第二十八話、見て、感じて、創れ!ーー『総裁Z』、現る
ーー「総裁Z」、田中オフィスを見参ッ!ーー
「・・・と、いう結果だゼエェェットゥ!」
スマートフォンの画面に映る派手なスーツ姿の男が、渾身のポーズで締めくくると、教室中から微妙な笑いと感嘆の声が漏れた。
「……先生、これ、講義なんですか?」
京都理工大学 情報工学研究棟A-201教室。そこはいつしか「スタジオ201(にいまるいち)」と呼ばれるようになっていた。講義という名目で集められた学生たちは、半ば強制的に“総裁Z”の撮影スタッフへと化す。その中心にいるのが、竹中駿也教授、52歳――TikTokとYouTubeで一部の界隈から熱狂的な支持を得る「教育系インフルエンサー」にして、情報工学と行動経済学を横断する風変わりな学者だった。
「見て、感じて、創れ!」
それが彼の信条であり、学生たちにはもはや合言葉だった。
◆
田中オフィスIT部門の責任者・半田直樹がこの竹中ゼミにいたのは、もう5年前のことだ。
当時、大学3回生だった半田は、専門科目の単位が足りずに焦っていた。噂で「ゼミに入れば単位が出る」と聞き、紹介されたのがこの“総裁Z”の教室だった。しかし、初回の講義(?)でいきなり「今日のテーマは“節約心理の錯覚”だ!お前はフリップ作れ!」と叫ばれ、動画撮影の小道具づくりから始まった日々が、後の人生を決定づけるとは思ってもいなかった。
「半田、お前のラズパイ持ってこい!次の回で“時限節約爆弾”を作るぞ!」
「教授、それやばいっス。TikTokでBANされます」
「なら“自己投資促進装置”に名称変更だ!いける!」
この問答も、今や思い出だ。竹中教授の思いつきに振り回されながら、半田は撮影企画力・編集技術・現場の即応力という、どんな企業研修でも教えてくれないスキルを体得していった。
やがて半田はゼミ内で「バズらせ屋」の異名を取り、教授からは「お前がプロデューサーな」と丸投げされる存在に。そして卒業後、田中オフィスのIT部門にスカウトされたときも、面接で「アルディーノもPythonも、TikTokから学びました」と言い切って採用されたのだった。
◆
時は流れ、2025年春。
京都理工大学の研究棟に、スーツ姿の半田が現れる。懐かしの教室の前で足を止め、動画撮影中の怒号が聞こえてくる。
「もっと熱く叫べェェェッ!集中力ゼロの奴らに、数式を刻み込めぇぇッ!」
──変わってないな、教授。
思わず笑みがこぼれる。教授が何を教えていたのか、今も正直よくわからない。でも確かに、彼の言葉と体験が、自分の土台をつくった。
ドアを開けると、竹中教授がこちらを向いた。
「おお、半田ァ!貴様、総裁Zに仕上がってきたかッ! お前の登場でバズり再来だァァ!」
派手なマントが舞う。
その瞬間、教室の学生たちが一斉に「Zポーズ」を取った。
◆
そして今、田中オフィスでは「竹中はん、紹介してもらわれへんやろか?」と社長の田中が言い出している。
社長いわく――
「おもろいおっちゃんやったわ、うちの『Integrate Sphere』の啓発キャンペーンにぴったりやないか!」
半田は少しだけ困った顔で、社内のホワイトボードに書かれた文字を見た。
《特別講師:竹中駿也(総裁Z)》
……また、あの声がオフィスに響くのか。
だが悪くない。今度は自分が、あの熱を受け継ぐ側に回るのかもしれない。
ーー竹中教授 vs 半田くん 〜Zポーズの午後ーー
久しぶりに訪れた母校のキャンパスは、かつてと変わらぬ風景だった。アスファルトの道に落ちた初夏の木漏れ日。見慣れた講義棟。どこかくすぐったいような懐かしさが胸に残る。
「まさか、またここに来るとはな…」
