第二十一話、田中オフィス、東京進出
ーー風の読めない男ーー
登記手続きは滞りなく終えた。
がらんとした田中オフィス東京事務所で、水野幸一は一人、机の配置について思案していた。
整然と磨かれたフロアに、今はまだ何もない。壁には時計すらかかっておらず、わずかな物音も吸い込まれていくような静けさがあった。
窓の外には、高層ビルが幾重にも重なり、灰色の街並みが果てしなく続いている。
——東京。
京都のしっとりとした風情とは正反対の、硬質で密度の高い喧騒が、ここまで響いてくる気がした。
「さて、どうしたものか……」
腕を組み、広い空間を見渡す。
執務スペース、会議室、来客用応接スペース——どこに何をどう配置すれば、最も効率的で、かつ気持ちよく働ける場になるのか。
この場所を一から設計し、形にする。
それは同時に、自分のこれからの働き方をも形づくることでもあった。
田中卓造社長からおりいって相談を受けたのは、わずか二週間前だった。
「Q-pullやU警備、東京のごつい仕事も増えてきたんで、あっちに出張所をつくろうと思うんや。それで、水野くん、あんたに開設委員長、その後は東京所長を頼みたいんや!」
水野はその申し出を静かに受け止めた。
挑戦を前にしても浮つかず、慎重すぎもしない。それが彼の信条だった。
幸いなことに、長年苦楽を共にしてきた営業の橋本和馬が、ついに司法書士試験に合格し、京都本社の営業部長として後任を引き継いでくれた。
橋本に任せておけば、京都は安泰だ。
水野は東京で、自分の真価を問うことになるだろう。
ふと、その静寂を破るようにスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
ディスプレイに表示された名前を見て、水野の目が一瞬細められる。
——楠木匡介。
U警備システム企画部。若くして頭角を現した切れ者であり、最近はなにかとこちらを観察する視線を向けてくる男だ。
「こちら水野です」
落ち着いた口調で応じると、受話器の向こうから焦りを帯びた声が返ってきた。
「楠木です、すみません、急な相談なのですが……今、Vシステムの杉山課長と担当SEの倉持さんが来ているのですが、いくつか問題があって対応をお願いしたいです」
声の調子は冷静を装いながらも、奥に確かな緊張があった。現場で何かが起きている——水野は即座に判断する。
「了解です。すぐに伺います」
短く答えると、スマートフォンを切り、上着を手に取った。
広くてまだ空っぽの東京事務所を背に、水野はドアを開けて歩き出す。
これが、東京での第一戦。
彼は、静かに風を起こす男だった。
ーー風を起こす男ーー
東京・六本木、U警備本社ビル。
応接室の窓越しに、午後の陽光が白く差し込んでいる。
楠木匡介は、そのまばゆい光をぼんやりと見つめながら、手元のタブレット端末を指先でなぞっていた。画面の上には数本のメールが未読のまま赤く点滅しているが、今はどうでもよかった。
彼の胸の内には別の、もっと奇妙な熱が渦巻いていた。
——水野幸一。
田中オフィスの東京事務所長。司法書士、公認会計士、さらに情報セキュリティの資格まで揃えた男。その肩書きだけ見れば、ありがちな「スペック高め」の実務家に過ぎない。だが、実際に対峙したときのあの独特の手応えといったらどうだ。
手の内を読んだつもりが、いつのまにか掌の上に乗せられている。質問を投げれば、期待した角度の斜め上を、すっと風のように通り抜けていく。
——妙な男だ。
はじめて対面したときから、なにかが違った。
それは敗北感に近いものだった。
今のところ、0勝2敗といったところか。気づけば、一手先、いや、二手先を見越されている気さえする。
だが、今回は違う。
今回は"観察"ではない。
"検証"でもない。
——お手並み、拝見といこうじゃないか。
