第二十九話、竹中教授、ビジネスの世界へ
ーー境界を越えて ― 竹中顧問、新章へーー
大学の職員室、その一角。コーヒーの湯気がゆらゆらと立ち昇る中、古参教授たちが丸テーブルを囲んで談笑していた。
今日の話題はひとつ。
竹中教授の“退職”だった。
「竹中さん、辞めるらしいけど、もう次の就職先が決まってんだって?」
教授Aが眉をひそめて口を開く。
「うん、決まったらしいね。地元の司法書士事務所……田中オフィスとかいうところだとか。ま、あんな短期間で次を決めるなんて、世渡り上手だよ」
教授Bが苦笑する。
教授Cはフンと鼻を鳴らした。「世渡り上手?いやいや、ああいうのを“小賢しい”って言うんだ。大学に残って研究を極めることこそ、研究者の本来あるべき姿だろうに。リスクを取るだなんて、見当違いも甚だしいよ」
三人は顔を見合わせて、声を潜めて笑った。
しかしその笑いの裏にあったのは、揶揄ではない。驚きと――そしてどこかに、安堵や妬みの入り混じった複雑な感情だった。
その頃、竹中教授は黙々と荷物をまとめていた。
長年過ごした研究室の机には、書きかけの原稿、論文雑誌、そして折りたたまれた白衣が残っている。
古参教授たちの噂話が直接耳に届くことはない。それでも、その空気は肌で感じ取れる。
ふと、彼は笑った。自嘲でも、挑発でもない。未来を見据えた穏やかな微笑。
(――学問は、閉じた世界だけのものじゃない。世界に出て、初めて見えるものがある。もしこのまま大学に留まっていたら、俺の信念は、ただくすぶっていただけだったろう)
そう心の中で呟いた彼の瞳は、もう新しい舞台を見つめていた。
向かう先は、田中オフィス。
そこでは「最高顧問:Top Senior Advisor」として、単なるアドバイザー以上の働きが求められていた。地域から、そして日本から、世界へ。そんな野望を掲げる小さな組織の、変革の火種となるために。
「……さて、半田くんが話していたな。水野さん、という人物。どんな人なのか、早く会ってみたいもんだ」
竹中は呟いた。期待、不安、情熱。その全てを包み込んだような、実に人間らしい表情だった。
ーー京都・田中オフィス本社ーー
入社から数週間。竹中顧問はすでに、社内の誰もが一目を置く存在となっていた。
講義で鍛えた話術は、営業現場でも存分に発揮された。
企業の経営陣と一歩踏み込んだ議論を交わし、現場の悩みに真摯に耳を傾ける姿に、営業担当の橋本や稲田も感化されはじめていた。
ある日、地方の中堅企業での商談を終えた直後、社長が竹中顧問に熱く語りかけてきた。
「いやあ、まさか大学の元教授から、こんな“実務”的な話を聞けるとは思わなかった。まるで……そう、水野さんと話している時のようだったよ」
「水野さん?」と竹中が聞き返すと、社長は懐かしそうに笑った。
「彼もこのオフィスにいたんですよ。いや、今も所属してるらしいけど……とにかくすごい人だった。あんな若手が、うちの経営の核心にまで切り込んでくるとはね。水野さん以来、久々に熱が入った話ができましたよ」
また別の商談先でも、似たような反応があった。
「竹中顧問、最近水野さんにはお会いになってないんですか?彼のひとことが、我が社の変革の第一歩でしたよ。いつかまた、直接お礼を言いたいくらいです」
竹中顧問は、どこか戸惑いを覚えながらも、それらの声を受け止めた。
そして心の中で、ひとりの人物を鮮明に思い描くようになっていった。
(――水野さんか。噂には聞いていたが、ここまでとは。どの社長も、彼の話になると目が輝く。そんな人物と、同じ屋根の下で働いているのか……)
だが、すぐにその憧れを振り払うように、竹中は自身に言い聞かせた。
(いや、今はまだ会えないな。中途半端なままで、会いたくない。もっと自分を高めて、ようやく対等に話せる。そうでなければ、きっと自分が許せない)
