第十九話、楠木匡介
ーーQ-pull本社の会議室ーー
Q-pull本社の会議室は、最新鋭のテクノロジーが凝縮された空間だった。壁一面の大型モニターには、鮮やかなブルーとホワイトで彩られた「とびらんぬQ3」のロゴが映し出されている。その洗練されたデザインは、まるで未来の扉を開く鍵のようだ。
U警備システム企画部の若きエース、楠木匡介(くすのき きょうすけ・28歳)は、その空間に全く引けを取らない存在感を放っていた。バシッと決まったスーツに、爽やかな笑顔。社内では「スーパー営業」と呼ばれ、上田社長からの信頼も厚い。そんな彼が、ふとたまちゃんの方に歩み寄ってきた。
「素敵なネーミングですね。“とびらんぬ”って、つい口にしたくなる語感があって、思わず笑顔になる。しかも“Q3”って加わることで、未来的な印象もある…いいセンスされてますね」
楠木の言葉に、たまちゃんは少し驚いたように目を瞬かせた。
「えっ、あ、ほんとですか?えへへ……あんまり田中オフィスではウケなかったんですけど……」
顔を赤らめて、たまちゃんは少しモジモジしている。普段の明るい彼女からは想像できないほど、初々しい反応だった。
「田中オフィスの皆さんは堅実ですから。でも、この名前は“印象に残る”っていう営業面での大切な要素をしっかり押さえてますよ。実は僕、上田社長から“君の営業資料にもこの名前を活かせ”って言われてまして」
「ええっ、ホントに!?わ、なんか照れちゃうなあ……」
たまちゃんはさらに顔を赤らめ、嬉しそうに身をよじる。遠くから水野が、その様子を静かに見つめていた。彼の表情は、わずかに口角が上がっているようにも見えた。
ーーQ-pull会議室の一角ーー
楠木とたまちゃんが笑顔で話しているその横で、半田直樹は少し離れたところからその様子を見ていた。彼の表情はいつもの無表情を装っている。しかし、目元にはわずかな焦りと警戒の色が浮かび、微かに動く視線が、楠木とたまちゃんの間に築かれつつある親密な空気を捉えていた。
楠木は、たまちゃんの才能を褒めちぎる。
「たまちゃんって、田中オフィスの最年少なんですね。でもセンスも発想力もすごい。将来が楽しみですね」
「いや~、まだまだ勉強中で……。でも、半田さんにいっぱい教えてもらってるんです。すごく頼りになるんですよ!」
たまちゃんの無邪気な一言に、楠木がチラッと半田に目をやった。その視線には、探るような、あるいは評価するような光が宿っていた。
「へぇ、そうなんですね。……失礼しました。僕、楠木です。Q-pull営業企画。田中オフィスさんとは、これから長くご一緒できそうですね」
楠木は、たまちゃんから半田へと向きを変え、右手を差し出した。半田はゆっくりと、しかし確実にその手に応じた。
「……半田です。開発を担当してます」
半田の低いトーンの声が、会議室の静けさにわずかな波紋を広げる。握手を交わす二人。だが、その間には、まるで火花が散るかのような微妙な空気が流れていた。
たまちゃんは、その変化に気づいたようだった。「あれ……?半田さん、ちょっと無口になった?」
その後、会議は粛々と進行した。しかし、半田の作業スピードはいつもより速く、彼の指がキーボードを叩く音は、どこか焦燥感を帯びているようにも聞こえた。そして、その日の議事録のコメント欄には、半田の手によってこう記されていた。
「とびらんぬQ3」次期アップデート案、近日中にプロトタイプ提出可能。たまちゃん案活かしたUI設計も検討中。
田中オフィスに、目に見えない「風」が吹き始めましたね……。
ーー某ビル1階のオシャレなイタリアンカフェにてーー
打ち合わせの合間の休憩時間、場所は某ビル1階のオシャレなイタリアンカフェ。窓から差し込む柔らかな光が、店内を穏やかなムードで包み込んでいる。
楠木は、コーヒーカップを傾けながら、たまちゃんに提案した。
