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田中オフィス  作者: 和子
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第三十二話、波乱の商工会イベント

ーー光を紡ぐ夫婦ーー

暗い部屋の片隅で、イヴリンは夢中で天然石のアクセサリーを磨いていた。彼女の指先から生み出される繊細な輝きは、まるで小さな宇宙を閉じ込めたかのようだ。しかし、その輝きとは裏腹に、イヴリンの心には常に一抹の不安が影を落としていた。


「この店、本当にうまくいくのかしら…」


彼女の呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな部屋の空気に溶けていく。そんな彼女の隣で、夫のラヴィはいつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべていた。


「大丈夫だよ、イヴリン。君の作るアクセサリーは、きっとたくさんの人を幸せにする。」


ラヴィの言葉は、まるで太陽の光のようにイヴリンの心を温める。そして、彼女は続けた。


「店名のことだけど、『キラン』( किरण)はどうかしら?」


キラン。その響きは、ラヴィの心に柔らかく、そして温かく響いた。ヒンディー語で「光線、光の筋、光のきらめき」を意味するその言葉は、まさに彼女のアクセサリーに込められた願いそのものだった。


「キラン…」


ラヴィは、その言葉を何度も口の中で転がした。それはまるで、彼女の指先から生まれる天然石の輝きが、小さな光となって未来を照らしているようだった。そして、ラヴィはさらに言葉を続ける。


「実はね、僕の名前『ラヴィ』( रवि)も、ヒンディー語で太陽という意味なんだ。」


その言葉に、イヴリンははっと顔を上げた。夫のラヴィ(太陽)と、店名のキラン(光の筋)。それはまるで、太陽が放つ一筋の光が、夫婦の絆を象徴しているかのようだった。


「これは偶然かしら…それとも…」


イヴリンの問いに、ラヴィはにこやかに答えた。


「きっと、これは必然だよ。僕たちの店は、きっとたくさんの光を放つ場所になる。」


ラヴィの言葉には、確かな希望と未来への信頼が込められていた。彼の力強い眼差しは、イヴリンの心に新たな光を灯した。


「そうね、きっと…」


イヴリンは、再びアクセサリーを手に取った。その輝きは、さっきよりもずっと強く、そして明るく感じられた。彼女の心を満たすのは、もう不安ではなく、確かな希望の光だった。ラヴィが「これは絶対成功する!」と直感したのは、単なる商売勘ではなかったのかもしれない。それは、まさに魂が共鳴した証だったのだ。夫婦が手を取り合い、互いを照らし合うように、イヴリンの「キラン」は、きっと多くの人々の心を明るく照らす光となるだろう。


ーーKiran、陽の光を灯す日ーー

錦糸町の路地裏に佇む小さなガラス張りの店、「Kiran」。開店の朝、まだ誰もいない店内には、すでに柔らかな太陽の光が差し込んでいた。その光は、まるで今日という特別な日を祝福しているかのようだ。


田中オフィス本社から応援に駆けつけた奥田珠実、通称たまちゃんは、オタク友軍としてこの一大事に志願した。店内では、佐藤美咲が脚立の上から声を張り上げる。


「たまちゃんー!こっち、ちょっと押さえてー!」


「待って、あたし今、パールをディスプレイに並べてるんだから〜」


たまちゃんは、半分泣きそうな声で応じた。開店まで、あと15分。彼女の焦りが伝播するように、店内の空気はせわしなく、しかしどこか弾んでいた。


「まだ看板曲がってますよ〜!」


たまちゃんの叫び声が響く中、カウンターではラヴィがレジの動作確認に苦戦していた。


「うーん、POSソフトが更新エラー……いや、これはAPIのリクエストが非同期処理になってないのか?」


思わず口から飛び出したIT技術者の口調に、イヴリンはぴしゃりと睨んだ。


「あなた、今日はそういうのじゃなくて、お客様に笑顔で『こんにちは、いらっしゃいませ』って言う練習しててくれる?」


「ごめん、イヴリン。でもシステムが心配で……」


「お店は人の笑顔がシステムなのよ」


たしかに、イヴリンのほうが一枚上手だった。彼女の言葉は、ラヴィの理屈をあっさりと凌駕した。


午前11時ちょうど、待ち望んだシャッターが上がる。


「いらっしゃいませー!」


店内に集まっていた社員、親戚、ご近所のママ友、そして子どもたちが一斉に叫んだ。まるで文化祭のような騒がしさ。いや、これは紛れもなく文化祭だった。


最初に入ってきたのは、ラヴィとイヴリンの長女、アヌシュカ(6歳)を連れた保育園のママ友グループだった。


「うわ〜、ステキ〜!これ、全部天然石なんですか?」


「今日だけ、ピアス作り体験無料よ〜!」


「えー! やりたーい!」


気づけば、店の中は20人以上のママとキッズで溢れかえり、彫金体験コーナーはいつの間にか託児スペースと化していた。たまちゃんは、子どもたちに交じって真剣な顔で彫金に夢中になっている。その時、奥の棚でジュエリーが崩れ落ちる音が響いた。


「きゃーーー!!」


犯人は、棚の影からニコニコと手を振っているアヌシュカだった。


「まま〜、キラキラしたの落ちたよぉ〜」


「……いいのよ、もう。開店初日なんてこんなもんよ」


イヴリンが苦笑いを浮かべながら立ち上がると、どこからか温かい拍手が起こった。拍手の主は、水野所長だった。


「おめでとうございます、ラヴィさん。いい光、入ってますよ」


「はい。名前の通りです。“キラン”は、今日、陽の光をもらいました」


そう言ってラヴィは、奥で照れているイヴリンの手を、そっと取った。


「それにしても…これ、完全に一日営業できないレベルのカオスですね…」


佐藤美咲が思わずつぶやくと、奥田珠実がコーヒー片手に返した。


「こういうことは、実行委員たまちゃんにおまかせくださ~い。カオスになるほど闘志がたぎるのじゃー!」


全員が笑った。その笑い声は、店内に充満するカオスを、温かい賑やかさに変えていくようだった。


その日の終わり、夕暮れの光に包まれながら、ラヴィがそっとシャッターを下ろした。カチャリ、と静かな音が店内に響く。


「でも、ラヴィ。思ったより順調だったかも」


イヴリンが小さく呟いた。


「ね。次は、POSレジじゃなくて、笑顔ボタンでも作ろうか」


「じゃあ、それはアヌシュカに任せよう」


ラヴィの肩に寄りかかった娘は、もうすっかり眠そうだった。


「Kiran」はこうして始まった。光を放つ太陽、ラヴィと、その光を届ける小さな店「Kiran」。それは、家族の絆と、地域の希望が交差する、温かい出発点だった。そして、このカオスな始まりこそが、この店の未来を明るく照らす、最初の光となることを、彼らはまだ知らない。


