長寿は人を腐敗させる
私は冒険者、ひいては国家の興味から逃れるべくひたすら森の奥を目指した。新人冒険者の登竜門ともいうべき森の泉に突如として発生した精霊か魔物として興味を持たれることを警戒していたのだ。
通常なら街を目指し、この乳児の体を保護してくれる施設を探したいところだが、あの冒険者たちの会話から推測するに、この森は王都から1週間は歩かないとたどり着けない距離にあり、調査に来た冒険者たちは近くの貧しい村で宿泊したか森の入り口で野営したのちに森に入ったのだろうと思われる。
一週間の道のりを赤子が念動力を駆使してふわふわ移動するのは難しい。そもそも、3時間に一度栄養を取らなければならない身では十分に食料を確保しながら移動するのは現実的ではない。
どこかに拠点を定め、最低限固形物を食べられるようになるまで森の中に隠れ住むつもりでいた。
食料を確保しやすい森の中でなおかつ水場が近くにあれば理想的だが、あの場所を見つけるのも大変だったのだ、そう簡単にはいかない。
私はあてもなく奥へ奥へと進んでいった。
――冒険者ギルド・ギルドマスター執務室
「こいつがあのクノイチだって!?」
信じられないという言葉を飲み込み、ギルドマスターの表情を窺う中堅冒険者パーティ「グレーウルフ」のリーダー、マルク・スティール。
ギルドマスターの執務机の前に接客用の3人掛けのソファーが2対、対面する様に置かれている。上座にはグレーウルフから3人、下座には件の傷を完全に治療された斥候職のスミカ・ケッテラー、真ん中を開けて今回の情報を持ち込んだ行き倒れ冒険者のロック・カーンが座っている。スミカの素顔や本名を知らずとも、彼女の存在はこのギルドに顔を出している冒険者ならば一度は聞いたことがある。Sランクパーティの「ドラゴン・クロウ」で活躍し、その後ギルド直属の斥候になった通称「クノイチ」。その斥候のスペシャリストがフレイムティガーに後れを取るなどと、本人も含め誰もが予想だにしない事だった。
スミカは不機嫌そうに黙り込んでいる。執務机で不精髭を撫でているギルドマスターのジョージ・ウェルスはしばらく黙っていたが、重々しく切り出した。
「そうだ。情報を収集するのに彼女以上の適任は居ない。君らにフレイムティガーが存在するか否かの調査を依頼する以前に、彼女に街でフレイムティガーの取引の痕跡はあるか、あるいは情報を持ち込んだ冒険者の裏取りをして欲しいと依頼していた。彼女の調査ではフレイムティガーが持ち込まれたような噂話はなく、彼、ロック・カーンについても信頼のおける経歴の持ち主であることが分かっていた。信頼できるとは言え、森で行き倒れていた事は彼自身が認めた事だから、幻聴の類である可能性が濃厚だと私は踏んでいたのだが。しかし、彼女は何か違和感を覚えたらしく、自発的に彼が行き倒れた際に肉にありついたという現場を見に行っていた所、森で君らを見かけて様子を窺っていた時に突然襲撃されたとのことだが」
「そうかよ、仕事熱心なこって」
フレイムティガーの行方に関する有益な情報と、違法な取引の証人を持ち帰れたかもしれないという期待を裏切られて不機嫌なマルクは厭味ったらしく返す。そんなリーダーを無視してグレーウルフの元宮廷魔術師アリス・サンダーがスミカに問いかけた。
「あの攻撃、やっぱり変でしたよね」
「あなたもそう思った?」
「すぐに撤退せざるを得なかったので詳しくは調べられませんでしたが、あれが居た位置は私たちの進行方向、そしてスミカさんがいらっしゃったのは私たちの背後だった。それにも拘らずスミカさんはそのさらに背後からアイスニードルを受けていたわけですよね。私とあの魔獣以外に契約の糸は見えなかったので、他に伏兵が居た可能性もありません。私たちの傍をアイスニードルが通った気配はありませんでした。そもそもアイスニードルをUターンさせるような手法は寡聞にして知りません」
「アイスニードルを背後から撃ったんじゃねえか?」
呑気な口調で思ったことを口にする盾役のヴァンダ・ウォールにアリスは食って掛かる。