半田直樹は、ふと立ち止まり、懐かしのゼミ教室のドアを見つめた。指先が、自然とドアノブに触れる。静かに回し、そっと開けた——その瞬間。
「おお、半田ァァァ!!!」
突然、視界の中心に現れた男が、奇声を上げてこちらに向き直った。肩にはどこで仕入れたのか、ワインレッドのマントが翻っている。その中央に燦然と輝く「Z」のエンブレム。
竹中教授だ。
「貴様、ついに“ゾル・マゾラ”に仕上がってきたかッ!! お前の登場でバズり再来だァァァ!」
演劇の一幕のような台詞を放つと、教授は両腕を勢いよく広げた。その瞬間、教室にいた現役学生たちが、一斉に立ち上がり、体で「Z」のポーズをとる。きらびやかな照明もなければ、音響もないが、その異様なテンションだけで空気が震えていた。
「……相変わらずぶっ飛んでるな、この人」
半田は眉をひくつかせながらも、どこか懐かしくてうれしかった。
教授がひとしきり「Z降臨の儀」を終えたあと、静けさが戻る。
「で、今日はどうした、半田。またTikTokでも撮りに来たのか?」
「いや……ちょっと寄ってみただけです。まあ、せっかくなんで聞いておきたくて」
半田は苦笑いを浮かべ、かつての心残りを口にした。
「教授ぅ……どうして僕があれだけゼミで頑張ったのに、評価Bだったんですか…。あんなに遅くまで編集して、TikTokの撮影だって、めっちゃ尽力したんですよ?」
竹中教授は、腕を組んでニヤリと笑った。
「ふん、君がどれだけ頑張ったか、それは誰もが認めるさ。私も覚えてる。あの学祭動画の“爆発オチ”、あれは芸術だったよ」
「でしょ?」
「——だが、半田くん。君の論文、誤字脱字が山ほど残ってた」
「……え」
「しかもタイトルに“概論”って書いておきながら、概論になってなかった。段落のつなぎも雑、引用も中途半端。文章の方は、まあ……小学生からやり直してもらった方がいいかもね!」
教授の歯切れのいいダメ出しに、半田は一瞬だけショックを受けたが、すぐに吹き出してしまった。
「いやぁ……ほんま、言い方ァ!」
「だが、君は間違いなく“演出”の才能がある。社会に出て、その力、思う存分に発揮してみるといい。論文はもう書かなくていいから」
「……なんか、励まされた気がします」
「そりゃあ、そうだ。“総裁Z”だからな!」
そう言って教授は、再びマントを翻し、Zポーズを決めてみせた。拍手と歓声の中で、半田は照れ笑いしながら、心のどこかがじんわり温まるのを感じていた。
母校、そして教授は、変わらずにそこにいた。
ーーZの教え ~竹中ゼミ、バズりの美学ーー
かつて、半田くんが在籍していた竹中ゼミは、いわゆる「普通の大学ゼミ」とは一線を画していた。教室に一歩足を踏み入れた瞬間、常識の扉は吹き飛ぶ。
中央に立つのは、竹中教授――いや、“総裁Z”だった。
真紅のマントが舞い、教室の照明がスポットライトのように教授を照らす。金色に縁取られたメガネがギラリと光った瞬間、教室の学生たちは反射的に「Zポーズ」を取る。
「ひよってるやつぁいるかぁ?いねえよなあっ?!」
そのひと言で、教室の空気は戦場に変わった。
「今日のミッションは、TikTokでバズる動画を作ることだ!視聴数が1万を超えたら、単位確定だァッ!我がゼミに妥協の文字はないッ!」
学生たちは一瞬たじろぐも、次第に教授のテンションに巻き込まれていく。
その日、撮影チームのリーダーを任されたのは、我らが半田くんだった。
「教授、今日のテーマはどうしましょう?インパクト勝負っすよね?」
「うむ……今日は“ゼミ生全員で巨大フリップを使ったパフォーマンス”だ!貴様はフリップを作れ!そして、撮影の指揮もだ!責任重大だぞ、メカブレーン半田ッ!」
