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田中オフィス  作者: 和子


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田中オフィス外伝特別編、2025年の年の瀬に

いつも『田中オフィス』をお読みくださり、心より御礼申し上げます。

本編は一度完結の形を取らせていただいてからしばらく経ちますが、それでもなお、変わらずご厚意を寄せてくださる方々のおかげで、作品は気づけば 5,000PV を超える節目を迎えることとなりました。


久しぶりの投稿となる今回、感謝の気持ちを込めて――

「田中オフィス・外伝」をお届けいたします。


なお、現在連載中の 『倫理学:女王様の特別講義 ~ 眞栄田豪姫の灼熱講話録』 に登場する人物も、物語の主要パートで顔を出しております。作品世界のつながりを、ささやかな愉しみとして受け取っていただければ幸いです。


それでは、どうぞゆっくりとお楽しみください。

――深浦結羽、上京アルバイト始動――

冬休み。

深浦結羽(ふかうらゆう)は、東京駅の大きな天井を見上げながら、胸の奥で小さく息を飲んだ。


(いよいよ……約束の場所へ行くんだ)


目的は二つ。

ひとつは、幼馴染(おさななじみ)岩木翔太(いわきしょうた)と再会すること。

もうひとつは、田中オフィスTokyoでのアルバイトだ。


泊まり先は、同じ事務所の佐藤美咲の実家。

「ホテルより気楽だから」と言われ、遠慮がちにお世話になることになった。



ーー佐藤美咲の家にてーー

美咲の部屋はポスターとフィギュアに囲まれた"オタクの聖域"だった。


「このキャラ可愛くない!? 第4期で作画よくなってさー!」


毎晩、結羽(ゆう)はベッドの端に座って、美咲の止まらない熱量に苦笑まじりで付き合う。


「美咲さん、ほんとアニメが好きなんですね……」

「そりゃそうだよー! こういうのがあるから仕事頑張れるんだって!」


仕事の話はほとんど出ない。

結羽はそれがむしろ嬉しかった。気を張らずにいられるからだ。



ーー田中オフィスTokyo 、水野所長の直接指導ーー

翌朝、結羽は美咲と並んで通勤電車に揺られ、事務所の入るビルへ向かった。


田中オフィスTokyoは、まだ立ち上がって数年の小さな拠点だが、空気は張りつめている。

応接室のガラス越しには、スタートアップの企業家が出入りし、ビルの一角とは思えない熱量があった。


所長の水野幸一は、落ち着いた口調で結羽を迎えた。


深浦(ふかうら)さん。今日からよろしくお願いします。最初は書類整理とデータの入力から始めましょう。焦らなくていいので、確実に」


「はいっ、よろしくお願いします!」


水野は、司法書士であり公認会計士。

情報セキュリティにも強く、M&A案件を次々とまとめる"知的エース"でもある。


そんな人物から直接教わる緊張と高揚を抱えながら、結羽は机についた。


「入力の規則はこのフォーマットに沿います。ミスしやすいのはここ……」

「はい……すごく分かりやすいです」


淡々とした声だが、丁寧で、こちらの理解を確かめるような指導だった。



ーー昼休み、美咲とランチーー

「どう? うちの水野所長、こわかった?」

「いえ、すごく優しいです。説明も分かりやすくて……」


「でしょ? 天才型だけど、教えるの上手なんだよねー」


美咲は自分の弁当のふたをポンと閉じ、


「でもね、あたしも最初は胃が痛くてさ……。そのうち慣れるよ。結羽ちゃん、しっかりしてるし」


「あ……ありがとうございます」


美咲の言葉は、昨日のオタクトークとは別の優しさを含んでいた。



ーー午後、「ミズノギルド」の現場を見るーー

午後になると、水野は起業家との打ち合わせに入った。

結羽は少し離れた席から、彼の落ち着いた声と、相手企業の緊張した返答を聞く。


これが、噂の「ミズノギルド」。

水野を中心に、スタートアップ同士をつなぎ、M&Aの調整を進めるプロ集団だ。


言葉は静かだが、判断の速さは鋭い。

若い経営者たちは、気づけば水野の言う「最適解」の方へ向いている。


(すごい人と一緒に働いてるんだ……)


結羽の胸に、目に見えない重さと期待が同時に積み重なった。



ーー仕事終わりーー

美咲と一緒に事務所を出て、夜風に当たりながら結羽は思う。


(ここで翔太兄ちゃんにも胸張って会えるようになりたい)


