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田中オフィス  作者: 和子
17/90

第十六話、Sセミナー

ーーC&Cサーバーーー

春の午後。窓から柔らかな陽光が差し込むリビングには、観葉植物の緑がさりげなく映えている。そこは、家族の暮らしの場であると同時に、新しく法人化される小さな会社のオフィスでもあった。


その空間に、二人のスーツ姿の来訪者が腰を下ろしていた。司法書士の水野幸一と、営業担当の橋本和馬。目の前には、法人設立を進める武田夫妻——徹と美月が並んで座っている。


「本日は法人設立の最終確認ということでお伺いしました。物件の登記関係もスムーズに進んでいますよ」


水野さんが手元のタブレットを確認しながら、穏やかな口調で話す。


「ありがとうございます。思ったより順調ですね」と徹が微笑む。


そこへ、橋本さんがひとこと付け加えた。


「ただ、自宅を法人資産に切り替えるとなると、セキュリティのことも少し考えないといけませんね」


「セキュリティって……ネットの話ですか?」と徹。


美月が首を傾げ、何かを思い出すようにつぶやく。


「最近、ニュースでよく見る“C&Cサーバー”ってやつ……あれもセキュリティの話ですか?」


橋本が頷いた。


「ええ、そうです。“C&Cサーバー”って聞き慣れないかもしれませんが、けっこう重要なんですよ」


水野さんが頷いて説明を引き継ぐ。


「“C&C”は“Command and Control”の略で、ウイルスやマルウェアに感染した端末に指示を出す、いわば“司令塔”のようなサーバーです」


「司令塔……ってことは、遠くから操作されるってことですか?」と美月。


「その通りです。たとえば、お子さんの塾の資料を作っていたパソコンが感染していたとして……そのファイルが全部、外部に送られていたなんてこともあり得ます」


その言葉に、徹の顔が曇る。


「うち、フリーソフトけっこう使ってるんですよね。危ないですかね?」


橋本さんが、やわらかい声で応じた。


「使い方次第ですね。でも、これから法人として運営していくなら、業務用の対策ソフトを入れたほうが安心です。個人の感覚だと、守りきれない部分も出てきますから」


少し緊張していた空気を、美月が明るくほぐす。


「なるほど……C&Cサーバーって、うちの塾みたいな“受験の司令塔”じゃなくて、悪い司令塔なんですね(笑)」


「まさにそれです」と水野も笑顔で応じる。「塾では“志望校へGO”ですが、ウイルスは“外部へデータGO”ですから」


橋本さんが調子を合わせる。


「防げるGOと、防がないとマズいGOですね!」


部屋には、くすくすとした笑いが広がった。


ーーヒアリングの午後ーー

柔らかな陽光が差し込むリビング。Sセミナーの教室兼自宅は整頓され、壁には子どもたちの笑顔が並ぶ写真が飾られていた。室内の奥、静かに動くPCのファン音が、日常の一部として溶け込んでいた。


橋本さんがカバンからメモ帳を取り出し、にこやかに口を開いた。


「ところで、今のパソコン環境って、どんな感じなんですか?」


「奥のPCで全部やってます。経理も教材も出席記録も…あとは外付けHDDに保存してて。2terabyteあるんですよ。教室の記録も全部そこに入ってます」と、武田美月が誇らしげに答えた。


