聖女殺しの魔王
ヒロトアサノが王宮にダンジョンを内包する巨大な塔を打ち建てた日から、私の、と言っていいものか、赤ん坊の夜泣きが酷くなっていた。
赤ん坊は予備頭脳と繋がっているため、未熟な脳とは言え、ダンジョンが生成される際に起きた事をおおよそは理解し、否定的な感情を持ったようだった。
赤ん坊の自我が育ってきているためか、感情や感覚は情報として伝わってくるし、簡単な動作をすることもできるが、全てのコントロールは不可能になっていて、予備頭脳である私と赤ん坊の自我が乖離し始めている事を痛感させられた。
赤ん坊の脳から流れてくる感情は悲しみと怒りだった。
私としてはこの王国がダンジョンの遺産を食いつぶして自ら生産することなく自滅していくしかなかったところに、踏破され得ない進化するダンジョンと、地底都市に300年続く農業インフラを構築した実績のあるヒロトが農業をこの国に定着させるつもりで新たな為政者として君臨したことは国民のためになることと理解していた。
しかし、いくら赤ん坊の脳が未熟とは言え、直感的な善悪の判断というのは侮れないものだ。
打算ではヒロトの行為を肯定すべきと思えども、今回ダンジョンのコアに組み込まれた王族や貴族たちにも妻子がいることだろうし、ある意味死よりも悍ましい、ダンジョンコア化という仕打ちを受けるに値する罪が彼らにあっただろうか。
とはいえ、赤ん坊がこれに抗議するには幼すぎ、私がこれに抗議するには罪を犯し過ぎていた。
「これ、どうやったらまとまるんだ?」
ヒロトアサノは次々にダンジョンを進化させるアイディアを出してくるマイケルとヤンに辟易していた。
アイディアを出すに飽き足らず、ヤンに至っては勝手に強化した魔物を中に放出している。そのせいで階層ごとの難易度が滅茶苦茶になっており、現在一階に入った時点でそこそこ冒険者として経験を積んでいる者でも5分以内に魔物の餌になりかねない状況になっている。
塔を建ててこれまで進入禁止のままなので、犠牲者は興味本位で侵入した盗賊くらいのものだが。
仕方がないので、許可がない者が出入りした場合に軽度のライフドレインを自動的に発生するようにし、弱体化させることにした。魔物が外に脱走した場合を考えての事だから即死でも良かったのだが、国民や冒険者が勝手に入り込まない保証はなかったし、両者を識別する方法が思いつかなかったので暫定的にそのような処置としたのだ。
「心配いりマセーン! 日本のことわざには船頭多くして船山に上るというものがありマース!!」
マイケルがヒロトの独り言に反応して心配事を封殺しようとしてくる。
「船頭が多ければ川を下るしかなかった船も山に登れるようになるという事デース!!」
「そんなことわざだったか……?」
ヒロトは怪訝な顔をしながらマイケルを眺める。
「あのおじいちゃんの依頼に同行しなくて良かったの?」
ロナーが赤ん坊を寝かしつけて茶を飲みながら聞いてくる。
王都に来てから連日あちこち歩き回っていたので、今日は宿でのんびりすることにして朝食を食べて、買ったものを整理したり、赤ん坊をあやしたりしていた。
「ニコラス・カメルか。まあ彼なら大丈夫だろう。別にグレーウルフの連中が依頼を受けなかったとしてもあの爺さん一人で何とかなる」
ドラゴン殺しの聖人、ニコラス・カメル。彼の大蛇討伐を私は観察していた。というか、王都近郊に現れたレッサードラゴンって、十中八九私たちが乗ってきたアレだろうし、むしろグレーウルフでは囮役か牽制役くらいしかできないかもしれない。
「彼を知っていたの?」
「ああ、以前、冒険者として旅をしていたころに、大蛇討伐の依頼を受けて辺境の村に行ったのだが、そこに彼がいてな」
私はロナーに当時の事を話し始めた。
「当時宣教師をしていた彼は、国内でも辺境の村に教えを説くためにあちこち旅をしていたようだった。それで、村からは冒険者ギルドにも依頼を出していたが、偶然訪れた宣教師のニコラスにそんな困りごとがあると話したのだ。私は彼が所属しているプロメテウス教とは聖女殺しの件で揉めたことがあったから、なるべく近付かずに観察していた。それで、どういう話の流れだったのかはわからないが、戦闘職でもない彼が大蛇を討伐するという事になったらしく、村人は大いに盛り上がって……」
