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渡竜の日

作者: ニコネコ

なびいた髪が顔にまとわりつく。少し冷たい風が、昼間よりも強くなってきていた。昨日まであった青空は、今はどんよりとした灰色に染まりつつあった。重たげな雲が、早いスピードで東の空へと流れていく。抱きかかえる人形が風に飛ばされるのではないかと心配になって、私は両手に強く握りしめた。黒くうねる波の上、地平線の遠い空に、小さく夕焼けが沈んでいく。

「おじいちゃん、風がもう来てるよ」

 私は低い崖の下に向かって叫んだ。下では、祖父がボートを浜に固定する作業をしていた。岸辺にロープでつながれたボートが、ごごん、と時折ぶつかり合いながら揺らいでいる。

「まだ海水が暖かい。南西の空に竜は来ているか」

 かがんでいた祖父が顔を上げて聞いた。私は灰色の空に目を凝らす。

「翼だけ、見えるわ」

 風の音にかき消されないように、声を張り上げて祖父に返す。祖父は何度か頷き、「家に入れ、フェリラ」とそっけなく言った。いつもより早く雲が動いていくのをもう少し見ていたかったが、私は言う通りにすることにした。祖父は怒ると三日は口をきいてくれなくなるのだ。それに、なにしろ今日は、一年に一度の台風竜の渡りの日だ。

この村では、今夜はどの家も扉や窓に板張りをし、子どもに外出を禁じる。帳を固く閉じ、朝が来るまで静かに息を潜めて眠りにつく。強風を巻き起こす竜の群れが、やってくるのだ。

『――……東に向かうにつれ、次第に勢力を増していくものと思われます。この竜群は、これから夜にかけてカタルーニャ半島を通過して、ナボル地方へ向かう予測です。渡竜警報が出されているのはベルヌ南部、……―――』

「今年も来たわねえ」

 雑音の混じったラジオで流される暴風予報を聴いて、母が鍋から皿に料理を盛りながらぼやいた。

「竜の渡りが多い年は実りの多い秋になる。今夜だけの辛抱だ」

 祖父がライ麦のパンを片手に窓の外を見た。居間の薄い窓ガラスが、板張りと共に強風に揺らされ、生き物のようにがたがたと鳴っている。外は漆黒の闇に塗りつぶされ、何も見えかった。私は橙豆のスープを飲みながら、次第に大きくなる風の音を聞いていた。

「ごちそうさま」

スプーンを置いた私に母が声をかける。

「フェリラ、今日は早く寝るのよ。明日は枝拾いを手伝って頂戴。これだけ風が吹けば、明日は村中に沢山落ちているわ」

「母さん。私、竜を見たい」

「わがままを言わないで。竜の群れは大きな野風を起こすのよ。今夜は窓も開けてはいけないわ。わかったら、寝室へ行きなさい」

 ぽんぽんと背中を叩かれ、渋々と私は寝室へと向かった。



おおおん、おおおん、と嵐の吹き荒れる音が遠くから聞こえてくる。ベッドに潜り込んで聞いていると、大きな生き物が鳴いているようだ。その鳴き声は歓喜か、悲哀か、意味を理解することは出来ないが、互いを呼び合い、呼応しあっている。相変わらず外は荒れていて、屋根が風で軋んでいるのが聞こえてきていた。それでも温かい布団の中でまどろんでいると、だんだんと、荒れ狂う嵐はどこか別の世界の出来事のように思えてきた。窓のいななきは次第に遠くなり、うとうとと私は眠りに落ちていった。



突如とどろいた轟音に、私はどきりとして覚醒した。稲妻のような、津波が叩きつけたような、何か大きなものが音をたてて落ちてきた、そんな気がした。心臓が跳ねる中、ベッドから体を起こす。いつしか窓の外は激しい雨になり、暗闇の中に雫の打ち付ける音が響いている。今は何時だろうか。嵐は去ったのか。さっきの音は。竜たちは行ってしまったのだろうか。

居間が人の声で騒がしい。明かりが灯っており、扉の隙間から細く光が漏れていた。ぼそぼそと話し声がかすかに聞こえてくる。私は扉にそっと寄って、少しだけ開けて居間を覗いた。祖父が夜具の毛皮のケープを纏い、険しい顔で立っていた。そのとなりには母が同じように寝具姿で立っている。