水野さんはちらりと部屋の奥に目をやり、質問を続ける

「なるほど。クラウドではなく、ローカル保存なんですね?」


「そうなんです。クラウドって、ちょっと怖くて…。なんか、どこかに飛んでいっちゃいそうで。」


「なるほど…」と水野が頷いたとき、夫の武田徹がぽつりと呟いた。


「あのPCにログインできれば、全部見られちゃう感じですね。アルバイトさんにもパスワード渡してるし。」


橋本さんが視線をそっと水野に送る。


「……(小声で)これはちょっとヤバいですね。」


ーー静かな警告ーー

水野さんは冷静な声で切り出した。


「実は、C&Cサーバーって、こういう“隙”を狙ってくるんです。」


「隙…ですか?」美月の表情が曇る。


「たとえば、アルバイトさんの端末が感染していた場合、外付けHDDのデータまで持っていかれることもあります。」


「えっ、外付けでも?」と美月が声を上げた。


「はい。マルウェアは、接続されている記憶装置すべてをスキャンし、データを吸い上げる指令を“C&Cサーバー”から受けることがあるんです。」


不安が、目に見える形で部屋に広がっていった。


ーー現実的な道筋ーー

橋本がその空気を受け止めるように前に出た。


「アルバイトさん用には“限定権限”のアカウントを作って、必要な作業だけにアクセスできるようにするのが理想です。」


水野さんも続けた。「できれば、データはクラウドに“自動バックアップ”して、HDDだけに頼らない方が安全です。暗号化も一つの方法ですね。」


「なるほど……じゃあ今のままだと、“鍵を開けっぱなしで家を出てる”ようなものですね。」と徹が苦笑交じりに言う。


「その例え、完璧です。」水野さんがうなずいた。


ーー事務所に戻ってーー

田中オフィスの応接室に戻った二人は、ホッとしたように座り込んだ。


「水野さん、あれはちょっと、セキュリティ提案セットでフォローせなアカンですね。」


「ほんとに。C&Cサーバーって名前、いっそ“悪の司令塔”とかに変えて、危機感を持たないと。」


そこへ、社長・田中卓造が登場する。


「C&Cいうたら、昔のインベーダーゲームみたいやな。わし高校の頃、ゲーセンで――」


「社長、話が飛びました。」水野さんがやんわり遮る。


「でも、こういう雑談から例え話が浮かぶんですよね」と橋本が笑った。


ーーセキュリティミーティングーー

応接室では、水野、橋本に加え、半田くんと稲田さんも交えた小さなセキュリティ会議が始まっていた。


「Sセミナーさん、外付けHDDだけでデータを管理しています。パスワードもアルバイトに口頭で共有してるらしい。」と水野さん。


稲田さんが目を見開く。「それ、うちの田中社長が聞いたら、“あかん、それは命取りや”って言いそう。」


「……実は、それ以前にヤバい点あるかもしれません。」と、静かに半田くんが口を開いた。


「ん?何か気づいた?」水野さんが目を向ける。


「家庭用ルーターですよ。自宅で塾やってるってことは、Wi-Fiも家庭用ルーターですよね?設定そのままなら、初期IDとパスワードのままってケースも多いです。」


「最近のルーターって、まだ“admin / admin”あるんだろ?」と水野さん。


「あります。しかもDMZ機能やUPnPがONのままだと、外部から通信を通されるリスクも。もしマルウェアが入って、C&Cサーバーに“呼ばれた”ら……」


橋本がうなる。「それ、一番狙われるやつや。」


ーー静かな決意ーー

「つまり、家庭用ルーターも“小さな玄関”なんだな。玄関の鍵を強化しないと、泥棒を招き入れてしまう。」水野がつぶやくように言った。


稲田さんが身をのりだして、「塾で生徒の顔写真や家庭の連絡先も扱ってるでしょ?それが漏れたら信用問題よ。」


「あと、タブレットのOS更新止まってるとか、怪しいアプリ入ってるとか、地味に穴が多いです。」と半田くん。


「半田くん、出番やな。“家庭向けセキュリティ基本パック”考えて、Sセミナーさんに提案しよか。」橋本が言う。


「うん、法人登記だけじゃなく、“安心してスタートできる環境”を作るのも、田中オフィスの仕事だ。」と水野さんは静かに言った。


**[家庭用ルーターのパスワード、変えてますか?]**

外からの侵入は、玄関だけじゃない。Wi-Fiの裏口から、C&CサーバーはあなたのPCにアクセスしてくるかもしれません。


ーー春の風とセキュリティ診断ーー

春の陽が優しく差し込む午前十時。街の住宅街に並ぶ静かな家々の一角に、スーツ姿の二人の男が姿を見せた。橋本和馬と、若きエンジニア半田直樹。彼らは「Sセミナー」の法人化を支援してきた田中オフィスのメンバーである。


「ここですね」と橋本が言って、玄関先のインターホンを押した。


「はーい!」


軽やかな声とともに、ドアが開く。現れたのは武田美月。穏やかで知的な雰囲気をまとった、Sセミナーの代表者である。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お上がりください。ちょうどコーヒーを淹れたところなんです。」


