その日、沙希は傭兵になった
「くあー残念。お給料、魅力的だったのになあ」
あまり残念でもなさそうな声でつぶやいた。
沙希は灰色の絨毯と手狭な壁が工業的なオフィスの廊下をぶらぶら歩いて帰っていく。
最悪、青年海外ボランティアにでも参加するしかなさそうだが、その場合にのしかかってくるのは深刻な資金不足だ。
「お父さんとお母さんに頼れる人はうらやましーなあ」
「なかなか衝撃発言を聞いてしまった気がするよ」
上げかけた手を途中で止めた男性がそんなことを言った。
笑みをひきつらせた彼は短髪を爽やかに流す白人男性だ。浮ついた雰囲気が絶妙にスーツに似合わない。
「おにいさ……おじさん、どなた?」
「なんで今言い直したのかな?」
不満げな彼は指の長い手を打ち合わせて、話を切り出す。
「なにを隠そう、きみをスカウトにきたんだ」
沙希は目をパチクリとさせる。
男性は細い目を笑ませて優しくうなずいた。
「あの面接官、顔に似合わず人事のスペシャリストだから、物のついでにね。きみは広告の募集にこそ落ちたものの、別口で僕が用意していた未成年雇用契約書を見事に勝ち取ったというわけさ」
「はあ……」
「うーん。当然だけど、胡散臭そうな顔をしているね」
優男は笑顔のまま言う。自覚はあるらしい。
「まあ奥の会議室へどうぞ。雇用契約について詳しく説明するよ」
ここは立ち去るべきなんじゃないか、と沙希の脳裏はちりちりと騒いだが、受付の女性が彼に会釈をしたので少しだけ様子を見ることにした。どうやら関係者であることは確からしい。
会議室と呼ばれたローテーブルとソファのある小部屋に通されて、沙希は椅子を促される。
「僕の名前はジョシュア。フランクにジョッシュと呼んでくれ。仕事内容と雇用条件、どっちから聞きたい?」
「条件からで」
「きっとご満足いただけると思うよ」
にこりと、ほくそ笑む詐欺師のような優しい笑顔でジョシュアは書類を差し出した。
通読して沙希は固まる。
「民間保険、各種税金込み、福利厚生・傷病手当込みで……月収ドル立てが日本円だと」今の為替レートを指折り数えて「……え、これマジですか?」
ジョシュアは余裕たっぷりに微笑む。
「基本給だから、そこに成果給も乗ってくるよ」
「ほげー」
沙希は白目を剥いた。
ジョシュアは真面目腐った顔をして口調を改める。
「もちろん、報酬に見合った危険な仕事だ。少しでも普通の生活に未練があるなら、やめたほうがいい」
「未練あるように見えます?」
「見えないから声をかけた」
ですよね、と沙希はうなずいた。
「それで、仕事内容っていうのは?」
ジョシュアは隠し持っていた封筒から書類を取り出す。
トップシークレット。極秘。機密。そんなハンコがどかどかと押印されていた。
「え、ヤバい仕事なんですか?」
「いいや」
ジョシュアは即座に否定した。
「"すごく"ヤバい仕事だ」
沙希は言葉を失う。
ジョシュアは書類を手元で検めながら口を開く。
「きみはブラスト社が何の会社か、知っているかな」
「知りません」
「説明しがいがあるね」
にっこり笑顔でジョシュアは書類と一緒に挟まれていた会社概要のパンフレットをガラステーブルに乗せる。英語だ。
「PMSCs……現代の傭兵だよ」
「あ、ちょっと知ってます」
プライベート・ミリタリーアンドセキュリティ・カンパニーズ。
民間軍事請負業者だ。
現代の傭兵、とよく例えられる。
しかし、傭兵といっても戦闘だけが業務ではない。
紛争地帯で軍が大々的に行えないこと……例えば拠点の常駐警備や現地NPOの護衛、軍事基地における食事や娯楽店舗の運営管理、あげく現地軍隊の教練などといった、戦争付帯業務のほとんど。
そして前線への兵站確保(食料や武器弾薬、医療品など消耗品を輸送できるようにすること)や、兵器の輸送業務・リース・整備といった裏方作業をも軍から委託されることもある。
"正面衝突以外のすべて"を請け負うと換言できる業界だ。
