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田中オフィス  作者: 和子


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第八十六話、開幕、覚醒の序章

ーー肥後MAの独演会ーー

六本木ヒルズ、Q-pull会議室にて


港区六本木ヒルズの高層階――。

全面ガラス張りの会議室からは、秋の午後の光が差し込み、東京の街並みが金色にきらめいていた。


会議室の自由な位置に陣取った、Q-pullの若手チームリーダーたちが集まっていた。

彼らは誰もが精鋭だ。大企業特有の“安全運転”とは無縁の、挑戦と競争に慣れた顔ぶれ。だが今日ばかりは、彼らの視線が一方向に集中していた。

――プレゼンター、肥後勝弥のもとへ。


その中央、肥後は腕時計をちらりと見て、深く息を整えた。

スリーピースのグレーのスーツに身を包み、ポケットチーフがわずかに揺れる。

どこか舞台の開幕を待つ俳優のようでもあった。


壁際には、社長の上田敬之が立っている。

Q-pullの創業者であり、年商4500億を誇る企業の舵取り。

だがその瞳は静かに肥後を見つめ、わずかに口元を緩めた。


「ここの連中はな、社長に(おもね)るようなタイプじゃない。

肥後ちゃんの言葉で、ちゃんと納得させてくれ」


その言葉に肥後は軽く笑った。


「民主主義だねぇ、上田社長。でも――それがQ-pullらしさなんだよな」


静まり返った会議室に、わずかな笑いが生まれる。

しかし次の瞬間、肥後の目が鋭く変わった。

そこには戦場に立つ兵のような集中があった。


机の上には、会議用の端末が整然と並べられている。

倉持渉が、そのうちの一台を丁寧に開き、電源を入れた。

FAT仕様のカスタムノートPC――彼の愛機だ。

画面にQ-pullのロゴが浮かび上がる。


「システムは全部確認済みです。プレゼン資料、パワポで一式用意しました。

会議室には三台のプロジェクターがあるので、同時展開できます。音響もチェック済みです」


倉持は落ち着いた声で報告しながら、ケーブルを接続していく。

肥後がうなずき、わずかに肩をほぐした。


「久しぶりの合戦の場だ」

その声に倉持が笑う。

「無双してやりましょう、肥後さん」


ガラス越しの東京の空が、夕陽に染まり始めていた。

若手リーダーたちはまだ口を開かない――だが、誰もがその熱を感じている。


この後に始まるのは、ただのプレゼンではない。

Q-pullの未来を懸けた“ショー”だ。

百億の投資が正義か暴挙かを決する、運命のステージ。


肥後勝弥はマイクを手に取る直前、ふと呟いた。


「じゃあ――始めようか」


静寂が落ちた。

その瞬間、会議室の照明が一段階落ち、スクリーンに光が灯る。

《Cloud F会計 ― Q-pull Re:Vision 2030》


戦いの幕が、今まさに上がろうとしていた。



ーー眼前の壮士たちーー

長机の向こうには、Q-pullの主力メンバー――

営業、開発、広告、ソーシャル部門のリーダーたちが並ぶ。

五十名ほどの精鋭たち。

その視線は、一人の男に集中していた。


肥後勝弥。

田中オフィスTokyoの嘱託マーケティング・アドバイザーにして、

この日のプレゼンの主役。

今日の彼は、いつもの楽しい広告屋のオジサンではなかった。

“言葉”という刃を手にした戦略家だった。


マイクを持った肥後が、一歩前へ出る。

照明がわずかに落ち、彼の声が響いた。


「さて、Q-pullの主力メンバーにお集まりいただき光栄です。

今日の話はね、対応を間違えると――

年商4,500億のQ-pullも吹っ飛んじまうかもしれない。

だから、しっかり聞いて、自分の考えをちゃんと主張してくださいよ」


一瞬、会場にざわめきが走った。

肥後はその空気を読んで、さらに笑みを深める。