「ちょっと待って」
ロナーが中断を要求してくる。
「何かね」
「聖女殺しって何?」
「ああ、私がプロメテウス教の聖女を殺したのを教会の連中が怒りに怒ってな」
「それって、いつもみたいに何かに巻き込まれて、碌に説明をしないせいで誤解された、みたいな話?」
私はてっきり、過去魔王と呼ばれていた事をスミカに気付かれて、新たに知り合った者たちに共有されているものだと思い込んでいたが、何も知らないようだった。
「いや、彼女は私が殺した」
「ちゃんと経緯を説明して」
ロナーは怒っているようだった。
「でも、大蛇討伐の話は……」
「知らないおじいちゃんの話はどうでもいいわ。あなたの話を聞かせて」
「あ、ハイ」
私が宗教都市プロメテウスに到着した時にはすべてが終わっていた。全ての民が骸と化したその都市の中心で、彼女は側付きであった青年アルバロ・ヴィオレットを抱えて途方に暮れていた。
彼女は数百年にわたってプロメテウス教の聖女として生きてきた生体の魔人であった。
彼女の名前はグラナディージャといった――。
グラナディージャは卓越した奇跡の使い手だった。長くしなやかな銀髪は聖装束のフードにほとんど隠されていたが、体型を隠すはずのゆったりとした服でも豊かな双丘は隠しきれていなかった。
大きく輝く瞳にはトケイソウのめしべのような模様が入った虹彩があり、長いまつ毛が影を落としていた。いつも引き取った孤児を付き人として複数人連れており、生涯独身だった彼女だが、母親のような優しい笑顔を常に絶やさない人であった。
彼女には噂があった。
引き連れている孤児が時たま入れ替わっていると。
しかし、周囲に連れている子供の顔を一人ひとり覚えている者はほとんどおらず、何より何百年も前から聖女としてそこに居ると言われている彼女に疑義を唱えられるものは居なかった。
孤児と直接話そうとしても、子供たちはグラナディージャの元から離れようとはしない。
当時の教皇デュランタ・ヴィオレットは自らの息子アルバロ・ヴィオレットをグラナディージャの側付きとして推薦した。当初は難色を示していた彼女も、アルバロの献身的でユーモアのある人柄を快く思うようになり、信頼関係を深めていった。
だが当然、アルバロを側付きに推したのはあわよくばグラナディージャのスキャンダルを目撃して欲しいという教皇の思惑があったのは間違いない。とは言え、アルバロは彼女の側を離れるなと念押しされた程度で、スパイのマネゴトは彼には向いていなかった。
教皇という立場はグラナディージャが隠れ蓑として置いただけで、実際には彼女が教会の長であるという評価は内外でまことしやかに囁かれていた。立身出世にご執心のデュランタは教皇に至った今もなおその評価が気にくわなかったのだ。
一方でグラナディージャは次期聖女として頭角を現しつつあったリュートリアに位を譲り、自分は辺境の地に隠居をするという建前で、噂として伝わってくる各国の争いで傷ついた人々を癒す旅に出たいと考えていた。
この機会に恵まれるまでに数百年かかったが、優しさと賢さを併せ持つアルバロと、卓越した奇跡と慈悲の心を持つリュートリアがいれば、自分が退いても問題は起こらないだろう。
彼女はある意味人生で初めて油断したのだ。
彼女は生体の魔人になってから抱えるようになった飢餓感を満たすために孤児を犠牲にしているところをアルバロに目撃されてしまった。
グラナディージャは地底都市で訳も分からず飢餓感に苛まれていたピエルとは違い、生体魔法で不老不死を実現していた。実のところそんなことをせずとも魔人化した時点で寿命からは解き放たれたのだが、不老不死の奇跡にたどり着くまでに彼女は80を超える老婆となっており、奇跡によって今の若い見た目に戻っていたのである。
彼女は飢餓感を生体の魔人特有の暴走とはつゆ知らず、不老不死の奇跡の代償として受け入れていた。