「じゃあ、今度のQ3の告知映像、TikTokで流すならBGMはどうします?たまちゃんが登場するなら、ちょっとポップな感じとか?」
「えーっ!私出るんですか?そんなの無理ですよ~でも…ちょっと面白そうかも」
たまちゃんはパスタをくるくるしながら、頬を赤らめる。その表情は、戸惑いと好奇心が入り混じっていた。
「たまちゃんのネーミング力、絶対バズりますって。『とびらんぬQ3』、あのネーミングで笑ってもらったあとに『本格セキュリティです』ってギャップ見せるのがイイんですよ」
楠木の言葉に、たまちゃんは爆笑した。
「楠木さん、話し方うまーい!さすが営業って感じ!」
その横で、半田は静かにペペロンチーノを口に運ぶ。表情は変わらない。しかし、フォークが空を切る回数が、少しだけ増えたように見えた。
「……TikTokの話なら、事前にセキュリティレベルの確認が必要です。撮影エリアの限定と、編集時のメタデータ削除も…」
半田は、冷静な声で技術的な懸念を提示する。その言葉は、まるで冷水を浴びせるかのようだったが、楠木はそれを好意的に受け止めた。
「ああ、さすが。技術者の視点、大事ですよね。そこ、僕らが一番抜けがちになるところ。助かります、ほんとに」
楠木の素直な言葉に、たまちゃんがぱちぱちと拍手する。
「やっぱり半田さん、頼れる~!」
たまちゃんの言葉に、半田の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。その一瞬の表情の変化は、誰も気づかないほど微かなものだったが、彼の中の何かが動いている証拠だった。
こうして、微妙な三角構造のまま、午後の打ち合わせに突入した。たまちゃんは気づいていないが、半田のペースに、少しずつ乱れが出始めていた……。
ーー動き出すプロジェクトーー
午後の陽射しが田中オフィスのミーティングルームに差し込む中、藤島専務は静かに資料を水野さんと半田くんに手渡した。
「これが次回Q-pullでの打ち合わせ資料よ。上田社長とU警備の共同案件で、楠木さんも同席とのこと。特にこの部分、『運用設計の実証フロー』、水野さんの視点が大事になるわね」
水野さんは資料を受け取りながら答えた。「了解しました。藤島専務、あの楠木さんって方、ちょっと話題の人みたいですね」
藤島専務は眼鏡をくいっと上げ、冷静に言った。「ええ、武田さんに聞いたけれど…『若いけど根回し上手で、行動力がエグい』って評判。あと…独身、とのこと」
微妙な間が空いた後、半田くんが反応した。「…それ、業務情報ですか?」
藤島専務はフッと笑った。「ふふ、リスク管理よ。たまちゃんのエネルギーが業務に偏りすぎても、相手の“熱量”に飲まれることがあるから。水野さん、少しクールにサポートしてあげてね」
水野さんは小さく笑いながら言った。「僕なりに見守ってますよ。ちゃんと仕事として、ね」
半田くんが小声で呟いた。「……仕事、か」
ーーU警備本社での打ち合わせーー
そして翌日、U警備本社。クリアなガラス張りの会議室に、水野さんと半田くん、そしてU警備の楠木匡介が顔を揃えていた。
楠木は二人の顔を見て、少し残念そうに言った。「お、またお二人!たまちゃんは今日は来ないんですね、ちょっと寂しいなぁ」
水野さんは冷静に答えた。「今日は技術と運用の要件整理ですので。奥田珠実の件は…また別途で」
楠木はふふと笑った。「そうですか。ではその分、こちらも真剣にいきましょう。――U警備のシステム部門とも連携は整っています」
半田くんは持参した資料を展開しながら言った。「Python側のサンプルAPI、こっちで整理してきました。コードベースは田中オフィス仕様に準拠させてます」
資料が広げられ、打ち合わせは着実に進行していく。水野さんと半田くんの「大人の余裕」チームは、静かに実績を積み重ねていた。
ーー募る違和感ーー
