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血字の残響  作者: さば缶
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魑魅魍魎(ちみもうりょう)


 午後四時の新宿。夏の陽光が都会のビル群を斜めに突き刺す中、殺人事件の現場に刑事・橘明子は辟易とした表情で立っていた。

現場は高級マンションの一室。白い壁紙に、禍々しいほど濃い赤い血液で書かれた巨大な漢字――「魑魅魍魎」――が浮かび上がっている。


「ちみもうりょう……」


 彼女は眉をひそめ、ひとつ息を吐いた。「何だこれは、呪いのつもりか?」


 鑑識班がバタバタと動く中、明子は嫌でもその漢字の意味を思い出してしまう。

「魑魅魍魎」とは、邪悪な霊や化け物たちの総称。

まさに「化物じみた」出来事にふさわしい血文字だ。

しかし、それ以上に――被害者の遺体の状況が恐ろしかった。


 遺体は部屋の中央にうつ伏せに倒れていた。

被害者の名は江藤俊一えとう しゅんいち、42歳。

経済アナリストとしてテレビにもよく出ていた男だ。

彼の背中には無数の傷跡が刻まれ、まるで何者かに「喰い荒らされた」かのような惨状だった。


「これは単なる殺人じゃないわね」


 明子は腕を組み、再び壁の「魑魅魍魎」に目を向ける。

「化物じみた」という言葉が、これほどまでに似合う現場も珍しい。


「江藤は経済アナリストよね? どうしてこんなことに……」


「被害者の手元に、妙な資料が残されていたんです」


 鑑識員が差し出した袋には、古びた書物の一部のような紙片が入っていた。

そこには画数の多い漢字が並んでいる。


「……何これ? 見たこともない文字ばかりね」


「どうやら古い文書らしいです。何か関係があるのかもしれません」


 明子は袋を手に取り、書かれた文字を一瞥する――だが、意味の分からない文字列の羅列が、不気味な余韻だけを残していた。


「どう見てもただの殺人じゃないな。犯人のメッセージか? 魑魅魍魎――」


 明子の隣に立っていた鑑識の男が声を潜める。

「まるで書道家のように丁寧に書かれているんですよね。あれだけ血で書いたってのに、筆跡に乱れがない。これは何か意味がある……そうとしか思えません」


「書道家?」


 明子はふと、ある人物を思い出した。



「――突然、呼び出してすみません。君の力が必要なんです」


 その日の夕方、明子は書道家・墨谷諒一の工房を訪ねていた。

工房には墨の香りが漂い、壁には掛け軸や書の作品が整然と並べられている。

まさに「静謐」の空間だ。しかし、諒一本人は驚くほど無頓着な格好で現れた。


「刑事さんが僕に何の用です?」


 墨谷諒一――25歳の若き天才書道家。

その目には冷静さとどこか他人を遠ざける無機質な光が宿っている。


「これを見てください」


 明子が広げたのは現場写真。

血で書かれた「魑魅魍魎」の文字だ。諒一の目がわずかに細められた。


「……見事な筆致ですね。いや、こんなことを言うのも不謹慎ですが、書道の心得がある人物でなければ、この文字は書けませんよ」


「心得がある、というのは?」


「筆を扱う技術――そして、漢字そのものに対する異常な理解と執着です。『魑魅魍魎』は日常で書ける文字ではありません。これほどの書を血で、しかも遺体の傍で描く……普通の精神状態ではないでしょう」


 諒一は写真を見つめながら呟く。

「まるで――それが"作品"であるかのように……」


「作品?」


 明子は引き締まった表情で彼を見つめる。


「書道家にとって、字を書くという行為は単なる表現ではありません。魂を込め、命を削って書く――そういう覚悟が必要なんです。犯人は何かを訴えている。『魑魅魍魎』――これが第一の鍵になるでしょう」



 その夜、明子は墨谷諒一の言葉を反芻しながら事件ファイルを整理していた。


「何かを訴えている……」


 その時、彼女の机の上に置かれた辞書が目に入った。彼女はふと、"魑魅魍魎"の成り立ちを調べてみる。


=山の神の化け物」

=死人の霊の化け物」

魍魎もうりょう=川や沼に潜む妖怪」


「山、死人、川……?」


 彼女は手元の写真に目を落とす。

血文字の「魑魅魍魎」の下、かすかに見える何か――それは「もう一つの漢字」だった。


 明子の背筋に冷たいものが走る。


「まだ……何か隠れている?」



 翌朝、墨谷諒一の工房に明子が駆け込んだ。


「墨谷先生! あの血文字の下に、もう一つ別の字が書かれていた。見てもらえるか?」


 諒一は微かに驚きながらも写真を受け取る。

そして顕微鏡のような拡大レンズを通し、血の文字をじっと見つめた。


「……これは――」


 その唇が一文字に引き締まる。


「『殤』だ」


「殤?」


「『しょう』――夭折、つまり若くして死ぬという意味です。犯人はこの字で、何かを訴えようとしている」


 諒一の言葉に、明子の胸中に不吉な予感が過ぎる。


「若くして死ぬ――つまり、次の犠牲者は若者か?」


「恐らく。そして――これは連鎖する。次の字が現れるだろう」



 その予感は二日後に現実となった。


次の犠牲者が発見された。血文字に書かれていたのは――「ひょう」だった。


連続殺人はまだ序章に過ぎない。画数の多い、禍々しい漢字が、まるで呪いのように人々の命を蝕んでいく――。

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