そう決意すると、彼の足はより力強く現場へと向かっていった。
誰よりも多くの提案を行い、誰よりも深く経営者と対話し、現場に新たな風を吹き込んでいった。
「この二人が、いつか真正面から語り合うとき、田中オフィスはきっと次のステージに行ける」
その思いは、田中社長だけでなく、藤島専務や半田、水野自身にも静かに芽生えていた。
物語は今、動き始めたばかり。
大学という“箱”を飛び出した竹中顧問が、真に世界へ挑む物語のプロローグ――それが、この日だった
ーー竹中ゼミ ― マーケティングとマネジメントの交差点ーー
田中オフィスの会議室には、普段とは少し違う空気が流れていた。
いつもは静かで事務的なこの空間が、今日はまるで大学のゼミ室のような熱気に包まれている。社員たちはそれぞれ資料を手に、ソワソワと談笑しながら着席していた。空調の微かな音さえ、緊張と期待のリズムを刻んでいるかのようだ。
「よう来てくれたな、楠木さん。」
ひときわ目立つのは、派手な柄のスカーフを首に巻いた佐々木メグ姐さんだった。背筋をぴんと伸ばして座りながらも、どこか余裕のある笑みを浮かべ、隣のスーツ姿の男性に軽くウィンクを飛ばす。
「ウチ、難しい話苦手やから、彼を特別に呼んだんや。楠木さんは賢いから、わかりやすく説明してくれるやろ。」
その言葉に、他の社員たちが「え、今日、外部の人OKなの?」と一瞬ざわつくが、田中社長が手を上げて制した。
「ま、ええやろ。竹中顧問、始めてください。」
すると、前方に座っていた中年の男性がすっと立ち上がった。竹中顧問。元大学教授という経歴を持つ、田中オフィスの特別顧問だ。細身のスーツにシルバーの縁のメガネをかけた姿は、どこか学者然としている。
彼はメガネのブリッジを押し上げると、一呼吸おいて話し始めた。
「では、みなさん、お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。本日のテーマは、マーケティングとマネジメントの密接な関係性、そしてそこからイノベーションを見出す重要性です。」
その第一声からして、講義というよりむしろ演説に近い迫力があった。部屋の空気が一気に静まり返る。
竹中は一瞬、間を取ってから満面の笑みを浮かべた。
「ドラッカーの理論をご存知の方も多いでしょうが、簡単な事例を出しましょう。スマホをお持ちの方は、ユーチューブで『#総裁Z』と検索してください。」
社員たちは一瞬戸惑ったが、言われるがままスマホを取り出し、検索を始める。プロジェクターにも「総裁Z」のド派手な映像が映し出され、爆音とともに金色のスーツを着た謎の男が登場する。
「……なにこれ……!」
思わず佐々木が吹き出した。笑いをこらえながら竹中に尋ねる。
「ウチ、こんな動画がマーケティングになるなんて初めて知ったわ……教授、これどういうこと?」
竹中はうれしそうに頷くと、すかさず説明を始める。
「これは単なる派手なパフォーマンスではありません。視聴者の“感情”に訴えることで関心を集め、行動に導くという行動経済学の応用です。つまり、コンテンツを通じてブランドの価値を認知させる戦略の一環なのです。」
隣でノートに走り書きしていた楠木が、感心したように頷いて口を開いた。
「なるほど。それでは、企業が持つ価値観やストーリーをこうした形で表現することが、消費者との信頼を築く手段になるんですね。」
「その通りです。」竹中は即座に返した。「マーケティングとは、単なる宣伝活動ではない。企業が“何を大切にし、どんな未来を描いているのか”を社会に伝える営みなのです。そしてその意思こそが、組織のマネジメントに深く関わってきます。」
静まり返った会議室に、彼の声が静かに、しかし確実に届いていく。
社員たちはそれぞれに考えを巡らせていた。普段の業務ではなかなか接することのない「理論」や「物語」が、少しずつ自分たちの仕事と繋がっていくのを感じていた。