その日の夜、田中オフィス。半田くんは、先ほどのQ-pullでの打ち合わせを思い返し、ふとした違和感と少しの胸のモヤモヤを抱えながら自席に戻ってきた。すると、デスクの仕切り越しにたまちゃんがひょいと顔を出す。
「半田さーん、あのね……楠木さんからLINEが来てて」
半田くんは思わず聞き返した。「え、いつの間にアカウント交換してたの?」
たまちゃんはスマホをいじりながら、少し言い訳がましく答えた。「えっと…前回のQ-pullのとき、打ち合わせ終わってから。『田中オフィスさんにメールを入れると、半田さんが上司に聞かれたり大事になるといけないから、基本的な質問をできる人がいるといいなあと思って、ダメですか?』って。変じゃないよね?」
半田くんは言葉を選びながら言った。「……まぁ、確かに表向きは、ね」
たまちゃんはスマホをいじり続ける。「で、さっき夕食どう?って来てて」
その瞬間、奥のバックオフィス席からメグ姐さんこと佐々木恵が、スッと立ち上がって近づいてきた。
「……それ、仕事とちゃうやん。たまちゃん、丁寧にお断りしとき」
たまちゃんはメグ姐さんの言葉に「えっ……やっぱそうですよね……」と、はっとした表情を見せた。
メグ姐さんは諭すように言った。「楠木さん、そら頭も回るし、話もうまい。でもな、若い子に“営業のノリ”で近づくタイプは、だいたい“ナナメの下心”がある思とき。たまちゃんは“信頼しても、期待はほどほどに”やで?」
たまちゃんは少し真剣な顔になり、「……うん、ありがとうメグ姐さん。返信、どう書こうかな」と呟いた。
少し離れたデスクでは、水野さんが静かに書類整理をしながら一連の会話を耳にしていた。その目は、一瞬だけ半田くんの方をちらりと見た。
ーーたまちゃんの返信ーー
その夜、たまちゃんは慎重に言葉を選び、楠木さんに返信を送った。
「楠木さん、丁寧にご連絡ありがとうございます。
ですが、業務以外でのやりとりは社内ルールで控えるよう言われておりまして……また次回の会議でお会いできるのを楽しみしています!」
半田くんは、たまちゃんの返信を想像しながら心の中で呟いた。「たまちゃん……ちゃんと見てるからな。業務でこそ、頼れるパートナーでいてくれよ」
ーー楠木の反応ーー
一方、楠木さんはLINEの返信を見て、小さく笑った。
「ふふ、田中オフィスさん、さすが固いなあ……いいチームだ」
彼の顔には、どこか満足げな笑みが浮かんでいた。
ーー藤島専務の一手ーー
翌朝、田中オフィスの会議スペースには、朝一番で出社した藤島専務と田中社長の姿があった。短いミーティングを終えると、藤島専務はすぐに動いた。
「次のQ-pullとの打ち合わせ、水野さんと半田くんに行ってもらいます。楠木さんが個別にたまきさんに質問を投げるスタイルは、田中オフィスの情報共有方針とは異なります。個人への直接コンタクトは避けてもらうよう、ご紹介いただいた上田社長に、ご相談として話を通しておきます」
田中社長は感心したように頷いた。「……さすが光子さん、ぬかりないなぁ。おおきに」
そして藤島専務は、電話で上田社長に連絡を入れた。
「上田社長のご配慮には感謝しています。ただ、楠木さんには、あまり“営業気質”が出すぎないよう、ご注意願えればと」
電話口の上田社長は、事情を察したように答えた。「了解しました。彼、優秀だけに、相手との距離感を掴むのが課題なんですね。きちっと言うておきます」
ーーメグ姐さんの鉄壁バリアーー
昼休み、社内キッチンスペースでは、たまちゃん、半田くん、そして佐々木恵(メグ姐さん)が並んでお弁当を広げていた。
たまちゃんは、少しばかり興奮冷めやらぬといった様子で言った。「……でも、ちょっとドキドキしました。あんなに押しが強い人って初めてで……」
メグ姐さんはフッと笑いながら言った。「まあな、若いときはそんなんあるよ。うちなんか、前職で大手商社の課長さんに“君の見積もりは雑やけど、笑顔は100点や”言われてな」