この不安定な世界を救済するためには、行き場のない人を数年に一度犠牲にすることはやむを得ない事だと彼女は認識していたのである。
彼女は力の抜け落ちた孤児の一人を抱えているところを目撃したアルバロが逃げ出すかと思い、相手を無力化する奇跡を発動しかけたが、彼に見られるのであればここが年貢の納め時なのだと納得して孤児を抱きかかえて墓所へ向かおうとした。
彼女とて世界の救済に犠牲が伴う事、ましてや高度な治癒の奇跡を使いこなす自分の命を永らえることが、いくら多くの人々の命や生活を守ることに繋がると言えども、孤児の命を奪って罪に問われないと本気で思っていたわけではないのだ。
ところがアルバロはグラナディージャを呼び止めた。
「私はあなたの共犯者になる」
アルバロは愚かでは無かった。その孤児が朝見かけた時は病気ひとつない元気な姿でグラナディージャを慕ってついていたのはわかっていた。
それが今彼女の腕の中でぐったりしているという事は、彼女の噂は本当だったという事だ。
しかし、一方で彼女なしに教会が立ち行かないことは側に居続けた数年の間にいやというほど思い知った。それほど彼女の力は絶大で、民たちからの信仰は厚かった。
グラナディージャは彼の言葉を若造の気の迷いだと思いつつ、信じることにした。この時孤軍奮闘を続けてきた彼女の人生が報われたように思えたのも、あるいは気の迷いだったかもしれない。
他の者は気付かなかったが、女の勘というべきかリュートリアはアルバロとグラナディージャの関係性が変わったことに気付いた。
彼女自身の才能もあるが、やはり無自覚のままとは言えすでに魔人に到達したグラナディージャに教えを乞うていた事が大きく影響し、若輩の身でありながら魔人まであと一歩というところまで来ていた。
過大な自信は理性を蝕むことがある。
彼女はもとよりアルバロを慕っていたため、疎ましく思い始めていた師であるグラナディージャに対する嫉妬心が芽生えた事は何の疑問もない。
リュートリアはよりにもよって教皇にそのことを相談してしまった。
「あなたの心のままに動きなさい。人類の常識の外にいる彼女が、何の傷も負わず病にも臥せらず眠るように息絶えたのなら、それが神の思し召しという事でしょう」
ライフドレインを使えという事であった。ライフドレインは教会内でもごく一部のものしか存在を知らない、使いこなすことが困難な奇跡であった。
彼女はグラナディージャが不老不死だという事を確信していた。つまり、一生かかってもリュートリアはアルバロを振り向かせることが出来ないという事なのだ。であれば障害を取り除くしかない。
グラナディージャの束の間の油断。身内二人の共謀。この二つが掛け合わされることで、グラナディージャにライフドレインが密かにかけられることとなったのだった。
「で、まあ孤児から生命力を奪ったばかりのグラナディージャがライフドレインですっからかんにされて、ピエルと同じ暴走状態になってしまい、リュートリアが半端に応戦したものだから都市の市民の全てが犠牲になって、結局リュートリアも討ち死に、教皇デュランタもいつの間にか巻き込まれて死んでいたようだ。彼女にライフドレインをかけるのを妨害されないために、使いに出されていたアルバロが戻ると、母親に隠れているように言われていた少女がフラフラと這い出てきたところを彼女が襲い掛かろうとしているのを見つけた。間に入ったアルバロが生命力を吸われて、ようやくグラナディージャが正気を取り戻したという訳だね」
グラナディージャに聞いた話と、唯一生き残った少女の証言を加味すると大体こんな流れのはずだ。
「じゃあ、正気に戻ったグラナディージャさん? をあなたが討伐したというの? 殺さずに裁きを受けさせるべきだったんじゃないの?」
「その選択肢ももちろんあったが、彼女は数百年かけて築いたものを自分の手で全て壊してしまった後だった。何より、ようやく巡り合った信頼関係を結べる相手さえも自分の手で殺めてしまったのだ。彼女にこれ以上罰を与えることなど誰ができるだろうか」
それに、彼女の絶大な治癒の奇跡は利用価値があるから、場合によっては刑罰と称して治癒の奇跡を王族が戦争に利用しないとも限らない。それに彼女が応じたかは疑問だが。
