第二十三話、田中オフィス東京事務所
ーー静寂の中の洞察ーー
ビルの外では午後の風が木々を揺らし、東京の空が青く晴れていた。
六本木の一角にある田中オフィス東京事務所。その応接室は、淡いグレーのカーペットとウォールナットの家具で整えられ、簡素ながらも品の良い静けさをたたえていた。
控えめなノックの音に続き、ドアが静かに開いた。
「すみません、ここ今私一人なんで。」
低く抑えた声とともに、水野幸一が姿を現した。白いシャツの袖を軽くまくり、手にした黒縁のお盆には湯気の立つ煎茶と白い布に包まれたおしぼり。彼はまるで一流ホテルのコンシェルジュのような所作で、訪問者の前にお茶を置いていく。
倉持SEはその手際に目を見張り、あわてて言葉を発した。
「ど、どうぞお構いなく、水野さんにそんな…。恐縮です。」
だがその声が終わる前に、お盆の上は空になり、茶とおしぼりが整然と配置されていた。
「いえ、こういうの、嫌いじゃないんですよ。」
水野は微笑みながら軽く頭を下げ、自席に腰を下ろした。
佐藤美咲は、その静かなやり取りに目を細めながら、ふと窓の外を見やった。
「ステキなオフィスですね。六本木ヒルズの近くに、こんな綺麗なビルがあるなんて…」
そう呟いたものの、内心では──
(あ~…こんなところに就職したかった…。夢みたい…。)
倉持がビジネスバッグからPCを取り出し、静かに起動する音が応接室の空気に混じった。
「先日ご覧頂いたように、あそこはどうしてもザワザワしてましてね。落ち着いてご説明できなかったので、今日はしっかりご説明をと思いまして。」
ディスプレイに現れたのは、鮮やかな色で描かれた「カーサポート・オムニチャネル」の概要図。中心に据えられたのは、チャネルを横断してサービスを一元提供するシステムアーキテクチャだった。
水野は資料に目を通しながら、内心で舌打ちした。
(これ、あの環境でここまで持ち出せるって…。Vシステムの情報管理、あんまりよろしくないな…。)
しかし、顔には出さない。ただ、心の奥に引っかかるものを覚えながらも、相手の誠意を無視することはできなかった。
倉持は画面を指差しながら説明を続ける。
「こちらが全体構成です。我々としては、どのチャネルからでも同一のUXを提供する設計を目指しています。スマホからでもPCでも、対応の一貫性を保つ方向で──」
佐藤が息を呑んだ。
「すごい…これ、本当に実現したら、かなり便利なサービスになりますよね。」
水野は頷きながらも、冷静に問いを投げかける。
「統一されたUXを目指すというのは非常に素晴らしいです。ただ、それを実現するにはチャネル間のプロセス連携が鍵になりますが、具体的な実装については?」
倉持は少し言葉を選ぶように視線を泳がせ、苦笑いを浮かべた。
「そこが…正直まだ曖昧でして。現在、各チームの調整がうまく進んでいない部分がありまして。そのあたりを、U警備さんとも相談しながら、方向性を定めようと。」
水野は、静かに相手を見つめながら、胸の内で思った。
(やっぱりな…。ここが詰め切れてないと、いくら構想が良くても全体の完成度は落ちる。…まあ、楠木さんの顔を立てるなら、じっくり腰を据えて関わるしかないな。)
一拍置いて、彼は真っすぐ倉持の目を見据えた。
「わかりました。この件については引き続き、しっかり話し合いながら進めていきましょう。御社の強みを最大限に活かせるよう、私もサポートしていきます。」
応接室に静寂が戻っていた。
パソコンのモニターから投影された「カーサポート・オムニチャネル」の構成図を前に、水野幸一は腕を組み、黙って資料に目を落としたまま動かない。
倉持SEの説明が続いていた。
「……このセグメントでは、外部チャネルからのアクセスを一元管理できる仕組みにしていまして……」
声は熱を帯びている。けれど水野の耳には、その言葉の背後にある“空白”の方がはるかに鮮明に響いていた。