佐々木は横目で楠木を見て、ふっと満足げに微笑んだ。まるで「ほらな、来てみて正解やろ?」とでも言いたげに。
こうして、竹中顧問による「竹中ゼミ」は、田中オフィスの社員たちに新しい視点と問いをもたらし、その空間に確かな熱を残して幕を閉じた。
この熱がどこへ向かい、何を生み出すのか。
田中オフィスの未来は、すでに静かに変わり始めているのかもしれない。
ーー「竹中ゼミ」のひとコマーー
プロジェクターに映し出されたのは、ネット上で密かに話題になっている動画、「#総裁Z」。
リズミカルな音楽とともに、異様な熱量で展開される映像に、会議室の空気がじんわりと温まっていく。
奥田珠美――通称たまちゃんは、目を丸くしながらその画面にくぎ付けになっていた。
「ん?……ちょっと待って、これ……」
たまちゃんは身を乗り出し、プロジェクターの画面に視線を凝らす。
そして、動画の左端、ほんの一瞬だけ映った青年の姿にピンときた。
「これ、ここに見切れてるの、半田くんでしょ? この影と顔つき、見間違えようがないわね!」
不意に名前を呼ばれた半田直樹は、やや焦った表情で前のスクリーンを覗き込んだ。
「えっ? あー……これ、僕が20歳ぐらいのときに撮ったやつだな。懐かしいなぁ。竹中教授に言われて、ゼミのメンバーで編集してアップしたんだよ。まさか、こんな形で再生されるとは……」
彼の目に、遠い日の記憶が蘇ってくる。
しかし、感傷に浸る間もなく、たまちゃんの鋭い突っ込みが飛ぶ。
「へ~このころはまだ顔が“シュッ”としてるね、半田くん!」
「じゃ、今どんだけやん! そんなに変わってないっしょ!」
思わぬ掛け合いに、会議室がぱっと明るくなった。
何人かが笑いをこらえきれず、くすくすと声を漏らす。
その中で、メグ姐さんが頬を緩めながら口を開いた。
「半田、ええやん。若いころの努力が今の成果を作っとるんや。シュッとしてたかどうかなんて、どうでもええやろ。ちゃんと今も頑張っとるんやから。」
メグ姐さんの言葉に、たまちゃんも静かに頷いた。
半田は少し照れたように笑いながら、背筋をすっと伸ばす。
「ありがとう、なんか、ちょっと救われた気がする……」
そこへ竹中顧問が、穏やかな眼差しを半田に向けた。
「その通りです。半田くん、君の努力は私もよく知っている。この動画での経験が、今の田中オフィスのITチームの礎になっている。自信を持ちなさい。」
言葉の端々に、教師としての誇りと、生徒への信頼がにじんでいた。
和やかな空気の中で、「竹中ゼミ」は講義という枠を超えて、田中オフィスの仲間たちが互いの過去を知り、つながりを深めていく場になっていた。
知識だけでなく、思い出や笑いも交差するこの空間こそが、創造力の源泉なのかもしれない。
たまちゃんは、横に座る半田をちらりと見て、小さく微笑んだ。
「シュッとしてない」彼が、今ここでみんなに頼りにされている――その事実に、ほんの少しだけ尊敬の眼差しを向けながら。
ーー「竹中ゼミ」——実践から学ぶーー
午後の柔らかな陽光が、会議室のブラインド越しに差し込んでいた。田中オフィスの一室。ホワイトボードの前にはモニターが設置され、竹中顧問が主宰する「竹中ゼミ」がちょうど佳境を迎えていた。
モニターには、行動経済学の実践事例を紹介する短いドキュメンタリー動画が流れていた。視聴を終えた参加者たちは、各々の感想を語り合っていたが、ふと橋本和馬が手を挙げて言った。
「この動画のコメント欄、ちょっと覗いてみたんですけど……『そんな都合のよい結果になるわけがない』とか、『行動経済学なんて結局、机上の空論だ』っていう書き込みがいくつもあって……。なんだか少し不安になっちゃいました。」
ざわりと一瞬、空気が揺れたような沈黙が広がった。