ちなみに教会は市井が神聖魔法と呼ぶ奇跡を決して魔法とは認めていない。魔法は悪魔の力を使うもので、奇跡は神の力を使うものだというのだ。結局、そんな理解度だから、奇跡と呼ばれる神聖魔法には、生体魔法や光魔法がごちゃまぜになって含まれている。
ロナーは黙り込んだ。この話は私も無闇に人に話したくはない。どうしようもない胸糞の悪くなる話だから。
「わかったわ。それで、教会の人に聖女殺しの魔王と呼ばれることになったのね」
どうやら、私が面倒くさがって説明を拒んだ訳じゃない事は理解してくれたようだが、実はこの話には続きがある。
「確かに聖女殺しはその通りなのだが、魔王と呼ばれたのはまた別の話で……」
グラナディージャはどこの誰ともわからないエスカに唯一の生き残りである少女を託せるか疑問だったため、白髪の自身の身の丈ほどの刀身のロングソードを背負った少年が少女を守るために十分な力と理性を持っているか試すために応戦した。
エスカの剣技は教会が保有する騎士団をはるかに上回る練度で、その上無詠唱で攻撃魔法をバンバン撃ってくるその怪物の力はすぐに思い知ったが、その道徳心や理性については、自分の苦し紛れの遠距離攻撃の奇跡が誤って少女に当たりそうになったところを身を挺してエスカが守ったことで問題ないと確信した。
そして、エスカが少女の無事を確認して向けた剣を、彼女は甘んじて受け入れたのだった。
一週間が過ぎ、グラナディージャがようやく息を引き取ったころ、宗教都市プロメテウスの市民がアンデッド化し始めた。
無事だった少女、ヘルベラはエスカの持っていた食料を頼りに生活し、毎日自分の母親や近所の人々の死体に手を合わせていた。幼い彼女に埋葬は困難で、倒れた家屋から引っ張り出してきた布を被せるのが精いっぱいだった。
エスカはアンデッドの発生に気付くと即座にヘルベラの近くに飛んでいき、剣を構えた。
「どうやらリュートリアとか言う奴のライフドレインで吸われた生命力が行き場を失って死体に干渉したらしいな」
「お母さん……」
ヘルベラの目の前には被されていた布を引きずって歩いてくる、彼女の母親がいた。
「仕方ない、いったん逃げるか」
「大丈夫だよ、おにいちゃん。お母さんが死んじゃったことは悲しいけどわかってる。やっちゃって」
ヘルベラの瞳は強くエスカを信頼していることを訴えていた。
「ヘルベラは偉いな。目をつぶっててもいいぞ」
「うん」
返答とは裏腹に彼女はエスカの一挙手一投足を見逃すまいと、彼の動きを目で追っていた。
時悪しく宗教都市との連絡が取れなくなったことから、ギルドが派遣した冒険者が到着した。
それが、光の勇者と呼ばれたマイケルであった。
マイケルは当時いち冒険者に過ぎなかったが、冒険者の格付けや依頼難易度の設定など様々な提言をしていた上に、生来の思い込みの強さも相まって転移してからあっという間に光の魔人と化し、ヒュドラ討伐など前人未到の戦果を次々と挙げていた。
彼が依頼されたのはあくまでも調査で、情報を持ち帰り騎士団に提供するのが彼の仕事だった。都市との連絡が途絶えるほどの異常事態だったため、もし戦闘になっても確実に生きて情報を持ち帰れる人材として彼が選ばれたのだった。しかし――。
「敵がいた場合、倒してしまっても構わないのデショう?」
マイケルは思い込みが激しかった。
しかして、都市に到着したマイケルが目撃したのは少女を人質にして、市民を切り捨て、アンデッド化させているエスカの姿だった。
そう、マイケルは思い込みが激しかったのである。
「何という外道……! ミナサン! 敵は1人です! 人質の安全を最優先にして討伐します!!」
「おう!!!!」
マイケルが臨時で組んでいた冒険者パーティーの面々が応じた。
ところが、アンデッドを切り伏せながら片手間で攻撃してくるエスカに手も足も出ず、逆にメンバーの一人でスカウト役の男がアンデッドに噛みつかれ重傷を負うことになった。
アンデッドに噛みつかれるとアンデッドになると信じられていたため、マイケルはメンバーの命を守るために撤退を余儀なくされたのである。
