第十三話、新システム、始動
ーー「Integrate Sphere」始動ーー
午後の陽射しが柔らかく差し込む田中オフィスの会議室。プロジェクターの光がホワイトボードに鮮やかな図を映し出していた。
「このファイルサーバーは、Integrate Sphereの中核機能のひとつです。」
そう語るのは、Rシステムの技術責任者・SEの河村亮。スマートなスーツに身を包み、指示棒で画面のポイントを軽やかに指し示す。
「各部門のアクセス制御もグループ単位で管理できますし、クラウドバックアップも自動化できます。」
テーブルの手前で真剣な表情を浮かべているのは、田中オフィスの中核メンバー、水野幸一と半田直樹だ。二人ともノートにペンを走らせ、時折顔を上げて画面に目をやる。
「なるほど……ロールベースのアクセス制御ですね。実行権限はACLで調整できるってことですか?」
半田が少し身を乗り出して尋ねると、河村SEがニヤリと笑った。
「おっ、話が早いですね。はい、基本はその考え方で正しいです。将来的にAIログ分析を使うと、操作の傾向からセキュリティリスクを自動で通知できる仕組みも加わる予定です。」
水野さんは静かにうなずきながら、冷静な口調で言葉を添える。
「藤島専務が気にしていた業務効率化への即効性は、まずこのサーバーからですね。運用フローは社内ポリシーと合わせて文書化しましょう。」
その言葉に、半田くんの目がぱっと輝いた。
「ちょっとワクワクしてきました……!」
河村SEも微笑を返し、会議室の空気が一気に活気づいた。
そのころ、社長室では田中卓造がコーヒーを手に、ソファに腰を下ろしていた。趣味の阪神タイガースのマグカップが、さりげなく机に置かれている。
「社長、Integrate Sphereの初期導入、無事にファイルサーバーの設置が完了しました。」
藤島光子専務が静かに部屋に入ってくる。スーツの裾を整えながら、淡々と報告を続けた。
「水野さんも半田くんも、しっかり対応してくれています。」
田中社長は顔をほころばせ、コーヒーを一口すすると、関西弁が自然とこぼれた。
「そら良かった!あのサーバーな、ワシかて正直よー分からんかったけど、水野くんがおるから安心やわ。」
藤島専務は苦笑しながらも、すぐに経営者の視点に戻る。
「ええ、でも“経営判断”としては、正しかったと思いますよ。先行投資にはなりますが、中小企業の情報資産の整理が急務ですから。」
田中社長は得意げに胸を張り、ニヤリと笑った。
「ふふん、ワシの経営の嗅覚、なめたらあかんでぇ~。そやけど……あの半田くん、最近ちょっと変わったな?」
「はい、自信がついたようです。河村SEにも負けない勢いで、技術の会話が成立していましたよ。」
田中社長は嬉しそうに頷きながら、遠くを見つめた。
「ええやんか。ウチのオフィスがええ方向に回り始めとる。……せやけど、次の課題も見えてくるで。」
オフィスの共有スペースでは、午後のひとときのなか、稲田美穂と佐々木恵がティーカップを手に談笑していた。
「ついに本格的にシステムが入ってきましたね~。でも私、まだ全然ついていけなくて……。」
稲田が不安げに漏らすと、佐々木が豪快に笑い声を上げた。
「あっはっは!だいじょーぶよ。アタシなんかファイルサーバーって聞いて、“生ビールの金色の蛇口か?”って思ったもん。」
稲田さんは思わず笑い、ふっと肩の力が抜けた。
「それ、ちょっと安心しました!」
だが、佐々木さんはすぐに表情を引き締め、真剣なまなざしで稲田さんを見た。
「でもね、稲田ちゃん。何でも“分からんまま”にしといたら、チャンスは逃げてくよ。あんたなら吸収早い。水野さんに聞き倒しなさい。」
稲田さんは一瞬目を丸くしたあと、力強くうなずいた。
「はいっ、頑張ります!」
その瞳には、いつか自分もチームの中心で活躍する未来が、確かに映っていた。
「Integrate Sphere」
田中オフィスにとって、単なるITシステムではない。人と人が結びつき、学び合い、力を発揮する“場”として、確実に動き出していた。
ーーIntegrate Sphere 始動、理解度チェックと四者四答ーー
田中オフィスの会議室には、プロジェクターの淡い光が静かに満ちていた。画面には「Integrate Sphere運用説明」のタイトルが映し出され、会議もいよいよ終盤を迎えていた。
前に立つ河村SEは、これまでの真剣な表情を少し緩め、最後のスライドに切り替えた。
「さて、皆さん。少し肩の力を抜いて、最後に“理解度チェック”をしてみましょう。」
にっこりと笑みを浮かべると、彼は少し芝居がかった口調で問いを読み上げた。
「ファイルサーバーのセキュリティ対策について、不適切なものはどれでしょう。それ以外はすべて基本的な対策です。」
①アクセスする利用者のパスワードを複雑かつ十分な長さにする
②許可されたIPアドレスのPCだけから、アクセス可能とする
③ゲストユーザーにもサーバーアクセスの権限を与える
④サーバーのアクセスログを取得し、定期的に監査する
「さて、どれが“アウト”でしょうか? 一人ずつ、理由も添えて答えてくださいね。」
河村SEの目が、最初に水野幸一に向けられる。彼は迷うことなく、即答した。
「③です。ゲストユーザーにサーバーアクセス権限を与えるのは、内部情報の漏洩リスクが非常に高く、基本的なセキュリティポリシーに反します。特にうちのように顧客情報や契約データを扱う業務では、許可された利用者以外のアクセスは厳禁です。」
「模範解答ですね。」と、河村SEは満足そうにうなずいた。
続いて、半田直樹が身を乗り出した。
「僕も③です。社内の共有資料だけでなく、法務関連のデータも入るサーバーなので、ゲストユーザーのアクセスは論外だと思います。最初にアクセス制限と監査ログの仕組みをしっかり作っておくべきだと考えていました。」
「その通り。最初の設計が肝です。」河村の声に、確かな評価が込められていた。
少し緊張した面持ちで、稲田美穂が口を開いた。
「えっと……やっぱり③、ですかね。だって、ゲストって……誰かわからないってことですよね? そんな人が社内サーバーに入れるのって、ちょっと怖いです。」