「えっ……了解です!」
そう言いつつも、半田くんの目は燃えていた。ゼミ生たちと共に段ボールとマジックで作り上げた巨大フリップには、堂々と「総裁Zの教え」と書かれている。
撮影が始まると、竹中教授はまさに“総裁Z”へと完全変身した。
「見ろ! 感じろ! 創れ! これが我がゼミの信条だッ! 我が名は総裁Z! これは未来への伝言ゲームだァァッ!」
手にはラメ入り指揮棒。額には汗、背後には揺れる紅いマント。そして、最後の決めゼリフ。
「・・・と、いう結果だゼエェェットゥ!」
学生たちは声も出せずカメラを回し続け、半田くんはその動画を徹夜で編集。テンポ良く切り貼りし、効果音や字幕を駆使してアップロードしたTikTok動画は、瞬く間に大学内外で話題となった。
翌朝、教室にて。
「教授、視聴数が5000を超えました!あと少しで単位確定です!」
「よしッ! 次の動画で1万を超えるぞ!お前たち、準備はいいか? ひよってるやつぁいるかぁ?いねえよなあっ?!」
学生たちから歓声が上がる。
数年後――。
久しぶりに母校を訪れた半田くんが、再び竹中教授と再会する。
「厳しいことも言ったが、君に対する私の評価は正しかったようだね。それに、君が田中オフィスの『メカブレーン』になったおかげで、地方ビジネスの変革にも貢献できるかもね。まぁ、評価は置いといて、また協力しようじゃないか。」
「そう言われると悪い気はしませんね…。教授のツンデレぶり、相変わらずですけどね!」
かつての教室は、新しい学生たちの笑い声に包まれていた。
そしてその中心には、今もなお、あの言葉が響いている。
「ひよってるやつぁいるかぁ?いねえよなあっ?!」
ーー信念という名の炎 〜竹中教授 vs 教授会ーー
京都理工大学の歴史ある大講義棟。その一室、重厚な木製の扉の奥に広がる教授会の広間には、大学の威厳を背負った教授陣がずらりと揃っていた。
長机に並ぶ顔ぶれは、物理化学、生体情報工学、数理統計といった各分野の権威者たち。だが今、この知の重鎮たちの間で議題に上がっていたのは、「学術」ではなく、ある一人の型破りな男だった。
その名は——竹中駿也。
白い麻のジャケットにジーンズ。大学教授としては明らかに異質なその姿は、彼の教育理念を象徴している。
「では次の議題に移りましょう。竹中教授のゼミ運営について…」
司会の教授が告げると、場の空気が一気に硬くなる。
まず口を開いたのは、物理学会の重鎮、古株教授Aだった。
「竹中君、君のその…TikTok活動や奇抜なゼミ演出。大学の名誉を傷つけかねん。学生たちに学術研究の重みを教えるべき立場の者が、派手なパフォーマンスにうつつを抜かすとは…本末転倒ではないかね?」
会場には、低く唸るような同調のざわめきが広がる。
だが、竹中教授はゆっくりと立ち上がった。口元には微笑すら浮かべている。
「傷がつく…か。」
彼は一拍置いて、眼鏡を外す。そして、まるで演劇の舞台に立つ俳優のように、広間を見渡した。
「それが問題だというのなら、皆さんの視点は、この時代の流れから大きくずれているとしか申し上げられません。」
その声には、驚くほど静かで、それでいて強靭な芯があった。
「私は確かに、従来の学術研究の形式からは外れているかもしれない。だが、問いたいのです。学問とは、誰のためにあるのか。」
広間に、凛とした沈黙が落ちた。
「閉じられた研究室で理論を磨くことは尊い。だが、そこから一歩も出なければ、それは“知識”という名の標本にすぎない。私は、学生たちに“行動する知”を教えたい。世界と接点を持ち、社会と響き合う学び。それを伝えるのが、私の教育です。」
