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田中オフィス  作者: 和子


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第九十話、優しさの歩み

ーー人生を切り開くーー

四年前の春、石動(ゆするぎ)大銀杏(おおいちょう)の前を、岩木翔太(いわきしょうた)深浦結羽(ふかうらゆう)は並んで歩いていた。磐境神社(いわさかじんじゃ)からさらに山奥へ十分ほど入った場所に佇む二本の夫婦イチョウ――幹周12m、樹高26mの山側の木と、やや細身ながら堂々とそびえる川側の木。どちらも雄株で実はつけないが、山から流れ出る清らかな小川に育まれ、二本はまるで互いを支えるように、道を挟んで左右に立っていた。


翔太はその大樹を見上げながら、拳を握りしめて言った。


結羽(ゆう)、おれは力士になる。このバカでかいだけの俺でも、相撲の世界なら思いっきり力を出せるんだ。横綱になって帰ってくるよ」


その横顔は、まだ幼さを残していながらも、胸の内に宿る夢だけは大銀杏のように雄大だった。


けれど結羽の胸の奥には、別の影が差していた。夫婦イチョウの片方が、もし突然引き抜かれて持っていかれてしまったら──そんな光景がふと浮かんだのだ。いつもそばにいるのが当たり前だった幼馴染が、遠く離れてしまう未来を思い、胸がざわついた。


「翔太兄ちゃんが東京に行くなら、わたしも東京で働くよ。高校卒業したら行くけど……それまでに横綱になれるかな?」


結羽が冗談めかして言うと、翔太は照れたように笑って肩をすくめた。


「そんなすぐに横綱なんて無理だよ。十両までいければいいほうだろう」


二人を包む山風が、ざわりとイチョウの枝を揺らした。その音は、祝福なのか別れの前触れなのか、結羽にはわからなかった。


あれから四年。翔太は相撲界を去り、今は「力介〈りきすけ〉」として落語家の前座修行に励んでいる。結羽は東京で就職するために準備を進めながら、胸に別の決意を抱いていた。


──翔太兄ちゃんの力になりたい。


石動のイチョウが二本で風雪に耐えてきたように、離れても、寄り添うように。二人の物語は、あの山の麓で始まり、今、東京で再び交わろうとしていた。



ーーもうすぐ旅立ちーー

就職先「田中オフィスTokyo」のオンライン会議に特別参加した日、深浦結羽は画面越しに映る社員たちの表情や職場の空気に触れ、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。雰囲気は明るく、皆が互いを尊重して働いている。――ここなら、自分も前に進める。そう確信できた。


だが、インターンとして実習に入る日が近づくにつれ、胸の底にじわじわと不安が広がり始めた。故郷を離れ、一人で暮らし、一人で働く。その現実が、急に重たくのしかかってきたのだ。


思えば最初に東京へ挨拶に行ったときは、不安などひとかけらも感じなかった。あのときの自分には、別の目的があったからだ。


――翔太兄ちゃんは、どうして相撲をやめなければならなかったのか。


それを確かめるためなら、どんな道のりも怖くなかった。ただひとつの想いに突き動かされていたから、回りなんて見えていなかった。


結果として、翔太はたくさんの人に支えられて前へ進んでいた。それを知ったとき、結羽は安心と同時に、ようやく自分の足元に目を向けることができた。


そして気づいたのだ。今度は、自分が上京して働く番なのだと。見知らぬ東京で、たった一人で歩き始めなければならないのだと。


その現実を思い出した瞬間、胸の奥がぎゅっと縮まり、足がすくむような感覚に襲われた。


夢のために、翔太のために、勢いだけで駆けてきた四年間。

けれど——ここからの一歩は、自分自身のための一歩。


その重さに、結羽は静かに息を呑んだ。



ーー限界突破ーー

Zoomをオフラインにした瞬間、結羽は椅子の背にもたれて深いため息をついた。


――こんなすばらしい人たちと、本当に一緒に働けるのだろうか。


さっきまでの画面の向こうの笑顔や軽やかな会話が、今になって急に遠く感じられた。自分もあの輪の中に入るのだと思うと、胸の奥がきゅうっと(ちぢ)こまる。


そういえばZoomで話した芸能事務所の社長さん、「結羽ちゃん芸能界いけるんじゃない?」なんて言ってくれたっけ。

……まあ、そう言ってくれた“ような気がする”だけなのだけれど。


***


田中オフィスTokyoのZoom会議も終わりに近づいたころ、

画面の右上に映る女性が、ふいに身を乗り出してきた。


肥後香津沙。芸能事務所「ヒア・ウイゴー」の社長である。


「ちょっといい? あなた、深浦結羽ちゃんよね」


不意に話しかけられ、結羽はびくっと背筋を伸ばした。


「は、はい……!」


香津沙はじっと画面を見つめ、何かを品定めするように頷いた。

(18歳で身長180センチ。聞いてはいたけど……実物、いいじゃない)

