前編
オフィスラブ、中編ものです。
残業なんて当たり前。
昨日だって一昨日だって、言っちゃえば入社してから殆ど定時で帰れたためしがない。
そんな私、清水みちるも気が付きゃ入社5年目で初々しさの欠片もない人材になっていた。初々しさどころでもないな、潤いの欠片も無い。梅雨時期の今はせめて大気だけでも潤っていてほしいものだが、有難いことに梅雨の晴れ間が続いて洗濯も悠々に出来る日が続いていた。とか言っている場合じゃないぞ、今はそれどころではない。
「あんた、一体いくつだ。」
明らかに呆れ顔で吐き捨てられた言葉に驚いて私は目を丸くして立ち止まっていた。そこそこの身長がある私でも見上げなければいけない目の前の男の顔をガン見して固まっている。間違いない、竹内アカツキくんは怒っていた。
「…竹内くんはいくつだっけか。」
「ああ!?」
おお!怖い!低く唸るような凄みに完全に萎縮した私は身体を跳ねさせて小さくなった。いや、怖い。普通に怖い。
「今そんな話してないだろうが。」
「は…はい。」
おかしい。私の記憶だと彼は間違いなく後輩の筈だ。院卒か?だったら年齢は上になるかもしれないけど、社会人歴は明らかに私のが上でしょうが。先輩にこの態度は何だろう。というか、竹内くんはこんな話し方だったっけ。
「あのおっさんとマジで飯食いに行く気かって聞いてんの。」
「おっさん!?」
おっさん発言に驚きはしたものの、話の内容で誰のことを指しているのかすぐに見当がついた。さっきまで立ち話をしていた他所の部の課長のことだ。
「行かないわよ。あの誘いだって社交辞令かコミュニケーションでしょ?」
今度ご飯でも食べに行かないか、そんな感じで気さくに話しかけられただけの話だ。前々から少し関わりがあって話しやすい課長には好感を持っていた。他愛のない話も沢山してきた。その延長線なのだと思って、いいですねと返事をしたけど。
「あれ本気だぞ。」
「ええ!?」
「あんたの曖昧な態度があのおっさんに言わせたんだからな。セクハラとか言うんじゃねえぞ。」
「ええー!?」
エレベーター近くの渡り廊下に声が響いて慌てて両手で口を押えた。幸いにも今は定時後の残業時間、エレベーターで帰宅しようとする課長とのやりとりを発見されて今ここに至っているのだ。とはいえ残業時間だから尚更人気が少なく声が響くのだけれども。
「女が誘うセクハラってやつもあるんだよ。胆に銘じといた方がいいんじゃない?」
「そう…なの?」
目から鱗というか新発見というか、自分のうぬぼれにがっくりしたというか、とにかくどうしようもない脱力感に襲われ私は肩を落とした。だって女子同士の集まりではまずセクハラは男が原因という大前提から話が始まる。こちらが軽くかわした会話の流れから出たセクハラも全て男性陣に非があるとしてブーイングを出し合うのだ。
「話戻るけど。大体あんた、いくつな訳?新入社員じゃあるまいし相手がどういう気持ちで話しているか位分かる年齢だろうが。何年社会人やってんの。」
「はあっ!?」
「あの程度のセクハラ?っていうの?それ位軽くかわせられないで…ちょっとスキル足りないんじゃない?男性経験少ないの?」
「それって完全にセクハラじゃない!?」
あまりの言われ様に流石に腹が立った私は渾身の睨みを竹内くんに突きつけてやった。しかし彼は感心したように声を漏らして何回か頷くとこう言ったのだ。
「流石にこれは分かるか。」
完全に馬鹿にされてる。確かに隙があったのかもしれないけど自意識過剰になるのも痛いところだし、自分なりに探りながら言葉を選んで対応してきたつもりだったのに。
「個人携帯、アドレス。教えてないだろうな。」
その言葉に私はまた固まった。
「…教えたな?」
「仕事で使ったから教えてる。でも別に交友目的で教えた訳じゃ…。」
「何のために社内メールがあると思ってんだよ。番号は別として個人アドレスってどこまでガードが緩いんだ。」
呆れ果てたというか、怒りというか、とにかく目が座って低い声を放つ竹内くんにますます私は身を固くした。怖い、てか怖い。でもそれを通り越して。
「…ど、どうしたらいいと思う?」
思わず目の前の不動明王にすがってしまった。すると不動明王は意地悪そうな笑みを浮かべて顎を上げる。つまりは完全に見下しポーズでほくそ笑んでいた。
「俺に聞く?」
何と鼻につく言い方だろうか。でも腹立つ気持ちより助けて欲しい願いの方が勝った私には選択肢などなかった。
「聞く。教えて。正直…他部署とはいえ相手が上司じゃどうしていいのか分からない。」
「成程ね。」
自分が蒔いた種だとしたら何かあったとしても上司になんて相談できる訳がない。遠回しに自分のせいではないのかと言われた女子社員の話を聞いたことがあった。セクハラにあって、辛かったから上司に相談したらそう言われたのだと泣いていたらしい。勿論、それを聞かされた私たち女子社員は怒り心頭でその上司に大ブーイングだったのだけれども。今思えば竹内くんの言ったように自分が蒔いた種だったのかもしれないと思うと途端に心細くなってしまったのだ。
「じゃあ、残業はあと1時間で切り上げて飯に行くぞ。」
「え?」
「あのおっさんのことだ、間違いなく今日中に何かしらを寄こしてくるだろうからな。その時に俺が言うことをそのまま打ち込んで送り返してやれ。」
そう言うと私の反応も待たずに竹内くんは腕時計を確認した。
「20時にロビーで集合。じゃあな。」
「あ、ちょっと!」
腕を伸ばすも竹内くんはそのまま背を向けて大部屋の方に戻って行ってしまったのだ。あと1時間後に待ち合わせ、そう思うと手持ちの仕事内容を必死で整理した。どのみちこんな精神状態じゃ捗りそうもない。
「戻ろ。」
そうして1時間、なんとか気力を振り絞って出来る限りの残務に取り掛かった。