「逆に言えばさ――君たちが“戦艦の乗組員”なのか、

それとも沈没前に逃げ出す“ネズミ”なのか、

今日でわかるかもね!」


挑発的な一言。

だがその裏には、彼なりの“焚きつけ”がある。

空気が張り詰め、誰もが背筋を伸ばした。


普段なら肥後がオフィスに顔を出せば、

若手リーダーたちは新しい遊び場の情報を聞き出そうと群がる。

だが今日の肥後は違う。

誰も笑わない。誰も目を逸らさない。

今ここで話される言葉が、Q-pullの未来を変える――

その緊張が、会議室の空気を震わせていた。


肥後はプロジェクターに視線を向け、クリックする。

巨大スクリーンに、統計グラフが浮かび上がる。


「知ってのとおり――日本の米農家は、1955年の約604万戸から

2020年には約175万戸へ。65年間でおよそ70%が減少している」


リーダーたちの間に、微かなざわめき。

肥後は淡々と続けた。


「国は農家を保護してきたはずだろう?

"米は日本の食糧政策の要"って言いながら、

実際は田んぼを“票田”として見てきただけなんじゃないのか?」


その言葉に、会場の奥からひとりの声が上がった。

若いが目つきの鋭い男――ソーシャルゲーム部のリーダー、坂本だ。


自由討論形式だ。肥後は発言を制するでもなく、

坂本の発言を促すように微笑んだ。


「政策が悪いのは認めます。でも……」

坂本はマイクも持たず、まっすぐ前を見た。

「今の日本農業は、低価格帯も高付加価値部門も、

結局は効率の悪い農法から抜け出せていない。

"食糧自給率向上"なんて、国が仕掛けた無理ゲーですよ。

我々までそのゲームに巻き込まれるのは、違うんじゃないですか?」


ざわつく空気。

だが肥後は即座に反応した。


「いいね、坂本くん。今日も元気だな」

軽く笑いながら、肥後は全員に向けて言った。

「みんなのスマホ、ピンマイクになってるからさ。

どんどんしゃべっていいんだよ。今日は本気の討論だ」


そして、再び坂本に視線を戻した。


「たしかに、外国の大規模経営には勝てない。

でもな――だからこそ、公平なルールを作るんだ」


スライドが切り替わる。

そこには“フェア・アグリカルチャー・ランキング”の試案図。


「遺伝子組み換えや大規模農法は、短期的には効率がいい。

でも農地を壊し、地球の再生力を奪ってる。

80億を超えた人口を養うための“工業的農業”が、

結果として地球を枯らしてるんだよ」


肥後の声が低くなり、会議室に響く。

「坂本君、俺たちは“ゲーム”を作る会社だろ?

だったら、地球を再生する新しいゲームを作って、

プレイヤーを増やそうじゃないか」


坂本の目が見開かれた。

周囲のリーダーたちも、思わず息をのむ。


肥後はクリックし、次のスライドを映し出す。

映し出されたのは、

《Earth Loop – 地球を再生するゲーミングエコノミー構想》


照明の下、肥後勝弥の声が響く。


「この勝負――俺たちは“遊び”で終わらせない」


その瞬間、会議室の空気が変わった。

挑発は議論を生み、議論は熱を帯び、

Q-pullの“頭脳たち”が一斉に動き出す。


六本木ヒルズの高層階で、ビジネスと理想とゲームが交錯する――

肥後勝弥の独演会が、いよいよ本当の“開幕”を迎えた。



ーー冷徹女史の質問ーー

「肥後さん、失礼ですが──」


声の主は経理部門リーダーの「志摩理沙」。

三十代半ば、知的なメガネの奥の瞳が、まっすぐ肥後を射抜いていた。

黒のタイトスカートに、深緑のブラウス。どこか軍服を思わせるその端正な装いが、彼女の信条を物語っている。数字こそが真実。情熱よりも決算を信じる女だった。


「外部のあなたがQ-pullを利用して、危険なゲームに巻き込むのはどうかと思います。総額百億?──無謀です。やりたいなら、ご自身で出資者を募ってやるべきじゃないですか?」