それら概要を語る沙希を、ジョシュアが感心したようにうなずく。
「詳しいね」
「授業の自主課題で現代戦争を扱ったんですよー」
「我々はそのPMSCsだ。きみには戦争に行ってほしい」
「ファー!??」
急展開に沙希は仰け反った。
「そんなの、許されるんですか」
「きみに関してはね」
ジョシュアが含みのある事を言う。
ああ、と沙希は納得した。
義務と権利の法的欠落。沙希が分類される日本の法の特異点。
「子どもだから、ですか」
「そしてアメリカ人でもない。勤務地に至っては日本どころかヨーロッパでもアメリカでもない第三世界だ」
なるほど、とうなずいて沙希は訝し気にジョシュアを見上げる。
「普通に、どこぞの戦争孤児を教育するんじゃダメなんですか?」
「誤解しないでほしいのは」
ジョシュアは白人らしい真っ白い両手を見せた。まるで腹の中と同じ色ですと謀るように。
「我々は汚れ仕事を押し付ける従順な奴隷を求めているわけじゃない。むしろ逆だ。自分で考え、決断し、状況を理解したうえで引き金を引ける……本当の意味の"兵士"に、この危険な仕事を任せたいんだ。そしてそれは、よほど昔から訓練されていなければ身につかない」
正しい意味での"選ばれしもの"を選抜したい。
教育の保証された日本という国の子どもは、その複雑な条件をクリアするに足る基礎学力水準を持つだろう。
ジョシュアは潔癖さを明かすように手のひらをパッと開きながら、
「そのうえで待遇を保証するために、法律を"ぐちゃぐちゃ"にする必要があったのさ」
「確かに……支店が雇用契約を結んだ未成年外国人労働者の海外出張って、もう基準がどこだかわかりませんね」
「ほかにもいろいろ手品を仕込んであるけどね」
公的な労災申請はできないものの、社内組織の監査部もあるという。福利厚生は社員以上に手厚かった。
そこまでして、後顧の憂いを断とうとしている。
ジョシュアは両手を組んで力をこめる。
「我々にとって信頼はなによりの商売道具だ。だが同時に、クライアントのかゆいところに届く"孫の手"は喉から手が出るほどほしい。最近の商売敵は、我々と違って戦争のマナーを守ってくれないからね」
「テーブルの下で足を蹴り飛ばすのはマナー違反じゃないんですか?」
「テーブルマナーは腰から上の作法だろう?」
「納得です」
後ろ暗い政治的駆け引きの駒になってほしい、という仕事だ。
沙希がどうなってもブラスト社は汚れない。
「契約するかどうか、すべてきみに任せる。我々は損をしないようになっているからね」
「そして、もしもジョシュアさんが信頼に足る好青年だった場合、私は命の危険と引き換えに多額の収入を得る」
臓器売買よりも不利な取引だ。
だが。
沙希は不敵に微笑んだ。右手を差し出す。
「よい取引であることを祈っています」
「こちらも同じさ」
固く握手を結ぶ。
握手をしたままジョシュアは苦笑した。
「……でも、よく信じる気になったね。こんな不平等契約」
「契約内容がどうであれ、日本人の少女を雇用すること自体が御社のアキレス腱になりそうですからね。アメリカ政府とつながりの深いPMSCには、顔に泥を塗られることが嫌いなご友人も多いことでしょう。――SNSって便利ですね?」
笑顔のまま沙希はすべて言い切って、
ジョシュアの笑顔が引きつった。
「……ブラスト社を知らないって言ったのは、嘘だったのか?」
「全容は知りませんよ。けっこう大きな多国籍企業じゃないですか。私が調べたのは、私が受ける部門だけです」
「食えないな。きみと契約してよかった」
頼もしそうに握手を強くする。
「きみのような人材を探していたんだ」
この日から、沙希は傭兵になった。
なにやら面倒くさい算段をつけているお上の人々。
JKにはそんなの知ったことじゃありません。
続きは来週を予定しております。なにせ内容が重たいもので。
舞台はスフェールに戻ります。