人々は輪廻転生している
最初の記憶はまばゆい光だった。
転生間もない乳児の未発達の視覚では光と輪郭がぼんやりとした影しか認識できなかった。耳鳴りのような騒音と初めての呼吸で焼きつくような肺の痛みに、人生の終わりとばかりに力いっぱい泣き喚いた。やがて体力が尽きた私はひとまず眠りについた。
次に起きた時にはもうすでに森の中に捨てられていた。襤褸にくるまれていた事を考えると、貧困による口減らしだろう。襤褸とは言え布も貴重品だろうに、赤ん坊を裸のまま捨てるのは気が咎めたのか、寒さをしのぐ程度の施しはされたようだった。
私にとって幸運だったのは亜空間にバックアップしておいた予備頭脳が赤ん坊の精神状態を解析して、精神干渉系の魔法攻撃を受けているものと判断し起動した事だった。予備頭脳は前世においては精神支配や魂魄浸食の術を懸念して用意していたものだったが、問題なくレジストできたため無用の長物となり亜空間の肥やしになっていた。しかし、存在すら忘れていたそれによって図らずも私が否定していた輪廻転生が存在すると証明されてしまったのだった。
魂は輪廻転生を繰り返しているという、私が与太話だと前世で一蹴していたはずの仕組みが実在するということを外ならぬ私自身が証明してしまったのだ。魂が転生していると言っても、生まれ変わり体が一新し、記憶を蓄える脳味噌が一から形作られているわけだから、それはもう別人だろう。だがもし、脳味噌ではなく魂、あるいは魂に紐づけられているものに記憶が刻まれるというなら記憶の継続性が個の不滅を保証する事になる。
現象を司る者たちと魂の契約によって使用できるようになった魔法は、魂に紐づけられているのだから肉体の死後、転生してもそのままになっているのは当然の結果だろう。
無論肉体から離れた魂には魔法を使う意思が存在しないから、転生し人間相当の情報処理能力を有する生物にならなければならないだろうが。
そう、例え契約が結ばれていても使う意思が働かなければ、使えるものも使えないという事だ。そう考えれば、今まで赤ん坊が突然魔法を暴発させたというような話を一切聞かなかった説明がつく。魔法を使うためには現象を司る者たちとの契約内容を把握し、使用する魔法についての知識が不可欠となるから、魔法を使うための知識と意志、契約をした魂がそろっていないと使えない。だからこれまで転生しているはずの元魔法使いたちが、生まれた時から魔法が使えるという事は無いのだろう。
一度気まぐれでとった弟子に、私が複数の現象を司るものたちと契約を成功してあまつさえ錬金術にまで手を出していることに、他の魔法使いは現象を司るもの一柱の研究に一生を捧げることもざらだと諭されたことを思い出す。
私以外の、未だ心臓に記憶が蓄えられると考えている多くの人々は空間を司るものにたどり着くことすらできない。
私はただ一人虚弱な乳児の体で森の中に居るという事以上に、自分だけが不滅になってしまったという事実に言いようのない孤独感を覚えていた。
さて、何故山で捨てられ死ぬのを待つだけの乳児が思考能力を持っているか状況を整理できたところで、これからの事を考えなければならない。
魔法は以前と同様に使えるようだが、自分一人で森の中で生活するよりも、孤児院に身を寄せたほうが危険は少なそうだ。しかし、森に捨てられたことから近くに孤児院は無いのだろう。念動力で移動するにもエネルギー切れになり途中で力尽きるのが目に見えている。それだけではなく、孤児院までふわふわ浮きながら移動する赤ん坊として人に目撃されないとも限らない。そんな怪奇現象の噂が付きまとう得体の知れない赤ん坊を孤児院が受け入れるだろうか。子供を産んだは良いが、貧困により自分の手に負えない親が捨てて行ったと偽装できないのであれば、孤児院までの移動は複数の危険性が付きまとう。つまりリスクを承知で、森の中にあるもので乳児である自分の体を成長させていかなければならない。