会議室の空気が凍った。

坂本が下を向き、マーケティング部の若手が息を止めた。

肥後はゆっくりと腕を組み、唇の端を上げる。


「志摩さん。Q-pullって、儲けてるだろう? インターネットっていう、先達が作った“インフラ”の上でな。ITを駆使して、利益を吸い上げるだけになってないか? 本来、テクノロジーってのは還元のためにあるんだよ」


志摩は目を細めた。「還元?」


「そう。クラウドに投資するってことは、空っぽの洞穴に金を放るんじゃない。未来を耕すってことさ。君の経理の世界でいえば、"再投資"だよ。利益を出すだけじゃ企業は老いる。夢を持つと、企業は若返るんだ」


志摩は何かを言いかけて口を閉じた。

肥後は一歩前へ。

「俺たちは今、ゲームを変える瞬間にいる。農業を"再生産"の仕組みとして見直せるのは、Q-pullみたいな企業しかないんだよ。……そうだろ?」


誰も答えなかった。

だが、会議室の空気は明らかに動き始めていた。



ーーネズミ、発見ーー

経理部門リーダー・志摩理沙との一騎打ちが終わると、会議室には一瞬の静寂が訪れた。

誰もが息を整えるように、パソコンのキーに手をかけたまま動かない。

そんな中、明るい声が空気を割った。


「広報部、伊藤です!」


その声は、どこか場違いなほど軽やかだった。

「肥後さん、いつもお世話になってます。ホームページのレイアウト見ていただいたり、SNSキャンペーンでアドバイスもらったり、本当に感謝してます! で、今回のこの企画──もう決定事項なんですよね?だったら、あとはコンセプト固めてもらえば、うちのチームでネット展開しますよ!また一緒に派手にやっていきましょう!」


快活に笑う伊藤の声に、何人かが安堵の笑みを浮かべた。

張りつめていた空気が少しだけ緩む。

だが肥後は──笑わなかった。


(この調子のよさ、嫌いじゃないんだけどな・・・)


そう思いながら、彼はプロジェクターのスイッチを切った。

光が消え、会議室が現実の色に戻る。

肥後の声は低く、静かに響いた。


「伊藤君。バブルの時代じゃないんだ。ノリと勢いだけで進められる案件じゃない」


伊藤が目を瞬かせた。笑顔が一瞬、固まる。

「えっ……」


「悪いけど、メディア展開は外部に委託したほうがいいと思う。今回は“演出”じゃなく、“構造改革”のプレゼンなんだ。イメージじゃなく、理念を伝える必要がある」


肥後の言葉に、会議室の空気が再び沈んだ。

伊藤の顔が引きつる。

(外部委託……? 俺たち広報の出番、ナシ?)

視線が無意識に上司の方をちらりと見た。


肥後はその一瞬の目線の動きを見逃さなかった。

(肥後さんは、上田社長の友人だからってわけか。なるほど──ネズミ、発見だな)


彼は腕を組み、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「広告宣伝はこのプロジェクトの重要な要素だ。もちろん、広告部門にも期待しているよ」

