表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
田中オフィス  作者: 和子
33/90

第三十一話、インド人夫婦の成功

ーー東京・後楽園の静かな午後ーー

東京ドームのすぐ近く、飯田橋行政書士事務所の一室。窓から差し込む柔らかな陽光が、整然と並べられた書類の上に広がっている。


「水野所長はいつも書類に不備がなくて、二度見しちゃいますよ」

立花美波は、手元の書類をめくりながら微笑んだ。彼女の声には、長年の経験からくる確かな信頼が滲んでいる。


しかし、その言葉に水野幸一は軽く首を振る。「いえ、ラヴィさんが全部用意したんですよ」


その瞬間、立花の手が止まった。驚きのあまり、彼女は思わず書類を持ち上げ、もう一度確認する。

「えっ、本当に?」


彼女の視線は、水野とラヴィの間を忙しく行き来する。ラヴィ・シャルマは、静かに微笑みながら肩をすくめた。

「まあ、一つずつやれば何とかなるものですよ」


控えめな言葉とは裏腹に、彼の瞳には確かな自信が宿っていた。長年の努力が実を結び、今この場で認められたことへの誇りが滲んでいる。


水野は満足げに頷きながら、「彼は本当に努力家ですからね」と一言添えた。


立花は改めてラヴィを見つめる。彼の穏やかな表情の奥にある強い意志を感じながら、心からの称賛を口にした。

「本当にすごいですね」


ーー新たな挑戦ーー

帰化申請の書類を確認し終えた立花は、ラヴィの努力を称えながら、ふと尋ねた。

「これで一安心ですね。今後はどうされるんですか?」


ラヴィは少し考えるように視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げた。

「実は…次の目標があるんです」


立花は興味深そうに身を乗り出す。「次の目標?」

「行政書士試験にチャレンジしようと思っています」


その言葉に、立花は思わず息をのんだ。

「えっ…行政書士試験に?」


驚き混じりの声で問い返すと、ラヴィは穏やかに頷いた。その瞳には、確固たる決意が宿っている。

「はい。せっかく日本に帰化できたのですから、もっとこの国の法律を理解して、助けを求めている人の力になりたいんです」


立花は言葉を失った。帰化申請を通すだけでも大変な努力が必要だったはずだ。それなのに、さらに高みを目指そうとしている。

「すごいですね…本当に、尊敬します」


彼女は素直な感嘆を口にしながら、ラヴィの決意に触れ、何か心の奥で突き動かされるものを感じていた。


この瞬間、彼女の中に新たな思いが芽生えた。

「もしよかったら、試験勉強の相談にも乗りますよ」


ラヴィは驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。

「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」


こうして、ラヴィの新たな挑戦が始まった。


そして、それを支える人々の物語もまた、新たな章へと進んでいくのだった。


ーー東京の午後、決意の道ーー

飯田橋行政書士事務所を出た水野幸一とラヴィ・シャルマは、都会の喧騒の中を歩いていた。


ビルの谷間を抜ける風は生ぬるく、少し汗ばむ季節になってきた。アスファルトの照り返しがじわりと肌にまとわりつく。

「いつも思うんです。東京はインドより暑いって」

ラヴィがふと呟いた。


水野は軽く頷きながら答える。「湿度のせいでしょう。インドはからっとして過ごしやすいんでしょうね」


ラヴィは少し笑いながら、「ええ、でもここ十八年くらい、ほとんど日本で生活しています」と言った。

その言葉には、どこか懐かしさと決意が入り混じっていた。

「就労ビザが切れるのに合わせてインドに帰るくらいです。でも、私は日本に骨をうずめることに決めましたよ」


水野は歩みを緩め、ラヴィの横顔をちらりと見た。

彼の瞳には、迷いのない強い意志が宿っている。

「そうですか…」


水野は短く答えたが、その声には深い理解と敬意が込められていた。


二人はそのまま地下鉄の駅へと向かった。


ーー東京の夕暮れ、危機一髪ーー

ラヴィ・シャルマは歩きながら話を続けた。