美咲が横で笑う。


「さ、帰ってアニメの続き見よ。昨日のオープニングの話の続き!」


「あ……はい!」


仕事の緊張も、オタク談義に巻き込まれるといつのまにかほどけていく。


深浦結羽の東京での冬休みは、社会人の春を目指して、着実な歩みを始めていた。



ーーすれ違いながらもつながる二人ーー

田中オフィスTokyoで初めての勤務を終えた夜。

深浦結羽は、美咲の家の客用布団に潜り込み、スマホを手に取った。


(翔太兄ちゃん……今、何してるんだろ)


言葉を選びながら、ラインに指を走らせる。


「東京でバイト開始。今、頭が破裂しそうなほど覚えることがいっぱい。落ち着いたら連絡します。初詣一緒にいこうね♪仕事始めは年始の5日からです」


送信すると、少し胸が痛いような、くすぐったいような気持ちが広がる。



ーー新恋羽寄席・楽屋裏ーー

メッセージは、ちょうどお客が引き払った後の片付けを終えて、楽屋に戻ったところの翔太――落語家・笑角亭力介のスマホに届いた。


画面を見た瞬間、張りつめていた肩の力がふっと抜ける。


「……よかった。結羽、頑張ってるんだな」


寄席は年末特有の(あわ)ただしさ。

師匠たちは打ち合わせ、裏では前座が走り回り、客席も観光客でいっぱいだった。


そんな喧騒の中で、結羽の短いメッセージは、温かく胸に落ちた。


力介はすぐに返信する。


「三日と四日は休みがとれる。どうだ?」


指が少し震えた。

幼馴染に久しぶりに会えると思うと、心が浮いた。



ーーアビ介、年末のアラ稼ぎーー

返信を送ると同時に、力介はふとスケジュールを確認した。

五日が結羽の職場の"仕事始め"と聞いている。


(じゃあ、三日と四日しか動けないな……)


念のため、楽屋で雑用をしていた中学生のアビ介に声をかけてみた。


「アビ介、三日と四日の仕事、代われるか?」

「えっ? いいですよ! むしろ喜んで!」


アビ介は顔をぱっと明るくした。


「師匠方から"お年玉"もらえるんで、めっちゃありがたいんです。

お茶出しでも三日と四日で合計5~6万いくかなぁ。

時給換算で……五千円ぐらい? へへっ♪」


力介は思わず吹き出す。


「相変わらずちゃっかりしてるな、お前」

「だって中学生は本当のバイトできないですからね! ここは夢の稼ぎ場ですよ!」


アビ介には、すでに前座としての高座の出番もついている。

寄席の将来を担う、小さな実力者だ。



ーー力介の胸中ーー

アビ介に頭を下げ、楽屋を出ると、廊下の喧騒がゆっくり耳に戻ってきた。


(結羽……東京で頑張ってる。オレは、会ったら何を話せるんだろう)


自分が落語を続けている意味。

ここまでやってきた時間。

そして、彼女に見せたい姿。


考えるほどに胸が熱くなる。


新年の三日と四日――再会のその先に、自分の真価がある。



ーー新恋羽寄席の年の瀬事情ーー

2025年も年末が近づき、東京・新小岩にある小さな演芸場――新恋羽しんこいわ寄席は、例年を上回る来客の喧騒の中で、年越しの準備に追われていた。


新小岩駅前商店街、通りの奥に並んで佇む二階建ての小さな建物。

一階は喫茶《言の葉》、二階が地元で、いや今や海外旅行客に人気の小さな寄席――新恋羽寄席(しんこいわよせ)

年の瀬の昼下がり、寄席は大晦日の年越しの準備もあり大忙しだった。


それというのも、今年はなにやら、すぐ近くの錦糸町にある錦糸町演芸ホールがネットで妙にバズる出来事が続き、東京東部の“下町文化アミューズメント”が一部界隈で盛大に注目されていて、その副次的効果なのだろうか、ここ新恋羽寄席もSNSで紹介され、人気が飛び火した。


