DarkNest
ナターシャは岩肌に手を這わせると、必死に手のかけられそうなくぼみを探した。そして、ようやく手をかけ次の足場へと足を運んだところで、危うく滑り落ちていきそうになった。剥がれた岩肌の一部が、ガラガラと音を立てて落ちていく。その音が収まると、ナターシャは再び慎重に、岩山を這い登り始めた。
一息つけそうな岩棚に滑り込むと、ナターシャはぼんやりと中空を見つめた。―― 一昔前なら、このどこまでも広がっている青い空を美しいと思っただろう。一昔前なら、達成感とともに〈よくもまあ、随分と上まで上がってきたものだ〉と自分を褒め称えただろう。しかし、今のナターシャにあるのは〈無〉であり、そのはしばみ色の瞳にも何も映ってはいなかった。
まだ、登れるだろうか。それとも今日はこのままここで野営をしようか。――そんな算段をしながら、ナターシャは何となく自身の手を見つめた。
おてんばなのは昔からのことだが、だからといってここまで薄汚く汚れ、こんなにもぼろぼろではなかった。
そう思った瞬間、激しい憎悪が沸々と湧き、ナターシャの心を支配した。狂おしいほどに燃え盛り、しかしながら底が見えず、そして先が見えない、漆黒の闇のような激しい憎悪――。
――――灰色の魔道士は、世界から色を、そして命を奪っていく。ナターシャの心もまた、色を失いかけていた。一刻も早く魔道士を討たなければ、私が私でなくなってしまう。一刻も早く……。
ナターシャは決意を新たにするのも束の間、深い眠りへと落ちていった。
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一昔前のナターシャは、同じ〈旅をする〉にしても、もっと色鮮やかで喜びに溢れる楽しい旅をしていた。ナターシャは旅をするのが大好きで、水の国〈ウォルタニア〉や土の国〈クレメディア〉を訪れては、伝統工芸に触れたり郷土料理を食べ歩いたりと、その土地々々を全身全霊で満喫していた。
そして地元に帰ると、その体験してきたことをおもしろおかしく近所の子供達に話してやるのが大好きだった。子供達は尊敬にも似た眼差しで〈久々に帰って来た近所のお姉さん〉を見上げ、とても楽しそうに土産話の世界に身を浸す。そんな彼らのことが、ナターシャはとても愛おしかった。
子供たちから開放されると、今度はお土産を持って行きつけの定食屋や食材屋を回るのがナターシャの習慣だった。土産を渡し、そこで食べてきたもの、地元とは違う調理方法のあれこれなどを話すのだ。新しく出会ったものについて情報共有していると、すぐ作れそうなものについては、店主がその場で作リ始める。そして、試食をしながらまたああでもないこうでもないと言い合う。その過程で〈店の新たな定番メニュー〉が誕生したりするのが、店主たちにとってもナターシャにとっても楽しいひと時だった。
そんな、何もかもが愛おしいと思える時間が、よもや奪われることになるとはナターシャは思いもしなかった。
いつの頃からか、灰色の雲が空を覆い尽くした。あるいは、痛々しいほどに青しかない空が続き、雲が気配すらないか。土地々々によってそのような違いがあるが、そんな異常な日々が世界中で続いた。太陽が姿を消した地域では草花が根を腐らせ、雲が姿を消した地域では土地が乾き痩せていった。
神は我らを見捨て給うたのかと絶望する民衆に、さらに追い打ちをかける事態が発生した。――神域を守護する〈守護者〉が灰色の魔道士の眷属との戦いに敗れたというのだ。それにより、神より賜りし神器は風の国の王宮深くで眠っている拳銃が一丁のみとなってしまった。
ウィンディア王室は血眼になって、神器の適応者を探した。そしてたどり着いたのが、何世代も前にフレイディアへと移住していたナターシャとその家族たちだった。
ウィンディアの民は誇りが高く、それゆえに驕り高くもあった。そのため、移住して他の大地の魔力と混ざりあい、気高いウィンディアの象徴たる金髪が変色してしまっている者をひどく差別した。燃えるような夕焼け色の髪をしたナターシャたちも例に漏れることなく差別的な扱いを受けた。
「ウィンディアの誇りを穢す俗物が神器になど選ばれるはずがない。しかしながら、お前たちの先祖に守護者がいたからには、否が応でも適応するかどうか確かめなければならぬ」
