第二十七話、田中オフィス本社の奮闘
ーー京都本社の様子も見てみましょうーー
薄明かりが差し込む田中オフィスの朝は、いつもと変わらぬ活気に満ちていた。しかし、今日の橋本和馬、伊原隆志、そして島原真奈美の三人の間には、いつもとは違う、どこか特別な空気が流れていた。
みどり苑営業日誌—とびらんぬ好評につき、拡大のチャンス!
1.【オフィス出発前】
京都本社の朝は、今日もどこか清々しい空気に包まれていた。執務スペースでは、橋本和馬、伊原隆志、そして島原真奈美の三人が、今日の訪問準備を進めている。
「えっ、みどり苑に行くんですか? 私、昔そこに勤めてました。篠崎って名字でしたけど」島原の声に、橋本と伊原は顔を見合わせた。
伊原が純粋な好奇心から尋ねた。「介護士だったんですか?」
島原は懐かしむように目を細めた。「はい、夜勤とか…大変だったけど、今思えば学びも多くて」彼女の言葉には、厳しさの中にも温かさがあった。
橋本は、その意外な情報に目を輝かせた。「心強いな〜! じゃあ現地の“空気感”はバッチリ把握済みってことで(笑)」
島原は苦笑いしながらも、的確なアドバイスを付け加えた。「頑張ってくださいね。理事長、穏やかだけど鋭い方ですよ」
2.【みどり苑・訪問】
みどり苑の玄関前に立つと、清掃が行き届いた清潔な空間が広がり、どこか穏やかな空気が漂っていた。橋本は、今日のミッションを再確認するように伊原に目を向けた。
「では、今日のミッションは…」
伊原は、既に準備万端といった様子で、淀みなく答えた。「①事業所追加登記の確認、②とびらんぬ導入の評価ヒアリング、③新施設へのニーズ調査、ですね」
橋本は感心したように頷いた。「さすが伊原さん、メモも完璧やな」伊原は、その言葉に真面目な眼差しで応え、手元のメモをしっかりと握りしめていた。
3.【応接室にて】
応接室に通されると、山本理事長が丁寧な口調で彼らを迎えた。穏やかながらも、どこか知的な雰囲気を漂わせる人物だ。
「“とびらんぬ”ね、本当に助かってますよ。導入以来、事故ゼロです」山本理事長の言葉に、橋本の顔に安堵の色が広がった。
橋本はタブレットを操作しながら尋ねた。「それは何よりです。記録確認も簡単でしたでしょうか?」
「ええ、職員も慣れて、安心感が違うようです」理事長の言葉は、とびらんぬが現場にしっかりと浸透していることを示していた。
伊原は、開発元への感謝と、今後の連携を意識した言葉を述べた。「本当に良かったです。開発元にもフィードバックいたします」
4.【新たなニーズ】
一通りのヒアリングを終え、理事長がタブレットを見せながら話し始めた。
「実は、隣に建設中の新施設でも導入を考えてまして。ただ……」理事長の言葉に、橋本と伊原は身を乗り出した。
橋本が先を促す。「はい、どういった点でしょう?」
「引き戸のタイプがほしいのです。今の仕様は開き戸だけですよね?」理事長の要望は具体的だった。
伊原はすぐにメモを取り始めた。「なるほど、要望としてまとめて、すぐ社に報告いたします」新たなニーズの掘り起こしに、伊原の表情も引き締まる。
5.【帰りの車内】
営業車の中、橋本がハンドルを握り、伊原はメモ帳に今日の要点をまとめている。
「よし、今日は100点満点やな。島原さんの前情報もありがたかった」橋本は、今日の営業に満足しているようだった。
伊原は、引き戸タイプの要望について思案していた。「引き戸タイプか…ハード面の改良になりますね。半田さんにも聞いてみましょうか」。
半田直樹――橋本が過去に対応した「半田くん引抜事件」から守りきった技術系の人物だ。
橋本は、今後の展開に胸を躍らせていた。「うん、開発チーム巻き込んで提案書作ろう。田中社長、乗ってくるでこれ」
みどり苑での成功体験は、とびらんぬのさらなる普及と、新たなビジネスチャンスの到来を予感させるものだった。京都本社に戻った彼らは、この日の成果を胸に、次なる一手へと動き出すだろう。
6.【帰社後のひととき】
京都の午後の日差しは、五月にしては容赦なく照りつける。法務局からオフィスに戻った橋本と伊原は、少し疲れ切った様子でエントランスをくぐった。すると、そこには笑顔で出迎える島原真奈美の姿があった。
「おかえりなさい、暑かったでしょ」
その声に顔を上げると、デスクには冷たい麦茶と、温かいおしぼりが用意されている。橋本は思わず声を漏らした。「おっ、これは……気が利くなあ」
伊原は、少しどもりながらも感謝の言葉を口にした。「……ありがとうございます。いや、すみません、助かります……!」二人はおしぼりで顔を拭い、ひときわ大きく息を吐いた。
「いや〜、疲れが吹き飛びますよ、これ」橋本が心底気持ちよさそうに言う。
島原は微笑んだ。「5月の日差しって、意外と強いんですよね。現場回りだと余計に感じるでしょ」
伊原も頷いた。「ほんとに……ちょっとした気遣いが沁みます」温かいおしぼりの感触が、外回りでの疲れを癒していくようだった。
7.【報告とふりかえり】
一息ついた後、三人はミーティングスペースへと移動した。橋本と伊原は、みどり苑での簡単な報告をまとめる。
橋本が今日の成果を報告する。「山本理事長、“とびらんぬ”にかなり満足してはって。事故ゼロ、これって営業的にも大きいアピール材料やな」
伊原がそれに付け加える。「それと、新施設への導入にも前向きでした。ただ“引き戸タイプ”を希望されてましたね」
島原は静かに頷いた。「……やっぱり。私も昔、あそこで働いてたとき思ったんです。車椅子や歩行器だと、開き戸って結構たいへんなんですよね」彼女の言葉は、現場で働く人々の生の声であり、製品開発における貴重なヒントとなるだろう。
8.【開発チームへの連絡】
橋本は、その場でスマホを取り出し、開発チームの半田に連絡を入れた。数分後には、簡単なオンラインミーティングが始まる。
