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血字の残響  作者: さば缶
6/7

龘(たつ)

1.


 墨谷家古文書館の地下深く。壁に沁みついた古い墨の香りと湿った空気が、閉ざされた時間の重みを物語っていた。

暗がりを進む二人の足音だけが静寂を揺らし、橘明子は手にした懐中電灯で冷たい石壁を照らしていた。


 光が天井へ向かうと、そこには古びた石碑――無数の細かな文字に彩られ、その中心に刻まれた巨大な一字が浮かび上がる。


たつ


 龍が天を飛翔するさまを象ったその字は、不気味な威圧感とともに、異様なほどの静けさを放っていた。


「これが最後の字……」


 明子の囁きに応えるように、墨谷諒一が静かに立ち尽くし、石碑を見据える。


「『龘』――龍が天を飛翔する力強さの象徴。力の解放と再生を意味する禁字です。これを書き終えることで、すべてが終わる――そう桐子叔母さんは信じているんです」


「信じるって、どういうことよ?」


 明子の声には焦りが混じる。

彼女はこれまでの事件を通じて、諒一という人物が持つ静かな強さと冷静な頭脳を信頼するようになっていた。

しかし、「桐子」という名が突然持ち出され、目の前の事態がさらに不可解なものに感じられた。


 諒一はふと、かすかに目を伏せる。


「叔母の桐子は――禁字に人生を捧げた人です。墨谷家の中でも、古文書の管理と研究を一身に背負ってきた。そして、禁字に潜む力に魅入られてしまった……」


2.


 墨谷桐子――彼女は諒一の父の妹にあたり、墨谷家の一員として幼い頃から書道と古文書の管理に従事してきた。

彼女の才能は諒一が幼少期に見ても驚くほど卓越しており、わずかな墨の筆跡だけで歴史や書き手の心まで読み取ることができた。


「叔母さんは、僕に書の『生きる力』を教えてくれた人でした」


 諒一の言葉に、明子は黙って耳を傾けた。


「――幼い頃、僕が初めて書道に触れた時、桐子叔母さんは僕にこう言ったんです。『文字には魂がある。書く者の心がそのまま字に宿り、人を導くことも、呪うこともできる』と」


「呪う……?」


「そう。桐子叔母さんは、墨谷家が禁字――つまり、人の魂や自然の力を縛るために作られた文字――を研究し、その"罪"を知ってしまった。そして、それを終わらせるために……次第に禁字の力に取り憑かれていったんです」


3.


 諒一が書の道に進んだのは、桐子の影響が大きかった。

子供の頃、両親を早くに亡くした諒一を育てたのは、家のしきたりを重んじながらも書に深い情熱を持つ桐子だった。


「でも、叔母さんは変わってしまった。ある時から、書を書くたびに『禁字の力を解放しなければならない』と言うようになって……」


 諒一は、石碑の前で桐子を見つめたまま、明子に向けてゆっくりと語り始めた。

その声には、重い真実を伝える者の覚悟が滲んでいる。


「叔母さんは本気で信じているんです。禁字を解放し、魑魅魍魎――自然の怒りと死者の霊を鎮めることが、墨谷家の罪を終わらせる唯一の方法だと」


「……墨谷家の罪とは一体何なの?」


「橘さん……墨谷家の罪とは、単なる禁字の研究ではありません。その根源にあるのは、権力と禁字の『力』を巡る過去の罪なんです」


明子が眉をひそめた。

「権力……?」


 諒一は静かに頷く。

そして石碑を指さし、その表面に刻まれた無数の細かな文字を指でなぞった。


「今から数百年前――江戸時代初期、墨谷家の先祖たちは、書の力を用いて人々を統べることを夢見たんです。古文書の中に記された禁字――人の魂を縛り、自然の理を操るとされる文字の存在を知り、その力を手に入れようとしました」