赤ん坊は確か3時間おきに授乳する必要がある。私は覚悟を決めて森の獣を狩り、その血液を飲むことにした。乳が十分に出る動物に出会えれば幸運だったが、そううまくはいかない。
母乳は血液から作られるが、成分がまるっきり一緒という訳ではない。山野草や果実、薬草類を絞り出した汁で栄養失調を防げればいいが。質量を司るものと契約して使える念動力で足元を浮かせてしまえば大抵の動物は対抗手段を持たない。それで付近のネズミを狩り、血液を摂取した。清浄魔法がどの程度影響するかも未知数だ。感染症や腹を下す可能性もあり完璧ではないがないよりはましだと自分に言い聞かせた。前世において生物から採取した生の血液を飲もうなどという酔狂に身を委ねることはなかったのだから。
睡眠中には探知魔法による警戒をして、起きている時は付近を通りかかったネズミや兎、時にはホーンウルフやオークを狩りその血液を食事とするという単調な繰り返しをしていた。
これが親子なら赤ん坊が泣いている理由が何か知るためにあたふたするところだろうが、自分の体だから感覚が未発達で鈍いながらも空腹や排せつによる不快感をある程度感じ分けることができる。
ただ、最初から全てうまくいったわけでは無く、便意も尿意も感じないまま排泄物を漏らしていてこんなにも何の感覚もないものかと驚いた。鈍い五感を補うために探知魔法に細工をして異臭や温度変化を情報として疑似脳髄で処理していなければしばらく気付けなかったかもしれない。
襤褸とは言え一張羅を汚さずに排泄できるものと思い込んでいたから、排泄時に脱げばいいと思っていたのに盛大に漏らして汚してしまった。
仕方なく水魔法で清潔な水を生成し念動力で浮かして回転させて、執拗に洗った。前世での洗濯は、幼少期は母親がやったし、中年になって金が出来てからは孤児に小遣いをやってさせていたものの、若いころの貧乏時代には週に一回冷たい井戸水を使って手で揉み洗いをしたことを思い出した。
しばらくそんな生活をしながら雨風をしのぐため洞窟を探したが見つからず、幸運にも見つけた湖近くの樹洞を住処にした。あまりのジャストフィット具合に天然のゆりかごを手に入れたと喜んだ。無論揺れはすまいが。
それに湖の水を使用すれば、水魔法を使わずに節約できる。
ある日、行き倒れている冒険者に出くわした。
私が最初に捨てられていたのは森の中でも薬草や薪を採取することを目的とした人が比較的入り込む可能性があり、なおかつ親が私を捨てている場面を目撃されないほどほどに森の入り口から離れたところだっただろうが、洞窟を探すうちにオークとの遭遇率が上がり、ホーンウルフの上位種、ダークウルフとも遭遇する様になったところを見ると、かなり森深くに入り込んでしまっていたようだった。
腕試しに森に入り込んだあげく、行き倒れた冒険者に出くわすことも不思議ではない。
未だに赤ん坊の目は機能していないから、熱源探知、生命探知、音波感知を使用して得た魔法情報を疑似脳髄が処理している。
つまり近付いた時には私にはその冒険者が空腹で身動きが取れないだけだが、ほんの半日放置すれば死ぬことが分かっていた。
私は彼の手持ちの皮袋に水を満たし、これまで狩って亜空間に押し込んできた在庫からオークの太ももを取り出し、念動力で土を掘っただけの竈を作り、周辺から集めた薪に火魔法で着火し肉を炙り始めた。
対価として彼が羽織っていたくたびれたマントをはぎ取って、火事になってもすぐ対応できるくらいの距離で見守った。しばらくすれば肉の焼ける匂いで目が覚めるだろう。
予想通り彼は鼻をひくつかせて起き上がると、何の警戒もせずに食べ始めた。薄ら笑いを浮かべていたから夢か何かだと思ったのだろう。皮袋を取り出して水をがぶがぶ飲むと、なくなっていたはずの水が満タンになってる、やっぱり夢だ、と叫び、一層激しく肉を貪ると、食べ終わって満足したのかまた寝てしまった。
私はこのままこの男を囮に近付いてくる獣や魔物を狩り、亜空間に保存し始めた。男はしばらく寝れば体力を回復して帰路に就くことだろう。
それともこの男に自然を装って発見され、街まで運んでもらうか?