河村SEは優しく微笑んだ。
「はい、その“怖い”という感覚はとても大事です。根拠があってもなくても、直感的に“危ないかも”と思ったら、立ち止まって確認する。それがセキュリティの基本です。」
そして、最後は田中卓造社長。
彼は腕を組み、少し首をひねって言った。
「うーん……ワシは④やと思たんやけどなぁ。ログなんか見てても、結局ナニが起こったか分からへんのちゃうか?……やっぱAIに任せたらええやろ?」
会議室内が一瞬静まり返った。
「社長、それも将来的にはアリですが……まずはログを“取っておく”のが前提なんです……」と水野さんが慌てて補足する。
奥の席からは、藤島専務の小さなため息が聞こえた。「……またオチになってます、社長……」
河村SEは笑いながら言った。
「いえいえ、実際にこういう現場のリアルな声も大事です。でも、結論として不適切なのは③。“ゲストユーザーにアクセスを許可する”ことです。」
会議が終わり、徐々に空気が緩みはじめる。
半田くんは椅子から立ち上がりながら、興奮を抑えきれない様子で言った。
「……いや~、こういう実践的なチェックって、面白いですね!」
「私も正解できてよかった~!」と、稲田さんがほっとした顔で笑う。
その横で田中社長が、コーヒーを一口すすりながら、ふと笑みを浮かべて言った。
「ええやん、ワシが間違えることで“正解”が引き立つちゅう寸法や。まさに経営判断やで?」
会議室は、ひととき和やかな笑いに包まれた。
セキュリティ基礎の三本柱』
Integrate Sphereのファイルサーバー導入に関する説明会は、理解度チェックを終えて一息ついた空気に包まれていた。河村SEはスライドリモコンをそっとテーブルに置き、代わりにホワイトボードの前に立った。
「さて、③は皆さんばっちりでしたが、①、②、④も“セキュリティ対策の基本のキ”ですので、軽くおさらいしておきましょう」
いつものクールな口調に、ほんの少し親しみを込めた声でそう言うと、ホワイトボードにマーカーを走らせた。
① 強固なパスワード管理
「まず①。アクセスする利用者のパスワードを複雑かつ十分な長さにする。――これは、最も基本的な対策でありながら、最も見落とされやすい。」
彼のマーカーが、“12文字以上・英数記号混在”と走り書きされる。
「英数字、記号、大文字小文字の混在が理想です。できれば12文字、最近では16文字を推奨する機関もあります」
水野さんがうなずきながら補足する。
「金融機関なんかでは16文字以上、そして二段階認証はほぼ必須ですね」
「そうそう、さらにワンタイムパスワードや多要素認証を組み合わせると完璧です」
田中社長が腕を組んで口を開いた。
「つまり、“1234tanaka”はアウトっちゅうわけやな?」
稲田さんがクスクスと笑った。
「社長、それ予想つきすぎて逆に狙われますって……」
② 限定された接続環境(IP制限+VPN)
河村SEは次に②に話を進める。
「②は、許可されたIPアドレスのPCだけからアクセスできるようにする、“IP制限”という考え方です。これはファイアウォールの基本のひとつと捉えてください」
半田くんが食い気味に聞いた。
「テレワーク環境だと、VPNと一緒に運用するんですよね?」
「そう。VPNで安全なトンネルを作り、IP制限でその出入り口を絞る。逆に“どこからでもアクセスOK”の状態は、セキュリティホールになります」
後方でメモを取っていた藤島専務がぴたりと視線を上げた。
「つまり、社長がこの前、自分の喫茶店から“うっかりアクセス”しようとした件も……」
田中社長はどこ吹く風だ。
「せやけど、ワシの行きつけの店な、Wi-Fiのパスワード“tanaka1234”に変えといたで」
「……変えたらダメな方向でやらかしてませんか」
河村SEの額にうっすら汗がにじんだ。
④ アクセスの見える化(ログ管理)
「最後に④。これは“ログ管理”です。誰が、いつ、どのファイルを見たか、触ったかを記録しておく。万が一のときの証拠にもなりますし、未然防止にも効果的です」
水野が補足する。
「AIでリアルタイム監視するようなツールも増えていますが、結局、ログを見て意味が分かる人が必要なんですよね」
半田くんが疑問を投げかける。
「定期的なチェックって、週一ぐらいですか?」
「データの重要度や規模に応じてですが、最低でも月一は行いたいところです。異常が出たときの即時アラート設定も有効ですね」
河村SEはホワイトボードにまとめを書き始めた。
「まとめます。セキュリティの基本三本柱は――」
① 強固なパスワード管理
② 限定された接続環境(IP制限+VPN)
④ アクセスの見える化(ログ管理)
「③のような無差別なアクセス許可は、完全にアウト。これは“論外”です」
頷きの波が会議室を流れる。場内が一段落し、河村SEが話を締めに入った。
「今日は“基礎の基礎”でしたが、このあとサーバー設定の実践で、実際に手を動かして覚えていきましょう」
稲田さんが元気よく手を上げた。
「設定、私も手伝っていいですか?」
「もちろん。業務担当者が理解していることが、最大のセキュリティです」
田中社長がぽつりとつぶやいた。
「うーん……ログ監視してくれるAIに、名前つけたら愛着湧くんちゃうか。“タカクラ隊長、とか」
藤島専務が首をかしげる。
「社長、ザ・ガードマン(昭和)感すごいですね……」
場内が笑いに包まれる。
そして、静かに次のステップが始まろうとしていた。
ーー内部統制の芽ーー
「……ということで、この三点が、ファイルサーバー運用における基本中の基本です。」
ホワイトボードの前で、河村SEがマーカーのキャップを軽くはめた。会議室には、ホワイトボードに向き合うメンバーたちの、静かなうなずきが波のように広がっていた。
しばしの沈黙の後――。
「えっと、すみません、ちょっと思い出したんですけど……」
稲田美穂が、少しおずおずと手を挙げた。その表情には、どこかひらめいたような光が宿っていた。