ーー陽の光、曇りときどき睨みーー

開店から一週間が過ぎたある日。ラヴィとイヴリンが営む小さな店「Kiran」に、商工会からの視察団がやってくるという連絡が入った。正式な「視察」というよりは、「地域創業支援の参考見学」という名目だった。


「まあ、うちみたいな小さい店に来るなんて、ありがたいことよね」


イヴリンがそう言ったとき、ラヴィの表情はわずかに曇った。


「商工会って、なんとなく…書類が多そう」


「インド人が“書類”って言ってる時点でちょっと面白いけど」


イヴリンはくすっと笑ったが、ラヴィは真剣な顔で首を横に振る。


「いや、笑ってるけど、日本の書類は…パズルだよ、イヴリン」


「それを解くのが、あなたの奥さんよ」


イヴリンはいたずらっぽくウィンクを返した。ラヴィは彼女の言葉に笑みを浮かべたが、彼の本能は、これから訪れるであろう微妙な空気、一抹の警戒感を察知していた。商工会の名を借りた、少しばかり胡散臭いビジネスマンたちが集まる中に、イヴリンの直感もまた冴えわたる予感がした。


午前11時。コツコツと革靴の音が響き、小さな店に三人の訪問者が現れた。先頭に立っていたのは、爽やかな印象の中年男性だった。肩には商工会のバッジをつけ、柔らかな口調で自己紹介をする。


「こんにちは、東京北商工会・会長の原田です。本日は見学とヒアリングに伺いました」


続いて、地元の創業支援室の女性が軽く会釈し、そして──


「えー、わたくし、永島と申します」


背広姿の大柄な男が、やや偉そうに名乗った。


「え? ながし…ま……?」


イヴリンの動きが一瞬止まる。すかさず奥田珠実がスマホのメモを開き、“E不動産・クビの人って、こいつ?”と佐藤美咲に送信した。永島は、いかにも“かつての中間管理職”という空気をまとわせ、陳列棚のアクセサリーを見ながら鼻を鳴らした。


「へぇ……これ、いくらで売る気ですか?」


「それは天然石ですし、仕入れと加工費を考えて——」


イヴリンが丁寧に説明を始めると、永島はそれを遮るように言った。


「まあまあまあ、そんな話より、利益率ですよ、奥さん。ぶっちゃけ、こういう趣味系は数字が出ないと意味ないっすからね。ねぇ、原田会長?」


原田氏は困ったように笑ってごまかした。だが、その瞬間、ラヴィの眉が一瞬だけ、ピクリと動いた。インド人の微笑みの裏に潜む、静かな炎の気配。それはこの時だけだったのかもしれない。


「お客様に喜んでもらえることが第一です。数字は後からついてきます」


ラヴィは静かに、しかし明確な声で言った。イヴリンは、少し驚いた顔で夫を見た。


「……この人、珍しく怒ってる」


視察は30分ほどで終わり、原田会長と若手女性は満足そうに感謝を述べて帰っていった。だが、最後に永島だけが、ラヴィの肩を叩いてこう言った。


「悪く思わんでくださいね? でも、商売は甘くないんで。インド人の感性がウケるのも、今だけですよ」


それに対し、ラヴィは目を細め、にっこりと笑った。


「太陽の光は、雲の上にもずっとありますよ。たとえ、下が曇っていてもね」


永島は、返す言葉もなくその場を去った。


その夜、イヴリンがグラスにワインを注ぎながら言った。


「ラヴィ、さっきの言葉……昔のあなたなら言えなかったわよね」


「そうかな。たぶん……君のおかげだよ」


「ふふ。でも、私の前では、もっとガツンと言ってもいいのよ? “失礼なやつはクビだ!”くらい」


ラヴィは少し考えて、くすりと笑った。


「うん。でも、それ言ったら彼、もうクビになってたよ」


笑い声が響く夜。


『Kiran』はまた一歩、大人の街に根を下ろしていた。太陽の光のように、どんな曇り空の下でも輝き続ける強さを、この小さな店は持ち始めていた。


ーー怒りの三人組ーー

商工会の視察から数日後。全てが平穏に見えたある日の午後、奥田珠実、通称たまちゃんの顔が異常に火照っていた。デスクでPCに向かいながら、佐藤美咲が一瞬目を見張った。


「たまちゃん、なんか怖い顔してるけど、どうかしたの?」


「いや、ちょっと調べてみたら、永島さん、ヤバい人だったみたいで……」


たまちゃんがスマホの画面を見せてきた。そこには、過去のE不動産に関するニュースがずらりと並んでいた。


「半田くん、あいつに随分とひどい目に遭わされたんだね」


「はあ? 半田さんが?」


美咲が驚きの声を上げる。


「うん。稲田さんからメール送ってもらったんだけど」


たまちゃんは、画面に目を凝らしながら続けた。そこには、半田が永島に唆されて危うくブラック企業に転職させられそうになった、という詳細が記されていた。その瞬間、たまちゃんの顔はさらに紅潮した。


「こんなやつ、許せない! あいつ、絶対に何とかしないと!」


イヴリンも、その言葉を聞いて目を見開いた。彼女の表情には、ラヴィが言っていた「商売の世界には汚い奴がいる」という言葉が、現実味を帯びて迫ってきているような厳しさが宿っていた。