画面越しに映る半田が、橋本の言葉に真剣な表情で耳を傾ける。「引き戸タイプ……なるほど。それ、実装の相談ちょうど河村さんともしてたとこです」
橋本は、好機を逃すまいと畳み掛ける。「現場からの“生の声”や。島原さんの話も含めて、早めに企画上げとこう」
島原も画面に映り込みながら、力強く言った。「私の経験が役立つなら、いつでも言ってくださいね」彼女の言葉は、開発チームにとっても心強い応援となるはずだ。
9.【静かな余韻】
日が傾き、夕暮れのオレンジ色が田中オフィスの窓を染める頃、伊原はPC作業に集中していた。そんな彼に、島原がそっと温かいお茶を差し入れた。
「田中オフィスは、顧客の現場をしっかり考えてくれますよね」島原の優しい声が、静かなオフィスに響く。
伊原は静かに頷き、ほんの少しだけ笑顔を見せた。「ほんとに、ただ登記の仕事をとるだけじゃなく、お客様のわずかな一言も聞き逃さない。しかしそれがビジネスにつながる、という仕組みなんでしょう。やりがいがありますよ」
その言葉には、新天地での仕事への充実感と、顧客のニーズに真摯に向き合う田中オフィスの企業文化への共感が滲んでいた。今日の訪問で得られた新たな情報と、島原の経験が繋がり、次の大きな一歩へと繋がる予感に、オフィスには静かな熱気が満ちていた。
10.【開発ミーティング:作れるか?引き戸版】
京都、田中オフィスの打ち合わせスペースには、橋本と半田が広げた資料と、PCの画面から放たれる青白い光が満ちていた。二人は真剣な表情で、引き戸タイプの「とびらんぬ」の構造について検討している。
半田が、既存のシステムの仕組みを説明した。「既存の“とびらんぬ”は、開き戸の蝶番の動作をセンサーが拾って、一定角度以上で“アラート”が起動するって仕組みなんですよ」
橋本は、その言葉を受けて腕を組んだ。「ほんなら、引き戸になると“開く角度”って概念がないわけやな」
「そう。スライド距離で検出させるのは簡単やけど、問題は“力のかかり方”と“どこで事故が起こるか”の想定なんです」半田は、PC画面に表示された図面を指しながら、眉間にしわを寄せた。
二人が行き詰まりを感じ始めたその時、隣でコピーを取っていた島原が、彼らの会話を聞きつけ、ふと声をかけた。「……引き戸のこと、ですか?」
橋本は、救いの手が差し伸べられたかのように、顔を上げた。「お、島原さん。そうそう。山本理事長が、新しい施設は引き戸を希望されててな」
半田も、これまでの悩みを打ち明けるように言った。「でも、開閉の検知とか、衝突の予測ロジックをどうするかでちょっと行き詰まってて……」
11.【思い出話:夜勤のときの“あの音”】
島原は、少し懐かしそうに目を細めた。「昔、夜勤してたときにね……ときどき、“スーーッ”って音がすると、パッと立ち上がってました」
橋本が興味津々に尋ねる。「“スーッ”って……引き戸の音?」
「そう。音って、開き戸より静かだけど、逆に“異音”がすごく目立つの。いつもと違う“ガタン”とか“カクン”って音がすると、『あ、誰か転んだかも』ってすぐわかった」島原の言葉は、介護現場で培われた経験に裏打ちされていた。
半田の目が、その言葉に反応して輝いた。「……“いつもと違う動き”の検知……それ、センサーで拾えるかもしれない」
島原はさらに続けた。「あとね、転倒したご利用者さんの多くは、“戻ろうとして”足を絡めることが多かった。戸を開けて、ちょっと戻るとき、体のバランスが崩れるみたいで……。あ、最近では介護現場で 『センサー』が使われていて、お年寄りがベットから離れるとナースコールで知らせるのがあるらしいわ」
12.【新アイデア:軌道センサー&音センサー】
島原の話を聞き終えた半田は、まるで電撃が走ったかのように、急に立ち上がった。そして、ホワイトボードに勢いよくメモを書き始めた。
「・スライド距離+速度」
「・異音パターン検知マイク」
「・“戻り動作”のトリガーを学習させるAI——」
半田が書き出したキーワードに、橋本は膝を打った。「つまり、“行くより戻るときが危ない”ってことか。なるほど、それ、うちのシステムでカバーできるやん」
島原は、自分の経験が思わぬ形で役立ったことに、少し照れくさそうに笑った。「……まさか、昔の夜勤の癖が役に立つとは(笑)」
半田は、ホワイトボードから顔を上げ、真剣な眼差しで島原を見つめた。「現場の声ほど、強いヒントはないですよ」
13.【ネーミング、どうする?】
橋本が、ふと半田に尋ねた。「ちなみに半田くん、この新型の名前、どうするつもりなん?」
半田は腕を組み、うーん、と唸った。「うーん、“スライドんぬ”……?」
橋本は吹き出した。「それはちょっと雑すぎるやろ(笑)」
三人の笑い声が、オフィスに響き渡った。この瞬間、引き戸に対応した「とびらんぬ」の開発は、島原の貴重な経験という強力なヒントを得て、次のステージへと大きく進み始めたのだった。この新機能が、多くの介護現場に、より一層の安心と優しさをもたらす日が来ることを予感させる、そんな夜だった。
14.【田中社長のひとこと】
夕暮れ時、オフィスに戻った橋本が、みどり苑での報告を終え、ほっと一息ついたところだった。その時、社長室の扉が開き、田中社長が顔を覗かせた。麦茶片手に、いつもの調子で何気なく放ったひとこと。
「で、補助金って使えんのかいな? ……なら、それ、山本理事長に教えてあげんとアカンやろ」
その言葉を待っていたかのように、橋本は椅子に座るや否やPCを開き、国の補助金ポータルを検索し始めた。「了解しました、社長。すぐ調べます」
15.【橋本、情報収集スイッチON】
その日のうちに、橋本が調べ上げたのは多岐にわたる補助金制度だった。
厚生労働省の「介護ロボット導入支援事業」。
経済産業省の「中小企業等事業再構築補助金」内の設備導入項目。
そして、意外なことに地方自治体の福祉施設向けICT導入補助(京都市も対象あり)。