「おっ、なんやなんや、ええぞ稲田くん。」
田中社長が、嬉しそうに笑いながら言う。
稲田さんは少しだけ頬を赤らめながら、それでも真剣な口調で言葉をつなげた。
「去年の秋ぐらいに、社内で“内部統制”について勉強したこと、覚えてますか? そのとき、“モニタリング”って言葉が出てきて……業務プロセスとかシステムの運用をちゃんと監視して、不正とかミスを防ぐって……」
「覚えてるよ。」
隣に座っていた水野さんが穏やかにうなずく。
「事務所で初めて“内部統制”の導入を考えはじめた時期だったな。」
「で、今回出てきた“④ アクセスログの取得と監査”って、それと同じじゃないかなって思ったんです。つまり、“モニタリング”と……」
河村SEの口元がふっとほころぶ。
「……その通りです。ナイス連想力、稲田さん。」
彼は再びマーカーを取り上げ、ホワイトボードの余白に“内部統制=モニタリング=ログ監査”と書き加えた。
「ITの世界では、“ログ監査”はそのまま“モニタリング”の実体です。つまり、サーバーという『無口な監視者』が、黙ってすべてを記録してくれている。まさに“内部統制の目”なんですよ。」
「人の目で見る業務監査と、システムが記録する監査。両方が必要ってことね。」
藤島専務も、やや鋭い声で補足する。
「なるほどなぁ……」
田中社長が腕を組みながらうなずく。
「ワシ、正直“内部統制”言われてもピンと来んかったけどな。“サーバーが見張ってくれてる”て言うたら、なんか、家の玄関に貼る“防犯カメラ作動中”のシールみたいで安心やわ。」
そのたとえに、何人かが小さく笑った。
「田中社長、ナイス連想です!」
と、半田が元気よく便乗する。
「僕、“モニタリング”って聞くと、ずっと“心電図モニター”のイメージだったんですよ……。ピッ、ピッ、みたいな。」
「私も最初はそんな感じでした。でも今は、“働き方を守る監視カメラ”って思ってます。」
稲田さんは照れながらも、どこか誇らしげに言った。社内での気づきが少しずつ実になってきているのを、誰もが感じていた。
河村SEが頷きながら、話を締めに入る。
「ITと業務、両方の視点を持つことが、これからの現場には欠かせません。稲田さんの気づきはとても重要でした。今後の設定作業でも、ぜひ積極的に関わってください。」
「はいっ、がんばります!」
稲田が小さなガッツポーズを取ると、場の空気が一気に和んだ。
――そのとき。
「……ほな、“モニタリング担当”は、稲田くんと……AIちゃうか? 名前つけたろかな。“ログ監視隊長”とか。」
「……“隊長”って……社長、それもう軍隊ですね。」
水野さんが冷静に突っ込むと、またひと笑いが起こった。
「ていうか、“ログ監視隊長”が目光らせてる職場とか、怖いっすよ。」
半田くんが苦笑しながらつぶやく。
そして、ふと水野さんが気づいたようにあたりを見回す。
「……あれ? ところで、“たまちゃん”は今日は?」
一同、少し顔を見合わせた。
「あっ……ほんとだ。」
藤島専務が手帳を開きながらつぶやく。
「今日は午後からの出社だったかしら……」
田中社長がぽつりと。
「せやな。“ログ監視隊長”も、“たまちゃん”にはかなわんやろ……」
再び、部屋に笑いが広がった。
サーバーのように静かに、しかし確実に――田中オフィスには、“内部統制”という新たな芽が、じわじわと根を張りはじめていた。
ーーたまちゃん、田中オフィスに現る!ーー
朝の光が斜めに差し込む、田中オフィスの会議室。
時計の針が午前九時を指したその瞬間——
\ガチャッ/
「おはようございますっ!!奥田珠実、出勤しましたっ!!」
ドアが勢いよく開き、太陽のような笑顔が飛び込んできた。オフィスの空気が、一瞬で変わった。
振り返った全員が、声の主——ピンクベージュのパーカーにジーンズ、ハキハキした声の新人・たまちゃんに目を向ける。
「おはよう、奥田さん。今日も元気だね」
落ち着いたトーンで声をかけるのは、水野幸一。司法書士であり、公認会計士でもある頼れる先輩。
「たまちゃん、今日も張り切ってるね〜」
稲田美穂もにっこり。新人とは思えぬ堂々としたたまちゃんに、ちょっとした圧を感じつつも微笑ましい。
「……うむ、ええ声やな。ほんま、朝から元気もろてるわ〜」
社長の田中卓造が、関西なまりで嬉しそうにうなずいた。
「ありがとうございますっ!今日も一日、がんばりまっす!昨日のファイルサーバーのこと、家帰ってから自分なりに調べましたよ〜!」
パッと顔を上げて語るその声に、半田くんが机の向こうでつぶやく。
「……俺よりやる気あるな」
「たとえばアクセスログって、だれがどこからアクセスしたか記録する機能なんですよね! それで不正アクセスがないかチェックするんですよねっ? これってまさに内部統制のモニタリングじゃないですかっ?」
その場に一瞬、静寂。そして——
「(驚いて)あっ……そういえば、そうだったね」
稲田さんが言葉を引き継ぐ。
「内部統制って、ちゃんと仕組みが動いているかどうか“モニタリング”っていう監視が大事で……その一部が、サーバーのアクセスログ監査なんだよね」
「その通りです」
河村SEがやや驚きながらも頷いた。
「奥田さん、いい着眼点ですね。社内ルールが形だけでなく、運用されているか。アクセスログを通じてそれを確認できるのが大きなポイントです」
「おお~、たまちゃん、ええやないか!」
田中社長が手を叩く。
「ウチもついに“デジタルネイティブ”世代が戦力になる時代やでぇ」
「へへっ、まだまだこれからですけど、がんばりますっ!あたし、サーバー管理者にもなれるように勉強します!」
——オフィスに、一人の新しい風が吹きはじめていた。
みんながパソコンを打つ音が響く中で、田中社長がふと立ち上がる。
「おーい、たまちゃん!ええとこで新人教育してもろてるけどな……読者のみなさんにごあいさつせいや!こっち見てるでぇ!」
「へっ!? い、今ここでっ!? ……よし、やったるわ!」
たまちゃんは一歩前に出て、大きく深呼吸。
ーー奥田珠実のスピーチ!ーー
「はじめましてーっ!田中オフィス新人の奥田珠実ですっ!!