 ――「新恋羽寄席にも(いや)しの巨人現る」

 ――「可愛いインド人落語家に胸キュン」

 ――「オネエ落語家、マクラ10分・ネタ3分、でもウケる」


インスタやTikTokで、そんなタグがついた動画が次々と再生数を伸ばし、常連客は苦笑いするしかなかった。


「仕方なく『撮影禁止』の張り紙、外しましたよ」

裏方のおじさんがため息をつく。

とはいえ、理由は"ネット対策"なのではなかった。あの、普段は借りてきた猫のように大人しい、務所河原札月むしょがわら・ふだつき師匠がぽつりと言ったのだ。


「わしも、撮ってもらえんかな~?」


誰も逆らえなかった。



ーー鏡餅と力介の奮闘ーー

「よいしょっ……あ、むん句兄さん! どこ置きますこれ!」

力介は両腕に大きな鏡餅を抱えていた。二段重ねて9kgぐらいある、この巨大な荷物を軽々と運ぶことができるのは、元力士の力介ならではだ。


「力介! その白いオブジェ持ってウロウロしないで! 落としたらシャレにならないわよ!」

前座の中では最古参のむん句が怒声をあげる。


「兄さん、だって置き場所が……!」

「高座の横! 左! 左って言ってんのに、何で右に行くのよ!」

「す、すみません!」


力介は慌てながら、くるりと向きを変え、巨大な鏡餅を舞台脇に運ぶ。その姿は注文の料理皿を運ぶウエィターのようであった。



ーーむん句兄さんの慌ただしさーー

叫家(さけびや)むん句は、前座頭(バイトリーダー的ポジション)。オネエ落語家で普段からしっかり者だが、年末の多忙さにいつになくピリピリしていた。


「ああっ、アビ介! お茶はまだなの?! 高座の幕も、それから――あれ、次何やるんだっけ!?」

「兄さん、落ちついてください……」

「落ち着けるわけないでしょ! 時間が無いのよ!」


階段をひょいと飛び上がり、袖に駆け込むむん句。その背中に、どこか焦りと責任感が混じっていた。



ーー働くアビ介と新前座の加入ーー

寄席の裏方は、年越し準備で朝から慌ただしい。

むん句兄さんは忙しさのあまり声が荒くなり、力介は巨大な鏡餅を抱えて「ここでいいんですか!?」と右へ左へ振り回されている。


そんな中で、ひときわ落ち着いて動いていたのがアビ介だった。


札月(ふだつき)師匠、お茶どうぞ。熱めに()れてあります」

「ああ、いつもありがとう」


続いて来福師匠に、別の湯飲みを差し出す。


「来福師匠にはこちらです。前に"この湯飲みが落ち着く"とおっしゃっていたので」


師匠たちは顔を見合わせて、感心したように笑った。


「……お前、そんなこと覚えてたのか。嬉しいなあ」

札月師匠が来福師匠の方へ小声で呟く。

「来福師匠、よく気が回る子ですよ。飲み込みも早い」

「ほんまです。今高座上がってできるネタは五十以上ありますんや、あの子」


アビ介はその会話が耳に届いていたのか、ほんの少しだけ表情が緩んだ。

だがすぐにいつもの様子へ戻り、湯飲みを片付け、道具の確認、控室の整理と、次々に仕事を進めていく。


そんな冬晴れの午後。

札月師匠が、珍しく鼻歌交じりで寄席に現れた。


「今日はね、新しい前座さんを連れてきたんだよ」


そう言って後ろを振り返ると、へこへこと頭を下げて、終始ニコニコ笑顔を浮かべている青年が立っていた。柔らかな眼差しはどこか人懐っこいが、よく見ると瞳に鋭い光が宿っている。


