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田中オフィス  作者: 和子


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第八十五話、新しい米造り(後編)

ーー降魔の刻ーー

――錦糸町・田中オフィスTokyo。

午後六時をまわっても、ラヴィ・シャルマは机から離れようとしなかった。

蛍光灯の光の下、彼の指先はまだキーボードの上をゆっくりと動いている。


ドアの向こうから足音が近づき、水野所長が顔をのぞかせた。

「ラヴィさん、定時で業務終了。お願いしますよ。

お客さんの決算書作成が集中する時期は、いずれ残業をお願いしなきゃならないんですから」


ラヴィは顔を上げ、少し考えるように眼鏡を押し上げた。

「今日は――Integrate Sphereの定期点検の日です。

私も立ち会ったほうが、いいのではないでしょうか?」


水野は軽く笑みを浮かべて首を振った。

「今日は点検だけですから、次回はお願いしますよ。今日はもう上がってください。

ご家族が待ってますよ。たぶん、イヴリンさんとアバスくん、隣の“ヒア・ウイゴー”で待ってるんじゃないですか?」


「……そうですか」

ラヴィは、苦笑いを浮かべながらも、まだ目の前の書類を手放さなかった。

机の上には、佐藤美咲が突貫でまとめた『ネコタ知財管理システム』の設計書が開かれている。


「佐藤さん、忙しい中でこれだけの設計をまとめてくれました。

その努力に、応えなければいけません」


水野は腕を組み、少しだけ肩をすくめた。

「たしかに。でも、ちょっと大掛かりですよね。

市販のシステムをカスタマイズしたほうが早いかもしれません」


するとラヴィの目が、途端に若々しい輝きを放った。

「いーえっ! この程度のシステム構築は、若い頃からさんざんやってきました。

もう、私の頭の中にはモジュールが組みあがっています!」


その勢いに、水野は思わず笑った。

「……倉持さんにもスケジュール割り当てがありますからね。

でも、ラヴィさん、徹夜仕事、好きでしょう? 昔は社内泊とか、よくしてたんじゃないですか?」


「はい。何日もヒゲも剃らないで、掛かりきりでした。

集中すると、止まらないんですよね」


「ふふ、でも今は違いますよ。

イヴリンさんと家事の当番、決めてるんでしょう?