20歳!元気と根性だけが取り柄のチャレンジャーですっ!」
「高校卒業してから、ずーっと憧れだったアパレル業界で働いてました。
お洋服が大好きで、お客さんのコーディネートを考えたり、POPを作ったり、毎日わくわくしてました!でも……」
ふと表情を引き締める。
「……ある日、仲のいい先輩が会社辞めて、“次はITの時代やで”って言ってたんです。
最初はピンと来なかったけど、だんだん気になって、自分でも勉強してみたら、これが意外と面白くて!」
「で、思いきってアパレルを辞めて、ITパスポートも取りました!でも学歴も経験もないし、“IT業界”ってハードル高そうやし……どこに行けばいいか分からなくて……」
そして、ぱっと笑顔を戻す。
「そんなとき、ネットで田中オフィスの求人を見つけたんです!
“法律とか経営とかITとか、いろんなことに挑戦する変わった事務所”って書いてあって、ビビッと来ました!『ここや!ここで人生変えたい!』って!」
「面接では、何の経験もないけど“覚悟とやる気だけはあります!”って、社長に言いました。
そしたら社長、めっちゃ笑って、即採用してくれたんですっ!!」
社長が満足げに頷く。
「今は右も左もわかりませんけど、水野先輩や稲田さん、みなさんに教えてもらいながら、毎日楽しくて、めっちゃ成長できてる気がしますっ!
ゆくゆくは、ITも法務も分かる“スーパー事務員”になりますからっ!よろしくお願いしますっ!!!」
パチパチパチ……と、オフィスに拍手が響いた。
「……本当に、覚悟があるんだな」
水野さんがポツリとつぶやく。
「わ、私より堂々としてるかも……」
稲田さんが目を丸くする。
「すごいエネルギー……俺が新人の頃、もっと暗かったぞ……」
半田くんがぼそりと。
「よっしゃ!たまちゃんに負けんように、みんな気合い入れてこなー!!」
田中社長が叫ぶ。
こうして、“田中オフィスの風雲児”たまちゃんが、本格的に物語に加わったのであった——
ーーあの日、再出発を誓った理由ーー
いつだったか、深夜のSNSに映った広告動画をぼんやり眺めていた。
光あふれるオフィス。肩肘張らずに働く、オシャレな人たちの笑顔。
「今、キラキラ働くならココ!」
あの頃、画面の向こうがまぶしくて仕方なかった。
高校を出て、私はアパレル系のその会社に飛び込んだ。現場は忙しかったけど、お客様と話すのが楽しくて、夢中で働いた。
だけど、それは突然崩れた。
ある朝、出勤したらPCが動かない。システム部の人が顔面蒼白で叫んでた。「ランサムウェアにやられた!」「サーバーがロックされてる!」
多額の身代金を取られてしまいました。しかも、顧客情報が抜かれて、数日後には、顧客情報がネット上にばら撒かれていた。
私は、苦情の電話を受け続けた。怒鳴り声。泣き声。
「娘の住所まで晒されたって、どう責任取るつもりや!」
何度も、土下座する勢いで謝った。何度も、本当に何度も。
それでも、止められなかった。
先輩は、私を庇い続けてくれた。「珠実ちゃんは気にすることないよ」と笑ってた。でも、その笑顔は少しずつ薄れていった。
ある日、返信の来ないLINEに気づいた。
――「ごめんね、珠実ちゃん、もう無理…」
最後の言葉だった。
彼女はそのまま、職場に戻ることはなかった。
会社は、3ヶ月前に破産した。
私は、閉じられたシャッターの前に立ち尽くした。
もう、職場も、あの笑顔の広告も、どこにもなかった。
そして今。
田中オフィス。司法書士事務所の一角。
奥田珠美は、少し緊張しながら話を終えた。
静寂が室内に降りる。
田中社長は椅子に深く身を預け、腕を組んだまま目を閉じている。
空気が、重い。
「……あんた、よく逃げずに来たわね」
厳しい声。でも、その奥には、どこかあたたかさがあった。
バックオフィスの佐々木恵さん。まっすぐな眼差しで、私を見ていた。
「だから…次こそは、人の役に立ちたいんです。守れるようになりたいんです!」
涙をこらえながらも、顔を上げて言った。
「ふん。……だったら、まずは目の前の書類を覚えなさい」
思わず、笑いそうになった。少しだけ、心が軽くなった。
「よし、もうええ!」
突然、田中社長が立ち上がった。
関西弁のテンションが急に上がる。
「ウチには“がんばる”って言える若い子が必要なんや!