「あなた、ステージに立てるわ!」


「えええッ!? アイドルなんて無理です!」

思い返すほどに、不安はむくむくと胃のあたりから湧き上がってくる。

そのとき、Zoomの東京側で香津沙は(ちょ、ちょっと待って。アイドルなんて言ってないでしょ?

私が言ってるのは"女優とかモデル"のステージよ、ステージ!)と思ったが、それを伝える前に結羽はオフラインにしてしまった。


***


「東京って……こわいわ……」


ぽつりと口に出すと、自分でも驚くほど弱々しい声だった。


冬休みにはインターンのためにまた東京へ行く予定だ。新人なのだから、先輩に甘えて仕事を教えてもらえばいい——そんな慰めをくれる同級生もいる。


「結羽は見掛け倒しで気が小さいんだから」


まるで決めつけのように言われたその言葉が、今では妙に胸に刺さる。


だって、見かけだけは本当に"大きい"のだ。


身長、180センチ。―― 本当は最後の最後まで、必死に「止まれ止まれ……お願い止まって!」と祈っていた。ぎりぎり179センチで踏みとどまったはずだったのに――。


「あの時よね……友達と弘前のイオンでフライドチキン食べ過ぎたのが失敗だったわ……」


結羽は頭を抱えた。

カロリーとは身長に直接関係ないはずなのに、なぜか"あの日のチキン"が最後の引き金になったような気がしてならない。


そして次の週、健康診断の紙にしっかりと印字されていた。


身長180.0 cm


体重は減らせるが、身長は削れない。

「ああっ!」

数字を見た瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。

友達には「バレー部にスカウトされそう」「海外でモデルって言えば通じる」なんて言われたが、当の本人は"背の高い気弱女子"という自分の矛盾に、もう笑うしかなかった。


東京の街の人混みに、自分だけライトポールみたいに突き出してしまいそう。

インターン初日にオフィスの入り口ドアに頭ぶつけたらどうしよう。

「田中オフィスTokyo」に行ったら、みんな椅子に座ってても自分だけ頭ひとつ飛び出してるんじゃないだろうか。


——ああ、考えれば考えるほど、不安しか出てこない。


けれど、胸の奥の小さな声は知っている。


怖いけれど、行かなくちゃならない。

翔太兄ちゃんが夢に向かって進んだように、今度は自分の番なのだ。


結羽は手をぎゅっと握りしめた。


「……大丈夫。チキンはもう食べ過ぎないから」


なんだか方向が違う気がしながらも、彼女は小さく奮い立ったのだった。



ーー修行中の巨人ーー

新恋羽寄席のまだ本開演前。

前座たちの“練習小噺”の時間――のはずなのだが、舞台にはひとり、硬直している青年がいた。


岩木翔太、芸名・力介。

相撲部屋で三年くすぶったのち落語に転じた異色の男だが、相変わらず“高座ではしゃべれない”という致命的な呪いから抜け出せずにいた。


今日も、2分が過ぎた。


客席にはまだほとんど人はいない。それなのに、静寂が重い。

力介は、まるで舞台の真ん中に置き忘れられた彫像のように動かない。


「……力介さん、もういいから」


舞台袖から、叫日家(さけびや)むん句が声を掛けた。

茶髪ロン毛、元ビジュアル系落語家(自称)。

今はオネエ系ニューハーフ落語家として第二の人生を歩む、寄席の兄さんだ。


言い方はテキトーだが、嫌味ではない。

むしろ、事実として“もう十分”なのだ。


むん句は袖から出てきて、力介の肩を軽く叩いた。


「アンタの後に()る人は楽だわ、ほんと」


冗談めかして言うが、これも事実だった。

いまや力介は、新恋羽寄席の名物――


「オブジェ」


として認識されつつある。

本人は必死なのだから、余計にたちが悪い。


ただ今日は、師匠の笑角亭来福も来ていない。

来福には来客があり、力介は完全ワンオペだった。