「ラヴィが言ってたこと、よく覚えておくべきね。でも、そんなやつにこっちが負けてたまるかよ」


「でも、どうするんですか?」美咲が心配そうに問いかけた。


「やるしかないでしょ! 永島に、仕返しを!」


たまちゃんの目はすでに決意で輝いていた。


「うーん、どうやって?」イヴリンは少し考える素振りを見せ、そして笑顔を浮かべた。


「そうね。またあの“永島”ってやつ、何かしら動き出すでしょうから、その時に一気にやっちゃいましょう!」


美咲は不安そうに言った。


「本当に大丈夫なんですか? 私たちだけで動いて」


「大丈夫よ!」と、イヴリンはきっぱりと言い放った。「そして、今回は私たちが負けない方法を考えますから」


「なにか、手を打っておくのが一番かもね」たまちゃんも、新たな決意を固めたように頷いた。


その夜、三人は店を閉めた後に秘密の会議を開いた。


「まずは、あいつが何をやりたいのか、もう少し情報を集めるべきだね」


イヴリンが言うと、たまちゃんが目を輝かせて答える。


「わかりました! ちょっと調べてみます!」


翌日、たまちゃんはやる気満々で永島に接触する手段を思いついた。


「なんで商工会の会議に彼がいるんだろうと思ったんですけど、永島、実は業界内のパートナーシップを進めてるらしいですよ」


イヴリンは驚いた顔をして言った。


「え? それって、うちにも何か関係があるの?」


「ええ、ちょっと裏で何かやろうとしてるみたいです。商工会に潜り込んで、自分のプロジェクトを強化してるっぽいです」


「ふーん、それじゃ、早めに手を打った方がいいわね」


三人は、その情報をもとに、永島の動きを少しずつ掴んでいった。そしてある日、永島が北東京商工会のイベントを取り仕切っていることが判明した。


「これで決まりだね」


イヴリンが冷徹な声で言い放ち、たまちゃんも興奮を抑えきれずに頷いた。


「絶対に、あいつに“来るべき時”を迎えてもらおう」


その夜、三人は綿密な計画を練った。先手を打って永島のたくらみを暴き、「Kiran」へ手出しをすると痛い目にあうと思い知らせる。そして、その計画を元に、ラヴィにも相談する準備を整えた。


「うちの店、こんなことで閉めるわけにはいかないからね」


イヴリンは、少し鋭い笑顔を見せた。


こうして、永島に立ち向かうべく、三人は一丸となって動き出す。彼女たちの怒りが、不正を暴き、店と大切な仲間たちを守るための原動力となる。その先に待ち受ける結末は、まだ誰も知らない。


ーーダーリン!?--

「ウチのダーリンのカタキをとったる!」


イヴリンの彫金教室に、たまちゃんの高らかな宣言が響き渡った瞬間、佐藤美咲の目が点になった。ピンセットを落としそうになり、手元の天然石がころんと転がる。


「えっ、たまちゃん、ちょっと待って……今、ダーリンって言ったよね?」


「うん、言うたけど?」


たまちゃんは少し照れ笑いを浮かべながら、石留め工具をくるくると指に回している。その仕草はいつものたまちゃんそのものなのに、言葉だけが場違いなほど甘い響きを帯びていた。


「え、それって……もしかして……それ半田さんのこと?」


「そうやけど?」


「えーーーーーーーー!!」


美咲の絶叫は、店の外まで響きそうだった。横でイヴリンがクスッと笑いながら、手にしていた銀線を丸めるのを止める。


「……ちょ、ちょっと待ってよ、マブダチのあたしが知らないってどういうこと!?」


美咲はたまちゃんに詰め寄った。その顔は驚きと裏切られたような感情でぐちゃぐちゃだ。


「いや、よく言ってたでしょ?……その、半田くんにちょっとずつアプローチはしてた」


「それって、もう付き合ってるってこと!?」


「いや、まだやけど……向こうも普通わかるでしょ?」


たまちゃんのドヤ顔に、美咲は頭を抱えた。


「うわー、でもそれ、まさかすぎる……あたし、てっきりたまちゃんはフリーで、しかもまだ誰にも興味ないのかと……」


イヴリンが柔らかく口を挟む。


「でも、ほら。あれだけ半田くんのこと話してたら、美咲ちゃん、気づいてもよさそうなもんでしょ?」


「え、そうだった?」


美咲は自分の記憶を探るが、さっぱり思い出せない。イヴリンは困ったように肩をすくめ、たまちゃんへの美咲の発言を真似てみせた。


「“半田さん、いつも正しいこと言うんですよ〜”とか、」


「“あの人の設計、まじで神です”とか、」


「“あのとき見せてくれたサンプル画面、うちのスマホの壁紙にしてるんですぅ”とかね」


イヴリンの言葉に、美咲は目を見開き、そしてガックリと肩を落とした。


「……マジだ……気づいてなかった自分が怖い……」


美咲は天を仰いだ。たまちゃんは頬を赤らめながら、小さく「えへへ」と笑う。


「まぁでも、美咲ちゃんには改めて言おう思ってたんだけど、本社のみんなにも、まだやし……」


「じゃあ、これからだね!」


美咲がパチンと手を叩いた。その顔には、先ほどの衝撃とは違う、新たな企みが宿っている。


「うちらで、完璧な“告白作戦”やろうよ!」


「は!? なにそれ?」


たまちゃんは目を丸くした。


「だって、あの半田さんだよ? ちょっと無愛想だけど、情には厚いし、たまちゃんのこと、絶対気になってるって!」


「うーん……そんなん言われたら、なんか緊張してきた……」


たまちゃんは、急に不安そうな表情を見せた。


「じゃ、まずは――“ウチのダーリンのカタキをとったる作戦”、本気でやって成功させよう!」


「それ、うちの告白と関係ある!?」


「あるある、めっちゃある!信頼と戦友感は恋の始まりなんだよ、たまちゃん!」


美咲は力強く言い切った。イヴリンが肩をすくめる。


「若いわねぇ……」


けれど、その目は楽しげに二人のやりとりを追っていた。


恋と正義のリボルバーが、火を吹くときは近い。永島へのリベンジが、たまちゃんの恋を実らせるきっかけとなるのか。それは、まだ誰も知らない。


ーー商工会ジョイント企画、 イヴリン、別室の静かな闘いーー

天然石の小さなきらめきと、賑やかな工具の音が「Kiran」の店内に広がっている。今日は彫金教室の初心者クラスに予約が入っていて、たまちゃんと美咲がテキパキとお客様をサポートしていた。


その奥――もとはバックヤードとして使う予定だった小部屋に、簡単な丸テーブルと椅子が三脚。そこにイヴリン・シャルマが静かに腰を下ろしていた。目の前には、武蔵野商工会の原田会長、そして……あの永島の姿があった。


「イヴリンさん、本日はお時間ありがとうございます」


原田がにこやかに頭を下げる。彼の笑顔は、いかにも穏やかな商工会の人間といった印象だ。


「いえ、こちらこそ。わざわざ来ていただいて……あら、永島さんもご一緒とは」


イヴリンは一瞬だけ微笑んで言ったが、その瞳の奥はまったく笑っていなかった。永島はニタリと自信満々の笑みを浮かべる。


「どうも。いやぁ、お店、繁盛してますね。オシャレだし、女子受け抜群だ。さすが、インドのセンスってやつですか?」


その“褒め方”に、イヴリンは静かに眉を動かした。彼女の顔には微動だにしない冷静さが張り付いている。


「ありがとうございます。ですが、うちのセンスは日本とインドの“調和”を大切にしてますの。あまり“異国情緒”でひとくくりにされるのは、ちょっと……」


「おっと、失礼失礼。さて、本題に入りましょうか」


永島が腕を組むと、原田が口を開いた。


「今回の企画なんですが、実は区内のいくつかの小規模店舗と連携して、週末マーケットを開催しようという提案が出てましてね。イヴリンさんのお店にもぜひ出店していただきたいんです」