たまちゃんは身を乗り出した。「え、どうしたんですか!?」
メグ姐さんはにやりと笑って言った。
「“じゃあ次回から笑顔だけ送りましょか”言うたったわ。
そしたらその人、真顔で“いや、提案書もちゃんと欲しい”てな。笑」
半田くんは呆れたように呟いた。「……姐さん、強すぎる……」
メグ姐さんは、たまちゃんの頭をポンと叩いた。「そういうヤツには、“ナメられん前に笑いで封じる”のが鉄則や。たまちゃんも、無理して真面目な返しせんでええ。変な距離感感じたら、まずウチに相談しぃや。な?」
たまちゃんは真剣な顔で頷いた。「はいっ、心強いです……!」
ーー楠木の認識ーー
そのころQ-pull会議室では、水野さんと半田くんを迎えた楠木匡介が、心なしか少し静かだった。
水野さんが打ち合わせの切り出しを促す。「本日は、ご提案のアップデート項目について仕様確認をお願いします」
楠木は一度口ごもり、深呼吸するように言った。「……はい、ええと。すみません、前回はちょっとプライベートな質問も混ざってしまったかもしれません。以後、ビジネスに徹します」
半田くんは心の中で呟いた。「(それでええ、それでこそ、や)」
藤島専務の仕掛けた「小さな一手」が、社内外の波風をスッと鎮めた。そして、メグ姐さんの関西流“鉄壁バリア”伝説は、またひとつ後輩の胸に刻まれたのだった。
ーー楠木の視線ーー
U警備本社ビル、企画開発部フロア。夕暮れの光が窓から差し込む中、楠木匡介はいつものようにノートPCを閉じながら、窓の外を眺めていた。デスクに置かれたタヒチ土産の貝細工が、わずかな風に揺れている。
(モノローグ)
「営業は数字で結果が出る。でも企画は、成果が出るまでが遠い…なにより、言葉が届かないことが多い。そこへ現れたのが“田中オフィス”か」
楠木の脳裏には、田中オフィスのメンバーの顔が次々と浮かんだ。たまちゃんと初めて話したときの元気な返し、半田の冷静な分析、水野のブレない判断、そして藤島専務の完璧な配慮。
「軽く挨拶がてら話しかけただけなのに、ここまで反応されるとはな……。あの子、奥田珠実ちゃん。面白いかもな。正直、本社の若いのより、よっぽど地に足がついてる。俺にとっても、いいクスリかもな」
ーーたまちゃんの胸の内ーー
その頃、田中オフィスでは、たまちゃんがまだ誰もいないデスクで一人、さっきのLINEを見て少しだけため息をついていた。
(心の声)
「……丁寧に断ったのになあ。『また機会があれば』なんて、社交辞令、効かない人もいるのかも」
そっとスマホを伏せると、書類を見直している水野さんと目が合った。
水野さんは優しい声で言った。「奥田さん、まだ残ってるの?あまり気にしないように。君が対応した内容は、社内的にも正しかったよ」
たまちゃんは安堵したように答えた。「……はい。水野さん、ありがとうございます」
(心の声)
「ちゃんと見てくれてるんだな……この人は」
ーー藤島専務の分析ーー
一方、藤島専務のデスクでは、彼女が黙って楠木の名刺の裏にメモされた「感想」を読んでいた。そして、静かに社内報告メモに書き加える。
“U警備l企画部門・楠木氏:営業・企画の両方に精通。判断・行動ともに早いが、感情の制御が課題。今後は半田・水野との連携を中心に距離感調整。”
藤島専務は小声で呟いた。「たまちゃんが揺れ動く時期やね……さて、私の出番はもう少し先かしら」
ーー半田の決意ーー
(半田くんのモノローグ)
「どこかのスーパー営業に、たまちゃんを“刺激剤”扱いされるのは腹立つけど…あの人に火をつけたってことは、たまちゃんもなかなかやな。俺も負けてられへんか…」
それぞれの思いが交錯する夜。田中オフィスとQ-pull、そしてU警備の新たな関係は、それぞれの思惑をはらみながら、着実にその形を変えていくのだった。
ーー抜き打ち訪問者ーー