「だからそれがあり得ないっていってんの!! 普通魔法は術者自身から放出されるものなの! 遠く離れたところから好き勝手に打てたら魔法使いは完全犯罪やり放題、今より絶対的な地位に居るはずよ」
「空間を操る魔法との複合魔法だったのかも」
スミカは冒険者時代に噂程度で聞いた極めて珍しい魔法の可能性を挙げた。
「そんな馬鹿な。空間を操る魔法など、文献もまともにない幻の魔法ではないか。それをホーンラビットサイズの魔獣が操っていたというのか」
ギルドマスターは信じられないという口調で、それが現実的な推測なのか現場を見てきた者たちに問いかけた。
「あり得るかもしれません、あの魔獣はとてつもない数の悪魔との契約関係にありました。あるいは悪魔から特別に寵愛を受けた魔物なのかもしれません」
「それも信じがたい話だ。魔法を操る魔物自体はそう珍しくはないが、個体ごとに一つの属性に基づいた魔法を使用し、複数の魔法を使うようであってもその属性の派生でしかないというのが通説だ。つまり、所謂契約の糸は一本、せいぜい太いか細いか、輝きが強いか弱いかだけのもののはずだ」
「それは我々人類も同じです。悪魔を召喚して契約を結び、悪魔の力を使えるようになるというのは簡単な話ではありません。いくらか体系化され、四属性魔法の一部は契約を結ばずとも使える魔法もあるので、一概には言えませんが」
「悪魔の力を使う方法で魔法、か。魔女狩りは遠い昔の話だというのに、理解の及ばない力なのは相変わらずだな」
推測ばかりでは埒が明かないと感じた面々は押し黙ってしまった。
沈黙を破ったのはギルドマスターの執務室だというのに不躾に勢いよく扉を開けて飛び込んできたエルフだった。
「話は聞かせてもらった!!!!」
それはエルフにしては珍しく人と交流を持ち、高い戦闘力を持ち、王族とも懇意にしているため貴族たちにも発言力を持っているが、現場を引っ掻き回すことで有名で、ある程度の熟練冒険者ならばこの女性の影を見れば別の街へ避難するのが常識となっている。その場に彼女自身が飛び込んでくればもちろん距離をとることなど不可能だから、居合わせた全員が苦虫を噛み殺したような顔をしていた。
「その魔獣討伐私が請け負う!!」
「声でっかいですねえ」
その辺の事情に明るくない様子のロックがどう考えても余計な一言を投げかける。やめろ、という周囲の視線とは裏腹にそのエルフ、リナリアは気にした様子もなくギルドマスターに問いかける。
「どうだ、私に任せないか」
極太の眉毛の付け根に右親指を押し付けつつ、ため息を吐くと、諦めたように返答する。
「どうせ断っても領主に根回しして分捕るつもりだろう。まあいい、俺たちは手をこまねいていた所だ。どうなっても責任はとれんが、それでもいいならこの件はあんたが持っていってくれ」
色よい返答を聞けて満足したリナリアは座ってあっけに取られているロックの肩を掴む。
「え、な、なんですか」
「ご協力感謝する!!!」
そういうと、馬鹿力で座っていたソファから引きずり上げ、地面に立たせる。着ている革のジャケットが拘束具代わりになって、ロックは抵抗できないまま立ち去ろうとするリナリアに引っ張られていく。
嵐が去った執務室ではロックに同情した面々が彼の行く末を案じていた。
彼女に協力するなどと一言も言っていないという苦情は通用しないことはわかりきっていた。
「こういう時は助かるな」
冷めたコーヒーに口を付けるジョージにアリスは心配する様に問いかける。
「そう呑気な事言っていていいんですか、あんなに興味を示すってことは何か裏がありますよ」
「何か対策でも思いつくか? 俺は思いつかない。せいぜい何かあった時のために備蓄を多めに用意して冒険者を街周辺に配置するくらいだな」
そういわれて言葉に詰まるアリスはそれでも納得が行かない様子だった。
また森の案内をすることになったとわかったロックは、一時は喜んだ。実際、最初に行き倒れていた時も、二回目に襲撃された時も本来の目的は達成できていなかった。しかし、彼女の冒険の準備に付き合ううちに手放しでは喜べない状態に自分が置かれていることに気付いた。