彼は、堂々と、しかし静かに言い切った。
そして——次の瞬間、総裁Zが降臨した。
「ひよってるやつ?!、ばっかりですねぇ~」
その豹変に、場の空気が一変する。
「学問は牙を抜かれたペットじゃない!未来を生きる若者たちに必要なのは、知識を武器として使う力だ!TikTokも、YouTubeも、SNSも全部だ!それらを恐れて縮こまるのは、ひよった大人のやることだ!」
重苦しかった空気が、一瞬にして爆ぜた。
沈黙の中、ぽつりと手が挙がる。
若手教授が立ち上がった。
「…確かに、型破りだと思っていました。でも、竹中ゼミの卒業生たちの中には、ベンチャー企業で活躍する者、地方自治体のデジタル政策を主導している者もいます。これを見て、納得しました。先生のやり方も、ひとつの“正しさ”だと。」
竹中教授はその若き同僚を見て、にこりと微笑んだ。
「賛同していただけるなら、ありがたいですね。」
そして、彼は古株教授たちへ向き直る。
「ですが、理解される日が来なくても構いません。未来は、過去のコピーでは創れない。私はこれからも、学生と一緒に“次の学び”を形にしていきます。」
その日の教授会は、決着こそつかなかったが、明らかに風向きが変わった。
竹中教授の言葉は、閉ざされた象牙の塔に、一筋の風を送り込んだ。
変革は、いつだって異端から始まる。
そしてその日、教授会を去る竹中教授の背中には、確かな信念が燃えていた。
ーー未来への飛躍、竹中教授、想像から実行へーー
京都理工大学、午後の陽が差し込む会議室のドアが、重たく閉じられた。
教授会の議論を終えた竹中教授は、まるで戦場から戻る兵士のように静かにその場を後にした。古い絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、彼はふと立ち止まり、大きな窓越しに京都の街並みを眺めた。遠くに見える五重塔。ゆるやかな山並みと、静かに流れる鴨川の水面。そのすべてが、彼にとっては未来への静かな導入に思えた。
「男の嫉妬は女性より強烈だからなぁ…」
ぽつりと漏らした独り言は、苦笑いとともに空気へと溶けていく。彼の表情には、諦めにも似た穏やかさと、しかしどこか火種のような決意が浮かんでいた。
「まぁ、僕があの連中のメンツを潰しちゃったんだから仕方ないけどね。」
彼は心の奥で、もはやこの大学に長く留まることはないと感じていた。学内の変化は緩慢で、保守的な力があまりにも強い。それでも、教授会の最後に若手教授が示した理解の言葉だけが、彼の胸の中で柔らかく響いていた。
――次は、どんな世界に飛び込むか。
竹中教授の想像が、音を立てて動き出す。
「大学の枠を飛び出して、もっと大きな舞台に立つのも悪くないな…。たとえば、地方ビジネスの支援。行動経済学を現場で試すリアルな実験。そして…総裁Zとしてのグローバル展開、なんてのも面白そうだ。」
彼の脳裏に、いくつものビジョンが鮮やかに広がった。
地方から世界へ広がるプロジェクト
SNSを活用した地域企業のマーケティング支援。学生たちとともに地方に赴き、若者の目線でその土地の魅力を切り取り、世界に発信する。
行動経済学のリアル実験場
仮説を理論で語るだけでなく、現場で人々の行動を観察し、新しい経済のあり方を探る。街そのものが研究室となるような、動く学問の場。
総裁Zの国際的活動
TikTokとYouTubeを駆使し、英語や多言語で教育コンテンツを発信。各国の若者とワークショップで直接対話し、新しい学びの場を築く。バーチャルでもリアルでも、彼は「総裁Z」として世界を駆け抜ける。
「孤独は、いつもつきまとうもんだ。」
歩きながら、彼はふと心の中で呟いた。