あんまり遅く帰ると――鍵、閉められちゃうかもしれませんよ」


「ああっ!」

ラヴィは我に返ったように声を上げた。

「それは困ります! 水野所長、一人で頑張らないでくださいね。

私の分、残しておいてくださいよ。じゃあ――お先に失礼します!」


そう言って、鞄を手に立ち上がり、慌ただしく出口へ向かった。

扉が閉まると、静寂が戻る。


水野は、彼が座っていた椅子を一瞥し、穏やかに笑った。

「……まったく、熱い人だな」


時計の針は、午後六時三十五分を指している。

もうまもなく、ふたりの客がやってくる。

高柳久美子――そして、N通信の河村SEだ。


Integrate Sphereの点検が終われば、

いよいよ本格的な移行と運用が始まる。


水野は資料を整え、机の上にコーヒーカップを置いた。

その香りの向こうに、夜の帳が、静かに降りてきていた。


ーー再起の報告ーー

錦糸町の夜は、すっかり秋の気配をまとっていた。

田中オフィスTokyoの応接室には、Integrate Sphere の端末が静かに起動音を響かせている。

まもなく定期点検の刻――いわば「降魔の刻」が始まろうとしていた。


少しして、ドアが静かに開く。

「どうも、お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」

白いジャケット姿の河村SEが、高柳久美子を伴って入ってきた。


「水野所長、いつもお世話になっております」

高柳は丁寧に一礼しながらも、どこか弾むような声で言った。

「今日は先日の農業会計システムの件、ご提案いただきありがとうございました。

おかげさまで、G-progで設計を開始することが決まりまして――来春、N通信本社にプロジェクトチームが設置されることになりました」


その報告に、水野の表情がふっと和らいだ。

「それで、高柳さんは?」


「はい!」

久美子は思わず顔をほころばせた。

「内定ですが、プロジェクトチームのチーフエンジニアになるそうです。本社に戻ることになりました」


まっすぐな瞳が、嬉しさと決意をたたえて輝いていた。

沢田常務から直接「よろしく頼む」と言われたのだという。


思えば――長かった。

Juris Worksの失墜。責任の矢面に立たされ、研究所を追われた日。

僻地の山間に移り、土にまみれ、汗をぬぐいながら生きることしかできなかった。

ロバと犬と猫と鶏だけが、孤独な研究者の話し相手だった。


だが、転機は訪れた。

邑人英二――あの人との出会い。

彼と、小林親子の助けを得て、不可能と思われた「里山再生農業システム」は形になった。

データと自然、機械と人。

相反するものを繋ぎ合わせる、奇跡のような日々。


そして今、再び未来への扉が開かれた。

それを押し広げてくれたのが、この人――水野幸一だった。


「水野所長は、私の恩人です」

久美子は静かに頭を下げた。

「今日はご報告と、お礼が言いたくて……河村さんのお仕事に相乗りさせていただいたんです」


水野は少し照れたように笑った。

「それは何よりです。報告を聞けて、こちらこそ嬉しいですよ」


部屋の空気が、やわらかく満たされていく。

外では風がビルの隙間を抜け、遠くの高架を電車が走り抜けていった。

この夜、確かにひとつの“再生”が始まっていた。


失われたものを取り戻し、再び立ち上がる者たちの物語――

まるで、静かな稲穂が風にそよぎ、再び実りを迎える瞬間のように。



ーーその長き道程ーー

河村SEからも、心からの祝福の言葉が飛び出した。


「本当におめでとうございます! 車で来る途中に聞いたときは、思わずハンドルを切り間違いそうになりましたよ。いやあ、よかった! 努力は、やっぱり報われるんですね」


その声には、同じ出向者としての実感と、深い敬意がこもっていた。

河村もまた、長い間「便利屋」のように扱われながら、それでも誇りを失わずに働いてきた男だった。


思えば、どちらも――N通信を背負って立つべき実力の持ち主である。

だが、上層部の思惑の中で、はからずも左遷の憂き目に遭った。

それでも二人は挫けなかった。顔を上げ、泥を払い、再び歩き出した。


高柳久美子は、本体の新プロジェクト「クラウドF会計」へと抜擢された。

そして河村もまた、役員営業のサポート役という重要な立場を担っていた。

中小企業へのオンプレミスサーバー導入は、今やN通信の稼ぎ頭である。


コンピュータの歴史を振り返れば、まるで波が寄せては返すようだ。

――パラメトロン加算機から始まり、六〇年代後半には大企業のメインフレームが時代を制した。

やがてオフコン、ミニコンが事務処理を変え、家庭にはパーソナルコンピュータが普及した。

そして近年、クラウドがそれらを飲み込むように勢いを増した。


一見、すべての業務がクラウドに吸い寄せられていくように思えた。

だが、時代はまた静かに揺り戻しを見せていた。


社会のDXデジタルトランスフォーメーションが、流れを変えたのだ。

“コンピュータを使ってビジネスそのものを変えていく”

