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田中オフィス  作者: 和子
18/90

第十七話、Sセミナーでの遭遇

ーー田中オフィス会議室にてーー

応接室のホワイトボードに、大きく黒マジックで書かれた文字がひときわ目を引いた。

「AI × 起業」


田中卓造は、文字の下に太線を引きながら、くるりと皆のほうへ振り返った。いつものように、ニコリと目尻を下げる関西風の笑み。

「ほれ、先日の武田さんご夫婦の話、あれがまさに時代の流れやな」

部屋にいた面々が、ふと気を引き締めるように頷く。

「“士業に相談するのはハードルが高い”って思われとったんが、AIのおかげで“やれるかも”に変わったんやで」

田中の言葉に、若干の興奮がにじんでいた。


すぐ隣でメモを取っていた水野幸一が、落ち着いた口調で補足する。

「ええ。Sセミナーで使われたAIツールは、ビジネスモデルのシミュレーション機能がありましたね。法人化した場合の税金や人件費、売上予測まで一通り出してくれる。ただ、制度の穴やグレーゾーンを見抜くのはAIじゃ難しい。そこは我々の出番です」


藤島光子が資料の束を手に微笑みながら続けた。

「武田さんご夫婦も、最初は“全部AIで完結できる”って思ってたけど、結局、“最後は信頼できる人に託したい”っておっしゃったのよね。そこで田中社長がしっかりフォローして、うちで登記から運営サポートまで受託する流れに」


稲田美穂が、嬉しそうに頷いた。

「そういえば、武田さんの奥様、“これで自分たちは事業の中身に集中できる”って、すごく安心されてましたよね」


「ほんまそれや」

田中は、手を叩いて賛同した。

「AIで敷居が下がって、プロに頼る心理的ハードルも下がる。それが、今の時代の“共創型コンサル”やと思てるんや」


だが、成功の裏にはトラブルもあった。

「Sセミナーのアンケート結果、全体的には好評。でも……あのWi-Fiトラブルが話題になってしまってるわね」

藤島が、資料を読みながら口をすぼめる。


「確か、武田さんのプレゼン中に、参加者の1人が怪しいポップアップに引っかかって、セミナーが一時中断に……」

稲田が少し心配そうな声で言った。


「ええ、主催側の貸出PCにマルウェア感染の兆候がありました。ただし、Sセミナーのシステム自体には侵入はなく、拡散も防止済みです」

冷静に報告したのは、水野だった。


「いや~、ほんま嬉しい誤算やったわ」

田中がポンと膝を打つ。

「ワシら士業やのに、セキュリティ対応まで即応できてもうたんやから」


その場の空気を引き締めたのは、RシステムのSE、河村亮だった。

「はい。あの場で即時にVDI環境へ切り替えて、セッションごとにアクセス制限を再設定しました。DMZ経由のログ監査と隔離対応も済んでます。Sセミナー側には技術レポートを提出済みです」


「いや~あの現場の空気、一瞬で変わったよな」

営業担当の橋本がニヤリと笑った。

「武田さん、目を丸くして“まさか士業の事務所にここまでITスキルがあるとは”って。結果的に、Sセミナーの次回企画のセキュリティ監修も依頼されたわけやから、むしろプラスや」