答えは否。
こんな森で行き倒れる男がもし善人だったとしても、乳児を育てる甲斐性があるとは思えない。この男が仕事をしている間に乳児の面倒を見られる伴侶がいるとも限らない。それに善人でも悪人でも自分が生き残るのも不安の残るこの森の中で、手のかかる乳児を拾って街まで連れて行って孤児院なり奴隷商なりに預けるという手間をかけるだろうか。
それに仮に街に連れて行ってもらったとして、街での生活に不満が出ても、人の目があっては子供のうちは自由に動けない。
私はこの男からはマントだけを頂戴して、さっさと一人で帰ってもらうことにした。
さっきの肉のカロリーがあれば森で迷いさえしなければ、街までたどり着くことが出来るだろう。皮袋には飲み残しが幸運にもあったと思われる程度に水を補充した。
男は目を覚ますと、竈を見やった。
「夢じゃなかった? いや、意識が朦朧としながら獣避けに焚火だけは作ったってところか。全く記憶にないが、長年のフィールドワーク生活がなせる業だな」
そんなことを言いながら自画自賛する男を冷めた目で見やり、さっさと竈の始末をして帰れと念じていると、マントがないと辺りを探し始めた。
マントは私が徴発したから探してもない。意識が朦朧として森の中を彷徨っている間にどこかで落としたんだと納得しろと念じていたが、なかなか諦めが悪く、いつまでも探している。
私は仕方なく音響魔法で獣の鳴き声をまねて男に急いで帰る理由を作ってやった。猛獣のいる森に居るということをやっと思い出したのか、男は太陽の位置を確認しながら帰り始めた。
それから数日経ったある日の事、例の男が他にも冒険者を引き連れてやってきた。
「確かに聞いたんです。この森に居るはずがないフレイムティガーの鳴き声を」
「いや疑っている訳じゃない。それに嘘だったとしても確認くらいはするさ。この森の浅いところは冒険者見習いが依頼でよくうろついているから」
リーダーらしきロングソードを腰に履いた青年が言う。どうやら年長者が未熟者を守るべきだと考えているらしい。
「十中八九遭難中の幻聴だと思いますけどね」
依頼に納得していないのか、否定的な事を言う、見るからに魔法使いですという見た目の若い女性。
「しかし、フレイムティガーの鳴き声なんてよく知ってましたね」
肌の露出が極端に少なく、髪もほとんど隠されているが線が細く美人であることが隠しきれていない聖職者らしき女性。
「私の本業は魔獣学研究ですからね。それに、昨年まで東の大陸で冒険者をやっていて、何度か聞く機会があったもので」
「確かにこの辺じゃいない魔物だ。俺たちもギルドで資料としてみたか、防具屋で毛皮が流通しているのを見たくらいだな。防火性能は高いらしいが、輸入で費用がかさんだと見えてちと簡単には手が出せない値段になっていたが」
盾役らしい大柄な男。
「それ本物ぉ?」
「費用はかさむが輸入できない距離じゃない。それに、ウルドの店だし多分本物だろ。今回の鳴き声だって場合によっちゃどっかの馬鹿が貴族に売るために生体を運搬してきて逃がしちまった可能性だってある」
私は冷や汗が流れ落ちる心境になった。
獣っぽい音を鳴らしただけであって、実在の魔物の鳴き声に似せるつもりはなかったし、まさかそれを聞き分けられる能力をあの男が持っているとも思わなかった。
とはいえ、連れの冒険者も念のための確認のつもりらしいし、しばらく探索すれば諦めるだろうと静観するつもりだった。
「それだけじゃないんです。いや、私も空腹や渇きで正常じゃなかったのは自覚してるし、ギルドには言えなかったんですが。……出るかもしれないです」
「フレイムティガー以外にか?」
盾役の男が訝し気に問う。
「まさかお化けなんて言うんじゃないでしょうね」
魔法使いらしき少女はアンデッド系のモンスターが苦手なのか、表情を引きつらせる。
「いえ、何ていうか、神様や精霊みたいなものです。私が水も飲み切ってしまって、食料も底をついて行き倒れていたんです。しばらく意識を失っていたんですが、香ばしいにおいに気付いて目を覚ますと、目の前に竈が作られてオークのモモらしき肉が遠火で焼かれているんです。しかも、皮袋にはいつの間にか水が満たされていて、私は最初今わの際に見る都合のいい夢なんじゃないかって思ったんですが、そこに、あのフレイムティガーの咆哮が響いたんです。同業が助けてくれるにしてもそんな回りくどいことをせずに、何なら恩を売るもんじゃないですか。正体も明かさずにこっちの状況を見通して必要なものを与えてくれるなんて、人ならざる者が助けてくれたんじゃないかって」
「信心深いのは良い事です。神は乗り越えられない試練を与えることはありません。よろしければ任務が終わった後に教会にいらっしゃいませんか」
「いや、それはちょっと」
布教に失敗した聖職者は急ぎ過ぎたか、と舌打ちした。
「まあ、敵対するわけじゃないならいいだろう。神にしろ精霊にしろ無駄に森を荒らさなければ不興を買うこともないだろうし」
「ちゃっちゃと確認を済ませて帰りましょ」
「そういったって、居るものを見つけるならまだしも居ないことを確認するとなると簡単じゃないぜ。一週間くらいは覚悟しねえとって言っといたろ」
私はどうしたものか思案に暮れた。一週間も森をうろつかれちゃ堪らない。拠点を移すか?