(水野の心の声:これはシステムの作業体制の問題ではない。もっと深いところに原因がある……)
水野のまなざしが、ゆっくりと資料からモニターへ移る。図面に記されたUX設計やチャネル接続のライン、それらは技術的にはきちんと整理されていた。しかし、水野が見ていたのは、そこには書かれていない「人間の要素」だった。
——カーサポートの爆発的な売上。その背景にいたのは、楠木という男だった。
顧客との会話で心をつかみ、必要な情報を簡潔にメールでフォローする。丁寧で情熱的。彼の言葉には、相手の不安を一瞬で払拭する不思議な力があった。
(水野の心の声:彼のような人間がいたからこそ、このサービスは回っていた……今のアプリは、単なるリンク集に過ぎない。“便利”は提供できても、“安心”までは届けられない)
倉持の声が再び響いた。
「このオムニチャネル化により、スマホやパソコンからの受付もスムーズになりますし、旅行代理店や自動車整備工場といった外部チャネルでもサービス提供が可能になります」
佐藤美咲が小さくうなずく。
「確かに画期的な試みですね。これがあれば便利になる人も多いと思います」
水野は冷静に表情を保ちながらも、声を低くして切り込んだ。
「提案自体は非常に興味深いものです。ただ、顧客満足度を維持するには、オペレーターや営業スタッフが楠木さんと同じようなサービス品質を提供できる体制が必要ではありませんか? その点については、どのようにお考えでしょうか?」
倉持は、言葉を探すように一瞬視線を泳がせた。
「……ええ、そこが難点ではあります。ただ、新しいシステムで操作を簡易化することで、スタッフ間の対応品質を補えるかと思っております」
(水野の心の声:いや、それでは不十分だ。問題はUIや操作性ではなく、“誰が接するか”だ。楠木さんのような“人”こそが、このサービスの中核だ)
沈黙が一瞬流れる。
その間、水野は静かに腹を括っていた。
(水野の心の声:これはオペレーションの問題でも、システムのバグでもない。サービスそのものの在り方——その設計思想から見直さなければならない。厄介だが……やりがいのある仕事でもある)
彼は軽くうなずき、資料の一枚に目を落としながら、慎重に言葉を選び始めた。
「……わかりました。根本からの見直しも含めて、引き続き一緒に検討していきましょう。技術だけではなく、貴社の強みである“人”をどう活かすか——私の方でも、サポートしていきます」
倉持が少しホッとしたように頷き、佐藤が「ありがとうございます」と小さく口にする。
だが、水野の瞳の奥には、まだ誰も気づいていない火花が宿っていた。
この静寂な応接室から、新たな戦いが始まろうとしていた——サービスの本質と、人間の価値を問い直す戦いが。
ーー静かな突破口ーー
応接室には、資料をめくる紙の音と、控えめな空調の風切り音だけが流れていた。
長テーブルを挟み、倉持SEが説明を続ける。背筋を伸ばし、ディスプレイに投影された設計図に目を向けるその姿は、技術者としての自信と緊張を同時に滲ませていた。
「現在の構成では、旅行代理店との連携が可能となるよう設計していますが…」倉持の声は丁寧だが、どこか慎重だった。
「なるほど。その点については、顧客層の多様性も視野に入れるべきかと思いますね。」
水野幸一の返しは冷静で、論点を外さない。それでも、その声色にはどこか焦燥感が潜んでいた。机上の図面を見つめる視線の奥に、彼はこのプロジェクトの根深い課題を感じ取っていたのだ。
一方、応接室の端に座る佐藤美咲は、声を出せずにいた。
彼女はまだ入社して間もない新人。オムニチャネルだのUXだのという言葉が飛び交う会話に、まるで異国語を聞くような戸惑いを抱えていた。資料の図表をじっと見つめながら、思わず小さく首をかしげる。
(……なんだか、すごく複雑そう。でも……これって、誰がどうやって使うんだろう?)
