麤(そ)
1
廃墟となった工場は、鉄骨の錆びた匂いと湿った埃に覆われていた。
工場の中央にそびえ立つ白い壁――その異様な光景が刑事たちを沈黙させていた。
「……これで三度目だ」
橘明子は血の臭いに耐えながら、その壁を見上げた。
「麤」
壁一面に描かれた鹿が三つ並んだ不気味な漢字。
赤黒い血で書かれているにも関わらず、その線は奇妙に歪んでいた。
これまでの「魑魅魍魎」や「驫」とは明らかに異なる――まるで書いた者の精神が乱れているかのようだ。
遺体は壁の下に横たわっていた。
被害者は天野和也、27歳。製造業の工場員で、職場を最近辞め、生活も荒れていたらしい。
「何か、荒れてるわね……」
明子は呟きながら、周囲を見回す。
被害者の周りには古びた紙片が散乱していた。
墨の跡が残る紙には、何かの古い文書の断片が書かれているようだ。
「鑑識さん、この紙片、調べてもらえる?」
「わかりました。かなり古そうなものですね……」
明子は再び壁の「麤」を見つめ、ため息をついた。
2
「――『麤』?」
午後、墨谷諒一の工房。
彼は壁の血文字の写真と、被害者の周囲に散乱していた紙片を静かに見つめていた。
「『麤』は鹿が三つ並ぶ字で、粗雑や乱雑を意味します。しかし、これほどの大きさで描かれた血文字に、この乱れ……犯人は精神的に不安定になっているように見えます」
「精神的に不安定?」
明子が聞き返すと、諒一は頷いた。
「前回の『驫』や『魑魅魍魎』の筆致は整然としていた。しかし、今回は線が微妙に歪んでいる――これは、書き手が動揺している証拠です」
「焦っている……?」
明子は手元の紙片を見つめた。
「そしてこれ、遺体の周りに散らばっていた紙なんだが……ただの古書って感じじゃない。書いてある文字も意味が分からない」
諒一はその紙片を手に取り、目を細めた。
「……これは、かなり古い書物の一部ですね。しかもただの古書ではなく――おそらく、禁字の断片です」
「禁字……?」
その言葉に明子は眉をひそめた。
「何よ、それ」
諒一は静かに紙片を置き、説明を始めた。
「禁字とは、古代に特別な意味や力を持つとされた漢字のことです。これらの字は呪術や儀式で使われ、人や物を縛る力があると信じられていました。あまりに強い力を持つため、一部の書物では禁字は封印され、表に出てこないようにされたんです」
「封印……力を持つ漢字?」
「伝説の話です。しかし、禁字の一部は古文書や古い書籍に残り、時折闇市場で売買されることもある――書道や歴史をかじっている人間なら、噂くらいは聞いたことがあるでしょう」
明子は驚きながらも、先日の被害者篠宮英介がオークションに関わっていた件を思い出した。
「じゃあ、今回の事件……禁字が関係している?」
諒一はゆっくりと頷いた。
「その可能性はあります。そして、犯人がこの禁字を"浄化"するために何かをしている――あるいは手にしてはいけない者たちへの罰だと考えているのかもしれません」
3
被害者・天野和也が最近まで通っていた古書店を明子が訪ねたのは夕方のことだった。
「――天野和也? ええ、ここによく来ていましたよ」
老舗の店主が老眼鏡を掛け直しながら答えた。
「彼は最近、やたらと古い書物ばかりを探していました。高く売れるものを手に入れようと、あちこちの業者に問い合わせていたようですね」
「高く売れる?」
「ええ。特に"力のある書"だの"禁じられた文字"だの、妙なことを口走っていたこともありましたよ」
「禁じられた文字?」
明子の胸が冷たくなる。
「その書物、どこで手に入れたんだ?」
「さあね。どうやら闇市場経由で手に入れたものもあるみたいですが……彼も危ない橋を渡っていたんでしょう」
4
夜、明子は署内で事件の報告書を整理していた。
「天野和也――禁字の断片を闇市場で取引していた。そしてその結果……?」
机の上には、これまでの被害者の情報が並んでいる。
篠宮英介がオークションで禁字の古文書を出そうとしていた件、そして天野和也の行動――これらは犯人の逆鱗に触れた結果なのだろうか。
「禁字……力のある文字、穢されるべきではないもの……?」
ふと、これまでの被害現場に残された文字を思い出す。
「魑魅魍魎――自然や死者の怒り」
「驫――力の集結」
「麤――乱雑、焦り」
「犯人は何を成そうとしている……?」
その時、電話がけたたましく鳴った。
「橘さん! 第四の被害者が見つかりました!」
明子は息を呑み、立ち上がった。事件はさらに深く、そして危険な領域へと進んでいる――。