――そんな気概を持つ世代が育ってきた。


オンプレミスサーバーは、単なる小型コンピュータではない。

クラウドSaaSの接続拠点にもなり、社内に堅牢なDMZ(防御壁)を築くこともできる。

中小企業が持つフットワークの軽さを生かせば、独自のソフトウェア開発と運用を自社の収益に変えられる。


社員は軽量なシンクライアントPCを使い、どの現場でも同じ環境で仕事ができる。

営業先でも、工場でも、田畑でも――“働く場所が会社になる”。


河村は、そんな新しい時代の胎動を感じていた。

この国の小さな企業たちが、もう一度、自らの手で未来を掴もうとしている。


高柳久美子が、久しぶりに心の底から笑った。

その笑顔を見て、河村もまた静かに頷いた。


N通信の再生は、こうした一人ひとりの情熱から始まるのかもしれない――。



ーー河村の矜持ーー

今まさに、信念を貫いた人間の勝利を目の当たりにした。

高柳久美子の朗らかな笑顔を見つめながら、河村は胸の奥で静かに呟いた。


「"天は自ら助くる者を助く"――この言葉は、嘘じゃなかったんですね」


口にした瞬間、心の奥に熱いものが湧き上がった。

自分も、ようやく報われる日が来たのかもしれない。


「今日は、私も気持ちよく仕事ができそうです」


そう言って、河村はノートPCを開き、Integrate Sphereの定期点検の準備を進めた。

持参した工具の下に忍ばせる、白いディスクが2枚と青いディスク。


一枚の白いディスクは、最新バージョンのバグ修正パッチの格納されたディスク。業務としてはここまで、そして本題の青いディスク。

そこに格納されているのは、あの“Juris Works”――幻のプログラムだった。そしてそれに命を吹き込むための白いディスク。それはJurisの創造者・天城利綱が命と引き換えに残したもの。


彼はそっと掌でそれを撫でる。

まるで、長い年月を経て再び息を吹き返す古代の神器を扱うように。


(これでいい。間違ってなどいない)


心の声が彼を正当化する。

Juris Worksは、危険なものではない。むしろ、正しい進化の形だ。

天城利綱が引き継いだ自分の設計哲学、そのすべてが融合する――

それを再び光のもとに取り戻すだけのこと。


(確実に進める……そう、これをIntegrate Sphereにインストールすれば、

田中オフィスTokyoのサーバーは鉄壁のサイバー防御を手に入れる)


自らの胸中に浮かぶ理屈が、ゆがんだ安堵をもたらす。

彼は、それを裏切りとは呼ばなかった。


むしろ「恩返し」――そう思っていた。


田中オフィスは、自分の居場所を与えてくれた。

上からも下からも評価されず、ただ便利屋として生きてきた自分を、

田中社長や水野さんは技術者として尊重してくれた。

半田と奥田は「師匠」と呼んで慕ってくれた。


(だからこそ、最高のものを残していくんだ)


Integrate Sphereの起動画面が立ち上がる。

黒いコンソール画面に緑色の文字が流れるたびに、彼の中の迷いが削がれていった。


「性能も……おそらく、Integrate Sphereを遥かに上回る」


わずかに口元が緩む。

それは勝者の笑みではなく、赦しを乞う者のそれだった。


「お世話になった田中オフィスへのお礼にもなる。これで、いいんだ」


静かな夜のオフィス。

遠くで鳴るサーバーファンの低い唸りが、まるで“降魔”の刻の太鼓のように聞こえた。


河村の指が、手順を進めていく。


その一瞬、彼の中で「正義」と「裏切り」の境界は、完全に溶けていた。


――河村SEの眼差しは、誰にも気づかれぬまま、一瞬だけ冷たく光った。


***

以前、オフィスTokyoのシステム稼動開始日に、竹中顧問のセミナーに参加して歓談した後、

「来月の点検時に、サービスパックをインストールします。」

あくまで事務的な口調で告げながら、彼の心の奥底では別の計算が進んでいた。


彼だけが知っているのだ。

それは、Integrate Sphereの安定環境に「Jurisの青いディスク」をジョイントする計画。


Juris――その名は、法と秩序を意味するかのように静かに響くが、その実体は、システムの根幹を書き換える深遠なプログラム群だった。

表向きには存在が隠され、関係者の中でも知る者は限られている。

今や河村は、そのディスクの扱いを託された唯一の技術者だった。


その青い光沢は、まるで深海に沈んだ秘宝のように妖しくきらめく。

ただの更新ファイルではない。

それをIntegrate Sphereに接続すれば、既存の機能は飛躍的に拡張し、新しい次元に踏み込む。


――だが、それは同時に「不可逆」の一手でもあった。

青いディスクを導入すれば、もはや元の安定環境には戻れない。

樹木が芽吹き、やがて大樹へと変わるように、システムは未知の進化を遂げる。

だが、その果実が甘美か、毒かは、まだ誰にも分からない。


河村はタブレットを閉じ、静かに微笑んだ。

「とりあえず現在の機能でご利用ください」――そう言った自分の声が、ほんの少しだけ嘘を含んでいることを知りながら。

***


――点検日が訪れ、今彼の手には、薄いケースに収められた青と白のディスクが、ひっそりと忍ばされていた。



ーー高柳の一言ーー

「まず、Integrate Sphereの不具合を修正するパッチをインストールしないと……」


河村は、静まり返ったサーバールームで独りごちた。

手元のケースから慎重に取り出した白いディスク。

それは"Juris Works"の封印を解く鍵の白いディスクではなく、まず環境を正常に整えるための修正パッチディスクであった――まずこれを先にやらないと、この後の重要な作業ができない。