「へぇ……面白そうですね。どこで?」


「都内某所……現在候補は2〜3ありますが、有力なのは湾岸の再開発エリアです。ちょっとした音楽イベントなんかも絡めるつもりです」


「で、我々がその“運営サイド”に入る予定なんですよ」


永島が割り込むように言った。その口調には、有無を言わせないような傲慢さが滲む。


「“我々”?」


イヴリンの目が細くなった。その鋭い視線は、永島の核心を見透かすかのようだ。


「そう。実行委員会形式で、マーケティングとスポンサー対応をこちらが請け負うことになります。おたくのお店にも、ぜひ“目玉”として参加してもらいたい。メディア露出も期待できますよ?」


「……なるほど。少し伺ってもいいですか?」


イヴリンは優雅にお茶を差し出しながら尋ねた。その所作はあくまで穏やかだが、空気がぴりりと張り詰める。


「永島さんは、以前E不動産にお勤めだったとか……」


永島の顔に、かすかな緊張が走った。しかし、すぐに取り繕うように笑う。


「ええ。まぁ、過去の話ですがね。今はこうして“まちづくり”の支援で第二の人生ってやつです」


「E不動産……あそこ、少し問題があったって聞きましたけど?」


イヴリンは、決して永島から目を離さない。その視線は、彼の内心を深く探ろうとしているかのようだ。永島は顔色を変える。


「ま、過去のことは水に流して――ね?」


原田が慌ててフォローするが、イヴリンの目はさらに鋭くなっていた。


「では、その“過去”にトラブルを起こされた関係者が、うちの関係者にいる場合――それでもご一緒に仕事、できますかしら?」


「……え?」


永島の表情から余裕が消え去った。


「たとえば、うちの開発支援チームの一員、田中オフィスの半田直樹。あなたの名前を聞いて、少し様子が変わってましたけど?」


永島の顔から完全に笑みが消えた。彼は言葉を失い、ただイヴリンを見つめる。


「……まぁ、それは……偶然の再会ってことで……」


イヴリンは、にこっと微笑んで言った。その笑顔は、どこまでも冷徹だ。


「ビジネスの顔をするのは簡単です。でも、“信用”を取り戻すのは、もっと難しい。私、インドでそういうの、たくさん見てきたの。なので――」


声をひそめて、こう付け加える。


「本気でうちと仕事がしたいなら、その覚悟、もう少し見せてくださいね」


永島が何も言えなくなった隣で、原田氏だけが冷や汗を拭いながら、


「いやぁ……イヴリンさん、はは、なかなかシビアですね。うん、やはり異国でやっていくには厳しさをもってですな……」と、ぽつり。彼の声は、緊張で少し上ずっていた。


小部屋の外では、たまちゃんの明るい声と、彫金工具の軽やかな音が鳴っていた。その音は、静かな別室で行われているイヴリンの「闘い」を、何事もなかったかのように包み込んでいた。


ーー罠の香り ― 永島、動くーー

商工会との打ち合わせが終わり、原田と永島は商店街のアーケードをゆっくり歩いていた。夕暮れの商店街には、まだ帰り急ぐ人々の足音が響いている。


「ふぅ……イヴリンさん、手ごわいなあ。あれは経営者というより、戦略家だよ」


原田がポツリと漏らすと、永島はふんと鼻で笑った。その顔には、隠しきれない苛立ちと、僅かながら自信の色が混じっている。


「たかがインド人妻の天然石屋が、何様のつもりだ。だが――わかった。あの店の後ろに“田中オフィス”がついてるんだな?」


原田が少し眉をひそめた。彼の表情には、永島の軽率な発言に対する懸念が見て取れる。


「……やめとけよ永島さん。田中オフィス、今や結構手堅いよ?顧問筋もしっかりしてるし、変な動きはやめといた方がいいよ。あなたには、東京北商工会の活動に積極的に取り組んでもらっている。とても助かっている、感謝してるよ。」


原田の忠告に、永島はひねくれた笑みを浮かべた。


「いやいや、会長、恐縮です。私が危惧しているのは、最近よく聞く在留外国人が引き起こすトラブルです。ご存知でしょう?あの司法書士風情をのさばらしておくと、この街の環境にもよくない影響をもたらすんです。(これは“絶好の機会”だ...)」


永島はそう言って舌なめずりをした。彼の脳裏には、過去に自分を追い詰めた水野や半田の顔が浮かぶ。あの忌々しい二人がまだ現役で、小娘どもにちやほやされているとあっては、男としてのプライドが許さない。復讐の炎が、彼の内側で燃え盛っていた。


「マーケット企画、利用してやる。関係各所に圧かけて、田中オフィスの瑕疵をあぶり出す。――それで、ヤツらの信用を地に落とすんだ」


(……人から聞いた話だったが、なるほど執念深い男というわけだ。また自滅しなきゃいいけどね)


原田は内心でそう思いながら肩をすくめたが、永島の耳には届いていなかった。彼の目は、すでに獲物を捉えたかのように爛々と輝いている。


その夜、たまちゃんこと奥田珠実は、閉店後の店内でスマホをスクロールしていた。耳にはAirPods。画面には、永島のSNSと、彼が過去に携わったプロジェクトの資料が映し出されている。さりげなく収集していた“人脈データ”を分析中だ。


「やっぱり……この人、昔から“強引なクロージング”と“利益誘導”で悪評高かったんやな」


そうつぶやいて、彼女はニヤリと笑う。その顔は、まさしく“策士”のそれだった。


「“からませて誘い出す”までは計画通り。あとは水野さんの腕の見せどころや」


彫金教室で片づけをしていた美咲が声をかける。


「たまちゃん、まだ帰らないのー?」


「あ、ごめん!もうちょいしたらいくわー!」


たまちゃんはスマホをくるっと伏せ、頭の中でチェックリストを更新する。


永島が動く → OK

店舗と田中オフィスの関係を見せる → OK

半田くんの名をちらつかせて焦らせる → OK

メディア露出の餌をちらつかせて罠に誘導 → 進行中


そして、次の一手。


次の一手:イベント会場に参加して、商工会長の前で、永島の“化けの皮”をはがす


「ふふ……罠にはまったら、あとは落ちるだけやで、永島さん」


そんなつぶやきに、美咲が後ろから茶化すように言った。


「何たくらんでるの?たまちゃん、顔が完全に“策士の顔”になってるよ」


たまちゃんは、くるりと美咲の方を向くと、誇らしげに胸を張った。


「うちのダーリンに手ぇ出したらな、こんくらい当然やんか。――これは“業務の一環”やで?」


「じゃあ“本格的”になるのも時間の問題だね、うんうん」


美咲は勝手に納得して、さっさとエプロンを脱ぎはじめた。たまちゃんは美咲の背中を見送りながら、頬を染めつつ、再びスマホに目を戻す。次の動きは、永島が仕掛けてきたタイミングで迎え撃つだけ――。