だが、その静けさを破ることなく、竹中顧問は静かに目を開き、ゆっくりと会議室を見渡した。そのまなざしには、長年の思索と実務の経験からにじむ重みがあった。
「批判もね、大切な意見の一つなんですよ。」
淡々とした口調で、竹中顧問は言葉を紡ぐ。
「確かに、学問は万能ではありません。人の行動を理論で完全に予測することはできない。ですが——そこが面白いんです。現実と向き合い、実践の中から学ぶ。予測できないからこそ、観察し、仮説を立て、小さく試して、また修正する。その繰り返しが、我々の知見を深めてくれるんです。」
彼はふと口元に微笑を浮かべ、昔話を語るように言葉を継いだ。
「孫子をご存じですか?『兵は拙速を聞くも、未だ巧久を睹ざるなり』——。つまり、完璧を狙いすぎて動かないよりも、不完全でもいいから早く動く。その中で勝機を見出す。守るだけでは変化は起こせません。」
竹中顧問の言葉に、会議室は水を打ったように静まり返っていた。誰もが息をひそめるようにして、その思想の深さに聞き入っていた。
奥田珠美、通称たまちゃんが、静寂の中で明るく声を上げた。
「じゃあ、竹中顧問の言う“実践”って、具体的にはどう進めればいいんですか?行動経済学を仕事に活かすってなると…なんか難しそうで。」
竹中顧問は目を細めて、若いメンバーたちを見渡した。
「良い質問ですね。まず、現場をしっかり観察すること。そこにある行動や選択、迷いのパターンを見つけるんです。次に、小さな仮説を立てて実験してみる。たとえば、配置を変えるとか、言葉の順序を工夫するとか。そして、その反応をデータとして記録し、また改善する。」
橋本が思わず頷いた。「なるほど、マーケティングと同じですね。」
「そうです。これはマーケティングでも、人事でも、経営でも通じます。理論は、現場に運んで初めて生きた知恵になる。」
その瞬間、空気がまた一段階、深く静かになった。誰もが、今すぐにでも自分の現場で「実践」を始めたくなるような気持ちになっていた。
いつもは淡々と事務をこなすメグ姐さんが、そっと一言だけ付け加えた。
「言うたら、走りながら考えるっちゅうことやな。ええ話やと思います。」
行動経済学の知識は、ただの理論にとどまらず、彼らの思考と仕事の姿勢にゆっくりと、しかし確実に根を張り始めていた。
一呼吸おいて、竹中はパチンと指を鳴らした。
「今、いいお言葉いただきましたね。『走りながら考える』。これは非常に示唆的です。机で本を読む、それももちろん大事。でもね、人間ってのは、朝起きてから夜寝るまで、ずっと歩きながら考えてるんです。ああしようか、こうしようか、これは損か得かって、脳みそフル回転ですよ。」
彼は自分の頭を軽く指で叩いた。
「この小さな司令塔が、全身の筋肉に指示を出して、経済行動を起こしてる。買う、売る、働く、休む…全部この頭が決めてる。じゃあ、なんとなく生きていくのと、意味を理解して納得して生きていくのと、どちらがいいですか?」
その問いに応えるように、メグ姐さんが少し鼻を鳴らして笑った。
「ウチは納得いかんこと、ようせんなあ。」
とたんに、空気が和らぐ。みんなの顔に、ふっと笑みがこぼれた。
稲田美穂は、控えめに手を挙げた。
「私は…あまり考えすぎず、自然な流れで生きていけるのが、一番だと思います。無理をして走るより、気持ちに合ったペースで。そういう生き方ができるように、本を読んだり、人の話を聞いたり…それも、心の栄養ですよね。」
「いいですね」と竹中が柔らかく頷く。
「“自然な流れ”も、“納得”も、“行動”があるから意味を持つ。どれか一つでは成り立たないんですよ。行動こそが、考えを磨き、考えがまた行動を変えていく。実践の循環です。」
ふと、半田直樹がぽつりと言った。
「僕は…関心のあることはとことんやっていきたいですね。正直、損とか得とかじゃなくて、面白いかどうかで動いてる感じです。」
竹中は、その言葉に満足げに頷いた。