「そんな……文字で人を縛るなんて」


「当時の墨谷家は、藩主や幕府の一部と結託し、禁字を用いた呪術や祈祷を密かに行いました。表向きは書道家や学者としての活動をしていましたが、裏では『禁字』を書き、権力者の意に反する者たちを精神的に破壊し、あるいはその命を奪ったんです」


「それって、暗殺――?」


 諒一は眉をひそめながらも続けた。


「直接的に手を下したわけではありません。禁字を含む書を人目につかない場所に仕込み、あるいは持ち物や家屋の一部に『封じ』ました。禁字には呪詛の効果が宿ると信じられており、対象者は次第に心を病み、衰弱し、最後には命を落とす――そういう事例が少なからず記録に残っています」


 明子は背筋に冷たいものを感じながら言葉を絞り出した。

「じゃあ、墨谷家は……その禁字の力で、何人も死に追いやったのね」


「はい。しかし、彼らの行為はやがて裏目に出ました。禁字の力は書き手自身をも蝕む――という真実に気づかなかったからです」


諒一は目を伏せ、暗い石碑を見上げる。


「禁字を書くことは、書き手の精神と生命力を削り取る行為です。墨谷家の先祖の中には、禁字を書き続けたせいで狂気に陥った者、若くして命を落とした者も多くいました。さらに禁字が広まると、民衆の中に不安や疑念が生まれ、反乱や災厄の象徴とされるようになった」


「つまり、禁字そのものが――人々に害を及ぼす存在となった」


諒一は頷く。

「最終的に、墨谷家は禁字の存在を封印する道を選びました。すべての禁字を石碑や古文書にまとめ、厳重に隠し、二度と人の目に触れぬよう誓ったんです。それが、この地下に残された禁字の封印です」


 明子が驚愕の表情を浮かべる。

「……でも、それが『罪』だというの?」


「封印したところで、禁字によって奪われた命が戻るわけではありません。それに、墨谷家は書道という文化の表舞台で栄え続けながらも、その裏で歴史の暗部に関わってきた過去を隠し続けました。そして――その罪の意識が代々、家族を縛り付けたのです」


 明子は息を詰め、禁字に刻まれた歴史の重さを感じていた。

言葉が人を縛り、狂わせる――それが本当に人間の手に負えるものなのだろうか? 彼女の胸中に、刑事としての理性とは別の、底知れぬ恐怖が広がり始めていた。


4.


 明子が息を飲むと、暗闇の向こうから微かな音が響いた。

かすかに擦れる布の音――それが次第に近づき、やがて部屋の奥から墨谷桐子が現れた。


 彼女は黒い着物をまとい、手には朱色に染まった筆を持っていた。

顔は穏やかな微笑みを浮かべていたが、その瞳には静かな狂気と哀しみが宿っていた。


「来たわね……諒一」


「叔母さん、これ以上はやめてください」


 諒一は桐子に目を向け、静かに告げる。


「叔母さん、あなたがしたことは過去の罪を償うためではなく――禁字の力に呑まれただけだ」


 桐子がゆっくりと首を振り、震える声で答える。


「違う……私は、墨谷家の罪を終わらせたかったのよ! 先祖たちが行った所業は、呪われた歴史そのもの。禁字が人を害し、争いを生んだ――だからこそ、その力を解放し、すべてを浄化しなければならないの!」


「それは破壊です!」

諒一が叫ぶ。

「禁字の力を解放すれば、再び人を呪い、争いが起きるだけだ!」


 桐子の手に握られた朱色の筆が震える。

その目には涙が滲み、狂気と絶望が同居していた。


「禁字を書き終えれば、世界は均衡を取り戻す。私たちの罪が――墨谷家の罪が、すべて許される……!」


「そんなものは許しじゃない!」


 諒一は、強く言い放つ。

「叔母さんの信じた浄化は――ただの破壊と自己満足だ!」

桐子は禁字の研究に没頭するあまり、墨谷家の他の者たちと対立し孤立していった。そしてついには、墨谷家が封印してきた禁字の力を"浄化"することで、罪を償おうと考えるようになった。


5.