橋本は画面を見ながら、独りごちた。「ふむふむ……“転倒リスクを軽減するセンサー付き出入口システム”は、要件を満たせそうやな……」彼は要点をまとめ、社内チャットに即座に送信した。その情報が、藤島専務と水野先輩を巻き込むきっかけとなる。
16.【藤島専務の参戦】
わずか10分後、別室から藤島光子が現れた。彼女の手には、山本理事長の法人登記簿と財務情報のコピーが握られている。
「実績のある法人だし、直近で補助金申請はしていない。要件満たすわね。交付申請、いけるわよ」藤島は淡々と、しかし確信に満ちた口調で言った。
橋本は驚きを隠せない。「専務、はやっ……!」
藤島は涼しい顔で答える。「社長の“使えんのかいな”が出たら、急がないと。ほら、提案書ドラフト、もう作り始めて」その言葉には、田中オフィスの迅速な対応力が凝縮されていた。
17.【橋本、見積もり依頼へ】
藤島の言葉に背中を押されるように、橋本はすぐに河村SEにオンラインで連絡を取り、引き戸型「とびらんぬ」のプロトタイプ価格と見積もりを依頼した。
橋本「河村さん、自治体補助金と絡めたいんで、設置費込みの金額出してもらえますか?」
河村SEは快く応じた。「もちろん。引き戸モデル、仮称“とびらんぬ・スライド”ってことで(笑)」
橋本は思わず笑みがこぼれる。「ダサかわ路線、嫌いじゃないっす!」
18.【提案準備完了】
その日の夜、田中オフィスの営業チームは、定時を過ぎても活気に満ちていた。それぞれが担当する業務に集中しつつも、どこか一体感が漂っている。
伊原は、目の前で繰り広げられるスピード感に圧倒されていた。「……すごいな。僕、補助金とか全然わからないんですけど、こうやって動いていくんですね」
橋本はPCから顔を上げ、伊原に語りかけた。「わからんことはええ。とにかく動いて、調べて、聞きに行く。それがうちの営業や」
島原さんが淹れ直してくれた温かいコーヒーの香りが、静かに夜の空気に溶けていく。お客様の潜在的なニーズを引き出し、それを具体的な提案へと昇華させる。田中オフィスの営業とは、単なる「ものを売る」ことではない。それは、顧客の課題を解決し、より良い未来を共に築き上げていくプロセスなのだと、伊原は感じていた。そして、その過程には、情報収集力、行動力、そしてチームワークが不可欠であることを、彼は肌で実感したのだった。
19.【情報整理と作戦会議】
夕暮れが迫る田中オフィスの会議室で、橋本と伊原は向かい合っていた。橋本の迅速な情報収集によって集められた補助金と融資に関する資料が、テーブルの上に広げられている。
「伊原くん、これ、今日の宿題や。まとめてみたんやけど、ちょっと見てくれへんか」橋本がそう言って資料を差し出す。伊原は真剣な表情でそれを受け取った。
「これは…かなりの情報量ですね」伊原は資料に目を通しながら、感嘆の声を漏らす。
橋本は頷いた。「そうやろ。介護施設や中小企業が『安全管理システム』や『ICT設備』なんかを導入する際、結構使える融資支援や利子補給(利子補助)制度があるんや。特に公共性の高い施設や福祉分野では、積極的に活用されてるケースが多い」
伊原は橋本の言葉に耳を傾けながら、熱心にメモを取る。
「まず一つ目やけど、【社会福祉施設整備等資金貸付制度】。これは福祉医療機構(WAM)が主体で、社会福祉法人とか医療法人なんかが対象になる。建物の新設・改修はもちろん、『とびらんぬ』みたいな安全管理・ICT機器の導入も用途に含まれるんや」橋本は指を折りながら説明を続ける。「特徴は長期固定金利で、一部の事業では国や自治体による利子補給も受けられる可能性がある。今回の『自動ドア型とびらんぬ』も、転倒防止のための福祉設備と認められれば、対象になる可能性は高いで」
伊原は「なるほど…」と呟き、ペンを走らせる。
「次に、中小企業向けやけど、【信用保証付き融資+利子補給】っていうのがある。これは都道府県や市区町村と金融機関が組んでやってるやつやな。中小企業やNPO法人、もちろん社会福祉法人も対象や。低利融資に加えて、一定期間の利子分を自治体が負担してくれる利子補給制度まであるんやで。例えば、京都市中小企業融資制度の設備資金とかICT導入資金がこれに当たる」
橋本は資料を指しながら続けた。「そして三つ目が、【経産省系の設備投資支援融資】。これは商工中金とか日本政策金融公庫みたいな国の金融機関がやってる。設備資金として最長20年の長期融資で、これにも一部利子補助があるんや。特に『地域経済活性化』とか『高齢者福祉向上』を謳ってる施設は、優先的に対象になりやすいみたいやな」
伊原は顔を上げ、橋本に尋ねた。「これって、施設側が知らないケースも多いんでしょうか?」
橋本は大きく頷いた。「せやろな。だからこそ、俺らが『WAMや自治体の利子補給制度をご案内できますよ』って言えたら、相当信頼されるはずや。先方の山本理事長にも、この情報は響くと思うで」
伊原は深く納得したように資料を眺めた。「『とびらんぬ』設置費用、補助金でまかなえない分は、長期の福祉融資でカバーできます。うまくいけば、利子も負担ゼロでいけるかもしれませんよ、と…」伊原は橋本の言葉を復唱し、頭の中で提案のシミュレーションを始めた。
「その通りや。この情報をしっかり頭に入れて、次の提案に活かすんやで」橋本の言葉に、伊原の表情は引き締まった。今回の訪問で得た手応えを、具体的な数字と制度で裏付け、さらなるビジネスチャンスへと繋げる。田中オフィスの営業チームの夜は、まだ始まったばかりだった。
20.【とびらんぬNext—引き戸にこそ、やさしさを】
田中オフィスの会議スペースに差し込む午後の光は、どこか穏やかだった。橋本と伊原が、開発チームの半田との打ち合わせを終え、資料を片付け始めたところへ、島原がそっと近づいてきた。