「ありがとうございます。今日は“IT環境の簡易診断”ということで、ウチの若きエース・半田を連れてきました。」


「初めまして、半田です。機器やネット環境のチェックをさせていただきます。よろしくお願いします!」


奥から顔を出したのは、武田の夫・徹だ。眼鏡越しの柔和なまなざしに、テレワーク中の余裕がにじんでいる。


「どうもどうも。僕も今日は家にいますから、何かあれば手伝いますよ。」


ーー無言の危機ーー

畳の香りが漂う和室の一角に、ノートPCやタブレットが並べられていた。半田は腰を下ろし、丁寧にそれらの機器に目を通していく。


「では、順番に失礼しますね。まず、Wi-Fiルーター……あ、やっぱり“admin”のままです。」


「えっ……初期設定から変えてないかも……?」と美月が眉をひそめた。


「“admin”は泥棒が好きな鍵番号のようなもんですわ。変えた方がええですね」と橋本。


「あと……タブレット、3台OSの更新が止まってます。使えなくはないですが、既知の脆弱性がそのままです。」


徹が小さくうなずく。「……なるほど。そういうの、素人だとわかりづらいですね。」


ーー見えない侵入者ーー

「最近は、こういう隙を狙って“C&Cサーバー”っていう、ハッカーの司令塔に操られるパターンが増えてます」と半田くんが言った。


「それって、どうなるんですか?」美月が身を乗り出す。


「たとえば、外部から感染プログラムが入り込むと、このPCが“乗っ取られて”、勝手にスパムメールを送ったり、他の攻撃に使われたりするんです。」


「自分の知らんうちに“犯人側の手先”になってしもたら、怖いですよね。信用も落ちますし」と橋本が続けた。


徹が小さく息をのんだ。「……これは、ウチの規模でも対策必要だな。」


ーー安心という名の投資ーー

「なので、ルーターの設定変更・PCとタブレットの更新、それと“ファイルの暗号化”を基本にした対策パックを提案させていただきます」と半田くんが言う。


橋本さんが補足する。「初期導入のサポートは田中オフィスでやりますし、月額保守も必要に応じて柔軟に対応しますよ。」


「ありがとうございます……登記のときから思ってたんですけど、やっぱり田中さんのところは“手厚い”ですね」と美月が笑顔を見せる。


徹が小さく笑った。「これは“安心も込みの法人化”だな。」


ーー帰り道にてーー

車の中で、橋本さんが助手席の半田くんをちらりと見た。


「よっしゃ、ええ仕事したな。お前、説明もわかりやすかったで。」


「マジすか? いや〜、やっぱ現場に出ると勉強になりますね。」


「おう、田中オフィスは“登記して終わり”やない。始まりを支えるのがウチのスタイルや。」


「……カッコいいですね、それ、名刺に印刷しましょか?」


「やめとけ、それはちょっと恥ずかしい(笑)」


ーー信頼という契約ーー

田中オフィスの会議室。陽光が入る窓辺に、藤島光子専務が座っていた。向かいには、少し緊張した様子の美月。


「こんにちは、武田さん。法人設立、おめでとうございます。」


「ありがとうございます。でも、人を雇うって、やっぱり責任重大ですね……。」


藤島はうなずいた。「はい。特に個人情報や学習ノウハウを扱う業種ですので、“労働契約”と同時に秘密保持契約(NDA)を結ぶことが重要です。」


──以下3つのポイントが、丁寧に示される。


・労働契約とは別に秘密保持契約書を用意する

・秘密保持の範囲と例外を明記する

・退職後も一定期間、義務が継続することを記載する


「学生さんでも、“秘密を守る責任”は社会人と同じ。“知らなかった”が許されない時代ですから。」


「……ありがとうございます。塾の経営も、“教育”だけじゃないって、よくわかってきました。」


藤島は静かに微笑んだ。「“人を雇う”ということは、未来を共に創るということ。信頼と仕組みで、安心できる職場づくりを目指しましょう。」


ーー静かな午後のイタリアンカフェにてーー

柔らかな音楽が流れる町のイタリアンカフェ。テーブルには温かなパスタと赤ワイン。そして、三人の女性の笑い声が交錯する。


「今日はお忙しい中ありがとうございます。実は前から、藤島さんとゆっくりお話ししてみたかったんです」と武田美月社長。


「こちらこそ。たまにはこうして、仕事抜きでお話しできるのも楽しいですね」と藤島がグラスを傾ける。


「私もお邪魔してよかったんですか?」と稲田が控えめに口を開く。


「もちろんよ。稲田さん、若いのに司法書士合格だなんて、本当に立派。うちの娘にも見習わせたいくらい。」


稲田さんは頬を赤らめる。「いえいえ、まだまだ実務では毎日反省ばかりで……水野先輩たちに教わってばかりなんです。」


話題はやがて“キャリア”へと移っていく。


藤島専務が穏やかに語る。「銀行時代に、お客様の相談にもっと答えたくて、こっそり通信講座を受けていたんです。夜な夜な、子どもを寝かしつけてから勉強してました。」


「えっ、お子さんもいらっしゃるんですか?」


「ええ。もう大学生ですけどね。子育てと仕事、資格試験の三重奏でした。」


稲田さんの目が輝く。「……すごい……!」


この午後、三人の女性たちは、それぞれの人生の選択と信念を静かに交わし合った。


ーーふとした問いかけと、照れ笑いーー

春の光がやわらかく降りそそぐテラス席。食後のコーヒーを手に、会話の熱は次第にほどけ、静かな余韻が場を包んでいた。


ふと、武田美月が手元のグラスをそっと置く。揺れる氷の音が小さく響き、彼女の目が柔らかく笑った。


「それにしても……水野さんって、すてきな方ですよね。」


その言葉に、テーブルの空気がわずかに変わる。稲田さんの指先がぴくりと動き、反射的に目を伏せた。


「とてもスマートで、頭も切れるし……ええと、たしか独身なんですよね?」


そう言って、武田美月はちらりと稲田さんへ視線を投げた。まるで無邪気なようで、どこか意図をはらんだ問いかけだった。


「えっ!? あ、はい……たしかに独身ですけど……!で、でも、私には……その、あの……」


稲田さんはあたふたと答え、水のグラスを手に取り喉を潤した。耳の先まで赤く染まり、目はどこを見ていいのかわからない。


藤島専務が、くすくすと喉を鳴らして笑う。


「うふふ。稲田さんには、バトミントン部時代からのお付き合いの方がいらっしゃるのよ。今も、大手企業で頑張ってらっしゃるんですって。」


「まあ、そうなんですね~!」


武田社長は目を丸くしながらも、どこか安堵したような、しかしなお興味津々な様子を隠さなかった。


「でも、社内で一緒に頑張ってると、いろいろ気になることもあるでしょう?」


「いえいえ、そんなことは……! 水野先輩には、ただただ尊敬の気持ちしかありません!」


稲田さんの声はひときわ大きく、語尾が震えていた。


武田美月はグラスを指でくるくる回しながら、ふと視線を遠くに向けた。


「ふふ、そういう気持ち、大事よね。でも私、思うんです。誰かと長く一緒に仕事していくと、その人の“中身の魅力”ってすごくわかってきますよね。」


「ええ。だからこそ、組織づくりって人選が命ですものね。」


藤島専務の言葉に、武田美月は小さくうなずいた。


「うちの塾も法人にしたら、社員を雇うことになるでしょう?信頼できる人を、ひとりずつ丁寧に選んでいきたいなと思ってるんです。」


日差しのなか、武田美月の眼差しは静かに揺れていた。


しばらくの間を置いて、稲田さんが少し落ち着いた声で口を開いた。


「私も、もっともっと信頼されるようになりたいです。いつか、水野先輩みたいに――」


「もうなってるわよ。十分に。」


藤島専務が優しく笑いながら応えると、稲田さんのまぶたが少しだけ震えた。


「なんだか、いい時間をいただきました。」


武田美月がふと背筋を伸ばして言う。


「……次は夜ごはんもご一緒したいですね。」


「ええ、ぜひ。次は稲田さんの彼氏さんの話も、もう少し詳しく聞かせてもらおうかしら。」


藤島専務がいたずらっぽく笑ったその瞬間――


「えっ、そ、それは……あの……ちょっと待ってくださいぃ~!」


稲田さんは顔を真っ赤にしながら身をよじった。その仕草が、まるで初夏の風に揺れる若葉のように、あどけなかった。


初夏の陽ざしが差し込むテラス席に、笑い声がこだまする。


新たな仲間、新たな繋がり。


法人化という節目は、出会いの始まりでもあった。


――そして、次に何かが起こるとしたら。


それはまた、誰かの“想い”から始まるのかもしれない。


ーー帰り道の小さな会話ーー

柔らかな午後の日差しの中、イタリアンカフェで武田社長と別れた後、二人の女性が並んで歩いていた。初夏の風が頬をなでる感触には、暑さを予感させるもどこか優しさがあった。