成功も挑戦も、理解されるまでの道はいつだって孤独と隣り合わせだ。しかし、彼には確かに仲間がいた。半田くん、水野さん、そして学生たち。彼のやり方に目を輝かせ、未来を信じる若者たちが、彼の背を押してくれる。
「彼らと一緒に、新しい未来を作っていけるなら、それで十分だろ。」
竹中教授は小さく笑った。
彼の歩みは止まらない。その視線は、すでにこの大学という箱庭を超え、広く深い世界を見据えている。見える景色のすべてが、彼の想像力の燃料となり、次なる行動への原動力となる。
廊下の先には、昼の残光が伸びる出口があった。その先には、まだ誰も見たことのない、新しい学問と実践の世界が広がっている。
竹中教授は、まっすぐそこへ向かって歩き出した。
未来へ――。
ーー未来への飛躍、あるコメント欄からーー
静まり返った研究室。外は夕暮れ時、京都の街並みが橙に染まる。教授会での議論を終えた竹中教授は、自分の椅子に体を沈めた。
習慣のように、スマートフォンを開き、自らのYouTubeチャンネル「総裁Z」の最新動画を確認する。
「おいおい……もうすぐ100万再生じゃないか……。」
軽くつぶやいたその声に、達成感というよりも、どこか落ち着かない気配がにじむ。
再生回数とは裏腹に、コメント欄には賛否が錯綜していた。
「今回、かなり攻めた編集にしたからなぁ……高評価、もっとお願いしたいところだけど……」
スクロールする指がふと止まる。あるコメントが、視界の端で光ったように見えたのだ。長文、丁寧な文体。なにより、コメントの最後に記された署名が、教授の脳裏を鋭く刺激した。
「総裁Z様。いつも、楽しく拝見しております。学生さんたちの表情からすべてが伝わってきます。とても素晴らしい大学教育をなさっているのですね。
私は遠く離れた地球の裏側で、日本の若者たちが世界を知り、学び、楽しんでいる姿に心躍らせております。
いつか日本に戻る日には、教授とぜひお会いし、直接お話をうかがってみたいと願っております。
その日まで、どうぞご自愛ください。
――エクアドル大使・T市杵」
「……うわ、これは……。」
竹中教授は思わず背筋を伸ばした。
“T市杵”――彼にはすぐにわかった。立花市杵。
国際舞台で活躍する稀代の外交官であり、21世紀の日本女性官僚の草分け的存在。大学時代、国際法の講義でもたびたび事例として取り上げられていた人物だ。
「まさか……こんなところで名前を見るとは……。」
心の奥に何かが熱を持って広がっていく。
自身の活動が、遠く離れた地球の裏側まで届き、そしてその道の先人の目にも止まっている――。
「ありがたいな……。本当に。」
研究室の蛍光灯の白い光が、静かに彼の横顔を照らす。
教授はひとつ深く息を吐き、そしてスマートフォンを伏せた。
「俺たちのやってること、間違ってない。そうだよな、水野くん……半田くん……。」
すでにその目は、大学の外、さらにその先に広がる未来を見据えていた。
総裁Zの次なるステージは、きっとこの偶然のコメントから始まる――。
それが、まだ誰にも知られていない、静かな伏線となって。
ーーカラオケ対決!昭和歌謡 vs 昭和アニソンの熱き戦いーー
夕暮れが近づく教員研究室に、突如、携帯の着信音が響いた。
竹中教授は手元の書類に視線を落としたまま、無造作にスマホを手に取る。画面に表示された名前を見て、目を細めた。
「……田中卓造?」
数か月前、半田くんの勤める田中オフィスで名刺交換した人物。司法書士にして企業経営の辣腕――しかしその夜は妙に「熱い昭和論」で意気投合した記憶が残っている。
電話口の田中社長は、第一声から全開だった。