そもそも、ギルドマスター執務室で話し合う内容が機密でない訳が無いのだ。それを盗み聞きした挙句、突入してきてクエストを分捕っていくなどという不作法がまかり通っているのだからおかしいと思うべきだった。
武器屋の親父にはツケを強要するわ、宿屋の娘にはクエスト中の食料を一ヵ月分も用意させるわ、領主邸に顔パスで通されると脅迫まがいの言い分で金銭と途中までの馬車を用意させるわとやりたい放題だった。
具体的にどういう役職か、立ち位置なのかは判然としないが誰も逆らえない。
そもそもエルフというのは人間との関りを極力絶って深い森の中で暮らしているが、時折人里で生活するエルフがいるとどうしても長生きしている分優位に立ちやすくなるという話は聞いたことがある。
比較的呑気な性格のロックもさすがに顔色を曇らせた。
ロックが故郷を離れ、この国に来ることになったきっかけの一つに近い状況をまざまざと見せられたからだ。
何もエルフだけが権力の濫用をするわけでは無い。人間にも長生きは居て、後進に椅子を譲らず大した仕事もせずに踏ん反りがえっている老人がいる。
無論、譲らないだけの実力や功績があるわけだが、人間、年齢を重ねると新しいことについていけなくなる。当然、研究一筋で新しいことを取り込み続けている老人と、過去の功績に胡坐をかいて欲望のままに生きて新しいことに興味を示さない老人では雲泥の差があるのだ。地頭がよくても新しいことを取り入れることを止めてしまえばそれまで。完全な間違いではないが古い考えを押し付けて、若者が新しいことに挑戦することを阻む風土が出来上がってしまう。質の悪いことに最適解ではなくても、完全な間違いではないという事が、年若い人々の反発を挫いてしまい、もっとうまくできたかもしれないという若者の不満を燻ぶらせながら日々は過ぎていく。
故郷のそういう雰囲気に嫌気がさしていた所に、ちょうど研究していた薬草がこのローレンツ王国の辺境の森にあるという事を知り、故郷には戻らないつもりでやってきたのだ。
(……ここでも同じなのか)
横暴なエルフに振り回されるうちにいつの間にか旅支度は完了し、件の不死鳥の森への旅路が始まった。
しかし、悪い事ばかりではない。故郷ではそういったことがわからないまま権威に飲み込まれかけたが、ここではロックを知るものは居ない。今回の件が片付き、立ち回りに気を付けさえすれば、しがらみのない研究と冒険の日々を送れるに違いない。
ある意味この森も、街中と同じだった。
魔法も錬金術も使える私に理解が及ぶものはおらず、会話が成り立たない。私の知識を利用してうまい汁を吸おうとすり寄ってくるものが居るか、赤ん坊のやわらかい肉を目当てに襲ってくる獣が居るかの違いでしかない。
孤独であることを開き直りさえできれば、ある意味魔法を気兼ねなく使える獣たちの相手をする方が楽かもしれないと思い始めていた。
湖から遠ざかり、岩場ばかりの斜面を登っていた。いくつか候補はあるが、恐らくここは不死鳥の森だ。火山の火口付近で火の鳥を見たという目撃談が絶えない森で、浅い部分は初級冒険者、樹海部分は中級冒険者、火口までたどり着けるのは上級冒険者で数えるほどしかいない、というような場所だったはずだ。私は高いところに昇り、他の湖や湯気が立つような場所がないか見回そうと考えていた。
地熱で暖かいせいか植生が森の入り口側とは異なり、甘みのある果物がいくらか採取出来たので、果汁と血液を混ぜたりして栄養に偏りが出ないようにできないか検証していた。
火山があれば豊富な資材が手に入る。硫黄や、希少鉱石、湯が湧き出ていれば風呂にも浸かりたい。
一方で火ネズミのようにファイアボールを撃つような魔獣が出始めたことで、念動力で浮かせるだけでは反撃されてしまう場面も多々出てきた。
とはいえ、周囲を見回す偵察だけが目的だ。不死鳥のような常識外の怪物と出くわすことにはならないだろう。もし仮に遭遇しても冒険者が目撃しても帰還することが出来るような存在だ。逃げることは容易だろう。