石畳の小径を歩きながら、藤島光子はそっと隣を歩く若い後輩に目をやった。稲田美穂。明るく前向きで、少し不器用だけれど、一生懸命な姿が誰からも愛されている子だ。


「……水野くんのこと、どう思ってるの?」


ふいに投げかけた言葉に、稲田は驚いたように足を止めた。


「えっ……!な、何ですか急に……!」


赤くなった頬を隠すように、慌てて前髪を直す稲田さん。その仕草を微笑ましく思いながら、藤島専務は歩を進めたまま言った。


「ごまかさなくていいわよ。さっきの武田社長の言葉、あなた少し動揺してたじゃない。」


稲田さんは少しうつむきながら、ためらいがちに口を開く。


「……はい。最近、なんだか…気になることが多くて。仕事で助けてもらったり、厳しくされたりしてるうちに……その……」


自分の感情に名前をつけるには、まだ勇気が足りなかった。けれど、藤島専務には十分に伝わっていた。


「若い頃ね、私にも似たようなことがあったの」


そう語り出した藤島専務の声は、少し懐かしさを含んでいた。


「長く付き合ってた人がいたけど、職場の尊敬できる人に惹かれて――自分の気持ちが分からなくなったの」


「専務にも……?」


稲田は驚いたように顔を上げた。


「でもね、その時、誰かが言ってくれたの。“恋は憧れと混ざることがある。けれど、人生のパートナーは、あなたの素の姿も受け止めてくれる人”だって」


藤島専務の視線は、少し先の交差点を見つめていた。そこに浮かぶ記憶は、今より少しだけ若い自分。


稲田さんはその言葉をゆっくりと胸にしまい込むように、静かにうなずいた。


「……それ、今の私にすごく響きます」


「水野くんは仕事仲間として素晴らしい人。でも、あなたの彼も、あなたの“生活”を支えてきた存在でしょ?」


稲田さんは小さくうなずいた。


「はい、学生の頃から、いつも応援してくれてて……でも、最近はすれ違うことも多くて……」


藤島専務は優しく語りかけた。


「焦らなくていいのよ。答えはすぐに出さなくても。でもね、相手のことも、自分の気持ちも、ちゃんと向き合う時間を作ること。仕事に没頭してると、そういう時間って後回しにしがちだから」


静かに並んで歩く二人。その距離は、ほんの少しだけ近づいていた。


「専務って、やっぱりすごいです。…かっこよすぎて、近づけない気がしてましたけど、ちょっとだけ親しみ持てました」


藤島専務は笑って返す。


「それは失礼ね。私は“気さくで頼れる専務”って思ってもらいたいんだけど?」


「ふふ……じゃあ今度、恋愛相談、もっとさせてください」


「いいわよ。次は夜に、ワインでも飲みながらね」


その頃には、今日より少しだけ、自分の気持ちに正直になれているかもしれない――そんな予感を、稲田さんは胸に抱いた。


成長と揺らぎの間で、稲田さんは今、小さな決断の岐路に立っている。

でも大丈夫。先輩たちは、静かに彼女の背中を支えてくれているから。

―春の風はまだ冷たいけれど、心の中に少しずつ、灯がともり始めていた。


ーー金曜の夜、新風館のカフェテラスにてーー


京都・新風館の中庭は、柔らかなライトアップに包まれていた。照らされた樹々の影が水面にゆらゆらと映り、春の夜にふさわしい静けさが漂っている。


テラス席の一角。白いクロスのテーブルを挟み、稲田美穂と柴田正史が向かい合っていた。


柴田はネイビーのジャケットにシャツを合わせ、どこか緊張した面持ちでグラスの水に視線を落としていた。数秒の沈黙のあと、ようやく口を開く。


「美穂、今日はありがとうな。久しぶりにちゃんと会えて、嬉しいよ」


稲田さんは少しぎこちない笑顔を返した。笑ってはいたが、その目の奥にある不安までは、隠せていなかった。


「うん、こちらこそ。……お仕事、忙しそうだったね」


「……実は、話があって」


彼女は瞬時に背筋を伸ばす。予感のようなものがあった。それは、彼のメールの文面や、声の調子、わざわざ予約されたこの席、どれをとってもただの“久しぶりのデート”ではないことを示していた。


「……うん。なんとなく、そうかなって思ってた」


柴田正史は深く息を吸い、静かに言った。


「俺、来月からドイツに行くことになった。エネルギー部門の新プロジェクトで、2年間」


グラスの水面が、ふるえる稲田さんの手元を映す。


「えっ……ドイツ?海外赴任って……そんな話、前はなかったよね?」


「うん。急に決まった。……でも、チャンスだと思った。今の会社で、こういうポジションに行けるのって、なかなかないからさ」


その声には、迷いも後ろめたさもなかった。ただ、まっすぐに未来を見ている男の声だった。


「そうなんだ……すごいね。正史くん、夢だったもんね、国際エネルギー政策に関わる仕事……」


そう言いながら、稲田さんは視線を落とす。テーブルの下、柴田正史の手が稲田美穂の手を握っていた。


(…ずっと応援してくれてた。司法書士の勉強中も、つらい時期も。私が泣いてばかりだった時も)