「教授!あんた、カラオケ得意なんやろ!?今度、うちのチームとカラオケ対決せえへんか!?テーマは昭和や!昭和歌謡 vs 昭和アニソン、やったるでぇ!」
電話を切った竹中の目に、静かに炎が灯る。
「……ムシャクシャしてたところだ。」
その声は誰に向けられたものでもなかったが、すぐに教室に足を向け、扉を勢いよく開け放つ。
「おーい、全員集合だ!」
ゼミ生たちが顔を上げると、そこには“総裁Zモード”の竹中教授が立っていた。スーツの襟を立て、謎のサングラスをかけた彼の姿は、もはや学者というよりプロレスラーに近い。
「ひよってるやつぁいるかぁ?いねえよなあっ?!田中社長からのオファーだ!カラオケ対決、昭和歌謡 VS 昭和アニソン!お前たち、オジサンたちに歌の魂を見せつけてやるぞ!」
ゼミ室が爆笑と拍手に包まれる。
「教授、やっぱ『宇宙戦艦ハルナ』とか熱いですよね?スナックで歌うなら絶対盛り上がると思います!」
「分かってるじゃないか!」教授は頷いた。「私が『真紅のブローチ』でバッチリ決める。その後はお前たちが勝負を盛り上げるんだ!」
「じゃあ、私はキャラメルズの『幼馴染の男の子』を昭和歌謡枠で歌います!練習しなきゃ!」
学生たちは即座にスマホで昭和ヒット曲のプレイリストを検索し始めた。YouTubeが熱気を帯び、あっという間にゼミ室がカラオケ練習場に変わる。
その光景を眺めながら、教授は心の中でつぶやいた。
「田中社長、面白い企画を持ち込んでくれたな。この勝負、単なる歌の対決ではない。昭和の魂と、学生たちの自由なエネルギーがぶつかり合う場になるだろう…燃えるねえ!」
そして迎えた決戦の日。場所は、どこか懐かしさを感じさせるレトロなカラオケスナック。フロアには赤いビロードのカーテン、木目のカウンター、そして焼酎のボトルキープ札が並ぶ。
社会人チームはスーツ姿で登場。昭和歌謡の王道、「好きにしやがれ」や「称賛」でしっとりと、時に情熱的に歌い上げる。
一方、大学チームは元気いっぱいにアニソンを披露。「テコン・バトラーX」「ジェィニイ☆ジェィニイ」と、若者らしいノリと笑顔で客席の空気を塗り替えていく。
そしてついに、竹中教授の出番が来た。
「さて、私が登場する番だな……総裁Z、歌声も見せてやる!いっくぞおおおお!」
ステージに立つと、教授は深呼吸ひとつ。「真紅のブローチ」のイントロが流れ出す。
マイクを握り、激情とともに歌い上げるその声は、会場全体を震わせた。
学生たちは驚き、やがて熱狂。社会人たちも思わずうなずく。
――その夜、勝敗は採点マシーンによって告げられた。僅差で、社会人チームの勝利。
だが、学生たちは肩を落とさなかった。
「楽しかったから、それで勝ちっすね、教授!」
「うむ、それでいい!」
最後には全員で、昭和アニソンメドレーを大合唱。
「天河超特急000」「マオウダーZ」「プリティーメープル」「ヤメターマン」「科学鳥人隊フェザーマン」「キャッチ」「や釜しいおまえら」…
世代を超えた歌声が、スナックの夜を彩った。
カラオケスナックの外、ネオンが静かに瞬いている。
竹中教授は夜空を見上げ、ふとつぶやいた。
「昭和も、まだまだ現役だな。」
ーーカラオケ対決の舞台裏――田中社長の真の意図ーー
熱狂のカラオケ対決も終盤に差し掛かり、空気はひとときの静けさを取り戻していた。誰かの熱唱が終わるたびに拍手が湧き、乾杯の音と笑い声が交差する中、竹中教授はテーブルの隅でグラスを片手に、しみじみとある一曲を思い出していた。
――「北の港町恋歌」。
田中社長が少し緊張した面持ちで歌い上げたあのバラード。港町に取り残された恋の記憶を、潮風の音にのせて綴る切ない歌詞。昭和後期に発売され、一度は埋もれかけたが、再評価され今では“知られざる名曲”と呼ばれている。