「それも立派な実践者の姿ですよ。正解を求めるんじゃなくて、プロセスに価値を置く。私が言いたいのは、そういうことなんです。」
やがて、ゼミは次の課題に進んでいったが、その日交わされた会話は、参加者たちの中に確かな火を灯していた。
小さな実践が、大きな気づきを生む。
竹中ゼミの午後は、そんな思索と実感の積み重ねで、静かに、しかし確実に深まっていった。
ーー総裁Zの5年間ーー
田中オフィスの会議室には、やわらかな夕暮れの光が差し込んでいた。普段は少し緊張感のある「竹中ゼミ」も、今日はどこか和やかだった。予定された講義は一通り終わり、資料もホワイトボードも片付けられたあとの雑談タイム。そんな中、竹中顧問が背もたれに身を預け、ふっと笑った。
「ま、とにかく。ボクはこのスタイル――『総裁Z』を7年間も続けてきました。」
一瞬、場が静まる。その言葉には、誇らしさと少しの寂しさが混じっていた。
「学生たちには楽しんでもらえたし、SNSでもそれなりに話題になった。……でもその反動で、大学からは完全に干されちゃいましたけどね。」
沈黙の後、一番に声を上げて笑ったのは、メグ姐さんだった。
「そんなん教授らしくてええやん!普通の教授やってても、こんなおもろい話、聞けへんで!」
彼女の関西弁が場の空気を一気に軽くする。奥田珠美――みんなから“たまちゃん”と呼ばれている若手社員も、それに乗った。
「でも、教授って大学から干されてもまったく後悔してなさそうですよね。そのツラの皮の厚さ、見習いたいくらい!」
竹中顧問は吹き出しながら、指を立てた。
「ハハハ、たまちゃん、それ褒めてないでしょ。でもね、本当に後悔はしてないんだ。大学っていう枠の中だけで生きるのは、ボクには窮屈すぎる。やりたいことは、もっと外にあるからね。」
窓の外を眺める竹中顧問の目は、どこか遠い過去を見ていた。
「ドラッカーが言ってたよね。マーケティングとマネジメントこそが、イノベーションの源になるって。だったらボクのやり方も、間違ってなかったはず。理想を語るだけじゃダメ。動いて、失敗して、そこから学ばなきゃ。本気で行動してたからこそ、『総裁Z』は生きたんだよ。」
しばらく誰も口を開かなかった。その言葉の重みと、顧問のまっすぐな生き方が、みんなの心に静かに染み渡っていた。
そんな中、パソコン画面に映る過去の動画をじっと見つめていた半田が、ふっと笑みを浮かべた。
「教授、僕……あのとき竹中ゼミで学んだこと、今の仕事に本当に役立っています。SNSの影響力とか、実践からしか学べないこと……教授があの時教えてくれなければ、たぶん今の僕はいません。」
その言葉に、竹中顧問は少し驚いた表情を見せた。そして、穏やかな微笑みに変わる。
「……そう言ってもらえるのは、教授冥利に尽きるな。ありがとう、半田くん。」
しばし沈黙が流れた後、顧問は再び画面を見つめながら言った。
「それにしても、君たちと一緒に作った『総裁Z』の動画、今見ても古びてないよね。……いいチームだった。」
空気がふわりとあたたかくなる。懐かしさと、誇りと、未来へのわずかな期待が混じった、なんとも言えない感情がそこにあった。
ーー講習会本編シーンーー
ホワイトボードに、竹中顧問の手書きによる簡潔な図が浮かぶ。
「BtoBの契約構造における信頼の可視化」――そんな堅いタイトルのもと、淡々とした説明が続いていた。
そのとき、会場の後方から、ぽつりと漏れた声があった。
「……あんまりむずかしいこと、勘弁やわ……」
控えめなようで、実はよく通る声だった。
振り向かずとも誰か分かる。佐々木恵である。
会場が一瞬静まり返り、そして笑いが起きた。
竹中顧問はその声を無視せず、微笑を浮かべたまま言う。
「それは大切な意見ですね。“難しいことを噛み砕いて話せない者は、理解していないのと同じ”ですから」
