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田中オフィス  作者: 和子
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第十四話、水野幸一の日常

ーー早春の休日ーー

早春の空気は、まだどこか肌寒く、それでいて汗ばむような陽射しが混じり始めている。季節の変わり目を肌で感じながら、今日もいつものコースを走っていた。


「今日はシャワーでも浴びようか」


独り言のようにつぶやきながら、いつもの角を曲がる。そこには小さなお地蔵様がいて、僕は軽く頭を下げる。もう習慣になっている所作だ。


公園の入り口にさしかかると、寒桜がもうすっかり花を散らせていた。春のはじまりを告げるその淡い花々は、今はわずかな名残を枝先にとどめるばかり。視線の先に、ベンチの上にぽつんと置かれた犬のリードが見えた。


犬は――いない。飼い主も、見当たらない。


一瞬、時が止まったような静けさが辺りを包んでいた。春の陽はやわらかく、まだ低くて、木々の影が長く地面を這っている。


「近くで見ているのかもしれないな」と思う。あるいは、忘れていってしまったのかもしれない。理由はわからないが、つい考えてしまう。職業柄なのか、それとも、ただの性分なのか。何かを目にすると、そこから状況や背景を推測せずにはいられない。


「リードがある」――ただそれだけの事実が、静かに思考を呼び起こす。


けれど、今日は時間がある。そう、金曜の夜に自分に課した“約束”があるのだ。休日は、仕事のことを考えない。そう決めている。


一歩、また一歩と走り出す。風が頬をなでた。春が、もうすぐ本気を出しはじめる。そんな気配を風が教えてくれる。


金曜の夜は、少し遅くなっても、机の上を整えて帰るようにしている。タスクはすべてリストに落とし、メールボックスはできる限り空にしておく。誰かと飲みに出ることもない。酒が嫌いなわけではないけれど、ざわついた場所で言葉のノイズに巻き込まれるのが、どうにも苦手なのだ。


静かな夜道の方がずっと好きだ。自分の足音が、冷たい空気を割る音が、季節の移ろいを教えてくれる。


ポケットに手を入れて歩く帰り道、「ああ、空気が少し柔らかくなったな」と思う。これが週の終わりの合図であり、休日の始まりの鐘の音でもある。


休日の朝は、目覚ましよりも早く目が覚める。走ること、食べること、本を読むこと――すべてに自分なりのリズムがある。それは「働かないため」の準備ではない。きちんと休むことで、また次の一週間を迎える準備をしているのだ。


そういうリズムのなかで生きている。水野幸一という人間の“働き方”は、きっと、そういうものなのだと思う。


ときどき聞かれることがある。


「趣味は?」「何が好きなんですか?」


きっと、そういう問いには明るくてわかりやすい答えを期待されているのだろう。だが、僕はうまく答えられない。特定の趣味に没頭しているわけでもないし、何かを集めているわけでもない。


けれど――朝の静けさ、湯気の立つ器、整えられた部屋に差し込む柔らかな光。そういう目に見えない秩序と流れのなかで今日を迎えているという感覚があれば、それで十分なのだ。


テレビはもう置いていない。時間を吸い取られる気がして、ずいぶん前に手放した。でも、NHKの受信料は払っている。不思議に思われるかもしれないけれど、それが“誰かのために必要なもの”であるなら、僕が使わなくても支える価値があると思うのだ。