アンデッドは死者に過剰な生命力が宿った際に起こる現象である。嚙みつかれた際に生体魔法を持たない者に生命力が流れ込むと、そのエネルギーを持て余すことになり、そのまま死ぬとアンデッド化することはありうる。
それにアンデッドは雑菌の塊であるし、疫病などで死んだ場合は、病によって死期が早まる場合もある。アンデッドが多発していれば他の魔獣も寄ってくるので、怪我をしたら即撤退する判断は正しい。
マイケルの報告により、アンデッドを使役する魔王としてエスカは冒険者ギルドや教会、王国に認知され、宗教都市のアンデッドをすべて処理した後、ヘルベラを連れて郊外の農場跡に隠れ住むことになった。
しばらくその生活を続ける中で、ヘルベラがお使いを頼むたびに孤児を見つけて連れてくるのでかなりの大所帯になったのだった。
『そうだ、その時面倒を見ていたリブラに会いに行く約束をしていたのだった。せっかく王都まで来たし明日はあいつの元に行くとしよう』
「あの時、白いホーンウルフを操っていた人よね?」
『そうとも』
スタンピードの際、この王都から城塞都市に居るホーンウルフを操っていたリブラはどうやら私の知らない魔法を覚えているようだったし、今度は私が教えを乞う番だろう。
そういえば、あのホーンウルフ、脳髄太郎が持ち出したんだったな。魔法も使えない状態じゃ、素材として売り払うぐらいしかできなかったんじゃないだろうか。もったいない事だ。
そこへグレーウルフの面々がへとへとになって宿に戻ってきた。
「エスカさーん。もしかしてあのおじいさんの実力知ってました?」
情けない声でアリスがそんな問いを投げかけてくる。
『だから、依頼を受ける必要はないって言ったではないか』
「そういう事ならそうと言ってほしかったですよね。てっきり面倒ごとを嫌がってるだけかと思いましたよ」
まあ、それも否定はできないがね。
「風呂行ってくる」
ヴァンダがそう宣言する。宿にはせいぜい体をふくための桶一杯のお湯くらいしか用意されないが、王都には公衆浴場と呼ばれるでかい風呂がある。
風呂のためにわざわざ水魔法使いと炎魔法使いを雇っているという話だ。
確かにそこに行った方がいいくらい、土ぼこりと汗にまみれている。
「私も大きいお風呂に行ってみたわ」
ヴァンダが隣の部屋で大楯を放り投げ、鎧を脱ぎだしている音が響く中、ロナーが乗り気になったため、全員で行くことになった。
「本当に見えてないんですよね?」
アリスが念を押してくる。
そもそも私、今女子なんだが。
『複眼も仕舞ったし、見えていないとも』
「アリスったらお子様ね」
リリーは聖職者のくせに裸に抵抗がなさすぎないだろうか。
「二人ともちゃんと体洗ってから湯船に入ってよね」
ロナーが釘を刺す。二人も男どもに負けず劣らず汗と土ぼこりでドロドロである。
男湯の方はどうなっているかわからないが、女湯ほど盛り上がってはなさそうだ。
「それで、あのおじいちゃんは強かったの?」
ロナーの問いかけにアリスは言いたくて仕方がなかったというように勢いよく喋り出す。
「強かったどころじゃないよ! 私たちほとんど足手まといって感じで」
「自信を無くしましたわよね」
アリスが語ったレッサードラゴン討伐の顛末はだいたい予想通りだった。
ドラゴンというものはほとんど目撃情報がなく、一方で目撃されれば強烈な印象を残すため、情報が独り歩きすることはよくある。
レッサードラゴンというのも、魔獣事典を読み込んで特徴を知っているか、それより大きなドラゴンを見た事が無い限りは、最強と呼ばれるドラゴンだと誤認してもおかしくはない。
私は基本的にはレッサードラゴンは移動に便利なので討伐しない方針だが、市民生活に実害がないとも言えず、討伐されるのは致し方ない。
しかし、基本的にレッサードラゴンはゴブリンとは違い享楽で殺戮をするようなことはないし、生活圏が滅多に被らない人間を襲うことも稀なので、近郊でしばらく休んでいるとしても放っておけばそのうちどこかへ行ってしまうものである。