藤島も満足げに頷く。

「“士業”というより、“士業+テックコンサル”の信頼を獲得したという感じね。本当に、日々の積み重ねが活きてるわ」


「とうとう出たな、“生徒別学習パートナーアプリ”!名前は……《さきがけスクエア》やったかいな?」

田中が嬉しそうに声をあげた。


奥田珠実が、スマホの画面をみんなに見せる。

「はい!これです!武田さんの奥さんのアイディアを、半田さんがアプリにしたんですよ。カレンダー連携も、LINE通知風のコメント機能もばっちりです!」


「今回はローコード開発基盤でスピード重視でしたけど、ユーザーインタビューも自分でやってUXを調整しました」

半田直樹が、少し誇らしげに語る。

「Sセミナー側には、アプリの販売収益の7%を田中オフィスへ分配する契約、ちゃんと取り付けてあります」


水野も感心していた。

「初期開発費も既に回収できそうですね。“士業の事務所”が作ったとは思えないクオリティだと、向こうも驚いてました」


「会計処理も完了済み。Sセミナーと我が社との収益分配モデルがうまく機能する第一例になりそうね」

藤島は満足そうに資料をまとめながら言った。彼女の表情には、これまでの苦労が報われる喜びと、未来への期待が入り混じっていた。


「こういう“知恵とITの合弁ビジネス”は、次の当社の柱になるな。半田くん、本当によくやった!」

橋本が半田の肩をポンと叩いた。その言葉には、かつての苦境を知る者ならではの深い感慨が込められていた。

「E不動産の引き抜き未遂事件のときはどうなるかと思ったけど、今や君は『IT部門の中核』やもんな」


橋本のねぎらいの言葉に、半田は照れくさそうに笑った。彼の脳裏には、夜遅くまでシステムと向き合い、試行錯誤を繰り返した日々が蘇る。

「……まだまだですけど、田中オフィスでしかできない仕事、やっと見えてきました」

半田の言葉は控えめだったが、その瞳には確かな自信と、新たな目標に向かう強い決意が宿っていた。Sセミナーとの提携は、彼にとって単なる成功事例に留まらず、自身のキャリアにおける大きな転換点となる予感に満ちていた。


ーー春色スイッチ ~田中オフィス、午後の休憩ーー


田中オフィスのコピー機が静かに紙を送り出す音だけが、午後の休憩スペースに響いていた。

その前に立つ奥田珠実、通称“たまちゃん”は、右手にミネラルウォーターのボトルを握りしめたまま、ふうっと小さく息をついた。普段はジーンズにカーディガンというカジュアルスタイルが多い彼女だが、今日は淡いグレーのフレアスカートに白いブラウス。なんだか大人っぽい雰囲気をまとっている。

(よし、今日は……ちゃんと、見てもらえるかな)

不安と期待が入り混じった表情で、たまちゃんはコピー機から目をそらし、床を見つめていた。


「最近、外回り多いんだね。…スカート、似合ってるじゃない」

すぐ横を通り過ぎた半田直樹の一言に、たまちゃんはビクッと肩を跳ねさせた。


「え、あ、うん…その、えっと……いえ……あの……うーん……」

返事にならない返事を口走りながら、声はどんどん小さく、意味不明な音へと変わっていく。

「ん……イミフ……?」

ぽかんとした表情で振り返る半田に、たまちゃんは慌てて顔を背け、そのまま逃げるように席へ戻った。背筋は妙にしゃんとしていて、その後ろ姿からはなぜか決意のようなものがにじんでいた。


一部始終を離れた席で見ていた佐々木恵、通称“メグ姐さん”は、パソコンのキーボードを打つ手を止め、コーヒーをひとすすりした。

(気づけ、バカ。お前のこと気になってるに決まってるでしょ……。てか、女の子がいきなりスカート履きだすとか、どう考えてもヒントやろーが)


そのタイミングで、オフィスのドアが開いた。にこにこ顔の田中卓三社長が、いつものように軽快な足取りで入ってくる。

「おっ、たまちゃん、なんか今日“できる女”風やな〜。…メグちゃん、撮影しといて、SNSに『春のビフォーアフター』として載せよか〜!」


「や、やめてくださいよ社長〜!恥ずかしいってば!」

あたふたするたまちゃんをよそに、水野幸一が書類をめくりながら、ふと顔を上げて言った。

「まあ、服装が変わるのも、成長の一部かもしれませんね。たまちゃん、ずいぶん落ち着いてきましたよ」

皆の視線がたまちゃんに注がれる中、彼女の顔はスカートの色と同じくらい淡いピンクに染まっていた。今日の田中オフィスは、いつもより少しだけ、春の予感が漂っているようだった。


ナレーション:

誰かの“がんばり”は、言葉じゃなくて、ちょっとした変化にあらわれる。

そして、それに気づけるかどうかは――ちょっとした“鈍感”の壁を越えられるかどうか、なのだ。


ーー恋の予感と給湯室トーク

午後のまどろみがオフィスに満ちる頃、小さな給湯室、通称“厨房”では、メグ姐さんが鼻歌まじりにコーヒーを淹れていた。その隣では、たまちゃんが紅茶のティーバッグをまるで恋占いでもするかのように、お湯の中でゆらゆらと揺らしている。