鎌勝大樹かまがち・だいきくん。芸名はピロ月。この子ね……東大生ですよ」


「東、東大生!?」

前座の中でも最年少――とはいえ15歳のアビ介 (アビシェク) は、思わず声を裏返らせる。

いくら内弟子歴があるとはいえ、自分より年上の高学歴新人を指導しなければならないらしい。


「先輩って言っても、ボク、まだ義務教育中だけどなぁ……」

アビ介は頭をかきながら、複雑な気持ちを抱えた。


そこへ、ひらひらと袖を揺らしながら叫日家(さけびや)むん句(むんく)が登場する。今日も一層美しく、そして派手だ。


「まぁ、東大生ですって? "神"が降臨したようねぇ」

むん句はピロ月の顔を覗き込み、にっこりと笑った。

「でもね、落語ってのは頭の良さじゃできないの。お客さんの心に触れるには、もっと泥臭くて、人間臭いものが必要よ。……しごいてあげるから、覚悟しなさい?」


ピロ月は緊張と喜びの混ざったような、なんともいえない微笑みを浮かべる。


一方、元力士の弟子・力介りきすけはといえば、拳を握りしめ、足をぐっと踏みしめていた。


「東大生……落語覚えるのも早いだろうな……。追い抜かれるわけにはいかないぞ……!」


その"気合踏みしめ"は力士時代の四股につながり、寄席の床板をビリッと震わせる――


「ちょっと! 下の喫茶店に響くでしょ!」


むん句が怒鳴り、寄席の空気が一瞬で引き締まった。


札月師匠はふにゃっと笑い、

「まあまあ、今日からはこの子も仲間だ。みんな、よろしく頼むよ」

と、新しい年を前にした家族のように、温かく言った。


年の瀬の新恋羽寄席は、またひとつ面白い風が吹き込んだのであった。



ーーピロ月の壁ーー

新しく加わった前座、鎌勝大樹――芸名・ピロ月は、東大生らしい並外れた吸収力で、前座の雑用をみるみる覚えていった。

茶を淹れる手際も、出囃子の用意も、そして寄席の裏方としての段取りも、まるで高速で組み上がるパズルのように整理していく。


「内弟子修行のこと、レポートで提出しろって、ゼミの教授に言われててね」

そう言って、ピロ月はタブレットの画面をアビ介に見せた。


その文章は、修行の様子を淡々と(つづ)ったものというより、もはや文化人類学のフィールドワーク報告に近い。

論理的で、観察が鋭く、端々に情熱すら見える。


「す、すごい……!」

アビ介は思わず声を上げた。

「さすが東大! レポートっていうより論文ですよ。ぼくの夏休みの自由研究なんか、ホント紙くずです……」


「いやいや、君のもぜひ読んでみたいよ。見せてくれない?」

ピロ月が照れたように頼んだので、アビ介は自分の夏休み自由研究「ぼくの落語家内弟子日記」をメールで送った。


数分後、ピロ月は画面を食い入るように見つめて驚愕した。


「中学生で、こんなにしっかりしたレポートを書けるの? すごいよアビ介くん! 先生、ビックリしたでしょう」


「え、いや……まあ、好きでやってるだけで……」

東大生に褒められて、アビ介は、耳まで赤くなった。


――しかし。


"高座"に上がるようになると、状況は一変した。


ピロ月は、初めての本番で緊張に呑まれた。

声は細く震え、言葉はほどけた糸のように途中で途切れ、客の反応を気にしすぎて視線さえ上げられない。


一旦噺が止まるたび、客席には優しいような、しかし痛々しい静寂が落ちた。


楽屋に戻ると、ピロ月は肩を落としてつぶやいた。


「話芸って……本当に難しいんですね……。頭で覚えるのと、舞台で出すのは全然違う……」


その背中を、派手な着物の袖が軽く叩いた。


「言ったでしょ?」

むん句が、やや勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「デキる子って、マジメに考えすぎるのよ。落語はね、計算じゃないの。お客さんの"気配"と遊ぶのよ」


ピロ月は素直にうなずくが、目の奥には焦りがにじむ。


むん句は続けて言った。

「あなた、大学にも通って、寄席にも出て、そんな二足のわらじ……器用にこなせるタイプじゃないんじゃない?」


「……かもしれません」

ピロ月は苦笑した。


その様子をみて、力介は複雑な気持ちになった。

かつて自分も高座で固まった身だが――

今のピロ月には、別の種類の"壁"が見える。


 知性ゆえの慎重さ。

 努力ゆえの硬さ。

 真面目ゆえの緊張。


(オレより、時間かかるかもしれないな……)