言葉を和らげながら、視線を全体に巡らせる。

「ただし、今回はQ-pull内部だけで完結させない。外部のイベント会社にも企画書を出してもらって検討する。たとえば──“ヒア・ウイゴー”にもな」


その名が出た瞬間、会議室がざわめいた。

ヒア・ウイゴー。肥後勝弥が経営陣にいる会社。多くの芸能人を抱え、今最も勢いのあるイベント制作もできる芸能プロダクションでもある。


伊藤の顔がひきつる。

「……ヒア・ウイゴーも?」

「そう。スゲェ企画を用意してる。でもまあ君たち広報チームが本気を出せば、十分勝負できる。外部のプロたちに負けるとは思っていないよ」


肥後は笑顔のまま言った。

しかしその笑顔の奥には、明確な挑戦があった。

──この企画は、遊びじゃない。

──命をかけるプロジェクトだ。


伊藤は、うなずきながらも視線を落とした。

自分の"社交的な明るさ"が、いまこの場では何の武器にもならないことを悟ったのだ。


「……了解しました。検討します」

その声には、もう軽さはなかった。


肥後はゆっくりと会議室を見渡し、満足げに頷いた。

「いいね。みんなの意見、全部必要だ。Q-pullの本当の力を見せてもらうよ」


窓の外には、午後の日差しに霞む東京タワー。

その赤が、まるで次の戦いの“狼煙”のように見えた。



ーー(まかな)いのおばさんーー

会議室の熱気が少し落ち着いたところで、今度は人事部管理課の片山がゆっくりと手を挙げた。

片山は五十代、社内食堂を任される管理栄養士であり、穏やかで落ち着いた風格の女性。

柔らかい微笑みを浮かべ、誰からも「賄いのおばさん」と呼ばれる、社内の頼れるリーダーの一人だ。


「あのー……増員とかあるんですか?

昼だけの準備なら今の人員でどうにかなるんですけど、夕食が増えるなら、少し調理師を増やしていただきたいんですけど」


自然に投資=人員増という計算を頭の中でしている様子は、長年の経験が裏打ちしていた。

肥後はにっこり笑い、片山のほうを向いた。


「いつも美味しいメニューを用意してくれてありがとう。オレもQ-pullに来たときは必ず頂いているんだ。片山さんの役割は本当に重要だ」


会議室のスクリーン横には、社員食堂のフロアの写真が映し出される。

Q-pullは社員の健康管理と福利厚生の一環として、社内食堂をワンフロア借りていた。


「正社員の増員はまだ先だけど、派遣社員や関連企業の利用は増えるだろうな。勤務形態がバラバラだから、サーバー運用の委託先要員が増えると、シフト勤務に合わせて夕食はもちろん、朝食もモーニングサービス程度の提供が必要になる。食堂職員も非常勤も含めて増員になるかも……片山さん、無理させちゃうかな?」


片山は肩の力を抜いて笑った。

「前もっていって頂ければ大丈夫なんですよ。退職者の方が、賄い食堂のバイトしたいってお話、結構いただくの。調理師試験を受けたくて給食施設で週4日、6時間勤務。1日50食以上の調理実績の証明が必要だとか。皆、勉強意欲ありますよね」


さらに片山は少し眉をひそめながらも、慣れた調子で付け加えた。

「でも、福利厚生費の範囲だから、月3500円の補助しか使えないの。だから原価が厳しいのよね。でも、利用者が増えれば食材を大量に調達できるから、原価も下げられる。だからぜひよろしくお願いします」


肥後は立ち上がり、両手を広げて声を響かせた。

「聞いたか、みんな! いつも美味しいランチを作ってくれる片山さんに感謝しよう! 全員、起立!」


50名のリーダーたちが一斉に立ち上がる。

肥後も、上田社長も、片山のほうに向き合い、深く頭を下げる。


「いつもおいしい食事を、ありがとうございました!」


全員の声が重なり、会議室の天井に反響する。

片山は軽やかに頭を下げ、穏やかに微笑む。


「いいんですよ! それより、増員や利用時間の追加があれば早めに教えてくださいね。働く皆さんにご満足いただけるメニューを、これからも作ってまいります」


その礼の深さに、会議室の空気が一瞬だけ柔らかくなる。

50人の精鋭たちの目には、数字や戦略だけでは測れない、企業の“温かみ”が確かに映った。


肥後は心の中で小さく呟いた。

(この人……頼れるな。数字だけじゃなく、人もちゃんと見てる。俺のやりたいこと、理解してくれそうだ)