この時代に生まれ、何不自由なく暮らし、学ぶ機会があり、働く場所がある。日々向き合うべき課題があり、それを共にする仲間がいる。人として試される場がある。


それだけで、十分すぎるくらいだ。


神様――といったら大げさかもしれないが、ふとした瞬間に、見えない何かへ感謝を送りたくなることがある。


窓の外を見ると、風に揺れる洗濯物があり、どこかで鳥の声が聞こえる。


今日という日が、またひとつ、穏やかに終わっていく。


ーーそれで、いいーー

「結婚しないの?」

そう聞かれたことが、一度もない。


友人からも、職場の人からも。

そして両親からさえも。


——ああ、そういう子なんだな。

きっと、父も母も、ずいぶん早くに気づいていたのだろう。

それは押しつけでも、あきらめでもない。

むしろ、静かな了解だった。


私という存在を、問いただすことなく受け入れてくれた。

自分を変えようとせず、変えることを望まず、ただ、そこにあるものとして。


それはきっと、「立派な親」と呼ぶにふさわしい姿なのかもしれない。


年に2度か3度、実家へ帰る。

父は庭で梅の木を剪定し、母は昔と変わらぬ味噌汁を用意してくれる。

特別な会話は交わさない。けれど、その静けさの中に、互いの時間が滲んでいる。


「おまえは、変わらんな」


そう笑った父の顔が、少しずつ祖父に似てきたことに気づく。

それで、いい。

変わらないことは、案外ありがたいものだ。


夜。

部屋の明かりを落とし、窓を少し開ける。

この静けさを誰かと分かち合う相手はいない。

けれど、それでも、私は満ちている。


——必要なものは、すべて自分の中にある。


それは強がりでも、孤独の言い訳でもない。

ただ、自分というかたちを、静かに丁寧に、整えてきたということ。


湯を沸かしながら、ふと思う。

今夜は、ほうじ茶にしよう。

少し香ばしいその香りが、肩の力をやさしく抜いてくれる。


明日も、何気ない一日になるだろう。

けれど、確かに意味のある一日だ。


——友人は少ない。

けれど、それを寂しいと思ったことはない。


みな付き合いは長く、十年以上。

頻繁に連絡を取り合うわけでもなく、誕生日のメッセージすら交わさない。

それでも、必要なときには、ふとつながれる安心感がある。


外国人の友人もいる。

仕事を通じて出会った者もいれば、旅先で偶然、言葉を交わしただけの者も。


彼らは「ミズノ」という名前に、妙なインスピレーションを感じるらしい。

柔道着のブランドか何かと勘違いされることもあるが、それもまた縁だ。


「君の話し方は、禅僧みたいだね」と言われたことがある。

意味はよくわからなかった。

でも、否定する気にもならなかった。


——まあ、いい。

もうすぐ昼になる。

天気もいいし、少し遅めの食事をとろう。


冷蔵庫から玄米ごはん、切り干し大根の煮物、昨晩の胡瓜の浅漬けを出す。

ちゃぶ台のような小さなテーブルに、ひとつひとつ丁寧に並べる。


誰かと分け合うわけではない。

けれど、だからこそ、丁寧に扱いたい。

咀嚼の音だけが部屋に響く。


しずかに、淡々と、自分という時間を味わう。


——この静けさが、きっと私にとっての「豊かさ」なのだ。


箸を置き、湯呑みに口をつける。

午後の光が、少しずつ角度を変えながら、部屋に差し込んでくる。


さて。少し、読書でもしようか。


特別なことなど、何ひとつない。

それが、今日の「特別」だ。


自分からあらゆるものをそぎ落とすということ。

それは拒絶ではなく、ただ、必要以上にまとわないということ。


断捨離をしたわけではない。

物が嫌いなわけでもない。

食事だって、ちゃんと食べるし、服だって選ぶ。

ただ、それに心を引きずられたくないだけだ。


——禅僧のよう、と言われるかもしれない。

でも私は、修行者ではない。

ただ、心が何ものにも捉われていないだけだ。


ふと思う。

今の人間は、情報の渦の中で生きている。

朝から晩まで、何かを見て、聞いて、比べて、騒いでいる。


けれど、昔の人たちはどうだったのだろう。

晴れた日は畑を耕し、雨の日は本を読んだ。

天気任せ、運任せ。

それでも案外、心配せずに日々を送っていたのではないか。


そこに、ひとつの強さがあったのかもしれない。


本のページを一つ、静かにめくる。

活字が今日も、変わらずそこにある。

誰かに届けるのではなく、ただ、自分の内側に積もっていく。


——自分が白いキャンバスでいられれば、

何かを託されたとき、それを受け止めることができる。


自分がなすべきことを、ただ成す。

それだけで、迷いはない。


もしかしたら、日本の社会人は——

皆、無意識に同じようなことをしているのかもしれない。


酒を飲みながら。

ギャンブルに興じながら。

漫画を読み、ネットで語らい、あるいは怒鳴り合いながら。


皆、どこか「淡々」としている。

何かに夢中なふりをして、その実、「流れ」を見ているような眼差し。


だから、自分だけが特別な境地にいるとは思わない。

ただ、自分という舟に、ひとり静かに乗っているだけだ。


窓の外。