「あのね……私、あの施設で見たんです。夜中に徘徊して、廊下の手すりに手を伸ばして泣いてたおばあちゃん。職員さんが一人で、手を握って話してた……。ドアがロックされてて助かったって。」
静かに語られる記憶に、一瞬、場の空気が変わる。島原の言葉は、ただの経験談ではなかった。それは、介護現場の厳しさと、それでもなお、そこに確かに存在する温かさ、そして「とびらんぬ」のようなシステムがもたらす現実の命の守りについて語っていた。
「機械だけで守れるもんじゃないってわかってる。でもね、“とびらんぬ”があるから命が守られてるって瞬間、確かにあるんです。あの夜のあの人が、私の心にずっと残ってるんです。」
橋本は、ふと手元のメモを握りしめた。彼の脳裏には、山本理事長の穏やかな笑顔と、「とびらんぬが助かっている」という言葉が蘇っていた。島原の言葉は、その背景にある「命の重み」を改めて彼に突きつけた。
「……そうか。“これは職員のためじゃない、利用者のためです”って、俺らが言うしかないんやな。」橋本の言葉には、営業としての戦略だけでなく、深い共感が込められていた。
伊原もまた、静かに頷いた。「制度の建前に合わせるんじゃなくて、本当に守りたいものがあるってことを、伝えるために資料を作ります。」彼の真面目な瞳には、使命感が宿っていた。
島原は、二人の言葉に「ありがとう……」と小さく呟いた。三人の視線が交わる。そこには、ただの設備導入を超えた、人を守る仕事としての誇りが確かにあった。
数時間後—。
橋本は京都市の高齢福祉課に連絡を取り、補助金制度の具体的な相談を始めた。
「“IDカード式の自動開錠扉”が対象になるか、という件なんですけど、“安全管理システムによる徘徊防止”と“職員の夜間対応の軽減”を両立する観点で、検討されている制度があれば教えていただきたいんです。」橋本は、みどり苑の事例を念頭に置きながら、丁寧に説明した。
相手の担当者は、その言葉に興味を示した。「あ、それなら“地域密着型福祉施設のICT導入支援事業”に近いかもしれません。個別審査になりますが、実例と職員の声が添えられると効果的です。」
橋本は、その言葉を待っていたかのように、力強く答えた。「実例、あります。島原という職員が、以前その施設で実際に経験してるんです。」
市担当者の声が弾んだ。「それは心強いですね。ぜひヒアリングをさせてください。」
電話を切ったあと、橋本は島原に向かって深々と一礼した。「島原さん、あんたの言葉で一つ、道が開いたわ。」
島原はちょっと照れながらも、嬉しそうに頷いた。彼女の過去の経験が、今の仕事に、そして誰かの未来に繋がっていく。その確かな手応えが、彼女の心を温かく満たしていた。この日、「とびらんぬ」は単なるシステムではなく、人と人、そして過去と未来を繋ぐ架け橋となった。
田中オフィスの応接スペースには、夕方の落ち着いた光が差し込んでいた。机の上には、半田が用意した「とびらんぬ・引き戸バージョン」のスケッチ案が広げられている。島原は、そのスケッチに目をやりながら、自分の若い頃の体験をそっと語り始めた。
21.【過去の記憶、今に繋がる】
「私が“みどり苑”にいたのは、もう15年くらい前です。夜勤で仮眠をとるなんて夢のまた夢。ナースコールが鳴ればすぐ飛び起きて……利用者さんの寝返り介助、点滴、徘徊チェック。心配で、何度も何度もドアの鍵を確かめにいった。」
半田は、当時の状況を想像するように尋ねた。「当時は、今みたいなセンサーや自動ロックのシステムなんて……?」
「なかったですね。“鍵かけたっけ?”って不安で、ある夜、同僚が泣いたんです。自分を責めて。でも……ちゃんと鍵はかかってた。確認できて、彼女、安心して泣いてました。あの涙、今でも覚えてます。」島原の静かな語り口は、その場の空気を一変させた。
橋本は、その話を聞いて、黙ってメモを取る手を止めた。彼の心に、島原の言葉が深く響いた。「そん時、“とびらんぬ”があったら……その人、もっと安心できたんやろな。」
島原は、橋本の言葉に深く頷いた。「そう思います。技術で“人を減らす”んやなくて、“安心を増やす”って意味で、ああいう装置があるのは大きいと思うんです。」
伊原もまた、島原の言葉に深く納得した。「そうか……山本理事長が“引き戸タイプ”を求めた理由も、そこにあるんですね。みどり苑では、部屋のドアが引き戸のところ、多かったですよね?」
「ええ、特に新棟は。押し引きのドアだと、車椅子の方が開けにくい。でも、引き戸には“閉まった感”がないから、職員は不安もある。だからこそ、引き戸に“とびらんぬ”がついたら、それは本当に“希望の光”だと思う。」島原の言葉には、介護現場で働く人々への深い思いが込められていた。
22.【新たな機能、希望の光】
島原の言葉に触発された半田は、スケッチの横に新たなメモを付け加える。「なるほど……“ロック機能+状態確認センサー”の組み合わせ。さらに、LED表示で“鍵がかかってます”って視覚的に知らせる機能を加えたら……どうですか?」
島原は思わず拍手した。「それ、それです! 寝ぼけ眼でも一目で安心できるし、夜勤明けの気持ちが全然違うはず!」彼女の表情は、まるで未来の介護現場を目の当たりにしているかのようだった。
その様子を見ていた橋本が、静かに立ち上がった。「じゃあ、行きましょか。次は理事長にこの案、届けんと。ほんで、“あの涙”を、もう誰にも流させんようにせんとな。」
伊原も、力強く答えた。「はい、僕もついていきます!」
三人の目には、単なるビジネスの成功だけでなく、介護現場で働く人々の負担を軽減し、利用者の安全と安心を守るという、共通の目標が輝いていた。彼らの提案が、みどり苑、そして多くの介護施設に、新たな希望の光をもたらすことを信じて、彼らは次のステップへと踏み出した。
23.【現場の声から生まれたデバイス】