しかし、せっかく見つけた湖や愛着がわきつつある樹洞。探索を進めて過ごしやすい環境を確立しつつあるこの森から離れる?
いや、未だ生後一か月そこらの私の体が長距離の移動に耐えられるとも思えない。せめて離乳して固形物が食べられるようになれば、亜空間に放り込んでいる肉を喰えるのだが。
私が思案に暮れていると、冒険者たちはその日の探索を切り上げ野営をすることにしたらしい。よりによって私の最寄りの湖のほとりだ。人間快適だと思う環境は似通うものなのだろう。
拠点を抑えられた状態で1週間もの間、連中の動向に注視しながら相手に気付かれずに3時間おきに血液採取用の動物を確保する?
否、不可能だろう。
では、ほどほどに攻撃して撤退してもらうか? 戦闘となれば人数の多い向こうに有利だ。ただでさえ今の私は乳児なのだ。人数の不利にあっという間に圧倒されてしまうだろう。
拠点を移動するか?
否、湖のほとりを占拠され、警戒心の強い冒険者たちが野営の準備を始めてしまっているのだ。気付かれずに移動するのも、これから暗くなるという中で他の拠点候補を探すのも困難極まる。
今の私にはこの状況を穏便に納める方法があるようには思えなかった。
転生して早々森の中に捨てられていても、特に復讐するとか私を捨てざるを得なかった両親の貧困を華麗に解決して自分の実力をわからせてやろうなどという気はさらさらなかったが、ここまで追い詰められたからにはこの連中は消すしかない。
そう、必要な犠牲なのだ。
私は話に参加せず、彼らの背後を一定距離明けてついてきている恐らく斥候役で在ろう目立たない色の服を着た女をまず仕留めることにした。危機を悟った彼らが即座に情報を伝達するために彼女を退避させることは容易に想像できた。
離れたところに魔法を発動させ、彼女の脊髄を背後からアイスニードルで貫こうとしたところ、間一髪で気付かれて避けられた。それでも頸動脈を傷つけられたようで大量の出血をさせることが出来た。
一瞬の攻防で漏れた悲鳴に気付いた冒険者たちが背後を振り向いた。
「なんだ!?」
前方を警戒していた盾役の男は即座に後方にいた聖職者の女と立ち位置を入れ替え、悲鳴の聞こえた方向に視線を向けた。
「え、ちょ、ちょっと誰よアレ」
血を大量に流しているのは一目見ればわかると思うが、魔法使いの女は背後に誰かがいたという事に驚いていた。
「私の報告を元にギルドが調査依頼をCランク相当として出したのは依頼ボードを確認している冒険者ならだれでもわかることです」
「ああ、フレイムティガーを逃がした商人の横槍か、漁夫の利狙いの冒険者か」
無論漁夫の利狙いの冒険者など居たらギルドから追放されるからほとんどあり得ないことだと思いながら、もしかしたらフレイムティガーの生態運搬を依頼できるほど裕福な貴族とのつながりができるかもしれないという馬鹿な期待を持つ輩が居ないとも限らない。
「そうだな、で離れたところで単独行動しているそいつが真っ先に狙われたわけだ」
リーダーの言葉を受けて、盾役の男が呆れ気味に補足する。
「自業自得ね」
「まあとにかく今回は討伐依頼じゃなく調査依頼だ。全員隠れているフレイムティガーに警戒しつつそいつを担いで撤退するぞ。そいつの傷口がフレイムティガーの存在証明になるだろう。リリー、死なないように止血だけしてくれ」
リリーと呼ばれた聖職者は了解の意を示すと、出血を続ける首を押さえている女の元へ歩み寄った。一緒に盾役の男が近付き、聖職者を守ろうとしている。
止血しようと添えられている右手からずっと血が漏れ出ていて女は意識を保つのもやっとという様子だった。