その裏で、静かに田中オフィスの“反撃準備”が進みはじめていた。永島が罠を仕掛けたと信じるその足元で、別の、より巧妙な罠の香りが漂い始めていた。


ーー東京行き前夜 、半田くんかわええなーー

少し前の話・・・

「たまちゃん、来週からの一週間、東京の応援よろしく頼むで」


田中社長の声は、いつになく真剣だった。昼休みを終えたばかりのオフィスの会議室。ソファに座ったたまちゃんは一瞬だけ目を見開いて、それからニッと笑った。


「社長、それって……あのお店っすか?ラヴィさんとイヴリンさんの『KIRAN』の開店応援?」


「そうや。オープン準備の追い込みや。なんや、東京まで行くの嫌か?」


「ぜんっぜん!むしろ喜んで行かせてもらいます!」


即答だった。たまちゃんの目の奥がキラリと光る。その光は、ただ仕事への意欲だけではない、別の輝きを含んでいるように見えた。


「美咲さんに会えるし、あの子の作った“宣伝チラシ”の現地反応も見たいし!」


「ふふ、あんたみたいなんがおってくれて、ラヴィさんも心強いやろ」


社長の言葉に、たまちゃんはさらに顔をほころばせた。


その夜、たまちゃんは半田のPC脇に湯呑を置きながら、ぽんっと背中を軽く叩いた。


「ねぇねぇ、聞いた?アタシ東京いってくるよ。ちょっとの間、留守やで?」


「うん、さっき社長から聞いた……。KIRANの開店サポート、なんだってな」


半田は相変わらず真面目なトーンで返してきたが、どことなく視線が落ち着かない。たまちゃんは、それを見逃さなかった。彼のわずかな動揺に、たまちゃんの心は小さく弾む。


「まー、アタシいなくてさびしいだろうけど我慢せいよ」


あえて意地悪なことを言ってみると、半田は案の定、顔を赤らめた。


「……べ、べつに淋しくなんかないし」


「……」


たまちゃんは、さらに半田をじっと見つめた。すると、彼は視線をそらし、さらにどもる。


「べ、べつに、ぜんぜん……その、仕事やし。な?」


その言葉に、たまちゃんは思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。彼の一挙手一投足に、心がざわめく。


(……かわええな)


こいつのちょっとした言葉に一喜一憂する自分も、自分でちょっと笑える。だけど、不思議と心がポカポカしてくるのだった。


「うん、信じてるよ。――浮気、しちゃダメだぞ?」


「な、なに言ってんだよ……!」


半田は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。たまちゃんは軽く笑って、彼の背中をぽんぽんともう一度叩く。


「じゃ、明日準備して早めに行くからなー。お土産、期待しといて!」


そう言い残して、オフィスのドアを軽やかに閉めた。


ドアの向こうで、半田は独り言のようにつぶやいた。


「……浮気なんて、するわけないだろ」


ほんの少し、彼の声に照れと真剣さが滲んでいた。東京へ向かうたまちゃんの心は、この小さなやりとりで、温かい期待に満たされていた。



ーー小さな光の自己紹介ーー

その日、ミネラルショップ「Kiran」には朝から柔らかい日差しが差し込んでいた。開店準備をしていたイヴリンは、鏡の前でくるくると回っている娘、アヌシュカをふと目にとめ、微笑んだ。


「アヌシュカ、またランドセル背負ってるの?」


「うん!ママ、見ててね!」


まだ小柄な体には少し大きすぎる真新しいランドセル。つやつやの赤が、アヌシュカの黒髪と、クリクリした目にとてもよく似合っている。鏡に向かってぴしっと立ち、アヌシュカは胸を張った。


「こんにちは。わたしは、アヌシュカ・シャルマです。六さいです。インドからきました。でも、いまはとうきょうにすんでいます!」


ラヴィは奥のPC作業を中断して、振り返った。


「すごいなあ、アヌシュカ。発音、パパより上手だよ!」


「えへへ…もっとじょうずになるからね。せんせいにびっくりしてもらうの!」


ランドセルの肩ベルトをギュッと締め直す姿は、すっかり“小学生の顔”だった。イヴリンはそっとしゃがんで、アヌシュカの頬にキスをした。その優しい眼差しは、娘への深い愛情に満ちている。


「きっと、みんなアヌシュカのこと、大好きになるわ。」


「うん。わたし、おともだちいっぱいつくるんだ!それでね、キランにしょうたいするの!」


ラヴィは椅子から立ち上がると、ふたりをギュッと抱きしめた。温かい家族の絆が、小さな店の中に満ちていく。


「パパとママは、アヌシュカの一番のファンだからな。」


その日、「Kiran」に訪れた常連客が、アヌシュカの姿を見て言った。


「この店、ほんとうに“光”があるわね。あの子がいるからかな。」


たしかに、太陽のようなパパと、優しく包み込むママから生まれた、小さな光が、今日も「Kiran」を照らしていた。それは、ただの店ではなく、温かい家族の物語が息づく場所になっていく。


ーーアヌシュカ、アイドルになる。ーー

「やっほー、アヌシュカちゃんいる〜?」


店のガラス戸をガラッと開けて入ってきたのは、田中オフィス本社から応援に来ていた奥田珠実、そしてその同僚マブダチの佐藤美咲だった。二人の声が店内に響き渡る。


「たまちゃーん!みさきちゃーん!!こんにちわー、いらっしゃいませー」


奥の部屋からランドセルを背負った小さな女の子が勢いよく飛び出してきた。それはもちろん、ラヴィとイヴリンの愛娘、アヌシュカだ。彼女の姿を見た途端、たまちゃんと美咲が声をそろえた。