――その瞬間。


「……あら、懐かしい。」


背後から、柔らかな声。

振り向くと、そこには高柳久美子がいた。

髪を軽く揺らしながら、彼の肩越しに手元を覗き込んでいる。


「それ、私がずっとお預かりしていた“白いディスク”ですね。

天城チーフにこれを託されて……ずっと、肌身離さずお守りしていたんです。」


一瞬、空気が止まった。

河村の喉がかすかに鳴る。

手の中のディスクが、不意に重く感じられた。


(見つかった……? いや、落ち着け、幸いこれは修正パッチディスクだ。勘違いしているな。)


「いや、これは……」

声が震えた。

「これは新バージョンのバグを補正するパッチディスクですよ。

Jurisのディスクじゃ、ありません。」


――言ってしまった。

"Juris"という単語を。

その瞬間、河村の胸の奥で何かが崩れる音がした。


(口がすべった……! 今日の計画は、もうダメか?)


逃げ道を探す思考がぐるぐると渦を巻く。

それでも手を止めるわけにはいかなかった。

――知らん顔して進めるか。


だが、その刹那。


「次回のために、青と白のディスクは置いていってください。」


低く、しかし確信に満ちた声。

水野所長だった。

いつの間にか、入口に立っていた。


「ちゃんと、インストールさせてあげますから。」


(……わかっている?)


河村は、目の前の光景が霞んで見えた。

水野の表情には怒りも焦りもない。

ただ、すべてを見通しているような静けさがあった。


(このひとは……こうなんだ)


もう何手も先を読まれている。

自分は駒にすらなれていなかった。

――日の光を浴びない人間。

そんな言葉が胸の奥に浮かんで、痛みになった。


(俺は結局、主役になんてなれなかった。

身の程知らずの夢を見てただけ、か……はは)


苦笑が、ため息に溶けた。


彼はゆっくりと立ち上がり、青と白のディスクを取り出す。

両手で包み込み、まるで供物のように差し出した。


「……天城家の無念を晴らすお手伝いが、私に課せられた仕事だと思っていました。」


それは懺悔にも似た声だった。


「少しばかり、弁明をさせていただけますか?」


沈黙が落ちる。

サーバーのファン音だけが、低く鳴り続けている。


水野はその沈黙の中で、目を逸らさずに言った。


「それより、私はあなたの力を必要としているんです。」


静かで、強い言葉だった。


「あなたの仕事は――情報戦争の報復ではありません。」


河村の胸を、その一言が貫いた。

目の奥が熱くなり、何かが音を立てて崩れていく。


己の矜持も、過去への執念も、

すべてが、その一言で“無力な祈り”に変わった。


白いディスクが、静かに机の上に置かれる。

その光沢が、まるで「(あがな)い」の象徴のように冷たく輝いていた。



ーーあなたの助けが必要ですーー

サーバールームの冷たい空気の中で、水野所長は動かなかった。

ただ、目の前に立つ河村SEをまっすぐに見つめていた。


その視線には、責める色も怒りもなかった。

ただ、静かに、確かに――信頼だけが宿っていた。


河村の脳裏に、あの日の京都が蘇る。


まだ「Integrate Sphere」が世に出たばかりの頃。

導入第一号として田中オフィスに納品されたその日、

彼はまるで研究者のような熱意で機器の仕組みを説明して回った。

若手スタッフが目を輝かせながら質問を浴びせるたびに、

河村は笑い、何度でも同じことを繰り返し教えた。


そして、その日の終わりに――こう言ったのだ。


「人が考えて、工夫して、動かすものが“仕組み”です。

仕組みを磨くより、人を育てるほうがずっと価値がある。

人が育てば、会社は自然に強くなりますよ。」


その言葉どおり、彼はサービスの枠を超えた。


週末を返上してセキュリティ講習を行い、

不審メールやアクセス権限の管理まで、分かりやすく、楽しく社員に浸透させた。


結果、田中オフィスの社員たちは変わった。

情報を扱う意識が格段に上がり、

クライアントにIT導入を提案できるまでに成長した。


――中小企業とは思えない。

そう評されたのは、その努力の結晶だった。


その"文化"を作ったのが、ほかでもない目の前の男。


(ただのメンテナンス要員、そんなはずはないでしょう……)