私としては予想外だがこのまま撤退してくれるなら必要以上に相手を傷つけずに話が終わりそうだと期待していた。
抵抗せずに治療を受けるつもりでいる女はかすかな声で獣じゃない、と呟いた。
魔法で知覚している私には聞こえたが、傍に寄っているリリーにすら聞こえるかどうかわからない微かなものだ。
しかし、リリーは止血のために傷口を確認しハッとした。
「これは爪の引っ掻き傷じゃありません!」
「何!?」
白い手袋を血で真っ赤に染め、周囲を再度警戒しながら傷口が一本しかないとリーダーに伝えた。
「これを見てくれ! アイスニードルじゃないか!?」
盾役の男は地面に突き刺さった鋭い氷塊を見つけて声をあげた。
まずい。
非常にまずい。
魔法使いが周囲に潜んでいることを彼らは警戒するだろう。冒険者側の魔女が探知魔法に長けていれば私の居所を突き止めるまで時間はかからない――。
「見つけた」
あの魔女は大変優秀らしい。探索範囲を即座に広げ私の熱源か生命反応を探知したようだ。あのまま少ない犠牲で終わらせられれば良かったが。
「でも、何か変。ホーンラビットくらいの大きさしかない。アイスニードルを撃つ魔獣なんていたかしら」
アイスニードルを撃つ魔獣は存在する。しかし、当然この森にはいない。魔獣は住む場所に左右されて過酷な環境に適応するような耐性を得る。そして耐性を遺伝しながら数世代経つうちに自らが持つ耐性に近い属性の魔法を使う個体が現れ、それがさらに世代交代を繰り返すうちに種族として定着するのだ。つまり、零下耐性を身に着ける程寒い地域にしかいない。
先ほど行き倒れ男がフレイムティガーのいる大陸が東にあると言っていたから、ここは精霊の湖を擁する王国の辺境の森だろう。アイスニードルを撃つ雪土竜が出る雪山までは徒歩では年単位の遠征計画が必要になる。
追撃をしようにも場所が知られてしまった。私がどの順番で殺害するべきか考えていると魔女は急に恐慌状態に陥った。
「なんだ!? 何の攻撃だ!!」
「う、ああ、いあ、違うの! あいつは駄目、関わっちゃダメ、あんな数の悪魔と契約を結んでいるなんてありえない」
腰が抜けたのかへたり込み、護衛対象のはずの行き倒れ冒険者の男にしがみついている。
私はごくまれに現象を司る者たちとの契約関係を目視できる人間がいる事を思い出した。恐らくあの魔女はそれを見ることが出来るのだろう。最初から反応しなかったという事は常に見えているわけでは無く、相手を意識して集中する必要があるようだ。
以前契約関係が見える事について知り合いに聞いた時には、つながりが強くなり使える魔法の種類が増える程、どこかに繋がっている線のようなものは太く強く輝くようになると言っていたっけ。確かに私が関りを持っている現象を司る者たちの数は多い。彼らはどうなったのだろうかとふと思い立ったが、目の前の問題を解決するほうが先だ。
どうやら撤退してくれそうな空気が再度出来つつあるが、素直に撤退させて良いものだろうかという疑問もある。犠牲は無いに越したことはないが、全滅してもらった方があとくされない気もする。戦力を増強して再度襲撃などされたら面倒くさいことこの上ない。
「せ、精霊がお怒りなんだ……、せっかく拾っていただいた命をまた危険にさらしたから……」
行き倒れ冒険者がうわ言のようにつぶやいた。
「馬鹿な、精霊がいる泉は王都を挟んで反対側だぞ」
「新たに精霊が生まれたという事でしょうか」
リーダーは魔女が示した私の方に視線を向けているようで周囲への別の脅威にも警戒を怠っていない。聖女は考え込むように顎に手を当てている。過去新たに精霊が生まれたという文献が無かったか思い出そうとしているのかもしれない。
