第9話 イスラエルへ、荷物は軽く
9月になった。イスラエル行きは目前だ。おれは荷物のチェックリストを作り、旅行の準備に余念がない。ネザが言う。
「たった6日間の旅行なのにどうしてそんなに荷物を持って行くの? カップ麺、サングラス、日焼け止め、英会話の本、水のいらないシャンプー、紙おむつ。それって必要なの?」
「不安なんだよ。食べるものが口に合わなかったらどうしよう。日差しがきつかったらどうしよう。水がなかったらどうしよう。トイレがなかったらどうしよう。もう考えただけで不安になるんだよ」
「勇気を持ちなさい。そんな言い訳みたいな荷物は必要ないですよ。自転車に乗れないうちは補助輪が必要だけれど、いつかは補助輪無しで、一人で進まなくちゃならない時がくるんだよ」
「おれ、飛行機に乗って行くんだよ。自転車じゃないよ」
「荷物が多ければ多いほど安心なのはなぜでしょうか。それは怖いからです。もう怖くて怖くてしょうがない。まるで向こうの世界からこっちの世界に出てきた時みたいに荷物をたっぷり持たないと安心できないんだよね」
「おれ、海外に行くんだよ。あっちの世界ってなんだよ」
「あっちの世界から来た時に、自転車でたとえると補助輪を付けてあなたはこの世に来たんだよ。補助輪とは、自分が不利な時にウソをついてしまう心。言い訳する心、人のせいにする心。自分の思い通りにならない時に怒ってしまう心。自分が困ったときに自分より先に相手を困らせようとする心。
こういう破滅的な心は、あなたが前にいた世界で心に傷を負った原因になったことに対処するためにそろえた防具であり、補助輪なんだよ。それらは全部、恐怖心から生み出されたもの。弱い心を補うもの。補助輪がなくては倒れてしまう。自我が折れてしまうんだよね。
補助輪を外すのは怖いけれど、いつまでも補助輪付きではいられないんだよ。そのうち補助輪を付けていないと走れない自分が恥ずかしくなるときが来るよ。そのときは思い切って外してみようね」
会話がかみ合わない。ネザはしゃべりだすと人の声が聞こえなくなるのかな。ネザの言っていることはさっぱりわからなかった。おれはネザの言葉を理解するのが面倒くさくなって言い放った。
「補助輪付きの飛行機なんてあるか! 空を飛んでいくんだよ」
「そう、飛ぶときが来たら補助輪は邪魔になる。補助輪を捨てると軽くなるよね。助走をつけて飛んだら補助輪を捨てよう。それはとても勇気がいることだけれども、もっと高く飛ぶことができるよ。そして二度と地表に戻ることはないよ」
おれは思った。車輪なしでは着陸できないな。もし車輪が無くなったら飛ぶしかないんだ。勇気をもって飛ぶ。勇気で飛ぶ飛行機なんて乗りたくはない。これから飛行機に乗る人に向かってなんて不吉なことをいうバラだ。
しかし、荷物を減らせばその分飛行機は軽くなる。おれは思い切って荷物を減らした。少し心が軽くなったような気がした。飛行機の搭乗者は一蓮托生、運命共同体だ。飛行機に乗る人全員が荷物を軽くすれば、もっといいような気がした。
イスラエルに行くには直行便はなく、トルコ共和国経由でイスラエルに向かう。航空会社はトルコ航空。とても評判がいい航空会社らしい。海外は久しぶりというか人生2度目。2度目でイスラエルってハードル高いような気もするが、現地では日本人通訳を頼んでいることだし、まぁ大丈夫だろう。
家の花壇には、ペットボトルでできた自動水やり機を差し込み、ネザの葉っぱは和紙に包んでいざ成田へ出発。夜12時。飛行機は中継地のイスタンブールに向けて飛び立った。
約十時間のフライトの末、イスタンブールへ、そこからイスラエルのテルアビブ行きの飛行機に乗り換える。日本の空港とはまるで違う。みんな床に寝たり。車座になって飲み食いしたり。どよめくようなざわめきと喧噪が360度から聞こえてくる。
ここで問題が起こった。飛行場の改修工事で、テルアビブ行きの乗り場まで真っすぐに行けないことがわかった。飛行場の建物の外を回らないと行き着かないらしい。乗り換え時間は2時間。おれの英語力は中学校1年生レベル。英会話などまったく不能なので看板や掲示板だけが頼りだ。
「ネザ、英語わかるか?」
ネザはだんまりを決め込んでいる。ネザも英語はダメらしい。なんとかテルアビブ行きのトルコ航空の乗り場に着いたが出発時間ギリギリだった。間に合った、良かった。声に出して言いたいところだが、日本語が奇異に思われて注目されるとイヤなので心の中でつぶやいた。
飛行機は自分の席を探す時にドキドキする。そんな浮き足だった自分が飛行機に乗り込んで数歩、衝撃が脳天からつま先まで走った。この衝撃はこれまでの人生でも最大級だ!
飛行機内に流れるウエルカムミュージック。曲の旋律が、おれが少学校3年生の時に作曲した曲とまったく同じだった。最初から最後まで完全に一致した。これはどういうことだろう!
自分の座席についた時にはもう飛行機が動き出す時間だった。誰かにこの曲の曲名を聞きたかったが、聞くことができなかった。誰かに聞く勇気が出なかった。ここ一番で勇気が出せない自分が情けない。日本に帰ったら、トルコ航空や中近東の民謡のことを調べてみよう。
快適な飛行を続け、飛行機はイスラエルのテルアビブ国際空港に到着した。巨大で清潔な空港だ。日本人はめずらしいらしい。「ユー、ニンジャ?」「ユー、カラテマン?」など、突拍子もないことを聞かれる。税関では他国の入国状況を細かくチェックしているらしい。おれのパスポートは割と真っ白なので、すんなり税関を通り、日本人通訳と合流することができた。
ホテルに着く。部屋は12階でエルサレムの町が見渡せる。ネザもわざわざ付いて来たんだから、それなりに目的があるのかもしれない。
ガラスコップにミネラルウオーターを入れて、半分の葉っぱを入れた。ネザが反応する。
「コップじゃなくて、コーヒーカップの下に敷く白いお皿に水を入れて、お皿の縁に葉っぱが乗るように置いてね。お皿の縁が枕代わりになってちょうどいいの。それから外の景色が見えるように置いてくださいな」
「コースターのことか。鬼太郎のオヤジが茶碗の風呂に入っているようなくつろぎっぷりだな」
ネザは外の風景を見ているらしく、何も答えなかった。
水。日本人はあまりにもムダに使っているが、水は大切だ。この国の人々は水を確保するために常に努力を欠かしていない。一度使った上水をクリーニングして下水に使う、さらに街路樹などにまく技術などには頭の下がる思いがした。ここで自分たちの技術が役立つなら、こんなに嬉しいことはない。
この国や地域に縁があるとは思えないが、もし過去に縁があったのなら、お世話になった恩返しができればうれしいことだ。
仕事以外には、エルサレム旧市街、嘆きの壁、ゴルゴダの丘、死海、イエスが山上の垂訓を行った場所、イエスがヨハネから洗礼を受けた場所。そしてマサダ砦を見学した。気温摂氏47度の砂漠の中では一杯の水のありがたさが身にしみてわかった。
イスラエルに一週間ほど滞在し、無事帰国。日常に戻るのに数日かかったが、日本は恵まれた国だなと実感した。