「ねえ、たまちゃん……なんかさぁ、最近さ、半田くんに対してちょっとそっけなくない?」

メグ姐さんの直球すぎる質問に、たまちゃんの手がピタッと止まった。ティーバッグが水面にぽつんと置き去りにされる。


「えっ……そ、そんなことないですよっ?!ぜんぜん、フツーに、あの、普通ですけど……?!」


「ほぉ〜?“フツーに普通”って、逆に怪しいやつやん?」


ニヤリと笑ってカップを持ち上げるメグ姐さん。たまちゃんは耳まで真っ赤になり、目が泳ぎまくっている。まるで「私の心は太平洋!」とでも言いたげな顔だ。


「そんな……、べつに……っ、そりゃあ、先輩だし、システム詳しいし……えっと……」

言い訳を探して口ごもるたまちゃんを見て、メグ姐さんは吹き出しそうになるのを必死で堪えた。危ない、危ない。ここで笑ったら、たまちゃんのガラスのハートが砕け散ってしまう。


「ふ〜ん……ま、あんたがどんな服着ようが、うちら服装ゆるいし何も言わへんけど……。最近のたまちゃん、“ちょっと気合い入ってる”感じやからさ〜、なんかあるのかな〜ってね?」


「そ、そんなことないですから!ほんとにっ!」

たまちゃんは慌てて紅茶のカップを持ち、そそくさとその場を去ろうとする。その姿は、まるで猫が獲物から逃げる時のようだ。


「はいはい。コップ持ってこぼさんといてよ〜。恋と紅茶はあつあつのうちに、やで?」

背後から追い打ちをかけるメグ姐さんの声に、たまちゃんはさらに顔を真っ赤にしながら、小さく「も〜うっ!」とつぶやいて出て行った。その足取りは、もはや逃走である。


ーー独り言と春の湯気ーー

静かになった厨房で、メグ姐さんはひとりコーヒーをすすりながら、ぽつりとつぶやいた。

「ま、たまちゃんも若いしなぁ。…でも、あの二人、意外とお似合いやと思うんやけどな〜」

カップの中に漂う湯気が、まるで二人の恋の行方を暗示するかのように、春の空気に溶けてゆく。給湯室には、ほんのり甘い、恋の予感の香りが漂っていた。


ナレーション:

たまちゃんの恋、半田くんに届くといいですね。


ーーちょんまげ親書とイタリアンの夜ーー

第一章:メール文化改革会議

白を基調にしたミーティングルームで、水野幸一はホワイトボードの前に立っていた。冷静な口調で、だが決して堅苦しくなく、彼は新しいルールを説明していた。

「今後、顧客対応のメールルールは明確に統一します。基本的にメール本文には『日程調整』や『簡単なお知らせ』のみを記載。重要書類やファイルのやり取りは――しません」


その一言に、稲田美穂が小さく眉をひそめた。

「……え? 添付ファイル、全部ナシにするんですか?」


水野は頷くと、ホワイトボードに簡単な図を描きながら続けた。

「はい。その代わり、本人確認済みのお客様にはSMSでワンタイムパスワード(OTP)を送信します。そして、うちのサイト内の“親書”ページから、安全にやりとりします」


PCモニターに向かっていた半田が振り返り、少し笑みを浮かべながら口を開いた。

「この“親書”ページ、うちの田中社長のちょんまげアイコンが目印ですね。“本当に届けたい文書は、正装で”って、田中社長の発案なんですよ」

<親書田中>

挿絵(By みてみん)


「ちょんまげは、古式ゆかしき“信頼の印”ってことですね」藤島光子専務が笑いながら口を挟む。「ちなみに、“かわら版”はノーマル田中アイコン。社内では“二面性田中モデル”と呼ばれてるのよ」

<かわら版田中>

挿絵(By みてみん)


「二面性って言い方やめなさい(笑)」とメグ姐さんがすかさず突っ込む。「でもわかりやすくて、いいと思うわ。“かわら版”はオープン情報、親書はクローズド。この区別は明快ね」

「お客様にも好評です」たまちゃんがにこっと笑って言った。「“親書”って言葉がちょっと丁寧で、気持ちがこもってる感じがするって」

その空気のまま、全員の視線がモニターの映像へと移る。


第二章:親書動画、爆誕

執務室で、田中卓三社長がご機嫌で動画収録をしていた。

「おおきに!田中でっせ。ちょんまげアイコンが出たら、それは“親書”や!これからは、こっそり大事な話はここからや。誰かに見られたら困る話は、ちょんまげを頼ってな!」