「長男のアバスは完全に日本人ですよ。コンピュータと電子工作が好きなので、いつか京都本社でインターンとして働かせてもらえるとありがたいです。」


水野幸一は興味深そうに頷く。「それはいいですね。今すぐにでもアルバイトしてみたらどうですか?夏休みにでも。」


ラヴィは「それもいいですね」と微笑んだが、その瞬間、ポケットのスマホが軽く振動した。


画面を見ると、立花美波からのメッセージだった。


「直接メールをいただくのは初めてですね…」

ラヴィはスマホをスワイプし、メッセージを開いた。


「行政書士試験の合格、お祈りしています。受かったら、うちの事務所で働きませんか?」


ラヴィは軽くうなずいた。美波らしい気遣いだ。

しかし、次の行を読んだ瞬間、彼は歩道で一瞬つまずいた。


「मैं आपसे प्यार करता हूं, कृपया」


ラヴィの顔がみるみる赤くなる。


——え、ちょっ…!美波先生、何を言ってるんですか!?

慌ててスマホを再確認。ヒンディー語の翻訳を試してみると——


「私はあなたを愛しています、お願いします」


ラヴィは青ざめた。

「イヴリンに見られたら殺される!!!」


妻のイヴリンにこのメッセージを見られたら、田中オフィスどころか、地球から消される可能性すらある。


慌てて返信する。

「先生…これは、どういう意味でしょうか?」


数秒後、美波から返信が来た。

「えっ!?ちょっと待ってください!!!」


さらに数秒後、修正メッセージ。

「あっ!!!違います!! 'आप से प्यार है'(尊敬しています)って書こうとしたんです!!!'मैं आपसे प्यार करता हूं'になってしまいました!!」


ラヴィは肩をすくめ、深く息をついた。

——なんだ、そういうことか。


だが、念のためメッセージ履歴は消去する。


「うん…この誤解だけは、一生残してはいけない。」


飯田橋の夕日を背に、ラヴィは一つの危機を未然に防いだのだった。


ーー希望の小さなガッツポーズーー

静かな朝だった。


冬の柔らかな光が、川沿いの団地のカーテン越しに差し込んでいる。まだ子どもたちは布団の中。台所では、イヴリン・シャルマが小さく鼻歌を歌いながら、湯を沸かしていた。


リビングのテーブルに座るラヴィ・シャルマは、真新しいハガキを両手でしっかりと持っていた。

「イヴリン――!」

声を張りすぎないようにしながらも、抑えきれない興奮が滲む。


「うん? どうしたの?」

イヴリンが顔をのぞかせる。


ラヴィは言葉の代わりに、その通知書を掲げた。

表には、大きなゴシック体でこう印字されていた。


『令和○年度 行政書士試験 合格通知』


一瞬、時が止まった。

イヴリンの目がハガキに、そしてラヴィに向き直る。


ラヴィは口元に笑みを浮かべ、そっと右手で「やったぞ」と小さなガッツポーズをつくった。


イヴリンの顔がほころぶ。

「ラヴィ……ほんとうに? やったのね!」


駆け寄ると、合格証を抱きしめるようにラヴィに飛びついた。

「6ヶ月……あなた、信じられないくらい頑張ったもの」


彼女の目は少し潤んでいた。


ラヴィはそれに気づき、そっと彼女の背中をさすった。

「君がいたからだよ、イヴリン。模試の解説、寝る前の法用語クイズ、弁当まで作ってくれて……本当にありがとう」


イヴリンは微笑みながら、そっとハガキを撫でた。

「子どもたちにも言わなくちゃ」


「でも、まずは水野さんに連絡しよう。きっと喜んでくれる」

ラヴィはスマホを取り出しながら、ふと去年の春のことを思い出していた。


あのとき、彼はただのSEだった。


だが今、彼は新たな道を歩み始めようとしている。


そして、その隣には、変わらず支えてくれるイヴリンがいた。


ーー回想:すべては、あの面談から始まったーー

「なぜ行政書士の資格を取りたいのですか?」

水野幸一は、穏やかな口調ながらも、ラヴィ・シャルマの目をじっと見つめて尋ねた。


田中オフィスの一室。


ラヴィは、かすかな緊張を感じながらも、言葉を選ばずにはいられなかった。

「私は、この日本で、家族の将来をしっかりと築きたいのです。子どもたちが成人する前に、私は帰化して、日本社会の一員として責任を果たしたい。法律を学び、それを生かして、自立した市民になりたいと思っています」