袖に戻ると、むん句がため息をついた。


「悔しいでしょう? 自分自身が」


図星すぎて、力介はうなだれるしかない。


「きょ、今日は……帰って、稽古します……」


「そうそう。それでいいのよ」


むん句はそう言いながらも、力介が腰を上げないのを見て、片眉を吊り上げた。


「……なによ、その顔」


「いえ、その……あと片づけ、が……」


むん句は大笑いした。

嫌味なくらい気持ちよく笑った。


「アンタ、それが悪い癖よ!」


指を突きつける。


「地道な下働き、一生懸命やるのよねぇ。

それ自体は立派なんだけど……前座は稽古が第一!」


「で、でも……」


「でもじゃないの! ほら、行ってらっしゃい!」


勢いよく背中を押され、力介はあわてて荷物を抱えた。


「でも……むん句兄さん、寄席の片づけ……」


「今日は私がやっとくわよ。

いつもは下の喫茶店でお茶してたけど、今日は特別サービス!」


むん句はウインクした。


ちゃらんぽらんに見えるが、

後輩の“悔しさ”はちゃんと理解している、そんな目だった。


「ありがとうございます……!」


背中を丸め、ぺこぺこしながら楽屋口へ走っていく力介。

その後ろ姿を見送りながら、むん句は小さくつぶやいた。


「……まったく、修行の巨人って感じねぇ。

しゃべれたら、すごい子になるんだけど」


その声は、どこか楽しげだった。



ーー思わぬ再会ーー

寄席を出た力介は、とぼとぼと帰り道を歩いていた。

街灯が道路に落とす影は長く、まるで自分の悔しさも一緒に伸びているように見える。


(師匠に……今日どうやった?って聞かれたらどうしよう)


考えれば考えるほど、胃の奥が重たくなる。

正直に言えば――


(今日も石みたいに固まってました、って言うしかないよなぁ……)


想像した瞬間、来福の声が脳内で響く。


「噺家が固まってどうすんねん!おまえは土俵で石になる修行してたんか?」


「……言いそうだ……」


思わず独り言をつぶやきながら、力介は来福宅の前にたどり着いた。


玄関には、新しい表札が掲げられている。


《西行芸能》


「……師匠んとこ、ほんとに会社作ったんやな……。おや、来客か?」


玄関灯の影にスーツケースがひとつ置いてあった。

誰か来ているらしい。


「ただいま戻りました!」


元気だけは取り繕って声を出すと、奥から返事が返ってきた。


「おう、おかえり。今日は大事なお客さんがきとるで」


来福の声だ。

力介が靴を脱ぎながら奥へ進むと――


「おう、久しぶりだな!」


にっこり笑った槍ヶ岳(やりがたけ)親方が座っていた。


「親方! どうもご無沙汰しております。お元気そうで……」

驚きのあまり、語尾が裏返る。


親方は現役時代、小結まで登りつめ、部屋を興した苦労人。

その顔を近距離で見ると、力介は思わず背筋が伸びた。


ふと隣を見ると、同行してきたのは(まげ)を結った若い力士――

「翔太さん、お久しぶりっす!」


「……大谷さん!」

力介の同期、大谷良二。

幕下、十両目前の出世頭になった、その堂々たる姿。


「立派になったなぁ……」

力介は語るように呟いたが、それは心からの本音だった。


そんなしんみりを吹き飛ばすように、来福が声をあげた。

「今日きてもろたんはな、ワシの《西行芸能》の初仕事や!」


胸を張って宣言する。


「東京MTVの年末特番『東京の大晦日』に、槍ヶ岳部屋の稽古風景を入れるんや。

その打ち合わせでな」


来福は指で空中に円を描きながら、まるで本番のように語り始めた。


「ワシもマイク持って『え~こちらは槍ヶ岳部屋の稽古場です。ごらん下さい! 未来の横綱目指して、年末も稽古です~』ってやるんや!」


勢いが止まらない。

「でっかい鏡餅バックにして、生放送やで!」


力介は、ぽかんと口を開けた。

(え……師匠が……相撲部屋のレポーター……?)