ある日の午後、田中オフィスのエントランス脇に設置された、プロトタイプ「とびらんぬ」を、一人の男がじっと見つめていた。楠木匡介である。彼は、目を凝らしてその筐体を観察する。
「筐体はABS樹脂の2重構造か…センサー位置、甘くないな。でも、こじ開け耐性までは見えないな…DIYとは思えないレベルだな」
彼はポケットから小さな工具を出しかけた。そのとき――
「どちらさん?」
背後から、低く鋭い声が響いた。
振り返ると、黒髪をひとつに結んだ女性が、スリムなパンツスーツ姿で立っていた。その目つきは鋭く、足元からはピンと張り詰めた緊張感が滲み出ている。彼女は一歩近づき、手に持った濃い缶コーヒーを片手で回しながら、にっこりと笑った。
佐々木恵、通称メグ姐さん。田中オフィスのバックオフィス責任者であり、元・某業界で“姐さん”と呼ばれた過去を持つ。
「見学は自由やけど、機器に手ぇ出すなら、うちのセキュリティポリシー通してからにしてもらおかな?」
楠木は少し苦笑いしながら手を引っ込めた。「いや、ただの興味本位です。ちゃんと監修されてるんだなって、確認しただけですよ」
メグ姐さんは、冷たい目線を少しだけ緩めて言った。「へぇ、そんな言い訳上手な人、久しぶりやわ。…ま、入るんやったら案内するわ。ウチのたまちゃん、ちょうどコーヒーいれたとこやし」
そう言ってIDカードをカメラに向けると、「ピッ」と静かな音が鳴り、「とびらんぬ」が正しく作動した。楠木はその音に「おおっ」と思わず小さく声を漏らした。
彼は心の中で思う。
(やっぱこのオフィス…ただの中小やないな)
ーー抜き打ち訪問者、メグ姐さんの掌で踊るーー
楠木は一瞬、背後からの鋭い声と視線に圧を感じた。だが、それも束の間――メグ姐さんがパチンと笑顔のスイッチを切り替えたのだ。
「あらー、失礼しましたっ!」
声のトーンも表情も、一瞬にして“オフィスの顔”へと変貌を遂げる。さっきまでの威圧感がウソのように、しなやかな営業スマルが花開いた。
「ウチの半田たちが、大変お世話になっております~。田中の佐々木と申します、バックオフィス担当ですの」
ペコリと軽く会釈しながら、さりげなく楠木の名刺を確認する仕草。U警備・企画戦略部、楠木匡介。――お噂どおりの切れ者、とメグ姐さんの心の中で囁く。
楠木は笑いながらも、内心では舌を巻いていた。(…やられたな。あの切り替え、あれが“田中オフィス”の空気か。一見フツーに見えて、まるで囲碁の布石みたいに人が配置されとる)
「いえいえ、こちらこそ突然お邪魔しまして」
楠木も笑顔を返す。だが、その眼は決して笑っていない。完全に観察モードに入っていた。
佐々木は軽く手をひらひらさせて言った。「よろしければ、たまちゃんもおりますので。ウチの小娘が、楠木さんのこと“すごい営業さんや!”言うてましたわ」
奥のカフェスペースから、たまちゃんがひょいと顔を出す。「あっ、楠木さん!」と嬉しそうに手を振る。
楠木は苦笑しながら返した。「やあ、プロトタイプまで見せてもらえて、感謝です」
するとそこへ、タイミングよく半田が現れた。ノートPCを小脇に抱えながら、たまちゃんと楠木の間の微妙な空気を読み取る。
「…あ、楠木さん。プロトのご意見、いただけますか?」
場がちょっと緊張するなか、佐々木がさっと場をまとめる。「どうぞ、奥で。お茶、いれなおしましょか?」
ーー田中オフィスの奥深さーー
こうして、楠木匡介の“抜き打ち視察”は、まるで予定されていたかのように、自然に田中オフィスの内部に吸収されていった。
(ほんま、ここの人間関係は油断ならんわ)
楠木は胸の内でつぶやいた。
カフェスペースに戻ったメグ姐さんは、ふと鏡に映った自分をチェックしつつ、ボソッと呟いた。「なになに、カッコええやん…あの人、目ぇキレてて賢そやし…あたしもLINE交換してもらえないかなぁ~?」
たまちゃんは思わず吹き出した。「メグ姐さん、楠木さんって“草食ぶってる肉食”って感じなんですよ~」