そう思った瞬間、少しだけ胸が軽くなった自分に気づき、力介はあわてて顔を引き締めた。


寄席の世界は、偏差値の高い低いでは(はか)れない。

ここでは、人間そのものがすべてなのだ。


年の瀬の新恋羽寄席。

ピロ月はまだ殻の中――だが、殻の内側では着実に何かが育ち始めていた。



ーー変われるきっかけーー

力介は、ピロ月の苦悩が手に取るようにわかっていた。

自分だって、落語家の弟子となって、"殻"を破るのに随分と時間がかかったのだ。


落語家としての第一歩は、(例えて言うなら)戦国時代末期の千利休の開いた境地、茶道の立ち居振る舞いにも似ていた。

茶の会席に招かれた戦国武将は、小さなにじり口の前で立ち尽くす。

「どうやって茶室に入れというんだ……」


答えは、至極簡単だった。

刀や鎧をすべて外す――つまり、プライドや恐れを捨て、身体を小さく折りたたみ、深く頭を下げて膝で進めば、するりと入れる。


その感覚にも似た経験が自分にあったからこそ、力介は言えた。


(ピロ月さんも、"きっかけ"さえ掴めれば……きっとすごい落語家になれる)


だが、その"きっかけ"は人によって違う。

見つけられるかどうかは、誰にもわからない。



ーーアビ介、英語落語で世界の観客を掴むーー

最近、外国人観光客の来客も増え、英語パンフレットを置いたり、むん句、アビ介による落語の英文翻訳もそこに載せたりするようになった。アビ介に至っては、英語落語にもチャレンジしている。


ピロ月が英語落語に挑戦したのは、単なる好奇心だけではなかった。

「外国人に日本の話芸を披露する、ちょっとやってみたくなるじゃん……」

東大生の自負もあり、自分流の意訳も加えて翻訳した噺を高座にかけたのだ。


結果は、半分成功、半分空振りだった。


外国人観光客は英文パンフレットを手に、内容を照らし合わせるように頷いてくれる。

ただ、「ウケた」という手応えは薄い。

"理解はしている。しかし心は揺れていない"

そんな反応であった。


ピロ月は袖に下がると、少し肩を落とした。


しかし、そのあとを継いだアビ介はまったく違った。


前座の出囃子「石段」が流れはじめると、

トンチリ・トンチリ・シャンシャンシャン♪――

そのリズムに合わせ、アビ介は踊りながら姿を現した。


動画サイトで見たというこのお囃子を使う祭りの踊りを、自分流にアレンジしたものだ。

まるで猫が2本足で立ち上がって前足で盆踊りをしているようだ。

妹のアヌシュカと一緒に踊って、家族に披露したとき、父ラヴィが爆笑しながら拍手したほどの完成度だった。


その踊りのまま上座へ進み、上半身だけリズムを刻みながら、お囃子の終わりに合わせて座布団に座っていた。

そして深く礼をし、英語で一言。


「This dance is a free service.

Normally, when we perform rakugo, we don't do this kind of dance.

This is important knowledge!」


(この踊りは無料サービスです。

普段の落語ではこんな踊りはしません。

誤解の無いように!)


場内がどっと沸き、笑いと拍手が重なる。


「I know!(知ってるさ!)」

「That’s a kind gesture!(親切にどうも!)」

外国人たちの中には、笑いながらそんな言葉をかける者までいる。


「あ、掴んだ……」


袖で見ていたらピロ月でもそれが分かった。

抱腹絶倒の空気が広がり、その後の英語落語はまるで魔法が解けたように次々と笑いが生まれていく。


外国人客からは次々に声まで飛ぶ盛り上がり。


ピロ月が呆然と見守っていると、後ろからむん句が軽く背中を叩いた。


「アビ介の技、見たでしょ。あの子の事、誰でも大好きになっちゃうのよ」


その口ぶりは誇らしげで、どこか母親のようでもあった。


演目が終わって礼をした後、わずか15人程の客席からは万来の拍手となった。

アビ介はただ笑顔で手を振り、再び深く礼をした。

その姿に会場はさらに温まり、拍手はしばらく鳴り止まなかった。



ーーピロ月の3年間ーー

ピロ月は、諦めなかった。

大学との二足のわらじに苦しみながらも、三年間、必死に寄席へ通い続けた。

大学は一年留年したが、それでも修行を続けた。


そして三年目の冬。

ピロ月は、札月師匠と来福師匠の前に静かに頭を下げた。


「落語家は……あきらめます」


楽屋が静まる。


「自分は大学院に進み、研究の道を歩みます。でも――落語の世界にいられたこと、伝統芸能を"身体で"学べたこと……これは、これからの自分の学術研究の大きな柱になります」