「か、か、かわいすぎるうぅぅぅぅ!!!」


美咲はその場でたまらずしゃがみ込み、アヌシュカをギュッと抱きしめる。その顔は至福に満ちていた。


「なにこの尊さ…ランドセル姿やばい…天使降臨したんだけど…!」


たまちゃんはお得意の関西イントネーションで言った。


「ちょ、アヌシュカちゃん、それどこで習ったん?日本の子でもそこまでちゃんと言えへんで?!」


たまちゃんの言葉に、アヌシュカは得意げに胸を張る。


「ふふっ。パパとまいにち練習してるの。あと、せんせいになるために、ママがわたしにべんきょうしてくれる!」


「えらすぎるやろ…!」と叫ぶたまちゃんの目尻は、もう完全に親戚のおばちゃんモードで下がっていた。美咲もそれに乗じて、アヌシュカの前にかがみ込む。


「アヌシュカ、わたしが京都のお姉ちゃんで、美咲が秋葉のお姉ちゃんね。だから、いじめられたら言うのよ?」


「うんっ!ぜったい言う!」


小さな指切りが交わされ、美咲は素早くスマホを取り出して言った。


「今の自己紹介、動画撮ってもいい?絶対バズるから」


「うん、でもママにきいてからね」


時にはしっかり、でも笑顔は満点。そんなアヌシュカの姿に、たまちゃんと美咲は完全にノックアウトされていた。彼女たちの間には、すでに深い絆が生まれていた。


イヴリンが笑いながら店の奥から現れる。彼女の目は、娘と二人を見守る温かい光を宿している。


「まったく、うちの子はみんなを虜にして困るわね〜」


「いえいえ、それ、全国のお姉さんが言いたいセリフですわ!!」と、たまちゃんが声を弾ませる。


「これから入学式でしょ?ランドセル背負って歩いてたら、パパラッチに囲まれちゃうかもね〜」と美咲が冗談を飛ばす。


アヌシュカはランドセルの肩ベルトを持ち直し、くるりと回った。


「おともだちいっぱいつくるから、あとでキランにつれてくるね!」


その日から、アヌシュカは「Kiranの小さな看板娘」として、ご近所の話題の的になっていくのであった。彼女の屈託のない笑顔と、真っ直ぐな瞳は、訪れる人々を魅了し、Kランに新たな光をもたらしていく。

登場キャラのビジュアル特徴

・アヌシュカ・シャルマ

・6歳のインド系の女の子

・明るい瞳、大きな笑顔

日本のランドセル(赤?ピンク?)を背負ってる

ランドセルは赤で普通の長いジーンズ、長袖フリース着用(インド人の女の子は顔と手以外は肌を露出しません)という感じで

挿絵(By みてみん)


奥田珠実と佐藤美咲、通称“ミサ・タマ”は、アヌシュカちゃんのイラストを見た瞬間、ほぼ同時に声を上げた。

「なにこの天使……!」

「これ、反則でしょ……。リアルにいたら保獲したなるやつやん……」


珠実は感激のあまり、その場でスマホの待ち受けに設定し、美咲はノートPCの壁紙に即採用。


「アヌシュカちゃん、うちの推しで決定やな」

「いや、もうKIRANの看板娘でしょこれは」


その勢いで、店頭に「アヌシュカちゃんが描いた絵です!」とイラストを額装して掲示することを勝手に決定。

ラヴィさんとイヴリンさんが気づいたときには、KIRANの入口が“アヌシュカギャラリー”になっていた。


ーー東京・下町、ミネラルショップKIRANの奥のバックルームーー

東京・下町、ミネラルショップ「KIRAN」の奥のバックルーム。そこには今、美咲と珠実、通称“ミサ・タマ”が何やら緊張感を漂わせながら、小声で作戦会議を繰り広げていた。外の賑やかな通りの喧騒とは対照的に、この小部屋だけは張り詰めた空気に包まれている。


「アヌシュカちゃんのイラスト、あれ、表に飾っとくのはマズかった……」


美咲が、申し訳なさそうに眉を下げて呟いた。彼女たちの目には、先日永島が見せたねっとりとした視線が焼き付いている。


「うん……あの永島とかいうヌメッとしたオッサン、あの目、ぜったいヤバいって」


珠実は眉間にしわを寄せて、ぎゅっと拳を握った。関西弁の口調が、怒りで少し荒くなっている。


「うちのダーリン……じゃなくて、半田くんのこと、昔苦しめたんやろ? それだけでも許せへんのに、アヌシュカちゃんに手ぇ出そうもんなら、あたしほんまに噛むで」


「いや、それちょっとコワいけど……でも、わたしも思った。あいつ、商工会のバッヂで人脅す系の奴よ。ラヴィさんの店、ちゃんと守らなきゃダメだよ」


美咲は珠実の言葉に少し怯えながらも、強く同意した。彼女たちの心は、大切な店と、その家族を守るという使命感で一つになっていた。


「作戦名、発動やな……“アヌシュカ・プロテクト・プロジェクト(APP)”!」


珠実が力強く宣言した。


「……なんか略すとアプリっぽいけど(笑)まあいいや、それでいこ!」


美咲も苦笑いしながらも、その作戦名を受け入れた。そして、二人の間で、具体的な作戦内容が確認されていく。


作戦内容はこうだ:


店頭のアヌシュカちゃん関連の掲示物はすべて撤去。

商工会が来る日は、たまちゃんが必ず立ち会い、永島の言動を録音。

イヴリンさんには、仮に理不尽な要請があっても即答せず、「主人(行政書士)に確認します」とワンクッション置くことを徹底。

美咲は店内の監視カメラの映像チェックと、デジタル証拠の保全係。

必要があれば、東京事務所の水野所長に即連絡。

珠実は、美咲に向かってきっぱりと言った。その瞳には、揺るぎない決意が宿っている。


「アヌシュカちゃんを泣かすようなこと、絶対させへん。……それが、うちらの友情パワーやで」


「うん!」と美咲もにっこり。二人の間に、KIRANの柔らかな灯りよりも暖かい、強い決意が灯った。この下町の一角で、大切なものを守るための密かな戦いが、今、幕を開けようとしていた。


ーーイベント告知のチラシが届いた日 ― 水野の決断ーー

水曜日の午後、ミネラルショップ「KIRAN」に一枚のイベント告知チラシが届いた。商工会主催「週末マーケット@浅草寺裏広場」──地域密着型の小規模ブースが並ぶ、いわば東京下町の“手作り市”だ。一見、平和で心温まるイベントに思えたが、KIRANの奥のバックルームには、微妙な空気が流れていた。


「ふーん、ラヴィさんの店も出店してってさ。まあ、話だけ聞けば悪い話じゃないけどさ…」


たまちゃんが、チラシをつまんだまま眉をひそめた。彼女の目は、何かを警戒するように細められている。


「ほら、ここ。実行委員に“永島 昭仁”ってあるやん。なんかもう、それだけで地雷くさいっちゅうか」


珠実の言葉に、美咲も口を尖らせた。


「うん……たぶん、何かムチャ振りしてくるよ。“現地で実演してください”とか、“予告なしで審査員が来ます”とか。あの手の人って、失敗させるためのイベント企画してくるからね」


