言わないが、“身を引いてもらう”くらいはしてもいいでしょう?」
水野はひとつ息を吐いた。「お手柔らかに、って言ったはずなんだけどね。」
「これは優しさの範囲だよ。――あの子を守るためなら、やる。」
そのやり取りをよそに、たまちゃんと美咲はアヌシュカちゃんの写真を撮りながら囁きあう。「水野所長、さっきちょっと笑ってたよね。」美咲が言うと、たまちゃんも微笑む。「うん……やっぱ、あの人、頼れるわ……。」
「イケメン補正も入ってるよね。」
「それは否定しない。」
微笑むふたりに、アヌシュカちゃんが大きく手を振った。「タマちゃん! ミサちゃん! アヌシュカ、がんばってるよ!」
「……っ、かわいい~~~っ!」たまちゃんが悶えながらしゃがみ込む。
その様子を見て、水野と楠木が吹き出した。「大丈夫か、奥田さん。」
「……だいじょばないです……あの子、尊すぎてもう……限界です……。」
楠木は冷静にタブレットに指示を入れる。「では、アヌシュカちゃんの警護対象ランクをひとつ上げておきましょう。」
こうして、週末マーケットイベント初日は予想以上の盛況となり――KIRANの名は、東京の街に確かに刻まれ始めた。
ーーイベント・午後、晴天とざわめきの中でーー
イベント会場中央に設けられた本部テントは、昼過ぎの報告書で埋め尽くされていた。スタッフたちが慌ただしく行き交いながら、予想外の来場者数に驚きを隠せない。
「予想より三割増しです! KIRANのブースは常に人だかりで、他の出店者もそれに乗じて売上が上がっています!」
商工会の原田は、その報告に満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「……これはもう、決まりですね!」
意気揚々と原田は歩みを進めると、まっすぐ永島の元へ向かい、興奮気味にその手を握りしめた。
「永島さん、あなたの読みはズバリ当たりましたね!」
握られた手を見つめながら、永島はぽかんと目を見開く。
「え? あ、ああ……はい……?」
「KIRANの出展にあれほどこだわっておられたのも、こうなるとよく分かりますよ! いやぁ、私なんて目先の調整ばかりで……あなたの深い戦略が、ようやく見えてきました!」
(こだわってたっけ……いや、むしろ潰そうとして……)
心の中で困惑しながら、永島は曖昧に微笑み返した。
「いやあ……まあ、そこは……タイミング、ですね、ええ……ははは……」
原田はさらに手をぎゅっと握りしめ、感極まった表情で続ける。
「いやぁ、あなたのような若手がいてくれて、心強い! 次のイベントも、ぜひ一緒に……!」
その瞬間――
「永島さん、その節はどうも。」
低く、よく通る声が背後から響いた。
振り返ると、黒のジャケットを纏った水野幸一が、余裕ある微笑みを浮かべて立っていた。
「素晴らしいじゃないですか。イベントを企画され、大成功に導かれた。――さすがですね。」
永島の顔が一瞬でこわばった。
しかし、原田がそばにいる。今は何も言えない。
「……あ、ああ……ありがとうございます、水野さん……ええ、まあ、あの……ね……」
作り笑いを浮かべながらも、冷や汗が首筋を伝う。
(水野……おまえ、どこまで知ってるんだ……!?)