その瞬間、彼女の胸の中で、小さな疑問が芽を出した。専門用語ではなく、実際にそれを使う“誰か”の姿を思い浮かべたのだ。
意を決して、佐藤は身体を乗り出した。
「あのー、ちょっといいですか?」
一瞬、応接室の空気が止まった。
水野と倉持が彼女を見やる。佐藤の声には緊張が滲んでいたが、瞳は真剣だった。
「このシステムって…初めてのお客さんが使う時、例えば家にいる時とかでも、簡単に操作できるものなんですか?」
倉持が言葉を探すようにまばたきをし、水野が一瞬だけ、微笑を浮かべる。まるで凍っていた湖面に、暖かな陽光が差し込んだようだった。
倉持は少し躊躇いながらも答えた。「確かに、そこが一つの課題ではあります。現在の設計では、ある程度の使い方に慣れた方を対象とした操作性になっていますので、初心者にはわかりにくい部分があるかもしれません。」
水野がゆっくりと頷いた。
「いい質問ですね。実際、顧客満足度を高めるためには初心者でも直感的に操作できるUIが不可欠です。佐藤さんが感じたこの点は、非常に重要な視点ですよ。」
その言葉に、佐藤は少し顔を赤らめた。
「ありがとうございます。なんだか、このシステムってすごく便利そうだけど、実際にお客さんがどんな風に使うのかが、イメージしにくいなって思いました。」
水野はその言葉を、まるで金塊のように心の中で抱きしめた。
(新人ならではの純粋な視点…こうした気づきが、プロジェクトを前進させることもあるんだ。)
倉持がうなずく。「たしかに・・・。そのイメージをもっと具体化するために、お客様の利用シナリオをさらに掘り下げていく必要がありますね。ありがとう、佐藤さん。」
佐藤の声がきっかけとなり、空気が変わった。
これまで機能や設計、業務効率の話に終始していた会議が、「誰のためのシステムか?」という根本の問いへと回帰していく。現行システムの使いやすさ、設計の方向性、真の意味でのユーザー視点が、次々と議題に浮かび上がった。
水野は、心の中で佐藤に小さく敬礼した。
(これだ。この発見がなければ、見落としていたかもしれない。プロジェクトを救うのは、必ずしも経験や理論じゃない。現場の声と、素朴な疑問こそが未来を拓く鍵だ。)
そして彼は静かに、佐藤のこれからに希望を見た。
まだ芽吹いたばかりの若葉のような彼女の言葉が、プロジェクトの風向きを変えようとしていた。
夜の東京事務所 ― 静謐の中で始まる知略の序章
東京の夜は静かだった。
外からわずかに車の音が漏れ聞こえるだけで、田中オフィス東京事務所のフロアは時間の流れを忘れたように沈黙していた。
ーー楠木匡介と水野幸一、静かなる対話の火花ーー
応接室から倉持SEと佐藤美咲が出て行ったあと、水野幸一はふうと息をつきながら、ふと厨房へ足を運んだ。
棚から取り出したのは、コンビニで見慣れたカップ麺。蓋を開け、給湯ポットから静かに湯を注ぎ入れる。
「まぁ、今日の進捗は悪くないな――」
独り言のように心の中でつぶやき、湯気の立つ麺をすすりながら、肩を回して軽くほぐす。
この緊張と静寂の間に流れる時間が、むしろ思考を研ぎ澄ませてくれるのを水野は知っていた。
一時間後。
予定通り、静寂を破るノックの音が響いた。
「失礼いたします。」
現れたのは楠木匡介。姿勢は相変わらず真っすぐで、髪も乱れなく整っている。上質なスーツに包まれた姿は、まるで戦略を携えた外交官のようだった。
「水野さん、本日はお忙しいところご面倒をおかけしております。」
「いえ、大したことではありませんよ。」
楠木は一瞬、口元に僅かな緊張を宿らせた。だが、それをすぐに引き締めると、まっすぐに水野を見据えて言った。
「今日は一つお話ししたいことがありまして。実は、Vシステムとの契約を切って、Q-pullにアプリ開発を依頼する計画を考えています。」
沈黙が落ちた。
水野は少し眉を寄せ、しかしすぐに平静を装う。
(Q-pullへの依頼か…。確かに彼らは大手で実績もある。だが、このプロジェクトの核心は、そんな単純な“スペック”だけで測れるものじゃないはずだ。)
「楠木さん、その計画についてですが、私は少々懸念があります。この開発については、Vシステムが適任だと考えています。」
楠木の目が静かに見開かれた。
「Vシステムが、ですか? あの、内部の連絡すらまともに回っていない現場が、今回のような複雑なアプリ開発に本当に耐えられると?」
水野はカップを机に置き、静かに言葉を紡いだ。