水野は、少しだけ口元を緩めた。

「いい目をしてる。……帰化は、先に済ませましょう。行政書士になるには日本国籍が必要だ。段取りをつけます。信頼できる行政書士を紹介しましょう」


その言葉に、ラヴィは深く息を吸い込んだ。


この瞬間、自分の人生が大きく動き出したことを感じていた。


そして数日後、ラヴィは正式に帰化の手続きを依頼し、同時に通信講座への申込みを済ませた。


すべては、あの面談から始まったのだった。


ーー家族の未来を、法で守るーー

合格通知を手に、ラヴィ・シャルマは深呼吸した。


6ヶ月。1日4時間。週末は子どもと遊ぶ時間を削って10時間。


それでも、ラヴィは後悔しなかった。むしろ、自分にとって必要なプロセスだったと確信していた。

「これで、ようやくスタートラインに立てる」


水野幸一の言葉が脳裏に蘇る。

「法は盾にもなるし、道標にもなる。だが、自分の人生を守るのは自分自身だ。ラヴィ、君ならできる」


その言葉の意味を、今ならはっきりと理解できる。


まもなく、アバスとアビシェクが眠そうな顔でリビングにやってきた。

「パパ、どうしたの? なんか、うれしそう」


ラヴィは合格通知を見せ、優しく笑った。

「パパ、日本の法律の試験に、受かったんだよ」


子どもたちの目がぱっと輝く。

台所からイヴリンが笑いながら、小さなホットケーキを差し出した。

「今日はお祝い。……ラヴィ、本当におめでとう」


ラヴィはその温かい言葉を胸に刻みながら、これからの道を思い描いた。


行政書士として登録し、外国人支援やビザ申請、地域の多文化相談窓口などで力を発揮していく。


そのとき——


ふわふわのパジャマ姿で、寝ぐせだらけのアヌシュカが廊下から顔を出した。

「パパー? なんでみんな、うれしそうなの?」


まだ目は半分閉じていて、ぬいぐるみのウサギを片手に抱えている。


ラヴィは、少し膝を折って目線を合わせると、そっと言った。

「アヌシュカ、パパね、日本の勉強で、とってもむずかしいテストに合格したんだよ」


「すごーい!」

彼女はぴょんと跳ねて、何がすごいかはまだよくわからないまま、でも家族の笑顔を見て自然と笑った。


イヴリンがくすっと笑いながら、アヌシュカを抱き上げる。

「アヌシュカ、今日ね、パパは“日本の先生”みたいな人になる準備ができたの。だから、パパに“おめでとう”って言ってあげて」


「……おめでとー、パパ! だーいすき!」

その声に、ラヴィの胸が少し熱くなった。


自分が選んだこの国で、自分が守りたいと思った家族が、こうして喜んでくれている。


それは、何にも代えがたい「答え」だった。


ーーもったいないですよーー

帰化申請の手続きもいよいよ大詰めに近づいたある日。

ラヴィ・シャルマは、田中オフィスの一室で、資料の整理を手伝ってくれていた水野幸一所長と向かい合っていた。


机の上には、整理された納税証明、住民票、職務経歴書、日本語能力を証明する文書――

そのすべてが、帰化に必要な「自分のこれまで」と「これから」を語っていた。


「ラヴィさん、これ……よくここまで整えられましたね。完璧ですよ」

書類を見終えた水野が、ふっと息をつきながら感心したように言った。


「ありがとうございます。実は……行政書士のテキスト、2年前から少しずつ読んでたんです。帰化のこと、ちゃんと理解して進めたくて」

ラヴィは、少し照れたように笑った。


「え? 独学で?」


「はい。仕事が終わってから、毎日30分か1時間くらい。でも私も40歳になりましたし、いずれ、引退後はイヴリンの経営する雑貨店を手伝うつもりでした。ITの現場も、若い人に任せる時期かなと…」