イヴリンは黙ってそのやり取りを聞いていた。慎重な性格の彼女は、永島の存在を考えると、イベントへの参加に踏み切れないでいた。ラヴィはいつものように「盛り上がってこー!」と乗り気だったが、それは彼の楽天的な性格ゆえのこと。イヴリンの心には、現実的なリスクが重くのしかかっていた。


「うーん……リスクあるわよね。でも、出なかったら『協調性に欠ける店』って言われかねないし……どうしたらいいのかしら」


そんな時だった。イヴリンのスマホが軽く震えた。


──ピロン♪


LINEの通知。送信者:水野 幸一。


「是非、参加することをお勧めします。ご心配のところは、私に考えがあります。」


その一文を見て、イヴリンの目に力が宿った。水野からのメッセージは、彼女の迷いを一瞬で吹き飛ばした。


「…彼がそう言うなら、大丈夫ね」


「え? 水野さん?」


美咲が身を乗り出す。たまちゃんも、イヴリンの言葉に驚きを隠せない。


「うん。彼、やっぱり只者じゃないわね。参加する。全力で準備しましょう。あの永島に、私たちを甘く見たこと、ちょっと後悔させてあげなくちゃ」


イヴリンの瞳には、静かながらも強い決意の光が宿っていた。その言葉に、たまちゃんは拳を握り、ニヤリと笑った。


「了解。アヌシュカちゃんの名誉のためにも、うちが一番目立ったるわ。見とき!」


東京の下町に差し込む午後の日差しは、KIRANのガラスをきらめかせ、新たな戦いの始まりを静かに告げていた。水野の言葉が、イヴリンたちに勇気を与え、永島への反撃の狼煙が今、上がったのだ。


ーー田中オフィス 作戦会議室ーー

昼下がりの会議室で、水野幸一は静かにホワイトボードに向かっていた。週末に予定されているマーケットイベントのチラシが、彼のデスクに置かれている。主催側に「永島」の名があると知った瞬間から、彼の頭はすでに“布陣”を考えるモードに入っていた。永島が仕掛けてくるであろう「罠」を、どう逆手に取るか。水野の目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。


そこへ、ノックの音。


「おう、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン、ですよ」


軽口を叩きながら入ってきたのは、田中オフィスTokyoの嘱託マーケティング・アドバイザー、肥後勝弥だった。元大手広告代理店の敏腕マーケター。40代半ばとは思えないシャープなスーツスタイルは、彼が“イケオジ”と呼ばれる所以だ。


「いきなり呼び出して悪かったですね」


水野が振り返ると、肥後はひらひらと手を振った。


「いやいや、水野さんからの直電なんて、年末ジャンボ以上に当たり案件っすよ。で、それからドウシタ?」


水野は微笑んだ。その表情には、確かな自信が宿っている。


「敵は、地域イベントという名の“公開罠”を仕掛けてきました。永島が主導している可能性が高い。狙いはKIRANの評判失墜。だとすれば、こちらはそれを“逆利用”してやる必要がある」


「おおー、待ってました、軍師ムーブ!」


肥後はすぐさま椅子に腰掛け、メモ帳を開いた。その顔は、まるで面白いゲームが始まった子どものようだ。軽妙洒脱な彼だが、仕事となるとその集中力とスピード感は並外れている。


「まずはフレーム構成から始めましょうか」と水野。ホワイトボードにペンを走らせる。「KIRANは“癒しと智慧”を提供するブランドです。目先の物販で勝負せず、“知的で安心感のあるブランド体験”を演出する」


「ふむふむ。なら、出展ブースは“体験型”で組みますか?」


肥後がすかさず相槌を打つ。水野は頷いた。


「そう。商品陳列は最小限。主役は“対話”です」


水野はボードに「KIRAN=静かな知性」と書き、続けて以下のキーワードを列挙した。


アーユルヴェーダ・カウンセリング(簡易版)

アヌシュカちゃんの手書きPOP(破壊力:∞(ムゲンダイ))

顧客の“内面”に寄り添う対話型接客

無理に売らない、けど売れてしまう設計

「ラヴィさんは饒舌ですし、イヴリンさんには独特の“静的カリスマ”がある。そこに、奥田珠実と佐藤美咲の掛け合いが加われば…『この店、なんか好き』になる」


水野は、KIRANの面々の強みを的確に分析していた。肥後は満足そうに腕を組む。


「いいっすねー。で、永島が仕掛けてきたら?」


「それも計算済みです」


水野が低く笑う。その笑みには、相手の動きを全て見透かしているかのような余裕があった。


「“当日限定のアンケート審査”とか、“売上を発表して優劣をつける”など、商工会が不意打ちを打ってくる可能性があります。その場合、我々は“体験の質”を評価軸として持ち込み、主導権を奪い返します」


「おお、戦場で評価基準をひっくり返す作戦だ」


肥後が感嘆の声を上げた。水野は眼鏡の奥の目を光らせる。


「そうです。しかも、審査員の前に『一人の顧客』として登場してもらいます。その接客体験自体が“審査”となれば、KIRANの強みが最大限発揮される」


「よっ、さすが所長!」


肥後が拍手をする。彼の表情には、この厄介な案件を面白がっている様子がはっきりと見て取れた。


「たまちゃんには、KIRANガールズのリーダーとしてステージを盛り上げてもらいましょう。たとえば、“アヌシュカちゃんと一緒にランドセル体験!”みたいなゆるカワ企画を1つ入れれば、敵の“数字で勝負”の構造が瓦解します」


「敵は合理主義で来る、こっちはエモで迎え撃つ。完璧っすわ」


肥後はそう言って、にやりと笑った。田中オフィスTokyoの作戦会議室は、勝利への確信に満ちた空気に包まれていた。


ーー田中オフィス・会議室 午後2時ーー

午後2時。田中オフィスの会議室に重たい空気が漂っていた。それを切り裂くように、楠木匡介が口を開く。28歳、U警備システム企画部の切れ者。スーツの袖口を無言で整えながら、冷えた眼差しで水野幸一を見やった。かつて田中オフィスにシステム提案で出入りし、水野と激しい駆け引きを繰り広げていた因縁の相手だ。


「で――敵は“永島”ですか」


「……ああ。マーケットイベントを使って、KIRANを貶めようとしている節がある。たちが悪いのは、主催に商工会がいることだ。内部に根回しでもしているんだろう」


水野が静かに言うと、楠木は鼻で笑った。


「それで俺に声をかけたわけですか」


「ええ、ぜひ楠木さんのお力を借りしたくて」


水野の微笑に、楠木は一瞬眉をしかめた。確かに、水野の戦略に屈したことがある。それも一度や二度ではない。


(……あの時の借り、返しておくのも悪くない。まあ、それより――)