メグ姐さんは、「へぇ~」と興味津々の表情で頷いた。「あんな冷静そうで実はオオカミ系?……ちょっと惹かれるわ~」
するとそこへ、タイミングよく藤島専務が通りかかる。
「メグさん、浮かれてるヒマはありませんよ。次の来客、県のDX支援室からの視察チームです」
一気に表情が引き締まるメグ姐さん。「了解です、専務。……でもアレやで?楠木くんみたいなタイプ、うちの顧客にもファン多そうやわ。いっぺん営業イベントに来てもらったらどう?」
藤島専務は少し笑って言った。「その線、悪くないですね。……ただし“たまちゃん”は業務時間中、プライベート連絡禁止でお願いしますよ?」
たまちゃんは、はっとして慌てて背筋を伸ばす。「は、はいっ!すみません!」
それを見た楠木が、奥の打ち合わせテーブルでニヤリと一言。
「この会社、油断も隙もないな」
半田は静かに、USBメモリを差し込みながらつぶやいた。
「……だからこそ、僕はここにいるんです」
田中オフィス、ますます人間関係が濃くなっていく。その複雑でいて、しかし有機的な繋がりが、彼らのビジネスを加速させている。
ーーさらなる進化ーー
打ち合わせの後、楠木匡介はふと、「とびらんぬ」の設置場所をもう一度じっと眺めていた。そして、何かを確信したように半田くんを呼び止めた。
「半田さん、ひとつ気になったんだけどさ。これ、ドライバーとかでこじ開けられたらどうなる?」
半田はすぐに反応し、手持ちのタブレットを操作しながら応じた。「現状では、物理的な開錠操作に対しての反応は“未実装”です。楠木さん、もし何かアイデアがあればぜひ…」
楠木は指で空中に図を描きながら答える。「アラート出すのは当然として、こじ開けようとする動きがあった時点で、警告音 or 通知と、その瞬間を撮影するカメラ連動。これを自動で発動させたら、かなり安心度上がると思うよ。防犯って“その場で対処”より、“未然にやめさせる”のが肝だから」
半田の目がキラリと光った。「なるほど……即時の写真撮影と、信号発生ですね。アクチュエーター制御モジュールと、Raspberry Pi(注1)のGPIOに接続されたカメラとを連動させれば……できます。アラート信号はMQTTで通知、同時に画像保存+メール送信設定を追加します」
楠木は感心したように頷いた。「さすが、田中オフィスの半田くん。頼もしいわ。“商品”というより、“信用”作ってるって感じだね」
半田は少し照れながらうなずいた。「ありがとうございます。楠木さんの視点、勉強になります。今夜中にプロトに組み込んで、明日テストします」
こうして、「とびらんぬ」はさらなる進化を遂げることになった。**「頼もしいライバル」**楠木の登場が、半田くんのエンジニア魂に火をつけたようだ。
ーーメグ姐さんの本気ーー
田中オフィスの休憩スペース。たまちゃんがデスクに戻ると、どこからともなくメグ姐さんがスッと現れた。
メグ姐さん(ニヤリと笑いながら)「なぁたまちゃん。楠木くんから、また食事の誘いとかあったら、アタシにもつないでな?」
たまちゃんはぽかんとした顔で聞き返した。「え?こないだ“丁寧にお断りしとき”って言ってませんでした?」
メグ姐さんは急に目をキラキラさせて言った。「そんときは仕事モードやん。あの後、ちょっと調べてん。あの人、趣味ええし、話も上手やし、ええ感じやん。ああいうタイプ、アタシの中で絶滅危惧種やで」
たまちゃんは苦笑しつつ尋ねた。「絶滅危惧種て…じゃあ、もし誘われたら、“メグさんとセットでお願いします”って?」
メグ姐さんは即答した。「セットじゃなくてもええ!もしくは“急に予定入って行けなくなりました”でもええ!とにかく橋渡し頼んだで!」
休憩スペースの奥で、藤島専務がふと聞き耳を立てつつ、資料を手に目線だけを上げた。