かつての現場の声が、新たな技術と合わさって、確かな形になろうとしている。「とびらんぬ・引き戸版」──それは、ただの設備じゃなく、人の心に寄り添う技術として誕生する予感に満ちていた。京都、田中オフィスの会議スペースでは、その未来に向けた最終調整が行われていた。
白板には「とびらんぬ・引き戸版開発プロジェクト」と手書きされたメモが貼られている。その前で、開発担当の半田が、手のひらに収まる小型デバイスを手に説明を始めた。
「これが、携帯デバイスタイプの試作品です。とびらんぬの各ドアに貼られたバーコードを読み取ることで、扉の現在の状態――開錠中か施錠中か、異常がないかが一目でわかります。」
そう言って、デバイスの画面に映し出されたシンプルなUIを見せる。扉ごとに「施錠済/開放中」と表示されており、異常がある場合は赤いアイコンが表示される設計だ。直感的で分かりやすい表示に、一同は感心する。
橋本が、デバイスの機能性に目を輝かせながら尋ねた。「これ……通信はどうなってるんや?」
半田は、自信を持って答えた。「Simなし、Wi-Fi接続のみです。つまり、施設内の無線LANに繋がっていれば、リアルタイムで状況確認ができます。デバイス自体はAndroidベースで、アプリを載せてあるだけなので、コストも1万円前後に抑えられます。」
伊原は、コスト面でのメリットに注目した。「Simがないなら、月額費用も発生しませんよね。これは助かります。」
藤島専務も、資料に目を通しながら深く頷いた。「自治体の補助金対象にならない場合でも、1台1万円で職員の安心が買えるなら、導入を検討する施設は多いはずですね。」
島原は、自身の介護士時代の経験を踏まえ、具体的なメリットを語った。「バーコードでの確認っていうのも、手軽でいいですね。夜勤で眠いときでも、スマホをかざすだけなら誰でもできる。機械が苦手な人にも向いてるかも。」
24.【安心を増やす技術】
半田は、さらに進化した機能について説明を続けた。「さらに、事務所側のPCでは、どの職員が、いつ、どのドアを操作したかのログも残るようにしてあります。」
橋本は、その言葉に勢い込んだ。「それや! “誰かが勝手にドア開けた”とか、“開け忘れた”っていうトラブル、現場じゃようある。でもログで見えるなら、いざというときも安心やし、責任の押しつけ合いにもならへん。」
島原は、深く納得したようにデバイスを見つめた。「これが“安心を増やす技術”なんですね……。」彼女の言葉には、技術がもたらす心の安らぎへの期待が込められていた。
25.【次なる一歩、現場へ】
半田は、懐からもう1台、シール印刷済のバーコードを取り出した。「これ、明日“みどり苑”に試験導入してみましょうか? 理事長が気に入れば、正式導入の前に、職員の反応も見られます。」
橋本は勢いよく立ち上がった。「決まりやな。山本理事長にも、『涙が安心に変わる瞬間』を体験してもらいましょ!」
小さなデバイスが、現場を支える大きな一歩になる――。田中オフィスの挑戦は、今日も静かに、しかし着実に進化を続けていた。顧客の現場に寄り添い、真のニーズに応える彼らの姿勢が、新たな価値を生み出していく。
26.【走れ補助金、終わらない戦い】
田中オフィスの執務室は、夕闇に包まれ始めていた。壁の時計はすでに18時をまわっていたが、橋本と伊原はまだスーツのまま、ぐったりと椅子に沈んでいた。デスクの上には訂正印が並び、何度も赤ペンで修正された申請書が山のように積まれている。
「……今日で、10回目ですかね。」伊原が、力なく呟いた。
橋本は、疲労の色濃い顔で天井を仰いだ。「せやな。言い方悪いけど、“建前職人”ばっかりや。『IT化を推進』言うておきながら、やってることはまるで逆や。」
「“スマホは介護士にふさわしくない”とか、いつの時代ですか……。」伊原の声には、もはや呆れしかなかった。
橋本は机に肘をつき、額を押さえながら苦笑する。その表情には、何度跳ね返されても立ち向かう、営業マンとしての意地が滲んでいた。「“とびらんぬ”のシステムは、入所者の安全と、職員の負担軽減の両立やろ。鍵のかけ忘れ、扉の不正開放、誰が操作したかって記録も残る。これが介護と関係ないって、どう説明したらええねん。」
「説明しすぎて、もう説明の仕方がわからなくなってきましたよ……。」伊原の言葉には、絶望にも似た響きがあった。
ほうじ茶の温もりと、新たな視点
そこへ、湯呑みを手に島原がやってきた。湯気の立つほうじ茶をそっと二人の前に置くと、優しく微笑んだ。「おつかれさまです。私もね、現場にいた頃、夜勤で倒れそうになったことあるんです。“鍵、閉めたはずなのに……”って不安の中で、確認に戻ったあの時間が、今でも忘れられないんです。」
島原の静かな語り口は、疲弊しきっていた二人の心に、じんわりと温かさを灯した。伊原は、はっとした表情で島原を見つめた。「……それ、橋本さんの資料に入れませんか?」
橋本は、伊原の意図を測りかねて「ん?」と首を傾げた。
伊原は、熱を帯びた声で続けた。「現場の声として、“介護の質を上げるためのIT”って、制度の文言じゃなくて、“誰のための安心か”を伝えること。補助金の審査員も人間ですから、数字だけじゃ動かないですよ。」
橋本は、その言葉にハッとした表情で頷いた。凝り固まっていた思考が、一瞬にして解き放たれる感覚だった。これまでの申請書は、理屈と制度の枠組みに終始していた。しかし、本当に届けたかったのは、その先にいる人々の「安心」だったはずだ。
「よし、明日の申請、構成変えよう。理屈と制度の枠組みだけやなくて、“誰かが泣かずに済むように”ってストーリー、ちゃんと伝えよう。」橋本の声には、再び力が宿っていた。
伊原は、静かに、しかし力強く言った。「“申請書”じゃなく、“願いの書類”に変えましょう。」
27.【希望の扉をノックする】
