ジゼル・ソーンダイク(3)
「はぁー……つかれた」
ジゼルはふかふかのベッドに体を投げ出した。
ビバーグ訓練も幾度となくこなした身にとって、寝る場所はどこでも構わない。しかし、実家の、子どもの頃から使っている整えられたベッド、というものは格別の安らぎをもたらした。
溶けそうなやさしさに、ジゼルはうずくまる。
「……慣れない、なあ」
体が癒されれば癒されるほど。
平穏に安らげば安らぐほど。
心が悲痛に引き裂かれる。
いっぱいの思い出と、いっぱいの優しさが、このベッドには満ち溢れている。
おじいちゃんのビーフシチューでお腹をいっぱいにして、吐く息にさえ牛脂とデミグラスソースの残り香を感じて。
大好きなパパに抱きしめられて。
大好きなママと一緒に本を読む。
そんな幸せがあった。あるはずだった。失われてはならなかった。
涙のにじむ目じりに力を入れて、ジゼルは深く息を吐く。
きっとおじいちゃんは知っている。このベッドで眠るたび、ジゼルが悲嘆に苦しむことを。それでもジゼルはこのベッドを堅持した。復讐心を忘れないためだけじゃない。
自分は確かに愛されていたと、心に強く刻むために。
「私は、あきらめない」
絞り出すように吐き出して、ため息と一緒に疲労が意識を連れ去った。
このまま泥のように朝まで眠るのがジゼルの常だ。
だがその日、ジゼルは目を開けて驚いた。
真っ暗だ。窓の外にまるい月が冴え冴えと浮いている。
その冷淡な輝きに寒気を覚えて体を起こした。シーツを蹴飛ばしてしまったようで、体がむき出しだ。
寒くて目が覚めたのか、と納得しかけた耳に、触れる。
濁った咳。
「おじいちゃん!」
体のばねを活かしてベッドから飛び降り、転がるように扉を開けて飛び出していく。一瞬も止まることなく祖父の部屋に殴り込んで、
「げぼ、ごっ、ごぉ……ごぼぁ……っ!」
「おじいちゃん!!」
悲鳴のような声がジゼルの喉からほどばしる。
まるでバケツで血糊をぶちまけたかのようだった。祖父のベッドから濁った暗い血が滴っている。筋骨隆々であるはずの祖父がひどく痩せ細って見えた。
体を横たえ回復体位を取らせ気道確保。丸めた毛布で体を支え、体力を少しでも浪費させないために毛布で体を暖める。
「ジゼル……電話を、持ってきてくれ」
「う、うん! すぐ救急車呼ぶね!」
「そのあとでいい。電話を貸してくれ。かけなければいけない相手がいる……」
「誰? 私が代わりに連絡するよ」
「いや、ダメだ。わし自身の口からでなければ……ぐぶっげほ」
ケインの口から血が垂れた。
ジゼルの顔にしずくが跳ねる。まるで大量に喀血するほど血が残っていないかのようだった。
こらえるという発想も吹き飛んで、涙を流しながらジゼルは部屋を飛び出した。
リビングまで駆け下りてコードレスフォンに飛びつく。救急コールに祖父の容体と持病、行った処置を早口に伝えた。
「とにかく早く、早く、急いで来て!!」
『分かってる。大至急向かわせているわ。ジゼル、あなたはおじいちゃんのそばにいてあげて。体を冷やさないように、あと胸が苦しいだろうからそこだけ冷やしてあげるといいわ』
「うん!」
子機とアイスバッグを持ってケインの隣に戻る。ケインは虚ろな目をだまよわせていて、ジゼルは声を上げて泣きじゃくった。ケインの枯れた手を握る。
握り返しながら、ケインはかすれた声をあげた。
「ジゼル……電話を貸してくれ」
「おじいちゃん、今はしゃべらないほうが」
「わかっているさ。長話するつもりはないよ」
ジゼルは震える指でケインに電話を手渡した。受け取る指がジゼル以上に震えていて叫びそうになる。