けれど、ふと脳裏に浮かぶのは――

水野先輩が見せた、あの一瞬の真剣な眼差し。

藤島専務の言葉が、今も胸の奥で静かに響く。


「人生のパートナーは、あなたの素の姿を受け止めてくれる人」


柴田正史は、まっすぐ彼女を見つめていた。その瞳には揺るぎない想いがある。


「……美穂。これからは、俺のそばにいてほしい...」


その一言に、彼のすべてが込められていた。


稲田さんはそっと目を閉じた。そして、深呼吸を一つ。


「……少しだけ、考える時間をもらっていい?」と言って、稲田さんは掴まれた手を離した。


彼は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑んだ。


「うん。待ってるよ。俺たち、長い付き合いだもんな。答えは、焦らなくていい」


頭上を、春の夜風がそっと通り過ぎていく。テラスのランタンが揺れ、ふたりの間の距離もまた、静かに揺れていた。


愛とキャリア、過去と未来。

稲田さんの心は、今まさに岐路に立っている。


でも――彼女は、もう迷ってばかりの自分ではない。

誰かに決めてもらうのではなく、自分の足で進もうとしている。


小さくても確かな一歩を、静かに、丁寧に。


春の風が、背中をそっと押していた。


ーーSセミナー応接室・翌日午前ーー


前夜の混乱が嘘のように、初夏の日差しが優しく窓から差し込んでいた。だが、応接室の空気はどこか張りつめている。


田中オフィスからは、藤島専務、水野幸一、橋本和馬、半田直樹の4人が訪問している。


水野さんは丁寧にファイルを広げ、そこから数枚の提案書を取り出す。藤島専務がその隣に静かに座り、武田夫妻の表情を見つめていた。


「今回の件を受けまして、Sセミナー様の業務システムについて、全面的な見直しをご提案いたします。目的は一つ——“生徒の個人情報と経理データを守る”ことです。」


水野さんの声は落ち着いていたが、言葉には揺るぎない芯があった。


藤島専務が補足するように口を開いた。


「情報漏洩が一度でも起きれば、保護者様や生徒さんとの信頼に関わります。今は“早めの手当て”こそが、最も重要な経営判断です。」


水野さんはホワイトボードに図を描きながら、次々に提案を説明していった。


【業務システム見直し案】

① クラウド再設定とアクセス権限の見直し


「すべてのクラウドアカウントを再発行し、パスワードを長く、ランダムに。SMS二段階認証や、認証アプリによる多要素認証も導入します。」


「加えて、家庭用PCからのアクセスは完全に禁止し、業務専用の端末に限定します。」


② 業務端末の分離


「奥様の業務用PCに加え、アルバイトスタッフ用に共有端末を1台増設します。」


「アカウントは使用者ごとに分け、閲覧や入力の範囲を細かく制限。徹さんの私用PCは、完全にネットワークから切り離しましょう。」


③ 情報管理のルール整備


「業務関係者には秘密保持契約書を交わし、退職・終了時にはすべてのアカウントを削除します。」


「情報セキュリティ研修は年に一度、簡単な冊子での啓発から始めましょう。」


④ データのバックアップ体制構築


「クラウドと外付けHDDの二重バックアップ体制をとり、月に1回は手動での完全保存。週次の自動保存も併用します。」


⑤ 顧問契約のご提案


「今後、セキュリティトラブルや法務・労務に即対応できるよう、田中オフィスとの月次顧問契約をご提案いたします。」


「必要に応じて、弊社提携のシステム会社とも連携し、ソフトウェア保守やクラウド管理を一括でお引き受けします。」


水野さんが一通り話し終えると、応接室には一瞬の沈黙が訪れた。


武田美月が、少しだけほほ笑みながら口を開いた。


「……ここまで、していただけるんですね。」


徹は深くうなずいた。


「俺たちの“教室”を、守ってもらえるのは心強い。生徒や親御さんに恥ずかしくないようにしたいです。」


水野さんはゆっくりとうなずいた。


「私たちも、ここからが“仕事”です。」


藤島専務も柔らかく微笑んだ。


「安心を提供することが、私たちの価値ですから。」


安心とは、備えの上に築かれるもの。

“まさか”の瞬間が訪れる前に、守る仕組みを。

田中オフィスの信条は、「備えこそ、信頼の証明」だった。


Sセミナーに再び、静かな日常が戻ろうとしていた。

だがそれは、昨日とは違う。備えた者だけが持てる、“静けさ”だった。


ーーSセミナー・パソコンルーム(週末)ーー

教室の奥にあるパソコンルームには、静かな緊張感が漂っていた。外は春の気配を帯びた陽光が差し込んでいるが、部屋の中ではモニターの青白い光が、まるで診察室のように冷静な空気をつくり出していた。


半田直樹は、ノートパソコンを開いた。


「まずは先生のノートPCからいきますね。クラウドの再設定、アカウント再発行……それと業務用の端末をネットワークで分離します。」


その口調は冷静だが、どこか安心感があった。


「なんだか頼もしいわね。こんな若い子が…」

武田美月が、驚き混じりに微笑む。


「こいつ、ウチのIT番長なんで。細かいとこまでよく気づくんですよ」

橋本が笑いながら言うと、半田はわずかに照れたように笑って、作業に戻った。


手元では、Microsoftアカウントの再設定が進み、OneDriveの履歴がスクロールされる。古いフォルダ構造が見直され、新しい分類に移行されていく。時折、半田は静かに確認をとりながら、確実に一つずつ作業を進めていった。


ご主人のPCも、セミナーの共有フォルダへのアクセスが遮断され、セキュリティが強化された。タブレット端末には、生徒専用のアカウントが登録され、使用範囲を教材と出欠管理アプリに限定。さらに、新しい事務用PCには共有アカウントが設定され、必要最小限のアクセス権で運用できるよう整えられていった。


外付けHDDにはBitLockerによる暗号化を提案。週一のバックアップ手順を、丁寧に武田美月へ説明した。


「先生、もしよかったら、次回は“遠隔操作”の設定もできますよ。旅行中や出張先でも、安全に確認できるようになりますし。」

ふと手を止めて、半田くんが言う。


「本当? それは助かるわ。遠征授業のときとか、手元で進捗チェックできたらありがたいわね。」

彼女の声には、現実的な安堵と、未来への希望が混じっていた。


「じゃあ、次回のメンテ契約に組み込みましょうか。先生の働き方改革にもなりますね」

橋本さんが爽やかに笑った。


ーー夕暮れの帰り道ーー

帰り道の車中、オレンジ色に染まる夕空が、静かに流れていく。


「武田先生、最初は不安そうでしたけど、途中からメモ取ってくれてましたね」

助手席の半田くんが言った。


「人に教える仕事してる人って、学ぶ姿勢も真剣だな.....俺も見習わなきゃなぁ」

橋本さんさんがぽつりと応じる。


しばし沈黙のあと、半田くんがふと漏らす。


「……それにしても、情報って、信用と一緒ですね。漏れたら取り戻せない。」


橋本さんは片手でハンドルを回しながら、うなずいた。


「だから、俺たちが支えるんだよ。影でな。」


街の灯りが一つずつ点る頃、Sセミナーの守りは、確かな一歩を刻んでいた。


ーーSセミナー 応接スペース(週明けの午後)ーー

小さな応接スペースには、温かい光が射し込んでいた。テーブルを囲んだのは、水野、橋本、半田、そして武田夫妻。


「法人化、おめでとうございます。経理まわりについても、今日ご相談ということで」

水野が柔らかく口を開いた。


「はい。今までExcelでやっていたのですが、規模も大きくなりますし…セキュリティも含め、クラウドでちゃんとした仕組みにしたいと思っていて」

武田美月が前を見据えた眼差しで答える。


その隣で、夫・徹が静かにうなずいた。


「それに……僕も、これからは片手間じゃなく、美月の仕事を本気で支えたいんです。」


一瞬、場が静まる。


「実は、会社を辞めました。自分で決めたんです。ここからのセミナー運営、システム周りを任せてもらいたいと思っています。」


橋本さんが目を丸くして言った。


「おお……それは本気ですね!」


「ありがとう……!でも、あなたにそこまでさせてしまって……」

武田美月の目に、少し涙が浮かんでいた。


水野さんは微笑んで言った。


「武田さん、これは大きな転機ですね。ご夫妻で力を合わせて、新しいステージに立たれること、本当に素晴らしいことだと思います。」


半田が具体的な提案を加える。


「Microsoft365のBusiness Standardでアカウントを統一、SharePointで書類共有。生徒管理はMicrosoft Listsか、kintoneのようなクラウドDBで一元化できます。出欠、教材、進捗管理もまとめられます。」