そして、次の朝。橋本と伊原は、真新しい申請書とともに、かつてない気迫を胸に役所へ向かった。それは単なる紙切れではなく、現場を支えた島原の過去と、未来の介護士たちの“安心”をつなぐ物語だった。
希望のドアは、まだ固く閉じているように見えた。しかし、彼らがノックする音は、これまで以上に確かに、その向こう側に届き始めていた。
28.【育児のIT化はまだ進んでない】
橋本が何気なく壁の時計に目をやると、針は17時48分を指していた。ふと隣を見ると、伊原はまだ赤ペンを片手に、申請書の手直しに集中している。眉間には深いしわが刻まれ、その真剣さがうかがえた。
「……あかんあかん、伊原くん。」橋本が声をかける。
伊原は「え?」と顔を上げた。
「もうすぐ18時やろ。保育園の迎え、間に合わへんぞ。」
橋本の言葉に、伊原は「あっ……!」と思わず立ち上がった。時計を見るなり、慌ててジャケットに手を伸ばす。「すみません、ちょっと夢中になってて……!」
橋本は苦笑いを浮かべながら、軽く伊原の背中を叩いた。「ええんや。そんだけ本気でやってくれてる証拠や。けどな、“育児のIT化”はまだ進んでへん。君しか迎えに行かれへんのやろ? 行ったれ!」
伊原は、橋本の温かい言葉に感謝の念を込めて言った。「はいっ! ありがとうございます、橋本さん!」
29.【誰かの安心のために】
伊原がバタバタと玄関を出ていくと、事務所には再び静けさが戻った。彼の背中を見送りながら、橋本はふと机の上の申請書に目を落とす。そして、ぽつりとつぶやいた。
「“誰かが安心して、迎えに行けるように”。それもまた、“介護のIT化”の本質かもしれんな……。」
時計の針は、まもなく18時を告げようとしていた。オフィスの中には、次に繋がる静かな意志だけが、確かに残っていた。明日もまた、誰かの“安心”のために、彼らの挑戦は続いていく。
30.【成長の軌跡】
「実務経験がない」と、かつてはどこか心許なさげに語っていた伊原が、今や修正ポイントを的確に指摘し、根拠法令を引用しながら役所職員と堂々と渡り合っている。それは一朝一夕では得られない、現場でしか育たない勘と胆力だった。
橋本は、その成長ぶりに感嘆の息を漏らす。(…最初は「子育てしながら大丈夫かな」って少し心配してたけどな。いやはや、やるやん、伊原くん。)
司法書士、行政書士の現場は、とにかく“紙とにらめっこ”が基本だ。しかし、それだけではない。役所との折衝、現場の深い理解、そして複雑な制度を使いこなす応用力……そのどれもが鍛えられるのは、こうした泥くさくも誠実な実務経験の中にこそあるのだと、橋本は改めて感じていた。
31.【誰かの暮らしを守る仕事】
その頃、電動自転車をこいでいた伊原は、娘の保育園の前に到着した。小さな姿を見つけると、自然と顔がほころぶ。
「パパ、おそい〜!」
「ごめんごめん、仕事に手間取っちゃって。」
娘の小さな手を握りながら、伊原は思う。(あの書類の一枚一枚が、誰かの暮らしを守っている。自分の仕事が、少しずつでも社会をよくしてるんだって、今ならわかる気がする。)
そして心の中で、そっと誓う。「もっと強くなろう。父親としても。」
その夜、田中オフィスには、彼らが苦労して提出した申請書の控えと、その中で確かに芽生え、育ち始めた彼らの成長の軌跡が、静かに輝いていた。
32.【橋本和馬、合格までの10年】
田中オフィスには、様々な経歴を持つプロフェッショナルたちが集う。その中でも、橋本和馬の司法書士への道のりは、まさに「諦めない生き様」そのものだった。
彼は最初、営業として田中オフィスに入社した。日中は営業として実務をこなし、夜は参考書と模試の山に囲まれる日々。「会社に迷惑をかけないように」と睡眠時間を削り、空き時間を縫って学習を続けた。だが、最初の数年は「勉強の仕方」すら分からず、ただがむしゃらにペンを走らせるばかりだった。
水野や稲田のように、要領よく短期間で突破するタイプではなかった橋本。彼は一歩一歩、コツコツと、失敗も挫折も重ねながら、地道に知識を積み上げていった。その努力が実を結び、ついに合格したその日。
田中社長は、たまたま買っていたコンビニのシュークリームを差し出し、橋本の肩をぽんと叩いた。「まぁ、あんたは時間かかったけど…人の気持ちわかるええ先生になるわ。」その飾らない言葉が、橋本の心の奥底に深く響き、何よりの支えとなった。
田中オフィスを支える多様な才能
橋本の横には、若くして司法書士となった稲田がいる。わずか3年で合格を掴んだ稲田は、実力は確かで、爽やかでまっすぐな性格だ。しかし、社会経験が浅いため、まだ悩みながら日々奮闘している。司法書士の「現場」に触れることで、彼の学びは加速している。
そして、社内で一目置かれる存在が水野だ。法律専門学校に1年半通い、司法書士試験を一発合格したという伝説を持つ彼は、会計士資格も持つスーパーエリート。その冷静沈着な判断力と、現場での的確なフォローは、田中オフィスの大きな柱となっている。
33.【伊原、新たな目標へ】
そんな中で、伊原隆志もまた、新たな目標を見つけ始めていた。行政書士の資格を持つ彼だが、田中オフィスで現場を歩けば歩くほど、「自分に足りないもの」がはっきりと見えてくる。それは、法律の知識だけでは補えない、深く複雑な「人間としての深み」だった。
ある日、伊原はふと橋本に尋ねた。「橋本さん、司法書士の勉強って……どこから始めましたか?」
橋本は、少し考える素振りを見せた後、静かに答えた。「うーん……最初は民法かな。あとはな、“諦めない癖”をつけることやわ。」
「癖、ですか?」伊原は聞き返した。
「そう。毎朝30分、必ず六法を開く。それを毎日やる。それだけや。」
その言葉が、伊原の中で静かに響いた。勉強も、実務も、家族も――すべてを抱えながら成長する伊原。橋本の言葉は、彼にとって、まさに「人間としての深み」が、司法書士としての信頼に直結する、その物語の始まりを告げるものだった。田中オフィスには、人が育つ温かな土壌が確かに息づいている。