すると水野は、ふと横を向き、まるで雑談のように続ける。
「まったく……KIRANさんが参加できてよかった。イヴリンさんも、アヌシュカちゃんも、本当にこの街に希望をもたらしている。」
永島の顔色がさらに変わる。
“アヌシュカ”の名が出された瞬間、周囲の注目が一気に集まるのを感じたからだ。
「……え、あ、うん、そ、そうですね、ええ……子どもは未来、って言いますしね……」
(このまま何も言わずに済めば……いや、でも……)
敗北の鐘が、ゆっくりと鳴り響く。
それを察したかのように、水野がさらに一歩近づいた。
「ところで、永島さん。」
「……はい?」
「あなたが“立てた功績”は、こちらできちんと記録しておきます。次に何かあっても、信用を傷つけることはありませんよ。むしろ、信用が……より“確実に”されます。」
それは、微笑みを纏った包囲網。
言外に「逃げ道は封じた」と告げる、知的な脅しだった。
「……は、はあ……お気遣い……ありがとうございます……」
水野はもうそれ以上何も言わず、軽く一礼して去っていった。
原田がそれを追いかけ、嬉々として話しかける。
永島は、ひとりその場に立ち尽くし、しばらく無言だった。
(……クソ……負けた……だけど、表では……勝者ってことになってる。なんなんだこれは……)
悔しさと虚しさの狭間で、永島はただ苦笑いするしかなかった。
ーーイベント終了後の控室、静かな火花ーー
イベントの余韻が漂う夕刻。片付けが進む会場の一角、仮設控室の一室では、張り詰めた空気が流れていた。
「――水野さん」
静かながらも鋭い声が部屋を切り裂く。楠木匡介がドアを閉めると、冷静な表情のまま低く問いかけた。
「あなたの行動には納得しかねます」
ソファに腰かけた水野幸一は、何食わぬ顔でコーヒーカップを傾けた。
「ふむ。何の話でしょう」
「何の話かって――永島の企みですよ。奴の裏工作とイベント妨害の証拠は、すでに押さえていました。原田会長に直接報告し、決着をつける準備だってできていたんです」
楠木の口調は静かだが、その奥にある怒りは隠せなかった。
「それなのに――なぜ勝手な行動を?」
水野はコーヒーカップを置き、ゆっくりと立ち上がる。そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、ロックを外して楠木に画面を向けた。
そこには、一枚の写真。
写っていたのは、美しいインド人親子――イヴリンとアヌシュカ。
彼女たちの両サイドには、満面の笑みを浮かべる原田会長。そして、その隣でぎこちなく微笑む永島の姿。
「これが、明日の全国紙・東京版の記事になります」
水野は淡々と言った。
「見出しは――『地域と世界をつなぐ架け橋――KIRAN、週末イベントで大成功』」
楠木の眉が僅かに動いた。
「……永島を潰すんじゃなく、味方に見せかけて、縛った……?」
「そう。プランCです」
水野は軽く頷いた。
「予想来場者数は五百人。KIRANが出展しても、ここまでの盛況は読めなかった。だが――アヌシュカちゃんの存在がすべてを変えた」
彼はスマホの画面をスクロールしながら続けた。
「人が集まった。その瞬間、勝利条件は変わった。“破壊”から、“封じ”へとね」
楠木の表情が険しくなる。
「つまり……原田会長と永島を、KIRANの“支援者”として世間に晒すことで?」
「そう。“花を持たせて、実を取る”――田中社長直伝の戦術ですよ」
水野はどこか誇らしげに笑った。
「“こいつは敵だ”と叫ぶより、“この人も我々の仲間です”と写真を出した方が、ずっと効くんです」
楠木は沈黙したままソファに腰を下ろした。
「……お見それしましたよ、水野さん。まったく、相変わらずいやらしいやり方だ」
「ありがとう。それ、褒め言葉として受け取っておくよ」
水野は冗談めかして笑ったが、その眼差しは鋭いままだった。
「でもね、楠木さん。あなたが永島を潰そうとしたこと、それも正義だったと思う。本気で守ろうとしたんだ。KIRANも、佐々木さんも――それには感謝している」
楠木の肩が、わずかにほぐれた。
「……イーブンってとこですかね、今回は」
「うん、これでやっと貸しを返してもらえたかな」
水野が笑い、楠木もようやく小さく笑った。
長年の緊張が、ほんの少し溶けていく――そんな瞬間だった。
ーーそして朝刊と笑顔が届いた朝ーー
翌朝、田中オフィスTokyoのエントランスに、新聞紙のパリパリとした音が響いた。