他の繁殖をする魔物と違って一羽しかいないという話もある。一体どういう理屈でその一羽だけが生まれ出でたのか興味は尽きないが、今は自分を育てることが先決だ。
私は岩陰での小休止を終えて再び体を浮き上がらせた。
御者付きの馬車でクエストに挑む冒険者など聞いたことがない。何度もそう思いつつも今となってははじめの頃のように何の気兼ねもなく迂闊な事を言うつもりはなかったので、馬車の中では度々無言が続いた。
「ロック、輪廻転生を知っているか?」
必要な情報は伝達し終えて、何度目かになる無駄話が始まった。
「ええ、故郷の主な宗教では人々は様々な生き物として生と死を繰り返すのだから、例え虫だろうと無闇に殺してはならないと教えられます」
「ああ、ブッディスタ民主国の出身だったか。では、それを信じているか?」
「いえ、私はあまり宗教に熱心ではないので。人も動物も魔獣も、死んだら思考は終わり、肉体は自然に還るだけです」
「くっく、淡白だな。だが、魂を見分ける方法があるとしたら?」
ロックは考え込んだが、無意味だと思い直した。
「あるいは輪廻転生が現実に起こっていることだと主張できそうですけれど、体が完全に新しい状態になっていて、過去の事を覚えていなければそれは別人ではないですか」
「なるほど、貴君も記憶の連続性がその人を個人たらしめるという訳だな」
「そうですね」
「確かに、思い出を共有できない人をその人本人だと主張するのは難しいことだ」
「なんですか」
目の前のエルフ、リナリアに奇妙な優しい視線を送られていることに気付いたロックは居心地の悪さを感じた。
「実はね、ロック、私は貴君にも一度会ったことがあるのだよ」
「……」
魂が見分けられるという戯言に基づいて、遊び始まったのだと思ったロックはどう返していいかわからなかった。
「別れたのは、もう、20年は前になるけれど、前の貴君はこの国の王都近くの村で生まれた。その後冒険者になって、国中で今と同じように薬草や魔獣を追いかけていた」
そういわれても、記憶が蘇るはずはないのだ。思いが詰まった心臓は死んだときに焼かれるか、少なくとも腐り果ててしまっているのだから。
「これは驚くべき確率なのだよ。それなりに長生きをしているから、魂の色や形を覚えているのは結構な人数に昇るのだが、王都だって今生きている人口3万人全員を把握できるわけじゃなし、生まれ変わる時は別の国に行っているかもしれない。魂に国境も人種も関係ないからね。だから貴君は私が生涯で見つけられた知り合いの5人のうちの一人なのだよ」
「私に前世のような振る舞いを期待されているのだとしたら、それには応えられませんよ」
「勿論だとも、貴君はそのままでよかろうよ。だが不思議なものだ。貴君の振る舞いは完全に同じではなくても、どこか面影があるのだ。自由を求めていて、好奇心旺盛で、人に好かれやすい」
「そういわれても返答に困ります」
「くっく、そうだね。だが、この先には私の生涯でたった一人師事した人が居るかもしれない。きっと君はあの人の魂の輝きを目の当たりにするだろう」
あまりにも驚いて聞き返そうとしたが、その時にはリナリアはうとうとと眠りについてしまっていた。手元には蒸留酒が大事そうに抱えられて、尊大な男じみた話し方とは裏腹にふくよかな胸元に埋まりかけていた。あれはそうだ、領主邸で代官に睨まれながら勝手に持ち出してきた高そうなやつだ。
これはちょっとやそっとでは起きそうにないとロックは野盗などの襲撃に備えた警戒を解かずに、御者に休憩は必要ないか尋ねた。
山頂まで行く必要はないだろうと岩だらけで草木の見当たらなくなった見晴らしのいい8合目ほどで麓を眺めていると、急激な気温の高まりに襲われた。
乳児ではなくとも人間というのは内臓の温度を適切に保たなければ、免疫力を低下させ、体の不調に見舞われることになる。あの男から徴発したマントに細工をして一定の体温を保てるようにしていたため、体には影響はないが、熱源探知ではまともに原因になる存在の輪郭を捕らえられないほど周囲に高温をまき散らしている。