34.【扉がつなぐ再会】
田中オフィスの応接室に、山本理事長が現れた。その手には小ぶりな紙袋。中には地元・京北の手作り味噌と、やわらかな桜の落雁が収められている。
「いや〜、今日はありがとうございました。あれから“とびらんぬ”の件で、理事会でもだいぶ話が弾んでましてな」山本理事長が、にこやかに挨拶する。
社長は、関西弁で穏やかに応じた。「ほぉ、それはなにより。せやけど、今日はどないして…え? えらい遠いとこから」
藤島専務も不思議そうな顔で付け加える。「お電話でもよかったのに」
山本理事長は、少し照れたように言った。「あの…ちょっとだけ、顔を見に来たかった人がおりましてな」
懐かしき再会、そして心の繋がり
その言葉に促されるように、ドアの向こうから島原(旧姓篠崎)が現れる。一瞬、空気が止まった。山本理事長は、ほんのわずか、眼を細めた。
「……お変わりなく。あの頃は、本当に助かりましたよ」理事長の言葉には、長年の感謝と、深い敬意が込められていた。
島原は、ほほ笑んで少しだけ涙目になった。「私も…あの頃があったから、今ここにおります」
奥からその様子を見ていたたまちゃんが、小声でボソリと呟いた。「…朝ドラみたい」
この再会が、また現場とオフィスをぐっと近づけてくれる。心が通う瞬間が「とびらんぬ」の真の意味を深める、まさに“扉を開ける”エピソードだった。応接室の空気が、ほっと安堵の色を帯びた。
35.【努力の結実、そして新たな一歩】
橋本は、少し肩を落としつつも報告を終えた。「補助金申請、なんとか…通りました。一部の機能は対象外ということで、満額ではないんですが…」
山本理事長は、橋本の言葉を遮るように言った。「とんでもない、橋本さん。こんなにご尽力いただいて、感謝しかありませんわ。あのややこしい書類の山…よく粘ってくださいました」
島原もにっこりとうなずきながら、「ほんまに…私も胸が熱くなります」と続いた。
そのとき、奥のデスクから稲田が顔を上げた。「あの…すみません、ひとつ提案があるんですけど」皆の視線が稲田に集まる。
稲田は、少し緊張した面持ちで語り始めた。「“引き戸のとびらんぬ”って、すごく意義ある取り組みじゃないですか。介護職の方の負担も減るし、入所者の安全にもつながる。こういうのって、クラウドファンディングを使って支援を募るのもアリかと思って」
たまちゃんが小声で興奮気味に呟く。「クラファン来た〜!SNS展開するしか!」
稲田は続けた。「実は、私の大学の先輩がNPOやってて、以前も介護支援ツールの導入でクラファン成功してるんです。そのときは動画と現場の声を交えた紹介が効果的だったらしくて…」
藤島専務は、興味深そうにメモを取りながら言った。「なるほど…。今の時代、共感で動くお金って本当に大きいですもんね」
水野も冷静に分析する。「クラファンで資金調達できたら、補助が下りなかった分をカバーできるし、世間にこの“とびらんぬ”の意義を知ってもらう良い機会になります」
社長は、うんうんと頷きながら言った。「ほんまやなぁ。おカネだけやのうて、応援してくれる人が増えるんやったら、これ以上ない追い風や」
山本理事長は、若者たちの熱意に心を動かされた。「……それは心強いですな。若い人たちの力をお借りできるとは、ありがたい。やってみましょか」
36.【クラウドファンディング、始動】
会議室で稲田がホワイトボードの前に立ち、プロジェクターには「クラウドファンディング企画案」とタイトルが表示されている。
「目標金額は150万円。引き戸用とびらんぬの試作・現場設置・運用デモ、そして広報用の動画制作費も含めています」稲田は、具体的な数字を提示した。
藤島が、リターンについて尋ねる。「リターンはどうするの?ご支援いただいた方へのお礼ね」
稲田は、目を輝かせながらアイデアを披露した。「地域の福祉施設見学ツアーとか、オリジナルグッズ、開発秘話レポートとか…あと、ネーミング権つけてもいいかなと」
たまちゃんが、面白そうに提案に乗っかる。「“〇〇さんのとびらんぬ”とか? それ、面白いかも!」
半田は、技術面からのアプローチを説明した。「技術面では、モジュールの説明をアニメにして、動画内で入れ込みます。構造を簡単に見せるやつ、もう描きました」彼がタブレットを開くと、引き戸に設置された小さなセンサーと、携帯デバイスとの連携を説明する図が表示される。漫画チックで親しみやすく、しかし情報は的確だ。
37.【施設現場 インタビュー撮影】
小さなカメラの前に立つのは、現場で働く介護士の一人、佐藤さん(仮名)だ。
「夜勤中、鍵のかけ忘れがないか不安で…でも確認に行くと、その間に別のコールが鳴ったりして。とびらんぬがあると、事務所で一括確認できて、本当に助かるんです」佐藤さんの言葉には、偽りのない感謝が込められていた。
山本理事長は、撮影の横で小さくうなずきながら呟いた。「これが伝われば、世間もわかってくれますわな…」
そして、数週間後。クラウドファンディングのページが公開されるや否や、SNS上で話題に。「介護の扉を変える挑戦」「ITで支える“心”のバリアフリー」など、若い世代を中心に応援の声が届く。その中には、かつて施設にいた家族を持つ人や、介護現場に悩む現役職員の声も多数含まれていた。
38.【”とびらんぬ”が拓く未来】
ある日、田中社長がいつものようにお茶を入れながら、静かに言った。「なんやろな。引き戸の話してただけやのに、いつのまにか人の心が開いてきた気がするんや」
久しぶりの本社勤務だった水野が、少し笑って応じる。「“とびらんぬ”だけに、ですね」
稲田がすかさず「うまいっ!」と声を上げた。
たまちゃんも同意するように言った。「あ、朝ドラ感、今のセリフっすね」
