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血字の残響  作者: さば缶
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エピローグ

 数日後、事件の中心であった墨谷家古文書館は完全に封鎖された。

古い石碑と禁字が記された巻物は、再び地下の奥深くに収められ、人の手が届かない場所へと戻されることとなった。

報道陣が一時騒然としたものの、事件の詳細や禁字の存在が表に出ることはなかった。


 墨谷諒一は、すべてを終えた後、自らの工房に戻り、日常の静謐な空間へと帰ってきていた。

墨の香りが漂う室内。

硯にゆっくりと水を垂らし、筆を手に取ると、諒一は白紙に一文字を書き上げる。


「静」


 真っ黒な墨の線が、紙の上でしっかりと息づいているように見えた。

その一字には、争いと混乱を鎮め、平穏を求める静かな願いが込められていた。


「……いい字ね」


 工房の引き戸が開き、橘明子が姿を見せた。

明子は扇風機の風に髪をなびかせながら、薄暗い室内に足を踏み入れる。


「刑事さん、もう来ないと思っていました」


 諒一が淡々とした声で言いながらも、どこか柔らかな表情を見せる。

明子は工房の中心に立ち、並べられた書の数々を見渡した。


「落ち着く場所ね。ここにいると、あの事件のことが嘘みたいだわ」


「そうでしょうね。――けれど、あの事件は現実でした。『魑魅魍魎』から始まった一連の流れが、どれほど多くの命を巻き込んだことか……」


 諒一が筆を硯に戻し、静かに続けた。

「叔母さんは、禁字に囚われた人でした。でも同時に、墨谷家が背負ってきた過去そのものでもあった。彼女が犯した罪は許されないものです。それでも――彼女の心の奥には、禁字を穢した者たちへの怒りと、墨谷家の『呪い』を終わらせたいという想いがあったんです」


「呪いを終わらせるために、命を奪った……皮肉な話ね」


 明子は小さくため息をつき、諒一を見つめた。

「でも、あなたは違う道を選んだ。あの時、『静』を書いて全てを収めた――あれは、あなたにしかできないことだったんじゃないかしら」


 諒一は一瞬だけ目を伏せ、再び顔を上げる。

「僕は、叔母さんの想いが間違っていると分かっていました。でも、それを否定するだけでは何も変わらない。言葉は力です――だからこそ、最後に必要だったのは破壊でも解放でもなく、『静けさ』だった」


「静けさ、ね」


 明子は書き上げられた「静」の字を見つめ、その筆の流れに思いを馳せる。

あの石碑の前で感じた狂気と禍々しさが、今はまるで遠い過去のもののように感じられる。


「……結局、あの禁字たちは何だったのかしらね。力の象徴? それとも、ただの文字?」


 諒一は微笑んだ。

「どちらでもないでしょう。禁字は、使う者の心によって形を変える。それが力にも呪いにもなる――僕たちが『言葉』にどう向き合うか次第なんです」


「言葉か……」


 明子は小さく頷き、工房の窓の外を見やった。

青々とした木々が風に揺れ、夏の光が柔らかに差し込んでいる。

新宿の事件現場で感じた冷たい空気や血の臭いは、もうここにはない。


「――ねえ、墨谷さん。あなた、これからどうするの?」


 諒一は少しだけ驚いた顔を見せるが、すぐに口元を緩めた。

「書を書き続けます。禁字ではなく、穏やかな言葉を――人を導き、救う力としての文字を」


 明子はその答えに満足げに微笑む。

「いいわね、そういうの。……あんたがこれから書く字が、きっと誰かを救うんでしょうね」


「そうなることを願っています」


 諒一の言葉は静かだが、その声には確かな強さが宿っていた。

彼が選んだのは破壊でも呪いでもなく、「静けさ」と「平穏」の道だった。

それは、禁字に囚われず、書の本質――人と人を繋ぐ力を取り戻す道でもある。


「それじゃ、私はこれで。次は平和な事件で会いたいもんだわ」


 明子はそう言い残し、工房を後にする。

引き戸が閉まると、再び静けさが工房を包んだ。


 諒一は一息つくと、もう一度筆を手に取り、真っ白な紙に向かい合う。

そして、迷いなく書き上げたのは――


「静」


 窓の外では蝉の声が遠くで鳴き、葉擦れの音が優しく響いていた。

青々と茂る木々が風に揺れ、光が柔らかに降り注ぐ。

その静かな風景に、すべての争いが収まり、安らぎが戻ったことを実感するようだった。


「争いを鎮め、平穏を守る――それこそが、僕たちが言葉に託すべき本当の意味なんだ」


諒一の囁きは、墨の香りと共に工房に溶けていった。


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