彼はふっと目線を落とし、懐からスマートフォンを取り出す。


「佐々木恵から聞きましたよ。“永島”ってやつが、過去に何をしてきたか」


その瞬間、空気が変わった。水野は一拍置いてから口を開く。


「佐々木さんからも情報入っているんですね」


「まあ、”彼女”ということで」


楠木はそれだけ言って、端末をテーブルに置いた。その目には、冷徹な光が宿っている。


「こいつの社会的立場を消すぐらいの材料、すでに揃ってます。どこに持っていくか、それだけ」


水野はわずかに顔を曇らせた。


「……いや、そこまでやらなくても」


「本気でそう思ってるんですか? その甘さは命取りになりますよ」


楠木の言葉は、水野の理想主義を打ち砕くかのようだった。水野は少し目を細めて、苦笑した。


「僕はただ、KIRANの安全と信頼を守りたいだけです。敵を潰すより、信じるものを立たせたい」


「きれいごと言うなあ」


「でも、君は協力する」


「……フッ」


楠木は鼻で笑って立ち上がった。その姿勢からは、彼のプライドと自信が感じられる。


「やってやりますよ、私のやり方で。永島って男がどれだけ姑息か、佐々木恵の話だけじゃなく、現地でも掴んでます。ヤツは“KIRAN潰し”を娯楽のように考えてる」


水野は頷いた。彼の表情には、楠木の激しさを理解しつつも、大切なものを守るための覚悟がにじむ。


「お手柔らかに。まだ小さな女の子が関わっている」


「……知ってますよ。アヌシュカちゃん、でしょ?」


水野が驚いたように目を瞬いた。彼の知らないところで、楠木が情報を得ていたことに驚きを隠せない。


「佐々木が写真送ってきました。あんな天使みたいな子が泣かされたら、佐々木も俺も黙っちゃいない」


そう言って楠木は、スマホの画面を水野に見せた。そこには、アヌシュカちゃんが、真新しいランドセルを背負って鏡に向かっている微笑ましい写真が映し出されている。彼女の屈託のない笑顔が、会議室の張り詰めた空気を一瞬だけ和らげた。


「この子の笑顔が、永島のせいで曇るなんて――ありえないでしょ?」


水野は黙って頷いた。それは、静かな宣戦布告であり、仲間としての確固たる決意表明でもあった。互いの間には、言葉以上の理解が生まれた。


「じゃあ、KIRANブースの“守り”と“攻め”――二段構えで組みましょうか」


楠木が言うと、水野は力強く頷いた。


「うん。あとはタイミングの問題だ。あなたの読みと手際、信じてますよ」


「へへ。言いましたね」


楠木はにやりと笑い、背筋を伸ばした。その顔には、かつて水野に敗れた悔しさとは違う、新たな闘志がみなぎっている。


「……水野さん、今回だけは“イーブン”に戻しておきますよ。次はまた、お手合わせ願いますから」


「望むところだよ」


ふたりの視線が交差する。それは、過去の因縁を一時だけ手放した、戦友の目だった。彼らの協力が、KIRANにどんな未来をもたらすのか。浅草寺裏広場でのマーケットイベントは、単なる手作り市では終わらないだろう。


ーー田中オフィス・応接室 イベント前夜ーー

真夜中に差しかかろうとする田中オフィスの応接室。照明は落とされ、間接照明の淡い光だけが、テーブルに広げられた資料を照らしていた。水野のノートパソコン、楠木のタブレット、そしてホワイトボードにびっしりと並んだ作戦コード。その緊迫した空気に、奥田珠実が小さな声で呟いた。


「……ドラマみたい……」


佐藤美咲は目を輝かせて頷く。


「タマちゃん、今、めちゃくちゃいい場面よ。絶対黙って聞いてて」


二人の後ろでは、イヴリンが「KIRAN」の販促グッズの整理をしながら、時折会話に耳を傾けている。奥田珠実は珈琲を丁寧に配り終え、最後に水野の隣に静かに腰を下ろした。


「……じゃあ、今回だけは、お互いの手の内、見せ合いましょうか」


そう切り出したのは楠木匡介だった。彼の言葉は、張り詰めた空気をさらに研ぎ澄ませる。


「で、楠木さん、プランAは具体的には?」


水野が落ち着いた声で促すと、楠木は自分のタブレットを指でなぞった。


「永島がKIRANの評判を下げるために仕込んだ“仕掛け”は2つ。一つは“無理難題の販促指令”。もう一つは“ブース配置による集客誘導ミス”だ。これ、両方ともイベント事務局内でうまくやれば、合法的に潰せる」


楠木の言葉には、確かな情報と自信が満ちていた。水野は眉をひそめる。


「裏の人脈、使うのですか?」


楠木は肩をすくめた。


「今回は使わない。お互い、正面からいきましょう」


その言葉に、水野の口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「なるほど。じゃあ、僕のほうは“プランB”。こちらは永島の指示によって困惑する一般客やスタッフに向けた“救済マニュアル”を用意してある。KIRANが『対応がスマートだった』って印象づけるんだ」


「やりますね、相変わらず細かい」


楠木が笑う。水野も笑い返した。


「君ほど大胆ではないから」


その瞬間、部屋に微かな笑い声が満ちた。それまで張り詰めていた緊張が、少しだけほどける。そして奥田珠実が、そっと一言。


「……昔は鍔迫り合いだったのに、今こうして並んでるの、なんか……いいですね」


楠木は一瞬黙り込んだ。彼と水野の間には、過去の激しい攻防の歴史がある。だがすぐに、腕を組んで言い放った。


「今回は、水野さんと手を組んだんじゃない。アヌシュカちゃんを守るためです」


水野が、優しい笑みを浮かべた。彼の瞳には、楠木と同じく、大切なものを守るという決意が宿っている。


「そのためなら、僕も“協力”しますよ」


握手は交わさなかった。だが、それは紛れもなく、本気の一時休戦。敵を前にして、背中を預け合う覚悟が、二人の間に確かに存在していた。


佐藤美咲は、小さな声で珠実にささやいた。


「これ、マジで熱いわ。イベント以上の見どころかも」


「えっへへ……たまちゃん、今日のこと、絶対忘れませんっ!」


珠実の目には、感動の涙がにじんでいる。イヴリンが小さく頷きながら、ランドセルに付けるKIRANマスコットのタグを撫でた。


「……あの子のために、守るんですね。日本の“おとな”たちが」


イベントは、明日。


マーケットという名の戦場で、正義と信頼と、そして少しの熱が交錯する。東京の下町で、KIRANを巡る静かなる戦いが、いよいよ始まる。

ーー続くーー

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