「なんでしょう」

母が心配そうな顔で頬に手を置く。

「なにかあったな」

祖父は腕を組んで答えた。

「竜の旅に?」

「まだ嵐が治まっていないようだからな。いつもの年ならもう終わっている。まだ群れが近くにいる証拠だ」

そう言って窓に目をやる。私も思わずそちらを見た。打ち付ける雨粒が、闇夜をさらに暗く淀ませていた。見つめる祖父の横顔の険しさに、私は得たいの知れない不安感が湧きあがってくるのを感じた。

「フェリラ、起きちゃったのね」

扉から覗いていたのを見つけた母が、私を招き寄せた。その時、外を見ていた祖父がはっとして言った。

「――誰か来た」

 窓の外を灯りが一つ、近づいてくる。それが人の持つ灯し火だとわかるくらい大きくなり、どんどんどん、と玄関の戸を叩く音がした。祖父が素早く歩いていき鍵を開ける。戸が軋みながら開き、雨用のコートを頭まで被った若者が表れた。手に持ったランプが煌々と輝いて薄暗い家の中を照らし、入り込んできた冷たい風が、私の頬を冷やりとなでた。

「ビル爺さん、竜が落ちた! 村の外れの海岸だ」

走ってきたのだろうか、若者は荒い息を整えもせず言った。

「なんだって」

 祖父の驚愕の声と共に、母が頭上で息を呑む。私は不安に駆られ、母の足にしがみついた。

「どれくらいだ? どこに落ちた」

「一頭だ。群れからはぐれたらしい」

青年は狼狽した表情だ。全身を包んだコートから雨水がぽた、と玄関の絨毯に滴っている。

「村のみんなで空へ引き上げる。爺さんも手伝ってくれ」

「わかった」

祖父はうなずいて、少し考えるように黙った後、

「竜は子どもにしか見えん。フェリラ、一緒に来るんだ」

急に自分の名前を呼ばれ、私ははじかれたように祖父を見上げた。

「お父さん、フェリラを外へは……」

焦ったように母が祖父を見る。娘を外に出すのが心配なのだろう。

「仕方がない。風が見られん大人だけでは何も出来ん。鹿毛のコートと、皮の雨合羽を着せろ。フード付きのだ」

 祖父は眉を寄せて低い声で言った。自分も上着を脱いでコートを取り出す。外履きのブーツを出してきて、玄関に揃えた。

 母に着替えを手伝ってもらい、私は何重にも厚着をした。昔、雪の積もった日に隣町まで歩いて行った時も同じように何枚も着込んだな、と関係のない事を思い出しながらも、私は嵐の夜に外へと出る怖さと、竜を見ることが出来るという期待に胸を高鳴らせていた。コートのボタンを上から下まで留めて、祖父に手を引かれ、外へと出る。途端に嵐の雨風に晒された。祖父の手を頼りにして必死に歩くと、村の人々がたくさんいる場所へと出た。全員コートを羽織り、いくつかのランタンの灯りがどこか頼りない感じで周囲を照らしている。

「フェリラ。竜が見えるか?」

 祖父が聞いてきた。私は暗闇にじっと目を凝らす。

「……見えるわ」

暗闇の嵐の中、雨風を纏った大きな生き物が地面に座り込んでいるのが見えた。今まで遠い空を飛ぶのを見たことがあるが、近くで見るのは初めてだった。驚きと興奮で、自分の心臓がどきどきと跳ねているのが分かる。想像より、幾分体格が小さい気がする。空から落ちてしまったことの焦りや寂しさを感じ取るかのように、周りの風はそれに巻き込まれ、大きく流動していた。体躯の小ささと、どこか幼げな雰囲気に、私はピンと来て祖父に言った。

「――子どもよ。子どもの竜だわ」

 祖父は私の見つめる方を凝視しながら、そうか、と答えた。

「怪我はしていない。飛べるわ。けど、迷っている。群れがどっちに行ったのかわからなくなったみたい」

「幼体だ――早くランタンで道を!」

祖父は周囲の人間にそう指示した。いつのまにか火の入っていない携行ランプを持った大人たちが集まってきていた。

「もっと灯りを強くしろ」

「火種とオイルを」

「見えない。手元を照らしてくれ」

「並べ、並べ」

「群れのいる方角はどっちだ」

 激しく降る雨と吹きすさぶ風のせいで声が聞こえず、全員が怒鳴り合いながら作業をしていた。灯りを高く掲げた大人が海岸の崖へ向けて一列に並び始める。それはまるでプロペラ機の滑走路のように、灯火の一本線となって空への道を照らし出し始めた。その時、うずくまっていた竜が岩のような首をもたげ、嵐の虚空に目を向けた。