 墨谷家古文書館の地下には冷たい闇が沈んでいた。

蝋燭のように揺れる明かりが石碑に浮かぶ「龘」を照らし、その異様な輪郭が壁に影を落としている。

真紅の筆を握る桐子の手が微かに震え、その瞳は、諒一を見つめながらも何かを拒むように揺れていた。


「…、なぜ被害者たちは殺されたんですか?」


 桐子は目を伏せた。その姿に怒りではなく、諒一の顔には静かな哀しみが滲んでいた。


「彼らは――禁字を穢そうとした者たちだったんです」


 諒一は振り返り、明子に語り始めた。


「最初の犠牲者――江藤俊一。彼は禁字の存在に気づき、その力を『経済的価値』に変えようとした。"神秘の力"として禁字を利用しようとしたんです」


 諒一は語り始めた。


「次に篠宮英介。彼は禁字の古文書を高値で売りさばくため、オークションに出そうとしました。禁じられた文字を"商品"として扱う行為は、禁字を穢すことに他ならない」


 明子は静かに頷きながら聞き入る。


「三人目――天野和也。彼は禁字の断片を闇市場に流し、禁字の力を"ばらまく"ことで利益を得ようとしました。そして四人目、井原俊二――彼は桐子さんの計画に加担しつつも、その力を『舞台芸術』の名の下に利用しようとした。己の欲望を満たすために禁字を解放しようとしたんです」


 明子の視線が鋭くなる。

「そして古川達郎――あの男は何だったの?」


 桐子が微笑みを浮かべながら答える。

「古川達郎……彼は真実を知っていたのよ。禁字の力を使えば、全てを浄化できる――そんな理論を彼の研究は裏付けてしまった。彼は知識を広めようとしたけれど、同時に禁字を"解き放つ"危険を生んだの。彼の学問は禁字を世に解き放つ扉となるはずだったわ」


「だから、殺したんですね」


 明子の声が震える。


 桐子がようやく口を開く。

「禁字は穢れ、歪んでしまった。だから私は――浄化するために彼らを殺したの」


「浄化? 違う!」

諒一の声が鋭く響く。

「叔母さんは、ただ禁字の力に溺れただけだ!」


 桐子が顔を上げる。

「いいえ。彼らの命は――自然や死者の怒りを鎮めるための犠牲だった。これでようやく均衡が取れる。『龘』を書き終えれば、すべてが終わる!」


「その先にあるのは破壊です!」


6.


 桐子は真紅の筆を握り、石碑に向かって進み出た。


「これが最後の一筆――『龘』を書き終える!」


 諒一が駆け出す。

「止めろ、叔母さん!」


 しかし、桐子の筆は止まらない。

筆跡が石碑に刻まれた「龘」をなぞると同時に、地下全体が唸りを上げた。

天井から石が落ち、床が震え始める。


 明子は強烈な風圧に立ち向かいながら叫んだ。

「諒一! このままじゃ――!」


 諒一が顔を上げ、切迫した声で言う。

「橘さん! 『龘』が完成すれば、封印されていた禁字の力が解き放たれる! 禁字は言葉の呪いそのものだ! 人の心の闇、憎悪や欲望を増幅し、理性を崩壊させる。それだけじゃない――自然界の均衡も壊れ、土地は荒れ、天変地異が頻発する。人も、自然も、世界そのものが狂ってしまうんだ!」