「確かに、体制や職場環境には問題があります。しかし、彼らは長年現場で戦ってきた経験があります。特に、カスタマイズ性の高い開発においては、極めて柔軟かつ実践的な対応力を持っている。Q-pullのような大手に任せれば、確かにスピードも予算対応もスムーズでしょう。ですが、その分だけ、仕様の個別対応力や現場の肌感に基づく調整力が、どうしても弱くなります。」
楠木はじっと水野の言葉を噛みしめるように、黙った。
そして内心でこうつぶやいていた。
(やはり、次の手を打ってきたか…。水野さんはさすがだ。単なる反論じゃない。状況の本質を掴んできたようだな。それを見極め、理で覆すこの提案力…。)
それと同時に、彼の中に微かな火が灯る。
――ライバル心だった。
水野はなおも続ける。
「このプロジェクトでは、技術力よりもむしろ、現場の理解と対応力が肝です。急激な切り替えは、かえって混乱を招きます。」
「……ですが」と楠木も負けじと声を発した。「彼らの体制を見ていて、不安を感じるのも事実です。水野さん、それをどう改善するとお考えですか?」
即答だった。
「彼らに適した環境を整えること。明確な役割分担と進捗の見える化、そして我々のサポート体制。それが揃えば、彼らは力を発揮できます。放逐するより、引き上げる方がずっと建設的です。」
楠木はその目を細め、じっと水野を見た。
(……なるほど。理屈だけじゃない。覚悟がある。自分の言葉に責任を持つ姿勢。それを持つ者にだけ、人はついていく。)
彼は静かに微笑み、口を開いた。
「ありがとうございます、水野さん。お話を伺って、考え直さなければならない点が見えてきました。引き続き、ご助力いただけますか?」
「もちろんです。楠木さん、最善の方法を共に見つけましょう。」
楠木は立ち上がり、応接室のドアに手をかける。
「では、またご連絡させていただきます。」
その背には、沈黙と共に確かな決意があった。
(水野幸一。この男の前で、ただの“代替案”では勝てない。より緻密に、より先を読んだ策を。そして、自分の正しさを証明するために……)
夜のオフィスに、再び静寂が戻った。
だがその静寂の奥で、見えない火花が、確かに音もなく散っていた。
ーーウォークスルーの午後ーー
—田中オフィス東京事務所 会議室にて—
午後の曇天が、窓ガラス越しに淡い光を投げかけていた。田中オフィス東京事務所の会議室には、重たい緊張が張り詰めている。
静寂を切り裂くように、楠木匡介が椅子を引く音が響いた。黒のノートパソコンとスマートフォンを机に並べると、その姿勢には、静かな自信と覚悟が漂っていた。
(このプロトタイプは、AIとQ-pullの若手の力で仕上げた。完成度には自信がある。ここで水野さんを納得させるだけのパフォーマンスを見せなければ…。)
その斜向かい、Vシステムの倉持渉が、やや大きめのラップトップを膝に置いたまま、ディスプレイの確認を繰り返している。目の奥には焦りではなく、闘志が燃えていた。
(完璧じゃなくてもいい。このβ版で、我々の真剣さと可能性を見せるんだ…!)
会議室の隅には、資料を抱えた一人の女性の姿があった。新人、佐藤美咲。まだどこか初々しさが残るが、彼女のまなざしは真剣そのものだった。
「では、まず楠木さんのプロトタイプから見せてもらいましょう。」
水野幸一が静かに切り出す。
「承知しました。」
楠木がスマートフォンを操作すると、画面がなめらかに切り替わり、ユーザーフレンドリーなインターフェースが姿を現した。
「こちらが『カーサポート・オムニチャネル』のプロトタイプです。スマホでもPCでも同様に操作可能で、AIによる案内機能も標準搭載しています。」
美しく洗練されたデザイン。迷いのない画面遷移。短いタップで全てが完結する導線。会議室内には、驚嘆のさざ波が静かに広がった。
佐藤は小さく息をのんだ。(すごい…UIが本当に直感的。まるで考える前に手が動いてくれるみたい…)
次に倉持が立ち上がり、やや重たいラップトップをテーブルに置いた。
「こちらはVシステムの『カーサポート・オムニチャネル』β版です。現状で動く全モジュールを組み込みました。多少粗削りですが、構成力には自信があります。」
彼がデモを開始すると、確かに動きはぎこちない。しかし、その一つひとつの画面が、まるで現場の声を吸い上げたように、実務に根差した設計だった。
「代理店操作画面は、AIのかわりに、画面ごとにQ&Aのポップアップを内蔵。ユーザーが迷った瞬間にガイドが立ち上がります。」
水野は腕を組んだまま、じっと二人のデモを見守っていた。
(楠木さんのは洗練されているが、現場への定着にはまだ時間がかかるかもしれない。一方で倉持さんのは、現場に寄り添っているが、洗練性では一歩劣る。)
その時だった。