その目に宿る光は、敗北ではなかった。

むしろ、自分の道を見つけた者の強さがあった。


「未来の日本人を育てて恩返ししたいと思っています」


そして迎えた、前座として最後の高座。


ピロ月は、もうつっかえなかった。

声も、視線も、動きも――三年間の汗と悩みと涙が詰まった、堂々たる噺だった。


後ろで見ていた力介は拳を握る。


「俺……ピロ月さんの気持ちが、よくわかる。夢を捨てて、自分の心を切り替えるって……簡単なもんじゃない」


その呟きは、冬の客席のざわめきに静かに消えていった。



ーーむん句、改め——務諾威むだくい 笑来わらくーー

ピロ月の門出からほどなくして。

むん句にも大きな節目の時が来た。


二つ目昇進。

そして――新しい芸名の授与である。


札月師匠と笑角亭来福師匠が並んで座り、むん句が正座で頭を下げている。


「……まずはわしから」

札月師匠が口を開く。


「わしの名前の一番上、""をあげるよ。おまえには"お務め"を果たす覚悟が見えたからな。そして"諾威だくい"はノルウエーの漢字です。おまえが“ムンク”ですからな、諾威国(ノルウェー)の偉大な芸術家に敬意を表して、お前も"芸"で大成してもらいたいと付けました」


むん句の目が大きく開く。


つづいて来福師匠が腕を組み、にやりと笑った。


「ほなワシからは、"笑"と"来"をやろ。"将来"に笑いが来るように、でもお前の修行時代"むんく"を忘れんように"わらく"と読ませる。全部まとめて――

務諾威むだくい 笑来わらく』、どや!」


言われた瞬間、むん句――いや、笑来わらくの目から涙があふれた。


「両師匠に……こんな素敵な名前をいただけるなんて……!

身に余る光栄です……!」


札月師匠が穏やかに笑う。

「いやいや、ここからが本番だよ。"真打"という大きな目標があるんだから、これからも精進しなさい」


「はいっ!」


しかし、来福師匠はニヤッと口をゆがめた。


「まぁな……"務諾威 笑来"やけどな――"無駄喰いの将来"って言われんように気ぃつけいや!」


その場がどっと笑いに包まれ、笑来は泣き笑いの顔で叫んだ。


「ホント!師匠ったら!

しっかり"愛の"太いクギ刺してくれて……アタシ、幸せです!」

なにか意味ありげに流し目をする笑来に、来福は肩をすくめる。


「言うとくけどな、ワシはソッチの趣味無いで!」


「わかってますってばぁ!」


師匠たちの笑い声は寄席の天井まで弾み、暖かく響いた。



ーー鎌勝(かまがち)教授、2050年の箱根に立つーー

それから二十年の歳月が流れ、世界は徐々に「未来」と呼ばれていた風景に近づいていた。自動運転バスが山路を滑るように走り、翻訳AIは日常の雑事として扱われ、街角のアバター案内人が観光客に手を振る――そんな2050年の春。


鎌勝大樹かまがち・だいき四十五歳。

学界では「准教授として脂が乗り切った実力者」と評される一方、学生たちからは「とにかく楽しそうに教える人」として人気だった。


鎌勝大樹──かつて「ピロ月」と呼ばれた東大生の前座は、いまや四十五歳。

准教授を経て、この春ついに教授へと昇任し、国立箱根外語大学への移籍を正式に受け入れた。


赴任初日、研究棟の窓から箱根の山並みを見下ろしながら、鎌勝は静かに呟いた。


「大学は、研究だけの場じゃない。学ぶ者の扉を開く場所だ」


彼が新設された文化人類学研究室を受け持ち、「落語研究会」の顧問としてクエスト型の学修プログラムを立ち上げたのも、その信念による。



ーー教授就任の背景、武器(ツール)としての"落語"ーー

鎌勝大樹は大学院在学中から、研究と並行して世界各地でフィールドワークを行ってきた。

その際、異文化の壁を突破するための"武器"になったのが、若い頃、修行でに身につけた落語だった。


現地語に翻訳し、身振り手振りを工夫し、その土地の笑いのツボに合わせてネタを改編して高座を披露する。

しかし、予想どおりにはいかないことが多い。


翻訳しきれないところは通訳に頼るが、吹き替えを失敗して全員が不機嫌になってしまう夜もあれば、こちらの意図とは違う箇所で爆笑が起こり、演者の自分が驚いた日もあった。