その旋律が、今も教授の胸を震わせていた。
(あの声…あの一節……「今も港に立つ君を、いまも胸によぎる、振り払った君の手を――」)
教授は思いがけず、若かりし日の情景をまざまざと思い出していた。ある地方都市での講演帰り、駅前の小さな居酒屋でひとり聴いたラジオ。その時に流れていたのが、この曲だった。
ふと、彼の前に田中社長が現れた。静かに、しかし決意を秘めた目をして。
「竹中教授、今日は素晴らしい歌声をありがとうございました。」
「いや、素晴らしかったのはそちらですよ、田中社長。『北の港町恋歌』…あれには、正直やられました。こんなに歌に心を動かされたのは、久しぶりです。」
教授の言葉に、田中は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを返した。
「ありがとうございます。その歌には、私の原点みたいなものがあるんです。」
そして田中は、静かに話を切り出した。
「実は、この場を借りて…もう一つ、ぜひお話ししたいことがあります。」
教授はグラスを置き、姿勢を正した。場のざわめきが、急に遠ざかった気がした。
「我々、田中オフィスにご参画いただきたいのです。最高顧問として、教授のお知恵と視点を、ぜひ私たちの未来にお貸しいただきたい。」
一瞬、空気が止まった。
教授の目が揺れる。思いもよらぬ申し出だった。しかし、ただの思いつきではないことは、田中の目を見ればわかった。
「最高顧問…とは、また大きく出ましたね。」
少し笑いながらも、教授の声には新たな熱が宿っていた。
「でもね田中社長――あなたの『北の港町恋歌』を聴いて、わかった気がしますよ。あなたの根っこにあるものが、ただの合理や収益じゃないってことが。」
彼はゆっくりと息を吐いた。
「私も、枠にとらわれず挑戦するのが好きでね。だから、あなたのその真摯な思いには共鳴します。……引き受けましょう。」
教授の表情は、やわらかくも、どこか遠くを見つめていた。
(それに――)
(半田くんが話していた、水野という司法書士……面白そうな人物だ。あの人となら、地方の限界を越えたビジネス創造ができるかもしれない。日本の縁辺から、世界を変える。そんな未来が、手の届くところにあるような気がする。)
その予感が、教授の胸を再び高鳴らせた。
「ただし、私の採点基準は厳しいですよ!田中オフィスのみなさんにも、『ひよってるやつぁいねえよなあっ?!』くらいの覚悟で取り組んでもらいますからね!」
その一言に、田中社長は腹の底から大笑いした。
そして二人は、互いの手を力強く握りしめた。
未来への約束として。
そして何より、「北の港町恋歌」がつないだ、不思議なご縁の証として。
ーー静かなる盃、熱き未来ーー
カラオケ大会の喧騒がひと段落し、熱気を残したまま二次会へと流れていく。場所は駅前のスナック「スミレ」。色褪せた赤いソファと琥珀色の照明に包まれたこの空間は、喧騒を忘れさせるようなやさしい時間が流れていた。
店の奥、カウンター席。
田中社長と竹中教授は並んで腰掛け、それぞれにグラスを手にしていた。
「田中社長、マーケティングが必要だとお考えですね。いい視点です。」
竹中教授は、ゆっくりとグラスを傾けた。琥珀の液体がグラスの中で波を打つ。
「マーケティングは、今の時代において企業が世界に対して自らを語る最も重要な手段だと、私は思っています。」
「いやあ、そこまで立派なもんやないんですけどね。」
田中は、照れくさそうに笑った。
「おかげさんでウチは今、業績が伸びてます。でも……いきあたりばったりで、正直言うて“運が良かっただけ”の話ですわ。」