「経理はfreeeかマネーフォワードクラウドですね。税理士さんともつなげやすいですし」

橋本が補足した。


こうして、Sセミナーは本格的な法人化に向けて、動き出した。


Sセミナー 玄関先(その夜)

夜の空気は、ひんやりとしていた。見送りに出た徹が、水野たちに頭を下げた。


「……僕は、美月の夢が、どこまで本気か分かってなかった。でも、彼女の教え子たちが成長していくのを見て、ようやくわかったんです。」


水野さんは真っ直ぐに徹を見て言った。


「大丈夫です。武田さんが本気なら、我々も本気で支えます。」


徹は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


夜空に星が滲み始めたその時、Sセミナーは“家族で挑む教育の新形態”へと歩みを始めていた。

安全なクラウド環境、夫婦の絆、そしてプロたちの静かな支援。

そのすべてが重なり合い、新たな物語が、静かに幕を開けていた――。


ーー午後、カフェの窓辺でーー

木目の温もりに包まれたナチュラルテイストのカフェ。観葉植物のグリーンが陽光を浴びてきらめいている。ランチタイムのひととき、藤島光子専務と稲田美穂、奥田珠実――通称たまちゃんの三人が、軽やかに言葉を交わしていた。


「えー!ご主人、会社辞めてまで奥さんを支えるって…なんかもう、マンガのプリンスみたいっスね!」


たまちゃんが目を輝かせ、フォークを持ったまま言った。稲田が噴き出す。


「プリンスって、あんた…。でも、確かに男前な決断だよね。」


「ええ…。私、ちょっと感動しちゃったの。ご主人の目、本当にまっすぐで。迷いがなかった。」


藤島専務が、口元に手をあてて語るその表情には、深い敬意と感動がにじんでいる。


「そっかー…。うちの親なんか、『転職?もったいない!』って大反対でしたけど…。でも、人の夢を本気で応援できるパートナーって、ステキっス!」


「そういうたまちゃんも、面接で社長に“私、やる気だけは負けません!”って言ってたじゃん。」


「えへへ…。あれ、けっこう本気だったんすよ。」


たまちゃんが頬を赤らめながら笑うと、春の陽射しが彼女の頬にふわりと落ちた。


「今の時代、夫婦で事業をやるのってリスクもあるけど、その分、やりがいも大きいわ。うまくバランスが取れれば、最強のチームよ。」


そう言った専務の声には、どこか自身の過去にも通じる経験の余韻があった。


「…それにしても、ご主人の“美月の夢を支えたい”ってセリフ、なんかズルいくらいカッコよかったなあ…」


「ねーっ!一度でいいから言われてみたいっス、そういうセリフ…!」


「じゃあ、ちゃんと自分の夢を持って、それに向かって努力するのよ。夢に真剣な人には、きっと誰かが本気で応えてくれるから。」


藤島専務の言葉に、たまちゃんは小さくうなずいた。


その場所には、静かで温かな希望が満ちていた。

武田夫妻のまっすぐな生き方は、田中オフィスの若いメンバーにも、知らず知らずのうちに力を与えていた。


ーー写真の中のプリンスーー

午後、田中オフィスの共有スペースには、ランチ帰りのやわらかな空気が流れていた。

藤島専務のデスクの上には、武田夫妻が提出した書類のファイルが整然と並んでおり、その上に一枚の写真がちょこんと置かれていた。提出書類の控えとともに、「記念にどうぞ」と添えられたその一枚。


「え…えっ!? ええっ!? この人が…武田さんの旦那さんっスか!?」


書類を整理していた奥田珠実――たまちゃんが、突如として大きな声を上げた。

視線の先には、淡く微笑む男性と、その隣で穏やかに寄り添う武田美月さんの姿。


稲田さんが、椅子から振り返る。


「ああ、そうそう。徹さん、やさしそうな雰囲気だったよ」


たまちゃんは、写真を両手で持ち上げて、目を凝らした。


「やさしそうっていうか…リアルに、プ・リ・ン・ス!!うわー、ドラマ出れそうな雰囲気っスよこれ!」


「ふふ」と、藤島専務が目元を緩める。


「とても素敵だったわよ。落ち着いてて、でも芯のある方ね。奥さんのこと、本当に大事にされてるのが伝わってきたわ」


たまちゃんは両手で顔をパタパタと仰ぎながら、崩れるように椅子に座り込む。


「えーなにそれー!イケメンで、やさしくて、奥さん想いって…そんなのスペック高すぎじゃないスか~ゲームの中の住人かと思いましたよ~」白目になりながら、抑揚のない口調で崩れ落ちていく。