システムもセキュリティも、人材も!全部そろえて、誰にも負けへんオフィスにするでぇ!」
その勢いに、ちょっと笑ってしまった。
ドアの向こうから、ひそひそ声。
「社長、珍しくキマってますね」
「でも、恵さんの“地獄の鬼チェック”から逃げられないですね…たまちゃん」
水野さんと、半田くん。温かい先輩たち。
私は、軽く拳を握った。
「上等っス!やったるでぇ~!」
全てを無くしたあの日。
逃げるように手放したものは、きっと、無駄じゃなかった。
だって私は、もう一度、歩き出すから。
今度こそ、誰かを守れる強さを、この手につかむために。
ーーわたしにも、取り返せるんですか?ーー
社長たちとの話を終えて、オフィスの給湯スペースに戻ったたまちゃんは、紙コップのコーヒーを手に、ぼんやりと立ち尽くしていた。
コーヒーの香りが、少し冷たくなった心を包み込もうとするが、胸の奥に沈んだ重さはなかなか抜けなかった。
そのとき、背後から足音が近づく。
「……最後の何ヶ月か、給料も出なかったって言ってたよね」
振り返ると、水野さんが静かに隣に立っていた。
「はい。それで引っ越しもして……貯金も使い果たして……」
たまちゃんは、うなずきながら言った。
水野さんは優しく微笑むと、まるでポケットから温もりを差し出すように話しかけた。
「破産管財人に申し出れば、未払いの給与は“財団債権”として、他の債権より優先的に扱われるよ。半年も経っていないなら、まだ申立て可能だと思う」
たまちゃんは、目を丸くした。
「えっ……!わたし、もう全部あきらめてました…!」
水野さんは少し照れくさそうに笑った。
「ダメ元でも言ってみるといいよ。書類の書き方、手伝おうか?」
たまちゃんはコーヒーを置いて、両手で深々とお辞儀をした。
「お願いしますっ!本当にありがとうございます、水野さんっ!」
すると、廊下の奥から佐々木恵の声が飛んできた。
「水野~、あんた女子社員の人気とりしてんじゃないわよ~」
水野は、コーヒーをすすりながら、おどけて肩をすくめて見せた。
「……バレたか」
その日の午後、田中オフィスの応接室で。
たまちゃんはノートを開き、真剣な表情でメモの準備をしていた。
「水野さん!さっきのお話、もっと詳しく教えてもらえませんか?」
水野はうなずいた。
「いいよ。実は、たまちゃんと同じようなケース、最近すごく増えてるんだ」
ホワイトボードの前に立つと、水野はチョークを握り、要点を列挙していく。
「会社が倒産して給与が未払いになった場合、まず確認すべきなのはこの3点」
・会社の破産手続きが開始されたか?
・破産管財人が選任されているか?
・未払い期間と金額はいつからいつまでか?
「給与の未払い分は“財団債権”として、他の債権よりも優先的に支払われる可能性があるんだ」
「えっ、それって“後まわし”じゃないんですか?」たまちゃんが驚くと、水野は首を横に振った。
「いいや。むしろ、“まず払うべきもの”なんだ」
水野は実例を挙げた。
「2023年の某アパレル企業の破産では、約150名が対象だった。労働基準監督署を通じて“未払賃金立替払制度”が活用されたんだ」
「それって、国が払ってくれるってことですか?」
「そう。条件はあるけど、“退職日の6か月前から2年以内”に発生した未払給与について、最大で88万円まで立替払いしてもらえる」
「それ、めっちゃ助かります……!」たまちゃんは、ぱっと明るい表情を浮かべた。
だが、水野さんの顔が少し真剣になる。
「でも、破産手続きが始まる前に“諦めて泣き寝入り”する人も多いんだ。だから、こういう制度があるって、もっと知ってほしい」
「はい。私も周りの子たちに伝えます!」
休憩室に戻った水野さんは、スマホを操作しながら言った。
「たまちゃん、厚労省の“未払賃金立替払制度”、詳しく書いてるページあったよ。あとでリンク送ろうか?」
「はいっ!お願いしますっ!!まさか国が助けてくれる仕組みがあったなんて……知らなかったです!」
「先輩も連絡とれるなら、一緒に相談してみるといいよ。まだ半年もたってないなら間に合う可能性あるから」
たまちゃんは少し寂しげに目を伏せた。
「……もうLINEも既読つかなくて。でも、勇気出してみます。きっとまだ苦しんでると思うから」
拳をぎゅっと握りしめる。
「もし少しでも取り戻せたら、うち、絶対このオフィスで頑張ります!今度こそ、信じられる職場で!」
そのとき、奥から佐々木恵がひょっこり顔を出した。
「……あんた、最初から根性だけはあると思ってたわ。泣くんはまだ早いで」
廊下の奥では、田中社長が腕を組んで聞いていた。
「“信じられる職場”言うてくれたん、わし、ちょっと泣きそうや……よっしゃ、今日からたまちゃんには『期待の妹分』の称号を授けよう!」
たまちゃんはガッツポーズを決めた。
「光栄っす社長ーっ!!わたし、何でもやりますっ!」
解説:
たまちゃんが救済されるきっかけとなった「未払賃金立替払制度」は、厚生労働省が所管する重要な支援制度である。
企業が倒産した際、労働者の未払給与を最大88万円まで国が立替えるこの制度は、
特に中小企業の従業員や非正規労働者にとって、生活再建の一筋の光となりうる。
知らないことが一番の損失——水野の言葉が、それを静かに教えてくれる。
そして、誰かが誰かに教えることから、救われる人がいる。
ーー小上がりの夜ーー
木のぬくもりが残る居酒屋の個室。カウンターから少し奥まった小上がりには、程よい灯りと、くぐもった笑い声が溶けていた。
「乾杯〜!」
卓上のグラスが、軽やかに鳴った。軽く一杯のつもりだった。けれど、たまちゃんの底抜けに明るいトークは、空気をゆっくりと温めていく。気づけば、話はあちこちへと飛び、笑い声が絶えなかった。
稲田美穂の頬は、ほんのり桜色に染まっている。
「……ほんっと、たまちゃんってタフだよね」