そう言いながら、ラヴィは柔らかな表情を浮かべていた。


自分のキャリアを振り返りつつ、新たな生活基盤を築こうとする穏やかな決意。


だが、水野はその言葉に、ほんの少し眉を寄せた。

「ラヴィさん……それ、ちょっともったいないですよ」


ラヴィは目を丸くして水野を見つめた。


「え……?」


「ラヴィさんほど、日本語ができて、法制度の勉強をしていて、論理的思考力もある人が、行政書士にならないなんて。もったいないですよ。しかもご自身で帰化の理解もしていて、家族の将来まで視野に入れて行動してる。これはもう――資格を取って、誰かの力になるべきだと、僕は思います」


その言葉は、静かに、だが確かな重みをもって、ラヴィの胸に届いた。


「行政書士の勉強……難しいですよ。でもラヴィさんなら、6か月あれば十分可能です。帰化の申請が通ったらすぐ登録できるように、段取りも僕が見ます。家族の支えもあるでしょう?」


ラヴィはそのとき、はじめて、自分が「社会に対して何かを返せる人間」として見られていることに気づいた。


IT技術者として働いてきたが、それは“技術者”としての顔。

だが今、水野所長は、“日本で生きていく人”として、自分を見てくれている。


「……わかりました。やってみます」

ラヴィは、静かにうなずいた。


それが、人生の次の扉を開けた瞬間だった。


「家族を守るために日本を学ぶ」という動機は、やがて「他者の人生を支える知識を持つ」という志へと変わっていく。


彼の背中にはまだ、小さな娘・アヌシュカの「おめでとう」が響いていた。


ーー仲間と共にーー

行政書士登録を終えたその日、水野幸一とラヴィ・シャルマは丸の内線後楽園駅近くにある小さな事務所の扉を開けた。


そこは、彼の帰化申請の手続きを一切取り扱った、飯田橋行政書士事務所だった。


午後の光がガラス越しに差し込み、木目調の机が並ぶ室内には、ホワイトボードにびっしりとミーティングの予定が書かれている。


「おつかれさまでしたね、ラヴィさん!」


まだ若手の女性行政書士・立花美波が、顔を上げて笑顔を向けた。


彼女は、30代前半で行政書士事務所に籍を置いて5年になる。語学も堪能で、ベトナム・インドネシア人などの日本での就労支援を積極的に手がけていた。


ラヴィが帰化を希望していることを知った水野所長から、この事務所を紹介されたのだ。


「正式登録、おめでとうございます。これでようやく、ラヴィ“行政書士”が誕生ですね!」

立花の言葉には、控えめながらも、確かな信頼と期待がにじんでいた。


「ありがとうございます、立花さん。ここまでこれたのは、本当に、あなたのおかげです」

ラヴィは深く一礼した。


だが、立花は少しだけ首を振る。

「いえ、決めたのはあなたです。それに、あなたの受験勉強を支えてくれた水野さんや、奥様のお力だと思います。…でも、最初に会ったとき、なにかを成し遂げてくれる人だと思いましたよ」


ラヴィは思わず笑った。


かつての職場・Vシステムでは、無茶な条件で受注を優先し、スピードと成果主義に翻弄されながら、黙々と仕事をこなしていた。


技術者としての評価は高かったが、それ以上でも以下でもなかった。


だが、水野所長は違った。

――「技術は手段。ラヴィさん自身が、人の役に立てる資格を持つべき人材なんです」


そう言って、ラヴィ・シャルマに声をかけ、行政書士の勉強を本気で勧めた。


半年後。水野の見立ては正しかった。


「さて、これで東京事務所も、士業3本柱が揃ったわけですね。司法書士・行政書士・公認会計士」

立花が微笑みながら言う。


「私の行政書士事務所は、アライアンス『法務システム連携部』として、田中オフィス東京事務所とお互いの得意分野を生かして、法務からIT、国際就労帰化支援までサポートできるビジネスパートナーシップを拡大してまいりましょう」