録画を見ていた社内のメンバーは、苦笑しながらも頷いていた。慣れたとはいえ、この独特のテンションは田中社長ならではだった。

その時、水野のもとに一通のメールが届く。


第三章:Sセミナーからのご招待:藤島専務のTPO指導

「おっ。Sセミナーの武田さんから招待メールが来てるな……再来週の土曜日、ホームパーティだって」

田中社長の声がオフィスに響き渡る。モニターを覗き込むと、華やかな招待状が目に飛び込んできた。

「おお、これはご丁寧に。どれどれ……『半田さんと奥田さんにはぜひ』、やて?」


たまちゃんがビクッと肩をすくめた。

「え!? え、私ですか?」

「まぁ、俺らで一番現場入ってたからなぁ……断る理由は、ないよな?」半田が穏やかに笑う。


その様子を横目で見ていた藤島専務が、すっと口を開いた。

「半田君、奥田さん。これは単なるホームパーティではないわ。Sセミナーの主催となれば、最新の教育とIT融合の現場でもあるのよ。だからこれは、君たちのこれまでの実績を評価されての招待よ」

藤島専務は言葉を選ぶように続ける。

「TPOを考えなさい。オフィス外での交流は、会社全体の印象を左右する。特に、今回はビジネスの側面も強い。服装もそうだけど、立ち居振る舞いや会話の内容も意識すること。これは社会人として、知っておくべき社会常識の勉強にもなるわ」


メグ姐さんがニヤリと笑いながら、「スーツの似合う外回りコンビで行ってきなさいよ」とアシストする。

「手土産はウチでまとめとくから。稲田ちゃん、お願いね〜」


「わかりました〜。お弁当作ってた人は、今度はピンチョス担当ですね」稲田がからかうように言うと、たまちゃんは顔を赤らめる。

「も、もう〜稲田さんまで!」


田中社長は眼鏡をくいっと持ち上げて言った。「これはな、オフィスの外で信頼を深める絶好のチャンスや。しかも、最新の教育とIT融合の現場やさかいに、ワシも勉強になるわ!」


「……社長、たまには普通に行ってください。ちょんまげじゃなくて」水野の冷静なツッコミに、全員がどっと笑った。


藤島専務は笑いながらも、田中社長に釘を刺す。

「社長。今回のパーティは、Sセミナーという最新IT教育の担い手が主催です。社長がいつも通りのTシャツにジャケット、ジーンズにスニーカーという服装も、この場にはふさわしくありません。TPOをわきまえた行動を期待していますよ。これも社会常識の範疇。」


田中社長は一瞬ひるんだものの、「わ、わかってるわい!」とぶっきらぼうに答えた。周囲の社員たちは、藤島専務の解説を興味深そうに聞き入っていた。


第四章:前夜の控え室:藤島専務の最終チェック

ホームパーティを翌日に控えた夜、控え室では最終チェックが行われていた。藤島専務は鏡を覗き込み、たまちゃんの服装を厳しくチェックする。

「たまちゃん、本格的イタリアン料理のパーティにジーンズはさすがにダメよ。カジュアルすぎるわ。パンツスーツあるならそれでいいじゃない。TPOをわきまえなさい。これは社会人としての基本よ」


たまちゃんはふてくされたように口を尖らせる。

「え〜…スーツはお腹キツくなるんですよ〜」


「おしゃれは我慢よ。それに、今回は会社の顔として出席するのだから、きちんと見せる必要があるわ。先方に敬意を表す服装を心がけなさい。これも社会常識の一環として覚えなさい」


稲田がスマホをいじりながら尋ねる。

「専務、もしこれがBBQだったらジーンズOKですか?」


「当然。ただし、ノースリーブとヒールは論外ね。BBQでも、清潔感と動きやすさは重要よ。屋外だから足元の安全も考慮しなさい。どんな場でも、最低限のラインは存在するの」


社員たちは皆、藤島専務の具体的な例え話に真剣に耳を傾けている。まるでカルチャースクールのようだ。


一方、半田は自分の足元を見ながらつぶやいた。

「……俺、ローファーにワックスかけとこうかな」


「半田君、その心がけは素晴らしいわ。細部への気配りは、相手に好印象を与えるものよ。TPOは服装だけでなく、身だしなみ全体に関わるの。そういう気遣いができる人が、社会で信頼されるのよ」