そう言って、すぐにスライドの図を変え、紙芝居のような簡略図に切り替えると、「じゃあ、こういう感じでどうでしょう」と、職人肌の経理担当にもすっと入ってくるような言葉で言い直す。
そのとたん、場がどっと和んだ。
佐々木はそこで手を挙げた。
「顧問、ほんま、うちの田中オフィスでは、お茶ひとつ取ってもええもん使てますねん。お客さんとこで恥かかへんように、コストかかってますよ」
「それは大切な視点です」と竹中が返す。
「“もてなし”というのは、サービス業だけの話ではない。行政書類を出すにも、お茶を出すにも、信頼される態度と仕組みが必要ですね」
また一つうなずきの波が起きる。
そんな雰囲気の中で、佐々木がまた手を挙げる。
「半田、あんたこの間ゆうたやん。インボイス適格領収書しか受け付けへんって。ほな顧問、たんますわ。講師料の領収書、しっかりお願いしますよ~?」
その場にいた半田が顔をしかめながらも苦笑し、竹中顧問は笑いながら頷いた。
「もちろん、登録番号入りで発行させていただきます。最近は、現場のほうが制度に敏感ですね」
その一言で、講習会は一気に「一方的な講義」から「双方向の学び」の場に変わった。
講習会も終盤に差し掛かり、参加者の顔にわずかな疲れと充実感がにじんでいた。質疑応答の時間になり、誰が口火を切るかという空気の中で、控えめに手が挙がった。
佐々木恵だった。
普段はバックオフィスに徹する彼女が、人前でこれほど多くの意見を述べるのは珍しい。会場がほんの少し静まり返る。
「……あの、ちょっと個人的な話になってしまうんですけど」
彼女の声は落ち着いていて、意外なほど自信に満ちていた。
「私、正直なところ……」
そこで一瞬言い淀んでから、続けた。
「顧問って、なんか、あんまり仕事せんと、お茶飲んで新聞読んで定時退社して、そんなイメージやったんです。……失礼な話で、すみません」
小さな笑いが会場に漏れる。
竹中顧問は、にっこりと笑ったまま微動だにしない。場の空気が、佐々木を後押しするようだった。
「でも、社長といっしょに営業にも出られて、ちゃんと話をまとめて、仕事とってきはるんです。ほんとにすごいなぁって思いました。いまは……ほんまに、尊敬してます」
言い終わると、少し赤くなって座った。場内には自然と拍手が広がった。
竹中は、ゆっくりと立ち上がると、やや照れくさそうにマイクを握った。
「いやあ……それ、実際のところ、だいたい当たってますよ」
会場がどっと笑いに包まれる。
「ただ、私も一度“引退”した身ですから。今は、現役の皆さんが何か少しでも考えるきっかけを作れたら、それで充分だと思ってます。……でも、誉められるのは悪い気しませんなぁ」
その言葉にまた笑いが起き、空気がほぐれた。
講習のあと、何人かが竹中顧問のところに近寄って、個別に質問をしていた。奥のほうで、楠木が黙って立ち聞きしていたのも、誰かが目にしていたかもしれない。だが、彼が一切口を挟まなかったことに、ある種の「学ぶ姿勢」がにじんでいたのも、確かだった。
佐々木は、会場の隅に座る一人に鋭い視線を向けていた――楠木である。
彼がなにか言いかけたように身じろぎすれば、すかさず声を飛ばす。
「そやな?……って、何か言おう思たんちゃう? 手ぇあげんかいな」
楠木は、まるで動きを読まれていたように驚いた表情を見せて、小さく肩をすくめる。
(……ほんま、よう見てるわ)
内心そう思いながらも、軽く会釈して沈黙を守る。
楠木の思考が少しでも“質問に立とう”と動く前に、すでにメグ姐さんの目がそれを封じているのだ。
「ウチの新戦力、見せたるけど触らせへんよ」
まるでこう言っているかのようだった。
それもそのはず。楠木をこの講習会に出すよう、社長に直談判したのは他ならぬ佐々木本人だった。
「ちょっと様子見させてほしいんですわ」と言った彼女に、田中社長は「ええよ」と軽くうなずいただけだったが、あの社長があっさり許可したのは、佐々木への厚い信頼ゆえだ。