想像の範囲を越えていた。

だが、来福の得意げな姿を見ていると――


(……なんか、スゴいな)

胸の奥が、なぜかほんの少し温かくなった。



ーー忘れ去った四股名ーー

「それにしても、大谷さん、凄いじゃないですか」

力介は意識して声を出した。

「東幕下四枚目で、今場所勝越しているじゃないですか。すると初場所は——『十両』でしょう!」


槍ヶ岳親方は、ゆったりと胸を張りながら笑った。

「今場所は十両に陥落するものが少なかったから、可能性は高いがな。

まあ、年末近くの新番付発表で、俺の部屋から初めて『関取』が生まれるんだ」


大谷良二は、力介に向き直り、少し照れたように話し始めた。


「同期で——いや、同世代の中で、岩木さんはずば抜けて強かった。

俺なんか、足元にも及ばなかったっす。

でも、同じ部屋で修行させてもらえたおかげで、岩木さんの背中を追いかけて必死に稽古しました。

岩木さんがいたから、今の自分があると思っています」


「そんな、大谷さん……それは、あなたの実力です」

力介は、咄嗟に答えたが、心の奥はざわついた。


来福師匠は、あらかじめ槍ヶ岳親方から話を聞いていた。

(ああ、ここまでのやりとりは思ったとおりやな……さあ次の手ぇや。力介、しっかり受け止めてみい)

師匠の心の声を、力介はもちろん知らない。


槍ヶ岳親方は大きく息を吸い、力介の肩を軽く叩いた。


「翔太、いや、力介。おまえも芸名をもらってしっかりやっておるしな。

俺も大谷に名前をやろうと思っている。四股名、『岩木岳』だ!」


――その瞬間、力介の脳内に、音がこだました。

"岩木岳、岩木岳、岩木岳……"

耳鳴りのように、ひたすら反響する。

かつて自分が相撲を続けていれば、いずれ自分の四股名になったはずの名。

それが、同期のライバルの手に渡るのだ。


槍ヶ岳親方はさらに説明を続けた。


「先代の岩木岳親方は同門でな、もう話はつけてある。

同じ青森出身で、十和田湖もあるが、大谷からたっての希望で岩木岳を貰い受けた。

岩木翔太には取って欲しかった名前ではあるが、異存はあるまいな?」


大谷も力強く言葉を添える。


「さっきも言いましたように、自分は岩木さんのおかげで強くなれたと思っています。

岩木岳を継いで、岩木さんの分も相撲に精進していきたいと思います!」


力介の頭の中には、まだ"岩木岳"という名前が、耳鳴りのようにこだましていた。

心臓の鼓動が収まるまで、彼は舞台上のオブジェのように、じっと固まったままだった。


ようやく一分ほどして、力介は震える声を搾り出した。


「ありがとう……岩木岳の名前で、横綱まで登ってくれることを……願っています。応援しています」


それが、今の自分にできる精一杯の言葉だった。

その胸の奥には、悔しさと誇りと、複雑な思いが渦巻いていた。



ーー来福師匠の思いーー

力介の顔をじっと見据え、来福師匠の目が光った。

師匠の脳裏にはひとつの確信がある。


(よし……これで魂が入らなければ、しまいや!)


その思いが静かに、しかし強烈な決意となって口をついて出た。

「親方、掌中(しょうちゅう)の珠——力介をワシに下さり、感謝申し上げます」


槍ヶ岳親方は目を細め、師匠の口ぶりに耳を傾けた。


「この子を貰ろて、ワシの落語家人生が変わりました」


来福師匠の声は、稽古場の空気を震わせるほど熱を帯びていた。

一瞬の静寂のあと、語りはさらに加速する。


「『一芸に秀でるもの、一芸のみに終わるにあらず』――

大きくて力が強いなら相撲取りしかできんというのが世間相場。

だがな、ワシはそうは思わん!」


力介の肩越しに、師匠は両手を大きく広げてみせる。

そこに込められたのは、師匠の信念——


「蒸気機関は紀元前からあったんや。

しかし、十九世紀になってスチブンソンが現れ、それで蒸気機関車が走ったんやぞ!」


声が高まり、語気に熱が宿る。

たとえ比喩の意味を完全には理解できなくても、その情熱に圧倒される。


「岩木翔太には、笑角亭来福がいるんや!