そして会議は、再び次の議題へと進んでいった。


会議室の熱気が少し落ち着き、片山への感謝の場面が終わると、

高層階の窓から差し込む午後の光が、机の上の資料を淡く照らした。


上田孝之社長が、肥後の肩越しにそっと囁く。

「肥後ちゃん、どうよ。Q-pullって、いいだろ?」


肥後は肩をすくめ、目線をわずかに床に落とす。

机上のグラフや資料ではなく、会議室の若手リーダーたちの表情を素早くスキャンする。

その目が、熱意と覚悟に満ちていることを捉える。


小声で、だが誠意を込めて返した。

「予想以上に熱いですね。上田さんの組織力は、さすがといったところですな」


上田社長は微かに目を細め、満足そうに頷いた。

肥後の口調に、信頼と感嘆が滲んでいた。

会議室のざわめきの中でも、二人だけの静かな理解がそこにあった。


窓の向こうの東京は、静かに夕方に向かって色を変えていく。

だが、室内の空気は熱を帯びたまま。

この午後、Q-pullという組織が見せた“熱量”は、確かに二人の間で共有されていた。



ーー天城の要塞へーー

東京郊外の街路を、1台の黒塗りの車が静かに進んでいた。

目的地は、都心から遠く離れた山間のVIP老人ホーム

ハンドルを握るのは楠木匡介。警備会社出身の切れ者営業マンの落ち着いた手つきは、安定感と自信を漂わせている。


助手席には田中オフィス京都本社から派遣された、若手行政書士の伊原隆志。

やや緊張した面持ちで、窓の外を眺めながらも、心のどこかでこれからの任務に期待している様子が見える。


後部座席には、高柳久美子と河村亮が並ぶ。

高柳は元N通信プログラマーで、現在は地方農業の自動化システム研究に従事。理知的な目が外の景色を鋭く分析している。

河村はRシステムのSE。半田や珠実から“サイバーセキュリティーの師匠”と呼ばれるほど、冷静で落ち着いた人物だ。


楠木が口を開いた。

「頼もしい助っ人で助かりました。田中オフィス京都本社から人を遣してくれるということで、半田くんや奥田さんだったらどうしようかと思っていましたよ。伊原さんでよかった」


助手席の伊原は、やや照れたように笑う。

「いやあ、自分なんかお役に立てるのかと……。佐々木恵さんからも『楠木さんのこと、よろしくお願いします』といわれてきました。まさか、暴力団事務所にカチ込みでもするんですか?」