「それ、いいですね!」と水野が笑う。

「まあ、名刺より仕事です。うちは4人ですが、1人10人分の仕事してますから」

水野の声に、立花が小さく笑い、頷いた。


ラヴィはその空気が心地よかった。


それぞれの専門性がありながらも、境界を越えて助け合う。


「士業×IT」という今までになかった柔軟なパートナーシップ。


「ラヴィさん、今後、在留資格関連や中小企業の外国人雇用について、あなたの知見が生きます。言語・文化・制度の“橋”になってください」


立花の言葉に、ラヴィは静かにうなずいた。

「はい。僕が通ってきた道だからこそ、伝えられることがあると思っています」


そのとき、スマホに写真と小さな通知が届いた。

《イヴリン:アヌシュカが保育園で“パパはけいむしょし”って言ったよ笑》


ラヴィは吹き出しそうになりながら、画面を見つめた。


「けいむしょし」――


それはたぶん「ぎょうせいしょし」のつもりだったのだろう。


「かわいいなあ、アヌシュカちゃん」


「ホント、早く会ってお話したいわ、アヌシュカちゃん」


水野と立花がスマホを覗き込みながら笑った。


こうして、田中オフィス東京事務所の新しいページが開かれた。


少人数、だが高密度なスキルと信頼のネットワーク。


士業とIT、国籍も経歴も異なる仲間たちの手で、未来への足場は静かに、確実に広がっていった。


ーーワンストップの灯ーー

「“この案件、うちで全部見られますよ”って言ったときの、お客さんの顔が好きなんです」

ある日の午後、水野幸一がぽつりとつぶやいた。


ここは田中オフィス東京事務所。


4人の精鋭チームが、この春、本格的に動き出していた。(そしてもうすぐ5人)


司法書士・行政書士・公認会計士というトリプルライセンスを持つ水野幸一。 新たに加わった行政書士ラヴィ・シャルマ。 そして、Vシステム出身の若手技術者、倉持渉(27)と佐藤美咲(22)。