少し酔いの回った声で、グラスを揺らす。
「私だったら逃げ出してるかも。先輩のことも……辛かったでしょう?」
たまちゃんは、炙りしめ鯖をつまみながら、いつもの笑顔を絶やさない。
「うーん、泣きたくなったこともあるけど、でも、誰かが謝るしかなかったし、誰かが残らないとって思って……。私が逃げたら、お客さん、もっと怒っちゃうし……」
その声には、軽やかさの奥に、ほんの少しだけ、しんとした響きがあった。
稲田さんは、グラスを置いた。
「……立派よ。あんた、根性あるわ」
ほんの少しだけ、静かな間。グラスの中の氷が、カランと鳴る。
やがて、たまちゃんがにやにやと笑って、目を細めた。
「稲田さんって……付き合ってる人いるんスか? まさか、水野さんとか……?」
稲田は噴き出すように笑った。
「それは……内緒よー!」
けれど、お酒の魔法は、言葉の戸をゆるく開けていく。
しばらくして、ふと遠くを見つめるように、稲田がぽつりとつぶやいた。
「高校のバド部で一緒だった彼と、ずっと付き合ってるの。今も社会人バド部にいて、遠征とかも頑張ってるみたい。最近ちょっと忙しくて会えてないけど……優しいのよ」
たまちゃんの目が、きらきらと輝いた。
「えー! そうなんだ! めっちゃ青春じゃないですか〜!かっこいいー!」
稲田さんは、照れ隠しにグラスを持ち上げる。けれどその顔には、ほんの少しだけ寂しさの影があった。
「ありがと。でもまあ、恋愛って、派手なもんじゃないわね。信じて、待つことも多いし……」
お互いの顔を、少し見つめ合って笑った。そんな夜。
———
翌朝。
事務所に出勤したふたりは、ちょっとだけ目を合わせて、にこっと笑った。
言葉は交わさなくても、なんとなく、心がちょっと近くなったような気がした。
まぶしい朝の光と、あたたかい記憶を胸に、ふたりはそれぞれのデスクについた。
今日も河村SEの情報セキュリティ講習は続きます。
たまちゃん(背筋を正し、強い目で河村SEを見つめる)
「河村さん……質問いいですか?」
ざわつく室内が、ピタリと静まる。
たまちゃん、絞り出すように…
「前に働いてた会社、ランサムウェアにやられました。大事なお客様のデータが抜かれて、身代金も払って、でも結局……会社は潰れちゃいました」
「お世話になった先輩は、責任を感じて心を病んで……ずっと、私……自分がもっと何か知ってたら、って思ってきたんです」
一瞬、声が詰まる。このことは、思い出すたび涙が溢れそうになる。でも、たまちゃんはこらえて言葉を続けた。
「もうあんなことは、絶対にイヤなんです。VDIっていう新しい仕組みが、もし本当に会社や人を守るためのものなら……ちゃんと勉強して、私がみんなを守れるようになりたい」
「だから、河村さん――もっと教えてください!」
室内が、また静まり返る。
稲田さんが、小さくうなずいた。
佐々木さんが、何も言わずたまちゃんを見つめていた。
半田くんは、珍しく真面目な顔でメモ帳を握っていた。
そして、河村SEは――深く頷いた。
河村SE(静かに、しかし力強く)
「……奥田さん。ありがとう。その気持ち、すごく大事です」
彼は、少し前まで憔悴しきっていたたまちゃん――奥田珠実に向かって、優しく、しかし力強く言った。
「情報セキュリティは、技術の話じゃありません。人の命と人生を守る“現代の防災対策”です。あなたが体験したこと、その想い――それこそが、何よりのセキュリティ資産です」
河村の言葉は、たまちゃんの胸にじんわりと染み渡るようだった。彼女の瞳には、かすかに光が戻り始めている。
「このVDI体制も、Integrate Sphereも、すべて“守るための手段”に過ぎません。使う人間が、本気で守る覚悟を持ってこそ、初めて意味を持つ」
河村SEは、会議室に設置されたばかりの新しいシステムを指しながら、言葉に熱を込めた。
ーーそれぞれの決意ーー
【田中オフィス・夕方、会議室】
研修が終わり、皆が少し和んだムードの中、半田くんが突然立ち上がった。少し照れたような、それでいて決意に満ちた表情で、彼は口を開いた。
「僕……、このオフィスでSEとして、水野さんたちと一緒にE不動産の賃貸物件管理システムを組んできました。クラウド連携、地図データとの統合、入居者ステータスの自動更新――けっこう本格的にやってきたんです」
彼の言葉に、会議室のメンバーたちは軽くどよめいた。普段、目立たない存在だった半田くんの口から、意外な言葉が飛び出したからだ。
水野さんは、軽く頷きながら言った。
「うん。実際、半田のコードがなきゃ、あの案件は納期厳しかった。地味だけど、実務力はある」
そして、半田くんはまっすぐにたまちゃんの方を見て、きっぱりと言った。
「だから、言わせてください――僕は、たまちゃんをライバルと呼ばせてもらうよ!」
一瞬の静寂が会議室を包んだ。誰もが予想していなかった言葉だった。しかし、その静寂を打ち破るように、たまちゃんの勢いのある声が響いた。
「……おっしゃあ!ええ度胸や!かかってこいやーー!!」
まるで雷が落ちたかのような勢いで、二人の手がバシッと音を立ててハイタッチを交わした。
稲田さんは、ポカンとした表情でその様子を見つめていた。
「え……急に青春スポ根みたいなノリになってるんですけど……」
佐々木さんは、苦笑しながらも満足げな表情を浮かべた。
「ま、いいじゃない。活気が出てきたってことでしょ。やる気の出所がどこだろうと、やることやってくれればOKよ」
田中社長は、にやにやしながら河村SEに話しかけた。
「ええのぉ……若いってのは爆発力があってたまらんわい。えーっと、なんや。河村はん、次の研修はバトル形式で頼むわ!」
河村SEは小さく吹き出しながらも、どこか面白そうな笑みを浮かべた。
「バトル研修ってなんなの……まあ、面白くなってきたな」