楠木は軽く笑った。

「そんなことにはならないと思いますが……。後ろの高柳さんを女性一人で交渉に行かせるのは、少し危険かなというところです。万が一のためです」


後部座席から高柳が落ち着いた声で返す。

「わたし、そんなヤワじゃありませんよ。でも、冷静な判断ができないと困るので、楠木さんたちがいてくださると安心です」


車内には短い沈黙が流れる。外の景色が高速道路の光に反射し、窓ガラスに淡い街灯が映る。

河村は小さく頷き、資料をちらりと確認する。高柳の隣で、緊張と期待が入り混じった空気を感じ取っていた。


楠木は視線を前方に戻し、ハンドルに力を込めた。

「では、天城の要塞へ向かう。我々は説得が目的だ。冷静に、しかし確実に進めよう」


車は郊外の街道を滑るように進む。

誰もが、それぞれの覚悟を胸に、これから始まる交渉の場面を思い描いていた。



ーー思案のドライブーー

黒塗りの車は郊外の街道を滑るように進む。

窓の外には、低く茂る樹木と、間に見える遠くの住宅地。日が傾き始め、空が淡いオレンジ色に染まっていく。


車内は静かだった。伊原は手元の資料を何度も確認し、軽くノートにメモを取る。

河村は淡々と、だが目を光らせて周囲の情報を頭に入れている。

後部座席で、高柳は視線を遠くに飛ばしながらも、車の振動や街路の変化から、建物の位置や地形を即座に把握していた。


「楠木さん……」高柳が小声で口を開いた。

「万が一、交渉が長引いた場合は?この話し合いにはそもそも妥協点がありません」


楠木は視線を前に固定したまま答える。

「正確には読めない。ただ、決裂したら撤退だ。相手もおとなしく返すはずはない。万が一に備えて撤退ルートは複数確保してある。河村にも確認済みだ」


河村が頷く。

「建物周囲には監視カメラも多いですが、侵入ではなく交渉ですので問題なし。人の流れもデータにある。天城相談役には所与の条件でお出まし願うしかありません」


助手席の伊原はやや緊張した面持ちで、ふと後ろを振り返る。

「……でも、天城さんですからね。説得なんて簡単じゃないでしょう」


高柳が静かに笑った。

「私もそこは覚悟しています。でも、冷静に論理的に話せば道は開けるはずです」


楠木は、ふと肩越しに後部座席を見た。

「そうだな。冷静さが一番の武器だ。感情に流されるな。相手の出方をよく見ろ」


車が郊外の広い道から、やや狭隘な私道へと曲がる。

塀に囲まれた敷地の奥、樹木に隠れるようにして巨大な建物が見え始めた。

天城の邸宅──いや、要塞と呼んでも差し支えないほどの威圧感がある。


「着きました……」楠木が静かに告げる。

窓越しに見える石造りの塀、無数の防犯カメラ、そして門扉の向こうに広がる広大な敷地。

車内の緊張が、一気に高まる。


高柳は小さく息を整え、背筋を伸ばした。

「予想以上に武装された施設ですね。一度入ったら出てこられないような気がします」


伊原は深呼吸し、拳を軽く握った。

「……いよいよですね」


楠木はハンドルを握ったまま、前方の門扉を凝視する。

「では行こう。外見の威圧に惑わされるな。俺たちは説得に来たのだ。冷静かつ確実に」


車はゆっくりと門の前に差し掛かる。

誰もが、これから始まる交渉の緊張を体中で感じていた。

天城の要塞──その門の向こうに待つのは、揺るぎない意志を持つ男、天城正綱。


午後の光が建物の石壁に反射し、車内に鋭い影を落とす。

呼吸を整え、覚悟を決めた四人。

静かな緊張が、車内を支配していた。


天城邸の重厚な門を抜けると、広大な庭の向こうに石造りの建物がそびえ立っていた。

応対に現れたのは、小柄な男性。胸元には「介護福祉士」と書かれたネームプレートが光っている。

その意外な姿に、車内の四人は一瞬だけ互いに目を見合わせる。


河村が前に出て、落ち着いた声で話しかけた。

「私たちは、本日天城相談役とお会いするために参りました。事前に伺いを立てています」


男性は小さく頷き、少し微笑むと建物の入口に向かって手を広げた。

「では、入室前の手続きにご協力ください」


幸いなことに、海北会長が先に館内に入っており、秘書の男性も控えていたため、天城相談役は安心して河村たち三人の同行を認めたという。

それを確認した河村は、軽く頷き、四人を案内する。


入り口でのチェックは厳重だが、必要最小限に抑えられていた。

男性三人はボディチェックを受け、高柳には女性職員が丁寧にバッグの中身を確認するだけで済んだ。


高柳は微笑みながらも、手順を冷静に受け入れる。

(警備の厳しさは想定内。でも、緊張しすぎても無駄ね……)