私はまた淡い期待を抱いた。精霊がいる泉は保護され人の立ち入りが制限される。このまま私を精霊だと勘違いしてくれれば……。
「違うわ……、精霊は……。私は以前王宮に勤めていたと言ったわよね。泉の精霊に異常がないか何度か視察に行ったことがあるのよ。当然刺激しないように細心の注意を払うよう言われていたわ。私は自然を傷つけないように歩き、あの精霊を目の当たりにしたの。でも、精霊の力はぼんやりと周囲に広がる霧状のもので、悪魔との契約関係のような糸状のものではないの。あれは糸というよりは鉱山で使われているロープのような太さだけど。だから絶対に精霊じゃない。断言するわ」
まさか元宮廷魔術師様のご登場とは。この依頼はCランク相当だと言っていなかったか。この冒険者たちはCランクではないのか。
膠着状態に陥ってしまった。向こうは得体の知れない私に攻撃して藪をつつきたくはなく、私も不利な状況で戦力も不明なまま敵味方の判断がつかない状況を崩したくはない。もし、上位ランクの冒険者だとすると戦闘を始めるのはまずいかもしれない。乳児の状態でどこまでできるかわからない。あの斥候らしき女にもアイスニードルを避けられるし、疑似脳髄の性能か乳児だからかはわからないが十分な力を発揮できているとは言えない。それに少しお腹が空いてきた。ご飯の時間は近い。
今ならまだ背後から狙っていた斥候を仕留めてやったと恩を売ることもできるかもしれない。場所が特定されている今、安易な逃走は避けるべきだろう。後ろから魔法やら弓やら撃たれてはたまらない。森の中だから遠距離攻撃も制約を受けるだろうが、前衛の剣士がどのくらいの動きができるかも予想できない。
「撤退する」
リーダーがとうとう決断した。
私は止血が済んだ斥候の女を盾役が背負って、行き倒れ冒険者が魔女に肩を貸して、前衛の剣士が殿を務め背後を警戒しながら後退していくのを黙って見まもった。
「何とかなった……」
改めて考えてみると、行き倒れ冒険者はともかく、中堅らしいあの冒険者たちに捨て子として拾われる選択肢もあったかもしれない。すっかり行き倒れ冒険者に拾われたくないという認識の延長線上で考えてしまっていた。アイスニードルで攻撃してしまった時点でその選択肢はなくなっていたが、もう少し冷静に状況の推移を分析するべきだった。
彼らが探知範囲から外れたのを確認すると、私はここから移動することを決めた。愛着もあるし、探索が効率的に進められない乳児の状態では、探索済みの場所から移動するのは惜しいが、彼らが脅威をそのまま放置してくれると期待するのは難しい。
精霊の湖が新たに誕生したなら王国騎士団と宮廷魔術師の調査団が、いく柱もの現象を司る者たちと契約したホーンラビット大の謎の怪物が棲みついたというなら、狩場を守るために冒険者ギルドが懸賞金をかけ、命知らずの冒険者たちが大挙するか、複数の冒険者パーティーをギルドが直接指揮し、討伐隊が派遣されるかもしれない。
あの冒険者パーティーが実力者ぞろいで湖に近付くなと警告したところで、ギルドも領主もはいそうですかと納得するわけがないのだ。
私は自分の痕跡を消すために腐心した。
私はこの時気付いていなかった。
長い耳の永劫の時を生きる種族の一人が私の魂の波動を感知しているという事を。
「おいたわしや、お師匠様、また追い込まれているのですね」
……そして、心配するかのような言葉とは裏腹に愉悦を覚えているかのように彼女の口角が上がっていた事を私は知る由もなかった。