こうして、田中オフィスには、新たな目標に向かって燃える二人の若者が加わった。次回、たまちゃんと師匠による、ちょっと実践的なVDI操作トレーニングが始まる――そして、半田くんの秘めたる力が明らかになるのだろうか。小さなオフィスに巻き起こる、熱いドラマはまだ始まったばかりだ。
ーーオタクたちの進軍ーー
田中オフィス、午後の静けさが一瞬、心地よく流れていた。
液晶画面に向かいながら、半田直樹は眉間にしわを寄せていた。キーボードを叩く手が止まり、しばらくじっとコードの海を見つめる。VDI環境の構築、次の大きなプロジェクトは彼にとっても試練であり、挑戦でもある。
ふと、彼は振り返った。
「次のプロジェクト、すごく大事だからお互い競り合おうぜ。でもさ、こういうのって、競争するだけじゃなくて、もっとお互いに教え合って、進めていくほうがいいと思うんだ。」
たまちゃんがその言葉を噛みしめるように、少しだけ黙った。そして、口元に笑みを浮かべて言った。
「ええ度胸や、半田くん。でも、教え合うってのもアリやな!ちょっとだけなら、教えてもらおうかな?」
それはただのリップサービスではなかった。彼女の声には、素直な敬意と、ひとさじのいたずらっ気が混じっていた。
二人の間に、小さな光がともる。それはライバル意識の炎でもあり、仲間としての絆の種火でもあった。
それから数時間、彼らは本気でぶつかり合った。手順を検証し、設定ファイルをすり合わせ、コードレビューで議論もした。ときに笑い、ときに眉をひそめながらも、明らかに前進していた。
日が暮れかけた頃、たまちゃんがぽつりと言った。
「半田くん、さっきの言葉、ちょっと胸に響いたわ。これからもお互い切磋琢磨して、頑張ろうな!」
半田くんは笑って頷いた。
「もちろん!これからが楽しみだね。」
彼の笑顔には、どこか誇らしげな輝きがあった。
その夜の少し前、コーヒーブレイクの時間。たまちゃんがぽろりとつぶやいた。
「水野さん、ほんとにすごいっスよね。冷静だし、しっかりしてるし、何でも頼りにできるし。普段はクールだけど、なんかその姿勢に安心するんですよね。実はちょっと憧れてる部分もあるんです。」
半田くんは小さく頷きながら、ディスプレイを見たまま言った。
「うん、水野さんは……ロビンマスクみたいな超人だよな。」
たまちゃんの目がキラリと光った。
「ロビンマスクって、あのキン肉マンの? あー、わかる気がする! 完璧超人って感じ。」
その瞬間、半田のオタクスイッチが入った。
「いや、違うよ! ロビンマスクは“正義超人”であって、いわゆる“完璧超人”とは分類が異なるんだ。真の完璧超人ってのは、ネプチューンマンとかビッグ・ザ・武道とかであって──」
たまちゃんは机に肘をつき、にやりと笑いながら椅子をくるりと回した。
「もちつけ、おまいら(落ち着いてください、という意味)」
半田が一瞬止まる。たまちゃんはさらに間を詰めるように囁いた。
「半田氏、かく言う某もオタクでごさるよ。BLなどが大好物」
……沈黙。
「……え、え、えっ? たまちゃん、マジ? BL? あ、あの……ボーイズ……?」
「うむ。友情と情熱が交差する、あの世界……まこと奥深し。」
そう言ってたまちゃんは、水野のほうにチラッと視線を送りながら、さらに一言。
「たとえば、水野さんと……うふふ……いや、なんでもないですー!」
水野さんは、無言で書類に目を落としている。
佐々木さん(遠くから)「あんたら、仕事中に何の話してんのよ……(呆れ)」
半田の顔が真っ赤に染まる。
「ま、負けないぞ……! BLにも、たまちゃんにも!」
たまちゃんはニッコリ笑って言った。
「ふふっ、受けて立つでござるよ。ジャンルの壁を越えて、勝負といこうやないの!」
一呼吸置いて、神聖とも言える空気が二人を包んだ。
たまちゃんは、目を輝かせて言った。
「ほんまそれっス! 自分の“好き”を突き詰められるのが、オタクの強みやと思うんです。どんだけ専門的でも、難しくても、好奇心と探究心があったら、どこまでも行ける!」
水野さんも、少しだけ口元をゆるめて言った。
「たしかに。好きっていう感情は、何より強い。僕らの仕事だって、好きなものを守るためにあるのかもしれないね。」
半田くんが拳を握りしめ、静かに叫んだ。
「オタクはな、世界と戦えるんだ! 技術も、知識も、好きだからこそ本気でやれるんだ! 僕らが手を組めば最強だよ!」
たまちゃんも、しっかりと頷いた。
「全世界のオタクよ、立ち上がれ。システムもセキュリティも、BLもロボも、全部繋がってるんや!」
その場に、奇妙なまでに神聖なな気配が漂う。
「……ま、それはそれとして、まずはVDIのバックアップ設定っスね!」
現場に戻る足取りは軽く、確かなものだった。
こうして、「好き」という情熱がつなぐ田中オフィスの力は、静かに、しかし確実に広がっていくのであった。
ーー広角打法のたまちゃんと、暗号の謎ーー
午後の光がオフィスのブラインド越しに差し込む頃、田中卓造は腕を組み、いつになく真剣な表情で語り始めた。
「たまちゃんはんはなあ……広角打法の女や。」
唐突な関西節に、一瞬静まり返るオフィス。
「重い話も軽い話も、社会のことも、オタクトークも、ぜんぶ自分のバットで受け止めて、どのコースでも右にでも左にでも打ち返せるんや。ときには場外ホームランやで、ほんま!それに、わしらみたいな昭和のモンから言わしてもらえば、なんやろな……若いのに芯があるっちゅうか、職人堅気で軸がブレへんのがすごいんや。」
オフィスの空気が、すっと引き締まりながらも、あたたかい共鳴を見せた。
水野さんは静かにメモ帳に「広角打法のたまちゃん」と書き添えた。筆跡は、どこか微笑んでいるようにも見える。
佐々木恵はパソコンの手を止めて「やるわね、あの子」と口元に微笑を浮かべる。
半田直樹は握りしめた拳を見つめながら、心の中でつぶやいた。
(僕も……広角対応エンジニアを目指そう……!)