四人は手続きが終わると、深呼吸を一つずつ整えながら、邸内へ足を踏み入れた。

静かな廊下の奥に、これから対峙する天城相談役の姿が待っている。


重厚な扉の取っ手が、秘書の手で静かに回された。

その瞬間、部屋の奥から微かなモーター音が響く。電動車椅子に乗った天城相談役が、ゆっくりと姿を現した。

白髪をきちんと撫でつけ、落ち着いた微笑を浮かべている。その背筋には、年齢を感じさせぬ品格が漂っていた。


すぐ後ろから、海北会長が歩み出る。姿勢を正し、主を守るようにその肩に手を添える。


「ご苦労だったな、河村くん」

穏やかな声に、河村は深く一礼した。

天城は続ける。「話は伺っているよ。今日は高柳くんや楠木くんまでお会いできるとはな。お二人とも、お達者でしたか」


楠木が一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。

「天城様、ディスクをお返しして以来ですね。お元気そうで、なによりです」


老人は軽く左手を上げて笑う。

「いやあ、あのときは失礼した。ああいうふうにボケたふりをしていないと、社内のネズミを駆除できなかったのでな」

その言葉に場の空気がわずかに揺れた。冗談とも真実ともつかない響きが残る。


天城はゆっくりと車椅子を旋回させ、高柳のほうへ顔を向けた。

「久美子さんも、ディスクをお返しいただいたとき以来ですね……つくづく、因縁のディスクということだな」


高柳は静かに頷き、目を伏せた。あのときの緊迫した空気が一瞬、胸の奥によみがえる。


天城は再び車椅子を動かし、河村の前に止まった。

老人の目には、長い年月を経てなお鋭さを失わぬ光が宿っている。


「失敗したのはしょうがない」

低く、しかし温かみのある声だった。

「次の手を打ちなさい。他の場所もあると言っていただろう?」


河村は深く頭を下げ、短く答える。

「はい。その件につきましては、再度同じ場所で再開できる運びとなりました」


その言葉に天城は一瞬怪訝な表情をみせたが、すぐ満足げに頷き、海北会長と視線を交わした。

部屋の空気が、ゆるやかに緊張から対話の静けさへと変わっていった。


高柳久美子が意を決して話始める。

「天城さま、ご心配には及びません。同じ場所でJuris Worksの復活ができます。

青と白のディスクはそのために”田中オフィスTokyo”でお預かりしております。


天城老人は驚きを持って高柳久美子を見つめた。



ーー要塞の静寂が裂けたーー

高柳久美子の声は、静かながらも凛とした響きを放っていた。

「Juris Worksの復活手順については、装備条件が不足しております。あの白いディスクは、“天城を名乗る者”に渡してくれと天城利綱様から伺っていました。ですから起動時にパスワードの入力を求められたとき、それはAMAGIと入力する――つまり、天城の人間にしか使えないという謎は解けたのですが、更に条件がありました」


