驫(ひょう)
1
乗馬クラブ「青嵐」は、早朝の湿った空気に包まれていた。
白い厩舎の建物に陽が差し込み、どこか重厚な静けさを漂わせている。しかしその静寂は、ひとつの異様な光景によって破られていた。
「……何だ、これ……」
橘明子は厩舎の前に立ち尽くし、言葉を失った。
「驫」
血で書かれた巨大な一文字が、白壁に異様な存在感を放ちながら浮かび上がっていた。
三つの馬が重なる形のその漢字は、整然と、だがどこか歪なまでに力強く書かれている。
まるで犯人の狂気がそのまま文字に宿っているかのようだった。
「朱墨じゃないな……血だ」
傍らの鑑識員が、近くに残された飛沫を指差しながら言う。
明子は唇を噛みしめ、壁とその真下に横たわる遺体を見下ろした。
被害者は篠宮英介、38歳。
企業経営者であり、この乗馬クラブの上級会員だった。
彼の身体は泥と草にまみれ、苦痛に歪んだ顔が早朝の陽光にさらされている。
「……一体何があったんだ」
明子は呟く。視線を戻すと、壁の「驫」が不気味に目に焼きついた。
2
「――三頭の馬の字?」
その日の午後、墨谷諒一は工房で「驫」の写真を手に取り、静かに呟いた。
彼の声にはいつも通りの冷静さが宿っていたが、その瞳にはどこか陰りがあった。
「『驫』という字は三つの馬が重なる形です。古くから"力の集結"や"繰り返し"を象徴する漢字だとされています」
「力の集結……繰り返し……」
明子はメモを取りながら呟く。諒一は手元の写真を見つめたまま続ける。
「それにしても、血で書かれているのに筆跡にほとんど乱れがない。まるで本当に"書"として仕上げたかのようだ……犯人には相当な技術がある」
「……やっぱり、ただの殺人じゃないな」
明子は苛立つように溜息をつき、言葉を続けた。
「でも、この篠宮って男――何かおかしいんだ。聞き込みをした限りじゃ、ビジネスで一旗揚げた成金気質だが、最近は妙に焦っていたらしい」
諒一が目を細める。
「焦っていた、ですか?」
「ああ。知り合いのクラブ会員が言っていた――"最近、変な筋の人間と繋がっていたんじゃないか"って。金儲けのためなら何でもやる奴だったらしい」
「金儲け……」
諒一が写真に目を落とし、静かに言った。
「もしかしたら、彼が"手にしてはいけないもの"を手に入れてしまったのかもしれませんね」
明子が顔を上げる。
「手にしてはいけないもの?」
「……いや、ただの推測です。ですが、この字――犯人にとっては何かを"浄化"するための一手かもしれません」
「浄化?」
「はい。『驫』という字の形自体が、何かを重ね、力を増す意味合いを持つ。それが繰り返されることで、何かが"完成"する――犯人の計画の一部、ということも考えられます」
明子は黙り込む。
「繰り返し、力を集めて……完成させる?」
彼女の胸の中に、冷たい違和感が浮かび始めていた。
3
夕暮れ時、明子は乗馬クラブの事務所で、篠宮英介に関する資料を再確認していた。
表向きは優雅な上級会員だが、その裏にはいくつかの気になる情報があった。
「オークション……?」
彼が最近、古い書物や骨董品を集め、それを密かにオークションに出そうとしていたという噂があった。
明子が見つけたクラブの会員記録には、最近出入りしていた"怪しい男"たちの情報が書き込まれていた。
「金のためなら何でもする――そう言われる男が、古い何かを売ろうとしていた……」
明子は手元の資料を見つめながら呟く。「犯人はそれを許さなかったのか? それとも……」
「――手にしてはいけないもの、か」
諒一の言葉が頭の中で反響した。
4
夜、警察署のデスクで明子は事件を整理していた。
「魑魅魍魎」――自然や死者の怒りを示す最初の血文字。
「驫」――力の集結、重なる何かの象徴。
「犯人は何かを揃えようとしている……?」
だが、その目的は未だ見えない。犯人は難解な血文字を残している。
その一方で、被害者・篠宮英介は「金儲け」に手を出し、何かを穢した――犯人にとっては、許されざる行為だったのではないか?
その時、電話がけたたましく鳴り響いた。
「橘さん! 第三の被害者が発見されました!」
「――!」
受話器を置くと同時に、明子は立ち上がった。
事件は確実に連鎖している――そして犯人の目的もまた、着実に形を成しつつあった。