少し前にリナリアがワイバーンを単独討伐していたが、ワイバーンにしろレッサードラゴンにしろ、普通の人間では集団で戦略を練らなければ討伐できないという意味では脅威度はほとんど変わらない。
それに、種別では蛇と括られる魔獣も、実のところ大蛇と呼ばれるものになると、討伐難易度はワイバーンとそう変わらなくなる。ニコラスは魔獣事典で自分が討伐したものが大蛇の一種と記載されたことで功績を過小評価しているようだが、彼が討伐した大蛇は紛れもなく魔獣であり、それを彼は魔人でもないのに単独で討伐してのけていたのである。
まあ、その後、討伐を依頼した村人たちが、討伐された大蛇の死体を改めて見てその大きさに驚愕し、ドラゴン討伐の聖者として喧伝し始めたところから、王都民の噂や吟遊詩人の詩、張りぼてのドラゴンを動かして見せる興行で繰り返し公演される内にどんどん内容がエスカレートし、火を吐き強酸の毒の血液を持つ、鋼のようなウロコで覆われた恐ろしい巨大なドラゴンを討伐したことになってしまったのは、同情の余地がないわけでもない。
流石にそこまで強力なドラゴン相手では、レッサードラゴン相手と同じ脅威度とは言えないのでね。
今回の相手がレッサードラゴンだったのは不幸中の幸いだっただろう。
そして、彼の強さの秘訣は、身体強化魔法の特異性にある。
普通、身体強化魔法というのは、教会的には神の加護といったところだが、生体魔法によって身体のリミッターを外し、火事場の馬鹿力を強制的に出させるもので、自分が持っている以上の力を出せるものではない。
しかし、ニコラスがたどり着いた身体強化魔法は念動力を全身に行き渡らせ、筋肉が持つ物理的な限界を超えて、自分の理想の動きを実現するもので、驚異的な威力を発揮する。
これも使用にはコツがあって、無意識に念動力の動きに抵抗してしまったり、関節が動かない方向に動かしてしまうと、あっという間に体が壊れてしまう。熟練するのは困難なのだが、ニコラスは起きている間中ずっとこの魔法をかけ続けている上に、関節の柔軟性を高めたり、心肺機能を向上したりと、地道な鍛錬を怠らないので、魔人化するのも時間の問題かもしれない。
それに、今回は神から下賜された聖剣とやらを持ち出していた。虹色のその剣はどこかで見たような輝きを放っていたが、どこで見たかは思い出せない。
ドラゴンほどでは無いにしろ、鋼の剣では斬ることが困難だったろうが、その聖剣は固いウロコをものともせず切り裂いたという。
空を自在に飛び回るレッサードラゴンに対し、ニコラスの重力を無視したような八面六臂の立ち回り。グレーウルフの役目は、ヴァンダがヘイトを稼いで、アリスが遠距離攻撃で牽制、リリーはニコラスが負ったかすり傷を治癒したくらいで、リーダーのマルクは荷物持ち以上の仕事はできなかったようである。
「マルク、落ち込んでましたわね」
「私たち以上に仕事が無かったもんね」
リリーとアリスは湯船につかってくつろぎながら、マルクに同情する。
「みんな無事でよかったわ」
ロナーは特別に借りた大きめの桶に少しぬるくしたお湯を満たして、赤ん坊の体を洗いながら微笑んでいる。
赤ん坊も機嫌が良さそうにしているし、今日くらいは夜泣きをせずに済むかもしれない。
「そうだわ。赤ちゃんの名前、オリビアにしましょう。みんなが無事で、平和な日々が続きますように」
平和か。
ヒロトアサノらがダンジョンを内包する塔を建て、王国を根本から変えようとしているし、レッサードラゴンだけではない魔獣たちの脅威も収まらないこの世界で多くの人々が求めてやまないものだ。
子供の名前に希望を見出すのは良いかもしれない。
私のエスカという名前など、冒険者登録をした時に鬼みたいな強さの試験官の剣戟から逃げ回っていたからという理由でエスカパルに因んで付けられたものだし、それよりはよっぽど良い。
うん、いい名前だ。
「良い名前ね」
「改めてよろしくお願いしますね、オリビアちゃん」
アリスとリリーも気に入ったようだ。
赤ん坊、いや、オリビアも満面の笑みでロナーの指を握りしめている。
湯殿に差し込む月光が彼女の名前を祝福してくれているようだった。