落語会が驚くような大発明を見せまっせ!!」


言い終わるや否や、師匠の瞳には強い光が宿っていた。

大きな体躯の青年――力介は、まだ言葉少なに、しかし目の奥で何かが動くのを感じていた。


その瞬間、来福師匠の信念が舞台の様相を呈した座敷の空気を満たした。

落語という芸に、相撲仕込みの力が注ぎ込まれる時が、もうすぐ来ることを予感させる――。



ーー力介、(くさり)を断つーー

「力介、お客さん少ないけどな、ここでおまえのネタ、見せてみい。できるな?」


師匠の言葉は、低く、しかし断固たる響きを持って力介の胸に届いた。

高座で一言も発せない自分を、師匠は知っているはずだ。

それなのに、今ここで、目の前の未来を真っ直ぐ見据えるように促されている。


不意に、頭の奥で何かが弾けた。

これまで自分を縛っていた鎖――「言葉が出てこない」「お客さんにうけなかったらどうしよう」という瑣末な恐れ――

その重みが、一気に消え去ったのを感じた。


(そうか……自分は、これで生きていくんだ)


心が確信に満たされ、身体の奥から力が湧き上がる。

震える声が、自然と口をついて出た。


「……ある相撲を題材にした噺を、一席お付き合い願います」


なんの支障もなく、するりと声が出た。高座に見立てた座敷の上に、初めて自分の意思で声を出す感覚。

微かな緊張とともに、しかしそれ以上の解放感が、力介の全身を包む。


師匠の瞳が、少しだけ柔らかく、しかし鋭く光った。

その視線の中に、信頼と期待が映っているのを、力介ははっきりと感じた。


高座の空気が、一瞬だけ凛とした。

そして、力介の噺が、静かに、しかし確かに動き出した。


――初めて、自分の足で立った落語家としての第一歩だった。



ーー相撲の小噺ーー

「やあ、関取、今場所はどうだったね?

力士は少しうつむきながら、肩をすくめて答えた。「はあ、勝ったり負けたりで……」


ふむ、えらいねぇ、と観察していた人物はにっこり笑った。普通の力士なら、自慢話に花を咲かせるところだが、勝ったり負けたりと奥床しいところを見せるあたり、なかなか良い心掛けである。


「で、初日はどうだった?」

力士は小さく息をつき、声を絞り出した。「はあ、それが……残念ながら……」


「ああ、負けたのか。おしいねぇ」と相手は残念そうに首を振った。「じゃ、二日目は?」


「突きだされました……」力士の声は小さく、少し恥ずかしそうである。


「ヘェ、三日目は?」

「投げられまして……」


「おやおや、四日目は?」

「恥ずかしながら……」


「なんだい。じゃ、関取の勝った日は?」

「一日もありませぬ」


思わず相手は目を丸くした。「え、だって、おまえさん、さっきは勝ったり負けたりといったじゃないか?」


力士は真面目な顔で首を振り、静かに言った。「ですから、相手が勝ったり、こちらが負けたり……」


――その場には客3名、少し間を置く静寂が流れていたが。笑いのツボにさしかかると、思わず顔を見合わせ、微かに笑いをこらえた。言葉の端々に、若い力士の素直さと、どこか憎めない間の悪さがにじんでいたのだった。