天城正綱は眉をわずかに動かし、まるで亡霊を見るかのように高柳を凝視した。

「パスワードだけでなく……一族の同席が必要だと?」

「はい。つきましては、天城相談役と海北会長お二人に、田中オフィスTokyoへお越しいただきたいのです」


一拍の沈黙。

そして、老人は呵々と笑った。だがその笑いには、冷たい棘が潜んでいた。


「河村、これが今回の仕事の“始末”か? ……もういい。もうひとつ選んだ別の場所でJuris Worksの再演を行え。先方に知られては困るだろう」

老人の指が、肘掛けに隠された赤いボタンを押し込んだ。


――カチリ。

わずかな音ののち、重い扉が開く。


入ってきたのは三人の男。介護職員の制服を着ているが、その体つきは兵士に近い。胸の名札がまるで偽札のように見えた。

天城は冷然と命じた。

「三人を別室にお連れしろ」


刹那、空気が爆ぜた。


「伊原さん、高柳さんを守ってください!」

楠木の声が鋭く響く。次の瞬間には、もう彼の体は動いていた。


先頭の介護士が腕を伸ばす――それより速く、楠木は踏み込み、相手の脚を払って大外刈り。重い体が床を滑る音が響いた。

もう一人が横から掴みかかる。楠木は身をひねり、その手をすり抜けざま掌底を突き上げた。鈍い衝撃音、相手の頭がのけぞる。さらに腹へ膝を叩き込み、二人目が崩れ落ちた。


「やめろ! 落ち着け!」河村の制止も届かない。室内はすでに戦場だ。


高柳に迫る最後の介護士に、伊原が体を張って立ちはだかった。

大柄な体を投げ出すようにぶつけ、肩を掴み、全体重を乗せて押し倒す。床に倒れた相手の腕を抑え、馬乗りの姿勢で封じ込める。荒い息と床の軋みが重なった。


天城老人は目を細め、冷たく命じる。

「海北、警察に連絡しろ! 狼藉者を突き出してしまえ!」


しかし――海北利景は、動かない。

静かに天城の方へ歩み寄り、頭を垂れた。


「天城様……狼藉を働いているのは、私たちです」


その瞬間、室内が凍りついた。


天城は車椅子の手すりを握りしめ、怒気を含んだ声で言い放つ。

「介護職員が倒されている! 暴力を振るうのは奴らだ!」


それでも海北は動じなかった。静かに、高柳へ向き直る。

「非礼をお許しください。私が、必ず天城様を田中オフィスTokyoにお連れします。……ですから、高柳さん――Juris Worksの復活を。そして利綱の姿を、もう一度見せてください」


深々と頭を下げる海北の姿に、室内の全員が息を呑んだ。

倒れた男たちの呻き声だけが、要塞のような部屋に反響していた。



ーー決別の間ーー

すべては、決したようであった。


倒れた介護士たちのうめき声が遠のくと、天城正綱はしばらく口を閉ざしたまま、深く腰掛けた車椅子の肘掛けを握りしめた。

その指は、長年の年月を耐え抜いてきた樹の根のように震えていた。


「……なんということだ。ここまで築き上げた計画が……。利綱の無念を、晴らせないというのか」


その声には怒りよりも、深い絶望が滲んでいた。

老人の目には、亡き孫・利綱の面影がよぎっていた。

夢に見た革新の理想、志半ばで倒れた青年――あの透き通るような眼差しが、今また目の前に重なっていく。


やがて、静かに歩み寄った高柳久美子が、膝を折った。

彼女の服の裾が床に触れる音さえ、張り詰めた空気を震わせた。


「天城正綱様……」

高柳は深く頭を垂れ、震える声で言葉を紡ぐ。

「天城利綱様の――真のお志を、お伝えすることが、私に課せられた使命だとわかりました。どうか……田中オフィスへお越しください。お願い致します」


そう言って、彼女は静かに手を伸ばした。

女性の手とは思えないほど節くれだった指先が、老人の皺に覆われた手にそっと触れる。


その感触に、天城の脳裏に一瞬、幼い頃の記憶がよみがえった。

貧しい家で、朝から晩まで働きづめだった母の手。

ひび割れ、荒れてはいたが――それでも子を撫でるときは、いつも不思議なほどにあたたかかった。


その記憶と重なるように、今、目の前の若い技術者の手から伝わる熱があった。


――温もり。


冷え切っていた掌の奥に、確かに血の流れを感じた。

かつて利綱が語った夢。

それは、途絶えたと思っていた志が、形を変えてこの若き技術者の中に息づいているという確信となって、天城正綱の瞳に再び光を灯した。


「……おまえが、利綱の“志”を継ぐというのか」

老人の声は、かすかに震えていた。


高柳は、涙を堪えながら首を縦に振った。

「はい。私は、あの方の信じた未来を見届けます。そのために、あなたのお力が必要なのです」


長い沈黙。

天城老人は、静かに目を閉じた。

やがてその唇が、深い溜息とともに動く。


「……利綱。おまえの選んだ者が、ここまで私を導くとはな」


そして、ゆっくりとその手を高柳の手に重ねた。

老いの象徴だったその掌が、今は確かな意志を宿していた。


「……行こう。利綱の真意を、この目で確かめに」


その言葉を聞いた瞬間、河村も、海北も、伊原も、静かに息を吐いた。

長い夜が、ようやく明けようとしていた。

ーー続くーー

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