水野は心の中でつぶやいた。

そんな肩書きでは、この人間の価値は語れない。

田中オフィスに立ちはだかった幾多の難題――

サーバー障害は落ち着いて難なく回復

「手順を確実に踏んでいけばなんともありません」と意にも介さない。

セキュリティインシデント、はたまた顧客の謎を解く探偵顔負けの推理。

そして企業間交渉にまで及ぶデジタルリスク対応力。


その一つひとつを、河村は類まれな推論と冷静な判断で解きほぐしてきた。

時に現場の誰よりも速く、的確に。

彼の中には「技術者」ではなく「参謀」としての風格があった。


だからこそ――。


「あなたの助けが、必要なんです。」


水野の声が、静寂の中で響いた。


その声音には、一片の迷いもなかった。

目の前の男を「赦す」でも「利用する」でもない。

「信じている」と告げる、真っすぐな意思だけがあった。


河村は一瞬、言葉を失った。

胸の奥で、何かが崩れ、同時に解けていく。

それは後悔でも、罪悪感でもない。


――救済。


そんな言葉がふと浮かんだ。


水野は続けた。


「あなたがいなければ、Integrate Sphereも、

Juris Worksも、そして私たちの仕事も、

前には進めません。」


ゆっくりと、河村の手元を見た。

そこには青と白のディスクがある。

その光沢に、過去と未来の狭間が映り込んでいた。


河村は唇を噛みしめた。

長い間、復讐と正義の狭間でもがき続けた日々。

だが、いま――その輪郭が、ひとすじの光で照らされた。


「……水野所長。」


ようやく、その声が絞り出された。


「私が……何かをできるんですか?」


水野はわずかに微笑んだ。


「"あなた"じゃなきゃ、駄目なんですよ。」


静かに頷いた瞳には長いこと忘れていた涙があった、

無慈悲な左遷でも涙も怒りもなく、自分が選んだ企業に対する哀れみぐらいしかなかったのに、

河村の瞳の奥に

久しく見えなかった“技術者の誇り”の炎が戻っていた。



ーー道標は目の前にーー

いずれにしても、綿密に組まれた謀はあえなく(つい)えた。

この点は、敗北であることは誰の目にも明らかであった。


「何から……お話したらいいですか? それとも、すでにすべて調べがついているんでしょうか」


河村は観念したように、青と白のディスクを両手で包み込み、そっと水野の前に差し出した。

その手がわずかに震えていたのは、後悔なのか、安堵なのか――。


水野所長は、静かにそれを受け取りながら言った。

「すみません、タイミングが難しかったので、すぐに高柳さんに動いてもらいました。

……高柳さんプレッシャー、すごかったでしょう?」


その声には高柳に対する労いの温かさがあった。

水野が視線を向けると、高柳久美子は小さく笑ってうなずいた。


「ほんとに、場合によっては河村さんの腕を掴むつもりだったんですよ。

でも、無事に済んでよかった」


その言葉に、張り詰めていた空気がようやく緩む。

河村は、乾いた喉を潤すように息を飲んでから、静かに言葉を返した。


「あの……もし警察に連絡するのなら、その前に、お二人に事情を説明しておきたいんですが」


水野はその言葉に、少しだけ眉を上げた。


「なんですか、警察って。何か犯罪が行われたわけではありませんよ」


河村は、力なく笑った。

「そう言っていただけるのは、ありがたいのですが……勝手にソフトウェアを書き換える行為は、

“不正指令電磁的記録に関する罪”(刑法第168条の2)に該当します」


その声には、技術者としての自負と、知っていて法を侵したという自覚の両方が滲んでいた。


水野は、青いディスクを指先で軽く持ち上げ、光の反射を眺めながら言った。


「白いディスクの機能は、そのままではJurisのバックアップ――つまりこの“青”の復元はできませんよ」


「……どういうことですか?」


「青をインストールし、次に白を入れる。そして再起動時にパスワード“AMAGI”を入力する。

天城の人間にしか使えない設計――そこまでは想定済みです」


水野の声は静かだったが、河村の目が見開かれた。

「それでも動きません。Juris Liteの3体がネットで接続されていないと、