藤島専務(心の声)「これは…予想外の展開ですね。たまちゃんより、メグさんの方が動きが早いとは…」
その日の夕方、たまちゃんのスマホにLINEが一通届いた。
楠木さん:「来週、開発チーム向けの防犯デモがあるんですが、もしよければオフィス見学も兼ねて、ランチご一緒できませんか?」
それを見たたまちゃんは、迷わずメグ姐さんの席へ向かった。
たまちゃん「メグさん、来ましたよ…どうします?」
メグ姐さんは超絶笑顔で答えた。「よっしゃ、勝負はここからや。準備せなあかん、美容室どこ行こかなー!」
さて、半田くんの表情はというと――どこかで空を見上げて深く息をついていた。
ーーオフィスの騒動ーー
田中オフィスのエンジニア席まわり。夕方のまったりした空気の中、半田はふと漏らした。
「楠木さん、28歳で…メグ姐さんの一個下ですよね?」
そこに居合わせたたまちゃんが「え?」と息を呑み、数秒後、静かに空気が凍り始める。
メグ姐さんはゆっくりと振り返りながら言った。「……ええやないの。守備範囲やわ。年下男子、ウェルカムやで」
その瞬間、オフィスの空気が一変した。メグ姐さんの目がギラリと光る。
「……せやけど、半田!!なんでワシの歳知っとるんや!?誰に聞いた!?」
半田は顔面蒼白になりながら、「えっ!?いや、その……名簿の生年月日を見たときに……つい……」とたどたどしく答えた。
メグ姐さんは机をドンと叩きながら言い放った。「シバクど!!そんなん公言するやつは地獄行きや!しかも“いっこ下”てなんや!ワシが姉さん女房みたいやんけ!!ええけどな!!」
たまちゃんは思わずお茶を吹き出した。近くにいた水野は、そっとヘッドホンをつけて業務に集中している。藤島専務は資料をペラリとめくりながら小さく笑った。
その後、半田はメグ姐さんから軽く肩をどつかれつつ、こっそり耳打ちされた。
「でもな、28歳てほんまええラインやねん。なんちゅうか、ええ**“熟れ具合”**やろ?……あんたもあと5年くらいしたら来るで。熟成期が」
「……なんの話ですか……」半田はぼそりと呟いた。
そんな中、田中社長がぽかんとしながら登場した。
「おー、えらい盛り上がっとるなぁ。何の打ち合わせや?セキュリティか?恋愛リスク対策か?」
藤島専務は即答した。「社長、“人的リスクマネジメント”に分類されます」
「そっちかい!!」田中社長は思わず声を上げた。
笑いがドッと広がるオフィス。だが、半田の心中には、楠木の存在がじわじわと重くのしかかっていた――。
ーー六本木へ出陣ーー
翌朝、田中オフィスの会議室のホワイトボードには、打ち合わせの予定が貼り出されていた。そこには、たまちゃんの代わりに「佐々木 恵」の名前が記載されている。
メグ姐さんは気合い十分な表情で腕を組み、「ワシも六本木ヒルズ行くで。なーにがQ-pullや、東京セレブの風吹かしたるわ」と宣言した。
半田は小声でたまちゃんに耳打ちする。「…すごい圧だな……お昼休憩が、戦場になりそう……」
たまちゃんもこそこそと返した。「がんばって、半田くん……アタシのぶんまで…!」
ーー順調な会議、そして…ーー
六本木ヒルズ・Q-pull本社会議室。会議は滞りなく進んでいく。楠木は相変わらず冷静で、メグ姐さんの説明も明快だった。お互いのビジネス的な視点と、今後の連携に対する明確な姿勢が示され、プロジェクトは着実に前進している。
だが、会議終了後……
楠木はにっこり微笑んで言った。「このあたりで、ちょっと評判のランチありますけど…ご一緒にどうですか?」
メグ姐さんは即答だった。「行く行く行く!ええお店しっとるんちゃうん?ほら、半田く〜ん、サポートよろしくぅ?」
半田は内心で呟いた。(……この“よろしくぅ”にどれだけのプレッシャーが込められているか、誰が知るだろう……)
オシャレなフレンチレストラン
案内されたのは、六本木の路地裏にひっそりと佇むオシャレなフレンチレストランだった。オーダーを済ませ、料理が運ばれるまでのあいだ、トークは絶好調。