「…あのっ!」
場を遮ったのは、佐藤だった。
突然の声に、会議室が静まり返る。
「そのGUI…私が設計しました。アルバイトをしていた頃、お客様対応中に操作画面が分からなくなって、パニックになった経験があって…。その時、画面上にガイドが出てくればって、ずっと思っていたんです。それを形にしたくて…。」
彼女の声は震えていたが、言葉には確かな熱があった。
楠木は目を見開いたまま、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど…。その視点、正直、僕にはなかった。プロだからこそ読んで理解すべき、そう思い込んでいた…。」
水野がにこりと笑った。
「重要なのは、ユーザーが“迷わない”設計です。佐藤さんの言葉が、それを思い出させてくれました。」
倉持は佐藤に軽く会釈する。
「ありがとう。君のその視点が、このシステムに深みを与えてくれた。」
楠木が、ゆっくりと手を上げた。
「……負けました。Vシステムさん、そして佐藤さんの現場目線に脱帽です。このプロジェクト、安心して任せられると確信しました。」
その言葉に、倉持は安堵の吐息を漏らし、佐藤は目を丸くして、思わず口元を押さえた。
水野が最後に語気を強めて言った。
「このウォークスルーは終わりじゃない。ここが出発点です。我々は一緒に、“本当に使われるシステム”を創っていく。その第一歩として、今日の対決は最高の一幕でした。」
会議室の空気が、穏やかに、しかし確実に変わっていた。
薄曇りの空が、わずかに明るくなっていた。
ーーほっとする一段落 ―、会議室にてーー
東京事務所の会議室には、ひとつの戦いを終えた静けさが漂っていた。
熱を帯びたウォークスルー対決の後、楠木が足早に退室してから数分。残された三人には、達成感と、少しの疲労と、安堵が混じった空気がゆるやかに流れていた。
水野幸一は席を立たず、前に座るふたりの姿を見つめた。
その眼差しには、評価というよりも、ねぎらいが込められていた。
「倉持さん、佐藤さん、本日はありがとうございました。」
声は、いつものクールな響きとは少し違い、どこか柔らかさを帯びていた。
「ここまで熱心に準備してくださったおかげで、大きな一歩を踏み出せたと思います。」
倉持渉は、その言葉に小さく肩を落とし、安堵の笑みを浮かべた。
「とんでもないです。まだまだ課題が多いですが……こうして評価していただけて、ホッとしています。」
その隣で、佐藤美咲は控えめに視線を落としたまま、声を絞り出すように言った。
「私なんて……ほとんどお役に立てていないと思いますが……。でも、あのGUIについて気づいていただけて、嬉しかったです。」
水野はその言葉を否定せず、静かに佐藤を見つめた。
そして、一拍置いて口を開いた。
「佐藤さんの視点は非常に貴重でした。新人だからこそ気づける部分もある。それをしっかりと発揮したことに対して、誇りを持っていいと思います。」
その言葉に、佐藤の頬がほんのりと染まった。
「ありがとうございます……。こんなふうに言っていただけると、少し自信が持てます。」
倉持が横から優しく微笑んだ。
「佐藤さん、これからもどんどん力を発揮してほしいです。今日の発言で、私たちの作業にも新しい視点が加わるはずです。」
そう言われ、佐藤は少しだけ顔を上げ、頷いた。表情には、これまでにない強さがわずかに宿っていた。
水野はその様子を見届けるように、今度は倉持に向き直った。
「倉持さん、貴社の技術力がしっかり感じられるデモでした。まだ調整の余地があるとはいえ、今回のβ版は説得力がありましたよ。このプロジェクトを成功に導くための柱となると確信しています。」
倉持の顔には、技術者らしい少し照れた表情が浮かんだ。
「ありがとうございます、水野さん。そう言っていただけると……この先の作業にも、ますます力が入ります。」
水野は軽く笑みを浮かべた。そして、場の空気をやさしく締めくくるように言った。
「では、今日はこれで解散としましょう。お疲れ様でした。次の段階に向けて、準備を整えていきましょう。」
ふたりは席を立ち、深く礼をして会議室を後にした。
「本日はありがとうございました。頑張ります!」
「こちらこそお世話になりました。よろしくお願いします。」
静かにドアが閉まる。
部屋には、水野ひとりが残された。
静寂の中、彼は窓の外を見つめながら、静かに思索を巡らせた。
――一つの山を越えた。
次は、もっと高い頂を目指していかなければ……。
会議室に響く時計の針の音だけが、彼の内省を包み込むように刻み続けていた。
ーー続くーー