籲(よ)
1
夜の深い闇が、都心の一角を呑み込んでいた。
廃墟と化した古い図書館。その存在はすでに人々の記憶からも忘れ去られていたかのように、静まり返っていた。
「ここか……」
刑事・橘明子は現場に到着し、暗闇を懐中電灯の光で照らす。
長い年月を経た本棚はホコリをまとい、どこか不気味に並んでいる。その中央――まるで劇場の舞台のように、被害者は座り込んでいた。
古川達郎、56歳。言語学者であり、長年「失われた漢字」の研究に没頭していた人物だ。
明子は足を止め、光を被害者に向けた。
その姿に思わず息を呑む。
両手を天に向けて捧げるように固まったまま、顔は天井を見つめ、口は大きく開いたまま――まるで何かを訴えながら絶命したかのようだった。
胸元に広がる血の文字――
「……籲」
明子は震える声で呟く。
「訴える、叫ぶ……か」
現場に響くのは、かすかな風音と遠くから聞こえる虫の声だけ。
その静けさがかえって、文字の持つ異様な存在感を強調していた。
2
「『籲』――これは何を意味する?」
数時間後、墨谷諒一は現場に到着し、血文字を見つめていた。
遺体の姿にも一瞥を送り、眉間に皺を寄せる。
「……犯人の"叫び"でしょうね」
「叫び?」
明子が問い返すと、諒一は静かに頷く。
「『籲』は訴えや叫びを象徴する漢字です。特に古い文献では、心からの"訴え"や、封じられた者の"叫び"として使われることがありました」
「封じられた者の叫び……」
明子は何かに気付いたように呟く。
「……まるで、これまでの事件の流れそのものだな」
諒一はゆっくりと図書館内を見渡しながら、言葉を続けた。
「気付きましたか、橘さん。これまでの事件で選ばれた漢字――すべてが"閉塞"や"力の集結"を暗示していた。そして『籲』は、封印されていた何かが訴えを発しようとしていることを示している」
「訴え? でも……犯人が何を伝えたいのか分からない」
諒一の表情が微かに陰る。
「犯人は恐らく、ここで"最後の訴え"を形にしようとしたのでしょう。そして……真相に繋がる道筋も、ここに残されているはずです」
「真相……?」
明子の胸中に、一つの仮説が浮かぶ――だが、その答えはまだ霧の中だ。
3
捜査が進む中、古川達郎の遺品として発見された古びた研究ノートが明子の前に広げられた。
そのページには、異様に複雑な筆跡で漢字が書き連ねられている。
「これ……『禁字』か?」
明子は墨谷諒一にノートを見せた。
彼は手袋越しにページをめくり、その目が一瞬だけ鋭くなる。
「そうです。禁字――古代の呪術や祭祀に用いられた、"触れてはならない漢字"です」
「古川は、この禁字を研究していたのか……」
諒一はふと、あるページで手を止めた。そこには古びた血痕のようなものが滲んでいた。
「見てください。このノートには封印を解く方法も記されている」
「封印を解く?」
明子の手が震える。これまでの事件が一気に繋がるような感覚がした。
「井原俊二、篠宮英介、天野和也――彼らは禁字を穢そうとし、力を解放しようとした者たちです。しかし古川は……」
諒一が言葉を飲み込んだ。
「古川の動機は、まだ別にあるのかもしれません」
「別の動機?」
明子が食い下がるが、諒一は目を細め、思案するように口を閉じた。
4
その夜、捜査会議が開かれた。机上には古川のノート、事件の写真、そして各現場に残された血文字が並べられている。
「『魑魅魍魎』『驫』『麤』『齉』、そして『籲』――」
明子は現場写真を並べ、手元のメモに目を走らせた。
「これらの字は、すべて"力の封印"や"閉塞"を暗示している。そして『籲』は犯人の最後の訴え――いや、"警告"のように感じる」
その時、静寂を破るように古い木箱が警視庁に届いた。差出人は不明。
箱には封がされており、厳重に括られた紐がそれを守っている。
明子が慎重に箱を開けると、中には一枚の古びた紙――そしてそこに書かれていたのは、
「龘」
「……龘?」
明子は硬直したまま、その一文字を見つめる。
「龍が天に昇る様を意味する、最難解漢字の一つです」
諒一が低い声で答える。その顔には、これまでにないほどの緊張が浮かんでいた。
「犯人は……これで最後の舞台を示している」
明子が息を詰める。
「最後の舞台……?」
「次がすべての終わりです。橘さん――僕には確信があります。犯人の正体、そして真の目的が……」
「分かったの?」
明子の問いに、諒一は静かに頷く。
だが、その目にはまだ言葉にできない何かが揺れていた。
「――もう一つだけ、確かめる必要があります。最後の現場で、すべてが明らかになるでしょう」
事件は、最終局面へ。禁字の力、封印、そして真犯人――すべての答えが、次の「龘」に託されることとなる。