カウンターの向こうで、ママが氷を割る音が静かに響いた。
「最近のIT投資がうまいこといった分、この先は運任せではアカンと思てます。やっぱりしっかりとした“経営の基盤”を作らなあきません。……教授、あなたならどうお考えになりますか?」
竹中教授は軽く目を閉じた。まるで、遠くの潮騒を聴くように。
やがて目を開けると、ゆっくりと話し出した。
「田中社長、その視点は非常に賢明だと思いますよ。」
教授の声は、夜の静けさに溶け込むように低く穏やかだった。
「IT投資は、単なるコストではなく、未来への投資です。それをどう活かすかが、これからの田中オフィスの“本当の姿”を決定づける。そして、その鍵になるのがマーケティング戦略だけではありません。」
教授は顔をあげて、田中社長の目を見据え、低い声で告げた。
「経営の“哲学”です。」
「経営の哲学、ですか……」
田中は、グラスの縁を指でなぞりながら問い返した。
「具体的には、どういったもんを?」
教授は頷き、言葉を選びながら続けた。
「まず、今の時代に必要なのは、“データが語るもの”と“人間が感じるもの”、両方を理解し、共存させることです。たとえば、IT導入によって集まった数値――売上、動線、稼働率、顧客属性……それらを読む力も重要です。でも、そこに人の感情がなければ、ただの数字に過ぎません。」
「数字に“共感”を加えるんですね。」
田中がぽつりとつぶやいた。
「そう。それには、“ストーリー”が必要です。」
教授の声に、思わず田中が頷く。
「御社には、地方で頑張る中小企業を支えるという、確かな信念がある。それ自体がすでに、立派なストーリーです。社員との信頼関係、顧客との絆、そして地域への想い。そういった要素を言語化し、社会に伝える。それが、ブランドとなる。」
田中は少し黙り、そして笑った。
「うちの社風が、そんなええもんやとしたら……社員たちに助けられてるおかげですわ。ホンマ、みんなええやつばっかりで。」
グラスの氷が、カランと音を立てた。
「で、その“ストーリー”っちゅうのは、どうやって作っていけばよろしいんでっしゃろ?」
教授はグラスを置き、背筋を伸ばして言った。
「まず、個性を掘り起こすこと。そして、その個性が“社会にどう貢献するか”を考える。田中社長、あなたが大切にしている人間関係や、地方活性化の視点。それを軸にストーリーを組み立てればいい。」
「そして、それを発信する。今はSNSがその手段として最も効果的です。」
田中はしばらく黙って考え込んでいたが、やがてそっと口を開いた。
「……水野幸一、という男がいます。うちの右腕で、公認会計士で司法書士。データにも人間にも敏感で、私よりよう考えとる男です。」
「水野幸一さん…ですか。ああ、半田くんがよく口にするあの人の名前ですね。」
教授はふと、遠くを見つめるような目になった。
「ぜひお会いしてゆっくり話がしてみたい。彼がどんなビジョンを持ち、何を見ているのか――それを聞いてみたい。」
田中はニヤリと笑って、グラスを掲げた。
「きっと、あんたと馬が合うと思いますわ。二人が組んだら……たぶん、面白いことになる。」
「さて――まずは田中オフィスでの初仕事ですね、“最高顧問”!」
教授は目を見開いたあと、声を上げて笑った。そして、静かにグラスを田中に向けた。
「こちらこそ、よろしくお願いしますよ、社長。」
カチン、と乾杯の音が静かに響いた。
それは、にぎやかなカラオケの喧騒とは対照的な、深くて静かな協力関係の始まりだった。
そしてその夜が、田中オフィスの未来にとって、ひとつの転機となる場面であることを、まだ誰も知らなかった――。
ーー続くーー