三河屋の主人が、ふらりと立ち寄った。店先に立つ女房の姿を見つけると、にこやかな顔で声を掛けた。


「関取はえらく出世をしたそうだが、どうだねぇ。さだめし、大きくなってきただろうねぇ」


女房は、はにかんだように手を合わせて頭を下げた。


「はい、ありがとうぞんじます。おかげさまで、ずいぶん大きくなりました」


その時だった。家の外から、ゴーン、ゴーンと、重々しい鐘の音のような響きが鳴り渡った。女房は驚いて息を呑んだ。


「まあ、つり鐘が鳴るなんて……」


三河屋も目を丸くする。

「こんな時刻に鐘かい?」


しかし、女房は首を横に振った。


「いいえ、あの……つり鐘ではございませんの」


「なんだい?」


女房は胸に手を当て、まだ驚きの冷めない声で言った。


「関取が、いま戻ったという声が、つり鐘のようにきこえましたので……」


三河屋は思わず噴き出した。「ほほう、それはものすごいねぇ。声が鐘のようとは」


「それで、見あげましたが……」と女房は言葉を続けた。「関取の首が、ありませんでしたの」


「えっ?」三河屋は本気で驚いて、腰を浮かせる。「それはたいへんだ」


女房は慌てず、しかし困ったように続けた。


「よく見たら、関取の頭が雲の中に入って見えないので……」


三河屋は両手を広げて叫んだ。


「冗談じゃない! そんなに大きかったら、相撲をとっていても、顔が見えないじゃないか!」


夕暮れの風が、女房の笑い声を運ぶ。三河屋はぽかんと口を開けたまま、空を見上げる。

雲の切れ間から覗いた陽の光が、まるで本当に、巨大な関取の頭を隠したかのように見えた。


力介の身体はその場の誰よりも大きかった。胸を張るだけで、天井近くまで伸びたようだった。

さきほどの"雲に隠れた関取の頭"が、妙に現実味を帯びて見えてしまうほどだった。


力介は今、ようやく笑われることが怖くなくなった。

今の笑いは、バカにする笑いではない。

自分の語った噺に、皆が心から笑ってくれたのだ。


その事実が、胸の奥に熱く沁みた。


力介は扇子を軽くあおぎ、静かに姿勢を正した。

力介は、すっと声色を変えた。


「ああ、これは、おいでなさい。ゆうべ戻って参りました。

どうかまた、ご贔屓のみなさまのお力で、当地の場所も

よろしくおねがいもうします――」


関取の柔らかな挨拶を、巨体ならではの低い響きで演じる。


続けて、店先に現れた常連客の声に切り替える。


「いやァ、これは関取。うーん、いやぁ、これは立派になった!

おいおい、おかみさん、ウソをついちゃぁいけない。

何が小さいものか、こんなに大きいじゃないか!」


力介が胸をそらすと、三人の観客がクスッと笑う。

その仕草だけで、巨体がより誇張されて見えるのだ。


今度はおかみさんの甲高い声。

「いいえ、朝夕見ておりますと、それほど大きいとは思われませぬ。」


「いやいや、そうではない。あのとおり、大きいではないか!」

客の声は半ば呆れ、半ば感心しながら。


そして、おかみさんの一言。

「……いいえ、あれは、半分は(あか)でございます――

お後がよろしいようで」


その瞬間、三人しかいないはずの客席が、まるで寄席の真ん中に立っているかのように温かく揺れた。

手のひらを合わせる音が、力介の鼓膜に鮮やかに響きわたる。


――拍手だ。

生まれて初めて、自分の落語に拍手が起きた。


力介は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

目の前の光景が夢なのか現実なのか、判然としない。


槍ヶ岳親方は最初こそ豪快に笑っていたが、いつしか目元をぬぐいながら震える声で言った。


「よかった……翔太。いや、力介。

おまえは、りっぱな落語家だ……」


隣で大谷が興奮気味に身を乗り出す。

「凄いっす! 岩木さんにこんな力があったなんて……。

昔の、まっすぐ押してくるあの勢い、そのままの落語でした!」


力介は胸の奥が熱くなり、うまく言葉が出てこなかった。

自分が……本当に最後まで噺を?

あの、声が出ずに固まっていた自分が?


現実感のないまま、座敷の端に座り直すと、師匠である来福がゆっくりと力介の肩に手を置いた。


「……すこし刺激を与えて驚かしたろうと思ったんやが、

こっちが驚かされたわい。

あんまり心配させたらアカンがな」


自嘲気味に笑いながらも、その声には誇らしさが満ちていた。


来福の心には、長年の記憶がよみがえっていた。

寄席の裏で、いつも柔らかく微笑んで弟子を見守っていた桂昭和師匠の姿だ。


(叱ったら萎縮する子もおる。せやけど、何も言わず笑ろて……

「まあ次がんばれや」

それだけでええ、と昭和師匠は教えてくれとったんやな……)


ようやく気づけた。

ようやく、その背中の意味がわかった。


「桂昭和流弟子養成術……ようやくワシにもマスターできましたやろか?」


来福が心の中で問いかけると――

ちゃぶ台の向こうで湯呑を手に「しらんがな?」と肩をすくめる昭和師匠の姿が、まるで幻のように浮かんだ。

(もちろんまだ元気でピンピンしている)


力介は、涙を堪えるように天井を見上げた。

心が震えていた。


落語家をこれからも続けていきたい。

ただの夢ではなく、生き方として。


この瞬間、力介の未来は静かに、確かに動き始めた。

ーー続くーー



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