「たまちゃん、落ち着いて」と、稲田さんが苦笑しながら指を一本立てる。「現実にいるから私たち、仕事してるんだよ?」


「うわーもう!私、武田さんのサポート行ったら絶対ニヤける自信ある…。ヤバい、今からイメトレしておこ」


それを聞いた藤島専務が、クスッと笑ってからふと真顔になる。


「じゃあ、たまちゃん。次の現地サポート、あなたも連れて行こうかしら?」


「はいっ!よろこんで行かせていただきます!!」


立ち直ったたまちゃんのテンションは、もはや天井知らずだった。


けれどその明るさは、どんな場所にも風穴を開けてくれる。

Sセミナーの現場も、きっと彼女の登場で、田中オフィスはまた新しい風が吹くだろう。


ーーいざ、Sセミナーへ!ーー

その数日後。午後の陽射しが差し込む車内。

助手席のたまちゃんは、いつになく真剣な顔で窓の外を見つめていた――かと思えば、急に小さく拳を握った。


「いやー、ワクワクの方がデカいっスね!ていうか、あの旦那さんに会えると思うと…!」


ハンドルを握る半田直樹が、笑いながらちらりとたまちゃんを見る。


「そっちのワクワクか。ま、見るとわかるけど、ほんと雰囲気ある人だよ。優しさに包まれてる系」


「うわー、それってもう包容力MAXじゃないっスか…!私、うっかり“お義兄さん”って呼ばないように気をつけます!」


半田くんは笑いながらウィンカーを出した。「それは、いろんな意味でアウトだな」


武田邸にて

Sセミナー――武田夫妻の自宅兼オフィス。玄関には、美月さんがエプロン姿で出迎えてくれた。


「こんにちは、ようこそいらっしゃいました。今日はありがとうございますね」


「はじめまして!本日サポートで参りました奥田珠実と言います、よろしくお願いしますっス!」


たまちゃんは、元気いっぱいに頭を下げた。


「元気でかわいらしい方ですね。よろしくお願いします」と、美月さんが笑う。


そして、静かに奥の部屋から現れたのは、噂の“徹さん”。

シンプルなカーディガンに細縁の眼鏡。春の光をまとったような柔らかさと、言葉にせずとも伝わる誠実な気配。


(で、でたーっ…!噂の“ドラマ住人”!!プリンスというより“皇太子”って感じ!)


「今日はわざわざ、ありがとうございます。僕も手伝いますので、よろしくお願いしますね」


「はいっ…!よろしくお願いしますっ…!」


思わず声が裏返ったが、たまちゃんは何とか平常心を装って頭を下げた。


現地サポート初陣

作業が始まり、半田はPCのファイル共有設定を黙々と確認していた。

その隣では、たまちゃんがiPadを操作しながら生徒管理アプリをチェックしていた。


「このアプリ、通信も暗号化されてないっスね。クラウド移行のときは、ここも改善ポイントかも」


半田くんが、ちらりと視線をよこす。


「お、やるじゃん。成長してるな」


たまちゃんは、ちょっと照れくさそうに笑った。


「へへっ。やっぱ、現場は勉強になるっス!」


その様子を静かに見ていた徹さんが、ふと柔らかく声をかけた。


「奥田さん、元気があっていいですね。美月も、あなたみたいなスタッフに囲まれてると安心だと思いますよ」


たまちゃんの胸が、一瞬だけ跳ねた。

それでも必死に礼儀を崩さぬように背筋を伸ばす。


「恐縮ッス!!あ、いえ、恐縮です…!」


現地サポート初陣、無事完了。


学ぶことも多く、責任も感じながら、それでもどこか誇らしい一日だった。

そして――

(武田夫妻、理想のチームだなあ…)


帰りの車内、たまちゃんは助手席で静かにそう思った。

いつか、自分も誰かの「安心できる存在」になれるように――。


ーー夢見るフューチャー・リンクーー

帰りの車中(夕暮れ)

夕暮れの街を照らす茜色の光が、静かに車内を染めていた。


運転席の半田直樹は、いつもの無口な姿でハンドルを握りながら前方を見つめている。一方、助手席のたまちゃん――奥田珠実は、どこか遠い世界に旅立っていた。


(美月さん、エプロン姿で「あなた、お茶どうぞ」って……

徹さんは「ありがとう、君も少し休みなよ」って微笑む……)


目を閉じれば、そこは理想の夫婦像が繰り広げられるキラキラ世界。


(「私たち、仕事も人生もパートナーだから――」

「うん、美月がいるから、僕は何度でも立ち上がれるよ」)


たまちゃんの脳内には、すでに主題歌が流れていた。


(ま、まぶしい……!ここは漫画? それともNHKの朝ドラ!?)


