春の日のできごと
4月。
ジャケットを羽織り、特徴のないビニール傘を片手に家をでる。
少し肌寒い、湿った空気。
霧のような雨の降る、春の日だった。
いつもの時間、いつもの通勤ルート。
駅前の喫煙所で一服。
いつもであればホームで電車を待つところ、今日はトイレへ。
私服に着替え、スーツをコインロッカーに放り込んで、改札を出る。
駅の入り口は二か所あるが、自宅からはこちらの入口にしかアクセスできない。
ロータリーに面した喫茶店の2階で、窓際に陣取った。
サンドイッチとコーヒー。
ドラマの刑事よりはいい物を食べているだろうか。
去年のクリスマス。
24日が金曜だから、ちょっとしたパーティーをしようと提案したら、断られた。
「平日は時間がないから、ちょっと早いけど23日にやっちゃわない?祝日だし」
「それなら、25日でもいいかも、クリスマスだし、土曜だしさ」
「土曜日は面倒くさいよ。23日に買い物に行って、ビーフシチュー作ってあげる」
面倒くさいとは、何がだろうか。
買い物には車で行くし、運転も荷物持ちも自分ではやらないのに。
でもまあ、そんな気分の時もあるか。
気にせず迎えた23日、妻の作ってくれたビーフシチューは、少し肉が堅かったけどおいしかった。
高級ではないが、シャンパンも用意して、二人だけのクリスマスパーティー。
プレゼントは、前から欲しがっていたネックレス。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。
寝る前に鍋を見ると、それなりの量が残っていた。
妻は健康のために、朝食はシリアル、夕食はフルーツと飲み物だけと決めている。
昼にビーフシチューを食べたとしても、明日の夕飯にはまた食べられるだろう。
一日たって再度煮込めば、お肉も柔らかくなるかもしれない。
翌日、柔らかお肉のビーフシチューを楽しみに家に帰ると、鍋が空だった。
シャワーを浴びている妻に聞くと、「食べちゃった」と言う。
あの量を一人で・・・?
シンクには、空の鍋だけが鎮座している。
夕飯に使った食器すら残っていない。
食器だけ洗って、拭いて、棚にしまったのだろうか。
洗い物は、いつもやらないのに。
仕事には、弁当を持っていくことにしている。
夕飯の残りを自分で詰めた、適当な弁当。
妻に手間をかけさせるほどではないと、自分でやることにしている。
1月のある日、夕飯にカレーを食べた。
ひき肉とみじん切りの玉ねぎでつくった、具材の小さいカレー。
明日の弁当はカレーにしようかな。
明朝に加熱して、保温のきくスープジャーに入れていけば、昼でもおいしく食べられるだろう。
忘れないようにと保温ジャーを出したところ、違和感があった。
固く閉じられた口。
あまり使わないこの手のものは、内部の乾燥のために、ゆるく閉めて隙間を開けておく。
前に使ったのは昨冬だったはずだ。
ジャーの口を開けると、中はカビだらけだった。
何故。
1年前の洗い残しに生えたのだろうか。
使わないことが分かっているから、丁寧に洗ったつもりだったが。
洗ってしまおうとシンクに持ち出したところ、手の上に水滴が落ちた。
ジャーの中が濡れている?
妻が使ったのだろうか。
2月14日。
火曜の朝は燃えるゴミの収集がある。
月曜の夜のうちにゴミをまとめて、燃えるゴミの袋を玄関先に置いておくのが毎週のルーチン。
妻は分別が苦手だから、妻の部屋のごみ箱は袋に流し込むことができない。
「ティッシュは燃える、お菓子の袋はビニール、化粧品のこれはビニールかな、化粧水・・・これはビンか」
いつものように分別していたら、たまたま目についた紙のゴミ。
くしゃくしゃに丸められたレシート。
さっきもらったチョコのレシートだろうか。
帰宅したらいなかったからメッセージを入れたら、わざわざ都内まで買いに行ったって言ってたな。
いいのが見つからなくて、結局普通のになっちゃったって。
気まぐれに開いたら、近所のスーパーのレシートだった。
ニンジン、白菜、しめじ、ブリ、牛乳、卵、チョコレート。
チョコレートは1,200円。
メーカー名が、俺がもらったチョコと同じだ。
購入日は、2月11日。
3月14日。
職場で弁当を食べて、一服しようと外に出たところ、電話が鳴った。
めずらしい、妻の実家からだ。
「もしもし?」
義母からの電話だった。携帯に謎のメッセージが出たのでどうしたらいいか教えてほしいとのこと。
妻にかけても出ないんだそうな。
まあ、手元に携帯を置いているとも限らないしな。
義母はせっかちな人だから、折り返しも待たずにこちらにかけてきたのだろう。
内容自体はなんてことない、ストレージの容量がいっぱいになりそうだという通知だった。
写真やビデオをいくつか消せば問題ないと伝え、電話を切る。
仕事を終えて家に帰ると、妻がいない。
メッセージを送ると、帰宅途中だという。
義母と買い物に行ったけど、いいものなかったから何も買わなかった。
聞いてもいないのに、そう答えた。
ああ、今日はホワイトデーか。
「今週の金曜日、友達とランチしてくるね」
そう妻が伝えてきたのは月曜日。
「その日は夕方に大事な会議があって、終わってからの作業もあるから遅くなると思う。誕生日、お祝いできなくてごめんね、土曜においしいものでも食べに行こう。」
「大丈夫、気にしないで。それなら、夕飯も食べてきちゃおうかな。ついでに、帰りに何か買ってきておくよ。金曜なのに大変だね、がんばってね」
そう答えて、妻は自室に引き上げた。
いつもなら、友達の名前を告げ、どこで何を食べるんだと、いいでしょー?と、自慢気に話すのに。
喫茶店の窓から、妻の姿が見えた。
ロータリーの反対側から、男が駆け寄る。
抱きついて、キスをして、腕に絡みついて。
男が手にする透明なビニール傘は、視界を遮ることはなかった。
喫茶店を出たが、駅に向かう人の中に二人が見当たらない。
見回せば、喫茶店と逆側の道に歩いていくのが見えた。
あちらには、飲み屋とホテルしかない。