ケインは荒い呼吸のままダイヤルを、一ボタンで呼び出した。登録していたのだ。相手にいつでも掛けられるように。
「……やあジョシュア。こんな時間にすまないね。え? そうか、そちらは昼か。はっは」
外国。それも何時間も時差があるような国にかけていた。
「発作が出てね、救急車を待ってぅう――ぐぶっ。ごぽっ! ……失礼。そう、ジゼルのことさ」
ジゼルは再び悲鳴をこらえなればならなかった。
こんなときに、瀕死の状態でケインが優先したのは、ジゼルのことだ。
「きみに任せるが――扱いが悪ければ、許さんぞ。ケイン・ソーンダイクの全身全霊、武勇勳歴のすべてを懸けてブラスト社を攻撃してやる。……くく、分かっている。老人の意地悪さ。ともあれ、よろしく頼む」
凄みは一瞬。いつもの、教官でないときの茶目っ気に溢れた好々爺が、息も絶え絶えに笑う。
「いい子だ。本当にいい子なんだ。守ってあげてほしい。きっと、応えてくれるだろう」
「おじいちゃん……!」
我慢できなかった。
声を漏らしたジゼルに優しく微笑んで、
「ああ、ああ。それじゃあ」
ケインは通話を切った。
大きく深い息を吐いて、電話を落とす。
「おじいちゃん!」
「そんなに心配するな。わしは大丈夫さ。ジゼルと一緒になって鍛えているからね」
「でもおじいちゃんは、病気が……!」
「なあに、ちょっとはしゃぎすぎただけさ……。休めばよくなる。わしは、老人らしい体になったら、やりたいことがあるんだ」
「なに? なに、おじいちゃん」
「FPSゲームってやつさ。引きこもりのナードどもを、軍隊仕込みの戦術眼でボコボコにして回るんだ。有意義な老後だろう?」
「おじいちゃん……ちょっとおバカなの……?」
かっはっは、と声もなく大笑いして、ケインとジゼルは救急車が来るまでの寸暇を待った。
外からサイレンの音が大きくなっていく。
§
ジェットエンジンの音を引いて飛行機が遠ざかっていく。
ヒースローのハブ空港をデッキの巨大な窓から見下ろして、ジゼルはチケットを確かめる。
ドイツはベルリン。添えられた紙にはブラスト社ジョシュアの名刺と、ドイツ支社オフィスの住所が書き記されている。
「なーんで、アメリカ母体のくせにイギリスに支社がないのかな」
搭乗時刻を報せるアナウンスが響き渡り、ジゼルはチケットに記された時間と腕に巻いた武骨な腕時計を見比べた。
この時計はケインから贈られたものだ。現役時代はいつも着けていて、家族のもとに生還した縁起物。
祖父の容態への心配がチクリと胸を刺す。
「大丈夫。きっと大丈夫」
やり遂げて帰ってくるまで、先に逝ったりしないとケインは約束した。
……肺を部分切除する大手術をする羽目になったものの、ケインの鍛えぬいた頑健な身体は確かなもので、激しい運動をしなければ生活に支障はないという。
ケインはさっそく最新型のタワー型PCを調達して、排熱ファンの音も高らかにウキウキと大手リアル系ミリタリーFPSゲームをダウンロードしていた。
デジタルサラウンドヘッドセットと老眼鏡のバランスを探しながら、
「排熱ファンの音に邪魔されたくないから、水冷式に換えようかと思っておる」
「おじいちゃんはプロシューターなの?」
死ぬほど喀血した老人との会話とは思えない。
頬に思い出し笑いの残滓を潜ませて、ジゼルは空港の照明を見上げた。
「さてと」
トランクを持ち上げて、振り返る。
「行ってきます、おじいちゃん。パパ、ママ。そして母なる祖国と我らが女王」
見よう見まねの敬礼をして、歩き出した。
愛するものたちに背を向けて。憎むべきものに向かって。
戦争が待っている。