本体は反応しないのです。

それが揃って初めて、“あなたたちの期待するような攻撃力のあるセキュリティ”が実装できる」


河村の頭の中で、過去の断片が音を立ててつながっていく。

天城の研究室、閉鎖前の夜、Juris Liteとしての天城、海北、河村のそれぞれのスマホに宿された“リトル・ガーディアン”――

そう、あの小鬼たち。


――確かに、あの三体を従えていない限り、Jurisは牙をむかない。

検証が不十分だったということか……。


そして、ようやく彼は悟った。

自分が仕掛けたはずの道筋の先に、すでに道標は立っていたのだ。

それを指し示したのは、他でもない――水野幸一という男だった。



ーー復活は次の機会にーー

水野所長の声は、落ち着いていながらも、空間の温度を変えるような力を帯びていた。

河村は差し出した手を中空で止め、思わずその言葉の続きを待った。


「河村さんたちの目指した“Juris Works”の復活を見るためには、

この場に関係する人々が――すべて、集まっていただく必要があります。」


その一言で、室内の空気が再び張りつめた。

高柳久美子は、静かに息を呑み、目を伏せる。

河村は視線を泳がせたまま、口を開けずにいた。


水野は、ゆっくりと机の端に手を置きながら続けた。


「河村さん、あなたには本来の作業――Integrate Sphereの修正パッチをあてる作業を続行してもらいます。

それだけは済ましておかないと次のステップに進めません」


「……はい。」

小さな声だったが、確かな覚悟がにじんでいた。


「そして――天城の関係者を、こちらに連れてきてください。」


その言葉に、河村の表情が変わった。

驚きと戸惑いが入り混じったような、複雑な陰。

だが、水野のまなざしは、逃げ道を与えないほど真っ直ぐだった。


「私たちは、この事件に関わったすべての人たちに呼びかけます。

そこで、河村さんにお願いしたい“次の仕事”を説明したいと思います。」


沈黙が流れた。

窓の外で、東京の夜が遠く光を放ち始める。

Juris Worksの“復活”は、まだその時を待っていた。


それは、再生のための試練であり、贖罪のための第一歩でもあった。



ーー天城のもとへーー

「……天城老人の説得が、難しそうです。」

河村は静かに(うつむ)き、手の中のディスクを見つめていた。

「私は使命を果たせずに帰還し、しかも――青と白のディスクを渡してしまった。」


その声には、自責と恐れが滲んでいた。

怒髪天を突く天城正綱の姿が、まざまざと脳裏に浮かぶ。

長い沈黙ののち、彼は深く息を吐いた。


そのとき、高柳久美子が一歩前に出た。

その目には、確かな決意の光が宿っていた。


「天城様の説得は――私に任せてください。」


河村が顔を上げると、彼女は静かに続けた。


「前に一度お会いした時、亡くなられたお孫さんの話を、一晩中語り合いました。

あの方の心には、まだ“希望”が残っています。

今回も、きっと話を聞いてくださると思います。」


その声には、柔らかさと強さが同居していた。

失われた信頼の橋を、彼女なら架け直せる――そう思わせる不思議な力があった。


河村はしばらく言葉を失い、そして深々と頭を下げた。


「……すべて、お任せいたします。

天城様のもとへ、私がご案内します。」


静かに、確かな約束が交わされた。

それは、過去の贖いではなく、未来への誓いだった。


すべての道は、いま定まった。

そして――来るべき“時”が訪れるとき、

その道は、関わるすべての人々に、

新しい光と、確かな未来を見せることになるだろう。

ーー続くーー

作者より


今回で、物語はついに「エピソード100本め」を迎えました。

ここまで読み続け、支えてくださった読者の皆さまに、心より感謝申し上げます。


登場人物たちが紡いできた日々は、私にとってもまた新しい旅の記録でした。

そして――この物語は、まだその終着点を見ていません。

これからも一つひとつの章に想いを込め、皆さまと共に歩んでまいります。


本当に、ありがとうございました。

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