楠木はさりげなく切り出した。「佐々木さん、田中オフィスさんの雰囲気って、なんだかあたたかくて良いですね」
メグ姐さんは、赤ワインをくるくる回しながら得意げに答えた。「せやろ〜?見た目は地味やけど、中身はぎっしりやで。うちの半田も、こう見えてようやっとるんよ」
楠木は半田の方を向いて言った。「半田さんには、技術の件でも助けてもらってます。信頼してますよ」
半田は思わず「……えっ……あ、ありがとうございます……(初めて楠木さんに褒められた……)」と、少し照れたように答えた。
メグ姐さん(心の声)「(うーん……ええ男や。こういうギャップに弱いんよなぁ……)」
ランチは賑やかに、にこやかに終了した。
オフィスに戻るタクシーの中で、メグ姐さんがふとつぶやく。「……なんやろな。あの人、地に足ついてるのに、なんか寂しそうな目しとったわ」
半田は不思議そうに聞き返した。「……そう、ですか?」
メグ姐さんはニヤリと笑った。「ほんま、あんたって人の機微に疎いな。たまちゃんとお似合いやわ。あの子もそういうとこあるし」
半田は顔を赤くして反論した。「ちょっ……なんの話ですか、もう……!」
メグ姐さんのメッセージ
その日の夜。たまちゃんのスマホに、メグ姐さんからLINEが届く。
メグ姐さんのLINE:「たまちゃん、次はアンタも行くんやで。あんたの“先輩”として、ええ仕事見せたった!」
たまちゃんは、返信に困りつつ、なぜか少し誇らしくて、笑ってしまった。
田中オフィスの面々は、ビジネスの最前線で奮闘しながらも、それぞれの人間関係が複雑に絡み合い、日々を彩っていた。
ーー期待以上の成果ーー
数日後、田中オフィスの会議室では、田中社長が水野さんと藤島専務を前に、ホワイトボードを指さしながらニコニコしていた。
「いや〜、楠木くんとのご縁やけどな。いろんな意味で、ええ仕事になったんちゃうか?」
水野は苦笑いしながら、「“いろんな意味”って、やっぱり……」と口ごもった。
藤島専務は冷静に手元のメモを見ながら答えた。「Q-pullとの提携も順調ですし、U警備との情報共有体制も強化されました。さらに……佐々木さんが毎日ウキウキして出社しているという副次効果も確認されています」
田中社長は真顔になり、「やっぱり“仕事は人”やなあ。せやけどな、あのメグの寄り切り……想定外やったわ」と感嘆した。
水野はそれに続けて、「寄り切りというか、取り組み三秒、まわし一丁の一本勝ちみたいでしたね」と評した。
ーー楠木の意外な展開ーー
場面は変わり、U警備の応接室。楠木はデスクに戻って資料を整理しながら、ふとスマホを手に取った。
「……まさか、あの人にこんなに押されるとは……」と、ぽつりと呟く。
そのとき、LINEの通知が一件。差出人はメグ姐さんだ。
メグ姐さんのLINE:「今週末、例のスペインバル行くで。服装はカジュアルでええよ!おごったる!」
楠木は小さく笑った。「……断る理由が、ひとつも見つからんわ」
ーー次なる一手ーー
田中オフィス、たまちゃんのデスク。たまちゃんは一人パソコンに向かいながら、ちらりとメグ姐さんを見てニヤッと笑った。
(心の声)「メグ姐さん……やるなあ。アタシも負けてられない!」
ーー広がる縁ーー
田中オフィスに舞い込んだ、ひとつのご縁。それは、人と人をつなぐだけでなく、仕事の枠も、気持ちの距離も、ぐっと縮めてくれるものであった。
**注1**
半田くんはラズベリー・パイを使い、電子デバイスのプロトタイプを開発しています。
Raspberry Piは、LinuxベースのOSを主に使用し、簡単にカスタマイズ可能であるため、プログラミングやエレクトロニクスの教育、IoTデバイス、ホームオートメーション、メディアセンターなどに活用されています。
一応、とびらんぬの商標を貼っておきます。