(社長もようわかってる。あの子、最近油断ならんのや)
講習会のあいだじゅう、佐々木の視線は楠木の横顔をしっかり捉えていた。
“メグ姐さん”の真骨頂は、元大学教授だろうが誰であろうが、物怖じせずズケズケものを言い、場を仕切るこの胆力にある。
夜風にほどける言葉たち 〜田中オフィス 親睦会にて〜
ゼミが無事に終わると、空気がふっと軽くなった。田中卓造社長が席を立ち、少しおどけたような笑顔を見せた。
「はいっ、堅い話はもうこのへんで終わりにしましょか。皆さん、今日はおつかれさんでした。ええ店、予約してますねん。今夜は貸切です。さあ、親睦会といきましょ」
自然な拍手が湧き上がる。仕事の顔からふっと抜けて、スタッフたちは一斉に資料を閉じ、立ち上がる。だが、その輪の中に、控えめな影がひとつあることに気づく人は少ない。
スナック「マダム小春」は昭和の記憶がふわりと残る空間だった。照明は柔らかく、どこか懐かしい曲がBGMのように流れている。奥のソファ席には竹中顧問が既に腰を落ち着けていた。グラスの中で氷が小さく音を立てている。
今夜、東京事務所からの水野所長の姿はない。誰かがふっと「忙しいみたいですね」とつぶやいたが、あえて深くは追及しない。その場にいなくても、あの人の眼は届いている――誰もがそんな感覚をどこかで共有していた。
カラオケ機の操作パネルがカウンターに無造作に置かれた。数人がスマホをいじりながら、何かを入れている。やがて、田中社長が竹中顧問の席にビールを持ってやってきた。
「今夜はありがとうございます、田中社長」と竹中がグラスを差し出す。「まず、田中オフィスの現在地について率直なお考えをお聞きしたいのですが、いかがでしょうか?」
「こちらこそ、竹中顧問のご尽力にはほんま感謝ですわ。……正直言いますと、うち、まだ未完成なとこが多いです。これまで、運と縁に助けられてきたんです。せやけど、そろそろ“仕組み”を作らんとあきません」
竹中顧問は、小さく頷いた。離れたテーブルで、控えめな楠木がグラスを片手に黙って座っている。佐々木恵の視線が何気なくその方向を見張っていた。
「現状を客観視する力が、これからの軸になりますね」と竹中顧問。「特に優先したいことがあれば、ぜひお聞かせください」
「マーケティングですね。地方から全国へ――いや、世界へ。SNSを使えば、できるはずやと思うんです。ITも、中小企業が無理なく扱えるような仕組みが要ります。今それを整えたいと思てます」
竹中は、思案顔のままグラスを傾けた。
「それは素晴らしい視点です。ブランド価値と信頼性を同時に育てる仕組み。それができれば、田中オフィスの存在感はまったく違うものになるでしょう。具体的な設計図、一緒に描きましょう」
ふと、後方の席で女性社員――奥田珠実が、マイクを手にしながら小声でぼやいた。
「デュエット曲、また田中社長と竹中顧問でとられました……」
誰が聞いたわけでもないのに、その場にいた何人かがクスリと笑う。社内チャットでその様子を逐一チェックしていた誰かが、きっと東京からコメントを送ってくるのだろう。そういう空気があった。
田中は笑ってグラスを掲げた。
「ほな、今夜は竹中顧問とのデュエットで――って、あかんあかん、他の人にも歌ってもらわんと」
その場にいなかった島原や伊原について誰も口には出さない。ただ、講習会の合間に彼らと挨拶を交わした“誰か”の存在は、空気の片隅にしっかりと残っていた。
夜はふけ、スナックの照明がほんの少し暗くなる。グラスの音、マイクの残響、ささやかな笑い声。だが、奥田珠実から、誰よりも先に情報を受け取り、対応するのはいつも東京の彼女――佐藤美咲からの社内チャットが、また水野の端末に届いた。
「たまちゃん、またボヤいてましたよ。マイク取れなかったって」