それぞれが異なる背景を持ちながら、「困っている人を助けたい」という根っこの想いが、自然にチームを一つにしていた。


ある中小企業からの相談。

「外国人スタッフを雇いたいが、在留資格や労務管理が不安。しかも業務システムも古くて…どうすればいいのか、さっぱり分からない」


以前なら、社労士、行政書士、IT会社へとバラバラに相談しなければならなかった案件だ。


しかし、ここは田中オフィス東京事務所。


「まずは、就労ビザ関連の手続きですね。これはラヴィさんが対応できます」

水野がスムーズに引き継ぐと、ラヴィが落ち着いた表情でうなずいた。


「はい。企業側の体制も整えていきましょう。求人票、勤務条件書、あと社内就業規則の整備も必要になります」


「日本語と英語の対応が必要なら、文書翻訳も私がやります」


書類の整備が進む間、後方ではすでに倉持と佐藤が社内ネットワークをチェックしていた。

「メールの暗号化、まったくできてないですね…」

「業務アプリはクラウド化できますよ、今なら補助金対象になります」


佐藤は手元のタブレットを操作しながら、にこっと笑った。


「社内ポータルは、京都本社の奥田さんに教わってやってみましょうか?WordPressとチャット連携ならお任せください。」


「さすが、美咲ちゃん」


ラヴィがその手際を見てつぶやく。


「うふふ。奥田たまちゃんにも褒められたいですし~」


事務所の裏手では、休憩中にたまちゃん(田中オフィス本社)とLINEでオタクトークを交わしていた。


案件完了まで、2週間。


企業からの評価は高かった。


「まさか、ビザ手続きから社内IT環境まで、全部お願いできるなんて…」


これが田中オフィス東京事務所の真骨頂だった。


法務と技術、言語と制度。 あらゆる“つながり”がここにはある。


ある日、仕事終わりに神楽坂の細い路地を歩きながら、ラヴィがぽつりと呟いた。

「Vシステムにいた頃は、毎日が戦いでした。敵と戦うんじゃなくて、環境と、自分と。…でも、ここは違います」


「うん、そうですね」

倉持がとなりでうなずく。彼もまた、劣悪な残業体制と成果主義に疲弊していた一人だ。

「やっと、“まっとうに努力すれば報われる場所”に来た気がします」


「行政書士、ちゃんと目指しますよ。俺も、ラヴィさんみたいになりたいです」

ラヴィは笑った。


「あなたは、あなたのままでいい。僕もようやく、自分でいられる場所を見つけただけです」

東京の片隅。小さな事務所から始まったこのチームが、これからもっと多くの企業や個人の“困った”に寄り添い、支えていく。


行政・登記・税務・IT。 すべてが“ここで済む”という安心感を提供する、新しい形の士業オフィス。


そして、そこには——


異国から来た一人の父親が、 かつて自分が欲しかった「支え」を、誰かに与える側へと変わっていく姿があった。


ーー輝きのかけらーー

その日は、佐藤美咲が朝から異様にテンションが高かった。

「み、見てください、水野さんっ!」

美咲は水野幸一の前で左手を差し出した。


小ぶりだが光沢のある天然石が、シルバーの土台に美しく収まっている。

しかも、よく見ると石の周囲には花びらのような細工が施されていた。


水野は目を細めながら、その繊細なデザインをじっと見つめる。

「……綺麗ですね。あれ、これは…」


「そうですっ!ラヴィさんの奥様、イヴリンさんの手作りなんです!」


「えっ、これ手作り?」


「はい!彫金まで自分で!珠実ちゃんにもあげたら、めちゃくちゃテンション上がってて!」


きっかけは数日前。


ラヴィが佐藤美咲に、こっそり妻イヴリンが趣味で作ったアクセサリーをプレゼントしたのだ。


「ほんの、お試しですけど。あとサポートをしてくれた奥田珠実さんにも」と控えめに言って渡した石のペンダント。


美咲は思わず悲鳴を上げた。

《これ、えぐい…てか、なんで売ってないんですか!?》 《むしろ、私、買わせてくださいって感じ!》


珠実からも長文LINEが届いた。

《ラヴィさん、ありがとう〜!!めっちゃ好み!わたし普段アクセとか付けないけど、これは別。オーラある!》


それを見ていたイヴリンが、そっと言った。

「ねえラヴィ。私、お店を持ってもいいかな?」


ラヴィはしばし沈黙し、にっこり笑った。

「絶対、成功するよ!」


イヴリンの新店舗は、墨田区の古いビルの1階。


通りに面したガラス戸越しに、天然石の輝きと小さなトンカチの音がちらちらと見える。


店名は 《ミネラルショップKiranキラン


ヒンディー語で“光の一筋”を意味する言葉だ。


「天然石と彫金が一緒になってて、その場で教えてもらえるの、初めてでした!」

と女性客が笑顔で帰っていく。


ラヴィは店のレジ奥でお茶を淹れる。

「まさか、日本で“個人事業主”になるとはね…」


とつぶやく彼に、イヴリンは少し誇らしげに返す。

「あなたが変わったからよ。私はずっと、きっかけを待ってただけ」


一方その頃、田中オフィス本社には、ちょっとした波風が立っていた。

「ウチには作ってくれんのか?!」

経理担当・佐々木恵から、やや怒り口調の社内メールが届いたのである。


水野はそれを見て、苦笑しながらラヴィに転送した。

《恵さんにも贈った方がよさそうですね。できれば、ちょっとシンプル目のやつで…(苦笑)》


ラヴィはスマホを見ながら、ふっと笑った。


こうして、ラヴィの家にも、“光の一筋”が差し込んできた。


行政書士試験の勉強と、家庭と、そして新しい東京生活。


「人生って、40からが本番だね」

水野のつぶやきに、ラヴィは静かに頷いた。

ーー続くーー

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