そう言いながら面倒くさそうに息をつくウィンディア王の前で、ナターシャたちは首根をつかまれ、床に無理やり這いつくばらされていた。
父と弟が銃に触れ、何も起きなかった。王はそれ見たことかと言わんばかりに嘆息し、何の罪もないナターシャたちを地下牢に放り込んでおくようにと命じようとした。
「待ってください。全エルフの男性たちが選ばれないということは、もしかしたら女性が適応者なのかもしれないでしょう? 私に試させて!」
「汚らわしい娘が何をほざく。歴代の守護者は男なのだ。女が選ばれるわけがないだろう。お前たち女を連れてきたのも、そこの男どもに言うことを聞かせるためだけのこと」
「試すだけ試したって罰は当たらないでしょう!? もし私が選ばれたら、家族を即刻、家に帰らせて!」
横暴な王にナターシャはかみついた。王は冷たいまなざしをナターシャに向けると、一言ぽつりと返した。
「よかろう。しかし、お前が選ばれなければ、ウィンディアを侮辱した者として全員処刑する」
結局ナターシャは聖銃に選ばれたが、ウィンディア王は約束をきちんと守りはしなかった。ナターシャが世界救済の任務を投げ出さず、きちんと全うすることの担保として弟を幽閉してしまったのだ。
こうして、世界の命運を握る勇者であるナターシャは決して救世主としては扱われず、罪人さながらの仕打ちを受け、行く先々でも「世界を任せるには心もとない」として厄介者とされる日々が始まった。
旅に出るというその日、衛兵に連れられてやってきた弟が「姉ちゃん」と言って小さくすすり泣いたのをナターシャは忘れない。
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すすり泣く弟の声に驚いて起きたナターシャは、それが夢だと分かると心労のこもったため息をついた。
「……駄目ね。疲れて、お腹が空いていると、悪いことばかり考えてしまう。こんなの、私じゃない。今の私を弟が見たら、きっと悲しんで、それこそ泣いてしまうわ。ご飯を食べて、気持ちを入れ替えましょう」
自分にそう言い聞かせて、無理やり笑顔を作る。そして、食事の支度を始めたが、食べられるものは塩辛い干し肉とパサパサの古パンしかない。作った笑顔も、自然と暗くなっていく。
パンをかじり、口の中の水分が持っていかれるたびに、ナターシャの心からも何かが崩れ落ちていく。ぼんやりと見つめた先には神域があり、うっすらと闇色の繭が見てとれた。あの繭は灰色の魔導士の眷属を生み出しているという話を耳にしたが、まるで今の私のようだとナターシャは思った。
「暗い気持ちにとらわれて、幾重にも幾重にも闇に覆われて。まるで、私は闇の繭に閉じ込められた何かみたいだわ。そんな醜い繭から、美しいものが生まれるはずがない。……こんな気持ちにしかなることのできない世の中なんて、本当に救う意味があるのかしら。……いいえ、違う。私は私の親しい人たちに笑顔でいてもらいたい。だから、世界を救わなくちゃいけないのよ」
ナターシャの心は明滅し、それに呼応するように瞳に光が差したり、暗く落ち窪んだりした。
「ああもう、考えるの、やめやめ。これを食べたら世界救うわよ! これを食べたらね。いいわね、ナターシャ?」
ナターシャは自身にそう語りかけると、頑張ってパサパサの古パンを飲み下した。
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崖を登り切った先にある森の奥で、ナターシャは古のシャーマンに占ってもらった。星が示すところによると「最古の神が持たざる四色の力を再び集結させよ」ということだった。
「最古の神……? この世界を創ったのは〈四色の彩神〉のはずでしょう? 他にも神様がいらっしゃるというの? それに、四色の力と言ったって、神がお隠れになってしまったのに、どうやって……?」
ナターシャが首をひねったが、シャーマンは「答えを知りたくば、〈扉〉の先を行け」としか教えてはくれなかった。
聖銃の導きを頼りに、不思議な〈扉〉が現れる砂漠の噂にたどり着いたナターシャは、その砂漠の近くにある街でたくさんの食料と一頭のラクダを調達した。
これから、ナターシャは〈扉〉をくぐる。
闇の繭から抜け出して、色鮮やかな世界で輝かしく生きていくために。