「世界が……終わる……?」

明子の声が震えた。


 石碑が異様な光を放ち、空間にねじれた波動が広がる。

石に刻まれた禁字が浮かび上がり、まるで巨大な龍の形を取り始めた。

その影が天井まで届き、咆哮するかのように壁を震わせる。


「叔母さん!」

諒一が叫ぶ。

「これは浄化なんかじゃない! 罪を終わらせたいなら、力に頼るんじゃなく、受け止めることだ!」


「それじゃ遅いのよ!」

桐子が叫び返す。涙が滲む瞳は、狂気と絶望が入り混じっていた。

「罪は私たちの代で終わらせなければならない! この力を解き放ち、すべてを浄化すれば――」


「違う!」

明子が強い声で割って入る。桐子に向かい、一歩ずつ足を進める。

その瞳は真っ直ぐ彼女を見据えていた。


「あなたは、"罪"を終わらせることに囚われすぎたのよ! 本当に大事なのは過去を"なかったことにする"ことじゃない――これからどう生きるかでしょう!」


桐子の手が震え、筆の軌道が一瞬だけ揺らぐ。


「……どう生きる……?」


「そうよ!」

明子がさらに強く言い放つ。

「罪を認め、その重さを背負って生きる――それが、本当の浄化じゃないの? あなたが選ぼうとしているのは、ただの"破壊"よ! 残るのは争い、災厄、そして……あなた自身の後悔だけ!」


 桐子の目に迷いが浮かぶ。

その一瞬を逃さず、諒一が筆を取り出し、力強く宣言する。


「――だから、僕が止めます」


 床に膝をつき、諒一の筆が紙ではなく空間に走る。

彼が書き始めたのは――


「静」


 墨の音が重く、重力を帯びたように館内に響いた。

筆先から流れた「静」の字が石碑へと向かい、「龘」を包み込むように染み込んでいく。


「何を……!」桐子が叫ぶ。


 諒一が静かに語り始めた。

「――『静』。この字は『青』と『争』から成り立つ。『青』は自然の穏やかさを示し、『争』は乱れを意味する。争いを鎮め、自然と共存し、静けさの中に平穏をもたらす――それが『静』の意味です」


 桐子の筆が震え、彼女の手から滑り落ちる。

石碑に刻まれた「龘」の文字は、次第に光を失い、諒一の書いた「静」に飲み込まれていった。

まるで天を舞い上がろうとした龍が、静かな湖面に吸い込まれるかのように――。


「破壊ではなく、静けさこそが答えなんです」


7.


 石碑が静かに沈黙すると、その表面に刻まれた禁字の光は完全に消え去った。

空間に漂っていた不穏な波動が収まり、重く淀んだ空気が、まるで清浄な風に入れ替わるかのように澄んでいく。


「――禁字は無力化された……」

諒一が息を吐き、石碑に手を触れる。


 石碑は静寂を取り戻し、かつての威圧感は消え去っていた。

桐子はその場に崩れ落ち、力なく呟く。


「……私は、何を……していたの……」


 諒一が静かに彼女を見つめる。

「叔母さん、あなたがしたことは罪です。でも――その罪を終わらせる方法は、破壊じゃなく、静けさなんです」


 桐子の瞳から涙が零れ落ちる。

「私は……墨谷家の呪いを終わらせたかっただけなのに……」


 明子は、ゆっくりと桐子に近づき、手錠をかける。その手には迷いがなかった。


「これで終わりよ、桐子さん。あなたの苦しみも、罪も――そして、この禁字に縛られた時間も」


 そう言った瞬間、明子の中に、確かな安堵が広がる。

彼女は初めて事件に対する答えを見つけたように感じた。

争いは怒りや力で終わるものではない――静けさこそが、人の心に平穏をもたらすのだ。


 諒一は石碑に触れ、深く息を吐いた。

「言葉は力です。でも、その力が争いを生むなら、それは本来の意味を失ってしまう。だからこそ、僕たちはその責任を忘れちゃいけない」


 その言葉に、明子はそっと微笑んだ。

そして、彼女自身が心の中で呟いた。


「――静けさ、か」


 静寂の中に、一筋の光が差し込むように――それは、彼女自身が新たに見つけた答えでもあった。

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