「皆さん、これが今朝の東京版です!」
ラヴィが胸いっぱいに全国三大新聞と日本経済新聞を抱えてフロアへと飛び込む。その顔には興奮の色があり、勢いよく新聞を広げて、一人ひとりに手渡していった。
「田中オフィス本社の皆さんの分も、ちゃんと買ってあります。今日中に宅急便で送りますから!」
手渡された新聞の一面には、昨日の週末マーケットイベントの様子が大きく掲載されていた。
写真の中央には、イヴリンとアヌシュカが満面の笑顔で立っている。その両脇には、嬉しそうな原田商工会会長、そして、目だけが笑っていない永島の姿――。
「娘と妻が並んで新聞に載るなんて…いやぁ、これはもう家宝ですよ。娘、将来はアイドルかもしれませんね!」
ラヴィは満面の笑みで親バカ全開。その様子に、たまちゃんがひょいと手を挙げる。
「それなら、私が今日持って帰りますね!」
彼女は新聞の束を抱え、くるりと皆の方を振り返った。
「水野所長、オフィスTokyoの皆さん、本当にお世話になりました。東京出張で、すっごい体験ができました! 田中社長にも、いい報告ができそうです」
そう言いながら、たまちゃんは新聞の束を掲げて見せる。
「それにしても、お土産がちょっと重すぎぃ!」
そして、美咲の方を向き、にっこり微笑む。
「美咲ちゃん、今度は京都本社にも来てね!」
水野はコーヒーカップを傾けながら、ふっと微笑んだ。
「……そうだね。ついでに、自分に辞令を出そうかな。久しぶりに、本社のみんなに会いたいし」
「それ! 稲田先輩への最高のお土産になります!」
たまちゃんが目を輝かせると、ラヴィはその光景を優しく見守った。
「水野所長、オフィスTokyoはボクに任せてください。何なら、今日たまちゃんと一緒にお帰りになっては?」
ラヴィの言葉に、たまちゃんが新聞を手に掲げて一言。
「それ!……って、お土産として重すぎぃ!」
その瞬間、一同がどっと笑った。
笑顔と新聞が交差する朝。
出張の余韻は、温かい記憶として、それぞれの胸に刻まれていく――そんな予感がした。
ーーイベントの余韻ーー
東京の午後、奥田珠実は昼休みのカフェでほっと一息ついていた。ココアの甘い香りに包まれながらスマホを眺めていると、画面が小さく振動する。
「LINE通知:イヴリン・ママ」
珠実の目がぱっと輝く。画面を開くと、そこにはイヴリンからのメッセージ。
「アヌシュカちゃんの新しい写真が届いたわ❤️」
期待に胸を膨らませながらLINEを開くと、そこにはインドの伝統的なサリーに身を包んだアヌシュカが!優雅に両手を胸元で合わせ、「नमस्ते(ナマステ)」と挨拶するその姿は、淡いパステルカラーの背景と相まってまぶしいほどの輝きを放っていた。
珠実は、その瞬間、完全に射抜かれる。
「はあああああ!?かわいすぎるっっ!!」
思わず叫んだ声に、近くの席のOLが驚いてこちらを見る。しかし、そんなことはどうでもいい。珠実はすかさず「尊い❤️❤️❤️」のスタンプを連打。
すると、同じタイミングで佐藤美咲からも即レスが来た。
「ちょ、これなに?天使?天女?いや女神?いや、アヌシュカ様!!✨✨」
珠実も慌てて返信する。
「なんなの!?これ!!どうして東京に戻る前に見せてくれなかったのイヴリンさん!!罪深い美しさ…!!」
美咲もテンションが上がり、さらに畳みかける。
「しかもサリーって…文化の破壊力が強すぎる…!!珠実ちゃん、京都帰ったらアヌシュカちゃん写真展やろ!」
「やろ!!本社のみんな泣くで!!」
スマホの画面には、アヌシュカの「नमस्ते」の笑顔と、それを讃えるスタンプやハートで溢れかえったトークルームが広がっていた。
そんな中、イヴリンから追加のメッセージが届く。
「ふふ、よかったらこの写真、田中社長にも送っておいて。アヌシュカ、自分がみんなのマスコットだって知ったら照れちゃうかも☺️」
珠実はココアを一口飲み、満足げに目を細めた。
「こりゃ…敵も味方も、全員骨抜きやな。」
すると、美咲からまた返信が飛んでくる。
「最終兵器アヌシュカ…次は何を見せてくれるのか…!!(興奮)」
LINEのトークはさらに盛り上がり、二人の午後は、もう仕事にならない予感しかなかった。
ココアのぬくもりと、アヌシュカの愛らしい笑顔。
こんな午後なら、たまには仕事そっちのけでもいいか――そんな気持ちになるのも、仕方ない。
ーー続くーー