その隣で、田中社長が何か羽織を取り出してニコニコしている。

「なぁなぁ、“ちょんまげの親書”のイラスト風で、裃着てってええ?」

その瞬間、部屋の空気が止まった。藤島専務がゆっくりと田中社長を振り返る。その目は、普段の穏やかさとは打って変わって、鋭い光を放っていた。


「田中社長。それは絶対ダメです!!!!!」

全員の大合唱に、田中社長はしゅんとなって羽織を引っ込めた。


「社長。今回は『会社の代表』として訪問するのですよ。Sセミナーの方々に、田中社長という人物がどういう人間なのか、信頼に足る人物なのかを見極められる場でもあります。その出で立ちでは、相手にふざけているという印象を与えかねません。TPOを完全に逸脱していると理解してください。もちろん普段のTシャツにジーンズも、この場には不適切です。場所や相手に合わせた服装は、社会人としての最低限のマナーです」

藤島専務の言葉に、田中社長は観念したように大きくため息をついた。他の社員たちは、社長が叱られているにもかかわらず、どこか納得した表情でそのやり取りを見守っていた。


メグ姐さんが藤島専務のコーディネートに目をやった。シンプルなネイビーのタイトスカートに、上品なベージュのブラウス。足元は控えめなヒールパンプス。首元には小ぶりのパールネックレスがきらめく。

「専務、さすがだわ。そのコーディネート、華やかさがありつつも、ビジネスの場にふさわしい品の良さを両立させてる。まさにTPOのお手本ね」メグ姐さんは感心したように呟いた。


藤島専務はにこやかに答える。「ありがとう、佐々木さん。私はあくまで彼らの引率者として、控えめながらも信頼感を与える装いを心がけたの。主役はあくまで半田君と奥田さんだからね。彼らを立てつつ、会社全体の印象を損なわない。これもTPOの重要な側面よ」


最終章:それぞれの“正装”で

そして、パーティ当日。田中社長は珍しくシンプルなシャツとジャケット姿で現れた。藤島専務の厳しい指導の甲斐あってか、いつもより引き締まって見える。たまちゃんは、慣れないパンツスーツに身を包み、半田は磨き上げたローファーで足元を固めていた。


藤島専務は、品の良いネイビーのスカートスーツに、淡い色合いのシルクスカーフをあしらい、足元は落ち着いた色のパンプス。その装いは、洗練されていながらも決して出しゃばらず、全体の雰囲気を引き締めていた。


少し緊張しながらも、“外の顔”で玄関をくぐった3人と藤島専務。イタリアンの香りと柔らかなワインの気配の中で、ちょんまげのことも、社長の普段着のことも誰も口にしなかった。しかし、誰もがその裏に込められた藤島専務の「届ける思い」と、そこから学んだ「社会常識」を忘れてはいなかった。

藤島専務のTPO指導は、単なるマナーの押し付けではなかった。それは、相手への敬意、そして自分たちが所属する会社への誇りを形にするための、実践的な社会常識の勉強だったのだ。パーティでの彼らの振る舞いは、きっとSセミナーの関係者に良い印象を与え、今後のビジネスの発展に繋がるだろう。


ナレーター:

今回の経験を通して、彼らはTPOと社会常識の重要性を深く理解したことでしょう。あなたの周りにも、TPOの重要性を教えてくれる人はいますか?