「ん、さっきのUSB、帰ってからデータ消去しないとな。で、夕飯どうしよ、カップ麺かな…」


ふと漏れた半田のつぶやきが、夢の世界をスパッと切り裂く。


「……これが現実か……」


「…なんか言った?」


「ううん!何でもないっス!カップ麺も立派なディナーっスよ!人生はメリハリ大事っス!」


「お前、テンションの上下激しいな。疲れてない?」


「武田夫妻の光を浴びて、ちょっと眩暈(めまい)(≡▽≡)がしただけっス!」


半田くんは苦笑いを浮かべながら、信号で止まった。


田中オフィス 帰社後

夜のオフィスには、パソコンの静かな起動音とキーボードの控えめな音だけが響いていた。報告を待っていたのは、水野さんと藤島専務だった。


「おかえりなさい。どうだった?」


藤島専務の問いに、たまちゃんは真剣な表情で答える。


「もう…尊すぎて、塾のITインフラより先に、私の価値観がアップデートされたっス…!」


「…それはつまり、無事に作業完了ってことでいいんだな?」


水野さんが事務的に確認する。


「バッチリっス!半田さんの設定も完璧で、徹さんも協力的でした!奥様ともスムーズに連携できました!」


「素敵な現場デビューになったようね」


「はい…もし“夫婦システム”ってアプリがあったら、あの二人、バージョン10.0っスね…」


脳内ワールド、絶賛拡張中だった。


ーー田中オフィス・休憩スペースーー

翌朝、コーヒーの香りが立ち込める休憩スペース。稲田、奥田、藤島、そして奥からひょっこり佐々木が現れた。


「…でね佐々木さん、武田さんご夫婦ってね、なんかこう…キラキラっていうか…少女マンガに出てくる“お互いを高め合う大人カップル”って感じなんスよ…!」


佐々木は無言でたまちゃんを見つめ、ひとこと。


「…たまちゃん、それ完全に脳内アニメ化されてるね。オープニング曲とか流れてなかった?」


「えっ!?……実は流れてたっス。“夢見るフューチャー・リンク”ってタイトルでした…!」


「タイトルまでつけてんじゃないよ。」


稲田さんがクスッと笑いながら口をはさむ。


「でもまあ、たしかに素敵なご夫婦だったよね。夢じゃなくて、ちゃんと“地に足がついた理想”って感じ」


「彼の“美月の力になりたい”って言葉、ストレートだけど本物だった。今どき珍しいわよ」


佐々木は真顔に戻り、釘を刺す。


「でも、その尊さにあてられて、仕事中に“ふわふわパラレルワールド”に入りこむのはナシね、たまちゃん」


「はいっ!現実世界、再ログインしました!」


「よろしい。次、クラウド再設定のマニュアル、一緒に作りましょ。ほら、夢のあと片付けるのが現実よ」


「は…はいっス!“現実”って、すごいっスね…!」


ーー田中オフィス・専務の想いーー

ふと、藤島専務がモニターから目を離し、遠くを見つめていた。


「せ、専務…?なんか、物思いにふけってるような…?」


「ええ。ちょっとね……武田さんたちご夫婦、素晴らしいわよね」


「ほんとですね。お互いの夢を、ちゃんと“人生”として支え合ってるっていうか…」


「人って、社会の中で戦いながら、誰かと共に歩くって、簡単じゃないのよ。信頼しきるには、覚悟がいる。彼、退職まで決めてたでしょ。あれ、本気の決断」


「専務ぅ……なんか今、心にしみる感じの名言だったっス……!」


「しみてるだけじゃダメよ、たまちゃん。私たちは、そういう“覚悟のある人たち”をサポートする側なんだから。武田さんたちみたいな方の、背中をちゃんと支えてあげないと」


「……はい。あの人たちに、安心して前に進んでもらえるように。私も頑張ります」


「私も、現実と戦うっス!おふたりに“よくわかんないけど信頼できる子”って思われるくらいに!」


「“よくわかんない”は余計よ…?(笑)」


ーー朝の雑談・会議室前ーー

「わー、河村さんのメルマガコラムきたっスね!今回は『不正アクセス禁止法』についてっス」


たまちゃんがスマホを掲げると、隣でコーヒーをすする半田がうなずいた。


「うん。けっこう踏み込んでる内容だったな。たとえば…このクイズ、全部アウトだけど、どれが“助長行為”として不正アクセス禁止法に抵触するかって話」


「①~④の中から選ぶやつですね!よっしゃ、たまちゃん検討するっス!」


朝の日差しの中で、たまちゃんは現実のスキルアップにも全力だった。


ーー田中オフィス・朝の打ち合わせ前ーー

朝の田中オフィスには、コーヒーの香りと、立ち上がったばかりのパソコンのファンの音が静かに混じっていた。


半田直樹は、まだ自席に着く前の数分を使って、自分のスマートフォンをいじっていた。スクロールする親指の動きが止まり、彼はふと横のたまちゃん――奥田珠実に声をかけた。


「たまちゃん、昨日のクイズ、②が“正解”だったけど、他の選択肢も全部ヤバいやつなんだ。河村さん、めっちゃ丁寧な解説をメールでくれてるよ。読むね」


スマホの画面に表示されたのは、Rシステムの河村亮からのメールだった。技術畑の彼には珍しく、文章がきれいに整っていて、どこか教科書のようだった。


From:河村亮(Rシステム)

Subject:不正アクセス禁止法・補足説明


こんにちは、河村です。

クイズに関して、補足の法的解説をお送りします。業務の参考になれば幸いです。


■①について


商用の音楽コンテンツをブログで不特定多数にダウンロードできる状態にする

→これは著作権法違反に該当します。音楽などの著作物を無断で配信したり、ダウンロード可能にする行為は違法であり、10年以下の懲役または1,000万円以下の罰金の対象になり得ます。


■③について


特定のWebサイトに対する大量のアクセスを扇動する書き込みを電子掲示板に投稿

→これは電子計算機損壊等業務妨害罪(刑法234条の2)に該当する可能性があります。DDoS攻撃などを煽る行為は、たとえ直接攻撃していなくても違法です。3年以下の懲役または50万円以下の罰金。


■④について


個人情報を詐取するプログラムを作成して配布する

→これは不正指令電磁的記録供用罪(刑法168条の2)です。ウイルスやスパイウェアなどを配布する行為で、3年以下の懲役または50万円以下の罰金。意図的な情報収集は、重い処罰対象になります。


なお、②の「ID・パスワードの第三者への無断伝達」は、設問とおり、不正アクセス禁止法の助長行為(第3条)として、1年以下の懲役または50万円以下の罰金の対象になります。


読み上げる声に耳を傾けながら、たまちゃんは素早くメモを取っていた。ペンの動きは早く、だがその合間にも目がきらきらと光っていた。


「河村さん、マジで法律の先生みたい…!」たまちゃんは感嘆したようにつぶやいた。「全部アウトっスけど、それぞれの根拠と罰則がぜんぜん違うんスね」


「そうなんだよ」半田は感心したようにうなずく。「だから情報セキュリティって、ただ“ウイルスに気をつけよう”じゃ済まなくてさ。“法律に抵触しないために”って視点も必要なんだよね」


たまちゃんは一瞬うーんと考え込んだようだったが、次の瞬間にはもう前のめりになっていた。


「これ、Sセミナーさんの職員教育にも使えそうっスね! あたし、4コマ漫画にして貼っときます?」


「……たまちゃん、ノリ軽いけど発想は鋭いな」


苦笑しながらも、半田くんの声には明らかに感心の色がにじんでいた。彼女の勢いに引っ張られるように、オフィスの朝の空気も、どこか明るくなる。


すぐ隣ではプリンターがカタリと動き出し、会議の準備が着々と進んでいた。


ーー新アプリ誕生?ーー

「生徒の出欠管理みたいなものではないけど、連絡ツールって、何か専用のものが欲しいわね」


武田美月のその言葉が、ずっとたまちゃんの頭の中に残っていた。


数日後、たまちゃんは半田くんに話しかける。


「半田さん、なんかイケないすかね? スマホアプリに、Sセミナーの学習システムを補助するようなやつ」


「スマホアプリで? ああ、塾以外でも勉強できるような?」


「そうそう! 出欠とか連絡もできて、ついでにミニテストも解けちゃったりして」


「面白そうだな。コンセプトだけでもまとめてみるか」


「これ、うまくいったら全国の学習塾に導入できるかも…!」


たまちゃんの瞳がきらりと光る。


そこから始まった、小さなアイディア。

それが後に、「さきどりスクエア」と名づけられ、思いもよらぬ未来を切り拓いていくことになる。

ーーつづくーー

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