たまちゃんはと言えば、突然の賛辞に頬を染めつつ、勢いよく拳を突き上げた。
「そ、そんな褒められると……次の資料、超頑張っちゃいますからねっ!」
その瞬間、オフィスにぴんと張った空気がふわりとほどけ、皆の笑い声がこぼれる。
そんな和やかなひとときに、不意にメール通知が鳴る。
「From: 河村SE(Integrate Sphere 導入担当)」
橋本が画面をのぞき込み、小首をかしげた。
「ん?メールマガジン……?」
件名には《セキュリティマネジメント・第一回》の文字。
その中身は、まるで丁寧に折られた和紙の手紙のように、控えめながらも確かな主張を放っていた。
Subject: セキュリティマネジメント・第一回
From: Rシステム_河村(Integrate Sphere 導入担当)
差出人を確認して開封いただき、ありがとうございます。
皆様こんにちは、Rシステム・河村です。
本日より、VDI環境導入に合わせた「セキュリティマネジメント」メール講座を、週1回程度のペースでお届けいたします。
【コラムテーマ】共通鍵暗号方式とは?
共通鍵暗号方式(対称鍵暗号方式)は、暗号化と復号に同じ鍵を使う方式です。
一方、公開鍵暗号方式(非対称鍵)は、暗号化と復号に異なる鍵を使用します。
☆さて、ここでクイズ!
【問題】共通鍵暗号方式の説明で適切なものはどれ?
① 公開鍵暗号方式に比べて、復号速度は一般的に遅い。
② 復号以外にデジタル署名にも使われる。
③ 通信相手ごとに異なる共通鍵が必要です。
④ 代表的な方式としてRSA方式がある。
★正解は……
⇒ ③ 通信相手ごとに異なる共通鍵が必要です。
解説:
①❌ → 共通鍵方式は復号が速いのが特徴です。RSAなどの公開鍵方式のほうが遅い。
②❌ → デジタル署名は公開鍵暗号方式の用途です。
③✅ → 同じ鍵を使うため、通信相手ごとに個別の共通鍵が必要になります。
④❌ → RSAは公開鍵暗号方式の代表です。共通鍵の代表はAESやDESなど。
たまちゃんは、声を上げた。
「なるほど!暗号の種類にも得意分野ってあるんですね。共通鍵はスピード勝負、公開鍵は配布がラクって感じ!」
「その通り」と水野さんがにこやかに頷く。「だから実際の通信では、まず公開鍵で共通鍵を安全に渡して、あとは共通鍵で通信する“ハイブリッド方式”が多いんだよ」
コラムは続きます。
次に、共通鍵の“数”について考えてみましょう。
「数…ですか?」
たまちゃんが首をかしげる。
水野さんが解説を続ける。
「うん。たとえば、共通鍵方式って“同じ鍵”を使って暗号化と復号をするから、二人の間で秘密を守るには、一組の鍵で済む。でも――」
「じゃあ、3人、4人、5人と増えたら? そのたびに新しい鍵が必要になる。なぜなら、誰と誰の通信にも、他の人に見られない専用の鍵が必要だからだ」
「なるほど…!」
たまちゃんは手元のメモ帳に素早く数式を書き写す。
△鍵の数の公式:
(n × (n − 1)) / 2
この公式に当てはめると、5人の間に必要な鍵は、(5×4)/2=10個となる。
「じゃあ、計算してみて。10人で秘密を守ろうとしたら、鍵は何個必要になる?」
たまちゃんは計算を始めた。
「10 × 9 ÷ 2 …で、45個!? うそぉ! 鍵だらけじゃないですか!」
水野さんが静かに頷く。
「そう。共通鍵暗号方式って、人数が増えると鍵の数が爆発的に増える。だから、大規模なネットワークでは運用が難しいんだ」
「しかも…たとえば私と半田さんがやりとりする鍵を、水野さんと使ってる鍵と一緒にしちゃったら――」
たまちゃんは眉をひそめた。
「――水野さんに見られちゃうかも、ってことですよね?」
水野さんが満足げに笑う。
「その通り。だから“ペアごとに鍵を分ける”のが基本。でも管理が大変になる。だから、そこで登場するのが公開鍵暗号方式や、鍵配送の仕組みなんだ」
水野が手元のタブレットで何かを操作し、にこりと笑う。
「では、ここで確認クイズ!」
【クイズ】共通鍵暗号方式に関する説明で正しいのはどれ?
① 鍵は全員で1つあれば十分。
② 鍵の数は n ÷ 2 の計算で求められる。
③ 鍵の数は人数に比例して増えるだけで、大したことない。
④ 通信相手ごとに異なる鍵が必要で、人数が増えると鍵も指数関数的に増える。
「うーん…④! ですよね!」
たまちゃんが勢いよく答えると、水野さんが大きく頷いた。
「正解! 実際は指数関数じゃなくて二次関数的に増えるけど、体感的にはあっという間に大変になる」
「はぇ〜…。じゃあ、大企業とかってどうしてるんですか?」
「公開鍵暗号方式で鍵を“安全に渡す”だけ使って、そのあと共通鍵でやりとりする――いわゆるハイブリッド暗号を使ってるんだ」
水野さんがさらりと補足する。
「すごい…!暗号の世界って、なんか友情の数と同じで、増えるほどドラマがあるって感じですね…!」
たまちゃんの目がキラキラしている。
水野さんはそんなたまちゃんの様子に微笑みながら、次の資料を取り出した。
「暗号の本質は、数学と信頼と運用のバランスです」
たまちゃんはノートを閉じ、満面の笑みでうなずいた。
「うおお…!これはまたひとつ、師匠に近づいたかも!」
河村SEからのメールの末尾には、小さなチェックボックス付きのリンクがあり、「読了確認にご協力ください」と添えられていた。
田中社長は画面をのぞきこみ、感心したように唸った。
「昔ながらやけど、じわじわ心にしみるやないか……河村はん、やるやないか!」
ーつづくー