カラスが一羽、電線にとまっている。

鳴き声もあげず、午後の陽をただ受けている。


私は、そっと目を閉じる。


——それで、いい。


午後三時すぎ。

遅めの昼食のあと、珈琲を淹れる。

豆は南米産、深煎り。ペーパードリップで。


こだわっているわけではない。

ただ、自分の手で淹れることが、心を落ち着けてくれる。


立ちのぼる湯気を見つめながら、ふと思う。


——怒りに震え、酒に逃げる人。

孤独を抱えて、誰かのLINEを待っている人。

「こんな自分でいいのか」と悩みながら、夜を越える人。


みな、決して間違ってなどいない。

それぞれの線を描いているだけだ。

青いカンバスに、一本の筆で。

にじむように、ゆっくりと、時間に溶けていく。


その線が、真っ直ぐでなくてもいい。

ぐにゃぐにゃでも、消えかけでも、斜めでも。


——それで、いい。


私は——

そういう人でありたい。


人の「在り方」を裁かず、

自分の「存在」を誇らず。

ただ、空っぽの器であり続ける。


それが、私にできる、たったひとつのことだから。


「意味のある日々」とは、きっと——

「意味を求めない日々」のことなのだろう。


ーー塩コーヒーと飛んでく雑巾とーー

午後3時。

社内に響くのは、ファイルサーバーの「ウィーン……カタカタ」という、かすかな機械音だけ。

そんな中、水野幸一、通称「不動の水野」、今日も微動だにせず。


静かに口をつけたマグカップから、一瞬で何かが間違っていることに気づく。

眉ひとつ動かさずに、彼はカップをテーブルに戻した。目の奥だけが、うっすらと笑っていた。


その様子をこっそり覗いていたのは、給湯室からひょっこり顔を出した、新人チャレンジャー・たまちゃん。


「ホントすみませんっ!先輩のコーヒーに、お塩をドバッと……いや、パッと……こう……」


「たまちゃん、それ“どっちにしてもアウト”だからね」


横から入るのは、即ツッコミ女王・佐々木さん。

「水野さんのコーヒータイムは神聖なんだから、ちょっとは気ぃつけなさいっての~」


「えへへ……ごめんなさい、先輩」


ぺこりと頭を下げ、すごすごと給湯室に戻るたまちゃん。その背中に、静かなる声が飛んだ。


「たまちゃん」


「ひゃいっ!」


「大丈夫。よく塩と砂糖を間違えるって言うけど……君の場合は、量を間違えてるんだね」


「そこ~~!?Σ(゜Д゜)」


その叫びが響いた瞬間、オフィスの空気はふわっと和んだ。誰もが、いつもよりほんの少しだけ肩の力を抜いた。


水野さんは新しいカップに、今度こそちゃんとしたコーヒーを入れ、静かに一口。

うん、普通。けど、さっきの塩味……あれはあれで、なんかこう、「クセになる系」だったかもしれない。


「……まあ、たまにはいいか」


誰にも聞こえない小さなつぶやきとともに、午後はまた静かに流れていく……はずだった。


「もーーーっ!半田くんってば、なんであんな言い方するのよー!」


バァン!と勢いよく開いた給湯室の扉。飛び出してきたのは、怒りの炎を燃やすたまちゃん。手には雑巾。


「ほんっっっっとムカつく~!」


その瞬間――

ぶんっ!


勢いよく振り上げた雑巾が、つるっ。

宙を舞う雑巾は、まるで時間を忘れたかのようにスローモーションで回転しながら――


ぽすっ。


水野さんの頭上に、やさしく、ほんのり湿った感触で着地した。


……しーーーーーーーーん。


たまちゃん、顔面蒼白。

周囲、全員凍結。

時間だけが止まっていた。


しかし、不動の水野は違った。

彼は静かに雑巾を手に取り、なにごともなかったように、自分のデスクをふきはじめた。


「ありがとう。ちょうど気になっていたんだ、ここ」


――どよめくオフィス。

こらえきれず笑いを漏らす佐々木さん。目を丸くする半田くん。

そして……


「……うぅ、ごめんなさいぃぃぃ……!」


たまちゃん、半泣きで突撃。水野さんは笑顔で、「大丈夫」と一言。

まるで春のそよ風。やさしく、そしてふんわりとした安心感。


そのころ田中社長は、デスクでコーヒー片手に深いため息……いや、満足げなため息をついていた。


「水野さん、今日も平穏無事ですなぁ……」


彼のデスクには資料の山。だが、そんなもんは午後ティーの前ではただの背景だ。

水野さんの姿を見るだけで、社長の心はホカホカする。


「俺もな、一応やることやってるつもりやけど、あんたみたいに毎日“無風”で過ごせるってのは、すごいことや」


水野さんは微笑んだ。たぶん雑巾の感触、まだ残ってる。けど、それすら気にしない強さがある。


社長はもう一度コーヒーをすすって、独り言のようにつぶやく。


「そんなふうに、何も言わず変わらんってのが、いちばんの仕事かもしれへんね。ありがたいことや」


そして、時間はまた静かに進む。誰にとっても「ただの日常」が、こんなにありがたいなんて――


まさか、塩コーヒーと飛んでく雑巾が、それを教えてくれるとは、誰も思っていなかった。


ーー水野幸一の日常、完ーー




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