「ぐわーはっはっはっは!!! 我こそは劫火の男!! 火魔法を極めた不死のものなり!!」
私が目をぱちくりさせてぼやけた視界で相手を見ているとどうやら私を視認してわざわざ自己紹介しに来たようで、こちらを凝視している。
「ん?? 赤ん坊だけか? 親は? まさかこんな山頂近くまで子供を捨てに来たのか?」
音響魔法に細工をして、音波の反響から障害物の像を知覚できるようにした上に、熱源探知の閾値を調整してようやく大まかな輪郭が捉えられるようになった。
「許せん!! こんないたいけな赤ん坊を捨てるとは!! 付近の村々を親ごと焼き尽くしてくれる!!」
なんだか物騒なことを喚きだしたので、私はこの翼状に炎を展開し続けている頭のおかしい男に音響魔法で話しかけてみることにした。
『やめてもらえる?』
「なんだ!? 脳内に直接!?」
『いや、声帯を通してないだけで空気を振動させて喋ってるけど』
「どこだ? どこにいる!! 姿を現せ!!」
『あの、目の前の……』
「この赤ん坊を盾にしようというのか!? 卑怯者め!!」
そう来たか。いや、普通に考えれば赤ん坊が話すなど信じるはずがないか。赤ん坊を見捨てて隠れた親が炎に身を包んだ恐ろしい魔人から赤ん坊を犠牲にして生き延びようとしていると思われても仕方がない。
『ちなみに、契約の糸が見えたりはしないか』
「そんなものが見えれば騎士にならずに宮廷魔術師になっただろう。何しろ見るだけで相手の力量を測れるのだ。楽に高給取りになれる。そんな者王国で5人もいない」
困った。予備頭脳で思考は明瞭だが、乳児である私の肉体は乳児並みの動きしかできない。視界もまだぼやけたままだ。
そして何よりまずいのはちょうど見晴らしのいいこの場所で食事にしようとしたところにこいつが現れた事だ。腹が減って泣きそうだ。
「もう我慢ならん!! 赤ん坊ごと地獄の業火で焼き尽くしてくれる!!!」
こいつ、もしや燃やせればなんでもいいのではないだろうか。
とにかく、偶然出くわしただけの相手と敵対したくはなかったが、会話が成り立たず攻撃してくるというのならば、相手を殺すことになったとしても反撃しなければならない。
私の乳児の体が空腹を訴え泣き始めた声を合図に相手は高く飛び上がった。火魔法で上昇気流を生み出しているようだ。風魔法や念動力由来の浮遊ではない。こまめにファイアボールに似た衝撃波を放ち、飛行する方向を調整している。本当に火魔法だけで全てを実現しているようだ。
私は亜空間に押し込んでいたオークを取り出し、盾にしつつオークの血液を水魔法で薄めたものを飲み始めた。オークに限らず生物の肉体というのは多量の水分に覆われているから、火炎の直撃を避けるにはちょうどいい。
周囲には肉が焼ける匂いが立ち込め始めた。奴はかなり広い範囲へ炎をまき散らしている。
奴は単に火魔法を極めたというだけではないだろう。火魔法は体系化されて直接火を司る者と契約せずとも勉強さえすればほとんどの人間が多少は使える魔法である。しかし、あそこまで自在に高出力の炎を操るあたり、火を司るものに魅入られたに違いない。
現象を司る者たちに魅入られた生物は魔族と呼ばれるようになる。魔族と呼ばれるようになると、当人たちのセンス次第で現象を司る者たちと遜色のない水準の魔法が使えるようになる。
呑気に食事をしているが、少し他人より魔法の研究に秀でているだけの一般人である私はかなり危機的状況である。盾にしているオークがウェルダンから消し炭になるまでに何か対策を立てなければならない。私が少し細工をして断熱できる程度のマントでは防ぎきれはしまい。
現象を司る者たちと戦いになるという想定はしたことがなかったから、私は手当たり次第に試していくしかないと決意した。
高出力の火魔法はやはり耐性がある。水魔法は届く前に蒸発してしまう。風魔法は火の勢いを強めただけだった。土魔法による礫は高速で飛び回っている相手に当てるのは困難だった。防御壁は炎の直撃を防いでくれるが、オークと違って水分が少ない壁自体が高温を放つようになり蒸し焼きになりそうだった。亜空間に閉じ込めるのも、動き回っている相手がうまい具合にゲートに飛び込んでくれはしない。あからさまに怪しい魔法陣に飛び込むわけがなかった。