楠木はそんな不遜な想いを胸に隠し、平然とした面持ちでスマートフォンを取り出した。数秒の呼び出し音の後、あの冷静な声が返ってくる。
「こちら水野です」
「楠木です、すみません、急な相談なのですが」
声のトーンはあえて少し焦らせるように仕立てた。
切羽詰まった現場、仕様と納期の齟齬、交わされた文書の影。現場の緊張を一手に抱えるような演出——すべては、水野がどう出るかを見るための、仕掛けだ。
「了解です。すぐに伺います」
即答だった。
——いい返事だ。余計な詮索も、見栄もない。
だが、それがまた面白くない。
数十分後、応接室のドアが静かに開き、長身痩躯の男が現れた。
黒のスーツに、グレーのネクタイ。ひと目で仕立ての良さが分かるが、気取ったところはない。無駄なものを削ぎ落とした装備。
「初めまして、水野幸一と申します。田中オフィス東京事務所の所長を務めております」
深々と頭を下げ、丁寧に名刺を差し出す所作には、押しつけがましい自信も、媚びた営業臭も一切なかった。ただ「私に任せてください」と言わんばかりの、静かな力。
——やはり、この男だ。
楠木は心の中で苦笑した。思った通り、というより、思った以上。
だが、それでも彼は訊ねる。まるで偶然を装うように、何気ない風を装って。
「水野さん、もし差し支えなければ……法的なご見解をいただけますか?」
声色は穏やかに。
けれど、胸の内には小さな試験紙を浸すような、静かな挑戦がある。
この男が、どう受け止めるか。
どう、かわすか。
どう、風を起こすのか。
——東京のビジネスの現場で、今度こそ一矢報いるつもりでいる。
ただし、笑顔のままで。
ーー東京の洗礼ーー
「田中オフィス東京事務所の水野と申します」
杉山課長、Vシステム営業担当。
倉持SE、やや緊張の面持ち。
楠木は言葉を選びながら説明を始めた。
「当社の『カーサポート』に関する契約システムの件ですが――」
聞くほどに、問題は根深かった。
仕様の齟齬。納期の遅延。書面での抗議。そして本日の訪問。
表向きは“確認と調整”だが、裏では法的な火種がくすぶっていた。
「オブザーバーとして…」楠木が低く告げる。
「何かあれば、法律面で助言をお願いできればと」
水野は頷いた。
この手のトラブルは、すでに京都でも数件処理してきた。
だが――東京では、違うルールが流れている。
杉山の説明を聞きながら、水野は目を細めた。
資料、契約条項、技術要件、責任分界点――
脳裏に浮かぶのは、冷たい数字と文字の羅列。
そして、背後で動く“意図”。
(このプロジェクト、最初から誰かが無理をしていたな)
水野は静かに口を開いた。
「本件、まずは契約書と納品仕様書、それとやり取りのメールの時系列を整理させてください。
Vシステムさんにとっても、U警備さんにとっても、これ以上傷を深くしない方法があるはずです」
声は低く、だがはっきりと響いた。
場に流れていた緊張が、わずかにほどけた。
それは、水野幸一という男の“仕事の匂い”だった。
「水野さん、これで少し進展が見られるといいですが、先方の事情で揉み消されるようなことだけは避けたいですね」
それは、自分の懸念を半ば投げるような言い方だった。
だが水野は、それを正面から受け止め、少しだけ声を和らげて言った。
「楠木さん、そこがポイントです」
風が一瞬、シャツの裾を揺らした。水野の目は真っ直ぐに楠木を見ていた。
「状況に応じて適切に動く必要がありますが……冷静に判断していきましょう」
その言葉に、楠木は無言のままうなずいた。
だが彼の胸の奥には、まるで深い湖に石を投げ込んだような波紋が広がっていた。
この男——やはり一筋縄ではいかない。
言葉にしない駆け引き、意図を探らせる余白。
0勝2敗。
またしても、一歩先を読まれた気がした。
——だが、東京の風は、まだ吹き始めたばかりだ。
ーー続くーー