「楠木さん、竹中教授の講習では聞き専に徹してました。メグ姐さん、グッジョブでしたね」
そう、水野所長が独り言のようにつぶやいたあの一言――「最近、○○さん元気にしてるかな?」だけで、京都の温度が東京に届く。それが田中オフィスの、今の空気だった。
ーー親睦会の夜、片隅でーー
(にぎやかな親睦会の席。談笑が飛び交い、グラスが鳴る音の中、藤島専務は一歩下がった席からその様子を見つめている)
ふと視線の先、笑顔でたまちゃんの話を聞き流しながら、さりげなく楠木の表情をチラリと確認する、あの人がいる。
佐々木恵──私たちは“メグ姐さん”と呼ぶ女だ。
(少しグラスを持ち上げ、席を立って歩み寄る)
「今日はほんとうに、お疲れ様」
そう声をかけると、佐々木はグラスを置き、にっこり笑った。
「え、なんですか? ホンマ楽しんでますよ。彼氏も一緒やし♪」
さらっと、まるでなんでもないことのように。
けれど私は、笑顔の裏にあるものを見逃さない。
──そうではないでしょ。
■藤島専務・心の声
あなたは今日、仕事を終えたんです。
みんなの前では、ただの“庶務の佐々木さん”。
ちょっとお節介で、おしゃべりで、イケメンに弱い、陽気な女性。
けれど実際はどう?
社内講習会では、元教授の顧問にも物怖じせずナマの声を投げ、
楠木さんの“狙い”をすばやく察知して、さりげなく制していた。
(「ウチの新戦力、見せたるけど触らせへんよ」──その覚悟、ちゃんと届いてる)
社長は、気づいてるようで気づかない。
水野さんは、気づいていてもあえて見逃す。
でも私は、あなたの“立ち位置”を知っている。
社長が浮かれても、たまちゃんが暴走しても、
──最終的に組織を守るために、矢面に立つ覚悟のある人。
あなたは、背負っているんですよね。愛するものすべてを。
笑ってみせて、それでいいと思ってる。
守る側の人間は、いつだって笑顔でなければならない。
だけど──
あなた自身にも、陽の当たる場所で笑ってほしい。
楠木さんの光も闇も、そのまま受けとめようとしているあなたなら、
きっと自分自身の影も受け入れられる。
あなたがいつか、笑顔のまま、誰にも隠さずに“幸せだ”って言える日が来る。
私は、信じているの。
(藤島専務、そっとグラスを置き、また少し離れた席に戻る。
佐々木の笑顔と、楠木の視線の動きを交互に見ながら、ふっと息をつく)
“メグ姐さん”という女。表では穏やかで、どこか呑気で、イケメンにはちょっと弱くて──
でも、私たち幹部の間で“姐さん”と呼ばれる理由は、決して“年長”だからじゃない。
あの人は、“護る”ためなら、どこまでも腹をくくる。
社長がとぼけてても、水野さんが冷静でも、稲田さんが元気でも、たまちゃんが暴走しても──
最後に止めるのは、きっと彼女です。
楠木という男と、佐々木という女
楠木さん。あの人には才気がありすぎる。
風を読むのも早いし、動きも速い。
田中オフィスに出入りするが、どこか異質な存在。
あの日、玄関ドアの前での出会い──
あれはきっと、佐々木さんの“野生の勘”だったんだと思う。
「男前やけど、あぶないヤツや。アタシが体を張ってでも、この男から田中オフィスを守らんと…」
たぶん、その瞬間に腹は決まってたんでしょうね。
それでも惚れた。
“好きになること”と、“守る覚悟”を、同時に抱え込んだ人間の顔を、私はあのとき見たんです。
──ええ、ほんとうに。
佐々木さんには、ちゃんと陽の当たる場所で幸せになってほしい。
楠木さんの中にある闇も光も、まるごと抱きとめる強さが、あの人にはあると思います。
でも、きっとそれだけじゃない。
彼を救うのは彼女かもしれないけど、彼との関係の中で、彼女自身もまた、自分を解放していくんでしょうね。
そういう結末が来るように──私は、願っているんです。
(ふっと目を伏せて、微笑む)
ーーそう、これは……まだ途中の物語。ーー