半田は、冗談めかして提案する。「OPテーマ、もう決まりじゃないですか。『ひらけ!とびらんぬ』で」
みんなで笑いが起こる。
そして今、あちこちの現場で、静かに「とびらんぬ」の灯がともりはじめている。それは、単なるビジネスの成功以上の、温かな心の繋がりと、社会への貢献の証だった。
39.【新たな風、竹中教授の登場】
彼らの物語に、さらに新たな風を吹き込む人物がいた。
竹中 駿也教授、50歳。京都理工大学情報理工学部の教授であり、元は行動経済学専攻の博士だ。彼の研究テーマは「人間の非合理な意思決定 × 実用アルゴリズム開発」。持論は「思想はモノで語れ」。工作室を愛し、大学では“動くプロトタイプ至上主義”を徹底している。
実は彼は、TikTokアカウント「総裁Z」の中の人。ヒゲ・サングラスでマスク姿の軽快な動画が学生の間でバズり中だ。「行動経済の実験、やってみた!」シリーズが特に人気を集めている。
竹中教授は、半田の大学時代の指導教官であり、今も定期的に飲みに誘ってくる間柄。彼が後に田中オフィスの“マーケティング顧問”として正式に参画することになる。田中オフィスが「技術」と「社会実装」と「情熱」を融合させていくフェーズにおける、まさにキーマンとなる存在だ。
40.【竹中教授との再会、そして広がる世界線】
半田は、ホワイトボードに書かれた「とびらんぬVer.2」の図面を眺めながら、竹中教授に電話をかけた。
「先生、ちょっと相談したいことがありまして…」
数日後、半田は京都理工大学の教授室を訪れた。久々の再会に、二人の会話は弾む。半田が「とびらんぬVer.2」の構想を熱く語っていると、竹中教授はにやりと笑い、スマホを取り出した。
「おもろいやんけ、半田。これ、TikTokで紹介動画撮ってみようか。ほら、総裁Zの出番や」
そのまま教授室で、「徘徊検知ドアロック」の紹介動画が撮られることになった。竹中教授は、身振り手振りを交えながら、ユーモラスかつ的確にシステムの意義を語っていく。
「これ、使い方次第でクラファンもバズらせられるで?」動画を撮り終えた竹中教授の言葉に、半田の胸は高鳴った。
その日の夜、田中オフィスに戻った半田は、橋本と伊原にその出来事を報告した。
橋本は目を輝かせた。「クラファン×補助金×地域貢献の三段構えやな! 面白なってきたで!」
伊原も、その新たな展開にワクワクしている様子だった。
そんな中、なぜか機嫌のよい稲田がポツリと呟いた。「えー!TikTok!?そんなの…見たことない…!」彼女にとっては、未知の領域だった。楽しそうに隣の人を見つめる。
そこには、この人がいる、水野幸一。いつもは冷静な水野が、静かに言った。「僕がずっと欲しかったのは…こういう視点です」彼の言葉には、技術の社会実装における新たな可能性を見出した喜びが込められていた。
田中オフィスの「とびらんぬ」は、ただの介護システムではない。それは、人と人、技術と社会、そして過去と未来をつなぐ、壮大な物語の扉を開き始めていた。
41.【竹中教授、田中オフィスに降臨】
その日、田中オフィスにはいつもとは違う、どこかぴりっとした空気が流れていた。というのも、「とびらんぬVer.2」の監修をしてくれた半田の大学時代の恩師、竹中教授が来社する日だったからだ。特に、その話を聞きつけてわざわざ京都の本社に駆けつけていた水野は、応接室で静かに教授の到着を待っていた。
午後、約束の時間通りに竹中教授が姿を現した。サングラスにチノパンというカジュアルな装いながら、小脇に抱えた学会バッグが、ただ者ではない雰囲気を醸し出している。水野とは初対面の瞬間――。
竹中教授は応接室に入るなり、水野を一瞥し、驚いたように声を上げた。「ん?……おいおいおい……まさか……」
スッとサングラスを外し、その奥に隠されていた目が大きく見開かれる。竹中教授は、まるで獲物を見定めたかのように水野を食い入るように見た。「これは……大鷹のシンや……!この清潔感、冷静な判断力、そして眼光……間違いないッ!」昭和の名作SFアニメのキャラクターの雰囲気があるという評価なのだろう。
その突然の評価に、稲田はただぽかーんとしている。教授はそんな稲田に振り返り、一礼した。「そして君は……白鷺のジェーン!ちゃーんと見とるでワイは。若いけど、芯のある目ぇしてる」
すると、奥から佐々木がひょっこり顔を出す。「え、じゃあ私は?え、私ジェーンちゃうの?ワシやないんかい!」彼女の問いかけに、教授は少し困ったような顔をした。
伊原は、少し不思議そうに眉を上げた。竹中教授は、そんな伊原にグッと身を乗り出す。「うぉぉ……こ、これは……ファルコンのジャック!!ちょっと影ある美貌と、キレ者のオーラ……完璧や……」
佐々木は、自分が呼ばれなかったことに少しムッとしている。
そんな状況を面白そうに見ていた田中社長が、お腹をさすりながら声を上げた。「ほな、ワシが……あれか?フクロウの剛てやつか……。なんや、ずんぐりむっくりの方やなぁ~」
教授は静かに頷いた。「……ちょっと老けてるけど、キャラ的にはジャスティスを背負っとる」
教授は嬉しそうに振り返り、半田を指差した。「半田直樹くん、成り行き上、お前がかわせみの佐助やな」
半田は自分を指差して首をかしげる。「成り行きって…」
たまちゃんが、にやにやしながら声を上げた。「声優さん、たしか同じ人っスね〜〜♪(ドヤ)」
半田は即座にツッコミを入れた。「アニメキャラじゃねーわっ!中の人などいなーい!!」その言葉は、まるでオタク界の金言のようだった。
時代を動かす狼煙
ナレーション:
こうして、田中オフィスは再び“熱くてアホで、でも本気”なチームとしてギアを上げた。竹中教授の登場は、彼らの心に新たな火を灯したのだ。水野の目に、確かに宿った一筋の光……それは、単なるビジネスの成功ではなく、時代を動かすマーケティングの狼煙だった──。
ーー続くーー