(あ――鳴く)

かっ、と大きく顎を開いて、竜が大きく咆哮した。そこら中に響く轟音。嵐を引き裂くような鳴き声が、地面の底から大気をつんざいて大空へと広がっていった。一段と強い強風が吹き荒れ、顔に叩きつけてきて、一瞬息が止まった。周囲の大人たちも、倒されないように顔を覆って屈む。怒声が錯綜し、私は恐ろしくなってぎゅっと目をつぶって両手で耳を塞いだ。止まない雨風と怒鳴り声が合唱になり、わけがわからなくなって、ただひたすらに恐怖がつのった。すると、私の手を握っている祖父のごつごつとした手が、ぎゅっと握り返してくれた。

「――フェリラ。フェリラ、大丈夫だ」

はっとして、そっと握り返す。

「何も心配することは無い。落ち付いて前を見るんだ」

掌が温かい。雨粒と強風が横なぎに叩きつけてくる中で、そこだけが家の中と同じ温もりを持っていて、拠り所のように思えた。

「竜を助けるんだ。安心する家族の元へ、帰してあげよう」

 祖父の声は穏やかだった。私は少し落ち着くことが出来て、そっと目を開けた。

 海岸の崖へと続く灯火の列を見つめていた竜が、体に寄せていた両脇の翼をわずかに動かした。周囲を纏う風が少しだけ強みを増す。

「……翼を広げた!」

私の声に、祖父が周囲の大人たちに合図した。

「飛ぶぞぉ! みんなかがめぇ!」

人々が姿勢を低くして強風に備えた。屋根のように巨大な翼を大きく広げて、竜がそちらに体を向ける。ランタンの列に向けて、二度、三度、翼をはためかせたかと思うと、海岸の崖へ向けて勢いよく飛び出した。ごおっ、という音がして、一瞬何も聞こえなくなった。海岸まで伸びた灯火の線が次々とかき消えていく。あまりの強風に、私の身体は宙に投げ出されたように浮きあがった。再び恐怖が湧きあがった瞬間、祖父が抱き寄せ、腕の中にしっかりと抱きしめた。私も祖父に強くしがみつく。十秒、二十秒、いやもっと経ったかもしれない。しばらく風の音以外は何も聞こえなくなり、そして急に辺りが静かになった。私がゆっくりと目を開けた時、人々はおそるおそる立ち上がって、周りを見回していた。雨風は止み、火の消えたランタンの、油くさい匂いがかすかに漂っている。風に吹き飛ばされたバケツがころころ、と転がっていた。

「……行っちゃった……」

私はそう呟きながら、みるみるうちに小さくなって暗雲に消えていく竜の姿を見つめた。

全員がびしょぬれのまま、しばらく飛んでいった方向を眺めていた。竜が去った空の果てはまだ嵐が続いていて、雷が鳴り響いているのがかすかに聞こえてくる。

「フェリラ、ありがとうな」

フードを取った私の頭をぽん、と祖父がなでた。大きく温かい掌は安心感があり、私は急に眠くなった気がして、祖父の足にもたれかかった。



 次の日の朝、ベッドに寝ていた私は、鳥の鳴き声とがやがやとした話し声で目を覚ました。いつのまにベッドに入ったのか、よく覚えていなかった。窓から差し込む朝日が目に眩しい。そろそろと家の玄関から出ると、村の大人たちがめいめい籠を手に取り、散らばる木枝を拾い集めている。乾き始めている地面は太陽の光で温められ、むわっとした土の匂いがした。母が私に気づき、声をかけてきた。

「起きたのね、フェリラ。着替えてきたら朝ご飯よ」

見上げた空は雲一つ無く、青さが目に染みるほどの快晴だ。私は海岸の方に目を向けた。暗雲はすでに無い。水平線から昇ってきた朝日が、海をきらきらと美しく輝かせていた。

(――元気でね)

私は、もう見えない竜の子どもに向かってそう祈った。彼らの目的地は遠く、旅は長く続いていくのだろう。その安全を願い、空に向かって両手を祈りの形へと組んだ。


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