私は雷撃を放った。
水魔法をぶつけたことで発生した水蒸気は雷雲を形成し、雷は土壁に阻まれている私よりもぶんぶん飛び回っているフェニックス男を標的として選んだのだった。何もないところから電撃を放つよりも強いダメージを与えることになった。
しかし、私はここで失敗してしまった。麻痺した奴をさっさと亜空間に放り込んでしまえばよかったのだが、十分なダメージを与えられたと高を括って、ほんの数秒様子見に回ってしまったのだ。
奴は甚大なダメージを受けている様子だったが、すぐさま立ち直り戦闘態勢に戻った。
「雷が落ちるとは運のいい奴だ……!」
急に雷雲が立ち込めている事を疑問には思わないようだが、それでも警戒心が一層高まり、雷をこれ以上当てるのは無理だと確信するには十分だった。
火力と範囲が一層増して反撃の隙が無い。オークは焼け焦げた不快な臭いを発し始めている。土魔法による防御壁は火の直撃よりはましとは言え、どんどん赤熱化している。
空間転移でも出来ればいいのにとできない事を夢想しながら、このまま死んでしまうのだろうかと不安でいっぱいだった。
「お師匠様、また追い込まれているんですか?」
『うわ、近い、怖い!!!』
いつの間にか上部のオーク、四方の土魔法による防御壁の中に滑り込んできていたエルフ娘が赤ん坊の私に顔を近づけそんなことを聞いている。いや、こいつは見覚えがあるぞ。忘れようとて忘れられない。
魂魄を司るものに魅入られたシャーマンの末裔、ベナンダンティ。魂魄の魔人、不肖の元弟子、放浪のエルフ、リナリア!
最悪だ。火の魔人に苦戦しているところに魂魄の魔人だと。そもそも、魔人なんて普通に生きていて一度も出会わずに死ぬのが普通なのに。
いや、待て。いくら奴でもこの劫火の中心地に居る私の元へ無傷でたどり着ける訳はない。これは麓辺りでトランスを行って発している霊体か!!
一瞬別人だと白を切ろうという考えがよぎったが、無駄だ。転生した今なら確信が持てる。奴は魂魄で個人を識別している。所在地を特定されている今、奴の肉体がたどり着く前にこの火の魔人をどうにかして撤退しなければ。
『これくらいなんてことはないさ。だがこの後も予定が詰まっているから、お前の相手はしていられないよ』
「お昼寝の時間だからですか?」
くっ、こいつ馬鹿にして!
だが確かにオークの血液を飲んで、たくさん魔法を使ったからかだんだん眠くなってきた。残りの体力を有効活用しなければ。
そこで私がひらめいたのは土魔法で地中に潜り、奴らが諦めるまでイモる事であった。
「それはズルいです!」
『そろそろ、肉体の方が限界なのではないか? 戻らなくていいのかね』
「師匠こそ空気が無いんじゃないですか」
『当然亜空間に大気を詰め込んだ瓶を大量に収納している。抜かりはないよ』
「ぐぬぬ」
ここは火山の麓付近の標高の地中。火の魔人がどうなったかはわからないが、まあ動くものが無くなれば落ち着くだろう。霊体は貫通してくるが、土魔法が無い状態で道具を用いて掘り進むならば数日か場合によっては一週間以上かかるだろう。
当然そんな長期間その場に居続ける訳もなく、奴らがちんたら掘っている間にさらに土魔法を用いてショートカットして遠くへ逃げるという寸法だ。
リナリアは私がどこへ行くか監視しようと霊体を飛ばせば土を掘れないし、霊体を戻して土を掘れば私が移動するので見失う。
今までやったことは無かったが、土の中を移動するのがここまでメリットだらけだとは思いもよらなかった。前世で亜空間に仕舞ったものが劣化せずに残っていることに気付いた今、食事も空気もまだまだあるし、食事と睡眠をとりながらのんびり掘り進めるとしよう。
できれば都か港町にたどり着いて養育院にでも潜り込みたいところだ。
私はそうして土の温もりに抱かれて眠りについたのだった。