ーー春宵イタリアーノーー

春の風がまだ冷たい午後、Sセミナーの武田夫妻が主催するホームパーティーが、町の小高い丘にある武田邸で開かれた。

白壁に赤い屋根の家。リビングの窓からは、遠くの街並みと淡い桜が見下ろせる。部屋にはバジルと焼きたてのパンの香りがふんわりと漂っていた。

玄関の扉が開くと、エプロン姿の武田夫人が両手を広げて迎えてくれた。

「ようこそおいでくださいました!」


温かな声に導かれるように、田中社長は思わず背筋を正した。柔らかい笑顔と、丁寧に結ばれた白いエプロン。その所作に、職業人としての気品がにじんでいた。

「いえいえ、こちらこそ…こんな素敵なおもてなしを…ありがとうございます。いやはや、お料理のプロですね」


「ふふ、それを言われるのが一番嬉しいです」

そう言って武田さんが小さく頷く。その頬には、台所仕事を終えたばかりの穏やかな充実感が浮かんでいた。


その声に続き、リビングの奥では名刺交換が静かに進んでいた。

藤島専務が自然な所作で3組の親御さんに名刺を差し出し、田中社長は時折小さな冗談を交えて場を和ませていた。

「名刺ってねぇ、昔は“士業の口約束証文”て言われた時代がありましてな。まぁ、今はサインより重たいこともありますけど」


「田中さん、それはちょっと極端ですよ」

藤島専務がクスッと笑って受け流す。


キッチンカウンターでは、若者たちが笑い声を上げていた。半田くんと奥田たまみ――たまちゃん――が、生徒たちと談笑している。

「えー!たまちゃんって、もとアパレルだったの?」「服とか、これからどんなの来そうですか!」


「えー、うれしい〜!あ、でも今はスーツのたまちゃんですよ」

照れ隠しに言ったたまちゃんに、半田が笑う。

彼女はちらりと彼を見たあと、ぷいっと目線を逸らした。わずかに頬が赤い。


「お兄さんも、ITの人って感じしないよね。話しやすい!」

「でしょ?俺、人畜無害って言われてるから」

「わたしは猛獣って言われてますけどねー」


子どもたちが大笑いする。

そのときだった。

ほんの一瞬、リビングの空気がすっと変わった。


あたたかさはそのままに、空間に「ビジネスの匂い」がふっと立ち上がった。

スーツの男が一人、奥のほうから近づいてきた。

姿勢も視線も、どこか異質な静けさを持っている。

「Q-pullの…上田です。今日は娘のご縁でお邪魔しました」

上田社長は、パーティの空気を壊さぬよう丁寧に微笑みながら名刺を差し出した。


田中社長はその名刺を受け取り、目を細めた。

【Q-pull、年商4000億】

その数字が、新聞記事の見出しとして脳裏に浮かんだ。

リビングに香るバジルと野望

「こちらこそ。町の司法書士の田中と申します。…いやぁ、水野が来てたら喜んだでしょうな。うちの頭脳担当でして」


「頭脳ですか?すごい表現ですね」

上田は笑うが、その目は鋭い。

「正直、最初はこういう地元の集まり、あまり期待していなかったんです」

赤ワインを手にしながら、上田は続ける。

「でも、Sセミナーさんの新システムの話を娘から聞いて、驚きました。あれは、よくできてる」


「ほぉ…いやぁ、うちの半田と奥田が、ちょっと頑張りましてな。もとはアパレルの娘なんですけど、最近ええ空気を出してるんですわ」


「若い人材が伸びているのは素晴らしいことですね。…それと、あの“親書”と“かわら版”の切り分け方、非常にユニークで面白いですね。うちのセキュリティチームでも話題になりました」


田中社長の胸の中で、ある種の“センサー”が静かに鳴った。

――それも知っとんのかいな?これは、ただの挨拶やないな。


そのとき、藤島専務がグラスを置いて、静かにスイッチを入れるように動いた。

「はじめまして、藤島と申します」

名刺を差し出す手に、一点の曇りもない。


「うちの専務でして、元は都市銀行の融資審査部門におりました。いまは町の事務所で、もったいないくらいですわ」


「御社のデータ利活用モデル、私も関心があります。近年は情報管理の信頼性がビジネススケーラビリティに直結しますからね」


その一言に、上田社長は再び目を細めた。

そして、ゆっくりと田中に向き直る。

「やっぱり、水野さんにもお会いしたかったですね。田中さん、改めて伺いたいのですが…

地方でこういうコンサルモデルを展開する狙いは、何ですか?」


田中社長は、赤ワインを口に含み、わずかに目を閉じる。

そのあと、やわらかく笑った。

「“士業”ちゅうのはね、もともと“志す業”やと、わたし思うてるんです。

この町の事業者が、都会の人間に“なんでそんなことも知らへんの?”言われんようにしたいんですわ。

AIでも、システムでも、税でも、登記でも。

そのために、うちは、ちょっとだけ先に勉強してる。それだけです」


沈黙。

空気が少し濃くなった。

そして、上田社長はうなずいた。

「…いいですね。非常に共感します。あとで、ぜひ連絡先を教えていただけますか。何かご一緒できるかもしれません」


藤島専務と田中社長が、目を見合わせる。

そして、ほんの小さく、うなずいた。

そのとき、別の部屋から、たまちゃんの笑い声と半田のツッコミが聞こえてきた。

何かが、確かに――動き出していた。


そして翌日。

パーティーで撮影された写真を見ていたメグ姐さんが、ひとりPC画面をのぞきこみながら、小さく声をもらした。

「ふふん、見逃さんよ」

デスクの引き出しから手帳を取り出すと、なにやらメモを取りはじめる。

【気づきメモ】

半田くんの皿に、たまちゃんがこっそりパスタを多めによそってた。

半田くんは「気ぃつかった?」って笑ってたけど…そろそろかな。

そっとページを閉じ、メグ姐さんは小さく頷いた。

ーー続くーー


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