ジゼル・ソーンダイク(2)
特殊部隊を経験してよかったのか、どうか。ケイン・ソーンダイクには分からなかった。
いつの間にか、写真立てはずいぶん古びて色あせてしまった。ずっと居間の暖炉に飾っている写真立てを手に、ケインはつぶやく。
「……おまえたちの娘は立派に育った。心は強く、努力を恐れず、目標を常に定めている。高潔で冷静で理知的だ。きっと、どんなこともやり遂げられる」
その目標が弁護士や医者などであれば、言うことはなかった。
高潔さが裏目に出た。
「まさか、ボランティアの最中に、自爆テロに巻き込まれるとはなぁ」
テロリストに正義はない。独善と盲目と自己陶酔に満ちたおぞましい自己満足だ。少なくともケインとジゼルの目には、そう映った。
でなければ、彼らの同胞を救うための医療支援を襲う理由がなにひとつない。
遠いバルカンの地で、今も紛争は続いているという。
元軍人、元特殊部隊員が再び武器を手にすることは難しくない時代だ。
バルカンの紛争を舞台にビジネスの銃弾を装填する民間軍事請負会社。ケインのコネクションのなかには、米国母体の有力企業とパイプをつなぐものがある。手続きは進んでいた。
ジゼルの告白はその矢先の出来事だった。
「おじいちゃん。私に、戦い方を教えて」
ダメだと言うのが、正しかったのかもしれない。
だが、ジゼルの目は暗く燃えていた。
ケインが教えなければ、諦めてその日のうちにチケットを取ってバルカンに飛ぶという強い信念があった。おそらく間違いない事実だっただろう。それだけの貯金と、振込電信と、運航予定表の検索記録が残っていた。
復讐を助けたくはない。
だが、技術と知識があれば、生きて帰る助けになる。
無策で出て行かれるより何倍もマシだ。そしてケインには教える価値のある技術と知識が備わっていた。
「容赦はしない。妥協もしない。徹底的にしごきぬく。この訓練に耐えられないのなら、規模も拠点も分からないテロリストに立ち向かうなど不可能だ」
「……」
「……もし訓練を乗り越えることができたら、お前をPMSCsに紹介する」
「わかった」
その即答にケインはため息が漏れたものだ。
特殊部隊仕込みの苛烈な訓練は、当時わずか十二歳で、とりわけスポーツに打ち込んだわけでもない少女に耐えきれるはずもない。
何度も倒れ、疲労のあまり高熱を出し、オーバーワークで体を壊す寸前まで追い込まれ……それでも弱音ひとつ吐かずに食らいついた。
ジゼルは頭がよく、優しく、高潔だ。
脱走して破れかぶれの復讐劇に走られることが、ケインの最も恐れることだった。
犬死にするからだ。
万が一のラッキーがあればテロリストを何人か殺せるのかもしれない。だが、同時にそこでジゼルの人生も終わる。やっていることは自爆テロと変わらない。
それを分かっているからか、ジゼルは技術を身に着けることを怠らなかった。
約束を果たさなければケインが安心できないという優しさもあるのだろう。
己のため、ケインのため、両親のため……そして、テロという破滅的な承認欲求の暴走に巻き込まれるすべてのために。
ジゼルはすべてを捧げて一個の戦闘装置へと、自分を鍛え上げていく。
日々技術を確かなものにしていくジゼルに、ケインは恐怖を募らせる。
頼もしく思えるのだ。
もしこんな部下がいたら、どんなに恵まれた作戦環境だっただろう。彼女の技術はケインの知る特殊部隊の水準に迫る。
もうとっくに、ケインが教えられることはなくなっている。
今は、相手が持ちうる悪辣な知略と敵意を、かの痩身に刷り込んでお茶を濁しているだけだ。いつでも万全の自信を持ってPMSCsに紹介できる。
「んん……いい香りがしてきたな。とろとろに肉が溶けてきた頃合いか」
ケインはキッチンのビーフシチューに向かい、
「ぅぐ、げほっ、ごぼァ……!」
膝を折る。
肺に無数のトゲが刺さるような激痛。ひりひりと痛む気道から湿った咳が、血と一緒に噴き出した。
「か……はッ。ぺっ。ちくしょう」
ケインはきつく顔をしかめ、がらがらと荒れる息を吐く。
そろそろジゼルに教えられる時間もなくなってきた。肺を病んでいた。
入院するにせよ、お迎えのご厄介になるにせよ。
ジゼルをPMSCsに送り出さなければならない。
ふう、と息を吐いて立ち上がる。
「電話の前に、ビーフシチューの具合をみなければな。ジゼルの好物だ」
息子夫婦に絶賛され、亡き妻も張り合うことを諦めた、ケイン自慢の得意料理。万が一にもしくじるわけにはいかないのだ。
手洗いうがいをして、味見する。
「うむ」
ケインは笑った。
「血臭がひどくて味が分からん」