予想どおりにはいかないことは、机上では絶対に手に入らない「文化の生きた反応」であった。

落語家の弟子となり、前座として"修行"を積んだ経験が、異文化を開く実践的な方法にそのまま結びついたのだ。



ーー研究の実り、世界的ヒット作の誕生ーー

その成果は論文として国際学会でも高く評価され、文化心理学と民俗芸能研究の交差点として新領域を切り開いた。

一般向け著作である 『決死の世界寄席<ワールド・クエスト>』 は、出版不況の続く時代にもかかわらず発行部数が100万部を突破。

"笑いを使ったフィールドワーク"というユニークな視点が広く受け入れられたのだ。


そして鎌勝教授の研究を象徴する大著が、研究室の本棚中央に置かれている。


「世界お笑い文化心理の探求(The Quest for Global Humor Mind)」


冒頭には、彼が長年の研究の末辿り着いた信念が静かに記されている。


> 「笑いとは、硬く閉ざされた文化の扉を開く"きっかけ"である」


世界の笑い、民族ごとの心理、ユーモアが持つ社会機能。

それらを丹念に比較し、分類し、時に自らの高座の失敗談も交えながら論じた渾身の一冊である。


学生たちが手にすると、その重みで思わず手首が沈むほどの大作だった。

その彼が、ついに教授へと昇任すると同時に、国立箱根外語大学から移籍のオファーを受けた。


箱根の山を背に、硝子張りの研究棟を見上げながら、鎌勝教授は静かに(つぶや)いた。


「……ここが、俺の"次のクエスト"の舞台か」


大学側との面談では迷いの無い口調でこう答えた。


> 「もちろん、行きます。文化人類学の研究室をいただけるのなら、研究も進めますが……

> 何よりも大学は"教育の現場"として大きな役割があると私は考えています。

> ここでは、自分から主体的に発信して『落語研究会』を立ち上げ、顧問になります。

> 古くて新しい形の教育、"修行"と書いて"クエスト"を展開したいのです」


教授会は一瞬沈黙したが、次の瞬間どこか面白がるように笑いが起きた。こうして箱大の名物教授候補として、鎌勝教授が誕生したのだった。



ーー文化人類学・第一回講義ーー

四月の開講日。講義室はざわめきに満ちていた。天井には空中投影のスクリーン、席に座る学生たちはARノートを起動しながら、どんな"名物ぶり"が飛び出すのかと期待していた。


鎌勝教授は教壇に立ち、少し笑みを含んだ眼差しで学生たちを見渡した。


「文化人類学へようこそ。今日から、この授業は皆さんのワールド・クエストになります」


ざわり、と空気が揺れた。


「文化人類学はしばしば、世界を探求するための旅だと言われます。

私たちが追い求めるテーマは――人間とは何か」


スクリーンに映し出されたのは、砂漠の遊牧民、アマゾンの村、サハラのオアシス都市。続けて日本の地方祭礼の映像も流れた。


鎌勝教授は語る。


「この学問の特徴は、まずフィールドワークです。

机に向かって本を読むだけではなく、実際にその土地に入り、生活し、共に食事し、笑い、驚き、時には失敗もします。

つまり、"当事者として世界を理解する"わけです」


学生の一人が小声で「それって……RPGロールプレイングゲームみたい」と呟く。

鎌勝は聞こえたらしく、にやりと笑った。


「そう。皆さんにはこれから、世界という広大なフィールドで自分の視点で冒険をしてほしい」


教室が一段と静まる。


「次に多様性の理解。

自分の常識だけで世界を測らず、それぞれの文化にある"意味"を読み解く力です。

そのうえで、文化同士を比較し、洞察し、共通点と相違点を見つける。

つまり、見知らぬ文化を知ることで、実は――自分自身を知ることにつながるんです」


鎌勝は胸の前で両手を軽く組み、柔らかく結んだ。


「文化人類学とは、地球規模の冒険であると同時に、心の中の世界を探る冒険です。

皆さんの"当たり前"を揺さぶり、価値観を再発見する旅。

さあ、新しいクエストを始めましょう」


講義室に拍手が広がり、学生たちの顔には期待の光が宿った。

2050年の箱根外語大学で、静かだが確かに熱を帯びた授業が幕を開けた。


――こうして、のちに"箱大の名物教授"とも呼ばれる鎌勝教授の伝説が、ここから始まるのである。


ーーお読み頂きありがとうございましたーー

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